「ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン」
 舞台が終わり、カーテンコールで出演者たちが客席に向かって頭を下げる。そのとき、「頭を下げたいのはこちらの方です!」という気持ちになった。こんなにもさらけ出し、分かち合ってくれて、ありがとうという気持ち…。松尾スズキの書く世界は、決して綺麗事ばかりではない。時として目をそむけたくような現実や欲望も描かれている。けれども、それは人の世に確かに存在するものだ。劇作家が果敢にもアタックしていくそんな世界に、出演者たちもまた果敢にアタックしていく。
 若手長唄ユニット綾音の演奏をバックに、伊藤ヨタロウが義太夫風語り手“G太夫”として出てくる。大蛇は出てくる。死してヤギに転生した男は出てくる。松尾自らが披露する華麗なミュージカル・ナンバーは出てくる。ボーイズによるゴーゴーダンスは出てくる。人の皮を剥いで作られた椅子――ここに秘められているのは芸術論である――は出てくる。さまざまな要素をつめこんで、けれども決して劇世界が破綻することはない。そのようにきちんと一つの形にパッケージされて客席に提示されることこそ、演出の力に他ならない。観ていて私が思い出したのは、かつてシアターコクーンで観た、橋本治作、蜷川幸雄演出の「騒音歌舞伎 ボクの四谷怪談」なのだった。あれも実にハチャメチャだった。それでいて一つの世界が強固に出来上がっていた。その後あちこちの劇場で、「…ああ、『ボクの四谷怪談』みたいなことをやりたいんだな…」と思わせる作品に出会った。しかし、これが難しい。ハチャメチャ破天荒を一つの世界として成立させることは。しかも、一度蜷川幸雄がやったことをなぞったところで別に面白くない。「ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン」が優れているのは、蜷川幸雄が芸術監督を務めたシアターコクーンという場で、その精神はしっかりと引き継ぎながらも、松尾スズキが、松尾ならではのハチャメチャ破天荒を貫き、展開したところにある。それでこそ、5月に亡くなった蜷川幸雄への確かなオマージュたり得ている。岡田将生が阿部サダヲ演じる作家のボーイズラブの相手というのも、岡田がシアターコクーンの場でヴェルレーヌの想い人アルチュール・ランボーを演じた蜷川演出作品「皆既食」を思い出させずにはおかない。私は、故芸術監督に、天国から「何だ、お前たち、俺がいなくなったら全然だめじゃないか!」と言われることが、生きている人間として何より悔しいことだと思う。だからこの日、この舞台を観て、天国に向かい、心の中で盛大に叫んだのだった。「蜷川さん! 松尾さん、ものすごく頑張ってるよ!!!」と。
 岡田はゴーゴーボーイ及び女優のマネージャーの二役を演じ、阿部と寺島しのぶとが扮する夫婦それぞれから愛される役どころである。この場合は二役ではあるが、ある一人の人間が夫婦間においてさまざまな意味で共有されるというのは非常に興味深いテーマではある。阿部と岡田のキスシーンにはすがすがしい美しさがあった。
 日本舞踊をベースとした踊りを寺島が披露するシーンがあり、実に颯爽として粋だった。私自身、娘として生まれ、家の跡継ぎではないということで、子供の頃からその意味ではどこか疎外感を覚えていたということがある。それはどこか、歌舞伎の家に女として生まれた思いにも似たところがあるのかな…と、近年になって思うようになった。そんな思いで寺島の踊りを眺めていて、感じた。寺島しのぶは女性に生まれたことで、歌舞伎役者になり損ねたかもしれない。けれども、観客の方でも、歌舞伎役者寺島しのぶ(名前は違っただろうけど)を観損ねたのだと。もちろん、だからこそ、女優寺島しのぶを今、舞台上に観ることができているのだけれども。

(7月14日14時、シアターコクーン)

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