藤本真由オフィシャルブログ

 月組娘役陣の奮闘が光る公演だった。ブロードウェイ・ミュージカルの宝塚での久々の再演となった「グランドホテル」は、エリザヴェッタ・グルーシンスカヤ役の愛希れいかが素晴らしい。作品のオリジナルの演出・振付を担当、今回の公演の特別監修を務めたトミー・チューンが、彼女を評して「ブロードウェイに連れて帰りたい」と言ったそうである。連れて帰られては困る。愛希れいかは今の宝塚きってのショースターであり、名トップ娘役の系譜にその名を刻みつつある人なのだから。踊ること、生きることへの情熱を失い、何度目かの引退公演を行なっているプリマ・バレリーナの役どころは、愛希の実年齢からすれば年齢的にかなり開きがあるが、彼女は想像力でもってその間隙を見事埋めてみせる。思えば「1789」でマリー・アントワネット役を演じたときも、物語の後半、王妃として、母として、妻として目覚めた後の演技がひときわ優れていた。若くして入団、トップ娘役に就任した彼女だけれども、その立場に就き、多大なる責任感をもって舞台を務めるうちに、大人の女性を演じられる役者になっていったのである。心から共感を寄せることのできる、素敵な大人の女性を。グルーシンスカヤは恋に落ち、生への情熱を取り戻し、言う。「私、踊りたいの」と――。わかる! 私自身、舞台と、舞台上の役者の演技と、“恋”に落ちると書きたくなるのである。だから今、こうして書いている! ブロードウェイ・ミュージカルの大好きなナンバーのベストスリーに入る「Love Can’t Happen」を愛希が歌うのを聴いていたら――、同じモーリー・イエストンが作詞・作曲を手がけたミュージカル「ファントム」の名ナンバー、「You Are My Own」が鮮やかに甦ってきた――壮一帆がキャリエールを演じてその曲を歌ったとき、やはり書いた、その“聖痕”は今も心にくっきり刻まれている。恋に落ちたときめきを少女のように無邪気に歌う「Bonjour, Amour」も実にヴィヴィッドである。愛希自身は少女の方に近い年齢かもしれないけれども、等身大で演じるのではなく、ちゃんと、一人の大人の女性の中にひそむ少女を描き出してみせる。その少女は女性誰しもの心の中にひそむ存在であるのかもしれないと思わせてくれるほどに。
 レヴュー「カルーセル輪舞曲」では、愛希が、月組組長・憧花ゆりの、夏月都、玲実くれあ、白雪さち花といった強力月組娘役陣と共に歌い踊るニューヨークの場面が、20年代のフラッパーガール風のコケティッシュさとセクシーさが満載で、秀逸である。この場面で、時代のセックス・シンボル、ルイーズ・ブルックスばりのおかっぱの黒髪で妖艶な魅力を放っているのが、今回惜しくも退団となる咲希あかね。踊れる娘役として活躍してきた彼女は、険しい崖に一輪、しなやかに逞しい生命力をもって咲く白い花の風情をたたえている。下級生時代から、どことなくさみしげな美貌の持ち主だな…と気にかかる存在だったのだが、学年が上がると共に芸をますます磨き、月組を強力に支える娘役陣の一人として、表情も明るく光り輝くようになった。と思いきや、退団である――。大階段をバックに繰り広げられるフィナーレナンバー、白いドレスを着て優雅に踊る彼女の姿はしみじみ、美しかった――。
 踊るのが楽しくてたまらない! といった表情でいつもはつらつとした踊りを見せてくれていた男役、貴千碧も退団である。中詰のブラジルのサンバのカーニバルの場面では、銀橋上、夏月都と白雪さち花という濃ゆい娘役二人に挟まれ、やはり明るい笑顔ではじけていて、何だかひときわ心に残ったことだった。
 2月の四大陸フィギュアスケート選手権での羽生結弦の演技を観ていて、…芸術家としてますますやる気なんだな…と、非常に頼もしく感じた。そしてまたもや頭の中でぐるぐる、寝つかれない夜…。ぐるぐるしたのは、今度は問い。
――フィギュアスケートとはいったい、何を表現する上でもっとも優れている芸術なのだろうか――。
バレエについて、熊川哲也にそう聞いた。歌舞伎について、四代目市川猿之助にそう聞いた。そして今度はこの問いを、羽生結弦に投げかけなくてはならない。フィギュアスケートの革新者である彼に。
自分でも考えてみた。フィギュアスケートの歴史をたどると、バレエ、舞踊との関わりは外せない。フィギュアスケートの演技においてバレエ曲はしばしば用いられる。けれどもそれらの演技を観ていて、…これならバレエを観る方が楽しいな…と、そう思うことがある。飽きっぽいので、表現というものがない、成立していない演技を観ていると、フリーの間、下手したらショートプログラムの短い間さえ、集中力がもたない――それは、舞台を観ているときも同じではあるのだけれども。もちろん、超絶技巧が次々に繰り出されて、その技自体に芸術的な美しさが認められるようなときは別だけれども、高い点数を獲得するためだけの技がただ連続しても、飽きてしまう。ただし、これはあくまで私の観方であって、フィギュアスケートはさまざまな形で楽しまれるべき競技であることは言うまでもない。
 スケート靴を履く。そのことによって、人間の氷上での移動スピードは加速され、より高く跳躍できるようになり、より速く、より多く回転できるようになった。そうして人体の能力が拡張されたとき、可能となる芸術表現はいったい何なのか。私はそのことを、これから羽生結弦の演技のうちに考えていきたいと思うのである。
 もう一点、神を降ろす話について。フィギュアスケートの大会は基本的にその都度一回勝負である。その際、確実にフィギュアスケートの神を降ろすためには、心身共にコンディションを整えることが大切になってくるだろう。ここで、舞台芸術において神を降ろす話をするとして、例として宝塚歌劇の「ノバ・ボサ・ノバ」というショーを挙げたい。初演は1971年、鬼才鴨川清作が作・演出を手がけた。ほとんど、鴨川が独自の呪術的儀式を新たに創り出し、その儀式の熱狂によって生を祝福するかのような、宝塚歌劇においてもきわめて異色の作品であって、初演以来何度か再演されているが、その都度、亡くなった鴨川の霊が劇場に現れる――と聞いてもむべなるかなと思わせるものがある。さて、この作品のクライマックスで、主演者は名曲「シナーマン」――もともとは黒人霊歌であり、それこそフィギュアスケートでも用いられていたことがある――を歌って神を降ろさなくてはならない。公演回数が例えば40回あるとしたら、本来ならば、その数だけ必ず。一回勝負で確実に神を降ろすのと、来る日も来る日も連続して確実に神を降ろすのと。どちらが困難か、比べても意味のないことではあるのかもしれないけれども。
 前回、羽生の演技について記したとき、私は、「モーツァルトあたりの天才とじっくり向き合ってみるのはいかがでしょう」と書いた。何もモーツァルトを是が非でも勧めるということではない。ワンシーズン、来る日も来る日も聴いて、滑って、彼の芸術上のインスピレーションがかきたて続けられる曲ならば何でもいいと思う。ただ、数百年も人々に聴かれ、愛され続けている曲ならばやはり、その奥深さ、尽きせぬ魅力は担保されているのではないか、そう考えたまでのことである。
 さて、先ほどフィギュアスケートとバレエについて述べたが、明日3月15日からKバレエカンパニーが渋谷オーチャードホールにて「レ・パティヌール〜スケートをする人々〜」を上演する。今から80年前、英国ロイヤル・バレエ団によって初演されており、バレエ史にその名を残すフレデリック・アシュトンが振付を手がけた。Kバレエでの上演は初めてだが、私は、熊川芸術監督が英国ロイヤル・バレエ団時代に踊った“ブルーボーイ”を忘れることができない――というか、その残像が今も、奇妙な形で私の脳裏に貼りついていることは以前記した。バレエの側からは、フィギュアスケートの美をどのようにとらえ、表現したか、観て考える好機だと思っている。
 愛子さんは私の母方の祖母である。「細雪」の登場人物ではない。
 大正6年(1917年)生まれ、三人姉妹の次女である。父は住友銀行勤め、支店長として日本各地を転々とし、そのたび住まいの借家が大きくなっていった…とは、愛子さんさえ実際には知らぬ、彼女が姉から聞かされた話の又聞きである。下関にいた時分、愛子さんの母はかの地で初めてミシンを手にした人となった。愛子さんは父が横浜にいた時分に生まれた。野毛山あたりに住んでいたというので、子供の頃、愛子さんと一緒に野毛山まで行ってみたことがある。小学生の頃には父は大阪勤務となっていて、阪急の小林一三が分譲した豊中の家に住んでいた。人力車に乗って小学校に通っていた愛子さんは、二学期、新学期の初めの日、帰ってきて母親に学校で起きたことを話していた。と、大地震が起きた、それが関東大震災だった――と聞いたことがある。
 さて、愛子さんの遺品の中に、一冊の古ぼけた黒い手帳があった。頁を繰ってみると、それは、病弱だった愛子さんの姉が結婚後、入院した先でつけていた手帳なのだった。――この姉というのが非常におっとりとした人で、子供の頃、おやつの時間にも本を読むのをやめなかった。と、いたずら心を起こした愛子さんは、姉が本の陰に隠れている隙に、その皿からおやつを取って食べてしまう。それでも姉は気づいてか気づかないでか、「いつの間にかなくなってたわ」とのんびりしたものだったという。この人は子供がないまま早くに亡くなり、その相手が再婚して後も愛子さんの家とは交流があった。再婚して生まれた息子というのが非常にダンディな人で、私は子供の頃、愛子さんの家で開かれる新年会や家族会の時々、その人に会えるのを非常に楽しみにしていたことを、Kバレエの「くるみ割り人形」のハンサムなドロッセルマイヤーを観るたびに思い出す。
 話が逸れた。手帳には、愛子さんのたびたびの訪問も記されている。そのうち、愛子さんの結婚が決まったことも。愛子は結婚についてよくわかっていない…と、なかなかに辛辣な表現もされている。
 手帳の表紙を見て、はっとした。「皇紀2600年」、つまりは昭和15年(1940年)。――そう、年齢こそ10歳違えど、愛子さんが結婚のため見合いをしていたのは、ちょうど、「細雪」の三女・雪子が見合いをしていたのと同じ頃だった。「細雪」は、私の祖母の娘時代と見事に重なる物語なのである。

 「細雪」に何度か、「レストラン アラスカ」が出てくる。今も大阪をはじめ、東京にも数店、店を構える西洋料理の名店である。日劇跡に有楽町マリオンができた1980年代初頭にはそこにも入っていて、何度か愛子さんに連れていってもらった。――昔、大阪のこの店によく行っていたのよと、愛子さんは言った。大人になり、大阪に足を運ぶようになって、わかった。愛子さんの父が勤めていた北浜の住友銀行本店から、「レストラン アラスカ」のあった朝日ビルディングは目と鼻の先である。勤務を終えた父に連れられて、愛子さんもしばしば足を運んだに違いない。
 あるいは一度くらい、愛子さんの見合いが「レストラン アラスカ」で行われたこともあったのかもしれない。愛子さんは言っていた。――見合いの相手が気に入らなかったら、お父さんと二人、ちゃっちゃと食べて、ちゃっちゃと払って、帰った、そうしようとお父さんとあらかじめ打ち合わせしてあった、と。愛子さんは母を早くに亡くしていたから、見合いには父と二人で赴いていたようである。そして、母がいなかったこともあって、神戸女学院を出てから結婚するまで二、三年は自由な時間を満喫していたようなのである。「細雪」の雪子ほどではないにせよ、当時としては結婚するのが遅かった。だからこそ姉に、結婚についてよくわかっていない、そんな風に書かれてしまうのかもしれない。特急つばめに乗って東京まで宝塚を観に来ていたのもこの頃であったと思う。

 明治座での観劇の一週間ほど前になって、やっと「細雪」を再読し始めた。読み始めたら最後、作品世界に引き込まれて、他のことが手につかなくなってしまうであろうことがわかっていたから、ぎりぎりまでおいてあったのである。――と、すぐに、懐かしい人々にまた再会できた喜びが胸にあふれ、涙さえした。上中下三巻を四日で一気に読んでしまった。
 「大阪では、家庭の女が東京の女のように旅行などに出歩かないのが普通であって」と、上巻にある。こんなこと書かれてるよ!、と、私は天の愛子さんに向かって呼びかける。そんな時代に愛子さんは、宝塚を観に遥々東京までやって来ていたのだ――。今でこそ、宝塚ファンは“遠征”という言葉を使い、全国各地の劇場に宝塚歌劇を観に行ったりするけれども。愛子さんは東京に観劇友達もいた。そのうちの一人が戦後、家が没落したということで、愛子さんの家にお手伝いとしてやって来ていた。その方は戦前の宝塚のトップスター、葦原邦子の家にもお手伝いに行っていた――ということで、葦原邦子の「夫 中原淳一」を読むと、その家には、後に宝塚の演出家として活躍することになる植田紳爾青年や酒井澄夫青年が、ミュージカルの勉強のために訪れていたのである。
 愛子さんは、孫である私から見ても、さまざまな才能にあふれた人だった。スポーツウーマンだった。飛び込みのオリンピック強化選手だったけれども、事故で死んだ仲間がいて、やめざるを得なかった。絵も上手かった。贔屓の宝塚のスターには、宝塚ホテルでご飯をご馳走したり、彼女の肖像を油絵に描いて贈ったりしていたそうである。はり絵をはじめ、手芸もあれこれ嗜んでいた。洋裁も上手で、赤と白の細いストライプの生地で私にスーツを仕立ててくれたこともあったし、手編みのセーターは今でも大切にとってあってたまに着ている。
 「細雪」で言えば、踊りを舞い、人形製作を手がけ、洋裁にも励む、そんな四女・妙子にも通じる活発さをもった人なのである。もっとも、妙子のように、恋人がいたというわけではなかったけれども。バスケットボールの試合にちょっとかっこいい男の子が出ているのを見に行こうと言って、友達とそうしただけで「不良」と言われたらしいのが、唯一で一番のやんちゃエピソードである。
 壮一帆が四女・妙子を舞台で演じるにあたって、現代に生きる女性として共感できるものをきっと吹き込んでくれるであろうことを期待していたということもあったからかもしれないけれども、今回、「細雪」を読んでいて、――何だか、もう、さまざまな才能にあふれた妙子が、生のエネルギーをどうにも持て余している様が、気の毒でならなかった――。良家のお嬢さんだからということで、職業婦人になることには反対される。もはや家は没落の一途にあり、昔ほど金銭的にも恵まれていないというのに。すぐ上の姉がまだ結婚していないからという理由で、好きな人がいても結婚もなかなかできない。もちろん、彼女自身の中にも、お嬢様気質のところがあることは否定できない。親なり周囲なりの反対を押し切って、自分の就きたい仕事に就き、自分の結婚したい人と結婚した人は、彼女の時代にだっていたであろう。けれども、それには莫大なパワーがいる。後の時代に、自分の行きたい道を押し通せばよかったのに――と言うことは簡単である。
 愛子さんもさまざまな才能に恵まれていた。そして、その中の一つで身を立てようとか、そういうことをとりたてて考えなくてもいい環境にあった。ただ、私は今になって、彼女に訊いてみたかったなと思うのである。――もし、将来何になりたい? と子供の頃に訊かれていたら、何と答えていたの? と――。それはもしかしたら残酷な問いであるのかもしれない。愛子さんの時代の女の子には。何らかの職業に就くでもなく、妻に、母になった人と、生きるために、職業選択の自由など関係なく何らかの職業に就いて働かざるを得なかった人とがほとんどだった時代には。もちろん、その時代にも、自らの意思をもって職業婦人として歩んだ数少ない先駆者がいて、そんな先達のつけた足跡の上を、今の私たちは歩いているのである。何になりたい? と訊かれて、思い思いの答えを言うことができる、そんな自由を享受しながら。

 それにしても、不思議なのである――。豊中の三姉妹のうち、愛子さんだけが東京にお嫁に行ったことが。
 どうも、どうしても東京にお嫁に行きたかったようなのである。阪急勤務の人とのお見合い話を受けなかったとも聞く。「細雪」の四姉妹が、関西にこだわり続けるのとは対照的である。
 これは私の推測なのだけれども、――愛子さんは宝塚見物で東京に行ったりしているうちに、東京に魅せられていったのではないだろうか。そうして願いを叶えて東京に来たはいいが、愛子さんは苦労をすることになる。結婚相手、つまり会津出身の私の祖父は兄弟姉妹が大勢いて、それが祖父を頼って来ることになって、愛子さんの実家から援助を受けてまで面倒を見て、ときには、着物をお米に換えたりして――。三姉妹のうち、一人だけ東京にお嫁に来て、苦労して、そのことを愛子さんはどう思っていたのだろうか。その話はついぞ聞くことはなかった。
 宝塚大劇場に観劇に行って、阪急線に乗っていると、思うことがある。もしかしたら自分も、この沿線で暮らしていたかもしれないな、と――愛子さんの下の妹の家は、今でも豊中にあるのだし。そうしたら、年がら年中宝塚のポスターを目にして育って、自分も宝塚に入りたいと思っていたかもしれない。
 ――そうはならなかった。私は東京に生まれた。自分に関西人の血が流れていることを自覚したのは、夫となる人と出会ってからである。つきあい始めてすぐに、愛子さんの家に連れて行った。「真由ちゃんのお祖母さん、大阪弁なんだね」と、後に夫となる播州出身の人は言った。それまでまったく気づいていなかったことを指摘されて、びっくりした。――そして、祖母を亡くして、次第に、私の中に、女性の大阪弁に対する思慕が形成されていった。「卍」などに見られる谷崎潤一郎の女性の関西弁フェティッシュと、根はもしかしたら同じものなのかもしれない。
 宝塚をきっかけに東京との縁が芽生えた愛子さんと、宝塚をきっかけに関西の土地を足繁く訪ねるようになり、かの地にどこか愛着さえ芽生えてきた私と。宝塚歌劇を媒介に、祖母と私の人生が交差する。

 ――それにしても、見合いの話というのは、うまく行かなかったときの方がときに熱を帯びて語られるのは何故なのだろうか。愛子さんにしても、ちゃっちゃと食べてちゃっちゃと払って破談にした話は面白く語ってくれても、何故いざ祖父と結婚したか、その決め手については聞きそびれた。
 母の見合い話についても然りである。写真ではそうでもなかったのにいざ会ってみたら神経質極まれりな感じで、普通は「若い方お二人だけで」となるのを仲人まであわてて残ってくれて、そのままなかったことにしたとか。そんな彼女が、私の父となる人と、お見合いで初めて出会うのは、「細雪」にも出てくる渋谷のフランス料理店「二葉亭」である――そしてこれはまったくの余談だけれども、父が大好きで、私も子供の頃から、ときには弟と二人、子供だけでも食べに行っていた鰻屋が隣駅にあって、それが、「細雪」に出てくる「小満津」の流れを汲んだ店なのだった――。
 自分がお見合いというものをまったくしなかったので、見合い話は未知の世界で、だからこそ興味深い。「細雪」の見合い話も、愛子さんや母の見合い話も。そういう意味では自分は妙子的立場にある。時を超えて、愛子さんと、母と、三姉妹であるような気さえしてくる。けれども、昔は二人のうまく行かなかった見合い話を面白く聞いていたけれども、今となっては感慨深いのだった。愛子さんがちゃっちゃと食べちゃっちゃと払うということをいつまで経っても繰り返していたら、私の母という人はいなかった。そして、私の母が、「二葉亭」で出会った私の父、海外留学が迫っていたその人に「いいですね」と押し切られていなかったら(あくまで母の側の話で、残念ながら父の側の話は聞きそびれた)、今の私はいなかったのである。
 現在、明治座では谷崎潤一郎の長編小説が原作の「細雪」を上演中である。壮一帆が四女・妙子役で出演する今回の舞台を機に、作品の世界に改めて深くふれようと思った次第。
 ということで、まずは作品の舞台、兵庫県神戸市東灘区の「倚松庵」を訪ねたお話から。

 1月の「壮一帆ニューイヤーディナーショー2017」(ホテル阪急インターナショナル)を聴いた次の日、初めて「倚松庵」を訪れた。改修工事が早く済み、昨年暮れより公開が再開されたとのこと。
 六甲ライナーを魚崎駅で降り、150メートルほど北に行った、住吉川のほとり。六甲ライナー建設のため、以前はもっと駅寄りの場所にあったのが移築され、その際の耐震補強が幸いして阪神大震災にも耐えたという。谷崎が関西で住んだ家では岡本の「鎖瀾閣」が阪神大震災で全壊、復元を目指す活動の看板が阪急神戸線沿線駅のホームに掲げられていたのを覚えているが、そちらの方は残念ながら断念となった模様である。何が残るか。何を残すか。人智を超えた力の差配の不思議を思う。
 近代建築が好きな私はあちこちの館をよく訪ねるけれども、「倚松庵」は必ずしも、とてつもなく贅を凝らしたとか、建築家の理念がうかがえるとか、建築史上に名を残すといった類の建物ではないように思う。この家が後世に残される存在と成り得たのは、ここで営まれた暮らし、その微細までもが、「細雪」という文学作品の中に記録され、芸術として昇華されており、なおかつその作品が今日まで多くの人々によって愛され続けているからだろう。部屋一つ一つをめぐりながら、私は「細雪」の中でその場所が登場するエピソードを思い起こしていた。ここが、妙子が「雪」を舞った洋間。ここが、妙子がラジオを聴くため扉を開け放したまま入っていた風呂。ここが、作品冒頭で幸子が妙子に「こいさん、頼むわ。―――」とお白粉を塗るよう頼む二階の八畳。――フィクションとしてとらえていた作品世界が、急にあざやかにフォーカスが当たって目の前にぐっと引き出されてきたような、そんな感覚さえあった。生きていたのだ、あの人々は。この空間で、さまざまな思いを抱えながら。生きていたのだ――。そして、戦争中の難しい時代、私家版を配布することすら軍に禁じられながらも物語を書き続けた作家のことを思った。戦争の只中にあっても、そこには戦争と必ずしも関係があるわけではない生活が確かにあった。そしてそれを書き記したい、書き残したいと思った人がいた。その事実は私をどこか勇気づける。何か大事件が起きたとて、日常がそれ一色で塗りつぶされてなるものか。人間のごく普通の営みは続いていくものなのである。それでも、なお――。
 家は、作品を読んで想像していたより狭かった。あれだけの人数の家族と女中とで暮らしていたら、さぞや混み合い、プライバシーも何もあったものではなかっただろう。「細雪」公演プログラムを読んで、谷崎が実際の広さより1.5倍ほど広く描写していたことを知った。
 魚崎駅を降りたとき、駅すぐ近くに「ここだ」と何故か思った場所があったのだが、尋ねてみると、そこがもともと「倚松庵」の建っていた地なのだった。帰り道、そのあたりを丹念に回って歩き、今なお残る洋館や古い日本家屋に眺め入っていた。
 帰りは阪神線の魚崎駅に出た。宝塚大劇場に行くため阪急線に乗ることは多いけれども、阪神線はあまり乗る機会がない。駅のホームで、この前阪神線に乗ったのは、一昨年の一月、大阪千日前の国立文楽劇場で「冥途の飛脚」を含む一連の公演を観て、神戸のオリエンタルホテルに泊まるために移動して以来だったと気づいた――その翌日には宝塚大劇場で雪組の「ルパン三世」を観た。その国立文楽劇場そばには谷崎潤一郎の文学碑があって、文楽の「心中天網島」に言及した「蓼喰ふ虫」の一節がそこに彫られているのを眺めていたのだった。そしてだいたいが神戸でオリエンタルホテルに泊まりたいと思うのも、今となっては場所も経営も異なるけれども、そのホテルがたびたび「細雪」に出てくるからなのだった。
 阪神三宮まで行き、神戸で一番古いというイタリア料理屋で遅い昼食をとった。クラシックでオーソドックスなイタリアンで、何を食べても美味である。「おいしい、おいしい」と繰り返す私に、店のご主人夫婦は親切にあれこれ説明してくれた。――食いしん坊ぶりを大いに発揮しているうちに、何だか自分は文豪の真似をしているみたいだなと、その一週間ほど前に読んだ「食魔 谷崎潤一郎」(坂本葵)を思い出し、おかしくなってきた(もっと谷崎潤一郎を読みたくなり、そしておいしいものも食べたくなる好著である)。
 そしてその足で、トアロードにあるお気に入りの帽子屋に行った。ここまで来るともう期せずして、「細雪」追体験極まれりである――「細雪」には妙子がトアロードにある洋服店で駱駝のコートとアフタヌーンドレスを作った話が出てくる。イタリア料理屋から帽子屋まで歩く道中、とても残念だったというのは、トアロードから「レストラン ハイウェイ」が消えていたからである。谷崎ゆかりの店というのは知っていて、何度かその前まで行ったのだけれども、女一人で夜入る度胸がなくて、とうとう入らずじまいだった。その後レストランは移転し、そして閉店してしまったけれども、その初代店主は「細雪」で、妙子の恋人であるカメラマンの板倉のモデルとなった人物で、店名の名付け親が作家その人なのだった。「与兵」として出てくる生田神社近くの寿司屋「又平」も、やはり入る度胸がないまま、閉店して住吉に移転してしまっていた。街はうつろう。神戸にはまだ、谷崎の時代を知る建物もあって、けれどもそうして失われていくものもあって、――何が残るか、何を残すか、人智を超えた力の差配の不思議を私はまたも思っていた。