藤本真由オフィシャルブログ

“至上の美”〜宝塚花組「愛のプレリュード」の壮一帆&「トゥーランドット」&「ばらの騎士」
 「愛のプレリュード」のクライマックスで、壮一帆演じるジョセフは、真飛聖扮する主人公フレディーをナチスの一味の銃弾からかばって死ぬ。東日本大震災の混乱が未だ落ち着かない3月終わりに始まった東京公演の序盤、壮は、東日本大震災の際、自らの命を賭して他の者の命を救った人々へのレクイエムとして、ここでの演技を造形したことがあった。その舞台に私が思い出したのは、プッチーニ作「トゥーランドット」におけるリューの死である。
 2月18日、NHKホールにて観劇したマリインスキー・オペラ「トゥーランドット」については、2011年初めてのブログ更新となった2月25日の記事、<生きる希望http://daisy.eplus2.jp/article/187646834.html>において少々記した。私がこのとき改めて興味深く思ったのは、カラフとトゥーランドットとリューの三角関係である。ありていに言ってしまえば、片思いの矢印が二本あり、その一本に返す形でもう一本矢印が伸びれば、一つの片恋は成就し、一つの片恋は破れる、そんな構図に過ぎない。だが、ここでもし、主人公カラフを、この世では存在しがたく手の届きがたい“美”をひたすらに求める者として考えた場合、カラフの名を明かせとトゥーランドットに迫られ、けれども決して口を割らずに自刃して果てるリューとはいったい、カラフが美を求める上で、いかなる立場の人物と考え得るだろうか。
 よく知られているように、プッチーニはリューの死の場面で筆をおき、「トゥーランドット」の作曲を終わらせぬまま、1924年にこの世を去った。1926年のミラノ・スカラ座における初演の際、トスカニーニはプッチーニ作曲の箇所まで演奏し、そこで指揮棒をおいた。今日上演されている「トゥーランドット」の結末とは、他の者の手によって補訂されたものである。
 プッチーニはなぜ、リューの死で筆をおいたのか。彼はなぜ、それ以上書くことができなかったのか。トゥーランドットを、この世では存在しがたく手の届きがたい“美”として考えた場合――実際彼女は、カラフによって、「神々しい美女よ! 奇跡よ! 夢よ!」と歌われる――、見えてくるものがありはしないか。
 この世に、人が自らの命を賭して他の者の命を救う以上に美しい行為があるだろうか。
 リューがそこで“至上の美”となり得てしまった以上、それを超える美をトゥーランドットに見出すこと、音に書き表すことは、プッチーニには不可能だったのではあるまいか。私にはそんな風に思えてならないのである。

 美と、美を求める者と、それを助く者と。その構図は、リヒャルト・シュトラウス作「ばらの騎士」にも認めることができるように思う。元帥夫人と、その年下の恋人オクタヴィアンと、彼が新しく恋に落ちることとなる若い娘ゾフィーの三角関係においてではない。ここで私の胸に迫り来るのは、永遠の美と、それを求める者と、元帥夫人の構図である。年齢と共に己の美貌もまたうつろうことを静かな諦念をもって嘆く元帥夫人は、万物の流転が必定であるこの世界の一つの象徴である。その元帥夫人を、作曲家と台本作家は、「ばらの騎士」なる永遠の美として昇華させた。オクタヴィアンが使者としてゾフィーの元に届けるのは、生花ではなく、ペルシャのばら油が一滴たらされた“銀のばら”である。花はいつか枯れる。だが、人の心の中に咲いた美なる花は、永遠に枯れることがない。

 ディナーショー「Bright」で、壮一帆は「エリザベート」の“死=トート”のナンバー「闇が広がる」を歌って圧巻だった。その姿に思ったのは、トート役の解釈に新たな地平が拓けた――ということである。お前が生きているその世界には永遠の美など存在し得ないと、此岸のエリザベートを美の彼岸へといざない続けるトート。エリザベートの死による愛の成就は美の成就ともなる。演じられる役者がいれば観てみたい、空恐ろしい物語ではある。

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