藤本真由オフィシャルブログ

哀しき憎しみ〜コクーン歌舞伎「盟三五大切」
 「盟三五大切」の主人公、薩摩源五兵衛に身をやつしたところの不破数右衛門は、御用金百両を盗まれた咎で主家を追われる。彼は何とかその百両を工面して、刃傷沙汰による主家お取り潰しの仇討ちに加わりたい。その一方で彼は、芸者の小万を深く愛してもいる。しかしながら、小万は実のところ、船頭の三五郎と夫婦であり、数右衛門の伯父が用立てた百両を、騙して数右衛門から巻き上げる。真実を知った数右衛門は復讐の鬼と化し、次々と人々を斬り殺してゆく。小万と三五郎の間に生まれた幼子も、そして遂には、小万も。斬り落とした女の首を持ち、中村橋之助扮する数右衛門は、客席を歩く。蒼白く透き通り立ち昇る憎しみそのものとなって。
 その憎しみを知っている――と思った。
 2009年11月末。私は新国立劇場中劇場でシェイクスピアの「ヘンリー六世」の通し上演を観ていた。そのころ、自分の中にずっと違和感を抱えていた。「ヘンリー六世」の登場人物たちが愛と憎悪を激しくたぎらせて対峙するのを見守るうち、気づいた。その違和感こそ憎しみに他ならないのだと。人は自分の知らない感情を名づけ得ない。私はそれまで、憎しみを知らなかったのである。
 自分の内にある、どうあがいても埋めようのない痛み。毎朝起き上がるたび、それまでの人生すべてを呪う悪夢の如く、己を苦しめさいなみ続ける痛み。その痛みを消すには、その痛みを与えた人物を消すしかないのかもしれない。そんなことを思わせるほどの心の痛み――。
 「ヘンリー六世」の物語に、内に抱えた憎しみに気づいた私は、舞台を観ながら悪寒に襲われ、発熱していくのを感じていた。そしてその晩から風邪に倒れた。
 数右衛門は、かつて激しく愛し、だからこそ今激しく憎む女の首を家に持ち帰り、その首を前に食事をする。そうしながら、橋之助の数右衛門はさめざめと泣く。彼はその女の生首など欲しくはなかった。彼が欲しかったのはその女の心、愛だったのだから。演出の串田和美自らが手がけた美術は、ときにクロード・モネの水面の表現を思わせ、ときにグスタフ・クリムトの金箔使いを思わせて美しく、必然のように連想されるのは、そのクリムトも描いたところの哀しきヒロイン、生首相手に不毛の愛の口づけを交わすサロメである。サロメが本当に欲しかったのは、ヨカナーンの生首、その生首への口づけだっただろうか。本当に欲しかったのは、生きたヨカナーンとの口づけだったのではないか――。
 数右衛門を待ち受けているのは数奇な運命である。実は三五郎は、自分の父から旧主のための百両の用立てを頼まれていた。その旧主こそ数右衛門だった。つまり三五郎は、数右衛門のための百両を、数右衛門自身から騙し取っていたわけである。かくて数右衛門に“仇討ち”の義は可能となる。
 「盟三五大切」の終幕、盆が廻る。廻る廻る、盆が廻る。世界の速さで。輪廻の如く。幻のように。
 その憎しみも復讐も、すべては我に、義を行わせるための運命だったとしたら――。
 自分は憎しみとはとことん合わない人間なのだと思う。何しろ、憎しみを持ちこたえることができない。2年前の秋、風邪から癒えた自分の中から違和感はすっかりなくなっていた。そうして、憎しみという感情の知識だけを得た。だから今では、愛と、そして憎しみとを教えた人物を見ても、何も感じない。憎しみを教えた以上、その人の中にもまた憎しみがあったのかもしれない――と思うだけで。そうして見つめるとき、もしかすると、哀しい瞳をしているのかもしれないけれども。
(6月8日13時半の部、シアターコクーンにて観劇)

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