藤本真由オフィシャルブログ

“ジェラール(in)山下(公園)”〜宝塚花組公演「For the people−リンカーン 自由を求めた男−」の瀬戸かずや[宝塚]
 ↑ですが、「〜」の左と右とが食い違っているわけではないので、念のため。

「…壮さんだったら、この役、素敵に/かっこよく/上手く演じられただろうなあ…」
 これが宝塚に現れる“壮一帆のファントム”である。当の壮一帆がミュージカル「エドウィン・ドルードの謎」で愉快な仲間たちと日本演劇界の大海原に壮快に船出した今、亡霊を追って何になろう。ちなみに、「…この役を演じたら花總さんみたいに素敵に見えるかしら…」が“花總まりのファントム”である。無理やねんなあ…と、「1789 バスティーユの恋人たち」でマリー・アントワネットその人が降りてきたような彼女の舞台を観て思う。高貴な人々が好んで降りてくる“形代”の如き。
 宝塚の舞台を観ていて、通すのが難しいセリフなどについて、「…これ、壮一帆だったらどういうニュアンスで発したかな…」とときどき考えないでもない。私自身が役者としての肉体を持たないが故、「自分だったらどう発するかな」と考えてもあまり得るものがないからである。しかし、「…この役、壮一帆で観たいな…」と考えたことはない。宝塚歌劇で男役をやりきったからこそ退団を決意し、新たな道へと一歩を踏み出したのであろうから、今はどんな新しいことへとチャレンジしていくのか、それを見届ける方が楽しみで仕方ない。
 では、宝塚時代の壮一帆の舞台について一切考えるべきではないかというと、そういうことではない。男役としての見せ方、しぐさ等は学べるものが非常に多いだろう。現在東京宝塚劇場で上演中の「るろうに剣心」では、相楽左之助役に扮した鳳翔大が斬馬刀を豪快に振り回しているが、ここには「一夢庵風流記 前田慶次」で歌舞伎の馬に乗って槍を振り回していた壮一帆の残像がポジティブな意味で浮かんでくる。ちなみに今回、鳳翔は、澤瀉屋の市川猿四郎の指導のもと、歌舞伎の殺陣と「白浪五人男」の口上アレンジにも挑戦。名前通りの大型男役として活躍中である。
 そう、つまりは、「…壮さんだったらこの役、どう向き合っただろうか…」があるべき問いの立て方なのである。そして、そのようにして役者として飛躍を遂げた人物もいる。

 宝塚歌劇がKAAT神奈川芸術劇場に初進出を果たした3月の「For the people」において、花組の瀬戸かずやは、主演の専科・轟悠のリンカーン相手に政敵スティーブン・ダグラスを演じた。リンカーンとの論争においては奴隷制を支持する役どころである。今日の我々の目から見て明らかに間違っていると思われる役を演じることは非常に難しい。
「…『ファントム』でキャリエールを演じたとき、壮さん、大変だっただろうな…」
 舞台を観劇する前、宝塚スカイステージのニュース番組の「突撃レポート」のコーナーを観ていたら、そうしみじみ考えているのが伝わってきた。相当な難役なのだろうなと想像がついた。そして、観劇の日。瀬戸は体当たりでこの役に挑んでいた。今日からすれば明らかに間違って見えることでも、その当時の人にとってはそう信じるに足る何かがあったわけである。アメリカという国家の礎を築き、繁栄させていく上では、奴隷制が必要であるとダグラスは考えた。リンカーンは、黒人を含めたすべての人々の自由なくしてはアメリカという国家の繁栄はないと考えた。過つは人、赦すは神。大切なのは、過去の過ちを今日の目から一方的に糾弾することではなく、その原因をしっかりと見定めた上で、二度とそのような過ちを犯さないことである。
 瀬戸の演技は真摯で力強かった。ダグラスの信念が伝わってきた。私自身はいついかなるときも決して奴隷制を支持するものではないが、舞台上の登場人物の多くを“敵”に回したかに思える一幕ラスト、信念をもって生きる一人の人間としての瀬戸ダグラスにエールを送らざるを得なかった。その姿に思い出したのは、「フロスト/ニクソン」でリチャード・ニクソン元アメリカ大統領を演じたフランク・ランジェラである。この世で神にも比される権力をもちながらも、過ちを犯した男、ニクソン。「同情をもって演じたのですか?」と尋ねた私に、彼は、「同情ではない。理解だ」と答えたのだった。
 瀬戸の演技は舞台評論家としての私に改めて大きな示唆をも与えてもくれた。実際のリンカーンの宗教観については諸説あるようでここでは立ち入らないが、この舞台におけるリンカーンは、神の名のもと奴隷制廃止を主張する。しかし、「私は神の代弁者であって、ゆえに私は正しい」的な物言いは、たとえその言が正しかったとしても、ときに人々の心に無用なアレルギーを引き起こすことだろう。大切なのは、反対意見をも取り入れた上で、自らの主張をより大きなものへとふくらませていくことである。例えば、私は、舞台芸術の場では美の追求が何より大切であると考えるものである。だが、なかには、「美と言ったってチケットが売れなくては何も始まらない」と考える人もいるだろう。実際、「あなたが言う芸術を追求した結果、(チケットが売れず)宝塚歌劇がなくなったらどうするのですか」と尋ねられたこともある。これについては、「では、あなたは宝塚歌劇とは究極的にどんな場所であるべきであると考えますか」と逆に問うものである。チケットさえ売れて繁栄すればどんな内容の舞台を上演しようとも宝塚歌劇は宝塚歌劇であるとは、私個人としては思っていない。私としては、宝塚歌劇でしか可能とはならない美を追求していった結果、作品が次々と好評を博してチケットが売れ、その歴史が続いていってほしいと考える。――多くの大切な人々と出逢った場所であるから、その歴史が永久に続いていくことを祈りつつ。

 素晴らしい観劇の後、横浜の山下公園を散策するのは爽快な気分である。私は、瀬戸の演技に思いを馳せながら、海に浮かぶ氷川丸や、ホテル・ニューグランドの重厚な建物を眺めていた。そして、壮一帆が「ファントム」で演じたジェラルド(ジェラール)・キャリエールの演技について、久方ぶりに、改めて深く考えたのである。――本当に大変だったんだろうな、そう思った。そして、あのとき舞台評論家として、舞台人の心への寄り添い方がまったくもって足りなかったとも。だから、その年の秋に壮が「カナリア」に主演した時期に、――私はまさに、「神様に怒られた」としか形容のできない経験をしたのである。そしてその翌年、蜷川幸雄演出「トロイアの女たち」による“じゃじゃ馬馴らし”があって、それ以外にも多くの人々との関わりがあって、今の私がいる。
 そう考えて、私は、横浜で経験したいくつかの“奇跡”のような瞬間を思い出した。花組全国ツアー「ラブ・シンフォニー」の神奈川県民ホール公演、「So in Love」のナンバーで壮一帆が覚醒したこと。神奈川芸術劇場に三谷幸喜作・演出「国民の映画」を観に行った際、その隣の駐車場あたりで、「自分はこの世界の一部である」とはっきりと自覚したこと。ちなみに、この観劇の帰りの電車で、“芸術の庇護者”ゲーリング役を演じていた白井晃さんと一緒になったのだが、その彼は今や神奈川芸術劇場の芸術監督である。
 ――そんなことを考えて横浜から戻ってきたら、その翌日、瀬戸かずやが「アイラブアインシュタイン」で宝塚バウホール公演初主演を務めることが発表されて、おお、と思ったのだった。そして4月になって、小池修一郎作・演出の雪組「るろうに剣心」を観たら、望海風斗扮する加納惣三郎は途中から“ジェラール山下”と名乗り、自らの“オペラ座”の中で“幻影”を見せる大暴れ。しかも“ジェラール山下”の“山下”は横浜にちなんでいるという設定で。――3月、「For the people」の瀬戸かずやに深く心動かされたあの日、まさに“ジェラール(in)山下(公園)”だったな…というわけで、タイトルの謎?、ここに氷解〜。


 
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