藤本真由オフィシャルブログ

瀬奈じゅん論その1〜“白”の発見[宝塚]
 白の正統派男役を語るとは、ある意味、宝塚歌劇を正面切って語ることである。
 というわけで、構想二年余、瀬奈じゅん論、いよいよ登場である。

 明日は瀬奈の舞台を観る、会見や取材がある…というとき、無意識のうちに白い服に手が伸びている自分におかしくなるときがある。それくらい、私にとって瀬奈は“白”の人である。
 瀬奈じゅんという存在によって、私は、ある色が似合うということは、その人間の内面とどのような関わりをもつのかという、色彩心理学的にも非常に興味深い問題について、実に多くの発見と示唆を与えられた。この人は“白”の人であるという判断が下せるようになったのは、瀬奈の存在あったればこそである。もちろんこれは男役の判断のみにとどまるものではない。例えば、「三文オペラ」と「オットーと呼ばれた日本人」で主役を演じて大いに魅力を放った吉田栄作は“白”の役者である。
 瀬奈がある色を着る。すると、その色のもともとの明度と彩度が際立ってはっきり示される。赤とは、青とは、本来このような色であったのかと、目が拓かれる思いがする。クリームイエローのような微妙な色合いにおいても然り。
 もちろん、“白”の男役がもっとも似合うのは、白である。瀬奈の白は、無垢の白である。穢れなき白。まばゆい白。人生の何にも汚されていない、生まれたばかりの人間を思わせる白。
 色があるばかりが個性ではない。白は、個性である。ときに、実に強い。白をまとった瀬奈の舞台姿が、そう教えてくれた。

 宝塚のトップスターは白い二枚目の役が多いとはよく言われることである。個性派で鳴らしてきた男役の場合、二番手時代の方がおいしい役どころが回ってきて、トップになると白い役ばかり回ってきて似合わなかったりということはままある。では、白の男役が白い主人公を演じるとなると、どうなるか。
 正統派が正統派を演じる、まったき正統が現出する。つまり、瀬奈が演じれば、そこが、宝塚歌劇の正統の真センターなのである。かくして、トップになってからの瀬奈は、演出家思い思いの描く宝塚歌劇の正統をふられてきた。これは、トップになってさえ、己の野望のためには人殺しさえ厭わないようなダーティ・ヒーローをふられた、つまりはどちらかといえば“異端”と目されていた安蘭けいの、「安蘭で通れば宝塚の陣地拡大」とはまた別の、しかしながらそれぞれに重い苦労ではあった。
 トップ就任後、瀬奈の白の持ち味をもっとも興味深い形で生かしていたのが、正塚晴彦が作・演出を手がけた「マジシャンの憂鬱」である。このとき瀬奈は、透視能力があるとのふれこみで一躍寵児になるも、実際にはその能力のないことに“憂鬱”を抱いているマジシャン・シャンドールに扮した。
 私は、いわゆる“霊能力”の類は信じていないが、人間のもつ潜在能力はすべてがすべて発揮されるには至っていないと考える人間である。そうでなくては、極限状態に置かれた人間がときに人智を超えた力を発揮することの説明がつかない。当初、仲間の事前調査に多くを負うていたシャンドールには確かに、透視能力とまで呼べる力はないのかもしれない。けれども、瀬奈の白に宛て書きされたことを鑑みるに、シャンドールは、人の心を自分の心に映す能力がきわめて高く、それゆえ、普通の人間が見えないものがある程度以上見えてしまう可能性の高い人間であるように思われる。そう、まるで、白が、他の色の明度や彩度を際立たせてしまうように。
 そう考えると、白の“憂鬱”も納得がいく。白でない人間からすれば、自分の中のわずかばかりの白が相手の白に映し出されて満足かもしれないが、たとえどんなどす黒い色でも映し出さねばならない白の方はたまったものではないだろう。
 作中、そんな白の困惑をもっとも象徴的に示す場面があった。“超能力マジシャン現る”とはやりたつ世間の人々が珍妙な振りのダンスを繰り広げるのを、センターに立つ瀬奈が横目に眺め、一人遅れて振りを繰り返す、そのおかしさ。振りに、瀬奈が何か付け加えておかしく見せるのではない。その振りのもともとのおかしさを、“白”がそのままの通りに映し出すからおかしいのである。人の心や振る舞いのありようをそのまま映す“白”の魅力をあざやかにとらえた名シーンだった。