藤本真由オフィシャルブログ

「蛮幽鬼」
 長きにわたって友人だと信じていた人間に、実はずっと利用されていただけだとしたら――? “巌窟王”を思わせる主人公によって凄絶な復讐劇が成し遂げられんとする劇団☆新感線「蛮幽鬼」が最終的に突き付けるのは、そんな厳然たる問いである(7日18時の部、新橋演舞場)。“友人”の助けによって、己の積年の願い――この場合は“復讐”だが――は叶って、けれども、すべてはその“友人”自身の“復讐”に利用されていただけなのだとしたら?
 “愛”と“利用”の行為の線引きはどこまでいっても難しい。100パーセント無私なる愛は、この世に存在し難い。人それぞれが自我を備えた存在である以上、そこに僅かなりとも“私”が入り込むことを防ぐ手立てはない。だからこそ、“愛”からなされていたはずの行為は容易に“利用”の行為へと堕する危険性を常に孕んでいる。
 “愛”をどこまでいっても“利用”の行為に貶めることなく貫き通すには、凄絶な覚悟と、“利用”のことなど何も知らない、“愛”しか知らないと、自分自身をも欺き通すような“はったり”が要る。その二つの剣でもって、己の想いを“愛”として貫き通すより他に道はない。“利用できる/できない、利用される/されない”の観点からでしか人と接することのできない人間は、本当の意味での愛を知らない。そんな人間が恥じ入るほどに、凄絶に愛し抜いてしまう他ない。その種の手合いにとっては空恐ろしいことだろうけれども、実は、“利用”など知らないと嘯く愛こそが、彼らに対する最大の“復讐”なのである。
 爽やかな笑顔を浮かべた“友人”、殺人者・堺雅人の造形が、背筋が薄ら寒くなるほどに凄まじい。物語が最終的には、僅かばかりとはいえど“愛”の光を指し示すことに、救われる。