藤本真由オフィシャルブログ

 2012年の宝塚歌劇は良作、佳作揃いの一年だった。そのトリを飾るのが、雪組トップコンビ、音月桂&舞羽美海の退団作「JIN−仁−」「GOLD SPARK!−この一瞬を永遠に−」である。宝塚の二本立ての場合、通常、芝居作品1時間35分、ショー作品が55分という時間配分が基本となっている。今回、「JIN」が1時間45分、「GOLD SPARK!」が45分という幾分変則的な構成になっていたのだが、芝居作品は長さを感じさせず、ショー作品は短さを感じさせない。現在雪組は人材が非常に豊富で、芝居でもショーでもスターがあれよあれよと出てきて目を奪われる楽しさがあるが、そんな人材をうまく配して作品を構成した点に、齋藤吉正、中村暁、二人の座付き作家の腕が冴えた。二作品とも、退団作としてのさよなら色をきちんと出しつつも、さみしい一辺倒とはなっていないところに、かえって惜別の念がにじむ。
 退団者についてふれておくと、詩風翠は、「黒い瞳」のセルゲイエフ役で、メガネくんキャラとしていい味を出していたのが印象に残っていたのだが、今回の「JIN」でもメガネくんキャラとして美形ぶりを発揮していた。
 生まれ変わったら、花帆杏奈のようないい女をはべらすことのできる男がいいか、それとも彼女のようないい女がいいか、かつて私は真剣に考えていたことがある。それくらい、己の女性性を素直に享受するかのように見える舞台上の花帆のあでやかさが、私の目にはまぶしかった。

 舞羽美海は、専科の轟悠が主演を務めた「オネーギンEvgeny Onegin −あるダンディの肖像−」で演じたヒロイン、タチヤーナがまずは非常に印象に残っている。ベテラン男役相手に、懸命に心を動かして演じようとする様に初々しい鮮烈さがあった。その後、「ロミオとジュリエット」や、プーシキンの「大尉の娘」をモチーフにした娘役トップお披露目作「黒い瞳」でヒロインを演じていたから、文学作品が似合う娘役トップという印象が強い。なかでも、「ロミオとジュリエット」のバルコニー・シーンの後、盆回りするバルコニーで、横を向き、目をつぶった顔を空に向けて胸に手を当てる一瞬が、演出の妙ともあいまって、初めて恋を知ったジュリエットの高揚感や幸福感をよく伝えていた。可憐さと一途さ、それでいて、この恋を守らなくてはいけないと誓う芯の強さが感じられて、宝塚の娘役が演じるジュリエットとして一つの到達点ともいえる演技だったと思う。小柄な方だけれども、ショー作品で娘役陣を率いて踊る際、センターの重責をしっかり果たす存在感があった。それでいて、例えばミュージカル「フットルース」でアンサンブルにまじって踊るときには、周囲にきちんと溶け込んでいる。少女らしい可憐なヒロイン役が多かったけれども、「フットルース」では大人っぽい魅力も垣間見せてくれた。「JIN」では、主人公に過去と現在とで絡む三役に挑戦、丁寧に演じ分けていた。「GOLD SPARK!」では、愛するオルフェを冥界で待つユリディス役で、オルフェに接した瞬間ぱっと生の息吹をほとばしらせる瞬間が忘れがたい。

 音月桂は、今にして思えば、非常に早くから完成された男役だった。入団3年目で新人公演の初主演を務めた「猛き黄金の国−士魂商才! 岩崎彌太郎の青春−」の岩崎彌太郎役で見せた骨太な男らしさは今でも語り草である。そして、雪組トップスターとなっても、骨太さと若さを失うことなく、「ロミオとジュリエット」のロミオや、「黒い瞳」のニコライ、「フットルース」のレンや、今回の「JIN」の南方仁といった代表作を残した。「ロミオとジュリエット」は、宝塚の大劇場で上演する作品としては役が少ないきらいがあり、また、周囲の個性豊かなキャラクターに比べ、ロミオ役はしどころの多い役とは言えないように思う。だが、音月は、トップお披露目作にして、正統派男役としての魅力をもって、この役を演じきった。スーパーヒーローな高校生という、トップスターがなかなか成立させにくい役柄を好演した「フットルース」でも、音月ならではの魅力が光っていた。岩崎彌太郎役の強烈な記憶あればこそ、退団作で日本人の主人公を務めていることもまた感慨深い。演技、歌、ダンスともしっかりと三拍子揃っていて、宝塚のトップスターとして人々がいかにも思い浮かべる男役像を見せてくれていた。「GOLD SPARK!」でも存分に聴かせた伸びやかな歌声は、観客の心に残り続けると思う。
 トップコンビとしては、初恋の似合う二人だったなという印象が強い。デュエットダンスにも、清新な魅力がただよっていた。なかでも忘れられないのが、「フットルース」のフィナーレ、「Almost Paradise」にのっての鮮烈なデュエットダンスである。

 2011年3月11日の東日本大震災の際、東京宝塚劇場では、音月が主演を務める「ロミオとジュリエット」の公演が行われていた。その数日後、客席に足を運ぶと、フィナーレ、音月がまさに銀橋に出てこようという瞬間に、かなり大きな余震が起きた。舞台を見守っていた観客がヒヤッとしたその瞬間、音月は満面の笑顔で銀橋を渡った。そのとき、劇場全体が一体感に包まれたのだった。大震災の混乱が続く中でも舞台を観たいと思うことに、賛否両論があるかもしれない。けれども、そこに集う人々と分かち合うことで何とか不安が軽減できればと願って、劇場に足を運んだ人も少なくないと思う。個人的にも、あのときの音月の笑顔にどんなに励まされたかわからない。明るく、晴れやかな笑顔の似合う男役トップスターだった。
 宝塚花組男役スター、愛音羽麗が本日10月14日をもって宝塚歌劇の舞台を去る。…何だか、信じられない。次の花組の舞台を観に行ったとき、心に違和感を覚えて盛大に混乱しそうな気がする。愛音羽麗はこれまでもずっと花組にいて、これからもずっと花組にいるものだとばかり思っていたから――。

 昨年、蜷川幸雄演出で上演された三島由紀夫の「わが友ヒットラー」は実に素晴らしかった。そして、オールメールで軍服姿が登場するとなると、ついつい、「…オールフィーメールで宝塚でもできないかしら…」と、心の中で考えをめぐらしてしまうあひる。そうして考えついた鉄壁の宝塚版キャストにつき、蜷川演出版を観劇していてかつ宝塚にも詳しい複数の演劇関係者に意見を聞いてみた。
 軍服が似合う純粋な魂といえば、レーム役はどう考えても壮一帆である。「それはめちゃくちゃ似合うね」「ぴったりだね」と賛同が。「でも、クルップ役がいないとあの舞台、話にならないよ」。それはもう、専科の最終兵器、汝鳥伶で決まりでしょう。「あ、そりゃそうだ」。壮一帆と同期というところで作品の悲劇性がより際立つから蘭寿とむがヒットラーで、左派のシュトラッサーは愛音羽麗で、これで花組で行ける〜。
 「四人しか出ない公演かあ…。宝塚バウホールでもちょっときついところだよね…」
 いつの間にか、あひるより話している相手の方が公演の実現性に本気になっていた(笑)。それはさておき。
 そんな夢は、トルストイの小説を原作にした「復活」の舞台でちょっぴり叶ったのだった。このとき愛音は、草食系のインテリ革命家、シモンソンを演じたのだが、とてもよく似合っていて、「わが友ヒットラー」のシュトラッサーを何だか彷彿とさせたのだった。愛ゆえに主人公ネフリュードフ公爵との恋に悩むカチューシャに、真摯な想いを捧げるシモンソン。この人とならば、極寒のシベリアにあっても、カチューシャもやっと心の安らぎを得られそうに思えた。
 とはいえ、愛音羽麗は何も草食系の男役というわけでは決してない。「CONGA!!」で、男役陣が獣に扮して出てくる中詰では、黒塗り化粧に紫の衣装、ワイルドな鬘でロボ(オオカミ)に扮していて、実に野性的で攻撃的。男役の色気たっぷりである。だいたいが愛音羽麗は、まだ下級生だった時代から、“炎の一本釣りウィンク”で名高い男役である。愛音のそのウィンクをまともに食らった客が、「…キャア…!」と声を上げて崩れ落ちるのも目撃したことがある。狙った客は、宝塚の魅力の虜にする。それが、花組男役・愛音羽麗の美学である。
 愛音羽麗は、宝塚の男役の伝統を濃厚に受け継ぐ一方で、役者としては実に振り幅の広い人でもあった。だから、肉食系から草食系まで何でもござれだし、少年役も多ければ堂々の風格でおやじ役も張れて、かつとてもかわいらしい顔立ちの人だから大人の女性役に女の子の役もキュートにこなし、主演作では日本人の役オンリー、でもやっぱり外国男のセクシーも体現できる。オスカル役がはまっていた「ベルサイユのばら」のような大芝居系からスーツ物からコメディまで行ける。演出家としては多様な役どころを振りやすい人なのだと思う。「麗しのサブリナ」での七変化を見せるストーリーテラーはまさに適役だった。
 宝塚では最近、組内の二番手、三番手を何だかぼかす傾向にあるようだけれども、本当は、二番手、三番手が定まっていた方が、スターシステムのピラミッドがきっちり作れて組の構成上も安定するし、何より、観ている方も、スターが次々出てくる! と心が昂揚する気がする。近年でいうと、宙組の大和悠河・蘭寿とむ・北翔海莉時代、花組の真飛聖・壮一帆・愛音羽麗時代などが安定していて、観ていて心地よかった。トップスターと二番手とが二組に分かれて公演する際も、しっかりした三番手が公演二番手を務める場合は舞台が非常に安定するのである。私の心の中では、愛音羽麗は、初風緑等と並んで、最強の三番手の一人である。これからもいろいろな作品の宝塚での舞台化を夢見ては、「この役は愛音羽麗に…、ああ、もういないんだな…」と、盛大にさみしくなってしまいそうである。

 自分がこれまで大切に積み重ねてきた仕事はどれも思い入れがあるけれども、いささか面映ゆいながらも自分で自分の代表作を挙げるとすれば、誇りをもってその一つに数えられるのが、「レプリークBis 2006.September.vol.5」の「タカラヅカ『男役』というキャラクター」特集である。このとき、「男役10年、ただいま研鑽中!」という見開き企画で、男役の制服、黒燕尾服姿で登場してくれたのが、入団十年目の愛音羽麗だった。編集作業のスケジュール的に都合の合う若手スターを、劇団側がピックアップしてくれての登場となったのだけれども、私は、このとき来てくれたのが愛音羽麗で本当によかったと今でも思っている。黒燕尾服でポーズする姿には、宝塚の、花組の男役としての誇りに満ち満ちていた。
 そして、細部に至るまでいかなるこだわりをもって着こなしているか、詳しく尋ねる段階になると、「え〜、どう工夫してるかな? どうしてるかな?」と、何だかとってもかわいらしいのである。黒燕尾服から着替えた私服はといえば、キュートな花柄ブラウスだし。
 愛音羽麗は、背丈といい、顔立ちといい、いかにも宝塚の男役向きなルックスとして、万人が認めるであろうタイプではない。けれども、私は愛音羽麗が、宝塚で過ごした十五年余りのうちに創り上げてきた男役が心から愛おしい。宝塚の男役とは、背が高いとか、顔立ちがボーイッシュだからとか、そういう外的条件でのみ成り立つものでは決してない。一人一人が心の内に理想と憧れを想い抱き、その理想と憧れと自分の持てる個性とを血のにじむような努力をもってすり合わせていって、そこにようやく成立するものなのである。
 あの日の取材で、キュートな花柄ブラウスを着ていても、きゃいきゃいかわいらしく話していても、愛音羽麗の男役性が損なわれることは決してなくて、それは、愛音羽麗が創り上げてきていた男役像がそれだけ強固だったからだと思う。…思い出しても私は、何だかあの日、男役の天使と話していたような気がするのである。男役と天使、ストレートには結びつきにくい言葉のようにも思えるけれども、そうとしか表現できないのである。上着の裾から見えるベストは何cm、袖口から見えるカッターシャツは何cm…、私に男役の美学の叡智を授ける、天使と。

 さて、その天使は、男役以外には興味はないのかなあ…。ちょっとあんまりいないような、ねっとり濃い色気をもった女優になれそうな気もするのだけれども…。でも、どんな道を歩んでも、そこに祝福あらんことを祈りつつ。
 愛音羽麗が輝いている花組の舞台は、いつも、とっても楽しかった! 今日まで、本当にありがとう。愛音羽麗の男役スピリットが、一人でも多くの志高き下級生たちに引き継がれていきますように。
 「サン=テグジュペリ」の“心の名場面”&“心のキャラ”は、まあもういまさら言うまでもなく、壮一帆のキツネ、である。前説だけ書いていきなりもう総集編、そして公演も本日で千秋楽ですが、続きは皆様、気長にお待ちください。…あれ、一昨日「(自分は)そんなには気長な方じゃない」と書きながら、読んでいる方々には気長を要求するとは、なんたる矛盾、わがままな。あひるも気長に待つように致しますので、あひるとも気長にお付き合いいただければ。作品自体についても、「番外・ゾウを呑み込んだウワバミ編」等、またの機会に。

 「CONGA!!」について一度も書かなかったのにはわけがある。書けばあひるの心の中でどこか何かが終わってしまう。実はあひるは、「『CONGA!!』をやっている限り、今は夏!」と自分に暗示をかけて、苦手な涼しい季節を何とかやり過ごそうとしていたのである。「…今日、なんでこんなに元気ないんだろう…」と自分で自分が不思議に思える日が来たら、あひるにとってそれが秋の到来である。なんせ、秋風がピュ〜と吹いただけで、空っぽな心の中を何かが吹き抜けていったようにさみしくメランコリックに感じられて泣きそうになったりさえする今日この頃である。…アホである。それくらい、秋は苦手なのである。…冬もだけど。実際、急に冷え込んだある日、地下鉄に乗ったら未だ冷房が効いていて、いきなり体調ダウン。しかし、「CONGA!!」に合わせて手拍子していたら、…何ということでしょう、身体がすっかりぽかぽかに。体調も見事回復していたのであった。恐るべし「CONGA!!」パワー。まるで永遠に終わらない夏祭りのような。きわめて祝祭性に富み、見応えある場面が息つく間もなく展開されていって、ここ! と選び難いショーだけれども、敢えて敢えて挙げるなら、花組男役陣の色気が炸裂する「海賊」のシークエンス。全員が肩を組んで客席にごお〜っと向かってくるド迫力のラストもさることながら、途中の、蘭寿とむ、壮一帆、愛音羽麗、華形ひかる、春風弥里が男役陣の合間を抜けて舞台奥から突進してくるところが、「白浪五人男」見参! みたいな雰囲気で、好きである。そして! シークエンス冒頭で、“宝石の女”に扮した花野じゅりあと華耀きらりが登場、花野が華耀を後ろから抱きしめる瞬間は、花組が誇る二大セクシー娘役が贈る“心の一瞬”である。惜しむらくはその瞬間の舞台写真が発売されていないことである。ショーの中詰、盛大に色気を振りまく花野と華耀の二人を引き連れて銀橋を渡る望海風斗が、心の底から羨ましかった。

 花組トップスター蘭寿とむは、この公演でようやく、「おもしろさ」と「かっこよさ」のバランスが取れてきたように思う。かつて蘭寿が二番手として宙組に行ったとき、そこには月組から大和悠河と北翔海莉という二大おもしろジェンヌが輸出されていた。上から下からのおもしろ圧力に、蘭寿が苦悩していたのは観ていてよくわかった。その苦悩と努力の果てに、「ファンキー・サンシャイン」の“心のキャラ”に輝いた“YUZO”は生まれたのだったが、…結果、何だか少々おもしろくなりすぎてしまっていたのだった。だが、“キザってなんぼ”の花組では、まずは尊ばれるのはやはりかっこよさであろう。しかし、「サン=テグジュペリ」と「CONGA!!」を観ていて、おもしろさを越えて、かっこよさが前面に感じられるようになってきた。「サン=テグジュペリ」では、持ち前のまっすぐな気性がストレートに感じられて、宝塚歌劇大劇場作品の主人公として及第点だったし、「CONGA!!」の、いきなり銀橋に崩れ落ちた後、客席に降りて握手したり顔をなでたりのサービス狼藉を働くシーンは、蘭寿の個性を際立たせると共に、宝塚の舞台でしばしば用いられる「エル・クンバンチェロ」の痛快な新展開。これからますますかっこよさでも魅了してくれるであろうことを期待する。
 蘭乃はなは、限界まで努力しているのはよくわかる。今贈りたいのは、かつて、浅田真央にコーチだったタチアナ・タラソワが贈ったのと同じ言葉、「恋をしなさい」である。何も相手は男性でなくても、動物でもコレクションでも何でもいいと思う。ただし、宝塚歌劇に関すること以外で。心震える、自分の中の何かがすっかり変わってしまうような経験が訪れればいいのだけれども。難しいことだけれども…。
 前回公演「近松・恋の道行き」で覚醒した華形ひかるは、芝居ショーともさすがの安定ぶり。「サン=テグジュペリ」で、愛音羽麗扮する飛行士メルモーズが恋人を残して死を覚悟したフライトに飛び立とうとするのを一度は止めながらもやはり送り出すシーンでは、華形の必殺技、“心で男泣き”を堪能。ショーでは初めての女装で女豹に挑戦したが、美脚のロック・シンガー、ティナ・ターナー姐御のようでかっこよかった! 覚醒が大きな意味をもつことはもちろんだが、モチベーションをもって覚醒をキープすることもまた大きな意味をもつ。次回作は覚醒者・轟悠とダブル主演でニール・サイモンの「おかしな二人」である。期待せずにいられようか。
 今回の公演で著しい伸びを示したのが、「サン=テグジュペリ」で主人公を撃墜したドイツ人ホルスト・リッパートに扮した望海風斗である。私は、宝塚月組「ロミオとジュリエット」で新トップスター龍真咲が演じたロミオがあまりにユニークで新鮮な示唆に富んでいて、今月はフランス版の来日公演もあるということで、このところずっと「ロミオとジュリエット」について考えていたのだが、望海の演技と、それを受けての汝鳥伶の名演のおかげで重大な発見をすることができた。私はどうしても、たとえ深く愛していたとしても、自分の従兄を殺した人間(「ウエスト・サイド・ストーリー」では最愛の兄、しかも、演じているのはジョージ・チャキリスである)と、殺人のあったその夜のうちに愛を交わすというところで、ジュリエットの心理状態に何だかしっくりこないものを感じていた。けれども、望海扮するホルストが、汝鳥扮するレオン・ヴェルトに人間として真摯に向き合い、自分の犯した罪を告白し、それを汝鳥が人間として赦すところで、…この人は、普通の状態にあったならば、決して殺人など犯せるような人間ではないのだ…と心の内に理解できれば、自分の愛する者を殺した人間をも、究極的には赦せるのかもしれない…と思えてきたのである。先の全国ツアー公演「長い春の果てに」で、華耀きらり扮する恋のお相手がいる役を演じて以来、望海風斗、セクシー男役道驀進中である。花組の未来は明るい。
 セクシー男役といえば。私は、宙組から異動してきた春風弥里の今公演での活躍は、本当にうれしかった! 実力があるだけに何とはなしに固定的な扱いがされていて、何だか、斜に構えた優等生キャラで固まってしまいそうで、…芸的にはもっともっと上を目指せる人なのに、もったいないなあ…と思っていたのである。それが! 花組に来たら男役の色気炸裂! 誰よりも激しく髪を振り乱して色気をふりまき踊る姿に、力のある人は適した場を与えられれば輝く…と感じずにはいられなかった。男役の所作も芝居もきっちりしていて、シチュエーションに添った内的世界を体現する踊りも◎。まだまだ伸びる人である。

 今回の公演では、これからの活躍を楽しみにしていた輝良まさとと銀華水が退団である。輝良はダンス・シーンでキラリと光る人で、「CONGA!!」では白姫あかりを天地逆さまに抱えてのアクロバティックなリフトを披露。銀華は、「カナリア」で、しょっちゅう同じ女に強盗に入られているのに、しまいには、相手のファッションが変化したことをほめたりしつつ札束を詰めていたのんきな銀行員役にとても味わいがあって、これから芝居のスパイスになっていきそうだなと思っていたのだけれども。「サン=テグジュペリ」で、砂漠から帰還した主人公を、新聞記者に扮した二人があれこれ問い質しているシーンは、…そうそう、そんな感じ〜と、同業者として内心微笑んでしまった。

 「カノン」に続き「CONGA!!」でも“心のダンサー”に輝いた月央和沙論等々、まだまだ書き尽くしていないけれども、今宵はこれにて〜。
 砂漠に不時着したサン=テグジュペリは、喉も心も渇かせる一面の砂の中を彷徨う。愛の不毛。心の不毛。――「Rhapsodic Moon」(2010年・月組)の不毛の砂漠。すべてを見透かす月が照らす中、幻の女が現れ、踊る。――サン=テグジュペリがこの砂漠で出会うは、“星の王子さま”。それは現実の人物なのか、それとも、彼の心の中に棲まいし幻、あるいは彼の分身なのか。
 サン=テグジュペリがドイツ人パイロットに撃墜され、命を落とすシーンは、砂漠で蛇にかまれて倒れた「星の王子さま」の状況を借りて描かれる。そして、「星の王子さま」のバラのモデルとされる妻コンスエロは、ファンタジックなプロローグとエピローグでは赤い花の衣装で登場する。砂漠、赤い花、蛇といえば、言うまでもなく、「BLUE・MOON・BLUE」(2000年・月組)の世界である。砂漠を彷徨う戦士は妖しい赤い花に翻弄されて幻を見、その手下である妖しい蛇に噛まれて命を落とす。
 「マラケシュ・紅の墓標」(2005年・花組)の、砂漠で遭難した夫を探しにきた人妻は、謎めいた男と出会い、二人は手に手を取って逃げようとする。だが、男は行かない。否、行けない。泣いてすがる人妻を置いて、彼は一人砂漠に消えてゆく。謎めいた男を演じる春野寿美礼の個性が醸し出す壮絶な孤独感ゆえか、その後、男は、「星の王子さま」のように、砂漠にそっと倒れ、そしてそのまま肉体が忽然と消え去ってゆくような気がしてならなかった――。もしこのとき、演じていたのが紫吹淳(「BLUE・MOON・BLUE」で妖艶な蛇を舞った、その人)だったならば、砂漠に一人消えても、ベドウィンに助けられて意気投合し、酒を酌み交わしているような気がするのだけれども――。
 サン=テグジュペリと彼の仲間たちは、命を賭けて郵便袋を運ぶ。パタゴニアから、チリから、パラグアイから運ばれた郵便袋は、ブエノスアイレスを経由してリオに運ばれ、そしてヨーロッパへと運ばれてゆく。郵便袋に詰まった郵便一つ一つに、想いが込められている。彼らは想いを運んでいる。そして、想いは運び運ばれ、世界へと届けられてゆく。運ばれ、リレーされる想いはどこか、宝塚歌劇の流れにも似ている。生徒一人一人が想いを運び、リレーした果てに紡がれてゆくものこそ、宝塚歌劇の歴史に他ならない。
 あひるは、昨年6月からずっと、三谷幸喜のこんな言葉が心に引っかかっていた。

「僕、実は『星の王子さま』の有名な一節『大切なものは目に見えない』という言葉が嫌いで。今回台詞にも書いたけれど、大切なら、見えないまでも言葉にはすべきだと思うんです。言わなければ人には分からない、言葉にしなければ本当の気持ちは伝わらない。僕が49年間生きて来て学んだ、そんなこともこの作品には反映されています」(「ベッジ・パードン」公演プログラム 三谷幸喜インタビューより)

 初めてこの一節を読んだとき、はっと心を衝かれた。正しい! とも思う。その一方で、…そんなこと言わないで(涙)〜という思いもある。三谷幸喜がこのような心境に至る上では、「星の王子さま」好きの人に何かとても嫌な目に遭ったりでもしたのかしらん…。ということで、あひるも40年の人生経験に基づき、「大切なものは目に見えない」なる言葉にまつわる嫌なケースについて考慮してみた。

ケース1)「大切なものは目に見えない」詐欺

 “あるある詐欺”とでも言うべきか、「大切なものは目に見えない」ことを逆手にとって、「大切なものがもはや、あるいはそもそも、ない」にもかかわらず、「大切なものは目には見えないから〜」と、詐欺を働くケース。例えば、好きでもないのに好きと偽るなどが考えられる。無論、好きと偽っただけでは心理的被害のみで物理的被害は発生しないが、好きと偽ることで相手から何らかの利益を引き出そうとするような場合には“愛があるある”詐欺に相当するものと考えられる。

ケース2)「大切なもの」がそもそも互いに一致していなかった場合

 個人的には、「大切なものは目には見えない」と言われたとき、真っ先に頭に思い浮かぶのは、心、愛なのだけれども、これを共有したいと願った相手にとっての「目に見えない大切なもの」がまったく異なるケース。例えば、「名声」「権力」「虚栄」なども目には見えるものではなく、人によってはこれらを「目に見えない大切なもの」と考えている可能性もあり得る。また、相手にとっての「目には見えない大切なもの」が心や愛だったとしても、それが、互いを思いやる心や愛の場合は何の問題もないが、ただ相手一人のみを利する方向に向かう心や愛、つまりは利己心や自己愛の場合は齟齬を来たす可能性が考えられる。

 ケース2の場合は言葉による相互確認は多少は有効かもしれない。ケース1の場合、言葉によれど確認はちと厄介である。相手が「好き」と言いつつもその実全然好きではない可能性もあり、言葉や態度、仕草などで総合的に判断する必要が生じる。
 「大切なものは目に見えない」。こんなシンプルなフレーズ一つとってみても、その考察は非常に難しい。だいたい、「大切なものは目に見えない」なるフレーズがそれこそ大切なものだったとしても、そのフレーズ自体はこうして言葉で書き表されて目に見えるものとなっているわけである。矛盾である。目に見える以上このフレーズはもはや大切なものではないのか。そのあたり、どう考えてこの一節を書いたのか、教えて、サン=テグジュペリ先生! …と、あひるは、「星の王子さま」に出てくる“僕”を質問責めにする王子さまの如き“なぜなぜ坊や”ぶりを発揮したくなってくるのであった。(ちなみに、取材しているときの自分はとりわけ“なぜなぜ坊や”だと思わずにはいられないあひるであった)。
 そんなことを何とはなしに考えていたら、宝塚花組で「サン=テグジュペリ」なる作品が上演されることが発表され、そのポスターには「たいせつなものはね、目に見えないんだよ……」なるキャッチフレーズが刷り込まれているのだった。「大切なものは目には見えない」をテーマにするとなると、舞台作品は難しい。というのは、「じゃあ、今この目の前で見えているものすべては大切じゃないのか」という問いが常に存在し得るからである。これが、「大切なものは目に見えない」をテーマにした交響曲や香水だったら、いいのかもしれないけれども。
 と、さらにつらつら考えた果て、「サン=テグジュペリ」を観劇したところ、「心で見なくちゃ、ものごとは良く見えないってことさ。肝心なことは、目には見えないんだよ!」と星の王子さまに告げるキツネの役は壮一帆にふられており、あまつさえ、「♪言葉なんていらない/言葉なんていらない」と歌い踊っているのだった。公演プログラムの作・演出の谷正純の弁はといえば、「サン=テグジュペリが『きつね』に託したメッセージ、壮にしか出来ません」。おお、絶大な信頼。壮一帆、責任重大。
 考えてみれば、私が舞台評論を記す際、書き表しているのは、目に見えるものばかりだろうか。舞台全体から伝わってくる劇作家なり、演出家なり、役者なりが大切なものとして伝えてくる何か、そうして伝わってくる大切なものが私の心の内に喚起する大切なものは、必ずしも目に見えるものばかりではない気もする。
 その一方で、言葉を紡ぐことを選んだ者にとって、「言葉なんていらない」、すなわち、「言葉にしない」「できない」ということはどこか負けを意味している。そもそもが、大切なものを感じるからこそ、それを何とか手を尽くして言葉にしたいと願う一心で成り立っている生業だからである。
 ということで、「サン=テグジュペリ」における壮一帆の演技、「目に見えるもの」を通じて伝わる「目に見えないもの」によって、どこまで「大切なものは目には見えない」について考察を深め、言葉にできるかが、今回の挑戦ではある。以上、前説終わり〜。
 あるとき、汝鳥伶の演技について一心に考えていた私は、こんな夢を見たのだった――。
 少女の私は上海租界に住んでいて(ちょうどそのとき、「上海バンスキング」についても一心に考えていたので、混じったらしかった)、近くに住んでいるお金持ちの女の子に、リサイタルに行こうと誘われる。とある邸宅のサロンでは、白い軍服に身を包んだ汝鳥伶が歌っていて、その足元には、何やらぎっしりつまった紙袋が置いてある。中身を手に取って見ると…。
「うわあ、宝塚についての古い貴重な文献がこんなにたくさん!!!」
 自分の夢を自画自賛するわけではないが、私は、汝鳥伶とはそのような存在であると思うのである。長年、宝塚歌劇に身を置き続けてきた彼女の中には、現在に至るまで、数多の役、数多の作品、そして数多のスターたちと交わした演技やセリフの記憶が蓄積されている。汝鳥伶の舞台を観るとは、彼女の優れた演技を味わうことにとどまらず、そのような豊穣な記憶の蓄積をもまた楽しむことに他ならない。まさに、宝塚歌劇の歴史の宝庫、今なお進化し続ける生ける資料館である。

 今回の「サン=テグジュペリ」で、汝鳥は、作家アンドワーヌ・ド・サン=テグジュペリから「星の王子さま」を捧げられた実在のユダヤ人ジャーナリスト、レオン・ヴェルト役に扮している。白州次郎を主人公に据えた「黎明の風」でシャープに演じた日本国首相、吉田茂についてもそうだが、汝鳥が実在の人物を演じると、その人物に対する私の理解も、汝鳥の解釈に伴われて大きく膨らんでゆくところがある。
 フランスがドイツに屈した後、ユダヤ人であるレオンはナチスの手を逃れて隠れ住んでいる。食料をもってひそかに訪ねてきたサン=テグジュペリとのやりとりは、丁寧な口調の中に、温かな友愛の情を発揮する一方、戦争なる狂気に向けるいかにもジャーナリストらしいシニカルさと嫌味も感じさせて、そのバランスが見事である。作品全体がレオンの回想となっており、回想パートでは状況説明も多く担当しているが、この語りが実に味わい深い。サン=テグジュペリにまつわるさまざまな事実を語りながらも、その一つ一つについてレオン自身がどのように感じたか、どのようにサン=テグジュペリの心に寄り添っていたかが、決して仰々しく前面に出ることなく、けれどもきっちりと語られてゆく。このような友情の持ち主なればこそ、サン=テグジュペリは「星の王子さま」なる一編の美しい物語を捧げたのだ――、そう感じて、何だか幸せになってくる。
 隠れ家を訪ねてきたサン=テグジュペリは、一緒にアメリカに行こうとレオンを誘う。レオンはこう答える。「ここの仲間を残してですか? それは出来ません。絆を結んだ仲間たちが暮らしている所、それが祖国。…(中略)…だから私は、ここを離れません」と。そのセリフの深い説得力が、宝塚歌劇を離れなかった人、汝鳥伶の男役像にそのまま重なる。このシーンの後、壮一帆がキツネに扮し、友達を探している星の王子さまに対し、“飼い馴らす”、すなわち、人と何かとが“絆を結ぶ”ことについて語り、「肝心なことは、目には見えないんだよ!」の一節を登場させる。サン=テグジュペリの死が、蛇によって倒れた星の王子さまになぞらえて描写された後、再び戦後の回想シーンとなって、レオンは、「サン=テックスにとって、一番大切なものは、絆を結んだ仲間たちだ」と、再び絆について口にする。汝鳥レオンは、現実とファンタジーとをゆきかうこの作品の語り部として、キツネのシーンで壮が立ち上げたセリフをもきちんと踏まえ、包み込んだ上でこのセリフを紡ぐ。
 先に<星の王子さまたちへ〜宝塚花組「サン=テグジュペリ」>http://daisy.eplus2.jp/article/294034452.htmlの項で述べたように、この作品は、宝塚歌劇の男役なる、はかなくもせつない存在に捧げられている。「サン=テックスにとって、一番大切なものは、絆を結んだ仲間たちだ。彼が書いた小説の主人公は、みんな青空と大地の間に消えていった。でも、サン=テックスの本の中にしっかり生きている…そしてサン=テックスも『星の王子さま』の中に生きている…」なるレオンのセリフは、宝塚歌劇に人生を捧げてきた人、男役・汝鳥伶が口にするからこそ、強く美しく響く。そのとき、劇場の天空に、浮かぶ気がする。汝鳥がその舞台人生で見つめてきた、数多のスターたちの笑顔が。
 このセリフの前のやりとりで、汝鳥は作品きっての難しいセリフを見事なまでに通す。自分こそが、憧れ続けた空のヒーロー、サン=テグジュペリを撃墜した人間に他ならないと、訪問者ホルスト・リッパートは告白する。「そうであってほしくないと思い続け、真実を知ることを避けて、今日まで逃げてきました…戦争は終わっても、私の戦争は終わっていなかったのです! でも、戦争は終わらせなければならない…私が、サン=テグジュペリ少佐を殺したのです…」と。こう告げて泣き崩れるホルストに対し、レオンは語りかける。「ホルスト君…おめでとう。君の戦争が、やっと終わりましたね」――。このホルスト・リッパートによる殺人の告白は無論、フィクションであり、また、実際にこのような告白をされたとして、自分の親友を殺した人間に対し、レオンがこのセリフのような答えを返したかどうかはわからない。しかし、ここには一つの祈りがある。戦争に限らず、極限状態にあって、人とはときに、心ある人間とは思えない振る舞いに及んでしまうことがある。それでもなお、赦しは可能なのか――。汝鳥のここでの演技は、そんな問いに対する答えに他ならない。
 「何を演じても○○」の後に、「でしかない」と続くのと、「の味わいを感じさせる」と続くのとでは大きな違いがある。何でも自分のキャラクターに寄せてしか演じられない者が前者であり、一つ一つの役柄を確かに演じ分けながらもそこに確かにその役者ならではの刻印を押してゆく者が後者である。汝鳥伶は無論、後者であって、私は、宝塚歌劇の舞台で、さまざまな役柄に、汝鳥の刻印が確かに押されてゆくのを観ているのが大好きである。今回の舞台で、汝鳥レオンが、サン=テグジュペリに「君の作品が素晴らしいのは、そこに生きた人間が描かれているからだ」と語りかけるが、このセリフはそのまま、汝鳥伶の舞台に捧げたい。

 覚醒者・汝鳥伶は、宝塚歌劇のよき導き手でもある。私は舞台上での汝鳥のありようを、その組や公演チームの実力にやる気、雰囲気を判断する上で大きな手掛かりとしている。「この組はいい!」「この子たちは一生懸命頑張っている!」と、汝鳥のテンションが雄弁に伝えてくる(こう書くとほめてばかりのようだが、芸に厳しい人のこと、過去に一度、心の中で一発レッドカードを出しているのも見たことがある)。そんな汝鳥の見立てを、私は大いに共有するものである。
 宝塚歌劇の宝庫である。生ける資料館である。汝鳥伶と共に舞台に立てる者は、その喜びをパワーに変えて、横綱の胸を借りるつもりでどーんとぶつかっていけばいいのだと思う。汝鳥伶はいかようにも受けて返してくれるはずである。本気でぶつかっていって、彼女を本気にさせた者が、汝鳥伶の心の資料館に残されてゆく。今、私の胸にあるのは、汝鳥伶の舞台をこれからもずっと見続けたい、そうして彼女の中の豊饒な記憶にふれ、宝塚歌劇についての理解をますます深いものとしてゆきたい、そんな切なる願いなのである。
 以前、弟がパリに留学していた頃、訪ねて行った母が、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの生まれた街、リヨンで買ってきてくれた「星の王子さま」グッズを公開〜。
 星の王子さまが描かれたこの箱、横にすると…。

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 そう、“僕”が王子さまに描いてあげたヒツジの木箱そっくり! 箱の上と下にはヒツジが描かれています。

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 中に入っているのは、時計。写真ではよく見えませんが、ベルトを止める遊革にもヒツジの絵。

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 こちらは王子さまと渡り鳥の絵をモチーフにした絹のスカーフ。そういえばリヨンは絹織物の街。

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 サン=テグジュペリ自身が「星の王子さま」を朗読したカセットテープを持っていたり、どうやらかなりの「星の王子さま」好きらしい母であった。
 ところで、こちらは「星の王子さま」グッズではありませんが、あひるのヒツジ。

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 アイピローのローレルくん(日本製)。いつどこで買ったか、そしてどうしてローレルくんと命名したか、自分でも覚えていないのですが。くったり加減が目に快く睡眠へと誘ってくれる癒しの存在。
 ローレルくん、木箱には少々大きすぎた(笑)。

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 現在東京宝塚劇場で公演中の「サン=テグジュペリ」は、宝塚歌劇の男役なる、はかなくもせつない存在に捧げられた舞台作品である。

 作品自体は、そのタイトルからもうかがえるように、「星の王子さま」の作者として名高いフランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、通称サン=テックス(蘭寿とむ)を主人公に据えた物語である。彼の本名は「アントワーヌ=ジャン=バティスト=マリー=ロジェ・ド・サン=テグジュペリ」という大変長いもので、劇中歌「アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ」では、彼の飛行士仲間アンリ・ギヨメ(壮一帆)をはじめとする面々がこのフルネームを歌いつ貴族でありパイロットであり作家であった彼の人となりを紹介していくが、この長い名前がリズミカルに歌われてゆく様は何だか落語の「寿限無」のようで味わいがある。そのサン=テグジュペリはいかにして、今日なお世界中の人々に愛され続ける「星の王子さま」なる物語を生み出したのか。作品はその問いをめぐる一つの推理でもあって、妻コンスエロ(蘭乃はな)とのスリリングな関係や飛行士仲間との心の交流などが描かれてゆく。
 「星の王子さま」の物語と現実とが交錯するファンタジックな場面もいくつか用意されている。砂漠に不時着してさまようサン=テックスの前には、蘭乃が兼ねる“星の王子さま”が現れ、「星の王子さま」から、砂漠の真ん中でヒツジの絵を描くやりとりが再現される。サン=テックスとの不仲に悩むコンスエロの前には、壮が兼ねるキツネが登場、作中もっとも有名なくだり、「肝心なことは、目には見えないんだよ!」が、歌と踊りに伴われて深い印象を残す。第二次世界大戦中、サン=テックスを撃墜したナチスドイツのパイロット、ホルスト・リッパートを演じる望海風斗が、「星の王子さま」のラストで王子さまを砂漠で仕留める“蛇”役を兼ね、サン=テックスと死の舞を繰り広げる。劇中、「星の王子さま」の物語すべてが再現されるわけではないが、オープニング、星の王子さまにバラの花、キツネ、そしてあのあまりに愛おしい挿絵さながらの扮装をした地理学者、酔っぱらい、うぬぼれ屋、実業家に王様ら登場人物が一挙に揃う様は、思わず童心に返った心をキュンとしめつけずにはおかない。
 そうしてサン=テグジュペリの人生と彼の作品世界をめぐりながらも、「サン=テグジュペリ」は、その物語を演じる宝塚の男役なる存在にまつわる考察をも浮かび上がらせてゆく。男役がなぞらえられているのは、サン=テックスと彼の飛行士仲間たちである。パイロットであり、作家でもあったサン=テックスは、彼の仲間たちの姿をその小説の中に生き生きと描いた。彼は、飛ぶ人間にして書く人間であり、芸術家である。危険な冒険飛行の果て、そして、ナチスドイツとの戦争の果て、彼の仲間たちはフランス――宝塚歌劇の永遠の憧れの地でもある――から外の空へと飛び立ち、一人一人、命を落としてゆく。生き残ったサン=テックスが本舞台で、空の彼方に消えていった飛行士仲間たちが銀橋を渡りつ友情を歌う「ミ・アミーゴ」は、此岸と彼岸とがあざやかに視覚化された、劇場機構が生かされた演出である。そしてやがてはサン=テックス自身も敵の手に倒れる。“ナチスドイツ”が、一人の芸術家の命を奪う。
 作品全体は、戦後、「星の王子さま」の序文で作者から物語を捧げられているユダヤ人ジャーナリスト、レオン・ヴェルト(汝鳥伶)のもとを一人のドイツ人が訪問、レオンがサン=テグジュペリについて回想してゆくという構成になっている。レオンは戦時中、サン=テックスにこう語る。「君の作品が素晴らしいのは、そこに生きた人間が描かれているからだ」と。そして、レオンを前に、ドイツ人訪問者、ホルスト・リッパートが、自分こそがサン=テグジュペリを撃墜したのだと認めた後、レオンはサン=テックスの未亡人コンスエロにこう語る。「サン=テックスにとって、一番大切なものは、絆を結んだ仲間たちだ。彼が書いた小説の主人公は、みんな青空と大地の間に消えていった。でも、サン=テックスの本の中にしっかり生きている…そしてサン=テックスも『星の王子さま』の中に生きている…」「『星の王子さま』を子供たちが読み継いでいく。その時、子供たちは本の中で君とサン=テックスの愛を知るだろう…」と。コンスエロは答える。「たいせつなものはね、目には見えないんだよ」と。
 私も思う。これまで書いた文章の中に生きる数多の男役たち、数多の星――スター――たち、数多の“王子さま”たちを。花の、月の、雪の、星の、宙の――。宝塚歌劇の男役なる存在は、宝塚歌劇の舞台の上でしか輝かない。舞台と客席とが相互にあの魔法を信じ合う場所でしか輝かない。女が、男を演じる。そんなことはあり得ない、おかしいと切り捨ててしまえばそれまでである。そう切り捨てる人間がマジョリティを占める場所では男役は輝けない。お前たちが男役だと言って熱狂している存在は、実のところ単なる女に過ぎないのだと、文字通り衣服すら剥いでわざわざ突き付けてくれる御仁すらいる。そして、男役でなくなった瞬間、心までなくしてしまう者もいる。まるで、「リボンの騎士」のヒロイン、サファイアから、天使のチンクが男の子の心をうっかり抜き取ってしまったかのように。――私の中からもう文章は生まれなくなる。妻コンスエロを愛せなくなったサン=テックスが、「僕のコンパスはもう君には振れない」と歌うように。
 男役を経た果てなおも褪せることなく輝き続けられるのは、残酷な現実にまみれた世界を、清く正しく美しい場所へ、すなわち、世界の方を宝塚化していく心を永遠に失わない者だけである。そんな永遠の“王子さま”たちが、宝塚を離れて外の世界に飛び立ってもなお、遠く、宝塚歌劇という花園を守っている。
 レオン・ヴェルト役で名演を見せる汝鳥伶のように、一握り、宝塚歌劇に、男役に、人生を捧げる覚悟を決めた者を除いて、宝塚歌劇とはいつか去らねばならない場所であり、男役とはいつか終止符を打たねばならないキャリアである。今回の舞台で、男役のはかなさをそのまま体現する男役たちを観ているのは、だから、とてもせつない――。飛行士仲間の一人、ジャン・メルモーズを演じる愛音羽麗がこの公演で退団とあれば、なおさらである。
 けれども。たとえ、一瞬の幻に過ぎないとしても。男役なる存在は、なぜあんなにも舞台で美しく光り輝くのだろう――。
 それは、人の命の輝きにも似ている。長い歴史の前に、人の命とは、刹那、瞬いて消える星の光に過ぎない。
 数多の星に見つめられている気がして、ふと、夜空を見上げる。「――そのとき君は、愛していたんだね」と、声がする。そうだ、私はあんなにも愛していたのだ。あの星たちを。だから私の中から文章が生まれて、その文章の中に、私が愛した者たちは生き続けるのだ――。
 父の仕事の関係で、私がカナダの首都オタワに移り住んだのは1982年5月のことだった。音楽専門チャンネル、MTVの放送が始まったのはその前年である。小学五年生だった私は、MTVを通じて洋楽の虜になった。毎日学校から帰ってきては、地下室のTVにかじりついて、次々と流されるプロモーション・ビデオを食い入るように見ていた。気になる曲やビデオがあれば、どこが好きかをメモに取っていて、何のことはない、今とやっていることはあまり変わらないのである。お小遣いを貯めてはアルバムを買って、でも、海外版には歌詞カードなる便利なものはついていないことが多いので、必死で歌詞を聞き取って、友達と学校で答え合わせしたりしていた。
 サウンドトラックから生まれたヒット曲のプロモーション・ビデオをあんまり何回も見てしまったから、見たことがないのにすっかり見たような気になっている映画が何本かある。「フットルース」に「トップガン」。どちらも、“サントラ男”の異名をとったケニー・ロギンスが主題歌を歌っていて、それ以外にも思い出に残る曲がたくさんあるのだけれども、プロモーション・ビデオで映画のさわりの映像が繰り返し流れるので、何とはなしに見た気になってしまうのである。ということで、サウンドトラックももちろん持っていて(カセットテープで!)、ほとんどの曲を歌えるものの、「フットルース」という作品そのものを見たのは、宝塚雪組の梅田劇場公演が初めてなのだった。
 正直なところ、行こうかどうしようか、迷った。あまりに楽曲が好きだったから。それをミュージカルの舞台で歌われるのが嫌だということでは絶対にない。「フットルース」のナンバーの数々に夢中になっていた頃の私は、今思えば、無邪気なものだったな…と思ったからである。その後の人生で訪れるつらいことを何も知らずにいた。ただただ、幸せな明日が毎日やってくるのだと信じていた。そんなにもユーフォリックでイノセントな日々は、もう私の人生に訪れることはない――。私は少女時代の私にどこか嫉妬していたのかもしれない。少女の頃大好きだった曲の数々を宝塚の舞台で聴くのが、何だかとても怖かったのである。
 でも、大好きな、大好きな、男女シンガーのデュエット・ソングの中でも心の殿堂入りするほど大好きなラヴソング「Almost Paradise」を、雪組トップコンビ、音月桂と舞羽美海が、心を寄り添わせて歌って、そして、その曲にのってため息が出るように心通ったデュエット・ダンスをフィナーレで披露するのを目の当たりにして、――観にきて本当によかった、そして、生きてきてよかった――と思って、泣いてしまったのである。確かにつらいこともいろいろあったかもしれないけれども、それ以上に幸せな瞬間も多々あった――と思えて。その瞬間のように。

 映画版とミュージカル版とで若干ストーリーが異なるだけでなく、宝塚版においては、潤色・演出の小柳奈穂子が、図抜けたセンスのよさでアレンジに成功している。ダンスが条例で禁じられた田舎町で、高校生たちがダンス・パーティを開こうとする。そんな物語設定は若干荒唐無稽に思えないでもない。けれども小柳は、これはいつの時代、どこの社会にも存在し得る抑圧の形であるということを、この町ではいつも誰かがどこかで見張っている――という、背中に空恐ろしささえ感じさせる「Somebody’s Eyes」のナンバーで秀逸に示して見せた。実際、私は最近、数代前の知事が高校演劇を禁じたというとある県を、取材で訪れたばかりである。そして言うまでもなく、我々は皆、どこか監視されている。あちこちの街角に設置された監視カメラは言うに及ばず、インターネット上何かを書き記すことさえ“監視”の材料になり得る。そうした相互監視は、人目が気になって自分の心のままに振る舞えないという相互抑圧を生みかねない。その意味で、ダンスが禁じられた田舎町ボーモントは、我々が生きる今この場所なのである。劇場/客席における「見る/見られる」関係性を利用して、現実における「見る/見られる」ことの、ときに残酷なまでの真髄に迫ろうとするこの試みについては、市川猿之助の芸に賭ける心意気に心打たれずにはいられなかった六月・七月大歌舞伎「ヤマトタケル」にもどこか感じるものではあるが、詳しくは違う機会にふれることとしたい。抑圧から、自由へ。自らの住むムラ社会をどこか覆う枷を解き放とうとすることこそ、音月桂扮する主人公レンをはじめ、作中の高校生たちに課せられた使命であり、出演雪組生は一丸となって小柳演出によく応えた。
 大都会シカゴからやってきて、田舎町を変えることとなる”ヒーロー“、主人公レンに扮した音月桂は、持ち前の骨太な歌唱力がロック・ナンバーの数々に合い、文句なしの当たり役。トップスターになっても若々しくもかっこいい高校生がこんなにも似合うあたりに、音月の男役としての魅力の真髄がうかがえる。そして、ハードな音楽にのってゴオオオ〜と魂を燃えさからせるあたりに、ニュー音月桂の兆しを感じて大興奮。レンが率いて、周囲が一つになって、燃える。トップとなり、率いてきた組がこのような状態にまで高められてきたことを、音月桂は自ら誇りに思うべきである。
 ちょっと不良ぶってはいるものの実は文学少女のヒロイン、アリエル役の舞羽美海は、「オネーギン」のタチヤーナ、「ロミオとジュリエット」のジュリエットと、文学少女を思わせる役柄がもともと得意中の得意だけれども、今回はちょっと背伸びした感じが大人っぽい美少女ぶりで、こちらも新機軸の当たり役。ある事件がきっかけで心を閉ざした父親に対し、自分と話をしてほしい! と感情をぶつけるあたりの一途さは、真骨頂である。
 今回の小柳演出は、客席と一緒になって踊る際のダンス指導も、マッシュルームカットにメガネが超絶キュートな若干オタクの高校生、ウィラードのキャラクターを生かし、踊れない彼の踊りを上達させるために指導するという設定で、ベタにならない客いじりのアイディアが光る。そして、沙央くらま演じるウィラードは文句なしに“心のキャラ”である。冴えなくて内気、でも、大好きな女の子ラスティのために、変身を遂げるウィラード。踊り下手を発揮する先の客いじりのシーンでも、その下手っぷりがあまりにチャーミング。ボニー・タイラーの大ヒット曲「Hero」にのって、女の子たちが自分だけのヒーローを夢見て踊るかわゆいシーンでは、男役陣がアーサー王のコスプレでかっこよく登場して魅了するという宝塚ならではの趣向が凝らされているが、ここでもやはりメガネっ子ぶりを発揮する沙央ウィラードに何だか目が奪われがちに。この手のクセのある役は、いくらでも楽しくやれる分、あざとさが逆手に出て鼻につきかねないあたり、非常にさじ加減が難しいが、徹底的に考え抜かれた役作りでキャラクターのかわゆさを体現しきって、役者・沙央くらまここにありの名演である。
 そんなウィラードのガールフレンド、ラスティをこれまたキュートに演じたのが愛加あゆ。昨年の梅田芸術劇場公演「ハウ・トゥー・サクシード」でもはじけたキャラが魅力のスミティ役を好演、コメディもいけることを証明したが、今回も、「ハンバーガー三個食べたわ」なんて告白して「食べすぎだよ、ラスティ…」とウィラードにつっこまれる大食いキャラで無邪気なチャーミングさを発揮。俺をバカにしてんじゃねえ! と虚勢を張る町一番の不良、チャックに、「バカにしてるんじゃなくて、そもそも、バカ…」と思わず本音を吐露する、言いようによっては嫌味に聞こえかねない難しいセリフも、間合いの妙で難なく通す。チャックのように粋がっているだけでは物事は何も変わらない、レンのように不屈の精神で行動を起こさなくてはならない――との、物語のテーマにきっちりつながる演技である。そのチャック役の蓮城まことは、このところセクシー男役修行驀進中である。
 レンの母エセル役の舞咲りんは、こういうアメリカンなママ、いるいると思わず膝を打ってしまいそうな。パワフルなので、夫に出て行かれても充分一人でやっていけそうに思うというか、あまりのパワフルさを夫たる人間は持てあましたのであろうかと考えてしまうというか、いずれにせよ、舞咲ママの魅力がわからない男は小物かもしれず…。彼女の、妹夫婦のところに身を寄せてもどこかはみ出てしまう型破りな個性が、レンのようなヒーローを生み育てたのだと感じずにはいられない。こわもての女校長役の花帆杏奈は、ダンスを禁じるのはいいけれども己のセクシーさは禁じなくてもいいのか〜と思わずにはいられない色っぽさ。高校生仲間ではユーリーン役の透水さらさのキュートさが目を引く。
 己の心の弱さゆえ、町にダンスを禁じる条例を作ることとなったムーア牧師役の未涼亜希も、“抑圧”方を一心に引き受けての熱演だったが、個人的には、未涼なら、もっともっと大きな壁となって主人公レンに対峙することも可能だと思う。未涼の演技如何でこの作品はいかようにも深くなり得る。ムーア牧師の妻を演じた早花まこは、彼女のさばけてキュートな持ち味とは若干違った役柄だが、夫の内面を慮るしっとりとしたせつなさが◎。
 贅沢なことに2パターンあるフィナーレだが、どっちも雪組生のパワーがはじけて甲乙つけがたい! そして、フィナーレで男役としてかっこよく出てきた沙央くらまが、ラストでまた元のウィラードの姿に戻って出てきて、「(『EXCITER!!』の)チェンジボックスを逆戻りしちゃったんだろうか…」と思ってしまった。いえ、どちらの姿もとても魅力的なのですが。ペンライト片手に一緒に踊って、とっても楽しかった――。

 「この人生、あなただけを求めてきたの」「遂に叶った夢すべてをあなたと分かち合う」「あなたの瞳の中に永遠が見える」なんて超絶ロマンティックな歌詞の「Almost Paradise」。とりわけ好きなのは、「君の腕の中にいると、救いの日は遠くないと思えてくる」「そう、その日は、少しずつ、少しずつ、近づいてきているの」と、リフレインのクライマックスに向けて二人が掛け合うくだりなのだが、こんな歌を聞いて少女の日のあひるはいつか来たる恋をうっとり夢見ていたのである。あひるがいまだに実家にシングルレコードを置いてあるこの「Almost Paradise」の原曲を歌ったのは、ラヴァーボーイのリード・ヴォーカル、マイク・レノと、ハートのリード・ヴォーカル、アン・ウィルソン。ハートはアン&ナンシーのウィルソン姉妹を擁するバンドで、男前にパワフルなシャウトを聞かせるアンと、スリムな身体を革のジャンプスーツに包んで蹴りを放ちながらギターをかき鳴らすナンシーの二人は、あひるの憧れのロック姐御だったのである。そして、ラヴァーボーイといえば、カナダ出身のバンド。音楽界でも映画界でも、実はアメリカではなくてカナダ出身という人は案外いて、そのうち、ミュージシャンでもっとも有名と思われるポール・アンカと、私と同世代のアラニス・モリセットは、カナダのオタワ出身なのである。そして、実はあひるは、ポール・アンカの小学校の後輩なのだった(住んでいた家の大家さんの数歳違いのお兄さんと同級生だった旨)。数年前、取材でトロントに出張した際、オタワに立ち寄り、住んでいたレンガ造りの家や建て替わってしまった小学校を見に行ったとき、ポール・アンカの「My Hometown」(日本でも一時期不動産会社のCMに使われていた)を地で行くセンチメンタル・ジャーニーだったことを、懐かしく思い出す。
 私の夫は一人で宝塚ホテルに泊まって宝塚大劇場に観劇しに行けるほどの剛の者だが、それでも、女性ばかりの劇場にいることに気後れするときがあるらしい(とりわけ、全国ツアー公演会場などで、男性トイレに女性客が大挙して押し寄せてきたとき等)。
「でも、涼紫央を観ていると、男が宝塚を観てもいっこうにかまわない、そう思えてくる」と、かつて彼は力説していた。「あの人は、宝塚を愛している人はみんな、ウェルカムだから」と。
 私もその意見に全面的に同意である。男役・涼紫央は宝塚歌劇を愛している。だから、宝塚歌劇を愛する者は皆、同じ愛を分かち合う同士なのである。そのような想いを伝える笑顔を、涼は客席にふりまいてきた。あの、ふわっと崩れる、あたたかい、優しい笑顔。そんな笑顔を、本日8月5日、宝塚最後となる舞台でも、きっと涼は客席に向けることだろうと思う。

 ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」を原作にした、3月の涼の主演作「天使のはしご」は、いかにも宝塚歌劇らしい魅力にあふれた作品として、見事だった。近年、これほどまでに宝塚らしい宝塚作品はなかったと思うほど。私はまず、作品の演技指導で入っているかつての星組トップスターで、涼自身が師と仰ぐ紫苑ゆうは今後、本格的に演出を手がけるつもりはないのかな…ということを思った。そんな作品の中で、涼紫央は、そこに立っているだけですべてを成立させられる、男役としての集大成の姿を見せていた。華麗なコスチュームを着て立っているだけで、美しかった。細いを通り越して薄いほどのその身体ゆえに、ラインが際立って美しいのだった。これまた小顔のヒロイン、ドレス姿の音波みのりと並んだだけで、眼福至極。
 そんな作品を演じながら、涼はその物語に、自分が宝塚で生きてきた“物語”を見ていた。その物語には、私の非常によく知った“顔”も出てくるのだった。
 私はそのとき、純粋な愛を貫き通すことの難しさを思ったのである。そして、その愛を貫き通した人の気高さを。世界は何も、愛の論理で生きている人ばかりで構成されているわけではない。だからこそ、純粋な愛を抱く人間は利用されやすい。愛しているんだから…と、その愛につけこまれて。そして、愛ゆえに尽くしたとして、いつか、自分はただ、利用されているに過ぎなかったのかもしれない…という、苦い後味がやってくるときがある。深い愛ゆえに苦さを味わわねばならないとしたら、さんざんである。人生を恨みたくもなる。けれども、そこが愛の貫き通しどころなのである。それでもなお、愛を貫くことができるのか――。
 私は、「天使のはしご」で、涼紫央の気高さを知ったのである。そして、彼女があれほどまでに愛してやまない宝塚の舞台を去ることを決めたことも。その千秋楽からほどなくして、彼女の退団が発表されたのだった。

 涼は昨年、宝塚出身者が顔を揃えた「DREAM TRAIL」に外部出演した。そうそうたる顔触れの先輩たちの中で、涼は現役タカラジェンヌとしての独特のオーラをきちんとまとって舞台に在った。公演には日替わりでスペシャルゲストも登場していて、私は紫苑ゆうの出演の日を観に行った。圧巻だった。その17年前に退団した後、大きな舞台に立つことがそれほど多いわけではないのに、舞台勘というものは失われるものではないのだな…と痛感した。私は青山劇場の通路すぐ後ろあたりに座っていたのだけれども、その位置を遥かに超えるくらいの眼力ビームを放って、世界に一つしかない宝塚歌劇なる場所への愛を絶唱する麗人。圧倒された。
 そして、紫苑と涼が二人、踊る場面があった。涼紫央はこれほどまでに男役・紫苑ゆうを愛していたのだと、胸を衝かれた。愛してやまないその男役像を伝えんがため、涼は男役道に邁進してきたのである。涼紫央の歩いてきた道は、紫苑ゆうの歩いてきた道に続いてあって、それはそのまま、男役・紫苑ゆうが傑出した存在に他ならないことを燦然と示している。それほどまでの存在でなければ、人の心を動かすモチベーションとなり得ない。男役・紫苑ゆうの残したものの大きさを、今さらながら思い知る瞬間だった。そして涼は、恩師と踊って、至福の時を味わっていた。そんな姿を観ていて、私もまた、幸せだった。

 ここ数年の舞台を振り返ってみると、ショー「BOLERO」では、“女装”に挑戦した“ホワイトタイガー”が、ふんわりした色気があって、キュートな“心のキャラ”だった。「めぐり会いは再び」では、持ち味のあたたかさとは打って変わって、ドSで毒舌な貴公子。しかし、美しい人が口にすると、毒舌にも魅了されてしまうような。
 「オーシャンズ11」では、主人公ダニー・オーシャンのよき相棒であるラスティ。「やればできる!」と、集ってきた仲間と一緒に歌い踊り、楽しいラインダンスまで披露する「JUMP!」のくだりは、心弾む名シーンである。そして、“オーシャンズ11”はラスベガスのカジノの金庫破りに挑むわけだが、その大詰めでは、何とハゲヅラを被って登場、世紀の一芝居! しかし、ここで感服させられたのは、たとえハゲヅラを被っていようとも、涼紫央の男役としての香気は決して失われることがなかったということである。それだけ、男役の土台がしっかり構築されているからに他ならない。圧巻の“心のキャラ”である。
 退団作となった「ダンサ セレナータ」では、華やかなショーが夜な夜な繰り広げられるクラブ「Lua Azul」(青い月!)の人々を終始あたたかく見守るバーテンダーのジョゼ役。ショー「Celebrity」では、軍服はじめ、これぞ宝塚の貴公子! たる姿で大いに魅了。「DREAM TRAIL」での恩師・紫苑ゆうばりに、その歌唱には宝塚への愛が満ち満ちていて、涙。
 そして、ひときわ忘れられないのは、2008年の全国ツアー「外伝ベルサイユのばら〜ベルナール編〜」で演じた、男装の麗人オスカルである。まるで劇画の中から抜け出てきたようだった。

 私は取材以外では本当に緊張してしまって、新年互礼会に出席しても緊張している時間が長いばかりでなかなか話しに行けないのが自分としても非常に情けないのであるが、今年の新年互礼会、やっとの思いで話しに行った涼さんはとても気さくで、男役談義が盛り上がってきた! と思ったところでタイムオーバーになってしまったのであった…。残念。いつかきっと、あの男役談義の続きを!
 今、ひしひしと思う。涼紫央が宝塚歌劇をあんなにも愛していたから、宝塚歌劇を愛していいのだと思えたと。舞台上の涼紫央が、…ここは、愛に値する夢の花園なのですよ…と示し続けてきたから、客席のこちらも素直にそう思えた。愛、愛、愛。宝塚歌劇の劇場空間は、そのような場所なのである。この世に宝塚歌劇があって、そこで男役・涼紫央と出会えて、本当によかった!