藤本真由オフィシャルブログ

羽ばたけ、“宝塚の北島マヤ”〜宝塚・野々すみ花を送る[宝塚]
 最近、「ガラスの仮面」を読んでいると、ますます北島マヤが野々すみ花に思えてきて仕方がないあひる。そして、宝塚音楽学校に入団する前、実際に「ガラスの仮面」ばりの猛特訓を積んでいたらしい野々すみ花ではあった(宝塚GRAPH4月号参照)。農家を営む実家の畑のド真ん中での発声練習や、暗い保冷庫の中から出てきて、まばゆいスポットライトを浴びて目を輝かせる瞬間のイメージ・トレーニング等々。これぞリアル「ガラスの仮面」! そんな特訓を一緒にしていたお父上がまた素晴らしいと思わずにはいられないのだが、そんな賜物もあって、本日7月1日、野々すみ花は立派なトップ娘役として宝塚歌劇団を去っていく日を迎えたわけである。
 想像力こそが北島マヤの最大の武器。その想像力が、好敵手にして心の友、姫川亜弓を恐れさせる。「マヤ、なんて恐ろしい子…!」。私も野々の舞台を観ていて思うことがある。「…いったい、何を考えてるんだろう…」と。空想少女を超えて、ほとんど妄想少女である。かわゆい。しかし、どう考えても不思議ちゃんである。私は、彼女が休みの日にどこか旅に行かないのか問われて、「こないだ武庫川のほとりには行きました」と答えたエピソードも大好きである。何ゆえ、武庫川のほとり…! しかし、野々くらい豊穣な空想世界を内に秘めた存在にとっては、もしかしたら、どこかに旅するより、自分の心の中に遊んでいることの方がよっぽど楽しいのかもしれず…。宝塚の舞台において、この人のこういう発想は自分には絶対ないなあ、いったいどういう思考回路だとこういうことを思いつくんだろう…と思って、驚異を見つめる思いで目が離せない人物はと言えば、壮一帆、龍真咲、紅ゆずる、それに、野々すみ花である。しかし、先に挙げた三人は男役であるが、野々は娘役である。娘役なれど平気で奇想天外な世界を見せる。野々とて、娘役らしく、髪型やアクセサリーを考えてうきうき心弾ませたりしていたのだろうし、舞台に立てば、ときに寄り添い、ときに男前と、幅の広い娘役芸をきっちり発揮しているのだけれども、それでも、まず思い浮かぶのは、野々すみ花というとても不思議な生き物のことなのである。娘役というよりも、役者、職人の印象。細工物一般を得意とするのだけれども、自分ならではのこだわりを発揮させたらもう、他の追随を許さない感じの。
 彼女は下級生の時代から演技力の高さに定評があったけれども、私は、野々自身の魅力が非常に素直な形で発揮されるようになったのは、宙組トップ娘役としてのお披露目作「カサブランカ」の東京公演の中盤以降、彼女が、“花總まり幻想”と訣別してからだと思う。例えば、花組最後の公演である「オグリ!」の照手姫役の物憑きの場面にせよ、開花を遂げるまでの「カサブランカ」にせよ、彼女の演技はどこか、「花總まりだったらこの役をどう演じるか」を演じているように見えて、彼女自身の内から出てくるものではない違和感を覚えたのである。
 しかしながら、ここで言っておきたいのは、“花總まり幻想”を抱く娘役は何も彼女一人ではないということである。足掛け13年もの間、雪組と宙組でトップ娘役を務めた花總まりは、それだけ傑出した存在だったのである。私とて、先日、「エリザベート スペシャル ガラ・コンサート」の制作発表記者会見に姿を現した花總その人に、「…まだまだトップ娘役を張れる…!」と思ってしまったくらいである。
 “花總まり幻想”が非常に危険なものであるというのは、演じる人間がそんな幻想を抱いている以上、観る人間にもやはり、「じゃあ、この役、花總まりが演じたらどうだっただろう」と考えさせてしまうところがあるからである。そして、花總まりは、技術というよりむしろ天性で娘役であった上に役が降りてきてしまう人だから、彼女の何かを部分部分や雰囲気で取り入れようとしても無理である。今後、花總まりのどのような才能が娘役向きであったかをきっちり分析していくことが、娘役芸のさらなる発展の上で欠かせないことなのだと思う。
 人は決して自分ではない何者かにはなれない。誰も花總まりにはなれなくて、それでいいのである。人はそれぞれその者として輝くべきである。そして、人の真似をしているうちは決して、人はその者自身としては輝けない。宝塚をどこか集団的に覆っていなくもなかったその“花總まり幻想”といち早く訣別したことで、野々すみ花の舞台人としての人生は始まったのである。
 しかしながら、その一方で、野々すみ花は、花總まりと同じ資質、人が真似しようと思っても真似することのできない資質を備えていたのだった。役が降りてくる資質。
 「カサブランカ」と同じ年の秋の全国ツアー公演で、野々は、花組時代にも一度演じた「銀ちゃんの恋」(原作はつかこうへいの「蒲田行進曲」)の小夏役を演じた。誰の真似でもない、野々すみ花の小夏になっていて、花組のときと比べて段違いによかった。観ていて、「天国のつか先生に見せたい!」と思って、…あ、そうか、天国にいらっしゃるならある意味、見放題だ…と思ったけれども。このとき、銀ちゃん役の大空祐飛と、ヤス役の北翔海莉は、物語か現実かの演技バトルを繰り広げていて、野々は彼女の小夏を立派に演じながら、どこか、「…舞台とは、芸とはそら恐ろしいものであることを知りました…」と、心で震えていた。そして、「誰がために鐘はなる」のマリア役を演じるために髪をばっさり切って、彼女は一人、覚醒してしまった。今でも、銀橋に出てきて「寝袋と巻き煙草」のナンバーを大空に歌いかける野々に、何かがはっきりと降りてきた瞬間をまざまざと思い出す。「今絶対違う誰かがぐわっと、しゅぱーんと降りてきた!」と、驚愕。そういえば、「ルナロッサ」で、お姫様としてらくだに乗って出てきた後、すみ花ワンダーワールドの物語を聞かせてくれたのも、銀橋上からだった。「NICE GUY!!」で、舞台が一丸となるべく盛り上がってきたとき、「…今日は、もうっ、もうっ、ほっんとに、たの、しい、なあ…!」と、ふりきれたように喜びを表して舞台に在った日の輝きも忘れられない。そんな彼女を観ているこちらも、本当に楽しかった。
 退団公演「華やかなりし日々」で野々が演じたのは、ジーグフェルド・フォリーズの舞台に立つことを夢見るジュディである。スター女優の鼻もちならない態度に憤慨、断固批判してオーディション会場から飛び出した彼女は、勤め先のもぐり酒場で言い寄られたクラブの顔役にも決然とした態度を見せる、一本筋の通った女性である。そして、最終的にはジーグフェルド・フォリーズの主演女優としての成功を、芸の力でつかみ取る。見出されて成功するという単なるシンデレラ・ストーリーに終わらなかったのは、野々が、ジュディという存在を綺麗事にせず、その心の中にもある野心を、きっちり、しかしながら嫌みなく演じきって役をふくらませたからである。
 「クライマックス」では、ふくらんだスカートにベストを着て出てきたシーンが何だか少年のように見えてかわいらしく、しかし、トップ娘役を務めた果て、最後の公演で少年っぽい魅力を発揮する人というのもまた不思議なものだなあ…と思ったものである。しかし、そんな野々が隣にいることで、私がここへ来て愛してやまないのだと気づかされた、大空祐飛の中の永遠の少年性がまた際立つこととなって、大空祐飛と野々すみ花は、やはりお互いにとって本当に得がたい相手役だったのだと思い至った次第である。軍服姿の凰稀かなめを相手にしたシーンでのドレス姿には神々しい魅力があったし、デュエットダンスのせり下がりでは学年の離れた大空相手に包容力もにじませて、娘役として集大成の舞台となった。
 宝塚歌劇の舞台でトップ娘役を務めるということと、世にも不思議な個性を発揮するということ。ときに反発しかねないその二つを、野々すみ花は両立させてみせた。それは、彼女の芸の賜物であると思う。芸の力で娘役をきっちり成り立たせることによって、不思議な個性もまた発揮され得るものなのである。こうして、宝塚のトップ娘役の領域が広がったことは言を俟たない。
 そして、その不思議な個性がさらに伸びやかに解き放たれていったら、いったいどんな舞台人が現れることになるのだろう――。
 野々すみ花は、舞台に生きるために生まれてきた人である。彼女をストライクゾーンで好むであろう演出家も知っている。しかしながら、その力はあくまで、清く、正しく、美しく、美のため人のために生かされるべきである。舞台への思いを胸にふくらませながら、日々、野菜や草花の成長を見守っていたときと変わらず、人生を生きて、妄想もますます逞しくして、“宝塚の北島マヤ”から“日本演劇界の北島マヤ”へと飛躍を遂げて行かれんことを。私は今、大切な妹が新しい世界への扉を開けるのを、どきどきわくわく見守る、そんな気持ちでいる。


 
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