藤本真由オフィシャルブログ

「扉の向こう側」
 イギリスの劇作家アラン・エイクボーン作「扉の向こう側」の初演は1994年。1974年、1994年、2014年に生きる女性たち三人が、時を超えて共闘し、それぞれの殺される運命を何とか変えて生きようとする。今回は2016年の上演ということで、設定が、1996年、2016年、2036年に変更されている。
 1996年。20年前。その前年に結婚した夫がイギリスのケンブリッジ大学――奇しくも劇中言及がある――に留学、二年間の別居生活が始まった。その二年間で私は計12回イギリスを訪れ、かの地のさまざまな魅力にふれ、そしてロンドン・ウエストエンドでストレートプレイにミュージカルと芝居見物を楽しんだ。「扉の向こう側」こそ、夫の留学前にロンドン公演が終わっているから観ていないけれども、こんな感じの作品、よく二人で観たな…と、懐かしかった。タイムスリップして闘うことによって、女性三人の運命は変わり、殺されていたはずの三人は殺されることなく、物語はハッピーエンドを迎える。ちょっとエッチなギャグも盛り込まれたセリフの妙で笑わせる、観劇後ほっこりして帰れるウェルメイド・プレイである。実は日本であんまり上演されないタイプの作品のようにも思う――という話で、あるとき大いに盛り上がった。高等演劇教育が日本に根付いていないことが原因ではないかという話も出た。私が思うに、観劇文化の違いもあるように思う。日本においては観劇は趣味の一つであって、夫婦やカップルより同好の士と楽しむものになっているような――もちろん、夫婦やカップルで同じ趣味を分かち合えている場合はその限りではないが。けれども、例えばイギリスでは、劇場に夫婦やカップルで行くということが生活の一部としてもっと根付いているのではないだろうか。ミュージカルにしても、そんな姿を多く見かけたように思う。Kバレエカンパニーの「くるみ割り人形」あたりになってくると、日本においてもそんな幅広い客層が客席に見受けられるように思うけれども。
 もっとこういう感じの作品、日本でも上演していってほしいな…と、私は今回の「扉の向こう側」を観ていて思ったのである。6名のキャストそれぞれが大いに力量を発揮した、充実の舞台だった。
 2036年のプーペイことフィービーを壮一帆、2016年のルエラを一路真輝、1996年のジェシカを紺野まひる、女性陣は三人揃って宝塚雪組のトップスター経験者である。私はちょうどこの作品上演前の半月、「エリザベート スペシャル・ガラ・コンサート」の公演プログラムのための取材をしていて、一路さんを含む「エリザベート」日本初演メンバーの方々に、まさに1996年当時のお話をうかがっていた。一緒に1996年にタイムスリップしていたわけである。そんな背景もあって、一路ルエラが、ときどき気弱になる壮フィービーを大いに叱咤激励し、殺される運命を変えようとりりしく闘う姿を観ていたら、――女性たちの生きる道が時代時代でつながっていっていることを、より深く実感したのである。「エリザベート」の例を引けば、1996年の雪組による日本初演で、一路トートをはじめ、関わったすべての人々が尽力することがなかったら、そしてその後作品に携わったすべての人々が尽力することなかったら、作品は今日のような名声を得ることはなかっただろう。そうやって作品は伝承され、後の時代に受け継がれてゆく。宝塚でいえば、男役芸、娘役芸といったものも同様である。もっと敷衍するならば、すべての女性が生きる道が、後の時代に生きる女性たちの生きる道につながっている。例えば私は、渡辺美佐子の舞台にふれて、…この人が人生賭けて切り拓いてきた、その道を決して無駄にしたくない…、そう思った。先人たちの頑張りにふさわしい人生の後輩でありたい、そう思った。「扉の向こう側」でエイクボーンが描きたかったのは、決してフェミニズム的に声高ではないものの、時を超えた女性たちの連帯ではなかったか。戯曲冒頭に描かれる近未来は暗い様相を呈しているが、女性たちの奮闘の後で描かれるラストの近未来は幾分明るいものとなっている。今を生きる私たちのちょっとした決断一つで、未来は変わる。エイクボーンはそう告げている。
 私は今回、取材もあって観劇前に戯曲を読んでいて、「…これ、戯曲を読まないでまっさらの状態で観たかったな…」と思ったのだった。その最大の理由は、ラストで主人公フィービーが遂げる劇的な変化にある。冒頭、彼女はSMクイーンとして我々の前に現れる。それが、時を超えた奮闘の果て、彼女は、冒頭で客として接した男リースの養女となっている。リースの妻で、自らの殺される運命を防いだルエラが、孤児であるフィービーを孤児院から引き取ることを決意したからである。イギリスでの上演においては、フィービーの所属階級が、ワーキング・クラスから恐らくはアッパー・ミドル・クラスあたりへと上昇していることが、彼女のしゃべる英語の違いによってはっきり示され、また客席から大いに笑いの起きるところだろうとも思う(イギリス社会における階級文化の違いについて知る上では、「階級にとりつかれた人びと」をはじめとする新井潤美の一連の著作が面白い)。この点、日本での上演では効果はそこまで出せないのは「ME AND MY GIRL」と同じである。さて、私が戯曲を読んだ段階で一番気になったのは、リースとルエラの養女となっていたならば、フィービーには二人の娘として育った幸せな記憶があるはずだが、タイムスリップしてきてフィービー本人すら自分の変化に困惑している状況では、その記憶というものははたしてどこに行ってしまっているのだろう――ということである。幸せな記憶は生きるよすがである。例えば生きることが困難に覚えたとき、人は幸せな過去を振り返ってまた前へと進んでいく力とするだろう。その幸せな記憶すべてがない状態だとしたら――? もちろん、フィービーを演じる役者の側としては、終幕でリースとアルバムをめくり、過去の写真を見ているうち、その記憶が戻ってくるという演技にすればよいわけであるが、観客にとっては、「この人はもはや、孤児院育ちで孤独に生きてきた女性ではなく、養女として幸せな家庭に育った女性である」ということを飲み込むにはちょっと展開が速すぎるようにも思う。けれども、フィービーが養母ルエラのもとでどんな少女時代を過ごしたかは、殺される運命を防ごうとする二人の奮闘においてちゃんと想像できるようになっているのだな…と、一路ルエラに対する壮フィービーの演技を観て感じたのである。どこか、母に接する子供のように甘えた部分があって、かわいらしかった。大いに腑に落ちた演技だった。
 フィービー、ルエラ、ジェシカ、三人を殺そうとして結局は自分が命を亡くしてしまうジュリアンを演じた岸祐二は、美声が実に凄みを帯び、それは怖かった! 2016年と1996年の場に登場して二つの時代をつなぐホテルのガードマン、ハロルド役の泉見洋平は、個性的な声がコミカルな演技にチャーミングに生きた。リース役の吉原光夫も、冒頭とラストでやはり大変化を見せ、1996年の場面では若々しい部分も披露。ラストではフィービーの養父となっているが、その際彼女に対して発する落ち着いた声の響きの中にある慈愛の優しさが胸を打つ。紺野の、たまさかちょっと素っ頓狂に上がる様が魅力の声。一路の、微細なトーンを行き交いときにねっとりとした魅力を生み出す声。壮の、ときに海外映画の女優をも彷彿とさせる、からっとあっけらかん、それでいて心の温かさを感じさせる声。声。声。――そう、全員がミュージカルで活躍するキャストによるこのストレートプレイは、そのセリフを響かせる声の魅力を大いに楽しめる舞台なのだった。そして観客のため、最後には全員揃っての歌の大サービス。
 「…まゆちゃんは過去に戻って運命を変えたい?」と問われて「ううん!」と即答した。――自分でも意外だった。あのときああすればよかった、こうすればよかったとあれこれ考えるのかと思った。でも、問われて即座に返す答えが一番の自分の本心なのだと思う。我々は皆、一度限りの不可逆の生を生きている。舞台も同じである。同じ作品の公演とて、二度と同じ上演はない。だいたいが私は、優れた舞台を観ているときが幸せなのである。生きていてよかったと思う。生まれてきてよかったと思う。その思いの前に、たとえあったとしても後悔はすべて吹き飛んでいる。――そして、「ううん!」と即答した私に、「まゆちゃんはそう言うと思った!」と答えが返ってきたのだった。