藤本真由オフィシャルブログ

人生の選択〜宝塚宙組公演「エリザベート」の真風涼帆[宝塚]
 「エリザベート」でフランツ・ヨーゼフを演じた真風涼帆が素晴らしかった。オリジナルのアプローチで役柄の新鮮な造形に成功していた。その役作りの核心に据えられていたのは、“人生の選択”なるテーマである。
「♪恋は盲目/フランツは選び違えた」
 百年後の日本人、否、世界の人々にすらこう歌われてしまう、エリザベートとの結婚。草葉の陰のフランツ・ヨーゼフからしてみれば、「余計なお世話じゃ」というところではないだろうか。それとも彼は実のところ選び違えたのだろうか。エリザベートではなく、おとなしくてかわいい人形のような女性と結婚していたら、彼にはもっと幸せな人生が待ち受けていたのだろうか。姑ゾフィーの意見も何でも聞き入れ、同衾を拒んだり旅に出がちになったりすることも、ましてやトート=死の幻想に恋するようなこともなく、人生の同じゴールを目指して常に寄り添って歩いて行けるような――。
 わからない。そのような女性がはたして現実に存在しているかどうかも含めて。一つ言えるのは、フランツ・ヨーゼフはエリザベートと結婚するという選択を行い、その結果、二人の人生は百年後には世界中で上演されるようなミュージカルへと仕立てられたということである。
 人生において人はさまざまな選択を行う。大きなものから小さなものまで、その数は日々限りない。そして、自分が生きてきた中で下してきた選択すべてが正しいとまで言い切れる人は、決して多くはないだろう。人それぞれのメンタリティによって違いはあれど、選択にはときに後悔がついて回る。あのときああすればよかった、こんなことするんじゃなかった、等々。
 けれどもその一方で、自分が下した決断を正しかったとして生きていく道もある。あるいは最初は正しくなく思えていたとしても、その後の生き方によって、遂には正しい選択だったという風に変えてしまうという大技だって可能である。
 この“人生の選択”なるテーマを役作りの核心に据えた上で、真風フランツはエリザベートに問いかけ続ける。君自身は、あのとき間違った人生の選択をしたと考えているの?――と。正しかったと思うも、間違ったと思うも、それは君自身がその後の生き方によって選べる部分もあることなのだよ、と。そして最終的には、フランツ・ヨーゼフ自身の人生の選択が正しいものであったかどうかの判断を、観客に委ねるところが素晴らしいのである。
 私自身、基本的には明るい人間だとは思うのだが、ときどき自分でも手のつけられないほど心が暗くふさぐことがあり、そういうときには、自分がこれまで行ってきた人生の選択すべてが間違っていたような、そんな思いにとらわれることすらある。けれども、真風フランツを観ていて思ったのである。最後の瞬間に、…ああ、自分はこれまで間違った選択ばかりしてきたなあ…なんて思うのはまっぴらだ、と。ときに間違いもしたけれども、それでも自分は自分として十分納得して生きた、そう思える人生の最後を迎えたい。そのためには、日々の人生の選択を悔いなきものにするよう思いきり生きること、そして万が一間違ってしまったように思っても、結果としてはそれでよかったのだと思えるよう力を尽くすこと、それしかない。

 壮一帆の舞台に、ときとして、舞台評論家としての居ずまいを正されるような、喝を入れられるようなところがあるとすれば。真風涼帆の場合はこんな風である。…このときこう書かれていたことと、ここでこう書かれていることと、齟齬をきたしているところがあるように思われるのですが、そのあたりどうお考えですか…と、それは丁寧に問われる感じ。しかもそこに何の底意があるわけではない、実に素直な礼儀正しさなので、却ってドキッとしてしまうような。
 折り目正しい正統派二枚目である一方で、真風涼帆はコメディエンヌでもある。それも、決して押しつけがましく笑いをとろうという自意識が一切感じられない好ましさがある。
 「エリザベート」のお見合いシーンで、登場人物たちがどこかコマ落としのような動作をする振付があるが、カップを手に二度三度とせかせか飲む真風フランツを観ていて、思わず笑ってしまった。今までこの場面のフランツに笑った覚えがないというか、「エリザベート」のフランツに笑った覚えがあまりないというか――。そうだ、「エリザベート」の世界においては悲劇、悲愴に彩られてはいても、現実のフランツ・ヨーゼフの人生においては涙も笑いもあったはずだと、改めて思った。
 今年初めの「Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜」で演じたジョージ・ケアリーは、シェイクスピアの欲望をかきたて彼に劇作の道を歩ませ続けるパトロンの役どころ。その妻の名はベス、そして彼女が夫の野望を激しくかきたてる――とくればこれはもう「マクベス」である。エリザベスT世によって、シェイクスピアもケアリーも女王のための舞台で役者を務めることを命じられる。身体中がカッチンコッチンに緊張してしまったケアリーが、ふと客席を見やるとそこに妻ベスがいて、心の中で声援を送られ、ケアリーの緊張は見事ほどける。ようは妻の存在が彼にいつも力と自信を与えているという話で、血なまぐさい殺人劇、権力簒奪劇が繰り広げられることもなく、「マクベス」のパロディでよかった! というオチなのだが、この、緊張がほどける瞬間の真風の演技の、どこかぎこちなくさえ思えるほどに、巧まずして笑いを誘うおかしさと言ったら。ベスを演じた伶美うららも、娘役の範疇を決して踏み越えず、けれども迫力のある“マクベス夫人”ぶりを見せてから、この場面においてほっこり妻の愛情を見せるという好演で、二人の息の合ったとぼけ具合が愉快に爽快だった。
 5月の主演作「ヴァンパイア・サクセション」は、ヴィジュアル派真風涼帆にヴァンパイアとくれば耽美世界? と思いきや、七百年生き続けたヴァンパイアが最終的には人間に進化(退化?)してしまっていたというオチのコメディ作品。ここでも真風のコメディエンヌぶりが活かされていた。人の血を吸って生きるヴァンパイア故の苦悩が、決して不器用な役者ではないながらもどこか不器用に見えるところが魅力である真風によって演じられると、共感涌くおかしみを誘う。このコメディタッチの作品において、作・演出の石田昌也は、人間とヴァンパイア、つまり異なる種族が“心中”することなく愛し合うにはどうしたらいいかという問題に真剣に取り組んでいるのだが、…舞台上の真風涼帆が、ふっと、本当に七百年生き続けてきた存在としか思えなかった瞬間があった。
 同じ瞬間は「エリザベート」でも訪れた。ふっと、フランツ・ヨーゼフその人がそこにいるように感じられたのである。折り目正しい理知の人にして、かつ、憑依系?
 折り目正しさ。それは男役真風涼帆の魅力の一つでもある。彼女を観ていると、懐かしく思い出す一人の男役がいる。安蘭けい。真風は星組トップスター安蘭の下で育ち、安蘭の役を演じて新人公演に主演もしている。「Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜」併演のショー「HOT EYES!!」で、スーツ姿の真風が銀橋を渡り、その後、トップスター朝夏まなとと伶美うららとそれはセクシーなシーンを繰り広げるのだが、銀橋を渡る際のちょっとしたしぐさ、それがもう、“やさぐれていない安蘭けい”である――無論、安蘭けいの場合は、やさぐれているところが魅力だったわけである。真風はあくまで折り目正しい。
 昨年のこの時期、私は真風について、「芸の面で一度も後退するということなく、着実に前へ前へと進んで、次代の宝塚を担う人材となった」と記した。今年の真風もまた、着実に一歩一歩前へと進んでいた――「あ、前の週観たときより着実に前進した!」と思うことすらあった。その結果が、周囲でも真風フランツ絶賛の嵐である。その揺るぎない前進に、思った。あれもこれもと手を出さず、一度に一つずつこつこつ取り組んでいった方が、結局のところもっとも効率がよいのかもしれないと。これもまた、舞台人真風涼帆に示された人生の教訓であろう。そして。着実に一歩一歩前へと進んで――、とうとう、“舞台は最高のエクスタシー”が見えてきた。真風涼帆の時代は近い。