藤本真由オフィシャルブログ

2009年あひる心のベストテン発表!!!
 今年の選考基準は「闘う」。人生との闘い。己との闘い。――私自身、「生きてゆくことを選ばない女なんて嫌い」という名セリフ(岩松了「西へ行く女」より)を何度自分に言い聞かせたことかわからないくらい、闘っていた――。

☆彩の国シェイクスピア・シリーズ「冬物語」(1月、彩の国さいたま芸術劇場大ホール)

 「冬物語」の主人公、レオンティーズの嫉妬は、「オセロー」のオセローのそれとはまた種類が異なる。というのは、オセローのそれがイアーゴーによって吹き込まれた結果発露したものであるのに対し、レオンティーズの嫉妬は己の内から生まれた純然たる結晶だからである。その者が純粋で知的であればあるほど、嫉妬を組み立てる論理は強固かつ純然たるものにならざるを得ず、その結果、心はほとんど逃げ道のない状態に据え置かれる。こうしてレオンティーズは妻ハーマイオニの愛を疑い、彼女とその愛を長きにわたって失うこととなる。そんな長い長い心の“冬”を過ぎて最終的に彼が得た至福、それは、愛の対価とは愛そのものに他ならないという厳然たる真理である。己が愛し、信じる者が、己を同様に愛し、信じ、同じ今のこの世に生きているという至福――。荒唐無稽なロマンス劇からかくも美しき真理を引き出した演出・蜷川幸雄の手腕に脱帽。

☆新国立劇場オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(5月、新国立劇場オペラパレス)

 5月1日18時半の部観劇。久々に美の持つ絶対的な力に圧倒された夜だった。性行為の描写として名高い第一幕ラストの「ポルノフォニー」のあまりの美しさに、心を覆う防御被膜をするするとすべて剥ぎ取られていくような思いで、暗闇の中、ただただ呆然と涙を流していた−−。
 「娘」から「妻」になった者には、「女」の時代がない。彼女の性的自律決定権は、家の男、すなわち、「父」から「夫」へと売り渡されている。性とは、己の身体感覚を通じて自己を把握し、一人の人間として成長を遂げてゆく上で欠くべからざる要素である。それすらも親のものであるとしてその成長を阻害するからこそ、近親相姦は自我の尊重という観点からいってもっとも忌むべき犯罪であるとは、同じ月、同じ新国立劇場の小劇場で上演された「タトゥー」の明らかにするところではあった。「ムツェンスク郡のマクベス夫人」は、不能の夫と色目を使う舅との日々に倦み、使用人との関係に新たな自分を見出すが、彼女がたどる凄惨な運命はあるいは、女の自我の確立など不要であるとする社会からのある種の制裁だったのかもしれない――。

☆「雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた」(5月、シアターコクーン)

 この舞台に出会うために生きてきたのだとすら思える一本。
 八年前に亡くなった祖母は、宝塚歌劇が大好きだった。まだ新幹線のない時代、特急電車に乗って豊中から上京し、東京公演を観に来るなど、当時としては“不良娘”だったという。しかしながら、その祖母と私は、実は宝塚の話をほとんどしたことがない。亡くなってから、祖母がそんなにも愛した宝塚歌劇とは祖母にとっていったいどんな意味をもつものだったのか、聞いておかなかっただけに気になって、それで、日本演劇史、そして日本の女性の生きてきた歴史において宝塚歌劇が果たしてきた役割をとりわけ深く考えるようになった。そんな私の道のりはある意味、作中描かれる「石楠花少女歌劇団」復興の試みにも似ていた−−。
 そして、作品の舞台であるデパートは、「カルトQ」デパートクイーンであった私にとっては研究対象の一つである。劇場と並び、都市を都市たらしめる装置。個人的には、パリにおけるその発祥からの流れから、アトリウム(吹き抜け)のないデパートはデパートではない! と思っているのだが、そのアトリウムの下の大階段で夜な夜な繰り広げられる少女歌劇団復興へ向けた稽古に興じる人々の姿は、どこか、今や人の姿消えた廃墟に再び集う亡霊たちの姿にも似て。
 かつての歌劇団の名コンビを演じる三田和代と鳳蘭が再会を果たし、繰り広げる大バトルシーンはそのまま、1982年のこの作品の初演時、久々コンビとしてタッグを組んだ劇作家・清水邦夫と演出家・蜷川幸雄の、日本演劇史に残る“大喧嘩”の再現、ひりひりとするような芸術家同士の魂のぶつかり合いである。言葉を紡ぐ者とその言葉を現出せしめる者との大バトル。けれども二人だけが、それが互いでなくてはならないことを知っている。何たる愛。二人の関係に、私はほとんど嫉妬する。

☆ミハイル・プレトニョフ指揮、ロシア・ナショナル管弦楽団「運命」(7月、サントリーホール)

 http://daisy.eplus2.jp/article/123173355.html

 楽聖と踊った夜。

☆プロペラ「ヴェニスの商人」(7月、東京芸術劇場中ホール)

 イギリスの男だけの劇団「プロペラ」の初来日公演。
 主宰のエドワード・ホールは、かつて日本留学中、宝塚観劇をきっかけに男だけのシェイクスピア劇団の構想を得たという。上演されたもう一本のこれまた素晴らしい作品、「夏の夜の夢」を先に観て、その理由が私なりに理解できたように思い、その後の初日パーティで直接ご本人にうかがう機会もあり、我が意を得たりという思いだった。彼は宝塚について、「ジェンダーとはまったく関係のないところに成立する舞台」と語る。宝塚を観るとき、そして、プロペラの「夏の夜の夢」を観るときに私が味わった同じ至福とは、この、社会により拭い難く負わされたところの性的役割分担から解き放たれる自由である。
 その結果、「夏の夜の夢」では、ヘレナに大きなスポットが当てられることとなった。自分とは別の女、ハーミアを追う男ディミートリアスを追って森にやって来たヘレナは、惚れ薬のせいで、ディミートリアスだけでなく、ハーミアの恋人であるライサンダーにも追われることとなる。意識的であるにせよ無意識であるにせよ、ここに私は、演出家自身の好みの女性像の反映とその逆像とを、ハーミアとヘレナの造形に感じざるを得ないところが多い。けれども、すべての役柄を男が演じてジェンダーから解き放ったとき、ここに、「恋を追う者」としての役割が与えられたヘレナが現れる。そして、「恋を追う者」としての役割を長い間忠実に「演じて」きた者は、惚れ薬により突然に「追われる者」としての役割を与えられても、すぐには適応できず、演じ切れない。それが劇中、ヘレナのたどる混乱ではあるが、彼女が新たな役割を素直に受け入れ、よって幸せを受け入れたときの、ほのぼのと心に広がる幸福感を、私は忘れることができない。
 一方、「ヴェニスの商人」においては、物語はすべて、閉鎖的な男性刑務所での出来事として展開される。ここで繰り広げられる異教徒差別は、閉鎖的な環境を映して陰惨極まりない。そして、親子も恋人も、すべての関係は刑務所内での擬製であり、ここでの女とは、男性同士の性行為における「女役」として演じられるものである。だから、「女役」を務めていたポーシャが「男装」して裁判を行なうシーンは、女性性を演じていた者が男性性に立ち戻って登場するに過ぎず、正体が明かされたときのあっけなさたるや痛快なほどである。この斬新な視点に基づく演出が鋭く抉り出すところとは、社会における人間関係とはすべて、何かの役割を互いに演じることによってのみ成り立っているという真理である。作品途中に登場し、そしてラストにもう一度繰り返されるセリフ、「どちらがキリスト教徒で、どちらがユダヤ教徒か」はすなわち、こう問うている。「今、お前が立っているのは、差別する側と差別される側、どちらなのか」――と。

☆宝塚月組「エリザベート」(7〜8月、東京宝塚劇場)

 舞台稽古 http://daisy.eplus2.jp/article/123375926.html
 霧矢大夢のフランツ論 http://daisy.eplus2.jp/article/124718704.html
 心のキャラに言及 http://daisy.eplus2.jp/article/136655817.html
 瀬奈じゅんのトート論 http://daisy.eplus2.jp/article/136662644.html

 宝塚を代表する白の正統派男役・瀬奈じゅんが、かつてヒロインを演じた経験を生かして創り上げた、トートとエリザベートの一人二役、エリザベートの二人一役が同時進行する画期的な「エリザベート」。そんなトート/エリザベート像の現出のまったき裏打ちとして確固と存在する、知性的実力派・霧矢大夢の造形した、“ずるい男”というこれまたまったく新しい皇帝フランツ・ヨーゼフ。トップスターと二番手男役が限りない拮抗を見せるときにのみ散る、閃光にも似た鮮やかな火花。
 つらい現実を生きるよすがとしてエリザベートが生み出したかくも美しき死の幻想、トートは、そのまま、宝塚の男役論とも重なる。日本の男性性に対するかくも甘美なる復讐がそれにしてもまあよく存在したものだと、客席でほとんど嘆息せざるを得なかった――。

☆ザ・ダイバー 日本バージョン(8月、東京芸術劇場小ホール1)

 現代日本を切り取ってもっとも志高き一本。そして、出会うために生きてきたのだと思える一本。
 「源氏物語」の世から、日本の女とは「待つ」存在だった。現代において妻ある男と不倫の関係に陥った女もまた、男を待たざるを得ず、不倫相手と妻、二人の女の恨みは、その対象たるべき男ではなく、待つ存在としての女同士に向けられる。そして、凄惨たる死がもたらされる。そう、「源氏物語」の時代のように。
 私自身、日本の女として、ずっと何かを待っていた部分がないとは言い切れない。10代の終わり頃から内なる女性性の混乱に悩まされ続け、それを確固として規定してくれる“何か”“誰か”を追い求めていたように思う。男も女も関係ない、人として魅力のある存在を愛したいし、そういう存在に愛される人間になりたい――そう肩の力が抜けたのは、ここ数年のことだ。そう割り切ってから楽になって、己の女性性も素直に受け入れ、発揮できるようになった。2009年は私にとって、かくも長きにわたって混乱し続けた己の女性性が最終収斂を迎えた年だった。格闘の果て、私はついに自分の「女」を手に入れたのである。
 だから私は、もはや何者をも待たない。男も、他者も、救済も。ときに、ひりひりするほどに、自分の志す道を一緒に歩いてくれる存在を求めてやまない孤独の渇望を覚えるけれども、――けれども、己の孤独とはそうそう容易に手が切れるものではないこともまた、今年改めて打ちのめされた真理ではある(苦笑)。己の道を歩くのは己のみであって、その道がたまさか他者と重なる瞬間を束の間の至福とこそ感謝するべきなのだろう。

☆「コースト・オブ・ユートピア」(9月、シアターコクーン)

 仕事にも追われず、心に何の悩みもない状態でゆっくり観劇を楽しめたらどんなにか深く受け止められることだろう――以前はそんな願いを抱いていた。けれども、自分が生きることに追われ、苦悩しているからこそ、作品に立ち現われる芸術家たちの苦悩をもまた感じ取ることができるのだと教えてくれたのは、チェーホフの作品群だった。ロシア革命へと続く激動の時代を生きた19世紀ロシアの知識人たちを描くトム・ストッパード作「コースト・オブ・ユートピア」は、そのチェーホフさながらの会話劇が展開される一方で、ときおり、魂に突き刺さるような対話のクライマックスが現出する。第二部と第三部にある、阿部寛扮する思想家ゲルツェンが幻想の中で勝村政信扮する革命家バクーニンと対峙する場面は、私にとってはほとんど、ワーグナーのアリアのような趣だった。
 己の生まれ育った国家をいかに改革すべきか苦悩する一方で、生活に恋に同様の苦悩を見せる熱き知識人たち。どちらの苦悩がよりレベルが高くて、どちらが低いということはあり得ない。なぜなら、実生活上の苦悩とは思想に多大なる影響を与えるものだからである。逆に、そのような実生活上の苦悩の裏打ちない思想など空虚なものに過ぎない。
 あがき、苦しめ。絶望の底に這いつくばっても、そこから立ち上がるとき、何かを掴んでいればいい。私は何より、美を、人間を、世界をさらなる深みで理解したいと願い続ける人間であるのだから、どんな絶望を与えられようとも、最終的にすべてにより深い理解が得られていれば、それでいいではないか−−。
 本当にそう思って観劇していたのだが、このとき、実生活であまりにも絶望が打ち寄せ続けていたため、こう書き記すまでにかくも長き時間がかかってしまった。やっぱり、私もまだまだである(苦笑)。
 純粋性と瞳の中の狂気とを両立させた勝村が出色の出来。そろそろ覚悟を決めて、決して“おいしい”ばかりではないかもしれない主役の任を背負って堂々と立つべきである。

☆マリス・ヤンソンス指揮、バイエルン放送交響楽団withヨーヨー・マ(11月、サントリーホール)

 ドヴォルザークの「チェロ協奏曲ロ短調」を、ヨーヨー・マは抑制をもって演奏する。最初のうちは物足りなく感じていたのだったが、そのうち気づいた。
 例えば、悲しみ一つとっても、その感情は人それぞれである。ヨーヨー・マの抑制とは敢えての抑制であり、悲しみの普遍性を表現し得る最大公約数としてギリギリのところに存在する。だから聴く者は、内なるそれぞれの悲しみをその音楽に聴くことができる。ヨーヨー・マの音楽は、そのようにして聴く者すべてを包容する。そして、聴く者すべての存在を肯定する。「君がそのような悲しみを味わったとして、涙がそれに値するのであれば、僕はかまわないと思う。泣きたければ、泣きなさい」と優しく心を慰撫されたようで、――顎がしとどに濡れるほど、私は泣いていた。
 アンコールで演奏したバッハの「無伴奏チェロ組曲第6番よりサラバンド」と「無伴奏チェロ組曲第三番よりブーレのNo.1とNo.2」は、今日、ここで皆様と会うまで、私はこうして生きてきました――と語りかけるような響きで、私の脳裏には何故か、晩秋のニューヨークの道を一人歩いて遠ざかってゆくアーティストの後姿が浮かんだのだった。
 マリス・ヤンソンス指揮のオーケストラも力強くも軽快、痛快で、ワーグナーの音楽のかっこよさとエンターテインメント性をギリギリまで引き出すサウンド。泣いて笑って楽しい一夜!

☆Kバレエカンパニーの一連の公演

 芸術監督・熊川哲也のもと、ますます充実した活動を展開するKバレエカンパニー。今年も、「ピーター・ラビットと仲間たち/放蕩息子」、「ジゼル」、「第九/シンフォニー・イン・C」、「ロミオとジュリエット」、そして年末の「くるみ割り人形」と、素晴らしい舞台を見せ続けてくれた。
 新作「ロミオとジュリエット」の演出と振付を手がけ、数々の舞台で主演として円熟のパフォーマンスを展開した熊川の八面六臂の活躍ぶりは言わずもがな。それに加えて、プリンシパル陣もそれぞれの個性を大いに発揮、今年入団したばかりの新星・浅田良和の登場という話題もあった。なかでも特筆すべきは、男性陣では清水健太、女性陣では荒井祐子の充実ぶりだろう。二人組んでの5月の「ジゼル」は、セリフない中にはっきりと二人の心情、その呼応が語られ、幕切れの別れが涙を誘わずにはおかない素晴らしい舞台だった。年末の「くるみ割り人形」ではコンビでの登場はなかったが、清水は松岡梨絵と組んで絶妙のパートナーリングを披露、ダンスール・ノーブルとして客席を魅了し、荒井は、生きて踊れる喜びに満ちた世界を祝福する舞で「くるみ割り人形」の夢の世界の現出に大いに貢献した。
 作品群はどれも大いに見どころあるものだったが、なかでも「くるみ割り人形」は、世界に誇れるレベルの演出だと思う。無駄なく音楽を生かして深みある物語を展開する舞台運び、北海道出身の熊川の大自然への畏怖の念が美しく描かれる激しい雪の場面、そして、全編にちりばめられた、人が生きる上での何よりの活力である“夢”を無邪気に見ることのできる子供時代への大いなる祝福の念――。これは、己のバレエ団を立ち上げるという夢を実現させた一人の偉大なるdreamerからの、よりよき明日を実現するために夢見、それを叶えようと生きるすべての人のための贈り物なのである。

 迷った作品は他に、「現代版・桜姫」、ボリショイ・オペラ「エフゲニー・オネーギン」、マリインスキー・バレエ「白鳥の湖」。
 ちなみに、今年のあひるブログの中で個人的に一番書く喜びを得られたのは、<ずるい貴方〜宝塚月組「エリザベート」霧矢大夢のフランツ・ヨーゼフ>(http://daisy.eplus2.jp/article/124718704.html)。ということで、今年のインスピレーション大賞は霧矢大夢に決定! 年末の公演「ラスト プレイ」でも、私の思考の死角を突く造形で、「エリザベート」に続き一本取られたという感じ…という話は今度また詳しく項を設けて論じるとして。来年の「スカーレット・ピンパーネル」(ともちろん、その前の中日公演も)が楽しみな限り!