発売中の「omoshii mag vol.8」に麻実れいさんインタビュー記事が掲載されています。3月に上演される「炎 アンサンディ」のお話をおうかがいしましたが、この作品、内戦を経てカナダに渡ったレバノン系女性の壮絶な生を描く物語。カナダに住んでいたとき、レバノン系の友達がいて、市民権を取るための面接に行ってきたなんて話を聞いたことがあるのを思い出し。
 そして今日は次号のための取材に行ってきました。3月をお楽しみに!
 宙組時代、花乃まりあは新人公演や宝塚バウホール公演でヒロインをたびたび演じていたが、残念ながら観る機会に恵まれなかった。明日海りおの相手役を務めることになって初めての舞台、「Ernest in Love」を観て、その声を実に魅力的に感じた。凛として涼やかで、若干アニメ声風味でもある。そして大人っぽい。オフ・ブロードウェイ・ミュージカルのヒロインを、よけいな自意識なく思いっきり体当たりで演じていて、小気味よかった。明日海は月組二番手時代、役替わりでロミオとオスカルを既に経験していて、似合う役をトップになる前に二つも演じてしまって、この先いったいどうするんだろう…と実は少々心配だったのだが、大人の役も演じられる声の持ち主、花乃を相手役に迎えたことによって、明日海自身が演じる役の可能性が広がった部分もあるように思う。
 昨年、サリー役としてすばらしい演技を見せた「ME AND MY GIRL」の直後、花乃は退団を発表した。宝塚生活最後の作品となったのが、「金色の砂漠」。劇団期待の若手、上田久美子の大劇場公演第二作は、宝塚歌劇の可能性を大いに広げんとする意欲作である。花乃が演じるのは砂漠の国の王女タルハーミネ、そして明日海が演じるのは彼女の奴隷ギィ。宝塚のトップスターが奴隷を、相手役がその奴隷を従える王女を演じる、そんな役柄設定の斬新さを超えて、この作品が意欲作であるというのは、愛とアイデンティティのせめぎ合いという、実に複雑な心理的葛藤を、このトップコンビの演じる役柄の関係性のうちに描き出そうとしたところにある。ギィは実はかつて滅ぼされた王国の国の王子であり、王女の国を滅ぼして自らが王位に就き、王女を妃に迎える。それでハッピーエンドとはならない。王の娘、父の娘であるタルハーミネは、それを潔しとしない。一人砂漠に彷徨い出る。そんな彼女をギィは追う。二人が金色の砂漠を彷徨い、息絶える様はほとんど道行、心中である。タルハーミネは、ギィへの愛と、王女としてのアイデンティティ、それが支えるプライドとに引き裂かれた存在であり、心のうちのその断裂を乗り越えるには彼岸へと至るしかない。壮絶な愛憎劇である。そして、美しい。物語に見入るうち、私は、…子供のころ、何かの絵本で読んだ、いにしえのおとぎ話にこのような話があったのではないか、そんな錯覚にすら囚われていった。1月2日の初日前舞台稽古を見学した際、…年始早々すごい話を観た…と思ったものだが、それから半月余り経って観た際は何だか凄まじかった。舞台に、物語に圧されて、終演後、客席の空気が何だか変わってしまったようで、そういえばその二日前に新橋演舞場で観た四代目市川猿之助の「黒塚」もそんな風だったと思った。作者はかくも宝塚歌劇の可能性を信じる人なのだなと胸が熱くなった。それもやはり、演者に対する信頼あってのことだと思う。退団作で、花乃は役者として劇作家から大きな信頼を寄せられたのだと感じた。タルハーミネは難役である。トップスターを足蹴にし、ときに冷酷に接する。その際生きるのが、花乃のあの声である。凛として涼やかで。だからこそ、タルハーミネの難しいセリフを美しく通すことができる。べちゃべちゃ甘ったるい声の持ち主が演じたとしたら、目も当てられなかっただろう。
 今回、花乃はエトワールも務めている。私が最後に観た日、彼女は、…楽しかった…と宝塚生活を振り返っていた。心から、よかった、そう思った。ここに至るまでにはつらいこと、大変なこともいろいろあっただろう。けれども今、楽しかった、そう彼女は思っている。それが芸の道である。つらさや困難はあれど、その道を歩くことはやはり、楽しい。舞台人として、そんなプロフェッショナルな境地に至って、彼女は宝塚歌劇の舞台を去っていくのだと思ったら、何だか感無量だった。
 退団後、舞台に立つことを今は考えてはいないそうだけれども、もし気が向いたら、あなたのその声をまた聴かせてください。私は、あなたの声が大好きです。
 今年のテーマは“受け入れる”。状況を受け入れる。運命を受け入れる。他者を受け入れる。自分自身を受け入れる。ときに受け入れがたきことあり、それを受け入れるもまた、人生。

☆壮一帆の舞台
「壮一帆YEAR END DINNER SHOW」〜「カウントダウンパーティ」
「cube三銃士 Mon STARS Concert 〜Returns〜」(ゲスト出演)
「エドウィン・ドルードの謎」
「SO KAZUHO 悲しみよこんにちは」
「Dramatic Musical Collection 2016」(ゲスト出演)
「扉の向こう側」
「壮一帆クリスマスディナーショー2016」

 5月の「SO KAZUHO 悲しみよこんにちは」はシャンソン・コンサート。楽曲一つ一つの世界を深い感情と濃いドラマ性をもって描き出すその歌唱が、シャンソンとの高い親和性をもつことを証明してみせた。とりわけ心に残るのはジャック・ブレルの歌唱で名高い「行かないで」だが、その一方で、彼女にひときわ似合う明るく幸せな歌を歌っていってほしいな…という思いも。

☆蜷川幸雄演出の舞台
「元禄港歌」
さいたまネクストシアター×さいたまゴールドシアター「リチャード二世」
彩の国さいたまシェイクスピア・シリーズ「尺には尺を」

☆四代目市川猿之助の舞台
「元禄港歌」
六月大歌舞伎第一部&第三部
「エノケソ一代記」

☆三谷幸喜作 NHK大河ドラマ「真田丸」&「エノケソ一代記」(演出・出演も)

☆熊川哲也振付・演出 Kバレエ・カンパニーの舞台
「ドン・キホーテ」
「白鳥の湖」
「トリプル・ビル」
「シンデレラ」
「ラ・バヤデール」
「くるみ割り人形」

☆松尾スズキ作・演出・出演「ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン」

☆「ビニールの城」

☆「スカーレット・ピンパーネル」の石丸幹二

☆フィギュアスケーター羽生結弦の演技

他に
・宝塚花組「For the people−リンカーン 自由を求めた男−」「ME AND MY GIRL」の瀬戸かずや
・「家庭内失踪」の風間杜夫 ファジーさが魅力の岩松了の劇世界、その中でヴィヴィッドに生きる人物を巧みな演技で構築。演技賞ものである。
・「8月の家族たち」「鱈々」の木場勝己 妻が不倫してできた、自分の血を分けたのではない息子を、そうとは知らぬふりをして愛おしみ、妻の不倫相手に対しては、親戚として、人間として敬意を払い続ける「8月の家族たち」のチャーリー。ブロードウェイ公演を観た際には印象に残らなかったこの役のドラマ、彼の背負った哀しみ、その優しさを輪郭鮮やかに描き出した。「鱈々」では粋がるグラサン姿も鮮烈に、娘の結婚候補をいかさまギャンブルでカモにするトラック運転手役。飄々とオフビートながら、どこか生きる哀しみを感じさせる役柄の造形だった。
・山下洋輔×勅使河原三郎「up」

 2016年のインスピレーション大賞は、荒井祐子&熊川哲也が踊ったKバレエカンパニー「白鳥の湖」に。チャイコフスキーの魂、その真髄に迫る名演。観劇を超えて、私の生涯の確固たるメルクマールとなった瞬間。そんな瞬間をバレエで味わったという意味では、かつてロイヤル・バレエ団時代に熊川が踊った「スケートをする人々」と双璧を成す。「トリプル・ビル」での荒井の「ラプソディ」、熊川の「アルルの女」も素晴らしかった。同世代の優れたダンサーたちの活躍に、心から敬意を表したい。「ドン・キホーテ」での篠宮佑一の主役デビューについては既に記したが(http://daisy.eplus2.jp/article/434864869.html)、新星・矢内千夏の「白鳥の湖」での主役デビューという話題もあった。若手の台頭もまた目覚ましいところである。
 Kバレエの「白鳥の湖」「ラ・バヤデール」と、美しいバレエ・ブランの場面を観ていると、…最近、厳しく指導にあたるバレエ・ミストレス前田真由子の姿が舞台上に浮かんで見えるような思いにとらわれることがある。「くるみ割り人形」の男性ダンサーの活躍では、バレエ・マスター遅沢佑介の面影ににっこり。荒井祐子はKバレエを支えるKバレエスクールの校長である。熊川哲也芸術監督の美を、多くの人々がその情熱で支えている。その様が美しい。
 「ラプソディ」の荒井祐子の項で、私は、日本の女の子には日本の女の子の美があり、その意味で彼女を美の同志と考えていると記した。そしてまた、日本の男の子にも日本の男の子の美がある。Kバレエのダンサーの活躍を通じて、そんな命題にも取り組んでいきたい。
 日本人にいかなるバレエが可能か。日本人にいかなる美が可能か。その追究はひいては、人間にいかなる美が可能か、そんな普遍性をもった問いかけとも重なっていく。同い年の、美の世界の幼なじみとして、熊川哲也芸術監督と彼が魂をもって率いるKバレエカンパニーの今後の活動に、さらなる大きな期待を寄せたい。

 「♪六月、七月、八、九月/あひるの体調いまいちだった〜」
 ↑だいぶ昔の曲&いささか字余りですが、「圭子の夢は夜ひらく」のメロディでお読みください。いや、今はこうして歌って笑い飛ばせておりますが。Kバレエでは一年のうちにチャイコフスキー三大バレエを上演したというのに、「眠れる森の美女」をどうしても見に行かれず、四代目市川猿之助が歌舞伎座を三か月連続で熱く沸かせているというのに、途中から参加できなくなるという…。夏の暑さにバテバテになりながら、思った。今年は「心のベスト」発表はするべきではないのではないか。というか、体調が戻らなければそもそも発表できないのではないか。体調がよければもっともっと行きたい公演があった。観たい舞台があった。…でも、途中で思い直した。2016年も、いつもの年と同じように、いや、体調がいまいちな分、もしかしたらいつもの年よりも懸命に、あがくように生きた。その軌跡として、やはり書いておくべきではないのか。人生には偶然も、めぐり合わせもある。そのとき体調がよくて観られる舞台もあれば、観られない舞台もある。この先だって老いていく。身体がどうなるかわからない。時間と体力に限りのある不完全な一人の人間が、そのときどきにそれでもベストを尽くして観、書く、生の軌跡。読む人がそれぞれそこに何らかの意味を見出してくれれば、それでいいのではないか――と。
 こうして書いてきて、すべての生の瞬間がとても愛おしく、そんな時間を共に過ごすことのできた皆様に、心から感謝。
 いや、毎年、一年の終わりのこの時期、「…どう考えても後一日、足りない…」と思いながら過ごすのですが。12月26日、ワム!のジョージ・マイケルがクリスマスに息を引き取ったとかつてのジョージの担当である友人からメールが来たときは盛大にダメージを食らい、もはやここまで、もう書けないんじゃないかと…。彼女がジョージの取材に行った際、サインをもらってきてくれたこと。その後、アルバム「ペイシェンス」のライナーノーツ執筆のため、一人ロンドンに出張し、ジョージ・マイケルその人にインタビューできたこと――そのときの担当者も訃報に際し連絡をくれて。それにしても。デヴィッド・ボウイとプリンスとジョージ・マイケルが同じ年に亡くなるって…。それを言ったら、蜷川幸雄と平幹二朗も…。
 「しかし、今、このかけがえのない今、世界はそこにある」(マイケル・フレイン作、平川大作訳「コペンハーゲン」より)。生きている者は生きていかなくてはならない。生の限り。いつかあの世で、かの人たちと笑って出逢うために。
 以前、鬼の事務局つまりは夫(ポケモンGOを始めて以来、5キロ以上の減量に成功!)と、死者をインスピレーション大賞に含めるかどうか話したことがあって、それは違うと思うとの意見により、リヒャルト・シュトラウスを大賞から外したことがあり。
 すべては、同じ時代、共に生きる皆様との大切な時間あってこそ。皆様、2016年も本当にありがとうございました。2017年もよろしくお願い申し上げます。どうか皆様、くれぐれも体調にお気をつけて、よいお年を!
 イギリスの劇作家アラン・エイクボーン作「扉の向こう側」の初演は1994年。1974年、1994年、2014年に生きる女性たち三人が、時を超えて共闘し、それぞれの殺される運命を何とか変えて生きようとする。今回は2016年の上演ということで、設定が、1996年、2016年、2036年に変更されている。
 1996年。20年前。その前年に結婚した夫がイギリスのケンブリッジ大学――奇しくも劇中言及がある――に留学、二年間の別居生活が始まった。その二年間で私は計12回イギリスを訪れ、かの地のさまざまな魅力にふれ、そしてロンドン・ウエストエンドでストレートプレイにミュージカルと芝居見物を楽しんだ。「扉の向こう側」こそ、夫の留学前にロンドン公演が終わっているから観ていないけれども、こんな感じの作品、よく二人で観たな…と、懐かしかった。タイムスリップして闘うことによって、女性三人の運命は変わり、殺されていたはずの三人は殺されることなく、物語はハッピーエンドを迎える。ちょっとエッチなギャグも盛り込まれたセリフの妙で笑わせる、観劇後ほっこりして帰れるウェルメイド・プレイである。実は日本であんまり上演されないタイプの作品のようにも思う――という話で、あるとき大いに盛り上がった。高等演劇教育が日本に根付いていないことが原因ではないかという話も出た。私が思うに、観劇文化の違いもあるように思う。日本においては観劇は趣味の一つであって、夫婦やカップルより同好の士と楽しむものになっているような――もちろん、夫婦やカップルで同じ趣味を分かち合えている場合はその限りではないが。けれども、例えばイギリスでは、劇場に夫婦やカップルで行くということが生活の一部としてもっと根付いているのではないだろうか。ミュージカルにしても、そんな姿を多く見かけたように思う。Kバレエカンパニーの「くるみ割り人形」あたりになってくると、日本においてもそんな幅広い客層が客席に見受けられるように思うけれども。
 もっとこういう感じの作品、日本でも上演していってほしいな…と、私は今回の「扉の向こう側」を観ていて思ったのである。6名のキャストそれぞれが大いに力量を発揮した、充実の舞台だった。
 2036年のプーペイことフィービーを壮一帆、2016年のルエラを一路真輝、1996年のジェシカを紺野まひる、女性陣は三人揃って宝塚雪組のトップスター経験者である。私はちょうどこの作品上演前の半月、「エリザベート スペシャル・ガラ・コンサート」の公演プログラムのための取材をしていて、一路さんを含む「エリザベート」日本初演メンバーの方々に、まさに1996年当時のお話をうかがっていた。一緒に1996年にタイムスリップしていたわけである。そんな背景もあって、一路ルエラが、ときどき気弱になる壮フィービーを大いに叱咤激励し、殺される運命を変えようとりりしく闘う姿を観ていたら、――女性たちの生きる道が時代時代でつながっていっていることを、より深く実感したのである。「エリザベート」の例を引けば、1996年の雪組による日本初演で、一路トートをはじめ、関わったすべての人々が尽力することがなかったら、そしてその後作品に携わったすべての人々が尽力することなかったら、作品は今日のような名声を得ることはなかっただろう。そうやって作品は伝承され、後の時代に受け継がれてゆく。宝塚でいえば、男役芸、娘役芸といったものも同様である。もっと敷衍するならば、すべての女性が生きる道が、後の時代に生きる女性たちの生きる道につながっている。例えば私は、渡辺美佐子の舞台にふれて、…この人が人生賭けて切り拓いてきた、その道を決して無駄にしたくない…、そう思った。先人たちの頑張りにふさわしい人生の後輩でありたい、そう思った。「扉の向こう側」でエイクボーンが描きたかったのは、決してフェミニズム的に声高ではないものの、時を超えた女性たちの連帯ではなかったか。戯曲冒頭に描かれる近未来は暗い様相を呈しているが、女性たちの奮闘の後で描かれるラストの近未来は幾分明るいものとなっている。今を生きる私たちのちょっとした決断一つで、未来は変わる。エイクボーンはそう告げている。
 私は今回、取材もあって観劇前に戯曲を読んでいて、「…これ、戯曲を読まないでまっさらの状態で観たかったな…」と思ったのだった。その最大の理由は、ラストで主人公フィービーが遂げる劇的な変化にある。冒頭、彼女はSMクイーンとして我々の前に現れる。それが、時を超えた奮闘の果て、彼女は、冒頭で客として接した男リースの養女となっている。リースの妻で、自らの殺される運命を防いだルエラが、孤児であるフィービーを孤児院から引き取ることを決意したからである。イギリスでの上演においては、フィービーの所属階級が、ワーキング・クラスから恐らくはアッパー・ミドル・クラスあたりへと上昇していることが、彼女のしゃべる英語の違いによってはっきり示され、また客席から大いに笑いの起きるところだろうとも思う(イギリス社会における階級文化の違いについて知る上では、「階級にとりつかれた人びと」をはじめとする新井潤美の一連の著作が面白い)。この点、日本での上演では効果はそこまで出せないのは「ME AND MY GIRL」と同じである。さて、私が戯曲を読んだ段階で一番気になったのは、リースとルエラの養女となっていたならば、フィービーには二人の娘として育った幸せな記憶があるはずだが、タイムスリップしてきてフィービー本人すら自分の変化に困惑している状況では、その記憶というものははたしてどこに行ってしまっているのだろう――ということである。幸せな記憶は生きるよすがである。例えば生きることが困難に覚えたとき、人は幸せな過去を振り返ってまた前へと進んでいく力とするだろう。その幸せな記憶すべてがない状態だとしたら――? もちろん、フィービーを演じる役者の側としては、終幕でリースとアルバムをめくり、過去の写真を見ているうち、その記憶が戻ってくるという演技にすればよいわけであるが、観客にとっては、「この人はもはや、孤児院育ちで孤独に生きてきた女性ではなく、養女として幸せな家庭に育った女性である」ということを飲み込むにはちょっと展開が速すぎるようにも思う。けれども、フィービーが養母ルエラのもとでどんな少女時代を過ごしたかは、殺される運命を防ごうとする二人の奮闘においてちゃんと想像できるようになっているのだな…と、一路ルエラに対する壮フィービーの演技を観て感じたのである。どこか、母に接する子供のように甘えた部分があって、かわいらしかった。大いに腑に落ちた演技だった。
 フィービー、ルエラ、ジェシカ、三人を殺そうとして結局は自分が命を亡くしてしまうジュリアンを演じた岸祐二は、美声が実に凄みを帯び、それは怖かった! 2016年と1996年の場に登場して二つの時代をつなぐホテルのガードマン、ハロルド役の泉見洋平は、個性的な声がコミカルな演技にチャーミングに生きた。リース役の吉原光夫も、冒頭とラストでやはり大変化を見せ、1996年の場面では若々しい部分も披露。ラストではフィービーの養父となっているが、その際彼女に対して発する落ち着いた声の響きの中にある慈愛の優しさが胸を打つ。紺野の、たまさかちょっと素っ頓狂に上がる様が魅力の声。一路の、微細なトーンを行き交いときにねっとりとした魅力を生み出す声。壮の、ときに海外映画の女優をも彷彿とさせる、からっとあっけらかん、それでいて心の温かさを感じさせる声。声。声。――そう、全員がミュージカルで活躍するキャストによるこのストレートプレイは、そのセリフを響かせる声の魅力を大いに楽しめる舞台なのだった。そして観客のため、最後には全員揃っての歌の大サービス。
 「…まゆちゃんは過去に戻って運命を変えたい?」と問われて「ううん!」と即答した。――自分でも意外だった。あのときああすればよかった、こうすればよかったとあれこれ考えるのかと思った。でも、問われて即座に返す答えが一番の自分の本心なのだと思う。我々は皆、一度限りの不可逆の生を生きている。舞台も同じである。同じ作品の公演とて、二度と同じ上演はない。だいたいが私は、優れた舞台を観ているときが幸せなのである。生きていてよかったと思う。生まれてきてよかったと思う。その思いの前に、たとえあったとしても後悔はすべて吹き飛んでいる。――そして、「ううん!」と即答した私に、「まゆちゃんはそう言うと思った!」と答えが返ってきたのだった。
 幼稚園のときからの男性アイドル遍歴といえば、ジュリーこと沢田研二、たのきんトリおの田原俊彦、小学5年生でカナダに渡りMTV文化にどっぷりはまる中でふれたカルチャークラブのボーイ・ジョージにワム!のジョージ・マイケル、そしてニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックにテイク・ザット、等々――。どうも子供の頃から性差を超えて傾いている存在にも心ひかれていたようなのだが、20代の一時期、ボーイズ・アイドル評論家になろうと真剣に考えていたことがある。90年代中盤、夫が留学しているイギリスに行くたび、名も知らぬアイドル・グループのCDをジャケ買いしては聞きあさる。写真のルックスだけで選んでいるとたまに全然アイドルではなかったりして。その当時入手した珍品の中には、ちょうどEメールのはしりの頃であろう、その名もEmaleなるグループの「We Are Emale」(あひるが邦題をつけるなら「俺たちE男」)という“アイドルは連呼する”ソングがあるが、それはまあさておき。
 SMAPにはまったのはちょうどその頃、「SMAP×SMAP」の放映が始まり、私がまだ新米記者だった時代の話である。日本にも遂にこんなアイドル・グループが現れたのか! と感激した。新鮮だった。番組を録画して観、アルバムもすべて買い揃えた。たまにメンバーの取材に行くこともあった。ドラマ「名古屋嫁入り物語」にゲスト出演する草g剛の取材のため、名古屋に出張したことは忘れがたい思い出。
 しかし、次第にある思いがあひるの心に湧き上がる。…解散しないんだな…と。何も積極的に解散してほしかったわけではない。けれども。ボーイズ・アイドル評論家を志していたあひるからしてみれば、アイドル・グループにはメンバーの脱退や解散がつきものなのである。専科生を除き、宝塚歌劇に退団がつきものであるように。解散までいってそのグループの物語が完成するというか、第二章が始まるというか。ワム!もニュー・キッズ・オン・ザ・ブロックもテイク・ザットも解散した。人間だから、若い頃から活動していくうち、いろいろ方向性が違ってきて、それぞれの道を歩みたくなったりするのも自然な話なのである。ましてやこれだけ異なる個性が一堂に会したグループなのだから。
 それぞれが個性を発揮しながら、解散しないでスーパー・グループであり続けるところもまた、SMAPの斬新なところであるのだろうとあひるは思った。ちょうどその頃、舞台芸術の評論の道を歩み始めたということもある。一時のような熱狂ではなく、同じ時代を生きる者として、SMAPの活動を見つめていたように思う。そして、メンバーが舞台に立つ際には、舞台評論家としてその活動に向き合ってきた。
 一連の解散報道に接して、私が舞台評論家として非常に残念だったのは、SMAPのメンバーの舞台役者としての今後の可能性にふれる記事があまり見られなかったことである。ということで、過去に書いた内容と重複することも承知の上で、ここ数年、劇場空間で接したメンバーの活躍について、記しておくこととする。

 もちろん、それまでも彼の舞台は観てきていた。けれども、私が舞台役者草g剛の可能性に大いに目を拓かされたのは、2009年の“謝罪会見”の際なのだった。…私自身を含む多くの人々は何も具体的な迷惑なんてかけられていないんだから、そういった人々に謝る必要なんてまったくないですよ、そんな思いで会見の中継を見ていた。――私はあれほどまでに素晴らしい会見を見たことがない。私は日頃、劇場空間で、戯曲というフィクション=ある種の“嘘”における劇作家や演出家や役者の思いが真実であるのかどうか、見極める営為に従事している。そして、彼の言葉に嘘偽りはなかった。己の心を実に率直に語っていた。一番心揺さぶられたのは、失敗の原因となったお酒をまた飲むかと問われたときの表情である。さまざまな感情がないまぜになった表情を一瞬浮かべて、そして彼は、人間だからまた飲むこともあるだろうと述べた。人として実に誠実だと思った。こんなにも大勢の前で己をこれほどまでに潔くさらけ出すことができるのであれば、これはもう、素晴らしい舞台役者になるしかないだろう! 、そう思った。その失敗が原因でもし、テレビ界というところに場所がなくなるようなことがあっても、あなたには舞台芸術界があります! と。
 実際には彼はテレビ界から締め出されるようなことはなく、安堵した。そしてその会見から一年半ほどして、草gは世田谷パブリックシアターの舞台に立った。世界第二の高峰で遭難した二人の男性の心情を描く「K2」、相手を務めるのは堤真一である。――圧巻だった。二人をつながれているザイルを切らなくては、一人は助からない。そんな極限状態を演じる草g剛を観ていて、”A friend in need is a friend indeed――まさかの時の友こそ真の友”という諺が心に浮かんだ。彼はその極限を知っていた。その際救ってくれた友に心深く感謝していた。To err is human, to forgive divine.意識的であれ、無意識であれ、過ちを犯さない人間などいない。そんな人間の真理を知ったからこそ、舞台役者としてここまで飛躍できたのである。私は件の会見の際抱いた、「これはもう、素晴らしい舞台役者になるしかないだろう!」との思いが見事に叶えられたことがただただうれしかった。
 その一年後に演じた「ぼくに炎の戦車を」の好演については、公開稽古レポートにも記した(http://etheatrix01.eplus2.jp/article/300944030.html)。今でも、舞台終盤、ウィリアム・ブレイクの詩を誦する際の、鮮烈な白い炎のような魂のほとばしりが心に突き刺さっている。そして、香取慎吾とタッグを組んだ三谷幸喜作・演出「burst!〜危険なふたり」(http://daisy.eplus2.jp/article/431853256.html)。この作品における秀逸な仕掛けとして、電話だけでつながっている、爆弾を仕掛けられた人と爆発物処理専門家とを、作品の途中で互いに役を取り換えて演じるのだが、前半の爆弾を仕掛けられた人役で見せたどこか愛すべき脱力感がとりわけ心に残る。そしてギターを奏でてのフィナーレの、とぼけた自然体のおかしみ。

「burst!〜危険なふたり」では、舞台役者香取慎吾についても発見があった。彼の舞台はその前に、同じ三谷幸喜作・演出の「TALK LIKE SINGING」を観ているのみだが、そのときはどこか、“香取慎吾”を演じているようにも感じられた。だが、盟友草g剛を相手にしてのこの舞台では違った。実にストレートで素直な演技をする人なのだなと感じた。香取に関しては、前半で演じた爆発物処理専門家役で、眼鏡姿もきりりと、相手の説明の要領の得なさをぐいぐい突っ込んでいく様が忘れがたい。

 稲垣吾郎が今年主演した「恋と音楽 FINAL〜時間劇場の軌跡〜」の楽しさについてはすでにふれた(http://daisy.eplus2.jp/article/434608227.html)。公演の際には報道も喧しくなっていて、だから観ていてせつなかった。前にこのシリーズを観ていて、…稲垣吾郎は、SMAPのメンバーみんなでこんな舞台をやれたら楽しいだろうな、そんなことを考えているんじゃないかな…と感じたことがあったから。それにしても、世間ではあれこれ騒ぎ立てているというのに、彼は実に飄々としてプロフェッショナルで、カーテンコール後に出てきた際の挨拶では観に来たファンと観客に気遣いまで感じさせて、そして何より舞台姿が素敵だった。その姿に、二十年ほど前、私が初めて好きになったSMAPのメンバーが他ならぬ彼であることを、懐かしい人に思いもかけずうれしくめぐり会うようにはっきりと思い出したのである。

 アイドル・グループには解散がつきものである。一緒にやっていこうと思えなくなった、それ以上の解散理由などない。説明責任もない。もちろん、いろいろあって解散したけれども、また一緒にやろうぜと再結成するグループも少なくない。
 それにしても偉大なグループである。地元の商店街で買い物していて、ふと立ち寄った店で店員とお客さんとがSMAP解散について熱く語っているので、思わずあひるも上記のような論を引っさげ熱く参加したり。そんな存在、他にあるだろうか。
 今日まで長い間、多くの人々と共に時代を生きてきてくれて、本当にありがとう。明日からも、一人一人がそれぞれの場所で最高に輝いていけますように――。
 何しろ一時期は全アルバムを集めて聴きふけっていたくらいだから、好きな曲はたくさんあるけれども、その中でもとりわけお気に入りの曲、メンバーが中居正広、木村拓哉、稲垣吾郎、森且行、草g剛、香取慎吾の6人だった頃の、永遠の青春を讃えるようなユーフォリックな“アイドルは連呼する”ソングから一節を引いて、この文章をしめくくることとしたい。

S.M.A.P. OK!
そうさ合言葉はWe Take A Chance
夢を抱きしめて…
                   (「SMAP#2」より)