藤本真由オフィシャルブログ

狂気と正気〜大規模修繕劇団旗揚げ公演「血の婚礼」
 清水邦夫作「血の婚礼」の街で、人々は幻の電車が走るのを見る。私も幻の電車を知っている。子供の頃、青梅街道を走る都電を見たことがある。――おかしい。新宿と荻窪を結んで青梅街道を走る都電杉並線は、私が生まれる9年も前、1963年に廃止されている。
 「血の婚礼」の街は、ある夜、停電する。私も停電を知っている。夫のかつての赴任先のハノイで、ある夕刻、一瞬にして街中が暗くなった。交通は混乱をきわめた。そのとき私がいたのは、ハノイでくつろげる数少ない場所の一つ、恵まれない子供たちの就職先として運営されていたカフェだった。街中ほぼ至るところで感じられた、外国人から何とかふんだくってやろうという気持ちはその店にはなく、その夜も、呼んでもらったタクシーがかなりの時間を経て到着すると、お店の人々は一緒になってほっとしてくれたのだった。そのタクシーに乗って、滞在先のホテルにようやっとたどり着いた…と思った瞬間、運転手は車寄せからだいぶ離れた場所に車を止め、停電の中わざわざ迎車してやったのだからその分を払えと、メーターからかなり割増した料金を請求してくる。怖くなった私は、それでもきっちりと料金分だけを渡すと、あわててドアを開けて走り去った。緊張の一夜に感じた、安らぎと恐怖の両軸。
 「血の婚礼」のプログラムにおいて、演出の蜷川幸雄は、清水邦夫が狂気の世界の住人のように思えてきたときのことを記している。劇作家は広告紙の裏面に、真っ赤なボールペンでまるで血のような文字をぎっしりと書いていて、その大好きな真っ赤なボールペンがなくなるといけないからと、何百本ものボールペンの束を抱えて見せてくれたのだと。血。それはあまりに秀逸すぎるアナロジーかもしれない。物書きは一文字一文字に心の血を滴らせてゆく。そして、狂気。
 幻の電車を見たとて、幻の声を聞いたとて、それははたして、狂気なのだろうか。その人物が狂っているのだと、そう判断する人物が狂っていない保証はどこにあるのだろうか。かつて、“狂気”にとらわれた――と噂された老人の話を聞いたことがある。夜な夜な罵詈雑言をわめき散らしながら、自分の家の塀の周りだけを金だらいで叩いて回る。けれども、昼間のその人はきわめて品性と教養にあふれた人物なのだという。その人は本当に狂っていたのだろうか。狂気を演じていただけではないのだろうか。そして、その人に狂気を演じさせた側は、はたして――。
 誰かの正気は誰かの狂気に過ぎず、誰かの狂気はまた誰かの正気に過ぎないのかもしれない。正気と狂気との言葉が強いなら、現実と幻想、リアルとファンタジーと置き換えてもいい。白井晃に熊川哲也、頭の中の世界の方が本物で、現実に生きている世界の方がヴァーチャルかもしれない、そんな舞台観を表明する舞台人も存在する。だから。
 狂わば狂え。狂ってしまえ。その狂気の行きつく果てを、正気の沙汰で見つめ、書き尽くせ。――血の滴るような文字で書かれた清水邦夫の原稿を想像するとき、私はそのような思いにとらわれてならないのである。


 
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。