「ロジェ」という名の“復讐”〜宝塚・正塚晴彦[宝塚]
 宝塚雪組公演「ロジェ」を観ていて、私は、作・演出の正塚晴彦の心と“対話”していた。何度も泣いた。
 前作「ラスト プレイ」について、昨年暮れ、私はこう記したものである(<「書けない!」もとい「弾けない!」〜月組公演総集編>http://daisy.eplus2.jp/article/136655817.html)。
<「ラスト プレイ」とは、作・演出の正塚晴彦にとって、自分の演劇的良心と対話を遂げる話なのだなと思い至ったのである。物を書く人間である以上、正塚自身、筆が進まなくて苦悩することも大いにあるだろう。そして、書き上げた脚本を酷評され、自分自身が否定されたと感じて思いつめたことが一度もなかったとは言いきれまい。もう書けない、書くことなんてできなくていい――そこまで追いつめられたときに、劇作家自身が、自らが演劇に向かう初心、良心といま一度向き合って、交わす会話。それが、アリステアとムーアのあの、「弾け!」「弾けない!」の火花を散らすようなやりとりなのである。>
 このたびの「ロジェ」という作品では、正塚は、かつて自分の心を踏みにじって追いつめ、書けないような状態に追いやった過去の事実について、ときに率直すぎるほどに語る。家族を無残に殺された主人公ロジェは、24年もの間、復讐の念一筋に生きてきて、結局はその殺した相手を殺さない。一見、復讐は成らなかったように見えるけれども、劇作家自身は、この作品を書き上げたことで見事に“復讐”を果たしている。あっぱれという他ない。表現者は、自分の選んだ表現手段で“復讐”を遂げるべきなのである。
 24年間も憎んできた相手を、殺そうと思えば殺せたけれども、結局は殺さなかった。それは、ロジェが、そのように無残に人を殺せる人間など人間ではなく、獣でしかないと固く信じてきたにも関わらず、いざ向き合った相手シュミットは、どうしようもなく弱さを内包した、人間だったからである。収容所にいる全員の処刑命令を拒んだおかげで死を宣告されたシュミットが、逃亡して飢え、食料を探して盗みに入ったのが少年ロジェの家だった。ロジェの父親に発砲されたシュミットは、ここで死ぬのか……という一心でナイフで応戦してしまったのである。獣と蔑み、憎んできた相手もまた、人間でしかなかった。そんな厳然たる事実を突き付けられたロジェは、シュミットを殺さない。殺せない。
 追いつめられて、人を殺す人間と、殺さない人間とがいる。シュミットは前者で、ロジェは後者で、けれども、どちらもやはり、人間である。そして、殺す人間の中にもやはり、“清く正しく美しく”は存在するのかもしれない――。人間存在をここまで描き切ってしまったことで、もはや、宝塚歌劇においては安易な復讐譚は成立しない。その意味で、「ロジェ」は宝塚歌劇の新たな地平を拓く作品なのである。傑作である。
 「ロジェ」は雪組トップスター水夏希の退団公演にあたる。退団公演において、佳作が生まれることは決して少なくないが、傑作が生まれることは決して多くはない。惜別の念があふれすぎてしまうケースも少なくない。「ロジェ」の前、文句なしに傑作だったと言えるのは……と歴史をたどって思い浮かぶのは、かつて正塚自身が、正塚の作品世界を誰よりも巧みに体現できる男役として名高かった月組トップスター・久世星佳のために書いた「バロンの末裔」(1996〜1997)である。貴族家の次男坊を演じた久世が、生家を去るにあたり、「(私は)バロンの末裔なのだから!」と高らかに言い切るシーンは、宝塚を去るにあたり、卒業生としての誇りをもって生きていってほしい……との、正塚の思いがこめられた名場面だった。久世と、トップ娘役の風花舞が緊迫したやりとりを重ね、深く愛し合いながらも結局は別離を選ぶ“雉打ちの場面”も、芝居作品におけるトップコンビの可能性の一つの頂点として、今も深く心に残っている。

 「バロンの末裔」から13年の時が流れて、雪組トップスター水夏希が、「ロジェ」で退団する。水は月組での下級生時代、「バロンの末裔」に出演していたという縁がある。2008年の「マリポーサの花」もそうだが、水夏希は、正塚晴彦に一歩踏み込ませてしまう、書かせてしまう男役なのである。人生の途に迷いたたずむ男性像の魅力を多く書いてきた正塚が、水に対しては、能動を、行動を書いてしまう。能動を書き切る行為こそ、また能動に他ならない。そして、水夏希ならば演じられる――と、劇作家の真摯な思いを手渡されることは、演者にとって最高の餞でなくてなんであろう。
 作品は、銀橋にたたずむロジェが、舞台上を埋め尽くす雪組生と共に、人と人との出会いの不思議とその尊さを祝福して歌い、見送られて花道を去って終わる。憎んだ相手シュミットも含め、登場人物全員に見送られるロジェ。その姿は、今、宝塚歌劇に別れを告げる水夏希の姿とそのまま重なる。何か不思議な運命に導かれて、人は出会い、束の間の時を共に過ごし、別れてゆく。それが人生の必然である。“卒業”の制度のある宝塚で、ときにとりわけ明示的になる必然である。多くのタカラジェンヌと出会い、作品創りに情熱を共に傾け、そして、別れがあったこと。ここで正塚は、宝塚における己の表現者としての人生を肯定する。そう、「ロジェ」は、宝塚の座付き作家として創造に情熱を燃やす人生を生きてきた正塚晴彦が、表現者としてのかつての無念を晴らし、己の人生を受け入れた、どこかほろ苦くもせつない喜びに満ちた作品なのである。
 ロジェのかたわらに終始寄り添うバシュレ役を、正塚作品の常連ともいえる存在、専科の未沙のえるが演じているのがまた、象徴的である。去りゆくことが必然の宝塚にあって、去らない存在。その未沙自身、長らく、呪縛から解けずにいた。“未沙のえる”という名の呪縛から。この人はもう、“未沙のえる”を演じることにしか興味はないのだろうか――何度、そう書こうと思ったことか。それは決して、未沙一人の責任に帰すべき問題ではない。“未沙のえる”に“未沙のえる”を演じることを求めてきた者すべてに帰すべき問題なのである。けれども、「ロジェ」での未沙のえるは、長きの呪縛から解けて、別人のような舞台を見せていた。この人にはこんな表情が、こんな一面があったのだ、未沙のえるとはこんな演者だったのだ……と、新鮮な驚きを感じさせて、……だから、私は心からうれしかったのである。
 正塚晴彦と未沙のえる、二人の次の公演は「はじめて愛した」。水夏希の後を継いでトップスターとなる音月桂のプレお披露目公演で、二人にとって、宝塚歌劇にとって、新たな世界が広がるのを、楽しみにしている。――タカラジェンヌは去っても、去らない観客もまた、いるのである。

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もうどうでもいい・・・宝塚歌劇(宝塚歌劇 2010-09-15 10:45)
やっぱり奥が深いよな宝塚歌劇知りたいことが沢山ありますね。藤本真由オフィシャルブログ: 「ロジェ」という名の“復讐”〜宝塚・正塚晴彦その姿は、今、宝塚歌劇に別れを告げる水夏希の姿とそのまま重なる。何..
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