藤本真由オフィシャルブログ

 宮城理子の少女漫画が原作となった「メイちゃんの執事」(2011)は、それは個性的な登場人物を星組の面々プラス専科の汝鳥伶&美穂圭子がまた個性たっぷりに演じていたのが好印象だった。これまた“心のキャラ”が誰か大いに迷う作品だったのだけれども、今になって痛烈に思い出すのは、主人公・東雲メイの前に敢然と立ちはだかるお嬢様、ルチア様こと本郷詩織役の白華れみの麗しくも恐ろしい怪演ぶりなのである。観劇時なんてほとんど夜、うなされそうな…。ルチア様は執事の柴田理人を奪われたことでメイちゃんを憎んでおり、あまつさえ怪我を負った理人を薬で眠らせて監禁してしまう。理人が眠るベッドの上で、やってきたメイちゃんを威嚇するルチア様の狂気的な美しさ。何だかショックで、終演後、一緒に観劇していた夫に訴えてみた。
「…メイちゃんの理人さんなのに、ああいうの、何だかいや…」
 気の毒そうな顔で夫は言うのだった。
「いや、あの、原作はもっと表現過激…」(うちは最近、夫の方が少女漫画読みなのである)
 家に帰って夫の部屋にあった漫画を見てみると、…はい、原作ではベッドの上の二人は一糸まとわぬ姿でした…。またもやショックを受け、そしてショックを受けた自分にショックを受けるあひるであった。もはや少女ではないのに、少女が読む漫画でショックを受けるな〜! それはさておき。少女漫画には主人公に対峙する超絶美少女という存在が数多く登場するが、主人公の多少冴えない少女が「…かなわない…」と思い、自らが成長していく上でどこか乗り越えていかなくてはない存在として、このときの白華れみは二次元から抜け出してきたようだったのである。誇り高く、美しく。
 その前年の「リラの壁の囚人たち」で演じたヒロイン・ポーラのように、いかにも娘役らしい楚々とした役柄もこなせる人だった。けれども、その後は何だか気の強い女性の役どころが続いていく。「ノバ・ボサ・ノバ」では、1999年の上演の際には男役及び男役からの転向者が演じたブリーザ役。三角関係の渦中の女で、物語を大きく動かしていく。このとき、彼女を取り合うオーロ役とマール役において、若手男役陣が役替わりで競わされ、それぞれあまり器用なタイプではないからもっとじっくり演じさせて成長を促していった方がいいような…と思わないでもなかったが、その役替わりの渦中で大奮闘していたのが白華ブリーザなのだった。黒塗り化粧がよく映えて、率直なところ、彼女を取り合う男役陣よりよっぽど男前で、ほとんど、草食系男子が、自分の代わりに狩りをしてくれる肉食系女子をめぐって争っているような雰囲気。その後、若手男役陣が男役としてぐんと成長していったのも、このときの白華ブリーザの奮闘あってこそだと思う。
 続く「オーシャンズ11」ではヒロインに敵対心を抱く高慢なラスベガスの女王という宝塚版オリジナルの役どころ。宝塚最後の作品となった「ダンサ セレナータ」のアンジェリータ役でも、一瞬同じ類の役どころと見せて、実は超絶プロフェッショナルなクラブのトップ・ダンサーと造形したところに、作・演出の正塚晴彦の手腕を見る。正塚が己のクリエイターとしての矜持を主人公イサアクに宛て書きしたこの作品において、プロフェッショナルな姿勢でショーに臨むアンジェリータは、正塚が、タカラジェンヌたちがもつ舞台人としての矜持への尊敬の念を最大限に込めて書いた、象徴のような役なのである。そして白華はその役を、タカラジェンヌとしての矜持をこめて堂々と演じきった。
 それで一つ、溜飲が下がったことがある。春に上演されたスペシャル・ライブ「REON!!」で、白華れみは真風涼帆共々、「タカラジェンヌに栄光あれ」の替え歌で、「柚希礼音に栄光あれ」と歌わされていた。それを見て本当に心が痛んだ…。「タカラジェンヌに栄光あれ」は、心あるすべてのタカラジェンヌに捧げられた歌であって、たとえギャグ・シーンであったとはいえ、トップスターであれ誰であれ、特定の生徒一人を讃えるためだけに歌われるべき歌ではないのである。久々にこんなに大笑いした…と思った、大変楽しい作品だったけれども、この点についてだけは、本当に珍しいことだが作・演出の藤井大介にイエロー・カードである。その歌を歌って、そして直後に白華が退団を発表したから、何だかとてもショックだったのである。けれども、娘役・白華れみはラストとなるアンジェリータ役で光り輝いていて、よかった…と思う。
 プロフェッショナルであることは難しい。宝塚の娘役のプロフェッショナルであることも、また。でも、白華れみは娘役道を貫いて、舞台人として立派に生きた。だから、私は今、白華れみに言いたいのである。タカラジェンヌに栄光あれ、と。そして、これからの人生も、スマイル! プロフェッショナルに笑顔が加われば、鬼に金棒! 宝塚を卒業する今日という日も、笑顔にあふれた一日となりますように。
 涼花リサに続き、またもや“心のおすまし娘”が宝塚の舞台を去る日を迎えてしまった。星組の南風里名である。
 昨年、星組は故・鴨川清作の名作「ノバ・ボサ・ノバ」の再演に挑んだ。最近、この鬼才のありし日を知る人何人かからお話をうかがう機会があり、今から四十年も前に宝塚の「花の道」を毛皮のコートで通勤していたとか、そんな毛皮のコートで「ロッキー・ホラー・ショー」の初演を観にロンドンに現れたというエピソードを聞くだに、…さすがすぎる…と思わずにはいられないあひるであった。舞台芸術作品を呪術的、祝祭的儀式としてとらえ、かつ官能の香りをふんだんにこめた「ノバ・ボサ・ノバ」にも、初演の1971年当時に物議を醸したポルノ映画のタイトルがそのままセリフで引用されていたり、その鬼才ぶりが如何なく発揮されているわけだが、その中に、男役の“女装”と娘役の“男装”のカップリングで踊らせる、これまた倒錯的なシーンがある。背の“高い”女と背の低い“男”(のどちらもが女性によって演じられているところがさらに倒錯性を増していることは言を俟たないわけだが)が名曲「ラ・クンパルシータ」にのって繰り広げるタンゴを観ているうちに、一人のおじさんに目が釘付けになってしまった。バーコードっぽいかつらに眼鏡、そしてダンスはキレッキレッ。ステップステップ、クイッとターン、その颯爽と小気味よすぎて笑いを誘わずにはおかないおじさんの一挙手一投足から目が離せない! 興奮! 誰!?
 それが、“心のおすまし娘”としてその笑顔を愛でていた南風里名その人だと知ったときの驚愕たるや。
 それは、星組に新たな“心のキャラ”獲得者が誕生した瞬間でもあった。星組は強豪が多くて、心の諸部門争奪戦(inあひるの心)がなかなか大変なのである。書き記していないころから振り返ってみると、「太王四神記 Ver.II」の“心のキャラ”美稀千種はもはや常連だし、「BOLERO」の“心の名(というか迷?)場面”は夢乃星夏率いる男役陣の“トマケ”、「摩天楼狂詩曲」の“心のキャラ”は主演ながらまたもや夢乃(「エンパイア・ステート・ビル、でっかいなあ!」なる言わずもがなの名というか迷セリフの炸裂ぶりが最高!)、「愛と青春の旅だち」は美稀千種とこれまた常連の美城れんのコンビと、なかなか新規参入が難しいのだが、個性豊かなキャラクターが登場する「ノバ・ボサ・ノバ」で、おすまし娘は見事な芸の力を見せたのであった。
 それにしても。おすまし娘が、キレッキレッバーコードおじさん…。いや、その芸を観ることができたのは本当にうれしいのである。しかし、何だかあまりに強烈過ぎてショックでもあって、その後、南風が娘役として踊っていても、「…おじさん…」とついつい残像がちらついてしまうあひる。
 最近ではいいポジションでキレのいいダンスを披露できるようになってきたな…と注目していたら、もう退団である。さみしい。「オーシャンズ11」のフィナーレ、セクシーな衣装でターンを決めて、まるでウィンクするかのように片足を上げ、キュートな微笑みを客席に残していった瞬間も忘れがたい。おすまし笑顔と、キレッキレッおじさん、さまざまな顔が見られて楽しかった! 今日まで本当にありがとう。
 稀鳥まりやといえば、ハンサムな海軍士官と結ばれると思い、「♪乙女心がピンクに染まる〜!(^^)!」とはっちゃけて大喜びしたのもつかの間、結婚相手は年老いたその父親だったと知って現金なまでにどんよりしていた、「エル・アルコン」のジュリエット役が忘れられない。「ハプスブルグの宝剣」でも、律法をドイツ語に訳したがためにユダヤ人社会から追われた主人公に、その本が多くの人々の心を救うことになったのだと告げる少女オリガ役で温かみのある演技を見せていた。
 本日初日の幕の開いた星組公演「ダンサ セレナータ」「Celebrity」。その千秋楽で惜しくも退団する涼紫央はほぼ覚醒とみて間違いなし。宝塚が誇る白の貴公子の最後の雄姿を堪能できる作品となっているのが◎。そしてこちらも惜しくも退団する白華れみは、娘役としてここ数年見せてきた舞台のクオリティからして、彼女の中ではもう覚醒しているはず。自分に厳しすぎるくらいに舞台を務めてきたのも、深い宝塚愛あったればこそだと思う。最後の公演ではぜひ、その深い愛で劇場全体をほっこり包み込んでほしい。ちょうど、涼がそうやって客席を包み込んでいるように。心を開いて、スマイル!
 トップコンビ、柚希礼音&夢咲ねねにとって、必ずや代表作になるであろうこの二本立て。正塚晴彦の渾身の宛て書きが光る「ダンサ セレナータ」では、男役はかっこよく娘役はかわいく。稲葉太地の新感覚ショー「Celebrity」はゴージャス&スタイリッシュな衣装のオンパレードで、眼福!
 大空祐飛の宝塚最後の公演「華やかなりし日々」「クライマックス」を最後に観た日の夜、一人さめざめと泣いていた。ずっと続いてきた、どこかずっと続かせてきた青春が、大空祐飛の退団によって、今度こそはっきり終わってしまうのだ…と思って。大空祐飛は、私の記憶の中で紫吹淳につながる人々のうち、一番、紫吹淳を強く思わせた。だからこそ、大空祐飛について書くことは、自分の心の傷の中に直接手を突っ込むような痛みがあって、どこか避けてきたところもあったのかもしれない。私が紫吹淳の舞台をあんなにも欲していたのは、人生が絶望的に生き詰まりに感じられていたときだったから。
 ということは、私と大空祐飛とは、同じ人物に救われていたわけである。「誰がために鐘は鳴る」で、大空は歌っていた。かつて、りかさんに言われた。ゆうひは、ゆうひの男役でいいんだよ…と。その言葉が、男役を続けていく上で救いになったと。
 そして、大空祐飛が退団を迎えた今、思うのである。紫吹淳が歩いた道の先を、大空祐飛が歩いて、未来へとつないでいったと。紫吹淳にどこか似ていて、けれども、分岐点からが先が何より大空祐飛という個性であった人が。これまでならば、どちらかというとトップスター向きではないとされてきたように思う個性で堂々トップスターを張って、結果、宝塚のトップスターの領域を拡張した人が。

 人の演技がうまく見えたり見えなかったりするのはいかなるメカニズムによるものなのか。かつて私はそのことを、「カサブランカ」での大空祐飛のありように教えられた。
 心を解き放ったときの大空祐飛の演技はうまい。しかし、いわゆるうまい感じには見えない。それは、大空の中に、「私はうまい」という意識がないからである。つまり、うまく見えるか否かは、演じている者の自意識に左右されるところも大いにあるのである。「この人は自分でうまいと思っているくらいだから、うまいんだろうな…」と、観る側としても受け取ってしまっている部分が多分にあるということである。うまいと思っている意識と、実際のうまさとが齟齬をきたしている場合、私がもっとも忌むところの“自意識芸”となる。演技でも歌でも踊りでも同じことである。そして、たとえうまかったとしても、“うまい”ということしか伝わらないような芸がいったい何になるのだろうとも、最近つくづく思うのである。
 「カサブランカ」での大空祐飛は、紫吹淳ばりに、男役の飲んだくれ芸、酩酊の色気を発揮して見せた。愛する女を、その理想のために去らせるべきか、否か。「♪本当の俺はどこにいる/本当の俺はどう生きる」という銀橋での歌唱は、大空祐飛の男役ヒストリーの中でも燦然と輝く名場面の一つだが、男役としての大空祐飛の魅力の真骨頂はその後、自分の頭できっちり絵を描いてすべてをそのシナリオ通りに実行してみせる、その処理能力の高さの方に出る。紫吹淳が演じる男役だと、飲んだくれて、「俺はだめだ」とか言って、そのままうなだれて飲んだくれていそうで、それが魅力的なのである。何だか放っておけないように思ってしまう。けれども、大空祐飛の男役は、テキパキ処理して物事を先に進めていくところに魅力があるから、観ている方としても、必ずしも前向きかどうかはわからないけれども、人生こうして進んでいかなくてはいけないように思ってしまう。けれども、そうして物事を先に進めていっても、決してガツガツと品のないようには見えないのがまた、大空祐飛の美質でもあるのだけれども。
 そして、このとき大空は、初めて接する宙組生全員に対し、まるでフルフラットシートを全部倒したように、何もかもを受け入れるように見せた包容力の美しさが忘れがたい。このとき演じたリックという役は、カサブランカの自分の店にやってくる客の一人一人を、エグザイルとして客観的に見つめているところがあって、それが、トップとして宙組にやってきた彼女自身の立場とも重なっていたのだった。

 「カサブランカ」から半年の後の秋、大空は、花組時代に演じた「銀ちゃんの恋」を今度は全国ツアー公演で演じることとなった。銀ちゃんを演じる大空祐飛は、今までで一番心を解き放って、自由に伸び伸びと演じていて、もっとも好きな舞台の一つである。
 ヤス役は北翔海莉。月組時代からの縁である。そして、大空祐飛と北翔海莉という組み合わせは、宝塚歌劇においてもっとも先鋭な論点の一つをどこか呼び起こさずにはいないところがあった。すなわち、「男役は、ヴィジュルアルか、芸か」という論点である。何も、二人がそのどちらかに特化していたと言いたいのではない。大空はときに人にどう見られているか頓着しすぎで、北翔は逆に人にどう見られているか頓着しなさすぎというだけのことだと思う。
 結論からいえば、「どちらも必要」である。美しくて実力があったら鬼に金棒で、何も宝塚の男役でなくても、舞台に上がる者は皆その境地を目指すべきものだろう。もっと言えば、人はそれぞれその人だけの美しさをもっている存在なのだから、何も舞台人に限らず、誰しも己の美を磨いて生きて、そうすることによって、ときに平気で美しくも何ともないかのように思えたりするこの世界を、少しでもより美しい場所に戻していく努力をすべきなのである。何も、己の美貌を鼻にかけろというのではない。それでは逆に醜悪である。花が咲いているのを見ればその美しさに心和むように、人がにっこり微笑むのを見ればそれで心和む、そういうことである。心からの美しさを最大限発揮できるように生きることが、人誰しも問われているのだと思う。
 それで、大空祐飛を送る項からはいささか外れてしまうけれども、最近の北翔海莉はどうも、己の美に対して大いなる混乱が見られる。化粧も、髪型も、衣装の着こなしも、宝塚の男役芸のうちである。前々から書こうか迷っていたのだけれども、今度雪組に特別出演するということで、ちょうどいい、素敵なランチを何度かおごってでも、センス抜群な花帆杏奈に徹底的にアドバイスしてもらうといいと思う。「オネーギン」での、小さな帽子を室内に入って取ったら結い上げたお団子が出てきた! という秀逸な自己演出の流れは、“心の髪飾り”である。

 さて、大空祐飛は続いて、アーネスト・ヘミングウェイ原作の「誰がために鐘は鳴る」の主役を務めた。トップ就任前の彼女の当たり役の一つが、主演作「THE LAST PARTY」で演じたスコット・フィッツジェラルド役であり、ヘミングウェイとフィッツジェラルドといえば、現在公開中のウディ・アレンの映画「ミッドナイト・イン・パリ」(1920年代への魅惑のタイムスリップ!)にも登場するように、友人かつライバル関係にあった二人である。
 以前にも大空祐飛にまつわる項で書いたと思うのだが、私の母はフィッツジェラルドの研究をしている。そして、「誰がために鐘は鳴る」上演当時、「ヘミングウェイ大事典」の仕事に関わっていた。この大事典はもうその何年も何年も前から執筆が進められていて、出ると言いつつなかなか出なくて、今年さすがに出ると聞いていたのに今調べたら7月刊行ということでまだ出ていなくてちょっとびっくりしたのであるが、これまで世界的に定説だった事実が覆る新発見もあったりするそうである。その大事典で「宝塚歌劇」の項を設け、それを母が書くことになり、ついては「誰がために鐘は鳴る」をぜひとも観たい、ということで、私は母を連れて劇場に赴いた。その観劇後の会話。
「それで、どうだった?」
「うん、大空さん、すごくかっこよかったよ!」
 …そういうことを聞きたかったんじゃないような気もするが、それはさておき。具体的に個々の演者名まで出ているというわけではないのだけれども、とにかく、「ヘミングウェイ大事典」でも作品の上演にふれているので、興味がある方は大学や図書館で見られたし(1000ページ25000円なので、ちょっと一般家庭用ではないかと)。大事典が出たら書こうとずっと思い続けていたのに、とうとうこの日になってしまいました。
 と、研究に赴いたはず? の人間も魅了してしまうほど、「誰がために鐘は鳴る」の大空祐飛は、知性と行動力を兼ね備えた真のインテリを演じて魅力的だった。これもまた彼女の当たり役の一つに他ならない。

 昨年、東日本大震災があって、3月に予定されていた「ヴァレンチノ」の東京特別公演は、劇場の補修工事のため、中止になった。そして、8月7日に「美しき生涯」「ルナロッサ」の東京宝塚劇場公演を終えて、13日には初日の幕を開けるという強行スケジュールで、「ヴァレンチノ」は東京でも観られることとなった。大空が演じたのは、サイレント映画のスター、ルドルフ・ヴァレンチノ役。野々すみ花が彼に大いにインスピレーションを感じるシナリオライター、ジューン・マシスの役どころで、物書きとして野々の造形には非常に共感するところがあった。大空ヴァレンチノが実際に演じた作品の場面を再現していく様も素敵だったけれども、一番心に残っているのは、移民としてイタリアからアメリカにやってきて、アランチャ(オレンジ)片手に見せる、屈託ない笑顔である。

 屈託のなさ。私の大空祐飛をめぐる記憶は、何だか次第にそこに収斂していったのである。こうして書いてきて、さまざまな作品や役柄を思い出して、けれども、一番心に強く刻まれていて繰り返し甦ってくるのが、月組時代、彼女がナイスリー・ナイスリー・ジョンソンを演じた「ガイズ&ドールズ」の表題ナンバーのラストで、両手いっぱいに抱えていた買い物袋や箱を「うわあ〜」と言いながら全部取り落としそうになる、その瞬間の、あわてた、それでいて何の屈託もなかったあの表情なのである。大人の男性を演じて大いに魅力的だったけれども、でも、どこかでずっと、その少年のような表情を追い求めていた気もする。「ファンキー・サンシャイン」のお天気レポーター然り。
 だから、「クライマックス」で、野々すみ花と並んで二人、少年のように見えたとき、何だかものすごくぐっときたのだった…。「華やかなりし日々」の少年時代の回想シーンも本人がやればよかったのに!
 思えば、ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンを演じていた頃、大空はすでに研11だった。けれども彼女は何だかずっと“永遠の若手スター”だった。それが、途中から大股でがしがし歩いていって、大人の男役になって、最終的に今日この日までやってきたのだ。月組最後の作品「HOLLYWOOD LOVER」を観て、「…この人、トップになるのかもしれない…」と思った。そして、花組に行った大空祐飛は、二番手として辣腕を発揮し、下級生たちに少なからぬ影響を与えて、宙組に行った。例えば、華形ひかるは、「銀ちゃんの恋」のヤス役で、最後に「銀ちゃん、かっこいい!」と叫ぶ、その一言にそれまでの舞台すべてを賭ける演技で、彼女の魅力の一つである一途さを発揮して、そして今日へと至るわけだが、それもすべて、大空演じる銀ちゃんが本当にかっこよくて、子分としてついていきたい! と思えればこそ成立したのだと思う。

 一度、取材で大空さんを崩す。それが私の秘かなる目標だったけれども、残された機会はとりあえず、本日の退団会見しかない。理知的だから、何だかいつもきちんとした答えが頭の中にあって、想定外がなかなか起こらない感じというか…。そして、何も取材陣の中で私だけではないようなのだけれども、何だか目の前に立つとものすごく緊張するのであった。大空祐飛から、想定外、素、あの屈託のなさを引き出したい、そんな願いを、私は不思議娘・野々すみ花に託して、二人の舞台を楽しんでいたのかもしれない。不思議娘はときに大先輩を大いに翻弄して、いいぞ〜、もっとやれやれ〜と心の中で応援していたものである。
 もう10年くらい前から、たびたび退団説が流れて、その都度気を揉んだことを思えば、今日という日を迎えることが何だか信じられないような気もする。そう思うと、客席に奉仕するという強固な理性で創り上げられ、なかなか想定外を見せることのなかった大空祐飛という男役は、この上なく想定外のドラマを見せ続けてきてくれたわけである。そのドラマも、本日、華やかなりしフィナーレである。
 だから、今、私も言いたいのである。大空祐飛は大空祐飛という男役でよかったのだと。そうでなくてはならなかったのだと。そして、そのことを、他の誰より、大空祐飛自身に強く思ってほしいのである。大空祐飛のように、宝塚を愛して、男役を愛した人が、そのことを自分自身で信じないというのは、私にはどうにも納得いかないのである。自分にとことん厳しく、理想の高い人だからなのかもしれないけれども…。大空祐飛は素敵な男役で、彼女自身が思っているより広く、深く愛されていたと、私は心から思うのである。
 「黎明の風」の吉田和子役で見せたちゃきちゃきとした令嬢ぶり。「逆転裁判2」で披露した超絶コスプレクイーン姿。藤咲えりが生かされる作品をもっと観てみたかった。
 そして、風莉じんのように、もっとずっと宝塚にいるんだろうな…と思っていた人がやめるのは、せつない。おじさん役者としてさらなる活躍を期待したいところだったのに…。今年1〜2月の「ロバート・キャパ 魂の記録」は、主演の凰稀かなめ以下、出演者が一丸となった、好印象の舞台だったが、そのとき風莉が演じたパブロ・ピカソ役のとぼけたはっちゃけ感が心に残っている。
 最近、「ガラスの仮面」を読んでいると、ますます北島マヤが野々すみ花に思えてきて仕方がないあひる。そして、宝塚音楽学校に入団する前、実際に「ガラスの仮面」ばりの猛特訓を積んでいたらしい野々すみ花ではあった(宝塚GRAPH4月号参照)。農家を営む実家の畑のド真ん中での発声練習や、暗い保冷庫の中から出てきて、まばゆいスポットライトを浴びて目を輝かせる瞬間のイメージ・トレーニング等々。これぞリアル「ガラスの仮面」! そんな特訓を一緒にしていたお父上がまた素晴らしいと思わずにはいられないのだが、そんな賜物もあって、本日7月1日、野々すみ花は立派なトップ娘役として宝塚歌劇団を去っていく日を迎えたわけである。
 想像力こそが北島マヤの最大の武器。その想像力が、好敵手にして心の友、姫川亜弓を恐れさせる。「マヤ、なんて恐ろしい子…!」。私も野々の舞台を観ていて思うことがある。「…いったい、何を考えてるんだろう…」と。空想少女を超えて、ほとんど妄想少女である。かわゆい。しかし、どう考えても不思議ちゃんである。私は、彼女が休みの日にどこか旅に行かないのか問われて、「こないだ武庫川のほとりには行きました」と答えたエピソードも大好きである。何ゆえ、武庫川のほとり…! しかし、野々くらい豊穣な空想世界を内に秘めた存在にとっては、もしかしたら、どこかに旅するより、自分の心の中に遊んでいることの方がよっぽど楽しいのかもしれず…。宝塚の舞台において、この人のこういう発想は自分には絶対ないなあ、いったいどういう思考回路だとこういうことを思いつくんだろう…と思って、驚異を見つめる思いで目が離せない人物はと言えば、壮一帆、龍真咲、紅ゆずる、それに、野々すみ花である。しかし、先に挙げた三人は男役であるが、野々は娘役である。娘役なれど平気で奇想天外な世界を見せる。野々とて、娘役らしく、髪型やアクセサリーを考えてうきうき心弾ませたりしていたのだろうし、舞台に立てば、ときに寄り添い、ときに男前と、幅の広い娘役芸をきっちり発揮しているのだけれども、それでも、まず思い浮かぶのは、野々すみ花というとても不思議な生き物のことなのである。娘役というよりも、役者、職人の印象。細工物一般を得意とするのだけれども、自分ならではのこだわりを発揮させたらもう、他の追随を許さない感じの。
 彼女は下級生の時代から演技力の高さに定評があったけれども、私は、野々自身の魅力が非常に素直な形で発揮されるようになったのは、宙組トップ娘役としてのお披露目作「カサブランカ」の東京公演の中盤以降、彼女が、“花總まり幻想”と訣別してからだと思う。例えば、花組最後の公演である「オグリ!」の照手姫役の物憑きの場面にせよ、開花を遂げるまでの「カサブランカ」にせよ、彼女の演技はどこか、「花總まりだったらこの役をどう演じるか」を演じているように見えて、彼女自身の内から出てくるものではない違和感を覚えたのである。
 しかしながら、ここで言っておきたいのは、“花總まり幻想”を抱く娘役は何も彼女一人ではないということである。足掛け13年もの間、雪組と宙組でトップ娘役を務めた花總まりは、それだけ傑出した存在だったのである。私とて、先日、「エリザベート スペシャル ガラ・コンサート」の制作発表記者会見に姿を現した花總その人に、「…まだまだトップ娘役を張れる…!」と思ってしまったくらいである。
 “花總まり幻想”が非常に危険なものであるというのは、演じる人間がそんな幻想を抱いている以上、観る人間にもやはり、「じゃあ、この役、花總まりが演じたらどうだっただろう」と考えさせてしまうところがあるからである。そして、花總まりは、技術というよりむしろ天性で娘役であった上に役が降りてきてしまう人だから、彼女の何かを部分部分や雰囲気で取り入れようとしても無理である。今後、花總まりのどのような才能が娘役向きであったかをきっちり分析していくことが、娘役芸のさらなる発展の上で欠かせないことなのだと思う。
 人は決して自分ではない何者かにはなれない。誰も花總まりにはなれなくて、それでいいのである。人はそれぞれその者として輝くべきである。そして、人の真似をしているうちは決して、人はその者自身としては輝けない。宝塚をどこか集団的に覆っていなくもなかったその“花總まり幻想”といち早く訣別したことで、野々すみ花の舞台人としての人生は始まったのである。
 しかしながら、その一方で、野々すみ花は、花總まりと同じ資質、人が真似しようと思っても真似することのできない資質を備えていたのだった。役が降りてくる資質。
 「カサブランカ」と同じ年の秋の全国ツアー公演で、野々は、花組時代にも一度演じた「銀ちゃんの恋」(原作はつかこうへいの「蒲田行進曲」)の小夏役を演じた。誰の真似でもない、野々すみ花の小夏になっていて、花組のときと比べて段違いによかった。観ていて、「天国のつか先生に見せたい!」と思って、…あ、そうか、天国にいらっしゃるならある意味、見放題だ…と思ったけれども。このとき、銀ちゃん役の大空祐飛と、ヤス役の北翔海莉は、物語か現実かの演技バトルを繰り広げていて、野々は彼女の小夏を立派に演じながら、どこか、「…舞台とは、芸とはそら恐ろしいものであることを知りました…」と、心で震えていた。そして、「誰がために鐘はなる」のマリア役を演じるために髪をばっさり切って、彼女は一人、覚醒してしまった。今でも、銀橋に出てきて「寝袋と巻き煙草」のナンバーを大空に歌いかける野々に、何かがはっきりと降りてきた瞬間をまざまざと思い出す。「今絶対違う誰かがぐわっと、しゅぱーんと降りてきた!」と、驚愕。そういえば、「ルナロッサ」で、お姫様としてらくだに乗って出てきた後、すみ花ワンダーワールドの物語を聞かせてくれたのも、銀橋上からだった。「NICE GUY!!」で、舞台が一丸となるべく盛り上がってきたとき、「…今日は、もうっ、もうっ、ほっんとに、たの、しい、なあ…!」と、ふりきれたように喜びを表して舞台に在った日の輝きも忘れられない。そんな彼女を観ているこちらも、本当に楽しかった。
 退団公演「華やかなりし日々」で野々が演じたのは、ジーグフェルド・フォリーズの舞台に立つことを夢見るジュディである。スター女優の鼻もちならない態度に憤慨、断固批判してオーディション会場から飛び出した彼女は、勤め先のもぐり酒場で言い寄られたクラブの顔役にも決然とした態度を見せる、一本筋の通った女性である。そして、最終的にはジーグフェルド・フォリーズの主演女優としての成功を、芸の力でつかみ取る。見出されて成功するという単なるシンデレラ・ストーリーに終わらなかったのは、野々が、ジュディという存在を綺麗事にせず、その心の中にもある野心を、きっちり、しかしながら嫌みなく演じきって役をふくらませたからである。
 「クライマックス」では、ふくらんだスカートにベストを着て出てきたシーンが何だか少年のように見えてかわいらしく、しかし、トップ娘役を務めた果て、最後の公演で少年っぽい魅力を発揮する人というのもまた不思議なものだなあ…と思ったものである。しかし、そんな野々が隣にいることで、私がここへ来て愛してやまないのだと気づかされた、大空祐飛の中の永遠の少年性がまた際立つこととなって、大空祐飛と野々すみ花は、やはりお互いにとって本当に得がたい相手役だったのだと思い至った次第である。軍服姿の凰稀かなめを相手にしたシーンでのドレス姿には神々しい魅力があったし、デュエットダンスのせり下がりでは学年の離れた大空相手に包容力もにじませて、娘役として集大成の舞台となった。
 宝塚歌劇の舞台でトップ娘役を務めるということと、世にも不思議な個性を発揮するということ。ときに反発しかねないその二つを、野々すみ花は両立させてみせた。それは、彼女の芸の賜物であると思う。芸の力で娘役をきっちり成り立たせることによって、不思議な個性もまた発揮され得るものなのである。こうして、宝塚のトップ娘役の領域が広がったことは言を俟たない。
 そして、その不思議な個性がさらに伸びやかに解き放たれていったら、いったいどんな舞台人が現れることになるのだろう――。
 野々すみ花は、舞台に生きるために生まれてきた人である。彼女をストライクゾーンで好むであろう演出家も知っている。しかしながら、その力はあくまで、清く、正しく、美しく、美のため人のために生かされるべきである。舞台への思いを胸にふくらませながら、日々、野菜や草花の成長を見守っていたときと変わらず、人生を生きて、妄想もますます逞しくして、“宝塚の北島マヤ”から“日本演劇界の北島マヤ”へと飛躍を遂げて行かれんことを。私は今、大切な妹が新しい世界への扉を開けるのを、どきどきわくわく見守る、そんな気持ちでいる。
 18時半の部観劇(東京文化会館大ホール)。
 「この人がこの役を踊るのは最後なんだ…」という感傷的な感慨ではなく、最後となってもなお、「この人がこの役を踊るとこんなにも美にまつわる発見があるのだ…」という驚きで涙を流せるとは、なんと贅沢なことなのだろう。
 華やかで圧倒的な存在感。ずば抜けた身体能力で体現する超絶技巧。ニーナ・アナニアシヴィリという存在は、そうしたキーワード的な形容を易々と超えた高みに存在している。その踊りはいつも、観る者を微笑ませずにはいられない幸せなオーラを湛えてやまない。オデットを踊り、オディールを踊っていても、なお。けれども、その幸せなオーラは、オデット/オディールという役の解釈、表現を妨げるものでは決してない。何を踊ってもいつもその人の同じキャラクターが出るに過ぎないという低次元の話ではなく、何を踊っても役として成立させて、その上でなお、その人の美質があふれ出てやまないということなのだ。あでやかに咲いた大輪の花に、人が思わず顔をほころばせずにはいられないような、かくもチャーミングなその踊りは、…人はどんなときも明るく笑顔で幸せでいていい存在なのよ…と、雄弁に語りかけてくるかのようだ。そう、美しい花が人に告げるように。それこそがニーナ・アナニアシヴィリという芸術家が達した極みであることに、私は今夜、思い至ったのである。
 本日、宝塚宙組公演「華やかなりし日々」「クライマックス」を観て、「これなら大丈夫」と胸をなでおろしたあひるであった。それぞれが自分の芸に専念すれば、道は自ずと拓ける。退団する人も、残る人も、異動する人も、それで大丈夫。
 取り急ぎ、一番大切なことを記しておくと。異動でやってくる緒月遠麻、朝夏まなと、実咲凜音とも、宙組を継ぐ凰稀かなめと目指すところは同じで、それは、大空祐飛がトップ就任以来目指してきたもの――すなわち、全員一丸となって、心をこめて届ける、世界で宝塚歌劇にしか可能とはならない夢の舞台――と決して変わるものではないということ。今は、「ただ一度の 私だけの この瞬間」(ショー「クライマックス」表題曲より)を心ゆくまで楽しまれんことを!
 人はよく、「こんなことになってしまって、あの人に嫌われないだろうか…」などと思い悩んだりするけれども、嫌われないだろうかと悩む相手に他ならぬ自分自身を含めることを案外忘れてしまっていたりするものである。しかしながら、人は何より自分自身を尊重して生きるべきなのではないかと私は思う。そう生きる上でもっとも大切なことは、自分の心のままに生きるということである。
 私は何もわがまま放題好き勝手に生きて周りの人間に迷惑をかけることを勧めているのではない。自分がどう生きてきて、何をもっとも重要と考えるに至ったか、そして、これから生きていく上で何を実現したいのか、つまるところ、この世に生まれてきた自分の使命をどうとらえているのか、その答えに照らし合わせたところの“心のままに”生きるべきなのではないかと思うものなのである。
 無論、そう生きる上では責任が要る。ときに我慢も大いに必要だろう。自分の心を殺す我慢ではない。自分の使命を何としてでも達成する上での避けられぬ我慢である。それはときに苦痛をもたらすものであるかもしれない。だが、自分の心のままに生きる喜びは、他の何にも代えがたいものである。
 そして、あなたを、他の人間と取り替えのきく部品か何かのように考えている心ない人間ならいざ知らず、あなたをその心ごと、心のままに愛している人間ならば、あなたが心のままにどんな選択を下したとしても、決して嫌ったりなどしないものである。
 もしかしたら、あるとき下した決断が、今となっては自分の心に染まないものだった…と後悔しているのかもしれない。けれども、そのときはそのときでそう思ったのだから、それでいいではないか。人間には、たとえ不本意ながら下した決断であっても、結局はそれでよかったのだ…ととらえ、その方向で最大限の幸せを実現する機会もまた、与えられているものなのだから。
 あなたが今いる場所で過ごすその最後の瞬間まで、どうか幸せでありますように。

 雪組公演「ドン・カルロス」の劇中、本舞台と銀橋に分かれての難しいアカペラで歌い始められる美しい「心から心へ」のナンバーを聴いて、思ったこと。