藤本真由オフィシャルブログ

 初日前の舞台稽古を見学。凰稀かなめはセリフ回しも歌も格段に聞きやすくなり、芯が一本ぴしっと通って舞台姿が一段大きくなった感あり。さまざまなキャラクターに変装して出てくる「モンテ・クリスト伯」タイトルロールは、美形ながらちょっとくせっ気のある芝居心をもつ彼女にとって当たり役。月組、花組と、一本もの公演が続いた後に登場の待望のレビュー「Amour de 99!!−99年の愛−」は、宝塚99年の歴史において蓄積されてきた懐かしの名場面を今の感覚で送る作品。
 今週働きづめにて電池切れ。今宵はこれにて〜。
 8日13時の部観劇(日本青年館大ホール)。「魅惑の宵」「バリ・ハイ」等々、リチャード・ロジャースのロマンティックな名曲の数々にふさわしいロマンティックな世界を、主演の専科・轟悠と、進境著しい真風涼帆が体現。近年のニューヨークのリンカーン・センターでのリバイバル公演を観たとき、「Colored?」(「あなたが前に結婚していた相手は有色人種だったの?」)と驚いて主人公に尋ねるヒロインのセリフに、有色人種の一人としては、「So?」と驚いて言い返したくなるものがあったのですが、今回の原田諒の演出は、その手のセリフも、敵兵日本軍に対する侮蔑的な「Jap」も巧妙に省いて、ファンタジック&ロマンティックな世界を現出。松井るみのおとぎ話風セットもそんな作品世界に大きく貢献。二幕の轟と真風の、それぞれが出会った素晴らしい恋、そして、そんな恋を生んだ“South Pacific”への思いを歌い上げるデュエットに、宝塚歌劇こそすなわちそんなロマンティック世界に他ならないのだと感じた次第。ヒロインの主人公への葛藤も、人種差別というよりもむしろ、恋した相手の過去を知っての激しい嫉妬に思え。過去があって今があって、今この瞬間目の前にいる相手を自分は愛しているのだと気づいたとき、世界は変わるわけですが。
 今回の“心の名場面”は、舞台をご覧になった方ならもうおわかりですね。そう、抱腹絶倒、ほとんど反則、芸に裏打ちされた素晴らしすぎる、アレです。公演は明後日10日まで。お見逃しなく〜。
 藤井大介の手によるグランド・レビュー「Étoile de TAKARAZUKA」を最初に観て思ったのは、「…こんな舞台観たら、台湾のお客さんが宝塚ファンになっちゃって日本に観劇しに来なくちゃいけなくなって、遠いから大変〜」ということだった(作品は、一部キャストを変えて、明日4月6日からの宝塚初の台湾公演で、「宝塚ジャポニズム 〜序破急〜」、「怪盗楚留香外伝−花盗人−」と三本立てで上演される)。いえ、あひるが心配する前から、台湾からもすでに大勢の宝塚ファンが日本の劇場にいらしているようですが。
 満天星のプロローグから始まって、満天星のグランド・フィナーレに終わるきらめき。青木朝子作曲の主題歌「Étoile de TAKARAZUKA」の、歌詞が終わった後の旋律が、世界か心か、何処か遥か彼方、永遠に瞬き続けるように響く様、その何とはなしにせつない感じが、私にとっての宝塚歌劇のイメージにそのまま重なるところがある。手を伸ばしたら届きそうな、でも、ふれたらはかなく遠ざかって消えてしまいそうな、そんな永久のきらめき。
 柚希礼音率いる男役陣が黒燕尾服姿で大階段に颯爽と居並ぶオープニング。そして、つばの内まで瀟洒に花のあしらわれた帽子をかぶった娘役たちが大階段を埋め尽くす。かぶりもの好きにとっては帽子天国! である。そして作品は空に輝く十二星座にちなんで展開される。ふわふわキュートな毛皮をまとった夢咲ねねが登場する“おひつじ座”。真風涼帆がアウトローな男の魅力に挑む“おうし座”。身体の右半分は黒燕尾服、左半分はドレスという姿で、男と女を歌い分ける“ふたご座”の紅ゆずるは、作品の“心のキャラ”としか言いようのない不可思議なオーラに満ち満ちている。男役像をきっちり構築した後でなければ可能とはならない芸である。誘惑の妖しいムードの“かに座”。“しし座”は、宝塚の座付き作家として、男役の魅力を今後も最大限開花させんとの藤井の宣言たる場面である。“星”にちなんだ宝塚の名ナンバーでつづられる“おとめ座”の中詰。鳳蘭の持ち歌「セ・マニフィーク」に挑んで、夢咲が、迫力の娘役芸を見せる。そこに絡む十輝いりすが、男役として包容力のドンと大きなところを披露するのがいい。“てんびん座”では、英真なおきがリードを務め、ゴスペル調の「見上げてごらん夜の星を」が英語で合唱される。柚希が独りエネルギッシュに舞う“さそり座”。そして、宝塚らしい大群舞へと続く“いて座”。「星に願いを」が流れる“やぎ座”のラインダンスで、演出家は、ディズニーの世界と宝塚の魅力との共通項に思いを馳せる。再び大階段で華々しく繰り広げられる“みずがめ座”。そして、赤の衣裳が印象的なトップコンビによる“うお座”のデュエット・ダンス。十二星座の最後だから当然の流れとも言えるが、何となくうれしいうお座のあひる。――そして、永久のきらめき。

 1999年、北京で行われた宝塚の第一回中国公演を観に行った。劇場に入って左右のロビーで公演プログラムの値段が倍違ったり、大きな劇場なのにお化粧室がほとんどなくてしかも壊れていたり、とりあえず空席があったら前の方に座っておいて後から人が来たらそそくさと移動する人が多かったり、客席にいながらにしていろいろとカルチャーショックを受けた。
 もちろん、時代も違えば場所の違いもあるけれども、そのときの客席の熱狂を思い出すに、星組トップスター柚希礼音は、そのダイナミックな舞台姿で、台湾の観客を沸かせるに違いない。
 明日からの台湾公演の成功を、心から祈念、確信しています。
 初日前の舞台稽古を見学。めちゃめちゃおもしろい! エネルギー&パワーで圧倒した星組版とはまた異なり、花組男役陣&娘役陣の色気が炸裂、大人の味わい(セクシー・ダイナマイト花野じゅりあの休演は本当に残念ですが…)。蘭寿とむがトップスターに就任してから、本公演で一番しっくり来る役どころ。チョイ悪で、どうしようもなくて、でも、「…お前だけだよ…」と純情を見せてくる、そんな男に女は弱いもの。花組男役陣のびしっと粋なスーツの着こなし&女心をときめかせるしぐさを学びに、世の男性もぜひ足を運んでは如何? 男役陣が野郎祭りを繰り広げ、そこに、ほとんど反則のセクシー衣裳の娘役陣が絡むめくるめくフィナーレ。本編も、イレブンのメンバーのキャラがそれぞれこっくり濃い上に、周りにも濃いキャラが勢揃いして、その登場だけで思わず笑ってしまったり、目がいくつあっても足りませぬ。昨年秋、花組は四グループに分かれて密度の濃い公演を見せたけれども、そのときそれぞれ腕に覚えありの一芸を披露したツワモノたちが、今度は本公演できっちり成果を出していて、見応えあり。宝塚は決して「ベルサイユのばら」だけじゃありませぬ。アメリカン・ゴージャスのこんな痛快エンターテインメントだってお手のもの。一幕ラストの演出は、さすが小池修一郎、しびれる盛り上がり。観たら元気が出ます!
 今の家に越してきてから四月で丸十三年になる。その年の四月も、庭の花みずきが美しく咲いていた。そして毎年花みずきは咲いて、「今年も花みずき、咲いたよ」と、十三年のうち五年は海外にいて花を見られない夫に報告するのだけれども、夫はいつもこう答えるのだった。
「お、花瀬みずかがどうした」
 …毎年ですよ、毎年。何かお約束のフレーズというかギャグ(とも言えないと思うが…)を持たずして関西人と言えるか、という彼の気概ゆえなのだろうか。聞かないためには、木を抜くか、引っ越すか、別れるしかないような…。
 ある年もこのやりとりを繰り返して、いい加減毎年同じことを言っていると指摘したところ、夫はいつになく神妙な顔で言うのだった。ここまで毎年言えるのも、花瀬みずかが、ずっと宝塚にいてくれるからなのだと。
 そう、彼女はもっと前に宝塚をやめてしまうように思っていた。だから、今日、その退団の日を迎えて胸にあるのは、…こんなにも長く見続けることができた…という思いと、…遂に宝塚の舞台からいなくなってしまうんだ…という思いと、その二つがないまぜになった感情である。

 花瀬みずかはヒロイン系娘役である。その印象は、月組副組長を務めている今もなお変わることがない。月組の次回作が発表されるたび、「今度のヒロイン、似合いそうな役だな」と、ついつい思ってしまう日々ともお別れなのがさみしい。前にもふれたけれども、「十二夜」(1999)でのヴァイオラ役は、彼女の芯の強さが、男装もある役どころによくマッチしていた。男役とはまた違う、それでいてきりりとした男装姿を、今もあざやかに思い出すことができる。
 花瀬が新進娘役として活躍していたころ、月組娘役陣はヒロイン系からバイプレイヤー系まで非常に充実していた。「BLUE・MOON・BLUE」(2000)で花瀬は、作品の狂言回し的な四人のウサギの一人を務めたが、こうした趣向が可能だったのも、娘役陣の充実あったればこそであろう。上級生となってからは、娘役トップ不在という、娘役陣にとってはある意味不遇の時代もくぐり抜けて、花瀬は、月組の娘役芸を守り続けることに腐心していた。そして、男前の娘役芸を誇る蒼乃夕妃を娘役トップに迎えて、月組娘役陣は花咲き誇る時代を祝したのである。
 今回の「ベルサイユのばら」で、本編とはまた別に、私がもっとも感動したのが、フィナーレ、龍真咲をセンターに、大階段に居並ぶ月組娘役陣が、ドレスの裾を翻す場面なのである。一糸乱れぬその美しさ、誇りに満ちあふれたコケットリーに、月組娘役陣の、娘役芸に賭ける意気込みのほどを感じて、私は、…ああ、宝塚の娘役とはなんて素晴らしい存在なのだろう…と、心打たれずにはいられなかった。そのような場面が実現するにあたっては、娘役の長として、花瀬が体現してきた娘役芸に負うところも大きかったと思う。
 一作前の「ロミオとジュリエット」(2012)で演じたモンダギュー夫人も強く心に残っている。龍真咲のロミオの独自性ゆえ、感動ポイントが通常の「ロミオとジュリエット」と違うところに訪れる舞台だったのだが、物語の最後は、花瀬のモンダギュー夫人と、憧花ゆりののキャピュレット夫人、そして専科の美穂圭子の乳母、三人の娘役がきっちり感動で締めた。憎み合っても、ロミオの命もジュリエットの命も戻らない、今こそ皆、憎しみとの決別を…と、花瀬が歌い初め、憧花と美穂が加わって女声三重唱となる。その美しさの究極に、リヒャルト・シュトラウスが「ばらの騎士」で描き、自らの葬儀で演奏するよう遺言するほど愛した、元帥夫人マリー・テレーズとオクタヴィアン(ズボン役)とゾフィーの三重唱があるのだろうと思い至るものがあった。

 近年の花瀬は、一種超越した、どことなく“聖なる”役どころが多かった。「ちわっす」と平気で挨拶してくる皆の衆に、「ちわっす」と、ノリよく、かわゆく、それでいて決して気品を失うことなく返す「ジプシー男爵」(2010)の女王陛下マリア・テレジア。心に報いるには心をもってしかないことを知っていたからこそ、花瀬マリア・テレジアはこの作品の“心のキャラ”なのである。「STUDIO 54」(2010−2011)ではシスターの役どころ。そして、「アルジェの男」(2011)の、チンピラ主人公を“スリさん”呼ばわりして動じるところのないルイーズ・ボランジェは、その高音でのセリフ回しに、頓狂な、それでいて物事を見透かしているようなオフビート感を感じさせて、やはり“心のキャラ”。この年、「バラの国の王子」では“清き仙女”、「アリスの恋人」では“白の女王”と、白いドレス姿に神々しさを感じさせる役柄を次々と演じて、それがまたよく似合っていた。「エドワード8世」(2012)のヨーク公妃エリザベスや、「春の雪」(2012)での主人公・松枝清顕の母親役、そして、「ベルサイユのばら」でのオスカルの母親・ジャルジェ夫人役など、高貴な役どころでの清冽な存在感は言うまでもない。

 もうすぐ四月。庭の花みずきも蕾をつけ始めて、間もなく咲こうとしている。そして私は、もしかするともう舞台には立たないかもしれない人への別れの言葉を書かなくてはならない。
 長い間、宝塚の舞台を可憐に彩ってくれて、本当にありがとう。そして、お幸せに!
 これからも、花みずきが咲くたび、私と夫は冒頭のやりとりを繰り返して、そして、娘役・花瀬みずかを永遠に思い出すのだと思う。
 愛風ゆめの舞台でとりわけ心に残っているのは、「アリスの恋人」(2011)の“赤の女王”である。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」をベースに、舞台を現代に据え、青年ルイス・キャロルが創作へと向かう姿を描くこの作品で、愛風は、「首をちょんぎっておしまい」の“赤の女王”役と、ルイス・キャロルの病弱な妹役に扮した。病床にある妹のため、青年はアリスの物語を紡ぐ。その意味で、作品の裏ヒロインともいえる役どころだった。幻想世界での“赤の女王”で、愛風は、今のコスプレにも通じるポップな衣装を見事着こなして、我がまま放題はちゃめちゃ身勝手な女王ぶりを、まったく嫌みのない、心素直なキュートさで怪演していた。かわいかった! “心のキャラ”である。「ベルサイユのばら」ではオスカルの妹、カメリア役を演じていたけれども、まだまだ活躍の場は多かっただろうに…と思わずにはいられない。
 華央あみりの舞台で忘れがたいのはやはり、「スカーレット ピンパーネル」(2010)の靴屋のシモン役である。独裁者ロベスピエールを信奉するシモンは、王太子ルイ・シャルルを監禁、虐待ともいえる振る舞いに及ぶ。華央のあまりの迫力に、こわいよう〜と何度心で悲鳴をあげそうになったことか。その華央が、退団作である「ベルサイユのばら」で、今度はロベスピエール役を演じているのがおもしろい。「スカーレット ピンパーネル」と「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」双方でロベスピエール役を演じたにしき愛の好演によって、フランス革命期を描くところの多い宝塚歌劇にとって、近年ますます重要性が増してきた役どころである。「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」(2008)のシーンも取り入れられた今回の舞台で、華央は、叩き上げの男くささを濃厚に感じさせる、にしきとはまた異なるアプローチで、存在感を示してこの役を演じた。どちらかというとアイドル的な魅力を持つ月組男役陣にあって、華央のマッチョでワイルドな男役ぶりはアクセントとして効いていただけに、退団が惜しまれる。
 藤沢周平作品に造詣が深いわけではない。けれども、その作品を紡ぐ淡々とした日本語の美しさには心ひかれるものがあり、例えば映画「武士の一分」で役者たちによって発せられたとき、また心に染み入るものがある。宝塚雪組中日劇場公演「若き日の唄は忘れじ」でも、主人公・牧文四郎を演じる壮一帆が、かつて想いを寄せ合っていたが、今は藩主の側室となった幼なじみのふくから届いた、「文四郎様まいる」としめくくられた手紙を、客席通路で読む場面、その日本語の美しさをしみじみかみしめて芝居している姿がひときわ心に残る。
 運命の悪戯があって、想い合っていた文四郎とふくは、結ばれることはない。ふくは、勤めに出るため江戸に行く前の日、文四郎を訪ねてくるが、二人は会えない。そのときふくは、文四郎の嫁にしてほしいとその母に頼みに行ったのだが、言い出せなかった。
 昔から、愛し合う二人が結ばれない物語がどうも苦手である。苦手というか、もうその理不尽にいてもたってもいられないのである。人と人とが共に生きる上では、愛こそがもっともかけがえのないものとして、二人を結びつける絆だろうと思うから。
 「蝉しぐれ」を読んで、二度激しく涙したのは、一度は、文四郎が、無実の罪で陥れられ、切腹を命じられた養父に、尊敬していると告げられなかったことを後悔して涙する場面。切腹こそ強いられなくても、それこそ、無実の罪で会社を追われる、“首を切られる”者は今日でもいる。その意味では、人間はあまり変わっていない、とも言える。
 そしていま一度は、物語の最後、文四郎とふくが、ふくの出家の前、長年の想いを確かめて、一度だけ口づけを交わす場面である。何度読み返してもやりきれない。こんなにも想い合っていた二人は、なぜ、ただ一度の口づけだけをよすがとして、別々に生きていかねばならなかったのか――。
 もちろん、二人が結ばれてしまえばそこで物語は終わってしまうではないか、という話もあるだろう。しかし、私はどうも物語を物語として消費できない質である。だからこそ、本を読んでも舞台を観ても、どうしようもなく涙してしまう体質なのだろうけれども。
 ――私は、「蝉しぐれ」の、自分にとっては理不尽としか言いようのないこの結末を、何度も何度もかみしめて、そして、……自分は、本当に幸せにならなければならない、と思ったのである。
 文四郎とふくの時代、人は自分の思うようには生きられなかった。生まれにしばられ、身分にしばられ、自分の思いを通すことは難しかった。自分として生きるという贅沢が広く許されるようになったのは、日本の歴史上つい最近のことであろう。
 子供の頃、私が物語の中でたびたび出くわし、もう一つその理不尽さに身悶えていたのは、女の子が上の学校にやってもらえないという挿話である。上の学校に進んでもっと勉強したいと思ってもそうはできなかった女の子がいて、その無念があって、後の時代の女の子がその夢を叶えて――。「そんなことをするのは女で初めて」という先駆者がいて、今日、私たちは選択の自由を享受している。ときに、その選択肢の多さに、自分自身を見失いそうになりながらも。
 愛する人と結ばれることができる。自分の思う人生を選ぶことができる。だから、私たちは、幸せにならなければ、幸せになる道を選ばなければ、そんな自由がなかった時代の人々に対して、申し訳が立たないのである。多くの無念の上に、今の自由があるのだから――。
 宝塚歌劇において、トップになることだけが人生ではない。しかしながら、宝塚歌劇がトップスターシステムを敷くものである以上、当然トップを務める者がいなくてはならない。では、トップスターとは、どのように務められるべきポジションなのだろうか――。その問いに一つの答えを出しているのが、現在、名古屋・中日劇場「若き日の唄は忘れじ」「Shining Rhythm!」(2月28日まで上演)にてプレお披露目公演中の、雪組新トップスター、壮一帆である。真ん中に立つことがあまりにしっくり来ていて、観劇中、まだプレお披露目公演であることをほとんど忘れていたのだが、慣れない客席降りなどの際に見せる初々しさに、トップとしてセンターに立つのは今回の舞台が初めてなのだったと思い出すのだった。
 昨年10月、壮は、花組選抜メンバーを率いて、慶應大学の同窓会組織の大会である「慶應連合三田会大会」のステージに立った。筆者は、大階段をはじめとする舞台装置もない中で、“宝塚歌劇”とはどのように表現され、伝えられ得るものなのか、これは一種の限界事例であると考え、宝塚歌劇に接するのは人生で初めてという慶應大学出身者と共にこのステージを観た。終演後、その人に感想を求めたところ、今度トップになるという人(壮のこと)の歌と踊りが見事で素敵であり、宝塚のトップスターとはそのような存在なのだと感服したということ、今度ぜひ通常公演も観てみたいとのことだった。ステージの最後には慶應の応援歌「若き血」も披露され、壮が手にした羽根飾りをぶんぶん振りながらバンカラに歌っていたのも慶應出身者をいたく喜ばせており、その姿に、慶應大学は宝塚歌劇の創始者、小林一三の出身校であったことを思い出したものである。
 宝塚歌劇を観劇するのは、何もスター人事に通暁したファンばかりではない。それが人生初めてという観客、詳しいことは知らないけれどもとにかく宝塚歌劇の舞台を楽しみたい観客も多いはずである。そのような観客を前にまずトップスターとして求められるのは、この人がトップスター、真ん中に立つ存在であるということを納得させられるだけの技量と存在感になるだろう。その技量と存在感は、翻って、舞台に共に立つ出演者及び舞台を共に創り上げるスタッフをも納得させるものでなくてはならない。出演者に関して言えば、誰もが宝塚歌劇を好きで入って来てその舞台を務めているのだろうから、舞台に立つ全員のその“好き”の想いをまとめて束にできる存在、一人一人のパワーと存在をどんとこいと受け止め、その演技をさらに大きくふくらませて返す存在でなくてはならない。そうして舞台に立つ者の気持ちを一つにして客席と向き合って、今度は、客席からの想いをも受け止め返せるだけの存在でなくてはならない。
 プレお披露目の舞台を観ていると、壮の胸の内には、トップスターになれたという感慨より、自分の思い描く舞台を思う存分追求できるポジションにやっとつけたという前向きな気迫の方がまさっているのだった。その舞台がどのように見えていたかはともかく、壮自身は、花組での二番手時代、トップに一番近い存在として、トップの考える舞台を支えるという二番手としての責務を、あくまで忠実に全うしようと腐心し続けていた。「慶應連合三田会大会」でのステージを観たときに、筆者の胸に思い浮かんだこととは、二番手として見せてきた舞台姿と、これからセンターに立とうというときになって見せる舞台姿とは、こんなにも違うものなのだ――という、新鮮な驚きだった。そんな壮の前向きな気迫は、宝塚歌劇の舞台に賭けるその姿勢を理解し、これを支えてどこまでもついていこうとする雪組生たちの力強い援軍を得て、まずは中日劇場の舞台で、抜群の安定の船出となったわけである。
 「若き日の唄は忘れじ」は、藤沢周平の「蟬しぐれ」を原作とする舞台の18年ぶりの再演で、かつてこの作品の上演をもって歌劇団を退団した大関弘政の脚本を、大野拓史が演出している。宝塚作品として十分に水準の高い舞台ではあるのだが、惜しむらくは、大野の演出に、近年の舞台、とりわけ、昨年の「エドワード8世」のときのような”straightforwardness”が感じられないことである。家紋に花、藤模様に藤色の着物と、嫉妬の場面から「望郷の琵琶歌」へと至る藤の花尽くしのどこか陰鬱な雰囲気には、「夢の浮橋」(2010年)を髣髴とさせるものがある。大野にとっては念願の日本物作品だと思うのだが、これはどうしたことなのだろうか。大野演出、壮主演ならば、これまで観たことのないような美しい舞台に出逢えるのではないかと期待していた筆者としては、残念である。生徒、主演者が自分自身で創り上げられる限界まで努力したところを、さらに深めて一層の美しさを引き出そうとすることが、宝塚歌劇の座付き作家としての責務なのではないだろうか。筆者は先日、<花か現か〜宝塚星組「宝塚ジャポニズム 〜序破急〜」>(http://daisy.eplus2.jp/article/322055689.html)の項で、「“日本物”の世界は今の日本に生きる我々から遠い」と書いたけれども、それでもやはり宝塚歌劇において日本物の伝統は決して絶やすべきではないと考えるものである。その理由として、筆者がこの舞台の観劇前に原作を読んで感じたこと、そして、その印象と壮自身の舞台とが重なった部分とを述べたいと思うものだが、雪組生の活躍も含め、後日改めて論じることとしたい。
 「Shining Rhythm!」は、2012年、雪組が、前トップスター音月桂のもと、宝塚大劇場及び東京宝塚劇場で上演したショーの再演で、作・演出は中村一徳。宝塚大劇場公演の際、一度、“舞台は最高のエクスタシー”状態がやや不完全ながら訪れたのを体感できたことがある。“舞台は最高のエクスタシー”といえば壮一帆の名言であるが、今回、その壮を真ん中に迎えて、早くもその状態が現出せしめられている。
 「宝塚ジャポニズム〜序破急〜」は、半世紀以上に及ぶ演出家人生を宝塚歌劇に捧げてきた植田紳爾の、美しい心の情景である――。

 2013年の宝塚歌劇は、宝塚大劇場、東京宝塚劇場とも、植田の作品で幕を開けた。演出家が満80歳の誕生日にあたる元日、宝塚大劇場では月組公演「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」の初日の幕が開き、翌2日、東京宝塚劇場では星組公演「宝塚ジャポニズム〜序破急〜」が初日を迎えた。
 植田紳爾といえば、宝塚歌劇の代名詞とも言える作品、「ベルサイユのばら」の演出家として知られる。その一方で、彼は、日本物作品もまた多く生み出してきている。宝塚、東京、3月の名古屋・中日劇場公演、そして4月の台湾・台北公演と続演される「宝塚ジャポニズム」は、日本物のショー作品である。
 ジャポニズム。19世紀半ば以降、ヨーロッパを席巻した日本趣味。日本物のショーの題名がかようにカタカナ表記でも違和感を覚えさせないほどに、“日本物”の世界は今の日本に生きる我々から遠い。和装は多くの場合、成人式や七五三など、特別な機会に選択される装いであって、どこかコスプレ感覚すらある。我々自身が、過去の我々の姿を、どこかオリエンタリズムの眼差しで見つめている。ましてや、宝塚歌劇の日本舞踊は、オーケストラの伴奏によって舞われる。西洋文化と東洋文化の交わる地点に生じるキッチュ。それこそが、かつてカナダに暮らした頃から、日本人であるとはいかなることなのかと己に問い続けることとなった私が、宝塚歌劇に尽きせぬ興味を寄せる所以に他ならない。常に西洋文化に囲まれ、日常的に“和”の世界に生きているわけでは決してないのに、海外に出た途端、いわゆる“日本文化”に己のアイデンティティを求めたりする。そのキッチュは、あるいは私自身の姿である。
 日本人は、西洋文化をいかに受容し、我がものとしてきたか。そのあまりに独創的な一つの結実が、2014年、百周年を迎える“宝塚歌劇”なのである。

 「宝塚ジャポニズム」は、若衆姿の星組トップスター、柚希礼音が、その手のひらからさくらの花びらをはらはらと散らす情景から始まる。思い起こさずにいられないのは、柚希の一代前のトップスター、安蘭けいのトップお披露目作、やはり日本物ショーの「さくら」(2007)である。安蘭の手のひらからはらはらとこぼれるさくらの花びらの美しさを、昨日のことのように思い出すことができる。花びら散らしのその芸は、安蘭から柚希へと伝えられ、そしてまた、次世代へと伝わってゆく。
 「さくら」については、このブログで何度かふれた他、2009年12月、安蘭が宝塚退団後に開催した「安蘭けいファーストコンサート UNO」の公演プログラムにおいて、改めて記す機会があった。その中で私は、さくらの咲き誇る情景の中で幻想的に繰り広げられる舞は、薄紅に靄がかってはいるけれども、ほとんど、日本の“バレエ・ブラン”である――と書いた。「白鳥の湖」の第二幕や「ジゼル」第二幕、「ラ・バヤデール」第三幕のように、人間が極限状態で見る幻影を表す上で、日本において、さくらの花咲く情景以上にふさわしいものはそうそうない。今回、「ラ・バヤデール」第三幕の“影の王国”の如きつづら折りの坂の舞台装置が、幻想性、悠久性の視覚的効果をいや増している。
 作品は三部構成である。続いての第二部のテーマは“祈り”であり、薬師寺の副住職による声明が響く中、舞が披露される。仏教の教え。そして、「人みな幸せに」――。それが、演出家の胸に今強く在る想いに他ならない。第三部は、七五調の歌詞と西洋音楽の旋律が融合をみた「荒城の月」の情景である。月の光。そして滅びゆく城。そこに重なるさくらの幻想の舞。
 ――その情景の中に彼は、己の心を見る。
 彼は、さくらを見ている。そして彼は、さくら咲く季節に宝塚歌劇団に入団し、やがてはさくらの花の如く美しいまま去っていくタカラジェンヌたちを見ている。阪急宝塚駅から宝塚大劇場へと続く“花のみち”に植えられたさくらの木々は、4月、初舞台生お披露目公演の時期に花の満開を迎える。それが、彼の心に在る、もっとも美しいさくらの情景の一つである。ひとひら、ひとひらのさくらの花びらが、彼の心に降り積もる。数多の生徒たちの記憶のように。舞は続き、花は散り続ける。そして、知る――。人生を宝塚歌劇に捧げてきたその人にとっての最大のインスピレーションとは、その青春のもっとも美しく清らかな時代を捧げて、宝塚歌劇団を通り過ぎていくすべてのタカラジェンヌに他ならないのだと――。
 本年度の個人的なベスト1は、大野拓史作・演出の月組公演「エドワード8世」。しばしば君主制の諸形態になぞらえられてきた宝塚歌劇のトップスター制度を、逆に“統治”の思考枠組みとして用いようという意欲的試み。宝塚歌劇作品としての完成度も無論、高かった。
 ショーのベスト作品は、「エドワード8世」と二本立てで上演された齋藤吉正作・演出「Misty Station」。たとえ誰一人知っているスターが出演していなかったとしても好きになったであろう、個人的には原点帰りのような作品。“心のキャラ”は、白いドレス姿も可憐な、専科・一樹千尋のニンフ。「エドワード8世」では国を憂う気持ちと人情との狭間に立つチャーチル首相を演じていた人が! という楽しい驚き。専科・磯野千尋のニヒルなアジアン・マフィアっぷりにもしびれた。
 ここで駆け足ながら宝塚歌劇の一年を振り返ってみたい。
 専科の轟悠は外部作品「エリザベート スペシャル・ガラ・コンサート」で狂言回しルキーニ役を粋に好演。物語すべてがルキーニの妄想とも取れるような、取れぬような、あくまで曖昧さを残して観客の判断に委ねる演技に、「藪原検校」(6−7月、世田谷パブリックシアター)の盲太夫役で素晴らしい演技を見せた浅野和之とも通じる品のよさを感じた。轟の演じるトートが観たい、と思い、否、トートとはルキーニの想像上の人物なのだから、もう観ている、とも思ったものである。久々に海外ミュージカル作品で歌声を響かせる姿が生き生きとしていて、名曲揃いの来年3−4月の主演作「南太平洋」も非常に楽しみに。その直後、「おかしな二人」で華形ひかるほか花組生と共演したが、外部の舞台を肌で感じてきた轟に、花組生が誰一人ひるむことなく向かって行った姿が頼もしく、得られるものも大きかったと思う。「おかしな二人」については、ニール・サイモン作品を今後さらに深く考える上での手がかりとしたいが、個人的には、轟悠の主人公オスカーを相手にフィリックス役を演じた華形の脚本の読みに共感するところ大。来訪者ピジョン姉妹を演じた初姫さあやと仙名彩世が絶妙の間合いで沸かせるコメディエンヌぶりを披露した。
 本年、水準の高い舞台が続いた花組だが、秋には、「おかしな二人」、蘭寿とむコンサート「Streak of Light −一筋の光…−」、望海風斗初主演作「ヴィクトリアン・ジャズ」、壮一帆ディナーショー「So in Love」と、4つの公演グループに分かれてもそれぞれ力の強さを発揮。なかでも、「ヴィクトリアン・ジャズ」で、かなりの下級生まで目的意識の高い舞台を務めていたことが印象深い。本作は田渕大輔のバウホール演出家デビュー作だが、このようにいかにも宝塚らしいかわいらしい作品が東上しないことが惜しまれる。望海は初主演で男役としてさらにシャープさに磨きをかけ、優等生イメージの強かった鳳真由が、アルバート公の霊まで降りてきてしまう作家、アーサー・コナン・ドイル役でボケキャラを炸裂させ、“心のキャラ”を獲得。鳳が芯になっての第一幕の抱腹絶倒の降霊シーンは“心の名場面”である。桜一花のヴィクトリア女王も貫録十分。酒井澄夫のショー作家としての手腕と上品さが光った「Streak of Light」は、オネエの振付師を演じた月央和沙の演技と踊りが素晴らしく、問答無用の“心のキャラ”。笑い過ぎて呼吸困難に陥り、そのまま座席で息絶えるかと思った。あのオネエキャラを芯に一本作品を観たいと思うほど。彼女のダンスについては年明けまた詳しく。蘭寿とむ&蘭乃はなのトップコンビも、それぞれ長所を伸ばそうとする姿勢が非常に好ましく感じられた。花野じゅりあのゴスロリ美少女ぶりは、まるで漫画から抜け出てきたよう。今後、花組のセクシー路線は、春風弥里、夕霧らい、華耀きらり、月央和沙の88期生が軸となる予感。「So in Love」でも芸達者ぶりを大いに発揮していた天真みちるは、男役として客席を口説きにかかる前に、まずはぽっちゃり解消を。その上で、劇場の舞台でますますの芸の発揮を!
 月組では龍真咲が新たにトップスターに就任、不思議系男役として「ロミオとジュリエット」でお披露目を果たしたが、作品全体についてはまた詳しくふれたい。龍は、秋の全国ツアー公演「愛するには短すぎる」でも、かつての星組トップスター、湖月わたるの退団公演で上演された、観客にとっても思い出の残る作品を丁寧に演じ、宝塚の男役に必要不可欠な哀愁を獲得していた。オスカルとアンドレを務める「ベルサイユのばら」でも、龍の不思議な個性で、今までなかったようなキャラクター造形が観られるかもしれない。三島由紀夫の小説が原作の「春の雪」は、正直、作品と宝塚歌劇との相性を考えずにはいられなかったが、女中・蓼科を演じた専科の美穂圭子は無論のこと、主演の明日海りお、ヒロインの咲妃みゆはじめ、下級生に至るまで演技はしっかりしていた。3月に花組に組替えする準トップスター明日海については、異なる環境に身を置いての一層の個性開花に期待したい。なお、個人的な新人賞は(昨年でいうと花組の天真みちる)、「ロミオとジュリエット」でベテラン男役勢も圧しそうな存在感で大公を演じ、新人公演のベンヴォーリオでは若き舞台人としての抱負を名曲「どうやって伝えよう」に込め、「春の雪」では主人公・松枝清顕の父親、松枝侯爵役を貫録の演技で見せた輝月ゆうま。ベンヴォーリオ役の演技については龍ロミオ論にてふれることとしたい。まだ入団四年目、舞台人としての今後の成長が楽しみである。
 年末にトップコンビ交代があった雪組だが、早霧せいなが、石田昌也の作・演出のもと、主演作「双曲線上のカルテ」で当たり役を叩き出したことは非常に大きい。黙って立っているだけでも芯で存在できる、背中で語れる男役まであともう少しである。「Shining Rhythm!」「GOLD SPARK!」と、レビュー、ショー作品でも男役としてのオーラがますます際立ってきた。とりわけ、はじけキャラはお手のものである。未涼亜希は音月桂のさよならショーで歌った「ニコライとプガチョフ」(『黒い瞳』より)に鳥肌ものの凄みがあり、2月の主演作「ブラック・ジャック 許されざる者への挽歌」ではやってくれそうだ。星組より組替えの夢乃聖夏も、持ち前の明るさ、熱さが演技とかみ合ってきて、新たなカラーを組にもたらすことに成功。毎公演、さすがの芸の安定ぶりを見せる沙央くらまは、3月の組替え後も月組で力量を存分に発揮することだろう。おもしろさだけではなく、男役としてのあふれるばかりの色気もその魅力である。舞咲りん、愛加あゆと、パワフルな娘役覚醒者二名に加え、透水さらさの存在感が増してきた。芸達者、早花まこの一層の活躍も待たれる。雪組組長から5月に専科入りした飛鳥裕は「JIN−仁−」の名医、緒方洪庵役でも持ち前の優しさと烈しさを発揮する気迫十分の演技で、今後、雪組以外の組に出演するのも非常に楽しみ。ちなみに「Shining Rhythm!」の“心のキャラ”は、これまでのイメージを吹っ飛ばして熱くセクシーに歌い踊り狂う飛鳥のバーテン役である。3月の専科入り後、矢継ぎ早に活躍中の夏美ようは、「JIN−仁−」の火消しの頭取、新門辰五郎役でのいなせなかっこよさに、雪組男役陣が大いに刺激を受けていたことが印象に新しい。北翔海莉からは、さまざまな組の個性にふれてますます自分の芸と魅力を磨いていこうとの意欲がひしひしと感じられ、今後の宝塚歌劇を考える上でも非常にうれしい。
 星組は、柚希礼音&夢咲ねねの人気トップコンビに率いられ、組として非常に安定。小池修一郎がエンターテインメント作家としての矜持で圧倒したスペクタクル・ミュージカル「オーシャンズ11」でもその熱い魅力が生きていた。パワフルなダンスと歌に加え、最近ではせつなさや哀愁も加味されてきた柚希の男役像は、人気トップスターかくやと思わせる充実ぶりである。夢咲も大人のかっこいい女性が似合い、二人並んだ立ち姿、デュエットダンスはダイナミックな魅力にあふれていて、来年4月の台湾公演でも海外の観客を大いに魅了すると思われる。ショー「Celebrity」の“心のキャラ”は、感動のダンスシーンの後、一人舞台に取り残されて“おもろいこと”をしゃべらされていた紅ゆずる。どうも“おもろいこと”ばかりやらされている印象が強いが、「オーシャンズ11」「ダンサ セレナータ」では大人の男役としても行けることを証明。かっこよさではこの一年で著しく伸びた人だと思う。主演作「ジャン・ルイ・ファージョン」で気になったのは、少々女性っぽく見えてしまったコスチューム・プレイでの衣装の着こなしと、セリフ回し。言葉の抑揚の音程が、そのセリフが伝えるべき意味や感情と微妙にかみあっていないときがあり、とりわけ、語尾が泳いで違うところに落ちてしまうのが気になる。セリフはその抑揚の音程によっても伝えられるところが多いと思う。真風涼帆は、抜擢続きの中で、マイペースながら着実に力を伸ばしていく、自分としての強靭な時間軸を内に秘めた人である。スーツ姿はときに後ろ姿に女性っぽさが残るが、コスチューム・プレイでの着こなしは安定しており、どっしり構えた感のある男役像が観客を落ち着かせる。なお、傑作「ベルサイユのばら」と「スカーレット ピンパーネル」をつなぐ形で描かれ、宝塚ファンの興味を大いにそそった「ジャン・ルイ・ファージョン」(植田景子作・演出)で、主人公の弁護にあたるアントン・バレルを演じた美城れんは、この好演でおそらく覚醒したと思われる。自分と家族の身を案じ、ロベスピエール率いる革命政府の方針に初めこそ従おうとしながらも、信念を貫く主人公の生き様にふれ、考えを改める。美城バレルが裁判の場面で「異議あり!」と己の使命に目覚める瞬間、心が震えた。専科から出演、王室の教育係、マダム・ド・トゥルゼルを演じた京三沙のかわいさと貴婦人ぶりが、作品の香気を引き立てていた。
 宙組では、凰稀かなめ&実咲凜音が「銀河英雄伝説@TAKARAZUKA」で新トップコンビに就任。演技もよく息が合い、なかでも、早速二人ならではの雰囲気を伝えるデュエットダンスを作り上げていたのが非常に印象的である。凰稀についていえば、ショー「クライマックス」、白い軍服姿で令嬢役の野々すみ花にひざまずくシーンで、未だ全貌を見せるに至っていない、限りない美の鉱脈を個人的には見出したので、持ち前の輝かしきヴィジュアルと見合う形で芸を磨いていけばよいように思う。どうしてもクールに、そしてどこか緊張感を超越しているように見えてしまうところがある。まずは、自分が表現しようとしている心の熱さを客席全体に伝える上で工夫できることは何か考えてみてほしい。また、立ち姿やダンスの際の手足使いを細部まできりっとぴしっとさせることで、見え方はだいぶ変わってくるように思う。セリフ回しについていえば、声を低く使うとき、最初にあまり低い音を出してしまうと、語尾にたどり着くまでに高低のコントロールが難しくなってしまうのではないだろうか。また、セリフを言う際、演者本人が快い間と、客席が快く意味を受け取れる間とは違うように思う。例えば、「あのお優しい姉上がそんなことをすると思うのか!」というセリフがあったとして、「あのお優しい姉上が」と「そんなことをすると思うのか!」とで分け、その途中であまり間を長く取ってしまうと、何だか違って聞こえてこないだろうか。句点や読点の間にしても同様である。このかたまりはここまでまとめて言った方が観客にとっては意味を受け取りやすいというひとかたまりと、セリフごとの適切な間を、演出家とのやりとりの中で見つけていったらいいように思う。歌についてはもう少しリズムを大切に。「銀河英雄伝説@TAKARAZUKA」では、雪組から組替えの緒月遠麻演じる同盟軍のヤン・ウェンリーと、花組から組替えの朝夏まなと演じる帝国軍のキルヒアイスが、「宝塚歌劇は一つだった!」と銀橋で出会って歌うシーンが公演の一つのクライマックス。覚醒者・緒月遠麻の活躍には、湖月わたる以来の、大柄な体躯すべてを包容力に転じられる大型男役の誕生を感じる。こんなにもロマンティックな愛のナンバーが似合うとは! 無類のキノコ好きとして知られる緒月だが、さまざまな種類のキノコそれぞれの特色を、芝居やショー作品において発揮すべき男役のさまざまな個性と結び合わせて表現できる域まで行けば、キノコと芸術の相関性は確立されるかもしれない(「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」の中詰めあたり、髪型も含めて、50年に一度しか光り輝かないような、幻の金色のエリンギを表現していたように思われたのだが)。朝夏まなとは、花組の男役の粋を宙組の下級生に伝授する存在として期待がかかる。素直に心を解放して客席を魅了することのできる個性でキルヒアイス役を造形し、共感を誘った。この二人の刺激もあり、宙組が活性化、客席全体との一体化に向け一歩前進した。組長の寿つかさは皇帝フリードリヒW世とグリーンヒル大将の二役を演じて覚醒リーチ。「カサブランカ」でも好演を見せた悠未ひろは、策士オーベルシュタイン役を安易に萌えに持ち込まない重厚な演技で見せて、小池修一郎作品に強いところを証明。1月の主演作「逆転判事3 検事マイルズ・エッジワース」での活躍も楽しみだ。前トップスター、大空祐飛の遺伝子は、花組に組替えした春風弥里と、蓮水ゆうや、そして凪七瑠海に受け継がれた模様。帝国軍の双璧の一人、ロイエンタール役をクールに演じた蓮水は、男役としては正統派でクラシックな個性が持ち味で、新人公演主演がなかったのが不思議。大空の芝居心を受け継ぎ、観客をうっとり魅了できる存在である。凪七は、娘役でも十分スターとして行けそうな容貌の持ち主ながら、着実に男役として磨きをかけてきており、唯一無二の個性が光りつつある。大空の遺伝子を受け継いだら、なんと、どこかルックスの似た紫吹淳の遺伝子が目覚めたような……と思ったところで、3月には月組に組替えである。「銀河英雄伝説」では暗殺者アンスバッハを気迫で演じ、登場人物それぞれが己の信念に基づいて生き、その中で衝突せざるを得ない様を描いた物語に大きなアクセントを残した。宙組全体では、上級生の芸のさらなる発展と、男役芸、娘役芸のさらなる充実が大いに望まれる。その意味で、専科より出演の一樹千尋のブラウンシュヴァイク公爵と、磯野千尋のリヒテンラーデ侯爵/ムーア中将の存在に非常に助けられていたと思う。
 どのような形で2014年の百周年を迎えられるかは、宝塚歌劇団に属する者すべての志にかかっているのだと思う。その意味で、外部から舞台を見守る一評論家として、2013年も力の限り尽くすつもりである。