藤本真由オフィシャルブログ

宝塚花組「ME AND MY GIRL」&鳳真由退団[宝塚]
 瀬戸かずやのジョン卿が、見事レディに変身なった下町出身のヒロイン、サリーを人々に誇らしげにお披露目したとき、初めて腑に落ちたように思ったのである。――彼が、「マイ・フェア・レディ」のイライザのようにサリーを淑女へと仕立て上げたのは、何もビルとサリーの恋に幸あれと祈ってばかりではない。彼自身、マリア公爵夫人を深く愛しているからなのだと。マリアの望みは、下町育ちのビルが紳士となり、ヘアフォード家の立派な跡継ぎとなることである。ジョンははじめ、このマリアの望みに反対する。しかしながら、その望みを叶えたいと思いは次第に変わる。愛ゆえに。愛ゆえに変わろうとすること。変わることで愛を成就させようとすること。それこそが「ME AND MY GIRL」のテーマに他ならない。サリーの変化がその根幹を成すことは言うまでもない。しかしながら、ビルもジョンもマリアも、そしてジャッキーとジェラルドもまた、変化を遂げることで愛をわがものとする。三組のカップルが誕生するハッピーエンドは決してご都合主義ではない。変わることで実現された愛の成就が三つの相似形を描き出す。ビルとサリーのそれを中心に、ジョンとマリア、年月を経た熟成の愛の形と、ジャッキーとジェラルド、多少戯画的な愛の形と。
 瀬戸のジョン卿相手にマリア公爵夫人を演じた仙名彩世がまた、すばらしかった。彼女のマリアは終幕、甥のビルを肉親として深く愛するようになっている。彼にヘアフォード家を出ていってほしくない。けれども引き留めるすべがない。その微笑みのせつなさ。彼女が「サリーではあなたの相手にふさわしくない」とビルに言うとき、“サリー”は決して固有名詞に聞こえない。“下町育ちの娘”の象徴のような意味合いに過ぎない。個人攻撃ではない。彼女にとって、階級の異なる相手と交際することがそもそも考えにいっさい及ばないというだけの話である。ここで逆に引き合いに出されるのが、愛を貫いた英国王室の人々であるのが面白い。愛など上流階級には要らないと断じていた貴婦人が、愛を知り、愛にほどけていく様を、仙名はふっくらと体現してゆく。前半の厳しさ、厳かさにも、――こういう上流階級の人というだけなのだ、と、どこか生身の人間らしさを感じさせる。「For the people−リンカーン 自由を求めた男−」での瀬戸の活躍は既に記したところだが、(<“ジェラール(in)山下(公園)”〜宝塚花組公演「For the people−リンカーン 自由を求めた男−」の瀬戸かずや>http://daisy.eplus2.jp/article/437051325.html)、このとき、一般的には“悪妻”とされるリンカーン夫人メアリーを演じた仙名も実によかった。願望であるのかもしれないが、――信念の人をこのように支えていたとすれば、それは素敵なことだ――としみじみ感じさせる演技だった。このときの、どんなに激しく動いても、踊っても、長く重いだろうスカートが決して乱れて見えない裾さばき、いかにも花組娘役らしいそのたおやかさは、今年の宝塚歌劇において今のところ頂点に存する(その次に来るのが、ショー「THE ENTERTAINER」のスパニッシュのシーンの妃海風)。瀬戸、仙名、「For the people」で好演を見せた二人が、「ME AND MY GIRL」の世界をしっかり支えた。
 話の流れ上、トップコンビの話が後になったが、明日海りおと花乃まりあにとっては代表作の誕生である。「ME AND MY GIRL」。何よりトップコンビがタイトルロールの作品である。いいコンビでなくしてはこのミュージカルはそもそも成立しないことを、今回改めて痛感した。それはそのまま、二人が実にいいコンビになったことを意味する。サリーの物語を生きながら、――明日海りおというトップスターに、相手役としてふさわしい舞台人でありたい、そんな自身の物語をもまた、花乃は舞台で生きているように思えた。彼女のサリーは、一幕ラストのパーティを本気の本気でぶち壊しにやってくる。ビルにふさわしくない自分はランベスに帰るしかない、その一心で。その痛切な思いを知って観る「ランベス・ウォーク」への流れは、今までになくせつなかった。「ランベス・ウォーク」とは何も、客席降りがあり、舞台と客席とが手拍子で一体になって盛り上がれる楽しいシーンというばかりでは決してないのである。現実問題として考えてみたとき、上流階級の人々とその他階級の人々がかように交流することは果たして可能だろうか。“平等”の理念は何世紀も前からあって、しかしいまだ実現されずにいる。世界中どこでも、“隔たり”が引き起こす悲しく悲惨なニュースにあふれている。けれども。舞台芸術が上演される劇場空間においてならば、人はいっとき、そこに集う人々が心を等しくして一つとなれる夢を見られるのではないか。芸術家とはそのような夢を夢見て美に邁進する人々のことではなかったか。
 そんな花乃のサリーを、あたたかな包容力を発揮して包み込む明日海りおのビル。今回の舞台は、彼女の舞台人としての本質をこれまでになく露わにしたように思う。思えばこのコンビは、プレお披露目作となったオフ・ブロードウェイ・ミュージカル「Ernest in Love」も弾んでいて、今から思えば、「ME AND MY GIRL」での成功を予感させていたのである。ただ、「Ernest in Love」について私が書くことをためらっていたのは、この原作となったオスカー・ワイルドの戯曲「まじめが肝心」が、劇作家のセクシャリティと芸術家としての闘いの結晶のような作品であり、それ故に芸術作品としての命を永らえて続けているであろう事実があるからなのだった。楽しいナンバーとなっている“バンベリー”のその語すら同性愛の隠喩であるそうだが、詳しくは宮崎かすみの優れた評伝「オスカー・ワイルド」(中公新書)に譲りたい。
 さて、「Ernest in Love」において感じ始めていた、明日海の舞台人としての根幹とは、決して自身のイメージというものに溺れることなく、作品、役柄の本質に愚直なまでに真摯に向き合い、こつこつと演技を積み上げていくタイプであるということである。「Ernest in Love」でも、主人公アーネストの役はいかにも彼女のイメージに合うように思われたが、器用な人間ならば「こう見えているんだろうから」とそのイメージを即座に利用するであろうところ、彼女はこれを利用するということをしない。優等生タイプに見えて――というのもこちらの勝手な“イメージ”に過ぎないのであるが――、その意味では不器用とすら言えるかもしれない。ただ、本質に向き合って一から積み上げた演技は、一見遠回りな道に見えて、最終的には非常に太い。下町育ちのあんちゃんが、少しずつ少しずつ上流階級の紳士へと変わっていき、その過程でまた人間として成長をも遂げていく様を、明日海の演技は丁寧に描き出してゆく。
 私は前に、宝塚歌劇において花總まりの「エリザベート」の“ファントム”がときに現れると書いたけれども、実のところ、それよりさらに長年の“ファントム”を戴いてきたのが、この「ME AND MY GIRL」という作品なのであった。そう、作品の日本初演にして宝塚歌劇初演の主演を務めた、剣幸の“ファントム”に。剣も花總も、退団後もこの当たり役に取り組み、深め続けている点も同じである。しかしながら今回、私は、愚直なまでに作品と役柄の本質に向き合って創り上げた明日海のビルを観て、“ファントム”は少なからず克服された、そのように感じたのである。さまざまなビルが生きられていい。さまざまな「ME AND MY GIRL」があっていい。その中から、観客がそれぞれの心に添う舞台を、それぞれの舞台から心に添う何かを、見つければいい。私は、明日海りお&花乃まりあの演じた「ME AND MY GIRL」が大好きである。

 この公演の千秋楽をもって、鳳真由が花組の舞台を去る。率直に言って残念である。こんなところで何か言葉を記すことになるとは思ってもいなかった。舞台人としてその真価をさらに磨いていく様を見届けられるものと思っていた。ヘアフォード家の弁護士、パーチェスターを演じる彼女は、まじめな自己陶酔が何ともおかしい様を、激しいフラメンコの舞が最終的に至った決めポーズのような体勢も印象的に見せる。もっと舞台で観ていたい人だった。

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