「元禄港歌」
 戯曲「元禄港歌」に出会ったのは、壮一帆が宝塚で、近松門左衛門の「冥途の飛脚」が原作の「心中・恋の大和路」に主演していた頃。秋元松代が書き、蜷川幸雄が演出した「近松心中物語」が、「心中・恋の大和路」にどれくらい影響を与えているかが知りたくて、戯曲を取り寄せた。と、同時収録されていたのが「元禄港歌」。読み終わって、巻末の初演の配役表を見ると、瞽女の糸栄役に嵐徳三郎と記してある。…女方が演じた役なのだ、と思った。まさかその数年後、四代目市川猿之助がその役を演じることになるとは思ってもみなかった。
 さて、蜷川幸雄&四代目がタッグを組んだ前作「ヴェニスの商人」で、私は、四代目から一瞬たりとも目を離したら負けだ! との思いでそれは一生懸命ぐりぐり観ていたら次第に目の焦点が合わなくなり、帰る足で眼科に駆け込んだことは前にも記した。「元禄港歌」観劇一か月前にはすでに別件で病院送りになっている。またもやこのコンビに、二件目の病院送りにされたら困るなあと、ちょっと緊張してシアターコクーン初日(1月7日、18時半の部)に足を運ぶあひる。
「…この劇場はいい気に満ちている!…」
 シアターコクーン初登場にして初主演の四代目の感慨が伝わってくる。firstコンサート「Feel SO Good」でこの劇場の舞台に初めて立った壮一帆の感慨(http://daisy.eplus2.jp/article/431592283.html)と、表現の違いをお比べください。百戦錬磨の四代目でも、初めての劇場だと多少緊張したりするものなんだな、と思った。
 「元禄港歌」で四代目演じる糸栄は、訳あって自分の産んだ子、信助を育てていない。その父である男とその本妻とに預け、遠く思い続けている。思いもかけず息子に出会っても、自分が産みの母であるとは名乗れない。息子は息子で、何とはなしに自分は今の母の本当の息子ではないように感じていて、糸栄に出会うと何か運命の糸を感じる。
 実の親子とは互いに言えない親子。…私はどうしても、自分の母の妹に養子に出された私自身の亡き父と、彼の実の母との関係を思い出さずにはいられなかった。養子に出したとき、まさかその出来事がそんなにも父の心に傷を残すことになるとは、実の両親は思っていなかったらしい。その一方で、父が半ば親に捨てられたように感じていたことは、以前記した。「俺は墓守じゃない」というのが生前の父の口癖で、それもあって、私たち家族は父を山口の先祖代々の墓には葬らず、私の先輩が住職を務める実家近くの寺に新たに墓を建てた。それが、後から取り寄せた戸籍を見てびっくり、母が新しく墓を建てる決意をした日というのが、まさに父が養子に入った同じ日だったのである。偶然にしては不思議すぎる話である。
 不思議な話をもう一つ。私は父の朝早くからの手術の際、病院で立ち合ってはおらず、家で寝ていた。マニラに住んでいる夫と毎晩夜中の1時過ぎまでスカイプで話をして、その後仕事したりあれこれしていると就寝が4時くらい、それから昼くらいまで寝るというのが当時の生活パターンだった。父の手術は朝早くから行われていたが、…まどろんでいると、「真由ちゃん! 真由ちゃん!」という父の声がする。私は眠りながら、「お父さん、こっちこっち!」と父の手をつかんで引っ張る。そうしたら次第に、父を取り巻いて手術しているお医者さんの声というか心の声が聞こえてきて…。「よし、悪いところは取ったから、後は縫合して…」等々。…あ、お父さんの手術成功したんだ…と、私は確信して眠っていた。立ち合った家族がそう知らせてくるだいぶ前から。…決して手術を受けたいものではないけれども、もし私が手術を受けるようなことになったら、やはり誰かに何かが伝わるものなのだろうか。それはさておき。
 後に父が倒れたとき、病院で長い間待っていた。そのとき、この手術のときのことを思い出し、こうイメージしてみた。三途の川を渡りそうになっている父の手を、再びつかんでこっちこっちと引っ張り戻す。…そんなことを考えていたら、父の心臓が再び動き出したのだった。それから実際に息を引き取るまで数日あった。その数日が私たち家族には必要だった。父がどんな人間であったか、どんな弔い方がふさわしいのか、今一度きちんと向き合い、考えるために。
 非常に興味深かったのは、父が倒れてから息を引き取るまでの間に、どこからか、「…真っ暗闇で何も見えない!…」と伝わってきたことである。そしてその後、いろいろ見えるようになったこともまた伝わってきた。こう、解釈した。目が見える人間は、通常は目で物事を見ている。しかしながら、死によって現世における己の肉体を失ったとき、もはや目に頼るわけにはいかず、すべてを心で見るしかない。感じるしかない。“目で見る”から“心で見る”へ、その移行期に、「…真っ暗闇で何も見えない!…」状況があるのではないかと。その後、次第に心で見られるようになり、彼岸もまた見えてくる。「元禄港歌」のラストでは、信助は視力を失い、そして糸栄と親子の名乗りをあげ、瞽女の初音を娶り、盲目の三人が共に生きていくこととなる。このとき信助は、自分は今まで目があいていたが何も見てはいなかった、真っ暗な世界になっておのれも見えてきたと言う。この場面で、「…真っ暗闇で何も見えない!…」からの流れを思い出した。信助は視力を失って初めて実の母と互いを親子であると認めることができる。愛する女と寄り添い生きる決意ができる。「元禄港歌」のラストをハッピーエンドととるか、悲劇ととるかは人それぞれであろうとは思う。けれども、例えば私の父は、死ぬということがなければ実の母の息子に戻ることはできなかったわけである。家に縛られて。

 初日から三週間経ち、私は再び「元禄港歌」を観に行った。気になっていた。その数日前、とある歌舞伎役者の方のブログにアップされていた写真で見た四代目が何だか非常に疲れている。歌舞伎の昼夜奮闘公演などに比べて出番もそこまで多いわけではないし、いったいどうしたのだろうと。舞台を観てわかった。
疲れてるんじゃなくて、憑かれてる〜〜〜。
 二幕冒頭、「葛の葉子別れ」を三味線で弾き語る四代目扮する糸栄のお腹のあたりに、どうにも白い狐が見えるのだった。…巫女力、降ろす力が一段と高まったが故だと感じた。壮一帆がフェルゼンを演じた「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」のとある公演を思い出した。マリー・アントワネットとフェルゼンの魂にふれた夜。…役柄について日々考え、公演している。と、「この人は自分の話をわかってくれる」と、魂が寄ってきてしまうということだと思う。憑かれていると言っても何も何か悪さをしたいということではないわけで、舞台を観ながらただただ客席で祈った。自分の産んだ子供を育てられなかったすべての母たちの哀しみのため――。
 それで思ったのである。秋元松代はもしかしたら、そうした女たちの声を聴いて、この戯曲を書いたのではなかったかと。声を聴いて書く作家は少なくない。例えば三島由紀夫。「カラーパープル」のアリス・ウォーカーは、作品を書くにあたって、自分が精霊の霊媒の役割を果たしたとはっきり記している。そして――。
「…真由ちゃんごめんね、ゆうちゃん、こっちに来たかったみたいで…」
 ――祖母の声がした。ゆうちゃんとは私の父のことである。――二度父の手を引っ張って此岸に連れ戻した(と自分では思っている)私は、最後は、父の実の母、つまりは祖母との引っ張り合いに負けたな…、そう父の死を受け止めたのである。まあ、大岡裁きの昔から、引っ張り合いにおいては実母が最後は勝つのではあるが。無論、私は、父が死んでしまったから、こうあれこれ後から考えているだけのことで、もしも今、父が生きて私の目の前で笑っていてくれたとしたら、こんなことは一切考えず、ただ父の優しさがそこにある幸せをかみしめて、共に笑って生きていることだろう。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.seesaa.jp/tb/445383384
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。