藤本真由
(フリーライター・ふじもとまゆ)
1972年生まれ。
東京大学法学部卒業後、新潮社
に入社。写真週刊誌「FOCUS」
の記者として、主に演劇・芸能
分野の取材に携わる。2001年退
社し、フリーに。演劇を中心に国
内はもとより海外の公演もインタ
ビュー・取材を手がける。
ご意見・お問い合わせ等は
bluemoonblue@jcom.home.ne.jp
まで。
生きる喜び〜宝塚・安蘭けいを送る[宝塚]
安蘭けいは、彼女の後を継いで星組主演男役に就任する柚希礼音が“ダンサー”であるという意味では、確かに“ダンサー”ではなかったかもしれない。それでも私は、彼女の踊りを観ていて決して飽きることがなかった。それこそ、指一本一本の開き方や反り方といった細部に至るまで、一挙手一投足に男役としての美学が徹底されていたからである。彼女の一つ一つの細かな仕草に、男役として美しく見せるためのこだわりに、心惹かれてならなかった。
男役を究めれば究めるほど、結局のところ、その制服と言われる黒燕尾服姿にすべてが収斂されてゆくのだと、最近ますます思うようになった。だからこそ、それぞれが個性を競い合う黒燕尾服でのダンスシーンは宝塚歌劇においてもっとも見応えのある場面の一つなのだが、私にとって、安蘭けいのその姿はなぜか、自分の中に原体験としてある男役のイメージにもっとも近いのである。ストイックに、どこまでも自らの内へ内へと向かう黒燕尾服姿。内へ内へと向かううちに、その内的世界がどこか突き抜けて宇宙的広がりすら感じさせてゆく。
そして、退団公演でさらに凄みを増した歌。心の震えをそのまま言葉に紡いで音に乗せたようなあの歌。決意を告げるときは力強く、神に己の生を問うときは畏れ、愛を歌うときは陶酔に満ち、ときに、それほどまでにナイーブな心の内を知ってしまってもいいのだろうか…? といささかの当惑さえ感じさせずにはおかない歌。聴く者の心が震えるのは、安蘭の歌声を通じて伝わるその心の震えに共鳴すればこそである。
その演技の成立については、私は長らく、こんな風に考えてきた――。
安蘭の心には、そのやわらかな感受性ゆえ、無数の“傷跡”がある。どんなささいなことでもかまわない、何かにふれるたび、その“傷跡”は一つずつ増えてゆく。そして、実際に舞台に立ち、役として演技を見せるとき、そのつど必要な感情のバリエーションが、数限りない“傷跡”から瞬間的に、実に適切に引き出されてくる。昨日と今日、今日と明日では、同じ演技でも、刺激される“傷跡”、そこから引き出されるものが異なる。そのあまりに豊饒な多様性を味わうには、生の舞台をもって他にない。
瞬間的にふさわしい“傷跡”を心の内に探り当て、適切な感情を縦横無尽に引き出して舞台を生きる、そんな安蘭を観ていると、私は、劇場とは何より、人の心を観る場所であり、そして、表現とは、形なきその心をでき得る限り形にして見せる手段に他ならないと思うのだ。
美という、およそそれ以外の目的にとって実用的ならざるものを追究する心。矛盾にさえ満ちた複雑性を内包してときにその人間本人をも翻弄して揺れる心。不確実性に満ち満ちた世界を生きる上で、その不確実性を一層増幅させる心。心あればこそ、人間は人間たり得る。その心の動きの一瞬一瞬こそが、生きる喜びに他ならない。
安蘭けいは、悲しみも苦しみもすべて含めた、実に複雑極まりない人間の生きる喜びを、その演技のうちに描き出すために生まれてきた人間なのだ。そして、安蘭の演技を見守ることは、同時代に生まれた者だけに許された、生きる喜びなのである。
愛とは何度も苛酷な試練を問うものであって、表現への愛もまた例外ではない。退団作「My dear New Orleans」で安蘭扮する主人公ジョイは、音楽への愛を高らかに歌い上げた刹那、歌う場を失くすという試練に見舞われる。結局は、彼の才能を見込んだ音楽プロモーターの誘いを受けてニューヨークへ行き、成功を収めることとなるのだが、表現者の誕生を描く上で重要なのは、安易な成功譚ではなく、試練をどう乗り越えたかの方なのである。
試練はそれは何度もやって来る。うんざりするほど、手を変え品を変えて。だから、あきらめそうになる。くじけそうになる。実際、どこかであきらめ、その道を挫折する者も多いだろう。それでも、実にあきらめの悪い一握りの人間だけが、愚直なまでに表現への愛を貫き通す。才能がより必要なのは、続けることの方なのだ。愛を貫き通すことの方なのだ。そうして続けていくうちに、いつしか愛は豊饒な実りを見せる。
2009年4月26日、安蘭けいは宝塚歌劇団を旅立つ。
その長い在籍期間中に彼女が培い、勝ち得た表現。それは、主演男役という称号を超えて、安蘭に、安蘭のみに輝く、唯一無二の栄冠である。
男役を究めれば究めるほど、結局のところ、その制服と言われる黒燕尾服姿にすべてが収斂されてゆくのだと、最近ますます思うようになった。だからこそ、それぞれが個性を競い合う黒燕尾服でのダンスシーンは宝塚歌劇においてもっとも見応えのある場面の一つなのだが、私にとって、安蘭けいのその姿はなぜか、自分の中に原体験としてある男役のイメージにもっとも近いのである。ストイックに、どこまでも自らの内へ内へと向かう黒燕尾服姿。内へ内へと向かううちに、その内的世界がどこか突き抜けて宇宙的広がりすら感じさせてゆく。
そして、退団公演でさらに凄みを増した歌。心の震えをそのまま言葉に紡いで音に乗せたようなあの歌。決意を告げるときは力強く、神に己の生を問うときは畏れ、愛を歌うときは陶酔に満ち、ときに、それほどまでにナイーブな心の内を知ってしまってもいいのだろうか…? といささかの当惑さえ感じさせずにはおかない歌。聴く者の心が震えるのは、安蘭の歌声を通じて伝わるその心の震えに共鳴すればこそである。
その演技の成立については、私は長らく、こんな風に考えてきた――。
安蘭の心には、そのやわらかな感受性ゆえ、無数の“傷跡”がある。どんなささいなことでもかまわない、何かにふれるたび、その“傷跡”は一つずつ増えてゆく。そして、実際に舞台に立ち、役として演技を見せるとき、そのつど必要な感情のバリエーションが、数限りない“傷跡”から瞬間的に、実に適切に引き出されてくる。昨日と今日、今日と明日では、同じ演技でも、刺激される“傷跡”、そこから引き出されるものが異なる。そのあまりに豊饒な多様性を味わうには、生の舞台をもって他にない。
瞬間的にふさわしい“傷跡”を心の内に探り当て、適切な感情を縦横無尽に引き出して舞台を生きる、そんな安蘭を観ていると、私は、劇場とは何より、人の心を観る場所であり、そして、表現とは、形なきその心をでき得る限り形にして見せる手段に他ならないと思うのだ。
美という、およそそれ以外の目的にとって実用的ならざるものを追究する心。矛盾にさえ満ちた複雑性を内包してときにその人間本人をも翻弄して揺れる心。不確実性に満ち満ちた世界を生きる上で、その不確実性を一層増幅させる心。心あればこそ、人間は人間たり得る。その心の動きの一瞬一瞬こそが、生きる喜びに他ならない。
安蘭けいは、悲しみも苦しみもすべて含めた、実に複雑極まりない人間の生きる喜びを、その演技のうちに描き出すために生まれてきた人間なのだ。そして、安蘭の演技を見守ることは、同時代に生まれた者だけに許された、生きる喜びなのである。
愛とは何度も苛酷な試練を問うものであって、表現への愛もまた例外ではない。退団作「My dear New Orleans」で安蘭扮する主人公ジョイは、音楽への愛を高らかに歌い上げた刹那、歌う場を失くすという試練に見舞われる。結局は、彼の才能を見込んだ音楽プロモーターの誘いを受けてニューヨークへ行き、成功を収めることとなるのだが、表現者の誕生を描く上で重要なのは、安易な成功譚ではなく、試練をどう乗り越えたかの方なのである。
試練はそれは何度もやって来る。うんざりするほど、手を変え品を変えて。だから、あきらめそうになる。くじけそうになる。実際、どこかであきらめ、その道を挫折する者も多いだろう。それでも、実にあきらめの悪い一握りの人間だけが、愚直なまでに表現への愛を貫き通す。才能がより必要なのは、続けることの方なのだ。愛を貫き通すことの方なのだ。そうして続けていくうちに、いつしか愛は豊饒な実りを見せる。
2009年4月26日、安蘭けいは宝塚歌劇団を旅立つ。
その長い在籍期間中に彼女が培い、勝ち得た表現。それは、主演男役という称号を超えて、安蘭に、安蘭のみに輝く、唯一無二の栄冠である。
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安蘭けい ニュースを見てみる(テレビ 2009-04-27 12:05)
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