本日昼の12時47分、また一つ歳を重ねました。そして夜は大好きなレストランでいささか食べ過ぎた…。それはさておき。
 十日ほど前から片づけの神様が激しく降臨、何かに取り憑かれたかのように片づけ始めたあひる。まだ片づけ終わってなかったの? と言われそうですが、実は。近藤麻理絵の“ときめき片づけ”に従った場合、衣類→本類→書類→小物類→思い出品の順に片づけていくわけですが、これまで衣類は片づけられてもいつも必ず本類・書類で挫折しており。それが今回、遂にこの心理的な壁を突破! 玄関に積まれた本&紙の山を見て「えっ、引っ越し?!」と夫驚愕。
 片づけて片づけて、わかってきた。大切なのは物じゃない。思い。その物がどんな思いを思い起こさせてくれるか、それが大切。だからときめき。正直、片づけながら自分が丸裸になるような、何もなくなってしまうような虚脱感に襲われ、「…こんまり先生、助けて〜〜〜」と思った。いや、まだまだいっぱいあるんですが、いろいろ。でも、次第に気づいた。大切なもの、愛おしいものはすべて、自分の中にある。この心の中にある。だから思い切って片づけても大丈夫! 明日もまた一歩進んで、大切なもの、愛おしいものを新たに見つけるために。
 そうして片づけていたら、ジョージ・マイケルに肩を抱かれた写真が発見されたので、歴代ジョージ担当二人との集まりに持っていって思い出話に花を咲かせ。そうやって分かち合える友のいることに感謝。
 45歳の一年、これまで以上に多くの方と、泣いて、笑って、喜び合って、幸せで楽しい時間を過ごしていきたいと思います。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 一月まったく更新しなかったので各方面にご心配をかけておりましたが、またもや更新が滞り。元気なのです。それであちこち飛び回っており。
 さて、元気なあひるは半月ほど前、博多座に行ってきました。目指すは四代目市川猿之助主演の二月花形歌舞伎。ちなみに、博多座に足を運んだのは2007年夏の星組公演以来、福岡を訪れたのは2008年の星組全国ツアー公演以来。およそ十年ぶりの博多座でしたが、つくづく、いい劇場だな…と。
 今回の演目は昼の部が「男の花道」と「艶姿澤瀉祭」、夜の部が「雪之丞変化」。「男の花道」は一昨年の明治座で泣き過ぎた演目、「雪之丞変化」も一昨年の名古屋中日劇場で観て大好きになった演目と、博多座近くに住んでいたら毎日のように通いたいラインアップ。「男の花道」は、四代目演じる女形加賀屋歌右衛門と篤い友情を結ぶ医師土生玄碩役に、昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」序盤、亡き父武田信玄の亡霊を見てしまう武田勝頼役で強い印象を残した平岳大。一昨年この役に扮した市川中車が苦労人ゆえの屈折感を滲ませた造形だったのに対し、平は先端の医術を信奉する知的エリートの自信みなぎる造形。それゆえ、当時まだ多くの人が信じるに至ってはいない自らの医術を信じ、己の手に身を任せての手術を決断した歌右衛門との間に友情も芽生えるのだなと。その玄碩の命を救うため、公演途中で舞台を降りるという、舞台人として重大な決断を下した歌右衛門。二人が久しぶりに再会し、「歌右衛門!」「せんせ!」「歌右衛門!」「せんせ!」「歌右衛門!」「せんせ!」とただただ互いの名前を呼び合うクライマックス、心と心との結びつきは、もうほとんどラブシーンだなと…。互いに心から信じる相手、その人の顔を久々に見られたことが、そしてその人と名を呼び合うことが、ただただうれしい。愉悦。それがラブシーンでなくて何であろう。男性とも、女性とも、一人でも多くの人と、そのような心の結びつきを持ちたいものだと思うあひる。それにしても。「男の花道」では皆さん、よく泣きますね。下手したら? あひるより先にすすり泣き。いや、あひるも人のこと言えないけれども。泣いている人を見かけると、「やっぱり泣いちゃいますよね!」と手を取り合いたくなり。何も、安っぽい感動を切り売りして客席を泣かせにかかっているわけじゃない。心の結びつき、愛が、確かに舞台に描かれているから、そして人は、心の奥でどこかそうしたものを求めているから、…泣いてしまうのだと思う。
 夜の部の「雪之丞変化」では、四代目の女っぷりが上がったというか、元来のかわゆさ愛らしさがますます屈託なく表に出てきたというか、雪之丞を慕う浪路との情景が、二人の美しい娘が並んでいる様を観るような妖しさで、眼福至極。中日劇場に続いて浪路を演じる中村梅丸は、心根が本当にピュアな造形がかわいらしいことこの上なし。
 さて。「艶姿澤瀉祭」である。「艶姿」と書いて“はですがた”と読む。この作品については、新作ということ以外あまりよくわかっていなかったあひる。休憩中に、劇場ロビーに置いてあった「ステージぴあ九州版」を手に取ったところ、「宝塚のようなレビュー形式の華やかな舞台になる予定」と、四代目自らインタビューで答えているではないですか! いやが上にも高まる期待。
 というのも。あひるは博多座観劇の数日前、「ステージ・ショウの時代」(森話社)という本を読んでいた。これが、どこをとっても大変おもしろく、650グラム弱400ページを持ち歩いてまで一気読み。宝塚歌劇や二代目市川猿之助(初代猿翁)についてもいろいろと示唆に富む内容だったのだけれども、その中に、昭和13年に二代目と日劇ダンシングチームが共演した「妖霊星」なる“歌舞伎バレー”の写真が載っていた。舞台斜めに階段が置かれ、その階段上と舞台上に居並ぶダンサーたちが、舞台中央の二代目に向かって手を伸ばし、二代目がはっと上に手を広げてポーズを決めている。何じゃこの異種混合感〜。めちゃめちゃ斬新でおもしろそう! …その写真を見たとき、あひるの中には新たな夢が芽生えたのだった。ちなみに、その少し前に読んだ「夢の衣裳・記憶の壺 舞踊とモダニズム」(國吉和子)によって、二代目が観たバレエ・リュス作品がレオニード・マシーン振付の「奇妙な店」(カンカン・ダンサーが出てくる)と「三角帽子」(スペイン舞踊がふんだんに取り入れられていて、舞台美術はピカソ)であることを知り。
 さて。「男の花道」でたっぷり涙をしぼられ、休憩時間に少しクールダウンして、「艶姿澤瀉祭」全6景、はじまりはじまり〜。そこでびっくりした。
 日本物ショーなのにオーケストラじゃない!
 歌舞伎である。当たり前である。しかし。“日本物もオーケストラの音楽で踊る”という宝塚歌劇の約束事がそれほどまでに、まるで脊髄反射のように自分に染み渡っていることに驚くあひる。もう一つ、改めての気づき。宝塚でもよく、「ショー、レビューは衣装代がかかる」と言われますが、そうだよな…と。なんせ衣装をとっかえひっかえしなくちゃならない。でも。澤瀉屋の面々が次から次へと着替えて出てくるのを観るのがとても楽しかった! 芝居作品と、無心に踊り続けるこういうレビュー作品とで、出演者たちが見せる顔もまた違う。三代目猿之助が鍛え上げ、四代目が今率いる、澤瀉屋の愛すべき手練れの人々について、観劇を重ねていくうち、自分の中に少しずつ蓄積がなされていくことを喜びに感じていて、充分に蓄えられたら書いていきたいな…と思っているものだけれども、この作品でまたちょっと蓄えが増えたなと。
 芸者姿になったり、着流し姿になったり、はたまた藤の精になったり、四代目、男役トップスターと娘役トップスターを一人で兼ねるかのような、一人トップコンビを務めるかのような奮闘ぶり。着流し姿で坂東巳之助&中村隼人と踊る「深川マンボ」はキレッキレ。めくるめく〜。…前から感じていたけれども改めて思う。立役のとき、四代目は、宝塚の男役時代の紫吹淳の日本物の姿に似ている。そしてここに! 宝塚史にその名を残す名ダンサー娘役、星奈優里を参戦させたい!
 第五景「炎」ではなんと、薔薇をくわえて平岳大が登場! 踊るはフラメンコ。パッショネイト! そこに、澤瀉屋の汝鳥伶兼天真みちる(あひるの心の中の呼び名)こと市川猿弥が登場! 平のサパテアード。猿弥の足踏み。平! 猿弥! 平! 猿弥! 掛け合い。高揚!
「…この人、どうして歌舞伎の舞台に出てフラメンコ踊ってるんだろう…」
 ふと思った。しかし。それがいい! その異種混合感がたまらない。「妖霊星」の写真を見たとき、あひるが思ったのはそのことだった。あまりにきちっきちっとジャンル分けされていってしまうと、どこか堅苦しくなる。窮屈になる。もちろん、各ジャンル、根底にどこか守るべきものはあって、それをみんなで、ここが守る線だろうとか、ここは踏み越えてもいいだろうとか、考えていくべきだろうとは思うし、それがそのジャンルを発展させてゆく何よりの礎になると思うけれども、精神はまず自由でいいんじゃないか。新奇な試みがあっていいんじゃないか。だからこそ二代目は日劇ダンシングチームと踊ってしまっているんじゃなかろうか。こんなにも楽しそうに。私は、「妖霊星」の写真を見たとき、昭和13年のその舞台を観た人が心底うらやましかった。そして今、胸を張って言える。四代目が創った、平岳大がフラメンコ踊ってる歌舞伎舞踊を観たら、めちゃめちゃおもしろかったよ! と。
 第六景で、四代目は出雲の阿国となって登場する。そしてラストでは名古屋山三と姿を変えて、宙乗りで上から降りてくる。手すりにはピンクの電飾。…「男の花道」の後、「宙乗り、なかったね」と言っている人がいた。まるで、森光子がでんぐり返しを封印した後の「放浪記」を観て、「でんぐり返し、なかったね」ともらすかの如く(客席で実際聞いた感想)。まさか「男の花道」で、歌右衛門が宙乗りで玄碩先生のところに来るわけにもいくまい。しかし、そんな感想をもらしていた観客も、「艶姿澤瀉祭」の宙乗りで、来た来た〜という感じで大喜び。そんなに宙乗りが観たいか! 観たい! 少なくともあひるは。そしてなぜかいつも、周囲と一緒になって、上空の四代目に向かって手を振りたくなる。振っている。不思議である。「心は一緒に飛んでるから!」という一種のマニフェストであろうか。それにしても。周囲と一緒に泣いたり、手を振ったり、四代目の舞台の客席にいると、私はとても幸せである。
 ……と、高揚しっぱなしのうちに、あっという間に終わってしまった「艶姿澤瀉祭」。50分。ほぼ宝塚のレビューと同じ上演時間。ガツンと来る日本物ショーが観たかったあひる、大満足。というか、もっと何回も観ればよかった。「雪之丞変化」共々、ぜひ東京で上演して欲しい! めくるめく高揚を口ずさみつつ帰れるよう、主題歌も欲しいくらいである。題名も「艶姿澤瀉祭」だし、宝塚の自画自賛ソングと同じくらい“澤瀉屋”を連呼する歌を。そして、「妖霊星」の写真を見たとき芽生えた新たな夢を、さらに強く思ったのだった。
 いつか四代目に、宝塚の日本物ショーを創って欲しい!
 発売中の「omoshii mag vol.8」に麻実れいさんインタビュー記事が掲載されています。3月に上演される「炎 アンサンディ」のお話をおうかがいしましたが、この作品、内戦を経てカナダに渡ったレバノン系女性の壮絶な生を描く物語。カナダに住んでいたとき、レバノン系の友達がいて、市民権を取るための面接に行ってきたなんて話を聞いたことがあるのを思い出し。
 そして今日は次号のための取材に行ってきました。3月をお楽しみに!
 宙組時代、花乃まりあは新人公演や宝塚バウホール公演でヒロインをたびたび演じていたが、残念ながら観る機会に恵まれなかった。明日海りおの相手役を務めることになって初めての舞台、「Ernest in Love」を観て、その声を実に魅力的に感じた。凛として涼やかで、若干アニメ声風味でもある。そして大人っぽい。オフ・ブロードウェイ・ミュージカルのヒロインを、よけいな自意識なく思いっきり体当たりで演じていて、小気味よかった。明日海は月組二番手時代、役替わりでロミオとオスカルを既に経験していて、似合う役をトップになる前に二つも演じてしまって、この先いったいどうするんだろう…と実は少々心配だったのだが、大人の役も演じられる声の持ち主、花乃を相手役に迎えたことによって、明日海自身が演じる役の可能性が広がった部分もあるように思う。
 昨年、サリー役としてすばらしい演技を見せた「ME AND MY GIRL」の直後、花乃は退団を発表した。宝塚生活最後の作品となったのが、「金色の砂漠」。劇団期待の若手、上田久美子の大劇場公演第二作は、宝塚歌劇の可能性を大いに広げんとする意欲作である。花乃が演じるのは砂漠の国の王女タルハーミネ、そして明日海が演じるのは彼女の奴隷ギィ。宝塚のトップスターが奴隷を、相手役がその奴隷を従える王女を演じる、そんな役柄設定の斬新さを超えて、この作品が意欲作であるというのは、愛とアイデンティティのせめぎ合いという、実に複雑な心理的葛藤を、このトップコンビの演じる役柄の関係性のうちに描き出そうとしたところにある。ギィは実はかつて滅ぼされた王国の国の王子であり、王女の国を滅ぼして自らが王位に就き、王女を妃に迎える。それでハッピーエンドとはならない。王の娘、父の娘であるタルハーミネは、それを潔しとしない。一人砂漠に彷徨い出る。そんな彼女をギィは追う。二人が金色の砂漠を彷徨い、息絶える様はほとんど道行、心中である。タルハーミネは、ギィへの愛と、王女としてのアイデンティティ、それが支えるプライドとに引き裂かれた存在であり、心のうちのその断裂を乗り越えるには彼岸へと至るしかない。壮絶な愛憎劇である。そして、美しい。物語に見入るうち、私は、…子供のころ、何かの絵本で読んだ、いにしえのおとぎ話にこのような話があったのではないか、そんな錯覚にすら囚われていった。1月2日の初日前舞台稽古を見学した際、…年始早々すごい話を観た…と思ったものだが、それから半月余り経って観た際は何だか凄まじかった。舞台に、物語に圧されて、終演後、客席の空気が何だか変わってしまったようで、そういえばその二日前に新橋演舞場で観た四代目市川猿之助の「黒塚」もそんな風だったと思った。作者はかくも宝塚歌劇の可能性を信じる人なのだなと胸が熱くなった。それもやはり、演者に対する信頼あってのことだと思う。退団作で、花乃は役者として劇作家から大きな信頼を寄せられたのだと感じた。タルハーミネは難役である。トップスターを足蹴にし、ときに冷酷に接する。その際生きるのが、花乃のあの声である。凛として涼やかで。だからこそ、タルハーミネの難しいセリフを美しく通すことができる。べちゃべちゃ甘ったるい声の持ち主が演じたとしたら、目も当てられなかっただろう。
 今回、花乃はエトワールも務めている。私が最後に観た日、彼女は、…楽しかった…と宝塚生活を振り返っていた。心から、よかった、そう思った。ここに至るまでにはつらいこと、大変なこともいろいろあっただろう。けれども今、楽しかった、そう彼女は思っている。それが芸の道である。つらさや困難はあれど、その道を歩くことはやはり、楽しい。舞台人として、そんなプロフェッショナルな境地に至って、彼女は宝塚歌劇の舞台を去っていくのだと思ったら、何だか感無量だった。
 退団後、舞台に立つことを今は考えてはいないそうだけれども、もし気が向いたら、あなたのその声をまた聴かせてください。私は、あなたの声が大好きです。