藤本真由オフィシャルブログ

宝塚月組「エリザベート」舞台稽古に慄然[宝塚]
 10日午前、初日前の舞台稽古を見学。
 レプリーク最新号(vol.15)における、今作にまつわる瀬奈じゅん×霧矢大夢の対談を、私は「新たな『エリザベート』の地平へ」と題した。そして、誕生した舞台はまさに、これまでのプロダクションとはまったく異なる次元に展開されるものだった。これは、「エリザベート」の、宝塚における上演史のみならず、作品自体の上演史におけるコペルニクス的転回である。
 それを可能にしたのは、今回トート役に扮した瀬奈じゅんの、4年前の上演において男役ながらタイトルロールのエリザベート役に挑んだ経験であることは言を俟たない。その経験を不可欠とした上で、演出家・小池修一郎と瀬奈のコンビは、現在の宝塚を代表する白の正統派男役にしか演じることのできないまったく新しいトート像を舞台上に現出させることに成功した。それはまた、女性が男役を演じる宝塚においてのみ可能となるトート像でもある。今回、他組の若手男役を大抜擢し、タイトルロールを演じさせることが大きな話題を呼んできたが、その起用も、これほどまでの舞台効果を生むために狙ってなされた演出家の意図であるとしたら、恐ろしい話である。何しろ、ここで意図されているのは、一人二役と二人一役の同時進行に他ならないのだから。
 コペルニクス的転回を可能にしたもう一つの要因は、皇帝フランツ・ヨーゼフを演じる霧矢大夢の、これまたまったく新しいキャラクターの彫塑である。女性が愛の甘やかな夢を見るとされてきた宝塚歌劇の舞台において、甘い二枚目が、愛の対象であるはずの女性をここまで人間扱いしない様をはっきりと目の当たりにしたのは、2004年の宙組全国ツアー公演「風と共に去りぬ」で初風緑が好演したアシュレ・ウィルクス以来だ。一言でいえば、どこまで行ってもただひたすらに“ずるい”としか言いようのない男性像、そして、“ずるく”あるしかなかった彼の必然を、宝塚きっての実力派・霧矢が、持てる力のすべてを発揮し、淡々と演じてゆく。その男性像とは、突き詰めれば、野田秀樹が「THE DIVER」で問題提起したところの、日本において長らく続いてきた実にいびつな男女関係を成り立たせてきたものに他ならない。かくなる人物造形を可能にした、限りなく深い人間洞察と論理構築、感情の葛藤、つまりは、己自身も含めた人間一般へと向き合う真摯かつ峻厳な姿勢は、芸術家として、人間として、最大級の賛辞と尊敬に値する。宝塚での今後の活躍のみならず、相当に気の早い話ではあるが、退団後も役者として目の離せない存在である。
 二人の男役の対決が、今までの上演以上にはっきりした一つの軸として作品を貫く今回の「エリザベート」は、“愛”という名の戦場において、人々のエゴがぶつかり合い、火花を散らす、凄然なまでの生存競争を描き出してゆく。「誰も互いに愛がなかった。――だから、ナチスなるものが台頭した」とする、ウィーン版にきわめて近い精神ながら、宝塚版でしか成し得ないカタルシスを最終的に生み出し、宝塚歌劇を観る愉悦の極致を説く。それが、他の演出家による新たな発見ということではなく、日本における作品上演に長らくかかわってきた同じ演出家によってなされたことも、特筆すべきである。今回のプロダクション以上の舞台が可能になるのは、やはり、瀬奈じゅんがいま一度タイトルロールのエリザベートに挑んだときでしかないだろう。
 かくして、長らく構想してきた瀬奈じゅん論のパズルの最後のピースが嵌り、自分としても想像し得なかった絵図が展開されることとなり、嬉しくも驚いている。また、今回の舞台ではっきりと示されることとなった霧矢大夢の役者としての真髄についても、さらに詳しくふれる必要があるだろう。95周年を迎えた宝塚に、とんでもない舞台が誕生した。

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