宙組時代、花乃まりあは新人公演や宝塚バウホール公演でヒロインをたびたび演じていたが、残念ながら観る機会に恵まれなかった。明日海りおの相手役を務めることになって初めての舞台、「Ernest in Love」を観て、その声を実に魅力的に感じた。凛として涼やかで、若干アニメ声風味でもある。そして大人っぽい。オフ・ブロードウェイ・ミュージカルのヒロインを、よけいな自意識なく思いっきり体当たりで演じていて、小気味よかった。明日海は月組二番手時代、役替わりでロミオとオスカルを既に経験していて、似合う役をトップになる前に二つも演じてしまって、この先いったいどうするんだろう…と実は少々心配だったのだが、大人の役も演じられる声の持ち主、花乃を相手役に迎えたことによって、明日海自身が演じる役の可能性が広がった部分もあるように思う。
 昨年、サリー役としてすばらしい演技を見せた「ME AND MY GIRL」の直後、花乃は退団を発表した。宝塚生活最後の作品となったのが、「金色の砂漠」。劇団期待の若手、上田久美子の大劇場公演第二作は、宝塚歌劇の可能性を大いに広げんとする意欲作である。花乃が演じるのは砂漠の国の王女タルハーミネ、そして明日海が演じるのは彼女の奴隷ギィ。宝塚のトップスターが奴隷を、相手役がその奴隷を従える王女を演じる、そんな役柄設定の斬新さを超えて、この作品が意欲作であるというのは、愛とアイデンティティのせめぎ合いという、実に複雑な心理的葛藤を、このトップコンビの演じる役柄の関係性のうちに描き出そうとしたところにある。ギィは実はかつて滅ぼされた王国の国の王子であり、王女の国を滅ぼして自らが王位に就き、王女を妃に迎える。それでハッピーエンドとはならない。王の娘、父の娘であるタルハーミネは、それを潔しとしない。一人砂漠に彷徨い出る。そんな彼女をギィは追う。二人が金色の砂漠を彷徨い、息絶える様はほとんど道行、心中である。タルハーミネは、ギィへの愛と、王女としてのアイデンティティ、それが支えるプライドとに引き裂かれた存在であり、心のうちのその断裂を乗り越えるには彼岸へと至るしかない。壮絶な愛憎劇である。そして、美しい。物語に見入るうち、私は、…子供のころ、何かの絵本で読んだ、いにしえのおとぎ話にこのような話があったのではないか、そんな錯覚にすら囚われていった。1月2日の初日前舞台稽古を見学した際、…年始早々すごい話を観た…と思ったものだが、それから半月余り経って観た際は何だか凄まじかった。舞台に、物語に圧されて、終演後、客席の空気が何だか変わってしまったようで、そういえばその二日前に新橋演舞場で観た四代目市川猿之助の「黒塚」もそんな風だったと思った。作者はかくも宝塚歌劇の可能性を信じる人なのだなと胸が熱くなった。それもやはり、演者に対する信頼あってのことだと思う。退団作で、花乃は役者として劇作家から大きな信頼を寄せられたのだと感じた。タルハーミネは難役である。トップスターを足蹴にし、ときに冷酷に接する。その際生きるのが、花乃のあの声である。凛として涼やかで。だからこそ、タルハーミネの難しいセリフを美しく通すことができる。べちゃべちゃ甘ったるい声の持ち主が演じたとしたら、目も当てられなかっただろう。
 今回、花乃はエトワールも務めている。私が最後に観た日、彼女は、…楽しかった…と宝塚生活を振り返っていた。心から、よかった、そう思った。ここに至るまでにはつらいこと、大変なこともいろいろあっただろう。けれども今、楽しかった、そう彼女は思っている。それが芸の道である。つらさや困難はあれど、その道を歩くことはやはり、楽しい。舞台人として、そんなプロフェッショナルな境地に至って、彼女は宝塚歌劇の舞台を去っていくのだと思ったら、何だか感無量だった。
 退団後、舞台に立つことを今は考えてはいないそうだけれども、もし気が向いたら、あなたのその声をまた聴かせてください。私は、あなたの声が大好きです。
 本年度のベストは花組「ME AND MY GIRL」(役替わり)Bパターン。このBパターンのマリア公爵夫人及び、「For the people−リンカーン 自由を求めた男−」のヒロイン・リンカーン夫人役で好演を見せた仙名彩世が、新人公演ヒロイン経験なしに次期花組トップ娘役に就任するとの発表が、2016年の宝塚歌劇の一番びっくりニュースであろう。
 今年は非常に残念ながらワーストの発表あり。月組公演「舞音−MANON−」「GOLDEN JAZZ」の二本立てである。月組生の頑張り自体は高く評価したい。「舞音」には、…何だか言いようのない気持ち悪さを感じた。「愛と革命の詩」に続き、大石裕香の振付がベッド・シーンで用いられていたが、生々しく露骨な表現なしにラブ・シーンを美しく表現できるところに、宝塚歌劇の魅力があるように思う。かつて一緒に仕事をしていたカメラマンが、男女の舞台においても、具体的にキスした瞬間より、その前後の表情の方が色っぽかったりして、シャッターを切りたくなる…と語っていたのを思い出す。女性がすべての役を演じる宝塚では、実際に唇を合わせたり肌を合わせたりといった表現はないけれども、それでも、ちょっとした表情やしぐさによって、色気やエロスはいくらでも表現できるものだろうと思う。こうしてベッド・シーンでたびたび用いられてしまうと、大石の振付にも何だかよくない色、印象がついてしまうような…。作・演出の植田景子は、「舞音」でも、シェイクスピアの「オセロ」を原作とした「The Lost Glory−美しき幻影−」でも、“純愛による拝金主義の否定”というテーマに取り組んでいたが、「レ・ミゼラブル」のテナルディエ夫婦の描写にうかがえるようなシニカルな視点なしに“この世はすべて金なのさ”というナンバーを大人数で盛り上げてしまうと、かえって拝金主義を賛美しているだけのような印象が残ってしまう。「エリザベート」の「ミルク」が名ナンバーたりえているのは、持たざる者の怒りから始まり、この社会を変えなくてはならない、変えようという変革の楽曲となっているからである。「舞音」は今世紀初頭の仏領インドシナ(ベトナム)のハノイを舞台にしていたが、何だか無菌化された印象で、混沌、猥雑感といった魅力にも欠け…。植田にはバウホール公演では「エイジ・オブ・イノセンス」「オネーギン」といった佳作を生み出してきた実績があり、大劇場公演との相性のよくなさはどうも気になるところだが、これからの活躍に期待したい。「GOLDEN JAZZ」の問題点は、作品自体にではなく、キャトルレーヴで販売しているタンバリンを作中客席で鳴らせるという企画の方にある。鳴らしたい客の自由と、近くで鳴らしてほしくない客の自由とは本来平等であるべきだが、この場合、前者の自由が問答無用で優先されるところに問題がある。私の知り合いは、隣の観客に激しくタンバリンを鳴らされ、観劇翌日まで耳が痛かったと言っていた。ペンライトやポンポンを一緒に振るくらいであれば騒音の問題はないが、音はときに凶器になり得る。一考を要する。

 それでは、2016年度の宝塚歌劇新人賞〜。
 一人目は当然、「ME AND MY GIRL」で素晴らしいサリー役を演じた花乃まりあ(96期)。私の作品観を変えてくれたことは既に記した(http://daisy.eplus2.jp/article/440575223.html)。花乃は残念ながら年明けすぐの東京宝塚劇場公演「雪華抄」「金色の砂漠」千秋楽をもって退団するが、有終の美を期待したい。

 二人目と三人目は、雪組公演「るろうに剣心」での活躍より。
 四乃森蒼紫を演じた月城かなと(95期)は、「♪今もう一度知らしめよう/最強なのは 御庭番衆だと〜」と歌っていた。それも当然、最強すぎるだろう! と思った。何しろここで引き連れているのは、透真かずき、真那春人、久城あす、煌羽レオという、雪組でも腕に覚えありの面々。ちなみにその中の一人,久城(94期)であるが、初めて認識したとき既に芸が達者で、かなりの上級生だろうと勝手に思っていたので、タカラヅカニュースで新人公演で挨拶している姿を観たとき本当にびっくりした(そして「るろうに剣心」では、病気休演者の代役で、既に卒業した新人公演に異例の出演を果たした)。つまりは新人賞カテゴリーを最初からスキップしている人材である。
 さて、そんな最強メンバーのバックからの応援も強みに、月城はここで大きく飛躍した。ニヒルな二枚目役が彼女の整った風貌とも非常にマッチしていた。何よりこの場面、――いい舞台にする!――ということしか考えていない、そんな、蜷川幸雄の舞台に感じたのとも似た非常に純度の高い思いがみなぎっていて、そんな場面を芯で率いる彼女に頼もしさを感じた。男役・月城かなとを必ずやブレイクさせるとの、宝塚座付演出家・小池修一郎の熱い意気込みとシュアーな手腕が光った場面でもある。「ローマの休日」で演じたコミカルな美容師役では、もっとはじけても大丈夫! とも思ったが、いずれにせよ、真面目なイメージのある彼女が新境地を拓いたことは間違いない。芝居作品に比べショーでの押し出しの弱さが気になるところだったが、「Greatest HITS!」ではそのあたりだいぶ改善されたように感じた。鳳翔大と二人、着ぐるみで務めたトナカイ役では日替わりのアドリブも飛ばし、劇場の楽しいクリスマス気分を大いに盛り上げた。来年2月には月組に組替えとなる。月城は前雪組トップスター壮一帆の役を新人公演で二度演じて主演しているが、その壮に加え、かつての月組トップスター天海祐希の面影も感じさせる、さわやかな二枚目の大砲である。新天地での大暴れに期待。
 三人目は、「るろうに剣心」で子役・明神弥彦を演じた彩みちる(99期)。彩は娘役であり、男の子役での新人賞はおかしいと考える向きもあるかもしれないが、何しろその舞台に惚れた。この人の舞台をもっと観たい! と思った。声も工夫し、本当に男の子が一人まぎれこんできたかのようで、上級生相手の銀橋での芝居も堂々とこなし、末恐ろしさを感じさせた。彼女のチャーミングな活躍が「るろうに剣心」の世界に一風の新味を加えていたことは間違いない。
 ちなみに、彩を初めて認識したのは、「るろうに剣心」の前作「La Esmeralda」のロケットでセンターを務めていた際。踊りながら、いきなり、客席に向かってそれは必死な顔でウィンクを連射!!! ――珍しい娘役もいるものだな…と思った。そして激しく気になった。だいたい名前が「みちる」である。どうしたって、新人賞第一号、宝塚が誇るタンバリン芸人・天真みちるを思い出してしまうものが…。それはさておき。6月の「ドン・ジュアン」でヒロインを務めた際には、膝折(猫背では背を縮めたことにはならない!)やドレスさばきなど、娘役の基本所作においていささかの経験不足を感じたが、娘役芸を大いに磨いた上で、彼女の本来もつ面白さや芝居心が発揮されていけば、それこそ最強であろう。舞台人・彩みちるの今後が楽しみである。

 昨年、有力候補として挙げた二人についても、舞台が悪かったということでは決してない。非常に活躍していた。宙組の伶美うらら(95期)については、娘役と女役、その境界線、移行期に在る印象を受けた。星組の礼真琴(95期)については、「桜華に舞え」「ロマンス!!」を観るだに、…目指す男役像がルックス的にアイドル系なのかと思っていたら、逆に、ものすごく重厚なおっさん芸?! それはもう、新人賞ではなく、さらなる高みを目指していくべきであろうと思った次第。それにしても。毎年新たな人材が現れるのが、100年以上続いてきた宝塚歌劇の強み。今後も、「我こそは〜」と期すフレッシュな人材の台頭を大いに楽しみにしたい。
 10代半ばで亡き祖母にプレゼントされたクリスマス柄のカーディガンを、今も毎年着ているあひる。何しろ、クリスマス・シーズンに多くても二、三回しか着ないので、綺麗なまま。コーディネートにほとんど登場しないレア・アイテムなのですが、今年は、クリスマス・メドレー場面のある「Greatest HITS!」観劇の際、11月という早い時期から着られて、クリスマス気分を満喫できて、あひる、大満足。
 クリスマスの本日は雪組公演千秋楽、2016年度の東京宝塚劇場公演もこれにて終了〜。そんな良き日に退団する朝風れいは、どこか懐かしい温かさを感じさせるたたずまいが魅力の男役――そう、例えば、寒い冬の日、家に帰ってそのぬくもりにほっこり一息つくような。「Greatest HITS!」でも、ショーの進行役を担う“ジュークボックスカルテット”の一員として、温かな歌声を披露。そして、「心中・恋の大和路」の蜆売りの美声で注目された真條まから。芸達者揃いの雪組でいつかさらに名を上げてくると思っていただけに、ここでの退団は残念なものが。…でもでも、Merry Christmas! 限りなくメリーな一日となりますように。
 それにしても雪組は強い! 男役陣も娘役陣も隙がない。全員で常に攻めてくるような、心にアグレッシヴな舞台。「Greatest HITS!」の心の名場面は、ジョージ・ガーシュウィンの名曲「サマータイム」を用いたシーン。早霧せいなと望海風斗が男役同士で繰り広げるデュエット・ダンス、バックで踊る娘役陣、そして存在の限りの絶唱を聴かせる舞咲りんが超絶エロティック。前作「ろろうに剣心」まで怪我でしばし休演していた舞咲の完全復活は喜ばしい限り。
 「エリザベート」でフランツ・ヨーゼフを演じた真風涼帆が素晴らしかった。オリジナルのアプローチで役柄の新鮮な造形に成功していた。その役作りの核心に据えられていたのは、“人生の選択”なるテーマである。
「♪恋は盲目/フランツは選び違えた」
 百年後の日本人、否、世界の人々にすらこう歌われてしまう、エリザベートとの結婚。草葉の陰のフランツ・ヨーゼフからしてみれば、「余計なお世話じゃ」というところではないだろうか。それとも彼は実のところ選び違えたのだろうか。エリザベートではなく、おとなしくてかわいい人形のような女性と結婚していたら、彼にはもっと幸せな人生が待ち受けていたのだろうか。姑ゾフィーの意見も何でも聞き入れ、同衾を拒んだり旅に出がちになったりすることも、ましてやトート=死の幻想に恋するようなこともなく、人生の同じゴールを目指して常に寄り添って歩いて行けるような――。
 わからない。そのような女性がはたして現実に存在しているかどうかも含めて。一つ言えるのは、フランツ・ヨーゼフはエリザベートと結婚するという選択を行い、その結果、二人の人生は百年後には世界中で上演されるようなミュージカルへと仕立てられたということである。
 人生において人はさまざまな選択を行う。大きなものから小さなものまで、その数は日々限りない。そして、自分が生きてきた中で下してきた選択すべてが正しいとまで言い切れる人は、決して多くはないだろう。人それぞれのメンタリティによって違いはあれど、選択にはときに後悔がついて回る。あのときああすればよかった、こんなことするんじゃなかった、等々。
 けれどもその一方で、自分が下した決断を正しかったとして生きていく道もある。あるいは最初は正しくなく思えていたとしても、その後の生き方によって、遂には正しい選択だったという風に変えてしまうという大技だって可能である。
 この“人生の選択”なるテーマを役作りの核心に据えた上で、真風フランツはエリザベートに問いかけ続ける。君自身は、あのとき間違った人生の選択をしたと考えているの?――と。正しかったと思うも、間違ったと思うも、それは君自身がその後の生き方によって選べる部分もあることなのだよ、と。そして最終的には、フランツ・ヨーゼフ自身の人生の選択が正しいものであったかどうかの判断を、観客に委ねるところが素晴らしいのである。
 私自身、基本的には明るい人間だとは思うのだが、ときどき自分でも手のつけられないほど心が暗くふさぐことがあり、そういうときには、自分がこれまで行ってきた人生の選択すべてが間違っていたような、そんな思いにとらわれることすらある。けれども、真風フランツを観ていて思ったのである。最後の瞬間に、…ああ、自分はこれまで間違った選択ばかりしてきたなあ…なんて思うのはまっぴらだ、と。ときに間違いもしたけれども、それでも自分は自分として十分納得して生きた、そう思える人生の最後を迎えたい。そのためには、日々の人生の選択を悔いなきものにするよう思いきり生きること、そして万が一間違ってしまったように思っても、結果としてはそれでよかったのだと思えるよう力を尽くすこと、それしかない。

 壮一帆の舞台に、ときとして、舞台評論家としての居ずまいを正されるような、喝を入れられるようなところがあるとすれば。真風涼帆の場合はこんな風である。…このときこう書かれていたことと、ここでこう書かれていることと、齟齬をきたしているところがあるように思われるのですが、そのあたりどうお考えですか…と、それは丁寧に問われる感じ。しかもそこに何の底意があるわけではない、実に素直な礼儀正しさなので、却ってドキッとしてしまうような。
 折り目正しい正統派二枚目である一方で、真風涼帆はコメディエンヌでもある。それも、決して押しつけがましく笑いをとろうという自意識が一切感じられない好ましさがある。
 「エリザベート」のお見合いシーンで、登場人物たちがどこかコマ落としのような動作をする振付があるが、カップを手に二度三度とせかせか飲む真風フランツを観ていて、思わず笑ってしまった。今までこの場面のフランツに笑った覚えがないというか、「エリザベート」のフランツに笑った覚えがあまりないというか――。そうだ、「エリザベート」の世界においては悲劇、悲愴に彩られてはいても、現実のフランツ・ヨーゼフの人生においては涙も笑いもあったはずだと、改めて思った。
 今年初めの「Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜」で演じたジョージ・ケアリーは、シェイクスピアの欲望をかきたて彼に劇作の道を歩ませ続けるパトロンの役どころ。その妻の名はベス、そして彼女が夫の野望を激しくかきたてる――とくればこれはもう「マクベス」である。エリザベスT世によって、シェイクスピアもケアリーも女王のための舞台で役者を務めることを命じられる。身体中がカッチンコッチンに緊張してしまったケアリーが、ふと客席を見やるとそこに妻ベスがいて、心の中で声援を送られ、ケアリーの緊張は見事ほどける。ようは妻の存在が彼にいつも力と自信を与えているという話で、血なまぐさい殺人劇、権力簒奪劇が繰り広げられることもなく、「マクベス」のパロディでよかった! というオチなのだが、この、緊張がほどける瞬間の真風の演技の、どこかぎこちなくさえ思えるほどに、巧まずして笑いを誘うおかしさと言ったら。ベスを演じた伶美うららも、娘役の範疇を決して踏み越えず、けれども迫力のある“マクベス夫人”ぶりを見せてから、この場面においてほっこり妻の愛情を見せるという好演で、二人の息の合ったとぼけ具合が愉快に爽快だった。
 5月の主演作「ヴァンパイア・サクセション」は、ヴィジュアル派真風涼帆にヴァンパイアとくれば耽美世界? と思いきや、七百年生き続けたヴァンパイアが最終的には人間に進化(退化?)してしまっていたというオチのコメディ作品。ここでも真風のコメディエンヌぶりが活かされていた。人の血を吸って生きるヴァンパイア故の苦悩が、決して不器用な役者ではないながらもどこか不器用に見えるところが魅力である真風によって演じられると、共感涌くおかしみを誘う。このコメディタッチの作品において、作・演出の石田昌也は、人間とヴァンパイア、つまり異なる種族が“心中”することなく愛し合うにはどうしたらいいかという問題に真剣に取り組んでいるのだが、…舞台上の真風涼帆が、ふっと、本当に七百年生き続けてきた存在としか思えなかった瞬間があった。
 同じ瞬間は「エリザベート」でも訪れた。ふっと、フランツ・ヨーゼフその人がそこにいるように感じられたのである。折り目正しい理知の人にして、かつ、憑依系?
 折り目正しさ。それは男役真風涼帆の魅力の一つでもある。彼女を観ていると、懐かしく思い出す一人の男役がいる。安蘭けい。真風は星組トップスター安蘭の下で育ち、安蘭の役を演じて新人公演に主演もしている。「Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜」併演のショー「HOT EYES!!」で、スーツ姿の真風が銀橋を渡り、その後、トップスター朝夏まなとと伶美うららとそれはセクシーなシーンを繰り広げるのだが、銀橋を渡る際のちょっとしたしぐさ、それがもう、“やさぐれていない安蘭けい”である――無論、安蘭けいの場合は、やさぐれているところが魅力だったわけである。真風はあくまで折り目正しい。
 昨年のこの時期、私は真風について、「芸の面で一度も後退するということなく、着実に前へ前へと進んで、次代の宝塚を担う人材となった」と記した。今年の真風もまた、着実に一歩一歩前へと進んでいた――「あ、前の週観たときより着実に前進した!」と思うことすらあった。その結果が、周囲でも真風フランツ絶賛の嵐である。その揺るぎない前進に、思った。あれもこれもと手を出さず、一度に一つずつこつこつ取り組んでいった方が、結局のところもっとも効率がよいのかもしれないと。これもまた、舞台人真風涼帆に示された人生の教訓であろう。そして。着実に一歩一歩前へと進んで――、とうとう、“舞台は最高のエクスタシー”が見えてきた。真風涼帆の時代は近い。
 北翔海莉が退団すると知ったとき、――壮一帆と同じ、大劇場公演三作で退団なんだな――と思った。もう一作くらいはやるんじゃないかと思っていたところまで同じだった。私の中では驚くにはあたらなかった。宝塚歌劇団において歩んできた芸の道は、この先も、いつまでも、続く。二人には、その先の道がはっきりと見えたのだと思えたから。

 退団作「桜華に舞え」で北翔が演じた主人公・桐野利秋は、維新の立役者でありながら、同じ薩摩藩の衣波隼太郎(紅ゆずる)らとは途中で袂を分かち、西南戦争に身を投じる。幼なじみの親友でありながら、違ってしまった道を行く二人、その友情と葛藤のドラマが物語の一つの芯となっている。戦場において斬り合いながら、二人は、心の中で会話を交わす。その会話以上に、北翔と次期星組トップスター紅とが、共に舞台に立った短い期間の中に舞台人として互いに培ってきた思いが作中ほとばしり、北翔が星組にもたらしたものは、紅をはじめとする星組生たちによって確かに引き継がれていくことを予感させる。
 そして私は、違ってしまった道を行く物語の二人の姿を観ながら、――自分の道が、北翔の道とは違ってしまった、そう頑なに思い込んでいた時期のことを思い出していた。私には何だか……、その頃の彼女は、自分の芸の確かさを振り回す、どこか傲慢な人に見えていた。いろいろな発言に、……こんなこと言わなければいいのにな、蜷川幸雄が演出した「コリオレイナス」を観るといいんだけど……等、よけいなお節介を思っていた。何のことはない。その姿は、かつての私同様だった。私自身も、自分が舞台を観る目とそれを書き記す文章さえ確かならば、他には何も必要ない、そう思っていた時期があった。傲慢だったのは自分である。何故、自分の道だけが正しくて、他の人の道はそうではない、そんな風に思っていたのだろう――。だからこそ、<「トロイアの女たち」で「じゃじゃ馬ならし」>なのだけれども。蜷川幸雄に教えられた大切なことの一つに、「たとえ一人の天才がいたとして、だからといって即優れた舞台が生まれるわけではない」ということがある。無論サイズの違いはあれど、基本的に、舞台芸術とは、多くの人が関わることによって生み出され、そして多くの人によって受容されることを究極的に必要とする芸術形式である。そしてそれは、人生の他の多くの事柄についても当てはまることだろう。ある一人がたとえ正しいこと、立派なことをやろうとしていたとして、多くの人を巻き込んでいかなくては大きなことは成し得ない。それには、情熱なり、言葉なり、姿勢なり、他の人々の心を動かす何かが必要である。
 一度は、自分の道と北翔の道とは違う、そう思った。私は間違っていた。異なる道を歩んでいるように見えて、同じところを目指していた。その気づきは、――自分では、神は共に歩いていない、そう思えたときにも、やはり自分は神と共に歩いていたのだと気づくことにも似ていた。そして私は幸せなのである。同じ道を歩んでいることが。
 北翔海莉はトップにならないかもしれない。そう思ったとき、私はパラレル・ワールドで、彼女がトップになったことに勝手にしておいた。その想像は、実際に起こった現実とは大きくかけ離れていた。退団公演の二作、「桜華に舞え」にしても、「ロマンス!!(Romance)」にしても、北翔海莉が星組の仲間と共に創り上げる舞台を観ることがこんなにも幸せだとは思いもしなかった。こんなにも多くの仲間に心を寄せられ、一人一人のその心に心で返す、そんな舞台――。その頂点はやはり、「ロマンス!!」の「第6章 友情」の場面である。こんなにも幸せそうに舞台に立つ北翔海莉の姿を観ることになるとは、数年前には思いもしなかった。
 そして私は気づいたのである。パラレル・ワールドで想像していたのは、北翔海莉と宝塚のトップスターという称号を結びつける、そのことに過ぎなかったのだと。トップスターは一つの地位であり、名称である。その実質をどんなものとするかは、その地位に昇った者それぞれによって異なる。
 長い宝塚人生の果て、北翔海莉がたどり着いたのは、その芸と人間性によって多くの人々に慕われ、確かなものを後に残していく、そんなトップスターだった。
 それにしても。私は先に、宝塚のトップスターには、<「この人はトップスターになるんだろうな」と思われて若くして就任した人物と、「この人はまさにトップスターにふさわしい」というところまで昇り詰めてから就任した人物とがいる>と記したけれども、北翔海莉について何だか不思議だというのは、「この人はトップスターになるんだろうな」と若いころから思われていて、そして、「この人はまさにトップスターにふさわしい」というところまで昇り詰めてから就任した、つまりは、早咲き&遅咲きタイプだからである。でも、それだけ長い間、宝塚歌劇の舞台において、多くの観客を楽しませてくれたということなのだ。だからこそ、これぞ宝塚歌劇の正統! とも言えるロマンチック・レビュー「ロマンス!!」の世界があんなにも似合うということなのだと思う。舞台でも披露したアルトサックスをはじめ、多くの芸事に才を発揮し、一見、宝塚の世界をはみ出すかに思えたけれども、実のところ、とても宝塚らしいスターなのだった。

 さて。その先の道が見えたということと、実際にその道を進むこととは、究極的には別である。例えば。壮一帆が退団後、舞台活動になかなか踏み切らず、人々をやきもきさせたことは記憶に新しい。けれども、壮がちょうどこの時期、東京芸術劇場プレイハウスで、アラン・エイクボーンのウェルメイド・プレイ「扉の向こう側」において、大先輩の一路真輝共々、宝塚とは異なる舞台で、宝塚で培ったものを活かして、実に楽しそうに舞台に立っている姿を観ると、思わずにはいられない。
 宝塚歌劇のすべてを美化し、賞賛するわけでは決してない。けれども、宝塚歌劇に美点があるのならば、それを宝塚歌劇だけのものとするのではなく、社会に広めていくことは素晴らしいことだと私は思う。そしてその社会とは、必ずしも舞台芸術界にとどまるものではない。けれども。
 出会った場所が劇場で、私は舞台評論家なのだから。みっちゃん、また劇場で会いましょう。宝塚の男役出身者が、外部の舞台で活躍して、男役として培ったものを活かして、日本の女性の多彩な美しさ、かっこよさを追求していくことを、私は非常に尊いと思う。そしてそのことは、日本の男性の多彩な美しさ、かっこよさを追求していくことにも、究極的にはつながっていくはずである。
 ちなみに。みっちゃんと言えば、大型特殊自動車や大型自動車、牽引の運転免許を持っていることが知られているが(トラックもバスもフォークリフトもクレーンもタンクローラーもダンプも運転できる!!!)、「宝塚おとめ」に長年記している特技は、三谷幸喜作・演出「国民の映画」のユダヤ人執事フリッツと同じ“三点倒立”。フリッツが舞台上この特技を披露する場面はないが、みっちゃんはかつて、ベルリン公演「サンライズ・タカラヅカ」の舞台で、――それこそ、壮一帆とも一緒に――この特技を披露している。
 北翔海莉が専科に行き、トップスター就任が絶望視されていた頃、自分がパラレル・ワールドで彼女がトップになったということにしていた話は以前記した。実際に北翔がトップスターになって、……そんなパラレル・ワールドより、何倍も、何十倍も幸せだった。楽しかった。それにはまず何より、娘役トップ妃海風の存在が大きい。パラレル・ワールドには、相手役の想像はなかった。それも、北翔を人間として、舞台人として厚く慕い、退団の日までしっかりついていこうという気概と、そして、人としてこの上ないかわいらしさを兼ね備えた相手役の――。退団公演の初日前囲み会見でも、相手役を慕うコメントに、何だか思わずふふっと笑みがあふれてしまったくらいである。決して演技ではない、その性格の素のかわいらしさ。その上に娘役としての技巧が乗る。だからこそ、ロマンチック・レビュー「ロマンス!!(Romance)」の冒頭の、言う人によっては気恥ずかしく聞こえるかもしれない「ロマンス!」というセリフがあんなにも輝いて決まるのである。それは宝塚の娘役としての勲章である。
 大劇場前作公演のショー「THE ENTERTAINER!」のスパニッシュの場面で、妃海は北翔と踊っていた。彼女は決して大柄な方ではないから、スパニッシュの長く裾の広がった衣裳はさばく上でハンディがありそうなのだが、……手をぱっと離す、またぱっとつかむ、その動作を何度繰り返しても、裾が常に美しく見える。その様に見惚れた。その仕草を獲得するまでに、どれだけの鍛錬を重ねたのだろう……と思った。宝塚が好きで、娘役が好きで、そうして宝塚に入ったからこそ、己の道を深く探求する。宝塚が好きで、娘役が好きで、けれども宝塚には入らない、入れない人々にとって、娘役は永遠の憧れである。その憧れを背負って、道を究める。あっぱれだと思った。とある映画で、舞踏会で踊るヒロインのドレスの裾さばきがCG加工されていて、唖然としたことがある。……私はいつも、生身の人間が細心の注意をもってさばいている様を、宝塚の舞台で観ているからなあ……と。そして私は、生身の人間がそうして完璧を目指す姿にこそ、美を見出す。併演の「こうもり」のアデーレ役でも、難しい裾のドレスをさばく姿に卓越したものがあった。
 今年一月の「LOVE & DREAM」でも、妃海の娘役としての技量が光った。ディズニー・ナンバーを歌い継ぐ第一部で、妃海は「Let It Go〜ありのままで〜」を歌ったが、あくまで娘役性は失うことなく、作品の強いメッセージを伝えていた。いつぞやの紅白歌合戦でイディーナ・メンゼルが歌うのを初めて聞いて、……日本語で聞いていたのとは何だか違って、決して甘くない、「嫌われたって構わない!」くらいのある意味フェミニズム的強さがこめられた歌なんだなとびっくりした。それをそのままそのように歌っては、今度は娘役歌唱にはならない。宝塚にはならない。娘役だって違う意味で強いのである。その強さをこめればいい。男役があくまで中心の宝塚に対し、ディズニーの世界はプリンセス、ヒロインが中心であることが多いというのが、このディズニーとのコラボレーション作で改めて気づかされたことだったが、この作品において、凛として、かつ、かわいらしく、妃海が娘役トップとして果たした役割は大きい。
 退団公演「桜華に舞え」で彼女が演じたのは、会津藩の武家娘、大谷吹優役。北翔演じる薩摩藩の桐野利秋は、戊辰戦争で吹優の父を殺め、その後に彼女の命を救っており、そのことを彼女に言えないまま、二人は互いに淡い恋心を抱いている。実は私の母方の祖父は会津の出身で、そして私の父は山口県すなわち旧長州藩の出身で、今から半世紀ほど前の私の両親の結婚式では、かつて敵同士だった両家は今や手を取り合い云々といったスピーチがあったそうな。大河ドラマ「八重の桜」でもこのあたりの話が扱われていて、その途中まで私の父は生きていて、父と母がドラマを観ながらケンカでもしてはいけないと、私は二人の仲裁役になるべく、しばしば大河ドラマ放送時間に夕ご飯を食べに実家に足を運んでいた。そして物語上、会津と長州が何だかきなくさくなってくると、父が決まって「あれは薩摩が悪い」と言っていたことを思い出す。そんな個人的事情のもと、「桜華に舞え」を観ていて、きりりとした妃海の吹優を観ていて、私は、自分の中にも確かに流れる会津の血を思った。自分の父の命を奪った相手を、そうとは知らず恋してしまうというのは、大好きで何度も何度も読んで涙した大和和紀の漫画「菩提樹」を思い出すな……とも。自分の学んだ医学を活かしたいと、桐野も従軍する西南戦争で看護にあたるりりしい吹優。桐野には妻がいて、結局吹優とは結ばれぬままで、最後に吹優は桐野の遺品をその妻に届けて――。けなげさに、ほろっとする。
 岡田敬二作・演出のロマンチック・レビュー「ロマンス!!(Romance)」で私が一番好きなのは、謝珠栄が振付を手がけた「第6章 友情」の場面。同じ演出家と振付家のコンビがかつて生み出した名場面、宙組公演「シトラスの風」の「明日へのエナジー」をも彷彿とさせるシーンである。そして私がもう一つ思い出したのは、やはりこの演出家&振付家のコンビが、元星組トップスター湖月わたるの退団公演で餞に送った「惜別――オマージュ――」の場面。湖月の両手を支えに、次期トップスター安蘭けいが宙に舞う姿が今でも胸の奥に焼き付いている。「第6章 友情」では、LEDの照明も美しく幻想的で、そんな中、北翔と星組の仲間たちがエネルギッシュなダンスを繰り広げるのだが、このとき、長い髪の毛を振り乱しながら、パンツルックで、妃海が北翔と共に踊る、そのシーンに、何だか二人のコンビ像が集約されているように思えた――。この人はこんな真剣なまなざしで、相手役の向かう方向についていこうとずっと一緒に走ってきたのだ、そう思った。そんな場面を共に創り出せたことは、トップコンビとしての二人に輝く勲章である。
 妃海風の舞台をもっと観ていたかった。もちろん、その思いは今も胸にある。けれども、彼女からあの天性のかわいらしさを存分に引き出したのが北翔海莉であるのなら、早い退団も仕方がない。それにしても。想像より現実が何倍も、何十倍も素晴らしく素敵だなんて、なんて幸せなことだろう。そんな幸せな現実を本当にありがとう! 宝塚以外でも熱中できる何かが舞台芸術界で見つかることを、心待ちにしています。
 歌ってよし、踊ってよし、芝居してよし。「ガイズ&ドールズ」ナイスリー・ナイスリー役で快演を見せる美城れんに、客席が大喝采を送ったのはわずか一年前のことである。それが、こんなにも早く退団することになろうとは。宝塚ファンの嘆きは深い。
 退団作「桜華に舞え」で美城が演じたのは、西郷隆盛。同期の星組トップスター北翔海莉扮する主人公・桐野利秋ほか多くの人々を、度量の大きさで導き続け、西南戦争に散る。周囲の人々は無念極まりなさそうだけれども、西郷は己が運命を静かに受け止めているかのようである。その姿が美城自身と重なる。専科で活躍できる人材は本当に貴重である。トップスターになる人材より少ないかもしれない。美城れんを宝塚から失うことは無念である。けれども。彼女自身が幸せで、納得して決めた道ならば――。
 ロマンチック・レビュー「ロマンス!!(Romance)」で、美城は一人銀橋を渡り、舞台上の星組生と共に歌う。星組出身の彼女が、星組時代に繰り広げた数々の名演を思い出す。その姿に泣いたり笑ったり、大切な宝物をいっぱいもらってきた。だから。
 願わくば、またどこかの舞台で出会えますように。専科の星・美城れん、2016年11月20日をもって、宝塚歌劇団卒業である。
 夏の月組公演「NOBUNAGA<信長>−下天の夢−」で、花陽みらは、前田利家の妻まつを演じた。同じ演出家の「一夢庵風流記 前田慶次」ではトップ娘役愛加あゆが演じたキャラクターである。大劇場作品の舞台で久しぶりに花陽の思いきりのよい演技を観て、…ああ、この人の芝居はやっぱり気持ちがいいなあ…としみじみと思った。ショー「Forever LOVE!!」でもそのきらきらした笑顔が視界に飛び込んでくることが多かった。そう来なくっちゃ! と思った。花陽みらの活躍する舞台をもっと観たい! と。――まさか、その公演の千秋楽からほどなくして、彼女の退団が発表されるとは思ってもみなかった。しかも、東京公演のない、宝塚バウホールでの公演のみの作品での。
 2011年の「アルジェの男」で、花陽は、主人公をめぐる三人の女の一人、アナベルに扮した。騙されてピアノが弾けなくなり、湖に身を投げる盲目の令嬢。…アナベルは私だ…、そう思った。そのときから彼女はもはや私の一部なのである。大切な。
 レビュー「Rhapsodic Moon」(2010)では晴れやかな笑顔でラインダンスのセンターを務めていて、センターに配置された人物の表情かくあるべしと思わされ、その後ラインダンスを観る際の一つの基準になったこと。「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」(2013)で、こましゃくれた子供ルルーを演じ、特別出演していた雪組トップスター壮一帆扮するアンドレに、「可哀想にあなたは平民。お姉チャマ(オスカル)は貴族。とうてい結ばれることは不可能よ…」と、観ている側の心にまでぐさっと突き刺さりそうなほど平然と言ってのけ、役者として対等な真剣勝負を挑んでいたこと。思い出があふれてくる。
 2016年10月21日、「FALSTAFF〜ロミオとジュリエットの物語に飛び込んだフォルスタッフ〜」の千秋楽をもって、月組娘役・花陽みらは宝塚の舞台を去る。私が彼女の舞台を幸福感と共に思い出せるのと同じくらい、彼女の宝塚人生、そしてこれからの人生が幸せに満ちたものであることを願って。
 楽しみどころが見出せなかった「NOBUNAGA<信長>−下天の夢−」だが、将軍足利義昭を演じた沙央くらまはよかった。信長の力によって僧侶から将軍になる。信長には決して頭が上がらないながらも、疎ましく思う気持ち。信長と好対照の人望のなさ。ちゃっかり担がれる側に回った人間の卑小さを、沙央はコミカルの按配も絶妙に演じてみせる。沙央はショーでも魅せた。黒燕尾服の月組男役陣が踊る中、セリの上で一人「セクシーガール」と歌う黒燕尾服姿の沙央自身が艶っぽくセクシー。その前の場面でコケティッシュな女装姿で愛らしく歌い踊っているだけに、ギャップが際立つ。
 そして、今の宝塚きってのショースター、愛希れいか。「Forever LOVE!!」でも魅力全開、柔軟とりまぜたダンスを見せる。何かを激しく希求するような土着的な踊りを披露する第16場。彼女の長い腕が、背中後方に向かって空を鋭く切り開く。その様をいつまでも飽きることなく見つめていたい。前回大劇場公演「GOLDEN JAZZ」で見せたアフリカンダンスも踊りとしてはすばらしいものだったが、正直、宝塚の娘役性をあまり考慮していない振付に思えた。その点、今回の方が、踊りの実力と娘役としての魅力双方を発揮できる仕上がりになっている。スタイリッシュな中詰で、長くスリットの入ったロングドレスの裾を翻し、月組娘役陣と共に颯爽と踊る姿がこれまたかっこいい。生きのいい娘役が揃った月組をトップ娘役として率いるにふさわしい。
 その月組でダンサーとして活躍してきた娘役の萌花ゆりあが、今回の公演をもって退団である。3月の赤坂ACTシアター公演「Voice」では少々やつれ気味で、それはそれで色気を感じさせていたが、元来は、今回の公演で見せたような、晴れやかな笑顔と妖精のようなたたずまいが魅力。「ラ・バンバ」にのってのラインダンスではキュートにセンターを務め、一曲通してハードに脚上げ、踊りまくり。芝居作品で沙央の将軍義昭に側室として寄り添う姿もふんわりかわいらしかった。
 瀬戸かずやのジョン卿が、見事レディに変身なった下町出身のヒロイン、サリーを人々に誇らしげにお披露目したとき、初めて腑に落ちたように思ったのである。――彼が、「マイ・フェア・レディ」のイライザのようにサリーを淑女へと仕立て上げたのは、何もビルとサリーの恋に幸あれと祈ってばかりではない。彼自身、マリア公爵夫人を深く愛しているからなのだと。マリアの望みは、下町育ちのビルが紳士となり、ヘアフォード家の立派な跡継ぎとなることである。ジョンははじめ、このマリアの望みに反対する。しかしながら、その望みを叶えたいと思いは次第に変わる。愛ゆえに。愛ゆえに変わろうとすること。変わることで愛を成就させようとすること。それこそが「ME AND MY GIRL」のテーマに他ならない。サリーの変化がその根幹を成すことは言うまでもない。しかしながら、ビルもジョンもマリアも、そしてジャッキーとジェラルドもまた、変化を遂げることで愛をわがものとする。三組のカップルが誕生するハッピーエンドは決してご都合主義ではない。変わることで実現された愛の成就が三つの相似形を描き出す。ビルとサリーのそれを中心に、ジョンとマリア、年月を経た熟成の愛の形と、ジャッキーとジェラルド、多少戯画的な愛の形と。
 瀬戸のジョン卿相手にマリア公爵夫人を演じた仙名彩世がまた、すばらしかった。彼女のマリアは終幕、甥のビルを肉親として深く愛するようになっている。彼にヘアフォード家を出ていってほしくない。けれども引き留めるすべがない。その微笑みのせつなさ。彼女が「サリーではあなたの相手にふさわしくない」とビルに言うとき、“サリー”は決して固有名詞に聞こえない。“下町育ちの娘”の象徴のような意味合いに過ぎない。個人攻撃ではない。彼女にとって、階級の異なる相手と交際することがそもそも考えにいっさい及ばないというだけの話である。ここで逆に引き合いに出されるのが、愛を貫いた英国王室の人々であるのが面白い。愛など上流階級には要らないと断じていた貴婦人が、愛を知り、愛にほどけていく様を、仙名はふっくらと体現してゆく。前半の厳しさ、厳かさにも、――こういう上流階級の人というだけなのだ、と、どこか生身の人間らしさを感じさせる。「For the people−リンカーン 自由を求めた男−」での瀬戸の活躍は既に記したところだが、(<“ジェラール(in)山下(公園)”〜宝塚花組公演「For the people−リンカーン 自由を求めた男−」の瀬戸かずや>http://daisy.eplus2.jp/article/437051325.html)、このとき、一般的には“悪妻”とされるリンカーン夫人メアリーを演じた仙名も実によかった。願望であるのかもしれないが、――信念の人をこのように支えていたとすれば、それは素敵なことだ――としみじみ感じさせる演技だった。このときの、どんなに激しく動いても、踊っても、長く重いだろうスカートが決して乱れて見えない裾さばき、いかにも花組娘役らしいそのたおやかさは、今年の宝塚歌劇において今のところ頂点に存する(その次に来るのが、ショー「THE ENTERTAINER」のスパニッシュのシーンの妃海風)。瀬戸、仙名、「For the people」で好演を見せた二人が、「ME AND MY GIRL」の世界をしっかり支えた。
 話の流れ上、トップコンビの話が後になったが、明日海りおと花乃まりあにとっては代表作の誕生である。「ME AND MY GIRL」。何よりトップコンビがタイトルロールの作品である。いいコンビでなくしてはこのミュージカルはそもそも成立しないことを、今回改めて痛感した。それはそのまま、二人が実にいいコンビになったことを意味する。サリーの物語を生きながら、――明日海りおというトップスターに、相手役としてふさわしい舞台人でありたい、そんな自身の物語をもまた、花乃は舞台で生きているように思えた。彼女のサリーは、一幕ラストのパーティを本気の本気でぶち壊しにやってくる。ビルにふさわしくない自分はランベスに帰るしかない、その一心で。その痛切な思いを知って観る「ランベス・ウォーク」への流れは、今までになくせつなかった。「ランベス・ウォーク」とは何も、客席降りがあり、舞台と客席とが手拍子で一体になって盛り上がれる楽しいシーンというばかりでは決してないのである。現実問題として考えてみたとき、上流階級の人々とその他階級の人々がかように交流することは果たして可能だろうか。“平等”の理念は何世紀も前からあって、しかしいまだ実現されずにいる。世界中どこでも、“隔たり”が引き起こす悲しく悲惨なニュースにあふれている。けれども。舞台芸術が上演される劇場空間においてならば、人はいっとき、そこに集う人々が心を等しくして一つとなれる夢を見られるのではないか。芸術家とはそのような夢を夢見て美に邁進する人々のことではなかったか。
 そんな花乃のサリーを、あたたかな包容力を発揮して包み込む明日海りおのビル。今回の舞台は、彼女の舞台人としての本質をこれまでになく露わにしたように思う。思えばこのコンビは、プレお披露目作となったオフ・ブロードウェイ・ミュージカル「Ernest in Love」も弾んでいて、今から思えば、「ME AND MY GIRL」での成功を予感させていたのである。ただ、「Ernest in Love」について私が書くことをためらっていたのは、この原作となったオスカー・ワイルドの戯曲「まじめが肝心」が、劇作家のセクシャリティと芸術家としての闘いの結晶のような作品であり、それ故に芸術作品としての命を永らえて続けているであろう事実があるからなのだった。楽しいナンバーとなっている“バンベリー”のその語すら同性愛の隠喩であるそうだが、詳しくは宮崎かすみの優れた評伝「オスカー・ワイルド」(中公新書)に譲りたい。
 さて、「Ernest in Love」において感じ始めていた、明日海の舞台人としての根幹とは、決して自身のイメージというものに溺れることなく、作品、役柄の本質に愚直なまでに真摯に向き合い、こつこつと演技を積み上げていくタイプであるということである。「Ernest in Love」でも、主人公アーネストの役はいかにも彼女のイメージに合うように思われたが、器用な人間ならば「こう見えているんだろうから」とそのイメージを即座に利用するであろうところ、彼女はこれを利用するということをしない。優等生タイプに見えて――というのもこちらの勝手な“イメージ”に過ぎないのであるが――、その意味では不器用とすら言えるかもしれない。ただ、本質に向き合って一から積み上げた演技は、一見遠回りな道に見えて、最終的には非常に太い。下町育ちのあんちゃんが、少しずつ少しずつ上流階級の紳士へと変わっていき、その過程でまた人間として成長をも遂げていく様を、明日海の演技は丁寧に描き出してゆく。
 私は前に、宝塚歌劇において花總まりの「エリザベート」の“ファントム”がときに現れると書いたけれども、実のところ、それよりさらに長年の“ファントム”を戴いてきたのが、この「ME AND MY GIRL」という作品なのであった。そう、作品の日本初演にして宝塚歌劇初演の主演を務めた、剣幸の“ファントム”に。剣も花總も、退団後もこの当たり役に取り組み、深め続けている点も同じである。しかしながら今回、私は、愚直なまでに作品と役柄の本質に向き合って創り上げた明日海のビルを観て、“ファントム”は少なからず克服された、そのように感じたのである。さまざまなビルが生きられていい。さまざまな「ME AND MY GIRL」があっていい。その中から、観客がそれぞれの心に添う舞台を、それぞれの舞台から心に添う何かを、見つければいい。私は、明日海りお&花乃まりあの演じた「ME AND MY GIRL」が大好きである。

 この公演の千秋楽をもって、鳳真由が花組の舞台を去る。率直に言って残念である。こんなところで何か言葉を記すことになるとは思ってもいなかった。舞台人としてその真価をさらに磨いていく様を見届けられるものと思っていた。ヘアフォード家の弁護士、パーチェスターを演じる彼女は、まじめな自己陶酔が何ともおかしい様を、激しいフラメンコの舞が最終的に至った決めポーズのような体勢も印象的に見せる。もっと舞台で観ていたい人だった。