藤本真由オフィシャルブログ

道〜宝塚・北翔海莉退団[宝塚]
 北翔海莉が退団すると知ったとき、――壮一帆と同じ、大劇場公演三作で退団なんだな――と思った。もう一作くらいはやるんじゃないかと思っていたところまで同じだった。私の中では驚くにはあたらなかった。宝塚歌劇団において歩んできた芸の道は、この先も、いつまでも、続く。二人には、その先の道がはっきりと見えたのだと思えたから。

 退団作「桜華に舞え」で北翔が演じた主人公・桐野利秋は、維新の立役者でありながら、同じ薩摩藩の衣波隼太郎(紅ゆずる)らとは途中で袂を分かち、西南戦争に身を投じる。幼なじみの親友でありながら、違ってしまった道を行く二人、その友情と葛藤のドラマが物語の一つの芯となっている。戦場において斬り合いながら、二人は、心の中で会話を交わす。その会話以上に、北翔と次期星組トップスター紅とが、共に舞台に立った短い期間の中に舞台人として互いに培ってきた思いが作中ほとばしり、北翔が星組にもたらしたものは、紅をはじめとする星組生たちによって確かに引き継がれていくことを予感させる。
 そして私は、違ってしまった道を行く物語の二人の姿を観ながら、――自分の道が、北翔の道とは違ってしまった、そう頑なに思い込んでいた時期のことを思い出していた。私には何だか……、その頃の彼女は、自分の芸の確かさを振り回す、どこか傲慢な人に見えていた。いろいろな発言に、……こんなこと言わなければいいのにな、蜷川幸雄が演出した「コリオレイナス」を観るといいんだけど……等、よけいなお節介を思っていた。何のことはない。その姿は、かつての私同様だった。私自身も、自分が舞台を観る目とそれを書き記す文章さえ確かならば、他には何も必要ない、そう思っていた時期があった。傲慢だったのは自分である。何故、自分の道だけが正しくて、他の人の道はそうではない、そんな風に思っていたのだろう――。だからこそ、<「トロイアの女たち」で「じゃじゃ馬ならし」>なのだけれども。蜷川幸雄に教えられた大切なことの一つに、「たとえ一人の天才がいたとして、だからといって即優れた舞台が生まれるわけではない」ということがある。無論サイズの違いはあれど、基本的に、舞台芸術とは、多くの人が関わることによって生み出され、そして多くの人によって受容されることを究極的に必要とする芸術形式である。そしてそれは、人生の他の多くの事柄についても当てはまることだろう。ある一人がたとえ正しいこと、立派なことをやろうとしていたとして、多くの人を巻き込んでいかなくては大きなことは成し得ない。それには、情熱なり、言葉なり、姿勢なり、他の人々の心を動かす何かが必要である。
 一度は、自分の道と北翔の道とは違う、そう思った。私は間違っていた。異なる道を歩んでいるように見えて、同じところを目指していた。その気づきは、――自分では、神は共に歩いていない、そう思えたときにも、やはり自分は神と共に歩いていたのだと気づくことにも似ていた。そして私は幸せなのである。同じ道を歩んでいることが。
 北翔海莉はトップにならないかもしれない。そう思ったとき、私はパラレル・ワールドで、彼女がトップになったことに勝手にしておいた。その想像は、実際に起こった現実とは大きくかけ離れていた。退団公演の二作、「桜華に舞え」にしても、「ロマンス!!(Romance)」にしても、北翔海莉が星組の仲間と共に創り上げる舞台を観ることがこんなにも幸せだとは思いもしなかった。こんなにも多くの仲間に心を寄せられ、一人一人のその心に心で返す、そんな舞台――。その頂点はやはり、「ロマンス!!」の「第6章 友情」の場面である。こんなにも幸せそうに舞台に立つ北翔海莉の姿を観ることになるとは、数年前には思いもしなかった。
 そして私は気づいたのである。パラレル・ワールドで想像していたのは、北翔海莉と宝塚のトップスターという称号を結びつける、そのことに過ぎなかったのだと。トップスターは一つの地位であり、名称である。その実質をどんなものとするかは、その地位に昇った者それぞれによって異なる。
 長い宝塚人生の果て、北翔海莉がたどり着いたのは、その芸と人間性によって多くの人々に慕われ、確かなものを後に残していく、そんなトップスターだった。
 それにしても。私は先に、宝塚のトップスターには、<「この人はトップスターになるんだろうな」と思われて若くして就任した人物と、「この人はまさにトップスターにふさわしい」というところまで昇り詰めてから就任した人物とがいる>と記したけれども、北翔海莉について何だか不思議だというのは、「この人はトップスターになるんだろうな」と若いころから思われていて、そして、「この人はまさにトップスターにふさわしい」というところまで昇り詰めてから就任した、つまりは、早咲き&遅咲きタイプだからである。でも、それだけ長い間、宝塚歌劇の舞台において、多くの観客を楽しませてくれたということなのだ。だからこそ、これぞ宝塚歌劇の正統! とも言えるロマンチック・レビュー「ロマンス!!」の世界があんなにも似合うということなのだと思う。舞台でも披露したアルトサックスをはじめ、多くの芸事に才を発揮し、一見、宝塚の世界をはみ出すかに思えたけれども、実のところ、とても宝塚らしいスターなのだった。

 さて。その先の道が見えたということと、実際にその道を進むこととは、究極的には別である。例えば。壮一帆が退団後、舞台活動になかなか踏み切らず、人々をやきもきさせたことは記憶に新しい。けれども、壮がちょうどこの時期、東京芸術劇場プレイハウスで、アラン・エイクボーンのウェルメイド・プレイ「扉の向こう側」において、大先輩の一路真輝共々、宝塚とは異なる舞台で、宝塚で培ったものを活かして、実に楽しそうに舞台に立っている姿を観ると、思わずにはいられない。
 宝塚歌劇のすべてを美化し、賞賛するわけでは決してない。けれども、宝塚歌劇に美点があるのならば、それを宝塚歌劇だけのものとするのではなく、社会に広めていくことは素晴らしいことだと私は思う。そしてその社会とは、必ずしも舞台芸術界にとどまるものではない。けれども。
 出会った場所が劇場で、私は舞台評論家なのだから。みっちゃん、また劇場で会いましょう。宝塚の男役出身者が、外部の舞台で活躍して、男役として培ったものを活かして、日本の女性の多彩な美しさ、かっこよさを追求していくことを、私は非常に尊いと思う。そしてそのことは、日本の男性の多彩な美しさ、かっこよさを追求していくことにも、究極的にはつながっていくはずである。
 ちなみに。みっちゃんと言えば、大型特殊自動車や大型自動車、牽引の運転免許を持っていることが知られているが(トラックもバスもフォークリフトもクレーンもタンクローラーもダンプも運転できる!!!)、「宝塚おとめ」に長年記している特技は、三谷幸喜作・演出「国民の映画」のユダヤ人執事フリッツと同じ“三点倒立”。フリッツが舞台上この特技を披露する場面はないが、みっちゃんはかつて、ベルリン公演「サンライズ・タカラヅカ」の舞台で、――それこそ、壮一帆とも一緒に――この特技を披露している。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.seesaa.jp/tb/444148198
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。