藤本真由オフィシャルブログ

 今年の選考テーマは<追憶、そして今、信じるもの――>。

☆新国立劇場オペラ 楽劇「ニーベルングの指環」

 2009年から再演の始まった「トーキョー・リング」、ここに完結。19世紀の記念碑的大作による、20世紀の追憶。

 <“指環”の意味〜新国立劇場オペラ 楽劇「ニーベルングの指環」第2日「ジークフリート」>

 http://daisy.eplus2.jp/article/141357655.html

 <英雄(ヒーロー)ではなかった――そしてすべての執着果てる“黄昏”〜新国立劇場オペラ 楽劇「ニーベルングの指環」第3日「神々の黄昏」>

 http://daisy.eplus2.jp/article/144199657.html

 それにしても。「神々の黄昏」について記した文章なんて、3月のみならず9月にも己の人生でリプライズしてしまったような…。つくづく、リヒャルト・ワーグナー凄し。ワーグナー先生とより深く“対話”することが、来年のあひるの目標の一つ。METライブビューイングでも、ロベール・ルパージュ演出のリング・シリーズが始まっていて(「ラインの黄金」については<あひるより緊急速報!!!>http://daisy.eplus2.jp/article/169199148.htmlに言及あり)、来年6月の「ワルキューレ」には今からドキドキワクワク! ニューヨークに観に行ってしまおうかしらん。

☆串田和美演出「上海バンスキング」(2月)&コクーン歌舞伎「佐倉義民伝」(6月)

 <内なる時間の蓄積〜「上海バンスキング」>

 http://daisy.eplus2.jp/article/174553332.html

 <コクーン歌舞伎「佐倉義民伝>

 http://daisy.eplus2.jp/article/153796793.html

 自分が追憶し得るだけの時間を重ねてきたことに気づいた今年のあひる。1月に宝塚宙組「カサブランカ」を観て、そして「上海バンスキング」を観た時点で、「今年のテーマは『追憶』で決まり!」とあひるは思っていたのだった。しかし、あひる38にはまだまだ追憶だけに耽っていることなど許されないということなのか、その後、心に大波が激しく押し寄せてきた2010年。…というわけで、選考テーマの前段と後段にふさわしい作品を、串田和美演出作よりそれぞれ一本。1月4日初日の「十二夜」(シアターコクーン)も楽しみ。

☆野田秀樹作品「農業少女」(3月)&「ザ・キャラクター」(6月)&「表に出ろいっ!」(9月)

 <心に痛いっ!〜NODA・MAP番外編「表に出ろいっ!」その1>

 http://daisy.eplus2.jp/article/164468855.html

<心のスライディング〜NODA・MAP番外編「表に出ろいっ!」その2>

 http://daisy.eplus2.jp/article/173231322.html

 <演劇少女へ〜「農業少女」>

 http://daisy.eplus2.jp/article/177171278.html

 <“親”なる世界〜NODA・MAP番外編「表に出ろいっ!」その3>

 http://daisy.eplus2.jp/article/177520763.html

 <疎外感〜NODA・MAP「ザ・キャラクター」>

 http://daisy.eplus2.jp/article/177570040.html

 <――そして、表に出ろいっ!〜NODA・MAP番外編「表に出ろいっ!」フィナーレ>

 http://daisy.eplus2.jp/article/177570341.html

 URLの並べ方が作品上演順ではなく執筆順なのは、あひるの中では<6部作>という位置付けなので。それにしても長かった…。もう書き終わらないかと思ってときどき頭がパニックになりかけた12月のあひる。「この調子じゃ、年末までに書き終わらないんじゃないか」と思った方もいらっしゃったのでは? それはさておき。途中で年間テーマを乗っ取って…じゃなくって、新たなるテーマを投げかけてくれたのが野田秀樹の一連の作品群。「農業少女」は野田演出ではなく松尾スズキ演出だったけれども、他の優れた演出家の手に委ねることによって、劇作家の本質が浮かび上がってきた一面も。

☆宝塚月組「スカーレット ピンパーネル」(4〜5月、宝塚大劇場・6〜7月、東京宝塚劇場)

 「裏切り者のユダさえも/キリストを愛していた/愚かな愛情だ」
 「謎解きのゲーム」のこの歌詞を私が真の意味で理解したのは、作品の上演が終わってしばらく経ってからのことだった。サビのあたり、原詞を訳してみると…。

「君のもとへと走ってもいいのか
 君は誠実なままでいてくれるのか
 君が私にするのと同じを私も君にしてみせよう!
 そして我々は徐々に知る
 誰かが火に焼きさかれねばならないことを
 その誰かが、私であるより、君であらんことを!
 ユダの如き裏切り者は皆、その者にとっての“キリスト”を一度は愛していた
 けれどもしまいには裏切りの念にかられていった
 そして、愚者だけが、マタイ福音書の黄金律、『すべて人にせられんと思うことは人にもまたそのごとくせよ』に従う
 我々は皆、『誰が誰を信じているのか』という、かくも長き裏切りの謎解きのゲームの中で宙吊りになっている
 私は君を信じるだろう
 君は私を信じるだろうか?
 時のみぞ知る!」

 そして、作品の映画版が2011年1月15日より全国ロードショーされますが、10月の先行上映期間中に見せていただく機会があり、「…あ、この作品、まだまだ行ける。もっと深く解釈できる」と思ってしまったのだった。“裏切り”のテーマを深く描き出す上では、宙組の北翔海莉こそパーシー/グラパンに最適任者と思った次第(もう一皮むけるとなお良し)。また、今すぐこの役を演じられそうなのが、花組のワンツースリー。トップスター真飛聖は来春残念ながら退団してしまうけれども、二番手の壮一帆は最近一段と真ん中オーラを増しているし、全国ツアーで男役を超えて“役者”の顔になった愛音羽麗なら、洗濯女だけではなく、パーシーの本格的女装シーンも入れてほしいものが。若手では、月組版でショーヴラン役を好演した二人。もう二皮くらいむけた明日海りお、そして、何が出てくるかまったくわからない期待もこめて、龍真咲。
 ともあれ、この月組版「スカーレット ピンパーネル」以前と以降で、宝塚歌劇全体が圧倒的な進化を遂げたことは言を俟たない。2010年夏時点において宝塚歌劇が到達し得た極みを知る意味でも、映画版はお勧め。スクリーンでは、マルグリット役の蒼乃夕妃が実にヴィヴィッドで、舞台版とはまた異なる魅力あり。<その12>まであるのでURLは省略(6〜7月のアーカイブをご覧ください)。

☆「ドリームガールズ」(5〜6月)

 <あひる一段落〜&「ドリームガールズ」華麗に公演中〜>

 http://daisy.eplus2.jp/article/151494009.html

 <「ドリームガールズ」であひる、悩み解消〜!>

 http://daisy.eplus2.jp/article/152075538.html

 <心のかけら〜ピーピング・トム「ヴァンデンブランデン通り32番地」&「ドリームガールズ」>

 http://daisy.eplus2.jp/article/173165515.html

 他にもちょこちょこ言及あり。
 心をぐっとつかむパワフルな音楽と、物語の普遍性こそ、来日ミュージカル公演成功の条件と教えてくれたこの作品。匹敵し得るのは「ジャージー・ボーイズ」あたりか(あひるはブロードウェイ観劇時、一列目で泣き過ぎて終演後に立ち上がれず、周囲の優しきアメリカの人々に「大丈夫か?」と心配された経験あり)。

☆トリノ王立歌劇場「椿姫」&「ラ・ボエーム」(7月)

 マエストロ、ジャナンドレア・ノセダ率いるトリノ王立歌劇場の初来日公演。

 <愛に生きる覚悟〜トリノ王立歌劇場「椿姫」>

 http://daisy.eplus2.jp/article/157333763.html

 <或る死〜トリノ王立歌劇場「ラ・ボエーム」>

 http://daisy.eplus2.jp/article/177149176.html

 マエストロ・ノセダにはインタビューさせていただく機会があったのだけれども、自分を大きく見せようといった自意識はまったくなく、ただひたむきに美と向き合う真の芸術家でした。インタビューするあひるとも人間と人間として向き合ってくれて、帰り際、「意義深い質問を用意してきてくれて、ありがとう」と手を両手で包んでくれた優しさも忘れ難く、今年一番心に残った取材。そのマエストロ・ノセダは来年6月にメトロポリタン・オペラと共に来日、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」を振る予定。お聴き逃しなく。

☆新国立劇場オペラ「アラベッラ」(10月)

 <祝シーズン開幕! 新国立劇場オペラ「アラベッラ」が凄い!>

 http://daisy.eplus2.jp/article/165844519.html

 <“対話”〜新国立劇場オペラ「アラベッラ」>

 http://daisy.eplus2.jp/article/169984563.html

 2010年、というか、あひるの生涯で、劇場空間においてもっとも深く“対話”できた人、それがリヒャルト・シュトラウス(10月17日公演時)。

☆彩の国シェイクスピア・シリーズ「じゃじゃ馬馴らし」(10月)

 <じゃじゃ馬“役者”馴らし〜彩の国シェイクスピア・シリーズ「じゃじゃ馬馴らし」>

 http://daisy.eplus2.jp/article/177255263.html

 蜷川幸雄による卓抜な“演出論”。シェイクスピア戯曲に新風を吹き込んだ筧利夫、チャーミングな市川亀治郎の演技も◎!

☆「タカラヅカスペシャル2010〜FOREVER TAKARAZUKA〜」(12月)

 幸運にも観ることのできた今年の「タカラヅカスペシャル」。イベント物ということで、ベストテンに入れようかどうしようか本当に悩んだのですが…、今年下半期の宝塚歌劇における革新を示す素晴らしいショーだったので。2月に死去した宝塚音楽学校名誉校長・小林公平氏への追悼の念がテーマでしたが、専科の轟悠が、劇場空間上空に巨大な氏の想念のヴィジョンを浮かべ、氏の想いに報いるためにも、今後も、宝塚歌劇を愛する人々と共に、真摯に歩んでゆくと固く誓った瞬間、心が震えた…。「オネーギン」のときから思っていたことだったけれども、改めて、轟悠が宝塚の精神を体現する舞台を務め続ける限り、あひるも共に歩んでゆこうと強く思った次第。ちなみに、轟悠と、花組の真飛聖は、今年劇場においてもっとも深く“対話”できた役者(次点が、「ジプシー男爵」出演の専科の汝鳥伶)。真飛は、今まで耳にしたことのなかったような「ニューヨーク・ニューヨーク」での歌い上げに、「退団の日まで進化していくんだ!」と本当に嬉しく。新トップ男役、音月桂率いる雪組は、宝塚大劇場お正月公演「ロミオとジュリエット」に向け、演出家・小池修一郎の熱烈指導が順調であることを大いにうかがわせて。東京宝塚劇場お正月公演を控えた宙組・大空祐飛については、文章が途中で止まっているのが大変申し訳ないのですが、今年、観ているうちに、“超絶ヴィジュアル、超絶ナチュラル”で一度は完成したかに見えたこの人の男役芸は、まだまだ進化していくはず…と思った次第。ご本人も2011年は新境地を拓く! とMCではじけていたことだし、より深く“対話”するのがあひるの目標。トップスター陣にだけ駆け足でふれてきましたが、個々の活躍については今後、お年玉企画で。

☆Kバレエカンパニーの一連の公演、とりわけ「くるみ割り人形」(12月)

 毎年、年末も押し迫った時期に、Kバレエの「くるみ割り人形」が上演されて、あひるの心をがっちりつかんでいってしまうのであった…。そして、今年の「くるみ」は、熊川哲也のダンサーとしての人生の闘いを改めて浮き彫りにする上演だった! 演出家・熊川哲也論については、お年玉企画でがっちり展開します。


 そして、今年のインスピレーション大賞は…。
 ドゥルドゥルドゥルドゥル(ドラムロールの音)、…野田秀樹!
 年間テーマを乗っ取った…じゃなかった、投げかけてくれたことが授賞理由。2011年2〜3月のNODA・MAP「南へ」はどんな作品になるのか、非常に楽しみ。今年の大賞については、「アラベッラ」のリヒャルト・シュトラウスと最後まで迷って、故人にまで授賞対象を広げる是非について、“心のベストテン”事務局(すなわち、夫。大晦日に向け、「早く書かないと年越しそば食べに行けないよ〜」と急かすのが主な仕事)とも激論を交わしたあひるであった。ちなみに今年の観劇本数は346本。そしてあひるは明日元旦から劇場に出陣! 朝早いので、今夜は夜ふかしせずに早く寝る! ちなみに今年の紅白歌合戦は、森進一と福山雅治と「トイレの神様」の植村花菜が◎。皆様、よいお年を!


 6月の「ザ・キャラクター」で生命の危機? すら覚えた私は、いささか構えた気持ちで9月、「表に出ろいっ!」を観に行った。そして、思いの外楽しい舞台にちょっとびっくりした。楽しいと言っても決して、内容がなくて楽しいだけというわけではないけれども。それを言ったら「ザ・キャラクター」も、決してヘビーなだけの舞台ではなかった。野田秀樹はプログラムで「世界に通用しないモノを創る」と言い切っていて、なるほど、「幻」に一本増やすと「幼」になるといった漢字遊びから日本語ならではの無限の言葉とイメージが広がってゆく様に、「あひる、日本生まれでよかった! えへん、この舞台のおもしろさがわかりたい外国の人がいたら、日本について勉強してからおいで!」と、創った本人でもないのに胸を張りたくなるあひるであった。前に、イギリス人だかアメリカ人だかの男性たちが、宝塚の男役の真似をして、片言の日本語でショーの一場面を歌い踊る動画を目にする機会があったのだけれども、そのときにも似た気分。
 さて、家庭における愛情の欠落をさらりと描いた野田秀樹は、「表に出ろいっ!」作中にもう一点、重大な問題をさらりと忍ばせてある。ママは、能の宗家であるパパに問う。娘が信じている新興宗教の説く、傍から見れば荒唐無稽としか言いようのない“物語”と、生きるだの死ぬだの、あなたが普段舞台でやっているような“物語”とはどう違うの? と。
 それは全然違う、と思う。けれども、その違いをどう見分け、ましてや人に伝えるべきなのだろう。そして、伝える“言葉”からしてまた、常に嘘と真実のフィルターにさらされているものでもある。私も思うことがある。世間にはときに、黒を白と言いくるめるような言葉だってある。それと、あくまで真実を告げたい、告げようとする言葉とはどう峻別され得るのだろうかと。それは“違う”ということにならないと、こうして書いている言葉のすべてが虚しさの砂塵と化す。
 先輩の悪戯には引っかかりやすいけれども、幸いにも詐欺に合うことなく、新興宗教にハマることもなく生きてきた自分を振り返ってみる。そして、思う。何か自分が信じているものがあるとすれば、人と、その愛に他ならないかもしれないと。そして、同じものを信じる人の言葉、そして舞台は、信じられると思う。無論、その見極めにときに失敗して、人とはそれでも信じられるものなのかと問いたくなるときもあるけれども、仕方ない。人は神ではないから、変わるものなのである。確かに、この人はとにかく信じられるとして、ときに崇拝すらしてしまうことは、思考停止で楽なのである。しかし、人にも自分にも常に問い続けねばならない。そして、同じように常に問い続ける人をまた向こうに見て、その人は信じられる気がする。
“信じること”をめぐる作品において、この手の比喩を持ち出してくることは危険な気がしないでもないのだけれども、――私は何だか、「表に出ろいっ!」での中村勘三郎と野田秀樹の演技を観ていて、岩戸隠れしたアマテラスオオミカミが思わず顔を出したくなったアメノウズメの踊りとは、こんなものではなかったかなと思ったのである。人生とは、世界とは、生きるに値するものなのだから、自分の世界にばかり閉じこもっていないで、出てこいよ! と、二人が舞っているような気がしたのである。そのことを言うために、二人の演劇人は、身体を張って階段落ちまでしていた気がする。家族三人が何とか互いを表に出すまいと格闘し、三人とも出られなくなり、最終的に、泥棒が訪れて脱出への“救い”が用意される作品は、だからこそ、この題名なのである。
 表に、――表に出ろいっ。
 疎外感に追われた先に何とか自分の居場所を確保しようと腐心し続けてきて、自分自身の抱える問題について精いっぱい考え続けてきて、気が付いたらもはや、自分を疎外したものについて考えざるを得ないところまで来ていた私は、「そうか」と思って、だから何だか9月にはテレビにも出てしまったのである。
 ここ数年、野田秀樹作品を観るとき、私は、睡眠を十分にとってできるだけ体調を万全にし、観劇後にすぐ原稿を書かなくてはいけないようなスケジュールは組まないようにしている。衝撃を受けすぎて、心身共に消耗が激しい場合が多いからである。原稿を抱えてうっかり観劇してしまい、何度か締切をぶっ飛ばしたことがあって、自戒するようになった。「観劇でショックを受けすぎて原稿が書けませんでした」って、どう考えても嘘みたいで、言い訳としても通らないような…。
 「ザ・キャラクター」を観たときも、私は昼の観劇からいったん家に帰り、仮眠を取ってから劇場に向かった(6月30日19時の部、東京芸術劇場中ホール)。そこまでして臨んだのだけれども、描かれる内容のあまりのヘビーさに、一秒一秒ごとに頭と身体に何か重いものをずしん、ずしんと積まれていくようで、その重圧に耐えきれなくなってきた意識が自らを閉ざそうと睡眠を激しく要求し始めて、「…う、どうしよう、できるだけ早く家に帰り着いて眠らないと身体がもたない。その前に、家に帰り着けずにどこかで眠ってしまうかもしれない。終演後このまま客席でとか…」と、焦った。芝居の内容がつまらなくて眠くなるのとはまったくわけが違う。そして、自分の思考や嗜好と合わなくて疲れる内容だからいやだなあと思うのでもない。一瞬たりとも逃さず受け止めなくてはいけないとわかっていて、でも、そうして受け止め続けていると心身への負担が激しいのである。
 しかし。ちょっと余談になってしまうけれども、この夜、あひるを驚愕させた人物が近くに座っていた。この人は、二時間半ほどの上演時間の間中、何か音の出がちな包みに入った、何か音の出がちな食べ物を延々と食しながら観劇していたのである。カシャカシャポリポリカシャカシャポリポリカシャポリカシャポリ…。二時間半ほどの間、耐えきれないほどの空腹を抱えていたのだろうか。この人にとって、この「ザ・キャラクター」という芝居は、何かを気軽につまみながら観られるような内容なのだろうか。それにしても、あひるが肉体的な危機感すら覚えるそばで、この強靭な精神力…。人とは、同じものに向かっても、そのとらえ方は実にさまざまであることを改めて知った夜だった。それはさておき。
 今から15年前に日本のみならず世界を震撼させた凶悪テロ事件。あの事件を生んだ土壌にこそ、現代日本の抱える病理があるのではないか。それが、「ザ・キャラクター」という作品における野田の問題提起である。私は考え込まざるを得なかった。自分は、はたして事件について、そして事件が導き示す問題について、考える資格があるのだろうかと。
 考えて、気づいた。自分にはその資格はない、というか、そもそも、与えられていないと思って、長い間、生きてきたことに――。

 自分はどこか、みんなから浮いているのかもしれない…と初めて気づいたのはいつのことだっただろう。父の仕事の都合で、10歳でカナダのオタワに行き、三年弱を過ごして帰ってきて…、ますますなじめないものを感じるようになった。私は決して外国かぶれの人間ではないし、何もカナダの教育方針を絶対視するつもりもないけれども、人それぞれの個性を伸ばすという教育をカナダで受けて、帰ってきたら、個性とは、日本ではむしろ尊ばれないものだと知った。ましてや私は女である。帰国してすぐの頃、英語で「You don’t have a right to〜」と言いたいところを、「あなたにそんなことをされる筋合いはない」くらいの表現が無難なのに、直訳調で「あなたにそんなことをする権利はない」とやってしまって、男子に「権利女」と随分冷やかされたものである。自己主張する帰国子女の女! しかも私は、「お父さんと同じ大学に行きたい」という子供の頃からの夢を深い考えもなしに叶えてしまい、麻雀でいえば、ただでさえ嬉しくもない“疎外感”の端牌ばかり揃ってしまったところに、さらに役に立たない字牌まで引いてくるような事態に陥っていくのであった。18歳で東大生になった私を待ち受けていたのは、「お前にはもう嫁の貰い手がない」という周囲からのプレッシャーである。私は結婚願望があったわけではなくて、ただ、「いつか王子様が白馬に乗って迎えに来る」という夢を持っていたアホ少女だったので、王子様が来ないかもしれない…という指摘には非常に困った。そして、東京大学という場所は、「いつか王子様が白馬に乗って迎えに来る」というような夢見る少女にはあまり居心地のいいところではなかった。「王子が何よ! 女なんか捨てて、でも、ときには武器にして、男なんて蹴散らしてやる!」くらいの意気込みを持っている方が、世間の一般的イメージに合わせて大暴れしやすいような…。
 というわけで、大変苦労した就職活動を経て、1995年4月、私は出版社に入社する。凶悪テロ事件から十日ほど後のことである。そして、私の入った会社は、某新興宗教団体と毒ガスの名前とを最初に結びつけたがゆえに、毒ガスを撒きに来られるのではないかと噂されていた。配属された先の週刊誌の編集部では、宗教団体への強制捜査の取材に備え、防毒マスクが準備されていた。大変なところに入ってしまったと思った。それほど事件は身近にあったのに――。
 そもそも、あの事件の知り方からして、自分の立ち位置を象徴的に示しているかのようなのだった。1995年は年明けから心騒ぐ一年だった。1月17日に阪神大震災があった。大学卒業を控えていた私は、父の説得に成功し、3月下旬、母と弟と一緒に、ロンドンとパリを訪ねる初めてのヨーロッパ旅行に出かけた。近くで何か用事をしに行った二人を待って、ロンドンのピカデリー・サーカスの夕刊紙の売り場の近くで立っていたら、見出し広告にこうある。
「TOKYO TUBE TERROR」
 その三つの単語は私の中でとっさに結びつかなかった。そんな単語が並んでいるのを、いまだかつて見たことがなかったから――。「TUBEのコンサートで将棋倒しがあって、大勢人が死んだとか?」と思った。すると、売り子のおじいさんが手招きして、「あんたの国で大変なことがあったみたいだよ」と言う。紙面を見ると、人が大勢道路に倒れている写真が載っていた。戦慄した。ピカデリー・サーカスの地下鉄駅からあわてて家に電話した。父も、そしてその年の秋に夫となる人間も、テロで狙われた付近に勤めていた。一駅手前で降りて歩くという選択をしていなかったら、父は間違いなく毒物で汚染された駅に到着していた。後に夫となる人は、目が赤くなって医務室を訪れ、それが毒物によるものなのか、花粉症によるものなのか、寝不足によるものなのか、よくわからないまま目薬をもらったという。とにかく無事だったから、ひとまず旅を続けたけれども、ロンドンでもパリでも地下鉄に乗るのが本当にこわかった。そして、夜はホテルのテレビでニュースに見入った。世界一安全と言われていた国の道路に人が大勢倒れている様を、異国のテレビで見ていても、どこか現実感が失われていた。日本ではない、違う国の出来事のような気がした――。

 そして、20代を通して、自分が抱える疎外感はますます強くなっていった。テレビをあまり見なくなったのも、自分と関係のあることが放映されているとは思えなくなっていったからである。そして、これほどまでに疎外されているということは、つまり、自分は社会の構成員であるとは思われていないということだから、社会についてああだこうだ言ったりする資格がない、発言権がないと思っていた。自分は結局のところ、自分でしかいられないのだから、疎外された場所で自分として生きていくしかない、そう思っていた。長いこと、自分が生きていく場所を何とか確保することで精いっぱいだった。
 あの晩、「ザ・キャラクター」を観ていて、意識が危機感を覚えるほどに消耗したのは……、自分が何とかやり過ごそうとしてきた疎外感を真っ向から突き付けられたからなのだろうだと思う。1995年のあの事件を生んだ土壌には当然、私という人間がなぜ、こんなにも社会から疎外されて生きてこなくてはならなかったか、というか、こんなにも社会から疎外されているように思って生きてこなくてはならなかったのか、その理由が含まれている。「そんな理由、今さらわざわざ考えたくない!」と思って、「考えることは生命維持にかかわる!」と思って、――なぜなら、疎外感が究極的に向かう先は“死”である――、あの晩、私の意識は悲鳴をあげるようにして内に向かって閉じることを激しく要求していたのだと思う。それでも、その舞台は観続けねばならなかった。
 新国立劇場の「夏の夜の夢」のパックのあざやかな演技で客席を魅了したチョウソンハは、野田の次回作「南へ」での活躍も楽しみな若手俳優だ。その彼が、毒ガスを撒くこととなる若い信者を演じていたのだが、その空を翔るようなセリフ回しはどこか、かつて“永遠の少年”とも呼ばれていた、野田のそれを感じさせるところがあった。社会全体に残る幼さが、一方でアニメのように世界的に知られる日本文化を生み、一方で、凶悪テロ事件を生む土壌を創り出した――。作家は罪を犯すことになった彼らの哀しい幼さを一方的に非難するのではなく、彼らだけが抱えるのではなく、社会全体が抱えるべき問題、自分自身をも抱えるべき問題として引き受け、彼らを包容していた。どこか、贖罪するかのようにも見えた――。自分自身に問題を突き付けた人間を目の前にして、私だけが問題から逃れようとするわけには、行かなかった。
 「どうして自分は新興宗教にハマるということがなかったんだろう?」
 今年、「ザ・キャラクター」、「表に出ろいっ!」と野田秀樹作品を続けて観て、私は考えた。その答えは、「表に出ろいっ!」で逆説的に提示されるところと自然と重なった。
「自分はずっと“親”を強固に信じていたから、他の信じるべきものが入り込む余地がなかったんだ…」
 今でも苦笑と共に思い出す。大学生のとき、私は弟に打ち明けたことがある。お父さんが言うことに従わなきゃいけないと思うけど、ときにとても窮屈に思えることがある…と。高校生だった弟は一瞬、不意を突かれたような表情をして、言った。お姉さん、別に自分で考えて行動したっていいんだよ…と。…うわあ、アホというより、バカですな。弟の方が全然、大人だったという。私はそれくらい、自分で言うのも何だけど、“箱入り娘”だったのである。大学生のときでも、家庭教師や塾講師のバイトを別として、暗黙の門限は19時くらい。コンパ等で遅くなって、翌朝、父親に「昨日は遅かったね」とそれはビシッと言われるのがこわかったし、そのとき味わう心理的プレッシャーが重荷で、あんまり夜、出かけようという気にならなかった。大学二年生のクリスマスからつきあい始めた夫とも、夜デートしたのは数えるほど。母親と海外旅行に行きたいと言っても毎回スムーズに許可が出るわけではなかった(友達と行くのはそもそも論外)。しかしながら、私の父親は決して暴君だったわけではない。むしろ、非常に心の優しい人である。でも、だからこそ、決して優しい人ばかりではない世間から、自分の家族を守ることに懸命だったのかもしれない。いずれにせよ、私が23歳という年齢で結婚したのは以上のような事情による。とにかく、表に出たかった! 結婚してはじけました(笑)。
 しかしながら、今となって思うのは、よくぞそこまで長い間ずっと、子供にとって一つの強固な世界であり続けてくれたな…という感謝の念である。私は割に最近まで、親の物の考え方に大きな影響を受けていたように思う。就職活動あたりから、人生の岐路に立たされるたび、自分の頭で考えて、必ずしも親の意向とはそぐわない選択をときに下す、そんなことをくりかえすうちに、自分の選択に少しずつ自信が持てるようになっていって、そうして、“親”という世界から抜け出て、自分として考えて歩むことができるようになってきて、最近やっと、大人になれてきたのかな…と思う。「表に出ろいっ!」のパパはテーマパークが好きで、ママはアイドルが好きで、そんなかわいらしい二人とは友達のような親子関係は築きやすそうだけど、信念みたいなものは教えてもらえるかどうか…。いや、二人ももしかしたらそれ以外に確かに信じているものはあって、ただ、家族にだって言わないだけかもしれないけれども。だって、物語の途中で、ママはパパを愛していないことを認めてしまって、パパはそれを知っても大丈夫というか、どこか、仕方がないなという風で…。野田秀樹は、こういう重大な事実を重大さはそのままに実にさらりと描いてしまう人で、そのさらり感が個人的には一層ショッキングで、うわ〜ん、愛がないのがこの世で一番問題なのに〜、あひるがこの家の娘だったらグレてやる〜と、ちょっと泣いてしまった。
 「じゃじゃ馬馴らし」といえば、男が“じゃじゃ馬”女を馴らす、今日のフェミニズム的観点からは大いに問題のある作品とされてきた。私も正直なところ、シェイクスピアの戯曲の中でとりわけ好きな作品というわけではなかった。
 しかしながら、蜷川幸雄演出の舞台は、この戯曲の本質をまったく違う角度からあざやかに照らし出していた(10月20日13時の部、彩の国さいたま芸術劇場大ホール)。昨年夏に初来日公演を行ったイギリスの男性だけの劇団「プロペラ」が上演した「夏の夜の夢」と「ヴェニスの商人」のように、ジェンダーの軛から作品を解き放つことに成功していた。蜷川が手がける彩の国シェイクスピア・シリーズのオールメール・シリーズの中でも、男性だけという特性がもっとも生かされた作品だと思う。蜷川は、“じゃじゃ馬”キャタリーナと彼女を馴らすペトルーチオの関係性を、社会の異物同士の心の交わし合いとしてヴィヴィッドに描き出した。
 キャストがまた、秀逸だった。ドレスをたくしあげ、ドスドスと登場する市川亀治郎は、確かに世間一般が認めるような美人ではないが、強烈なブサかわゆさとでも言うべきか、一度目にしたら忘れ難いインパクトの魅力をもった女性としてキャタリーナを演じた。そして、対するペトルーチオ役の筧利夫といえば、彼が数々の名演を見せてきたつかこうへい作品におけるあのセリフ回しとまったく同じ調子で、シェイクスピアのセリフをこなしてしまった! 観劇前に上演時間を確かめたら三時間を切っていて、このシリーズとしては異例のことだと思ったのだけれども、筧のセリフ回しを耳にして、至極納得。セリフ回しの妙と言っても、抑揚の巧みな上げ下げだけで聴かせるような小手先の技ではない。超絶スピードで飛ばしながらもきちんとセリフの意味合いを聴かせてゆくという、筧ならではの妙技がスパーク。グルーミオを演じた大川ヒロキあたりも実によくこれについて行っていて、物語の流れも実に軽妙、こんな楽しいシェイクスピア、“聴いた”ことない! と思ったものである。ペトルーチオの異物ぶりを見せるため、筧はときにチンドン屋の如き面妖ないでたちで現れるのだが、これがまた何とも強烈な似合い方だった。
 そんな亀治郎キャタリーナと筧ペトルーチオは、出会った刹那、恋をする。その瞬間、まるで漫画のようにキラリ〜ンと光った筧の目に、…そうか、演出家・蜷川幸雄は、日々こうやって役者なる“じゃじゃ馬”を馴らしているのか! と思わずにはいられなかった。
 演劇人にとってもっとも身近に存在する“社会の異物”とは、演劇人に他ならない。社会からどこかはみ出す部分があるからこそ、人は、何かを表現したいなどという思いを抱く。演出家は、筧ペトルーチオの如き鋭き目で、自分の目の前にいる役者が内に抱える社会との相容れなさを看破する。そして、その内なる異物を、演出家としての深い愛でもって飼い馴らし、表現へと昇華させてゆく。「異物と言えば、オレの方がキャリアは長いんだ! 中途半端に粋がって社会に歯向かってないで、立派な“異物”になってみろ!」「オレの方が作品全体を考えてるんだ! お前一人で目立とうとするな!」演出家のそんな声が聞こえてくるようだ。キャタリーナに食事もさせぬあたりなど、かつて“灰皿を投げる”と称された演出家のスパルタぶりを思い起こしてニヤッとせずにはいられない。物語の最後で、ペトルーチオとキャタリーナを含む三組の新婚夫婦が妻の“従順”ぶりを競うこととなり、キャタリーナは“飼い馴らされた”妻として見事な演説を行うが、ここではすなわち、夫婦関係=演出家と役者の関係、演説とは役者の舞台上での演技なのである。「どうだ、オレの飼い馴らし方=演出は。いざ舞台に立ってみたとき、他の飼い馴らされ方より、役者として堂々としていられるだろう!」演出家の控えめな矜持が伝わってくる。そして、ここでの亀治郎キャタリーナは、堂々として美しい。
 今年は何だか、舞台上の役者の気持ちだけでなく、その向こうに存在する演出家や劇作家、作曲家の思いがさらに深く理解できるようになった年だったのだけれども、この作品を観ていてつくづく、巨匠クラスですらこれだけ苦労があるとは、演出家とは本当に大変な仕事なのだな…と思わずにはいられなかった。無論、この作品が、観る前には予想だにしなかった秀逸な“演出論”に結実するにあたっては、そんな演出家の愛を愛と受け止めた役者陣あったればこそ。これぞ、演出家と役者の幸福な“結婚”というものだろう。

 今年の蜷川作品では、終幕、舞台上空に故・井上ひさしのヴィジョンが巨大な遺影の如く浮かび上がるかのようだった「ムサシ」、さいたまゴールド・シアターの個性豊かな面々が魅力を発揮した「聖地」も心に残っているが、個人的にやはり大好きなのは夏に上演された「ガラスの仮面」第二弾である。大好きなキャラクター、姫川亜弓を演じた奥村佳恵の成長も著しく、岡田正扮する月影先生の付き人、源造は、第一弾に続いて“心のキャラ”である(岡田は、「じゃじゃ馬馴らし」の冒頭に出てくる、とてつもなくグラマラスな居酒屋のおかみ役の演技でも強烈な印象を残した)。たまたま終演後に演出家にお目にかかる機会があり、子供の頃から大好きで、今の道に進むにあたっても大きな影響を与えたとしか言いようのない、演劇への愛に満ちたこの作品が、氏の演劇を愛する心がさらに注がれて舞台化されたのを大人になって観ることができて、本当にうれしい…と、感激のあまり、涙ながらに伝えたところ、「君は、いいお客さんだ」と言われて…。私は、いい評論家である前にいい観客であるべきだとつねづね思っているものなので、内心とてもうれしかった。しかし、私がこのように泣いていると、氏はよく、「インテリのくせに泣いている。鬼の目にも涙だな」等々おっしゃる。そしていつも、「芝居観て感動して泣く人間はインテリじゃありませんよ」と言い返すあひる。今さら文化勲章授章で変わるような方でないことは重々承知だけれども、いつまでも心に演劇への熱いパッションを秘めた、永遠の演劇青年でいてくださいね♡。
 2〜3月の一時期、原稿もブログもほとんど書かず、私はひたすら自分の思考の中にのみ生きていた。考えていたことの一つは、バンクーバー冬季オリンピックのフィギュアスケートの採点をめぐる論争に触発された、「芸術とはどうジャッジされ得るべきか」との論点である。話が長くなるのでここには端的に記するに留めるが、この件については、「迷ったときは、その分野が発展すると自分が信じた方へ行くしかない」との結論に達した。お金で買収されたり云々は、自分が関わっている分野を貶め、ひいては自分を貶める行為に他ならないのだから、論外であることは言を俟たない。
 もう一つ、私の頭からずっと離れなかったのは、この時期、小規模ながらも世間を騒がせていた、とある“大嘘つき”のことだった。その言葉に素直に従えば、彼は、知性も身体能力も芸術性も世界的に並々ならぬものをもつ、ほとんど超人のような人物だった。「そんな人物、いるか!」と思ったら本当にいなかったのであるが、私にとって非常に興味深かったのは、世間が彼の言葉になぜそんなにも騙されたのかということに尽きる。何しろ、騙された中には、大学教授をはじめとする“知的”とされる人々がいて、最終的には、日本を代表するとされるとある大学の創立以来初の不祥事に発展することとなったからである。子供の頃、新宿駅の地下道で、後に映画化もされることとなる結婚詐欺師の“クヒオ大佐”を二度ほど目撃してしまったからなのか、私の心はこの手の人物にひかれてやまないところがある(“クヒオ大佐”についていえば、「どうしてこんなところに、帽子をかぶった白い軍服姿の外人風の男の人がいるんだろう。変なの」と思っていたら、後に週刊誌でその写真を見て正体が判明した次第。一度は女を連れていた)。編集部の先輩にたびたび仕掛けられたいたずらを真顔で信じて、「お前は週刊誌記者のくせに騙されやすすぎる!」と叱責されていた割には、私はあまり詐欺に合わない。どういう顔で嘘を言って、どういう手で騙してくるのか興味津々ではあるのだが。
 2000年初演の野田秀樹戯曲を松尾スズキが演出した「農業少女」を観に行ったのは、そんなことをずっと考えていたときだった(3月10日14時の部、東京芸術劇場小ホール1)。そして、作家は、十年も前から、この手の人物の言葉に警告を発していたんだ…と、思わずにはいられなかった。
 家業の農業を嫌って家出してきた少女・百子と出会い、彼女に心ひかれてゆく毒草学者、山本ヤマモト。しかし、彼女は都罪(ツツミ)なるうさんくさい男とその言葉に魅せられ、翻弄されてゆく。都罪なる男にかかれば、人体の機能を支える食物を生み出す農業というきわめて地に足のついたはずの営みですら、一種の絵空事、ふわふわと口当たりのいいファンタジーに姿を変える。その都罪の言葉は、私の心をとらえてやまなかった件のペテン的人物と同じ文脈に流れるものだった。エコロジー、宇宙、エトセトラ…。生きるとは、日々の営みとは、そんなにも唾棄すべきものなのかと、私など思う。唾棄すべきものと考えているからこそ、見え透いた絵空事やファンタジーに騙される余地が生まれるわけである。
 そう考えていると、演劇にも、嘘に従事するものと、真実に従事するものとがある…と、心のうちに峻別されてくるのだった。この女優さんは優しく振る舞っていても本当は性格悪いんだろうな、でも、とりあえず綺麗な衣装を着ているから、素敵な夢を見せてもらったということにしておこう…とでも思うしかないのが、前者。後者は言うまでもなく、この「農業少女」のような作品である。
 毒草学者・山本ヤマモトは“農業少女”に執着し続ける。毒草の数々には詳しくても、少女の心にひそむ“毒”には初心な中年男――。無邪気なドンくささがときに嫌味なまでに映る山崎一によって体現されるその執着心を観ていたら、――目の前が涙で霞んできた。私が何より執着するのは、芸である。他のどこでもない、舞台においてあらわにされる真実である。そして、私が人生と心の内の感情すべてを人体実験に捧げて獲得してきた言葉は、舞台上のその真実しか書き表すことができない。そこに真実がなくなってしまったら、書けない。たとえ、書きたい気持ちがあっても。私の言葉は、一種の錬金術のように、ないものをあると書くためにあるものではない。私は、舞台上の役者が表現しようとしている、あるいは、無意識のうちに表現していることをとらえて書くことはできるけれども、役者が表現していないものを書くことはできないのである。――私はそんなことを、3月に、――そして、9月にも――、考えていたのである。
 思い出す光景がある。中高生のときに仲良くしていた友人の実家は、杉並区のど真ん中で農業を営んでいた。彼女の家に遊びに行ったことがあるが、我が家からバスで二十分ほど行った先、大通りからちょっと入ったところにいきなり農家の情景が出現して、仰天したことがある。それほど本格的でないけれども、私の実家にも、広くはないながらもえらく実り豊かな庭がある。在りし日の愛犬は庭に生えているアスパラガス食べ放題を日々勝手に行っていたし、今年は、プラムが百個ほど、梅は11キロも穫れたそうな。母が毎年この梅を漬けて作るシロップは、水やサイダーで割って飲むと最高に元気が出る。――何も、都会に生きる人々が皆、都罪の如き言動に惑わされているとは限らないのである。
 トリノ王立歌劇場は、プッチーニの「ラ・ボエーム」を世界初演したオペラハウスである。その歌劇場が、この作品を日本で初めて上演した日の公演を観ることができた(7月25日15時の部、神奈川県民ホール大ホール)。
 きわめて正攻法な演出で綴られる、19世紀前半のパリに生きる若者たちの物語。その前にこの作品を観たのが、同じホールで3月に上演された、非常にスパイシーな切り口に度肝を抜かれたアンドレアス・ホモキ演出バージョンだったので、個人的にはその対比も興味深かった。ホモキ版は、ロドルフォとミミの関係を、知的階級とコギャルの到底成就すべくもない恋愛遊戯的なものとして捉えていて、ミミの死の瞬間、ロドルフォは走って逃げ去るのである! その光景にあっけにとられながら、百年以上も前に書かれた作品をここまでドライに現代的に上演してしまえるのなら、同じ物語をミュージカル化した「RENT」のあのロマンティックな甘さは一体何だったんだろうとさえ思ったものである。そして、私は「RENT」という作品が大好きなだけに、すでにオペラ化されている物語を改めてミュージカル化する場合、その必然性をどこに見出すべきなのか、考え込まざるを得なかった。
 トリノの「ラ・ボエーム」に話を戻すと、アンサンブル・オペラとしての特性がきっちり前面に押し出されていて、屋根裏部屋に住むボヘミアン仲間も、ロドルフォ役にマルセロ・アルバレス、マルチェッロ役にガブリエーレ・ヴィヴィアーニ、ショナール役にナターレ・デ・カローリス、コッリーネ役にニコラ・ウリヴィエーリと、非常に充実したキャスティング。アルバレスが、浮ついたところなく実に誠実にロドルフォを演じるからこそ、ミミとの関係の悲劇性がより一層浮かび上がってくる。そして、ムゼッタとの恋に悩むマルチェッロや、第四幕で「古い外套よ」のアリアがあるコッリーネと比べ、あまり活躍の場がなく、地味なキャラクターに思えていたショナールだが、カローリスの美声とポイントを押さえた的確な演技によって、実に興味をかきたてられる存在となった。カローリスは、ミミを歌ったバルバラ・フリットリの夫君で、7月22日に行われた記者会見では、妻と同じ「ラ・ボエーム」の舞台に立つことについて、「遠い場所で、ああ、妻は今頃舞台の上で死を演じているんだなとか思いを馳せずにすみます」とジョークを飛ばしていたのだけれども、改めて思うに、ミミの死に最初に気づくのはショナールなのである。その前に、ロドルフォと死を前にしたミミを二人きりにする行為も、愛し合う者への優しさがただただ心にしみるばかりの配慮である。それにしても。死を演じる妻と、その死に最初に観客の注意を促す夫。ううむ。同じトリノの「椿姫」では、芸術に賭ける人生の物語を壮絶に演じ切る妻ナタリー・デセイのかたわらで、ジェルモンを演じた夫ローラン・ナウリは抽象概念になっていたし(http://daisy.eplus2.jp/article/157333763.html)、この人たちの夫婦関係はいったいどうなっとるんじゃ。
 それはさておき。ミミの死が近づく第四幕を聴いていたら…、昨年の十二月の初めの、実家の愛犬トラジロウの死の瞬間が思い出されて思い出されて…、もう何だか、途中で息が止まってどうにかなりそうだった…。3月にホモキ版を観ていたときには、そんなことはなかったのに。「私の手が温まることはもう二度とないのね」とミミは歌うけれども、私はその言葉を、愛犬の死を看取るまで、本当の意味で理解してはいなかった――。無論、さまざまな死があると思うのだけれども、私があのとき見た“死”においては、身体から次第に熱が奪われていった。虫の知らせというか、前夜見た夢の中、あれは愛犬が呼んでいたのかもしれない…と気づいた私が実家に駆け付けたとき、一人、犬のかたわらにいた母が涙ながらに言った最初の言葉は、「どうしよう、もう手足が冷たくなってきちゃったから、だめかもしれない…」というものだったのである。そしてその冷たさは二度とは愛犬の身体から去ることはなかった。私は何となく、死とは、命が徐々に消えていくようにイメージしていたのだけれども、命は最後の瞬間まで去ることはなくて、力が徐々に失われてゆくのである…。だから一層、辛い。かたわらの者はどうすることもできない。ただ、見守ることしかできない。ミミの言葉に耳を傾けながら、彼女を見守るしかないロドルフォの姿を観ていたら、…あの日、死にゆく愛犬の魂が、こう語りかけてきたことが思い出されてならなかった。「これまで一生懸命頑張ってきたし、最後の最後の瞬間まで精いっぱい頑張るけど…、でも、頑張れなくなってしまったとしても、いいよね、しょうがないよね…」と。そんな愛犬を見ていて、私は、頑張れとも、もう頑張らなくてもいいとも言えなかった。ただただ、最後の最後の瞬間まで見ているから、とだけ思った。決して死にゆくのではない。最後の最後の瞬間まで、生きていた。生きていた…! そして、ふとした刹那、命は身体を離れ、身体は物体と化してしまうのだった。悲しむより先に、不思議でならなかった。さっきまで確かに存在していたものが、もうそこにはない。愛おしいものがいったいどこに消えてしまったのか、私はひどく狼狽していた――。厳然たる死の事実。初演の歌劇場による「ラ・ボエーム」とは、人の世にある一つの不思議を描く作品だったのである。
 フランス革命の激動の時代を背景に、実在した詩人アンドレア・シェニエと、革命によって没落した伯爵家の令嬢マッダレーナが、命を賭けて愛を貫き通すオペラ「アンドレア・シェニエ」(11月15日14時の部、新国立劇場オペラハウスにて鑑賞)。物語のクライマックス、二人揃ってのギロチンによる処刑を前に、「あなたは愛!」「私こそ愛!」と二人が愛を高らかに歌い合う二重唱に耳を傾けていたら――、突然、閃いたのだった。
「そうだ、人は皆、愛だ!」
 かつて言葉で貴族階級の腐敗を攻撃し、革命の理念の礎を築いた詩人は、革命内部における権力闘争の敗者となり、死刑を宣告される。伯爵家の従僕で、令嬢マッダレーナに想いを寄せていたジェラールは、革命勃発後は組織の幹部として出世を果たしている。一度はシェニエの助命と引き換えにマッダレーナの身体を我がものとしようという邪な企みを胸に抱いたジェラールだが、彼女の愛に心動かされ、詩人の命を救おうと奔走、人々に裏切り者呼ばわりされる。最終的には己の情欲よりも他者の愛を尊重するジェラールは、「スカーレット ピンパーネル」のフランス革命政府全権大使、ショーヴランよりもだいぶ気高い人物なのだった。大体、私は低音の魅力に心惹かれがちな人間なので、バリトンのこの手の役柄にはついついぐっと来てしまうのだが、彼の姿を観ていて、悔い改める人と、悔い改めない人との差はどこにあるのだろうとずっと考えていたら、先に記したような、作曲家ウンベルト・ジョルダーノの啓示? が降りた次第。
 生きとし生ける者はすべて、愛なのである。それぞれがその人生において実現すべき愛を与えられている。だから、他者を愛さなかったり、他者からの愛に気づかなかったり、これを軽視したりしている人間は、何より、自分だけに可能な愛を実現すべき自らの人生を軽視し、自らの存在そのものに呪詛を吐きかけている。愛を知らない人間はだから、本当に憐れむべきであって、周囲の人間は可能な限り、愛を教え、諭さなくてはならない。――ときどき、「愛するのも限度がある」と思ってしまう場合もあるけれども。ジェラールは、物語の途中で自分の実現すべき愛に気づくからこそ、悔い改めることができる。ミュージカル「ミー&マイガール」に「愛が世界をまわらせる」という言い得て妙のナンバーがあるけれども、ようは、人それぞれが愛をまだ充分に実現し得ていないから、世界がうまく回っていかないのである。何だか、舞台を観ていて、「ああ、何か全体がうまく回っていないみたいだな…」と気づくと、何かしらハプニングがその裏で起こっていたりする、そんなことが相次いでいるので、よけいそう思う。
 そして最近、舞台評論家の役割とは何より、スタッフなりキャストなりがその舞台を通じて果たすべき愛が実現されているのか、すなわち、客席側にきちんと伝わっているのか、充分に足りているのかを見極めるところにあるのだと思うようになってきた。観る者の心を軽視した、お金だけを絞り取ろうとするような舞台など、論外である! 無論、その見極めにあたって、私情を交えぬ愛が必要とされることは言うまでもない。そして、愛することと甘やかすこととはまったくもって違う行為であるからして、深い愛をもって、「愛がない!」と斬ることが、何より、――ときに身を切られるように――、辛い。
 グレアム・グリーンといえば、スパイ経験もある作家として有名である。数年前のことになるが、単身赴任中の夫に会いにベトナムのハノイを訪れる際、そのグリーンがかつて滞在し、スイートやカクテルにその名を残すホテル・メトロポールのバー、ル・クラブで、お茶を飲みつつ読書をするのが楽しみだった。香港のザ・ペニンシュラ、シンガポールのラッフルズ・ホテルにも通じるコロニアルな雰囲気の中、天井のファンがゆっくり回る下で、かつてこのホテルを舞台に繰り広げられたであろう諜報合戦に思いを馳せたりしていたものだ。
 そんなことをしていたからか、ある日、ここでの読書タイムを終えた後、尾行されたことがある。首脳クラスも出席する国際会議を間近に控えた中、ハノイ中の劇場を回って、「今晩、公演ある?」と片言のベトナム語で尋ねまくっていた自分が悪かったとしか言いようがないのだが。――という話を友達にしたところ、「またまた、君の話は突飛で現実的じゃないんだから」と一刀両断されてしまった。うう。
 8〜9月に青山円形劇場で上演された「叔母との旅」は、グリーンが手がけた小説をもとにした作品である(8月24日19時の部観劇)。銀行を退職し、50代半ばにして引退生活を営む主人公ヘンリーは、久方ぶりに叔母オーガスタと再会、彼女の奔放かつ突飛な人生に突如として巻き込まれ、オリエント急行に乗ってイスタンブールへ、はたまた南米アルゼンチン、パラグアイへと旅することになる。万事つつがなく静かな日々を重ねてきたヘンリーは、叔母と過ごすうちに、その気になりさえすれば、人生とは波乱に満ちた冒険の”旅”となることを知り、最終的に、それまで自分では予想だにしなかった人生を送る選択を下す。
 青山円形劇場という、周囲を客席に囲まれた逃げ場のない空間で、20を超える役柄を、4人の男優が演じ分ける趣向。演出的には、最終的なまとめ方が今一歩甘いような気がしたのだが、段田安則、浅野和之、高橋克実、鈴木浩介と、手練のキャストが揃っただけあって、演技的には、至福としか言いようのない時間を過ごすことができた。
 4人それぞれが生き生きと本当にチャーミングだった中、”心のキャラ”に輝いたのは、主人公ヘンリーほか十役を担当した浅野が演じた女子大生トゥーリィである。トゥーリィは旅行途中のヘンリーと列車で同席し、生理が来ない、もし妊娠していたらどうしよう…と彼に相談を持ちかけるのだが、その前段で、相談しようと思ってたのに、もう、いい! とぷいと拗ねる表情と、膝を抱えて座るポーズのいじらしいことと来たら! なまじの女優が演じるよりよっぽどかわゆく愛おしくて、そんなに拗ねてないで、何でもお姉さんに相談してみなさい! と胸を叩きたくなるほど。その後、生理が来た! とヘンリーに告げる際のすっきりとした表情も、一面の五月晴れのように実にさわやかに晴れ晴れ。女の子以上に女の子を知り尽くしているような浅野の演技を観ていると、生物学的な性別に従ってのみ役柄が演じられることがどこか虚しくさえ思えてくるのだった。
 後にヘンリーは、遠く離れた南米大陸でオトゥールなる男に出会うのだが、彼は何と、件の女子学生の父親であることが明かされ(トゥーリィとは、オトゥールから来た呼び名)、「そんな偶然、あるのか!」と、客席を大爆笑の渦に巻き込む。このオトゥールもまた浅野が演じているところがミソなのだが、サングラスのかけ方やシャツの襟の開け方といった細かな部分で人物のうさんくささを絶妙に表現。娘の話を聞かされて父親の顔に戻るあたり、一人”心の親子”の妙技を見せた。
 舞台装置や衣装に頼ることのできないこの手の作品では、役者の力量だけが純粋に問われる。観る者の想像力をいかに刺激し、想起させ、実際にはそこにはいない”役柄”の人物をその空間に現出せしめるか。――思い起こすだに、何だか、観劇の晩、浅野和之の背中に翼が生えていて、彼に手を取られて浮かび上がっていって、雲の上、空高くを、二人して笑いながらふわふわ浮かんでいたような、そんな幸せな気分で心が満たされずにはいられないのである。想像力でのみ遊ぶことのできる、天上の国――と考えていて、そうだ、芝居とは英語で”play”なのだったと気づいた。そして、思わずにはいられなかった。グレアム・グリーンがこの「叔母との旅」という愛すべき作品で告げたかったのも、ほんのちょっと想像力を働かせただけで、世界はまったく別の場所に見え、人生の時間もまたまったく別の流れ方をする、そんなシンプルな真理ではなかったかと。
 ちなみに、私は夫に、「あひると出会って人生が変わった。ジェットコースターみたいに激動するようになった」とよく言われる。彼にとっての”叔母”なる存在ということらしいが、何だか心外である。あひるはあひるとしてまっとうに生きているだけなのに! ただ、人生の多種多様な楽しみ方の追求に貪欲という意味では、確かにヘンリーよりは叔母オーガスタに近いかも…。貪欲でなきゃ、夜ごと劇場になど現れませぬ。
 にしき愛がいなかったら、今ではおなじみとなった“心のキャラ”なる部門は生まれていなかった。2008年春の星組公演「赤と黒」でにしきが演じたヴァルノ氏こそ、初代“心のキャラ”に他ならない(http://daisy.eplus2.jp/article/93270845.html)。
 にしき愛がいなかったら、宝塚歌劇の作品における悪役の描き方、演じ方について、考察を深めることはできなかった。一時期の彼女は、何だか悪役ばかり回ってきていた――。“清く正しく美しく”を是とする場所で、一般的に“清く正しく美しく”ないとされる役割ばかりを演じることの苦悩を思う。それはひいては、例えばアメリカにおいて、かつての敵国はソ連で、今の敵はイスラム圏と擬するような、非常に単純で幼稚な正義観についても考えさせずにはおかない。多くの人が、自分は善だ、正義だと思い込み、気分をよくする一方で、常に“悪”の役割を背負わされる人々がいる。かつて「にしき愛問題」として考察した次第である(http://daisy.eplus2.jp/article/117374810.html)。
 にしき愛がいなかったら、フランス革命における重要人物の一人であるロベスピエールについて、こんなにも考えることはなかった。ブロードウェイ・ミュージカル「スカーレット ピンパーネル」の星組による日本初演の成功を支えた立役者の一人が、ロベスピエールの魂を降臨させるような名演を披露したにしきであったことは言を俟たない(http://daisy.eplus2.jp/article/107198247.html)。続く全国ツアー「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」では今度は、若き日の理想に燃えるロベスピエールを熱演(http://daisy.eplus2.jp/article/110815320.html。この二作品以来、“ロベスピエール”の名をどこで目にしても、胸元に白いレースをつけ、バルコニーに立つにしきの姿を思い出さずにはいられない。

 昨年の「太王四神記 Ver.U」の“心の名場面”は、紅ゆずる扮するチュムチと壱城あずさ扮するセドルの“どっちもどっちの田舎者対決”のシーンなのだけれども、にしきが演じたフッケ将軍と、その壱城セドルとは、訛り具合で純朴さとかわいらしさをいい感じに醸し出していて、ああ、この親にしてこの子ありだな…と思ってしまう“心の親子”なのだった。秋の「コインブラ物語」では、主演の轟悠の父親役、ドン・アルフォンゾを演じ、「かぼちゃみたいな袖の服があんなに似合う人が現実にいるなんて!」と取材陣の間でも大好評の美しい王様ぶりを見せた。今年の「ハプスブルクの宝剣」でも、堂々とした立ち姿が実に印象的だった皇帝カール六世役。悪役を振られることの多かった彼女が、宝塚生活の終わりに、王という、内面に堂々としたところがないと決して体現することができない役柄を得意とする男役となったことを、幸せに思う。退団公演となった「宝塚花の踊り絵巻」では、「さくら」以来、久しぶりに、日本物作品でのりりしく美しい姿を観ることができた。「愛と青春の旅だち」の、似合いの淡い色のスーツで銀橋を渡る、その舞台姿の大きさが忘れられない。

 彼女が二度目のロベスピエールを演じた全国ツアーのある日、私は、客席に座った後で気分が悪くなり、「…まずい、これは最後まで身体がもたないかもしれない…」と思ったことがある。スケジュールの無理を押してでも観劇しようとした己の判断の愚かさにうなだれそうになりながら、ショーで颯爽と踊るにしきの男役姿に目を奪われ、一心に見つめていたら…、まあ、何ということでしょう、すっかり気分爽快に! 宝塚&男役一筋に生きてきた人の舞台は癒しパワーが凄いなあと感服したものである。
 彼女については、悪役のイメージが何だか強かったから、最初のうちは、正直なところ、ちょっとだけこわい気持ちがなくもなかった。けれども、先入観にとらわれることなく舞台を観ることができるようになって、気づいた。白の正統派男役とは、何もトップ候補たちの中ばかりにいるのではない。なぜなら、にしき愛もまた、白の正統派男役だったから――。
 宝塚の出演者に取材するとなっても、舞台を支え、脇をしっかり固める演者の取材はほとんどない。彼女たちが、役柄を、宝塚をどう考え、舞台に立っているか、聞くことのできる機会はほとんどない。例えば、もし、このあひるブログでそのような取材ができるとしたら、真っ先に話を聞きたかったのがにしき愛だった。私は今、激しい後悔の念に苛まれている。2008年の新年互礼会で彼女に話しかけて、宝塚について、男役について、聞いてみればよかったのに――! 取材や会見以外の場ではいつもドキドキして固まりかけるあひるがいる。
 大切なことを舞台からたくさん教えてくれて、今日まで、本当に、本当にありがとう。星組男役・にしき愛は、永遠に、あひるの心の中の美しい宝塚の一部です――。
 
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