藤本真由オフィシャルブログ

「書けない!」もとい「弾けない!」〜月組公演総集編[宝塚]
 原稿が書けなくて、手を変え品を変え自分を励ましてみてもどうにも書けなくて、そのまま一ヵ月くらい経過して本当に困ってしまったある日、宝塚に出張して、取材終了の後、キャンセル待ちして月組公演「ラスト プレイ」「Heat on Beat!」の二度目の観劇をしていた。ピアノなんてもう弾けないと訴える瀬奈じゅんのアリステアに対して、霧矢大夢扮するムーアが、死ぬわけじゃないんだからとにかくピアノの前に座って何とかしろ! と檄を飛ばしていて、…何だか、死ぬわけじゃないんだからとにかくパソコンの前に座って何とか書け! と自分が言われているようで、胸が衝かれる思いがした…。そして、アリステアじゃないけど、弾けない、じゃなかった、書けないって、本当に、本当につらいんだよ…と、心の中で思わずムーアに訴えかけていた…。そんなこと言ったら「甘いっ!」ってまた怒られてしまうかもしれないけれどもと思いつつ。
 書けない理由はわかっていた。文章はほとんど私自身とイコールである。文章を否定されることを通じて私自身を否定されるという手痛い経験をくりかえすかもしれないと思ったら、そんなことまっぴらだ、今度はもう耐えられるかわからないし…と思って、だから、一字たりとも書けなくなってしまったのである。しかし、それは一方で、ある意味、私自身の“死”をも意味していた。――私は何より、すばらしい芸術、美にふれること、それを自分の思い感ずるがままに文章に書き表わすことによって、生きる喜びを得ている人間だからである。生きて何かを感じ、考えている以上、書きたいことはあって、けれどもそれが書けなくて、書けない以上、もはや自分は死んでしまった方がいいとさえ一時は思いつめていた。何だか不思議な話である。たとえ表現を通じて自分自身を否定されたとしても、別にそれで死ぬわけじゃないだろう、とムーアは励ましているわけだが、その言葉に大いに納得する一方で、死ぬわけじゃないそのことがどうしてもできなくて、死んでしまった方がいいと思っていたのだから。――そこまで考えて、ああ、そうか、「ラスト プレイ」とは、作・演出の正塚晴彦にとって、自分の演劇的良心と対話を遂げる話なのだなと思い至ったのである。物を書く人間である以上、正塚自身、筆が進まなくて苦悩することも大いにあるだろう。そして、書き上げた脚本を酷評され、自分自身が否定されたと感じて思いつめたことが一度もなかったとは言いきれまい。もう書けない、書くことなんてできなくていい――そこまで追いつめられたときに、劇作家自身が、自らが演劇に向かう初心、良心といま一度向き合って、交わす会話。それが、アリステアとムーアのあの、「弾け!」「弾けない!」の火花を散らすようなやりとりなのである。だから、アリステアとムーア、あのときのどちらの言い分が正しいとも言い切れない。どちらも同様に正しくて、そして、どちらを選ぶかは、その者自身が自分の表現に対してどれだけ愛と勇気を揮えるかにかかっているのだろうと思う。。いま一度、自分の心を打ちのめされることがあってもかまわない、それでも書きたい、と思えるほどに。
 私が、書くに書けなくなっていた原稿に再び取りかかり始めたのは、その観劇から三日後のことだった。

 さて、ここで気分を変えて、楽しい部門の発表とまいりたく。今回の公演の“心のキャラ”は、「ラスト プレイ」のちょっとというか大ボケのチンピラ、ヴィクトール役の桐生園加! 相棒のジークムント相手に「俺は去る」「猿になるのか?」なんて珍問答を繰り広げ、ついには歌ってしまう役どころに、「キス・ミー、ケイト」で「学ぼうシェイクスピア」を軽快に歌い踊る二人組のギャングを思い出した次第。いやみなく屈託なくさらっと笑いを取れるところがいい。
 桐生といえばダンサーとして知られる人材だが、前回大劇場公演「エリザベート」の黒天使役でも、そのキレのあるダンスにコミカルな味がピリリと効いて、秀逸な表現となっていた。トートおよび黒天使のそもそもの造形には、ペスト流行後の13〜15世紀のヨーロッパで流布された“死の舞踏”なる表現様式の影響が少なくないと思うのだが、この“死の舞踏”の絵画・版画においては、“死”によって先導された人々の墓場への行列が、グロテスクかつほとんどコミカルというような動きの骸骨で描かれている。皇太子ルドルフを死にいざなうシーン、ルドルフと一瞬絡む桐生の踊りには、カクカクとした鋭角的な動きに、“死の舞踏”の骸骨のヴィジュアルを思わせるコミカルさを感じさせるものがあった。
 男役としては、さわやかさ薫る明るい“白”の個性の持ち主である。花組仕込みの黒燕尾服姿も粋な限り。今後もダンスリーダーとしての活躍を大いに期待。
 ちなみに、前回発表し損ねてしまって非常に申し訳なかった「エリザベート」の“心のキャラ”は、一色瑠加扮するツェップス。ルドルフやハンガリー貴族たちを革命へと導きつつ、人々が熱い情熱に駆りたてられている傍らで、「こいつら、こんな甘ちゃんばっかしで大丈夫かな〜」とどこか達観しているようなクールな眼差しが印象的だった。その読み通り?、ルドルフは父帝を説得できず、蜂起は失敗に終わってしまうわけだが、それに懲りた一色ツェップスが、「やっぱり貴族は、だめだな」と思って今度は市民革命を準備した…かどうかは神のみぞ知る。一色は今回の「ラスト プレイ」でも、一人いい感じに空気の読めない、融通の利かない殺し屋を、これまた笑いを取りに行くわけでもなく実に淡々と演じていて、結果笑いを取っていたのが◎。

 そして、今回の“心の名場面”は、ショー「Heat on Beat!」で“S”こと瀬奈と“K”こと霧矢がフランク・シナトラのメドレーをデュエットする「S&K」のシーン! 先日、全然違う公演を観に行ったら仲良しの某社演劇担当H嬢と会って、終演後の楽しいお茶のひととき、観に行った公演そっちのけでこのシーンの話で盛り上がり、帰宅後、「藤本さんのせいとは言いませんが、あれから頭の中でずっと瀬奈さんと霧矢さんが歌っていて、昼の公演で聴いた歌が全然思い出せません…」とのメールが。ふふ、“心の名場面”の威力や恐るべし。
 このシーンを形容するにもっともふさわしい言葉はと言えば、先の雪組公演「ロシアン・ブルー」で汝鳥伶のミハイル・ゲロヴァニが水夏希扮するアルバート・ウィスラーのルックスを形容するに捧げた「ゴ〜ジャス」、その一言に尽きる。タキシードに白スカーフという、粋とはいえ実にシンプルな装いで、あの大劇場空間に出ているのはたった二人だけ、それでも「ゴ〜ジャス」なこと極まれり。ということは、このシーンは、“ゴージャス”とはいかに表現され得るべきかを問いかけるものでもある。それは必ずしも、人数の多さや衣装の華美さで表現されるものではない。真のゴージャス、豪華さとは、その人間のもつ格やオーラによって表現され得るものなのである。これぞ、スターの輝き。

 最後に、今回の特別部門の発表。
 2002年、「TAKARAZUKA SKY STAGE」の開局記者会見の後、初代スカイ・フェアリーズのコメント取材をしたことがある。10人一緒の座談会形式で、それぞれに話をふるのに四苦八苦した覚えがあるが、そのとき、出演してみたい番組は? という問いに、「どっきり番組をやってみたい」と、特にウケを狙ったというわけでもなく実に素直に答えて、娘役なのに気取ったところがなくておもしろい人だなと思った、それが城咲あいだった。
 新進娘役時代は、当時の娘役トップ、映美くららが子供っぽい個性の持ち主だったゆえに、何だか大人っぽい役をふられることが多かったけれども、ダンス場面等で彼女と同期の憧花ゆりのが並んではじけて踊っているのを見ると、「さすが夏河ゆら率いる月組の娘役陣、元気がいいなあ」と、観ているこっちまで元気がもらえる気がしたものである。コメディセンスも抜群だった。「暁のローマ」の新人公演でカエサルに群がる愛人ズの一人に扮したとき、一挙手一投足のおかしみに目が釘付けになったこともある。「HOLLYWOOD LOVER」のヒロイン・ローズ役では、大女優のゴージャスな衣装の着こなしに目を見張ったばかりでなく、大空祐飛とのフィナーレでのデュエット・ダンスには、星奈優里以来の大人の女性の色気を感じさせて圧倒するものがあった。そしてもちろん、海外ミュージカル作品において娘役としての地平を拓いた「ミー・アンド・マイガール」のジャッキー役と「エリザベート」のゾフィー役。「Apasionnado!!」と今回の「Heat on Beat!」で発揮した、ショー・スターとしての魅力――。
 色っぽくて、かわいらしくてコミカルで、無心にはじけまくったダンスがエネルギッシュで魅力的。それでいてどこか、自分の生き方を通すしかない自分のかたくなさ、愚直さを自分自身よく知る知性を感じさせる、彼女の娘役像が大好きだった。城咲あいは、私の中では、“心のトップ娘役”だ。

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