藤本真由オフィシャルブログ

ずるい貴方〜宝塚月組「エリザベート」霧矢大夢のフランツ・ヨーゼフ[宝塚]
 アナーキーな魅力にあふれていてあひるの大好きな本屋、ヴィレッジ・ヴァンガード高円寺店に、「マイ流しそうめん機」が入荷している。店頭、うず高く積まれた在庫の上に、ペコちゃん人形が立ち、頭に「もう流すしか無い」とのポップが飾られていて、その前を通るたび、「己は霧矢フランツか〜」と激しい怒りを禁じ得ないあひるであった――この暑いのに。
 そんな憤りを誘うほどに、霧矢大夢演じるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは流す。すべてを流す。流したそうめんを拾わないどころの騒ぎではない。もう、人生のあれやこれやを流しっぱなしである。それも、確信を持って。
 無論、このキャラクター造形には、霧矢の役者としての実に知的な計算がある。レプリークvol.15で行なった取材において明らかにしているところではあるが、霧矢は、実際のフランツ・ヨーゼフが何故、68年もの長きにわたって皇帝に在位し、86歳という天寿を全うすることができたのかというところから逆算して役作りしているのである。国内においても、国外においても、家庭内においても、あれほどまでに諸問題に苦しまされていたはずなのに、何ゆえ長寿? と。そうしてたどり着いたのが、「いろいろなことを割り切って流すことのできた」「一番ずるい人間だったんじゃないか」という結論なのだ。
 実は、これまでの「エリザベート」上演で多少ひっかからないでもなかったのがこの点だった。死だの何だの言っている割に、フランツもエリザベートも当時としては長寿の方なのである。もちろん、かくも苛酷な生に耐える宿命を神が与えたもうたという、運命論的解釈もあり得る。しかし、霧矢は、人間の生に対して実に知的で合理的な解釈を導き出した。
 流す。要するに、心を動かさないということである。日々直面しなくてはならない出来事すべてに、心を揺らさない。いちいち反応していては、消耗してしまう。同情など、もっての他である。
 霧矢のフランツは、登場シーンからすでに、確固たる信念をもって確固たる責任を負わないことに腐心している。政治マターの判断内容を母である皇太后ゾフィーや重臣たちに任せるのみならず、ときには判断を下すか否かさえ人に委ねる。自分では何も決めない。ずるいのである。
 もちろん、フランツにはそうせざるを得ない必然がある。皇帝である自分が元気に長生きして、オーストリアという国家とハプスブルクの御世を守ってゆくこと。それが、ただ一つの彼の生における責務なのである。それを全うするためには、すべてを流すずるさなど大したことではない、そう彼は信じている。というより、それ以外の生き方を彼は知らない。弱い人間なのである。
 そんな人間に愛を求められてしまったところに、エリザベートのかくも深き絶望と苦悩は始まるのである。

 今回ほど、バート・イシュルで、フランツが本来の見合い相手のヘレネではなく、その妹のエリザベートを見初めてしまうことに憤りを感じたことはない。フランツ的には、どうせ長い人生を一緒に過ごすなら自分の好みの女の方がいいし、姉も妹も大した違いはないだろうくらいに思っているのである。そして、エリザベートに愛を告げる銀橋での「嵐も怖くない」で、早速ずるさを発揮する。エリザベートの同情にいわばつけこみ、その愛を得て、自分と同じ責務を彼女の人生にも負わせようとする。愛という場においても彼は、判断を他者に委ねている。
 流すことのできるずるさをもった人間に愛を求められるとは、求められた側にとっては実に残酷な事態である。愛という、心の領域に関わる問題においても、ずるい人間は、自分の心を動かすことなく、愛だけを貪り得ていこうとするからである。愛という、それだけでは無力な、実にふわふわとした感情を、“関係”という形でこの現実にしっかり根付かせるためには、本来ならば、その両サイドにいる人間双方の努力が必要なのである。しかしながら、ずるい人間は、その努力を相手のみに委ねる。「愛している」といえば、それですべてが通ると思っている。
 だからエリザベートは、ときに“最後通告”のような極端な形で、フランツに問わねばならないのである。「貴方は私を本当に愛しているのか」と。「愛しているならば、それを今回ばかりは形に示してはもらえないものだろうか」と。「何故なら、こちらとしては、この関係を続けていく上ででき得る限りの努力をしてきたけれども、ここに至ってはそれももはや限界である。私という存在が貴方にとって大切というならば、この関係が貴方にとっても大切だというならば、貴方の方でもそれを大切だと思い、努力をしているという証拠を見せてはもらえないだろうか。それが実際、何かの役に立つかどうかはわからないにせよ、証拠を与えられたという一点において、こちらとしても、困難な努力を続けていく覚悟ができるかもしれないから」と――。
 皇帝という立場の人間を愛で支える方の人間にだって、感情があり、人生があるのである。人は、自分という人間の精神的限度を超えてまで人を愛することはできない。フランツにとっては国家と御世を守ることが一番大切なのかもしれないが、妻だからといって、エリザベートにとっても必ずしもそうとは言い切れない。けれども、“愛”という魔法の言葉を使えば、フランツはその差異を不問に付せると思っている。自分にはそうするだけの権利があると思っている。“国”のトップだから。帝国随一の“スター”だから。忙しいから。他にやることがあるから。時間がないから。
 ――ずるい、あまりにずるい人。弱い人。他人を本当に愛したことのない、かわいそうな人。ずるい、ずるい貴方。

 心を動かさずに生きてきたそんな人間の心のうちにも、愛を求めてやまない弱さがある。そんな人生の陥穽を、霧矢はフランツ・ヨーゼフの一生の中に淡々と描写してゆく。その哀しさのクライマックスが、「夜のボート」のデュエットである。人生の黄昏時に至ってもなお、フランツは人を愛するということの何たるかを理解してはいないし、しようともしていない。それぞれの人生に違う運命を背負った人間が、互いに自立した人間として向き合い、心のうちを互いに傾けること。生まれながらにそれぞれ孤独な人間が、その一点において、確かにつながり、一人では到達し得ない境地に至ることのできる至福。愛は結局、究極的な意味においてはフランツの人生に訪れることはなく、晩年に至ってその事実ももはや十分知りながらも、なおも己の無理解を理解しようとはしない。
 「一度私の目で見てくれたなら/君の誤解も解けるだろう」
 そう歌うフランツこそ、人生、エリザベートの目で見ようとしたことなど一度たりともない。
 愛の喜びを説いて観客にいっときの夢を与える宝塚歌劇の舞台において、かくもはっきりと愛の不可能性を示し、それでいて、かくも魅力的な貴公子として立ち現れる矛盾。名演である。
 思えば、前回2004年の月組での本作上演時も、霧矢は一ひねりも二ひねりも施したルキーニの造形で驚かせてくれた。このときの「エリザベート」は、すべてが、霧矢ルキーニが創り上げ、観客を幻惑する光景に見えた――。自分がエリザベートを暗殺した理由を説明するために、トート=死というキャラクターを持ち出す。このときトートは、皇后と一介のアナーキストという身分、立場の違いゆえ、決して結ばれることのないエリザベートと愛し合うためのルキーニの“形代”であった。何とも不思議な見え方のする「エリザベート」だった――との、そのとき受けた非常に強い印象は後に、霧矢本人との取材の場で確かめられることとなり、優れた表現を受け取ることのできた幸せを覚えた。
 知的で、実に深遠な人間観察眼。――ときに、観ている人間の背後にそっと回り込み、その首筋に冷たいナイフの刃を当てるような。こんなにも人間存在について達観してしまったところのある、しかも、それを表現する力にも不足のない役者が演じる人間ならば、男であれ、女であれ、楽しみでしかないというものであろう。