愛子さん〜「細雪」徒然その2
 愛子さんは私の母方の祖母である。「細雪」の登場人物ではない。
 大正6年(1917年)生まれ、三人姉妹の次女である。父は住友銀行勤め、支店長として日本各地を転々とし、そのたび住まいの借家が大きくなっていった…とは、愛子さんさえ実際には知らぬ、彼女が姉から聞かされた話の又聞きである。下関にいた時分、愛子さんの母はかの地で初めてミシンを手にした人となった。愛子さんは父が横浜にいた時分に生まれた。野毛山あたりに住んでいたというので、子供の頃、愛子さんと一緒に野毛山まで行ってみたことがある。小学生の頃には父は大阪勤務となっていて、阪急の小林一三が分譲した豊中の家に住んでいた。人力車に乗って小学校に通っていた愛子さんは、二学期、新学期の初めの日、帰ってきて母親に学校で起きたことを話していた。と、大地震が起きた、それが関東大震災だった――と聞いたことがある。
 さて、愛子さんの遺品の中に、一冊の古ぼけた黒い手帳があった。頁を繰ってみると、それは、病弱だった愛子さんの姉が結婚後、入院した先でつけていた手帳なのだった。――この姉というのが非常におっとりとした人で、子供の頃、おやつの時間にも本を読むのをやめなかった。と、いたずら心を起こした愛子さんは、姉が本の陰に隠れている隙に、その皿からおやつを取って食べてしまう。それでも姉は気づいてか気づかないでか、「いつの間にかなくなってたわ」とのんびりしたものだったという。この人は子供がないまま早くに亡くなり、その相手が再婚して後も愛子さんの家とは交流があった。再婚して生まれた息子というのが非常にダンディな人で、私は子供の頃、愛子さんの家で開かれる新年会や家族会の時々、その人に会えるのを非常に楽しみにしていたことを、Kバレエの「くるみ割り人形」のハンサムなドロッセルマイヤーを観るたびに思い出す。
 話が逸れた。手帳には、愛子さんのたびたびの訪問も記されている。そのうち、愛子さんの結婚が決まったことも。愛子は結婚についてよくわかっていない…と、なかなかに辛辣な表現もされている。
 手帳の表紙を見て、はっとした。「皇紀2600年」、つまりは昭和15年(1940年)。――そう、年齢こそ10歳違えど、愛子さんが結婚のため見合いをしていたのは、ちょうど、「細雪」の三女・雪子が見合いをしていたのと同じ頃だった。「細雪」は、私の祖母の娘時代と見事に重なる物語なのである。

 「細雪」に何度か、「レストラン アラスカ」が出てくる。今も大阪をはじめ、東京にも数店、店を構える西洋料理の名店である。日劇跡に有楽町マリオンができた1980年代初頭にはそこにも入っていて、何度か愛子さんに連れていってもらった。――昔、大阪のこの店によく行っていたのよと、愛子さんは言った。大人になり、大阪に足を運ぶようになって、わかった。愛子さんの父が勤めていた北浜の住友銀行本店から、「レストラン アラスカ」のあった朝日ビルディングは目と鼻の先である。勤務を終えた父に連れられて、愛子さんもしばしば足を運んだに違いない。
 あるいは一度くらい、愛子さんの見合いが「レストラン アラスカ」で行われたこともあったのかもしれない。愛子さんは言っていた。――見合いの相手が気に入らなかったら、お父さんと二人、ちゃっちゃと食べて、ちゃっちゃと払って、帰った、そうしようとお父さんとあらかじめ打ち合わせしてあった、と。愛子さんは母を早くに亡くしていたから、見合いには父と二人で赴いていたようである。そして、母がいなかったこともあって、神戸女学院を出てから結婚するまで二、三年は自由な時間を満喫していたようなのである。「細雪」の雪子ほどではないにせよ、当時としては結婚するのが遅かった。だからこそ姉に、結婚についてよくわかっていない、そんな風に書かれてしまうのかもしれない。特急つばめに乗って東京まで宝塚を観に来ていたのもこの頃であったと思う。

 明治座での観劇の一週間ほど前になって、やっと「細雪」を再読し始めた。読み始めたら最後、作品世界に引き込まれて、他のことが手につかなくなってしまうであろうことがわかっていたから、ぎりぎりまでおいてあったのである。――と、すぐに、懐かしい人々にまた再会できた喜びが胸にあふれ、涙さえした。上中下三巻を四日で一気に読んでしまった。
 「大阪では、家庭の女が東京の女のように旅行などに出歩かないのが普通であって」と、上巻にある。こんなこと書かれてるよ!、と、私は天の愛子さんに向かって呼びかける。そんな時代に愛子さんは、宝塚を観に遥々東京までやって来ていたのだ――。今でこそ、宝塚ファンは“遠征”という言葉を使い、全国各地の劇場に宝塚歌劇を観に行ったりするけれども。愛子さんは東京に観劇友達もいた。そのうちの一人が戦後、家が没落したということで、愛子さんの家にお手伝いとしてやって来ていた。その方は戦前の宝塚のトップスター、葦原邦子の家にもお手伝いに行っていた――ということで、葦原邦子の「夫 中原淳一」を読むと、その家には、後に宝塚の演出家として活躍することになる植田紳爾青年や酒井澄夫青年が、ミュージカルの勉強のために訪れていたのである。
 愛子さんは、孫である私から見ても、さまざまな才能にあふれた人だった。スポーツウーマンだった。飛び込みのオリンピック強化選手だったけれども、事故で死んだ仲間がいて、やめざるを得なかった。絵も上手かった。贔屓の宝塚のスターには、宝塚ホテルでご飯をご馳走したり、彼女の肖像を油絵に描いて贈ったりしていたそうである。はり絵をはじめ、手芸もあれこれ嗜んでいた。洋裁も上手で、赤と白の細いストライプの生地で私にスーツを仕立ててくれたこともあったし、手編みのセーターは今でも大切にとってあってたまに着ている。
 「細雪」で言えば、踊りを舞い、人形製作を手がけ、洋裁にも励む、そんな四女・妙子にも通じる活発さをもった人なのである。もっとも、妙子のように、恋人がいたというわけではなかったけれども。バスケットボールの試合にちょっとかっこいい男の子が出ているのを見に行こうと言って、友達とそうしただけで「不良」と言われたらしいのが、唯一で一番のやんちゃエピソードである。
 壮一帆が四女・妙子を舞台で演じるにあたって、現代に生きる女性として共感できるものをきっと吹き込んでくれるであろうことを期待していたということもあったからかもしれないけれども、今回、「細雪」を読んでいて、――何だか、もう、さまざまな才能にあふれた妙子が、生のエネルギーをどうにも持て余している様が、気の毒でならなかった――。良家のお嬢さんだからということで、職業婦人になることには反対される。もはや家は没落の一途にあり、昔ほど金銭的にも恵まれていないというのに。すぐ上の姉がまだ結婚していないからという理由で、好きな人がいても結婚もなかなかできない。もちろん、彼女自身の中にも、お嬢様気質のところがあることは否定できない。親なり周囲なりの反対を押し切って、自分の就きたい仕事に就き、自分の結婚したい人と結婚した人は、彼女の時代にだっていたであろう。けれども、それには莫大なパワーがいる。後の時代に、自分の行きたい道を押し通せばよかったのに――と言うことは簡単である。
 愛子さんもさまざまな才能に恵まれていた。そして、その中の一つで身を立てようとか、そういうことをとりたてて考えなくてもいい環境にあった。ただ、私は今になって、彼女に訊いてみたかったなと思うのである。――もし、将来何になりたい? と子供の頃に訊かれていたら、何と答えていたの? と――。それはもしかしたら残酷な問いであるのかもしれない。愛子さんの時代の女の子には。何らかの職業に就くでもなく、妻に、母になった人と、生きるために、職業選択の自由など関係なく何らかの職業に就いて働かざるを得なかった人とがほとんどだった時代には。もちろん、その時代にも、自らの意思をもって職業婦人として歩んだ数少ない先駆者がいて、そんな先達のつけた足跡の上を、今の私たちは歩いているのである。何になりたい? と訊かれて、思い思いの答えを言うことができる、そんな自由を享受しながら。

 それにしても、不思議なのである――。豊中の三姉妹のうち、愛子さんだけが東京にお嫁に行ったことが。
 どうも、どうしても東京にお嫁に行きたかったようなのである。阪急勤務の人とのお見合い話を受けなかったとも聞く。「細雪」の四姉妹が、関西にこだわり続けるのとは対照的である。
 これは私の推測なのだけれども、――愛子さんは宝塚見物で東京に行ったりしているうちに、東京に魅せられていったのではないだろうか。そうして願いを叶えて東京に来たはいいが、愛子さんは苦労をすることになる。結婚相手、つまり会津出身の私の祖父は兄弟姉妹が大勢いて、それが祖父を頼って来ることになって、愛子さんの実家から援助を受けてまで面倒を見て、ときには、着物をお米に換えたりして――。三姉妹のうち、一人だけ東京にお嫁に来て、苦労して、そのことを愛子さんはどう思っていたのだろうか。その話はついぞ聞くことはなかった。
 宝塚大劇場に観劇に行って、阪急線に乗っていると、思うことがある。もしかしたら自分も、この沿線で暮らしていたかもしれないな、と――愛子さんの下の妹の家は、今でも豊中にあるのだし。そうしたら、年がら年中宝塚のポスターを目にして育って、自分も宝塚に入りたいと思っていたかもしれない。
 ――そうはならなかった。私は東京に生まれた。自分に関西人の血が流れていることを自覚したのは、夫となる人と出会ってからである。つきあい始めてすぐに、愛子さんの家に連れて行った。「真由ちゃんのお祖母さん、大阪弁なんだね」と、後に夫となる播州出身の人は言った。それまでまったく気づいていなかったことを指摘されて、びっくりした。――そして、祖母を亡くして、次第に、私の中に、女性の大阪弁に対する思慕が形成されていった。「卍」などに見られる谷崎潤一郎の女性の関西弁フェティッシュと、根はもしかしたら同じものなのかもしれない。
 宝塚をきっかけに東京との縁が芽生えた愛子さんと、宝塚をきっかけに関西の土地を足繁く訪ねるようになり、かの地にどこか愛着さえ芽生えてきた私と。宝塚歌劇を媒介に、祖母と私の人生が交差する。

 ――それにしても、見合いの話というのは、うまく行かなかったときの方がときに熱を帯びて語られるのは何故なのだろうか。愛子さんにしても、ちゃっちゃと食べてちゃっちゃと払って破談にした話は面白く語ってくれても、何故いざ祖父と結婚したか、その決め手については聞きそびれた。
 母の見合い話についても然りである。写真ではそうでもなかったのにいざ会ってみたら神経質極まれりな感じで、普通は「若い方お二人だけで」となるのを仲人まであわてて残ってくれて、そのままなかったことにしたとか。そんな彼女が、私の父となる人と、お見合いで初めて出会うのは、「細雪」にも出てくる渋谷のフランス料理店「二葉亭」である――そしてこれはまったくの余談だけれども、父が大好きで、私も子供の頃から、ときには弟と二人、子供だけでも食べに行っていた鰻屋が隣駅にあって、それが、「細雪」に出てくる「小満津」の流れを汲んだ店なのだった――。
 自分がお見合いというものをまったくしなかったので、見合い話は未知の世界で、だからこそ興味深い。「細雪」の見合い話も、愛子さんや母の見合い話も。そういう意味では自分は妙子的立場にある。時を超えて、愛子さんと、母と、三姉妹であるような気さえしてくる。けれども、昔は二人のうまく行かなかった見合い話を面白く聞いていたけれども、今となっては感慨深いのだった。愛子さんがちゃっちゃと食べちゃっちゃと払うということをいつまで経っても繰り返していたら、私の母という人はいなかった。そして、私の母が、「二葉亭」で出会った私の父、海外留学が迫っていたその人に「いいですね」と押し切られていなかったら(あくまで母の側の話で、残念ながら父の側の話は聞きそびれた)、今の私はいなかったのである。

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