藤本真由オフィシャルブログ

 2月の四大陸フィギュアスケート選手権での羽生結弦の演技を観ていて、…芸術家としてますますやる気なんだな…と、非常に頼もしく感じた。そしてまたもや頭の中でぐるぐる、寝つかれない夜…。ぐるぐるしたのは、今度は問い。
――フィギュアスケートとはいったい、何を表現する上でもっとも優れている芸術なのだろうか――。
バレエについて、熊川哲也にそう聞いた。歌舞伎について、四代目市川猿之助にそう聞いた。そして今度はこの問いを、羽生結弦に投げかけなくてはならない。フィギュアスケートの革新者である彼に。
自分でも考えてみた。フィギュアスケートの歴史をたどると、バレエ、舞踊との関わりは外せない。フィギュアスケートの演技においてバレエ曲はしばしば用いられる。けれどもそれらの演技を観ていて、…これならバレエを観る方が楽しいな…と、そう思うことがある。飽きっぽいので、表現というものがない、成立していない演技を観ていると、フリーの間、下手したらショートプログラムの短い間さえ、集中力がもたない――それは、舞台を観ているときも同じではあるのだけれども。もちろん、超絶技巧が次々に繰り出されて、その技自体に芸術的な美しさが認められるようなときは別だけれども、高い点数を獲得するためだけの技がただ連続しても、飽きてしまう。ただし、これはあくまで私の観方であって、フィギュアスケートはさまざまな形で楽しまれるべき競技であることは言うまでもない。
 スケート靴を履く。そのことによって、人間の氷上での移動スピードは加速され、より高く跳躍できるようになり、より速く、より多く回転できるようになった。そうして人体の能力が拡張されたとき、可能となる芸術表現はいったい何なのか。私はそのことを、これから羽生結弦の演技のうちに考えていきたいと思うのである。
 もう一点、神を降ろす話について。フィギュアスケートの大会は基本的にその都度一回勝負である。その際、確実にフィギュアスケートの神を降ろすためには、心身共にコンディションを整えることが大切になってくるだろう。ここで、舞台芸術において神を降ろす話をするとして、例として宝塚歌劇の「ノバ・ボサ・ノバ」というショーを挙げたい。初演は1971年、鬼才鴨川清作が作・演出を手がけた。ほとんど、鴨川が独自の呪術的儀式を新たに創り出し、その儀式の熱狂によって生を祝福するかのような、宝塚歌劇においてもきわめて異色の作品であって、初演以来何度か再演されているが、その都度、亡くなった鴨川の霊が劇場に現れる――と聞いてもむべなるかなと思わせるものがある。さて、この作品のクライマックスで、主演者は名曲「シナーマン」――もともとは黒人霊歌であり、それこそフィギュアスケートでも用いられていたことがある――を歌って神を降ろさなくてはならない。公演回数が例えば40回あるとしたら、本来ならば、その数だけ必ず。一回勝負で確実に神を降ろすのと、来る日も来る日も連続して確実に神を降ろすのと。どちらが困難か、比べても意味のないことではあるのかもしれないけれども。
 前回、羽生の演技について記したとき、私は、「モーツァルトあたりの天才とじっくり向き合ってみるのはいかがでしょう」と書いた。何もモーツァルトを是が非でも勧めるということではない。ワンシーズン、来る日も来る日も聴いて、滑って、彼の芸術上のインスピレーションがかきたて続けられる曲ならば何でもいいと思う。ただ、数百年も人々に聴かれ、愛され続けている曲ならばやはり、その奥深さ、尽きせぬ魅力は担保されているのではないか、そう考えたまでのことである。
 さて、先ほどフィギュアスケートとバレエについて述べたが、明日3月15日からKバレエカンパニーが渋谷オーチャードホールにて「レ・パティヌール〜スケートをする人々〜」を上演する。今から80年前、英国ロイヤル・バレエ団によって初演されており、バレエ史にその名を残すフレデリック・アシュトンが振付を手がけた。Kバレエでの上演は初めてだが、私は、熊川芸術監督が英国ロイヤル・バレエ団時代に踊った“ブルーボーイ”を忘れることができない――というか、その残像が今も、奇妙な形で私の脳裏に貼りついていることは以前記した。バレエの側からは、フィギュアスケートの美をどのようにとらえ、表現したか、観て考える好機だと思っている。
 グランプリファイナルでのショートプログラムの演技に、ソファに並んで座って一緒に観ていた夫としばし、絶句してしまった。久々、ガツンと来る衝撃。
 羽生結弦は芸術家である。11月のNHK杯で同じショートプログラムを観たときからわかっていた。使用曲は今年亡くなったプリンスの「Let’s Go Crazy」。1984年の大ヒット曲である。当時カナダに住んでいて、MTV文化にどっぷりはまっていた私は、この曲のプロモーション・ビデオを何百回観たかわからない。骨の髄まで音の微細なニュアンスが染み込んでいる。その楽曲を、NHK杯での羽生は余すことなく表現してみせた。ジェフリー・バトルの振付も非常に優れているのだが、どことなくゴスペルを思わせる出だしとそこにかぶさるセリフ、アップテンポの本編、そしてギターがうねるラストが、フィギュアスケートの技と滑りで的確にヴィジュアライズされてゆく。フィギュアスケートを観ていて、ジャンプの際、音楽とずれているなと感じることがしばしばあり、それはアクロバティックな大技の特性上やむを得ないことのように思っていたけれども、羽生の「Let’s Go Crazy」はジャンプさえもが表現の一部たり得ているのだった。トリプルアクセルを決めた直後に左足を高く上げるしぐさなど、音楽にぴったり合っていて、おおという感じ。
 フィギュアスケートは点数競技である。高い点数が勝利を担保する。しかし、羽生の場合、点数を稼いで他選手と戦うことだけでなく、また別の闘いを同時に行なっているように見える。己が表現したいものをスケートによって、盤上に描き出せるかという闘い。すなわち、芸術家の闘いである。神に向かっている。交信している。もちろん彼は、点数の高さを楽しむ観客がいることも承知していて、さまざまな楽しみ方があっていいと考えているあたり、壮一帆の姿勢とも通じるものがある。
 さて、10月のスケートカナダの際には、どうもスケートの神様が降りて来なかったようである。NHK杯では神は降りた。フリーでも、天変地異をはじめとする大自然の脅威への向き合い方に、熊川哲也にも似た姿勢を感じた。そしてグランプリファイナルのショートプログラム。――ああ、表現したいことが、ここに来て楽曲を超えてしまったんだ――と思った。気持ちが勢いよく先走って、だから表現としてはNHK杯のときの方がよかったかもしれない。けれども、表現者としてそうして凄まじく進化していく姿に、衝撃を覚えたのである。文章がぐるぐる頭の中をめぐって、興奮してしまってその夜なかなか寝つかれなかったほどに。
 己に与えられた才能で、フィギュアスケートの芸術的可能性を拓いてゆく。芸術家羽生結弦の美の闘いに、今後も注目していきたい。あ、せっかくなら、モーツァルトあたりの天才とじっくり向き合ってみるのはいかがでしょう。