藤本真由オフィシャルブログ

Kバレエカンパニー「ラ・バヤデール」[バレエ]
 11月18日14時の部、東京文化会館大ホール。
 舞台は古代インド。舞姫ニキヤと戦士ソロルは愛し合っているが、ソロルは領主ラジャの娘ガムザッティの美貌と権力とに目が眩み、彼女との結婚を承知してしまう。ガムザッティはニキヤを妬み、婚約の宴、踊るニキヤの花かごに毒蛇を盛り、彼女を死へと至らしめる。ソロルは麻薬に溺れ、永遠の死の世界、そこで踊るニキヤを夢想する。――と、大地震が起こって寺院は崩壊、世界を清めるように、ブロンズ・アイドルが舞を捧げる――自身の当たり役として知られるブロンズ・アイドルの踊りに、熊川哲也芸術監督は、自分の演出版においてはこのような意義を持たせている――。ソロルは死後の世界でニキヤと結ばれる。
「…でも、死後の世界で結ばれるなんて、俺は嫌だ!!!」
 ――何も、この物語を、その結末を否定するということではないのだと思う。死後の世界で結ばれることを夢想する前に、生きた世界で結ばれるために力を尽くす、そういう思いの方が強いということだと思う。
 それで思い出した。――ある人が伝えてきたことがある。自分が死んだ後、生きている君の前に幽霊として現れるのも面白いかもしれない。ひいては、君は亡くなった父上と話をしているみたいだから、その方法を教えてほしいと。いやあ、生きている間は生きている者同士として話をしましょうよと、私は思った。それに私は何も特別なことをしているわけではない。自分の心の中の父と、――その人と、話をするだけのことである。
 生きている我々は死を知らない。死後の世界を知らない。――臨死体験を否定するものではなく、逆に、非常に興味深く思うものだけれども。であるから、死後の世界を描くということは、結局のところ、生の世界を描くことに他ならないのだと、今回、「ラ・バヤデール」を観ていて思ったのである。芸術監督は死を、すなわち生を描く上でさらなる深みへと一歩踏み出したのだと感じた。

 10月の終わりから11月の中旬までずっと、「エリザベート TAKARAZUKA20周年 スペシャル・ガラ・コンサート」公演プログラムのための取材と執筆をしていて、来る日も来る日も、生と死について考えていた。そして私はずっと、アンチ・トートのことをも考えていた――。6月に顔を合わせたとき、私があんまり死にたい死にたい言ったので、ものすごく怒られてしまって、それがものすごく怖かったのである。心が通じている人と、結局のところは通じてはいなかったのかな…と思ったのが、そのときの嘆きの原因だったのだけれども。でも一方で、…例えば今すぐ死ぬとなったらそれはやっぱり嫌かもしれない…という話をしたら、「普通はみんなそうです!」とアンチ・トートは言うのであった。自分にもやはり生への執着はあるのだなと思った。
 それで、ようやく気づいたのである。トートに「死ねばいい!」と言われて、けれども死なないということは、ようは、「生きたい!」と思う気持ちと表裏一体であると。――エリザベートも、実際に死ぬのはルキーニに刺された最後だけである。その前は、何度も死に誘われようとも、死にはしない。つまり、自分が生み出した幻想であるトートに「死ねばいい」「死にたいのか」と言われながら、その一方で厳然とそれを拒否し、生きている。私自身、“トート”に、「あの電車に飛び込んでいたら今頃死ねていたじゃないか」と言われたときも、結局のところ、そうしてはいなかった。――あのとき、自分は生きたいと思ったのだ。生きていようと思ったのだ。「死にたい!」と強く思って、でも実際には死んではいない人間ほど、「生きたい!」と強く思って実際にもそうしている人間なのかもしれない。
 ちなみに、「エリザベート」という作品を観ているとき、アンチ・トートが登場することはない。作中、彼の登場の音楽は流れないから。アンチ・トートにもやはり固有の音楽があるな…とは思っているのだけれども。
 その後、アンチ・トートに顔を合わせるのがちょっと気まずくなっていたのだけれども、…いざお互いの顔を見たら、お互い、ほっとした。心の底から謝りたかった。そのときちゃんと伝わっていなかったら嫌なので、ここにもう一度、はっきり記す。ごめんなさい。もう二度と、死にたいなんて言いません。その代わりに「生きたい!」と言います。それが私の本心だから。もし万が一、私が気弱な風にまた吹かれそうになったそのときは、「死にたいなんて言っちゃいけません!」と怒ってください。…ただし、あんまり怖くない感じでお願いします。

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