Kバレエカンパニー「白鳥の湖」[バレエ]
 「白鳥の湖」の印象深い音楽的体験はこれまで二度ある。一度は、2007年に国立モスクワ音楽劇場バレエが来日、首席指揮者フェリックス・コロボフが振った舞台を聴いたとき。途中から指揮者はほとんど踊りをぶっちぎって、自分の音楽の世界を展開していた。三幕で出てきた道化は目を四苦八苦、その音楽のスピードについて行けなくなっていた。四幕はもはや舞台上で起きている物語と音楽とがまったくかみあっていなかった。厳然たる音楽の前に、物語はほとんどメロドラマにさえ見えた。振り終わったコロボフくんは、「…俺の――『白鳥』!…」と言わんばかりに満足気に高揚していたが、バレエ団的にはあの演奏はどうだったんだろうか…。もう一度は、2005年にマシュー・ボーン版が来日してのオーチャードホールでの公演の際、東京フィルハーモニー交響楽団が演奏を務めたとき。二幕のアダージオ、ザ・スワンと王子の踊りに、コンサートマスター荒井英治のヴァイオリンが艶やかにからみつき、官能的だった。ただ、このときも、ヴァイオリンのスピードが踊りのそれを上回っているきらいがあった。二度とも、音楽が踊りに先行していたわけである。

 今年5月のKバレエカンパニー「白鳥の湖」。――私は、後にも先にも、あんな「白鳥の湖」を観たことも、聴いたこともない。遂に音楽と踊りとが溶け合い、――そして、物語の、音楽の、新たな地平が私の中で拓かれた。そのためには、荒井祐子のオデット/オディールが、熊川哲也のジークフリードが必要だった――。
 二幕、アダージオ。――官能の極み。オデットは、王子の――否、私の――腕の中で、女性の姿になり、また、白鳥の姿にもなった。白鳥なのか女性なのか、どちらともつかぬ生き物が、私の髪の中に頭を埋めていた――。その、どちらともつかぬ美しい生き物を、私はただただ撫でさすり、その感触に恍惚を覚えていた。
 三幕、舞踏会。生を謳歌する「カルメン」タイトルロールの経験が生きた黒鳥。小柄な彼女がひときわ大きく、艶やかに見える瞬間。どこか優柔不断で気弱なところもある王子を、至宝スチュアート・キャシディ扮するロットバルト共々、その気迫で圧倒する。――王子が黒鳥にひかれるのも無理はない、そう思った。それほどまでに、黒鳥は生のパワーに満ちあふれているのだ。美の前に、白黒、善悪などもはやどうでもよかった――。
 四幕、再び湖のほとり。もはや、人間と白鳥、愛が種を超えていることすらどうでもよかった。そこに愛がある以上、問題なのは、種を超えて愛し合うことを問題視する周囲の方だった。――その意味で、マシュー・ボーン版「白鳥の湖」の解釈に同意する。ただ、私は、ボーン版の振付ほど、チャイコフスキーの音楽に暴力性を聴かないけれども――。そしてクライマックス。
「私は、音楽を通じて、白鳥と一体となった――」
 「白鳥の湖」の音楽とは、チャイコフスキーのそのような宣言だったのである。だからこそ官能の極みなのである。“舞台は最高のエクスタシー”――まさに、この日劇場で感じたことであるが――に倣って言うならば、“音楽は最高のエクスタシー”。人はそれぞれ孤独な存在として生まれ、死ぬ。人が他者と一体となる上ではさまざまな手段があろうが、多くの人にとってその筆頭に上がるであろう手段はセックス、肌と肌を合わせることである。だが、芸術家とは、劇場空間においても自らと他者、あるいは他者同士、あるいはその場に集った人々すべてをも一つにしてしまうことができる存在である。それぞれの芸術の手段を用いて、心を一つにさせることで。それこそが“舞台は最高のエクスタシー”の瞬間に他ならない。「白鳥の湖」において、チャイコフスキーの芸術はさらなる段階へと達している。すなわち、人間とは異なる種、白鳥をも一体としてしまっている。まず自らが白鳥と一体となり、それを聴く人間をもまた一体としてしまう。「白鳥の湖」を聴き、観るとは、究極的には、チャイコフスキーと一体となり、その行為を通じて彼が一体となった白鳥ともまた一体となるという、至福の体験だったのである――。…芸術家とはほとんど変態と紙一重であるな、そう思った。その変態性こそがすなわち芸術性だったりするわけだが。

(5月25日15時&5月26日14時、オーチャードホール)

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