藤本真由オフィシャルブログ

 本日5月27日は、雪組娘役・涼花リサの宝塚卒業の日である。…せつない。彼女は私にとって、“心のおすまし娘”だったからである。気取っているとか、高飛車であるとか、全然そういうことではなくて、どこか超然と浮かべているその笑顔のあまりの美少女ぶりに、かわゆいなあ…と思わずデレデレしてしまいそうになるというか。…と、こうして書いているのすら少々照れくさかったりするのだけれども。恥ずかしついでに告白してしまうと、我が心のおすまし娘の系譜には、月組の椎名葵、星組の華美ゆうか、星組の南風里名と並んでいたりする。
 そのおすまし顔があんまりかわゆいから、何とかして違う顔を見たいと思う心が当然芽生える。何だか、高校生のときの自分を思い出す。帰国子女のための英会話学校に行っていた関係で、違う高校の子と友達になる機会も多かったのだけれども、そこで、グリーンが基調の制服もかわゆい、某ミッション系超お嬢様学校の子と知り合いになった。私もときにとんでもなく鈍くさいのであんまり人のことは言えないのだけれども、そんな私以上にとてつもなくおっとりのんびり浮世離れしていて、どこか行く? とか、これからどうする? と聞いてみても、「…まゆちゃんの好きでいい」とか言うのである。何だよう、こっちが彼氏みたいに何でも決めなきゃいけないのかよう〜と、ときどき猛烈に腹が立って、「○○ちゃんとはもう口きかない」とか言って、私はつんとしたりするのであった。それは、彼女の何だか砂糖菓子のように壊れやすいかわゆさが、自分の中にはいまいちないものだから、嫉妬して拗ねていたのだと思うのだけれども。しかしながら、そう憎まれ口をきくと、彼女は、「…まゆちゃん、どうしてそんな意地悪するの…」と言って、その瞳にうっすら涙を浮かべたりするのである。お手上げである。拗ねたり意地悪したりせず、かわゆいものはかわゆいものとして愛でた方がいいのだと悟った瞬間、すなわち、私の中に、かわゆいのう…とどこか超越して見入る、ほとんど“男性性”の目覚めた瞬間なのかもしれない。
 ということで、私は宝塚の舞台においては、心のおすまし娘たちを、意地悪心をいっさい芽生えさせることなく、ただただ愛でていたのであるが、そんな彼女たちが、美少女から一人の人間へと変貌を見せる瞬間がある。椎名葵は「エリザベート」のヴィンディッシュ嬢で狂気を体現してみせたし、華美ゆうかは退団作「太王四神記 Ver.U」で演じた悪女の高笑いに迫力があった。そうしておすまし顔の向こうの顔を見たとき、何だかいっそう、彼女たちが愛おしくなる。
 2010年のショー「ロック・オン!」で、涼花が花帆杏奈と二人、マリリン・モンローばりに「Boop Boop Bee Doop!」とセクシーさを振りまいてみせたシーンは、作品の“心の名場面”である。こんな眼福が実現するなんて! と、ニマニマすることしばし。二人の美女に絡まれている男役陣が心底うらやましかった…。ついで、轟悠がその男役の美学を存分に発揮した「オネーギン」では、どこか醒めつつ退廃的な生活を送るオネーギンと恋人関係にある女優ニーナ・グリュシンスカヤ役。後朝の床に横たわるしどけない様がしかもあでやかで、オネーギンとの別離の後の再会に二人過去を振り返る場面のしっとりとした大人の女性らしさもしみじみ心を打つものがあった。「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」ではエリザベス・テイラーに扮して出てくる場面があって、ゴージャス美女の面目躍如。その一方で、「Samourai」の酒場の女将ブランシェ役で見せたほとばしるような生命力も忘れがたい。
 退団公演「ドン・カルロス」で涼花が演じたのは、スペイン国王フェリペ2世の妹、ドン・カルロスの叔母にあたるフアナ。嫁ぎ先のポルトガル王家で夫が早くに亡くなり、幼子を残して母国に帰らされることとなったフアナは、慈愛にあふれた貴婦人である。作中、彼女の愛と理解なくしてはフェリペ2世とドン・カルロスの和解はなく、ドン・カルロスと女官レオノールが結ばれることもなかった。フアナはドン・カルロスとレオノールの育ての親でもあって、優しい彼女に慈しまれたからこそ、二人はあのようにまっすぐに育ったのだ…と思わずにはいられない。薄緑に刺繍の施されたドレス姿も光り輝くように美しく、それでいて、やはりおすまし顔の美少女のかわいらしさを残していて…。ショー「Shining Rhythm!」“大地のリズム”の“スペインの女”では大人の女の色気をふりまいていて、堪能。大切な少女時代を思い起こさせてくれる存在であり続けてくれて、今日まで本当にありがとう。
 祝! 華形ひかる覚醒。
 専科の汝鳥伶を筆頭に、舞台全体レベルの高い「近松・恋の道行」にあって、清吉役の演技は、底知れぬ優しさを秘めた華形の人となりが存分に発揮され、つくづく、役者やのう…と思わずにはいられない。つかこうへい「蒲田行進曲」が原作の「銀ちゃんの恋」のヤス役でその才能の片鱗をにじませてから三年半、覚醒は本当に喜ばしい。花組は、全国ツアー組の壮一帆が、一昨年の秋、まさに覚醒を遂げた神奈川県民ホール大ホールのステージで、そのとき以上に深く舞台への愛を誓う演技でますますのパワーアップを見せたほか、桜一花、花野じゅりあ、華耀きらりといった娘役陣も覚醒に相当近い状態。次回大劇場公演でいかなる舞台が展開されるのか、楽しみな限り。取り急ぎ速報まで。
 2000年に上演された「更に狂はじ」は、霧矢大夢にとっては初めての宝塚バウホール・日本青年館公演初主演作品(大和悠河とダブル主演)であり、大野拓史にとっては東京デビューとなった作品である。このとき大野は、霧矢に、将軍・足利義教の寵愛に身をゆだねてもなお、己の芸に命を賭けて生きんとする観世元重の役を宛て書きした(もう一人の主演であった大和に宛て書きされたのは、恋を選ぶ観世元雅の役である)。それから12年。「エドワード8世」を手がけることとなった大野は、“王冠を賭けた恋”の果てに余儀なくされたエドワード8世の退位と、演じる霧矢の宝塚からの退団とを重ね合わせて、心打たずにはおかないクライマックスの「退位の歌」で、こんな歌詞を書いた。

「過ぎた日々に 悔いはないと
語れば嘘になる けれども誓おう」

 2000年は、齋藤吉正が「BLUE MOON BLUE」で大劇場にデビューした年でもある。このとき霧矢は、紫吹淳が妖艶な魅力で魅了したナーガ、蛇の分身を踊った。この作品では、THE ALFEEの高見沢俊彦がテーマ曲「ENDLESS DREAM」を提供していたが、その歌詞にはこうある。

「見果てぬ夢 届かぬ恋
すべては蜃気楼」

 齋藤は後の2004年、「愛しき人よ」で霧矢主演作を手がけることとなる。男役としては色気がいまいち足りないと言われていた彼女から色気が引き出されれば…との期待をこめて、当時ちょうど手がけていたある海外アーティストのCDの対訳の中に、この作品のタイトルをしのばせたことを懐かしく思い出す。そして斎藤は、渾身作「Misty Station」を霧矢の退団の餞とした。
 人生は後悔の連続である。ああすればよかった、こうもすればよかった、あのときこうしていれば、今のようなことにはならなかったかもしれない…。いつも期待を大きくふくらませては、そのふくらみすぎた夢にどこか“裏切られる”こととなった、子供の頃の誕生日会を思い出す。心にどこか残る、甘さと、苦さと。見果てぬ夢。けれども。
 「Misty Station」第9場、銀橋を一人渡る霧矢大夢を、舞台上に居並ぶ月組生たちが見送る、惜別の場面。これほどまでに多種多様な感情が存在するのだ…と思わずにはいられないほど、さまざまな想いの激流がかけめぐる。そういえば、2002年、月組で「ガイズ&ドールズ」が上演された際、アデレイド役に扮した彼女に終演後に取材をする機会があったのだけれども、目の前に現れたその人は、横顔を見ているとまるで外国人のようで、まとっている空気にキラキラとした粒子がちりばめられているかのようだった。あれは、人間のオーラというものを初めて目の当たりにした瞬間だったかもしれない。
 そして、十年経って、思うのだ。
 今こうして目にしている光景は、夢でも蜃気楼でもない。まぎれもない現実、真実なのだと。
 2010年10月22日。結婚15周年のその記念日の朝、私は東京宝塚劇場で月組の「ジプシー男爵」「Rhapsodic Moon」の舞台稽古を観ていた。ちなみに私が結婚式を挙げたのは、劇場からすぐの帝国ホテルである。その日も蒼乃夕妃は、ドレスさばきも軽やかに舞い踊っていた。ダンスバトルの迫力さえあった、「ジプシー男爵」オープニングの6分間のデュエットダンス。「Rhapsodic Moon」のオープニングで彼女が着ていたフューシャピンクのロングドレスに、自分が結婚式のお色直しで着た同じ色のドレスを思い出さずにはいられなかった。いきなり長いドレスを着て、裾を蹴飛ばすように歩けと言われても、人間、慣れないことはすぐにはできるものではない。どうやったらあんなにエレガントに立ち振る舞えるのだろう…。
 蒼乃夕妃になりたい。そのとき、思った。
 一日、蒼乃夕妃の身体に乗り移ることができたなら、気の済むまで踊ってみたい。あんな風に身体を動かせたなら、いったい世界はどのように見えるものなのだろう。いつ頃からか、それが、私の一つの願いとしてあったのである。
 彼女に衣装をデザインすることは、デザイナー冥利に尽きる。ある人がそう語っていたと、小耳に挟んだことがある。さもありなん、と思う。何しろ彼女は、布目にまで細心の注意を払ってのドレスさばきに余念がない娘役と聞く。思うに、宝塚の娘役になったからには、ドレスさばきの至芸を会得しないで退団するのはもったいない限りである。ドレスさばき一つで、演じる女性の位の高さを表現できるばかりではない。それは、女性にとって、身にまとう衣服への愛を表現できる一つの手段なのである。何も娘役でなくても、長いスカートをはいた日にはちょっと裾を気にしてみたくなったりするものである。その衣装への愛あればこそ、素敵に着こなして見せたい。その究極が、娘役のドレスさばきに結実するところなのだと思う。
 そして、蒼乃夕妃の身体は、動きの中に衣裳を美しく見せることのできる身体なのだった。すらっと伸びた脚。緊張感のある背中。空気をかき抱く腕。記憶の中には、さまざまな衣装を着て踊る彼女の姿が、静止画像ではなく動画で残っている。「Rhapsodic Moon」の“月の輝く城”の、スリットからちらっとのぞく脚がセクシーだった衣装や、「アルジェの男」で神々しいまでの生腹を披露した衣装、ミュージック・サロン「Very Best Of Me」でのホットパンツ&黒ストッキングのように、気迫あふれる彼女の娘役像あったればこそ、着こなせた衣装も多かったと思う。

 その一方で彼女は、古風な女性像をも、娘役としての芸の力で、共感をもって見せてしまえる人なのだった。
 トッププレお披露目となった中日劇場公演「紫子」で、蒼乃は舞鶴姫なる役どころを演じた。政略結婚で嫁いできた姫だが、嫁ぎ先はといえば、当主が急逝し、女の双子である紫子が替え玉を務めている城である。当然のことながら初夜が成立するはずはなく、紫子が自身の恋人に寝屋の替え玉を頼むところにまた悲しみがあるわけだが、舞鶴姫は途中からすべてを知って、けれども、人には決して言わず黙っていて、城を去る段階になって、彼女自身、女として悲しい運命をたどっていたこと、そして、女ながらに当主を務めねばならない紫子の運命に共感を寄せていたことを告げるのである。
 これも日付をはっきり覚えているのだけれども、2010年1月25日、つまりは、宝塚歌劇の創始者、小林一三の命日である「逸翁忌」のその日に、私は、トップ娘役となった彼女にインタビューする機会を得た。そのとき、舞鶴姫について、「幸せになるために嫁いできた人なのだと思う」と語っていたことが深く心に残った。私がそのとき何だか思い浮かべたのは、その正月、義理の父から話を聞いた、夫の父方の祖母である女性のことなのだった。私が一度も会うことはなかったその人、千代さんは、若くしてスペイン風邪で一家のほとんどを失い、成績がよければという条件で親戚の援助を受けて上の学校に進み、教師となる。そして、同じ教師である人に嫁ぐのだが、今の私にしてみれば、昔の女性を取り巻く状況は、何だかとっても理不尽に思えたりする。妻も教師だと、夫は校長になれない…という規則があって、夫を校長にするため、千代さんは最終的には学校を辞めるのである。無論、いろいろな事情があっての判断だとはわかってはいるのだけれども、基本的に“ガールズ・ビー・アンビシャス”が是であって、恋でも職業でも欲しいものは堂々と闘って手に入れたらいい、としか思っていない私は、話を聞きつ、「どうせならおばあちゃんが出世しちゃえばいいのに」と過去に思いをめぐらせていたりするのである。そうやって、千代さんへの思いを胸に観劇していた私は、ただ運命をあきらめて受け入れるのではなく、幸せになろうという一心で気丈に生きる、蒼乃扮する舞鶴姫の姿に涙せずにはいられなかったし、劇場があんなにも一体となって泣いていたことは、そうそう記憶にあるものではない。そして、不思議な話なのだが、私は、中日劇場の近くで、結婚式以来ほとんど会ったことのない夫の叔母、つまりは、千代さんの娘にばったり会うのである! 何だか千代さんが、「私の志を受け継いだ娘に会っていって」と、教師生活を全うしたその人と引き合わせてくれたようで、私は今でも、蒼乃夕妃の舞鶴姫が呼び合わせてくれたのだと信じている。

 男前。私はかつて蒼乃夕妃の娘役像をそう形容して、今ではそれは彼女の代名詞になってしまった。可憐な少女もお手のものである。けれども、颯爽と踊れば、なんせ粋でかっこいいのである。あるとき、「Dance Romanesque」での娘役を引き連れてのダンスシーンで、自分が、普通だったら男役にしか向けないような視線で彼女を観ていることに気づいたのだった。女性の中にも確かにある男性性を引き出すために男役なる“衣装”が必要なのだとしたら、蒼乃夕妃は、その衣装なしに男性性を発揮して、それでも、娘役としての高い芸ゆえに宝塚の舞台として成立させてしまえる稀有な存在なのだった。だから、彼女の男役姿を観たかったとは思わない。娘役だからこそ味わえる妙味だったのだと思う。「Very Best Of Me」でゆるやかウェーブの髪の毛を振り乱して踊る姿や、「Misty Station」の中詰、パンツルックにロングヘアで踊る姿など、女性性と男性性の表現の難易度の高い組み合わせであればあるほど、そんな妙味は際立つのだった。
 彼女は久々に現れた大ヒロインの系譜である。作品、役柄が要求するところであれば、自身が芯となる重責を担うことも厭わなかった。過去の娘役たちで、そんな存在になってほしかったな…と願い、けれどもやはり、そこまで踏み切れない姿を残念に思った人もいる。出すぎだと叩かれかねないから、躊躇したとしても責められない。宝塚の娘役とは、ときにそのような理不尽を背負わされた存在である。けれども、蒼乃夕妃は、ときに敢然とその重責を担ってみせた。だから、男前で、かっこいいのである。憧れである。かっこよさとエレガントさと、その双方を軽やかに体現して、蒼乃夕妃は宝塚の娘役の領域を確かに拡張してみせて、だからこその「エドワード8世」のウォリス・シンプソン役であり、「Misty Station」の剣舞を舞う“孤独な戦士”なのである。

 さて、宝塚の娘役としてはまさにやりきったという表現がふさわしい蒼乃夕妃だが、私は彼女の踊る身体に、コンテンポラリーな可能性を大いに感じるのである。例えば、パリ・オペラ座のマリ=アニエス・ジローを観たときのような興奮に似たものを、踊る彼女の姿に感じる。今を生きる我々の可能性を身体表現のうちに見せることが、コンテンポラリー・ダンスの一つの使命としてあると思うのだけれども、日本人女性の身体的可能性を、蒼乃夕妃の中に見出し、振り付けて表現するクリエイターがいたとしたら、こんなにうれしいことはない。「エドワード8世」は、彼女も好きだと語っていたマシュー・ボーン作品のように、ダンスで物語を綴る場面もあって、そこでの踊りがまた素晴らしかっただけに、幅広いジャンルでのよき振付家との出会いを心待ちにしている。
 かつての逸翁忌に取材した彼女は、それは幸せそうにコロコロ笑っていて、その笑い声を聞いているだけで何だかこちらまで幸せになるのだった。その帰り際、彼女は、トップコンビとして一緒に取材を受けていた霧矢大夢さんの荷物を、「私、持ちますよ」と言うのだった。それが、自分が相手役だからだとか後輩だからだとか、誰にいいところを見せようというのでもない、この人はきっと、自分が手が空いていて、荷物を抱えている人がいたら、自然とそう言うのだろうな…という風情で。それで、自分が大変なときは、そうやって人に自然に手渡せばいいのにな…と思ったのだけれども、ところがどっこい、彼女は、自分の荷物は絶対に自分で背負わずにはいられない心意気の人なのだった。蒼乃夕妃、あっぱれである。これまでも、これからも、ずっと、幸せに! そして、踊り続けてくださいね。
 スマッシュ・ヒットとなった今回の月組公演の二作品についてだが、「エドワード8世」を観た際、最初に想起したのは三島由紀夫作品であったこと、また、ジャパニメーションが話題となりがちな「Misty Station」については、作者が「モン・パリ」から連綿と続く宝塚の伝統を学んで世に問うた作品であったこと(例えば、オープニングにある、人々が並んでの振りは、「モン・パリ」の汽車の動輪を見立てたラインダンスの引用である)を指摘するにとどめ、作品論及び在団者の演技についてはまた別個の機会に譲ることとしたい。

 「エドワード8世」で、一色瑠加は主人公の弟であり、その退位の後にジョージ6世として王位を継ぐこととなるアルバート王子を演じた。難しい吃音症の表現も含め、とても誠実な舞台だった。彼女のように、きっちりとした演技を見せることのできる存在が、月組の芝居を支えてきたのだ。
 最近の作品で強く印象に残っているのは、昨年の「アリスの恋人」のジョーカー役である。どちらかというと端正な舞台のイメージがあった人だったのが、おヒゲ姿もワイルドに、はっちゃけた演技を見せていて、舞台人としての新たな展開にわくわくしたものである。今回の「Misty Station」では、主人公Mistyの旅の夢先案内人であり、「銀河鉄道999」の名キャラクターをも彷彿とさせる車掌の役どころに扮し、はじけた姿でキラキラ踊っていたのが、忘れがたい。
 娘役として重要な役どころを担ってきた彩星りおんも退団である。彼女の当たり役といえば、2010年の「ジプシー男爵」のアルゼナだろう。主人公に「イーだ」なんてあっかんべーして見せて、憎まれ口を叩く姿がとても生き生きとチャーミングだった。今回の「Misty Station」でも、男役から転向したそのキャリアを生かした彼女なりの娘役像を垣間見せていただけに、残念である。

 2010年のショー「Rhapsodic Moon」の“心の名場面”は、都会の夜の街でスタイリッシュなダンスが繰り広げられる“Moon Dance”のシーンだった。劇場で観ていて、この世界と空気全部をカプセル詰めにして、家に持ち帰りたい…と思うほど胸が躍ったのは、2002年のミュージカル「ガイズ&ドールズ」を思い起こさずにはいられなかったからである。そんな感慨を支えていたのが、スーツにソフト帽という男役の一つの定番のいでたちで踊る、青樹泉の舞台姿だった。彼女の男役姿には、「ガイズ&ドールズ」から「Rhapsodic Moon」まで確かに受け継がれてきた、月組の男役精神が宿っていた。組カラーなるものは今でもやはり存在していて、月組には月組ならではの男役の雰囲気というものが確かにあるのである。スタイリッシュで、一つ端正さに貫かれたラインがあって、そんな中から、男役の香気がふと立ち昇る。「Misty Station」の魔都上海の場面でも、青樹のスーツ&ソフト姿に、惚れ惚れした。
 最近の彼女の舞台には、あたたかさと優しさと、ああ、確かに月組を観に来たんだ…という安心感を覚えさせるものがいつも漂っていた。この人がいるから大丈夫、そんな安堵感。だから、「Misty Station」で、はしだのりひこ&シューベルツの「風」を歌いながら明るく銀橋を渡っていく姿を観ていたら、何だか余計にどんどんさみしくなっていってしまった。「エリザベート」のルドルフ。「紫子」の風吹。「スカーレットピンパーネル」のデュハースト。「ジプシー男爵」のホモナイ伯爵。「我が愛は山の彼方に」の玄喜…。自分がよく知っている職業の役どころだと、どうしてもその分シビアに観てしまうところがあるけれども、「エドワード8世」の新聞記者、ブルース・ロッカート役も、同業者として誇りに思える造形だった。初舞台「ノバ・ボサ・ノバ」から13年、心温まる舞台を本当にありがとう。
 23日に初日を迎えたこの公演、まだ舞台稽古でしか観ていないのですが、一言。
 「エドワード8世」において、“王冠を賭けた恋”として名高いエドワード8世とウォリス・シンプソン夫人の恋を描きながら、作・演出の大野拓史は、歴史上幾度となく繰り返されてきたさまざまな権力移譲の物語についても語ってゆく。“王”の死。後継者。周囲の思惑。“王家”がいかなる権威と規模と正統性をもつものであれ、その物語はおそらく、人の世ある限り変奏され続ける。大野拓史の堂々たる芸術家宣言、宝塚芸術化宣言。宝塚歌劇というジャンルを超えた傑作である。
 一方のショー「Misty Station」は、作・演出の齋藤吉正による齋藤吉正宣言。ラインダンスに伴われた、トップスター霧矢大夢による「新世紀エヴァンゲリオン」の主題歌「魂のルフラン」歌唱以降の音楽とヴィジュアルのめくるめくような展開は中毒性必至。
 それにしても。二作品とも素晴らしく過剰である。今回はトップコンビ霧矢大夢&蒼乃夕妃の退団公演であり、二人をはじめとする退団者たちへの惜別の念も、作者それぞれの個性の違いはあれど、盛りだくさんなほどに込められている。こんなにも多種多様な要素を、色彩もとりどりに詰め込んで、大人数で贈る魅惑の世界。その過剰さこそ、宝塚歌劇の醍醐味である。世界の豊饒さをこんなにも過剰なままに舞台に乗せて、それでもなお、確固たる一つの世界が成立することに、私はほとんど「勝った!」とさえ思って劇場を後にしたのである。

 なお、月組の覚醒布陣についてもふれておくと、「スカーレット ピンパーネル」中に覚醒した者が三名。うち一人はその後何だかスイッチオフのようなのですが、残る二名は、今回本当に惜しくも退団の蒼乃夕妃と、次期トップスターの龍真咲である。続く「ジプシー男爵」で覚醒したのが副組長の花瀬みずか。彼女が演じたマリア・テレジアはこの作品の“心のキャラ”である。そして、「アルジェの男」でアナベル役を演じたとき、花陽みらは確かに覚醒していたはず。覚醒リーチが明らかなのは、専科より出演の一樹千尋と、一色瑠加と、明日海りお。以上。
 2012年の宝塚歌劇は、東京宝塚劇場公演、日本青年館大ホール公演とも佳作の上演が続いている。本日千秋楽を迎えた花組公演「復活」「カノン」についても然り。とりわけ、トルストイの名作に挑んで作・演出の石田昌也が文芸路線の正統派を歩み出した「復活」については、私自身、大学時代に、法学部の法社会学の授業で、当時日本では採用されていなかった陪審制について学んだこと、そして授業の一環で裁判劇を扱った映画を観たことが、結局は現在のように舞台評論家として生きることへとつながるきっかけになったことを考えると、非常に感慨深く、私にとってとても大切な作品となった。
 トルストイの「復活」が、恋愛を焦点にしながらも結局は当時のロシア社会全体の腐敗を論じていくように、私自身もまた、個人的な絶望と希望を語りながらさらに大きなものについて語らざるを得ず、そのすべてを論じ尽くす時間が今はない。取り急ぎ、志高からぬ役者ならば選り好みして力を尽くさぬかもしれない役柄に果敢にも挑んだ演者たちについて、今は記しておきたい。主人公ネフリュードフに弄ばれたことをきっかけに売春婦にまで身を落とし、無実の殺人罪を着せられて刑務所行きとなり、自らをアバズレと自嘲するほどのすさんだ暮らしを送るも、周囲の愛と自らの気高い心ゆえに立ち直る、トップ娘役としては新境地となるヒロイン・カチューシャ役で文字通りの熱演を見せた蘭乃はな。彼女に売春宿で言い寄り、はてには殺されることとなる商人スメリコフ役を演じた紫峰七海。そのスメリコフ殺害を計画、実行し、カチューシャに罪を着せる、曖昧宿の用心棒カルチンキン役の扇めぐむと、その情婦ボーチコワ役の芽吹幸奈。昨年秋の「カナリア」でも同期の朝夏まなとと組んで刑事コンビでボケに妙味を披露していた扇は、これが退団作だが、アイドルとして全盛期時代の郷ひろみを思わせる甘いルックスと色気で、悪事に手を染めることとなるカルチンキンにもまたそうまでして夢を描きたかったつらい必然があることを体現した。蘭乃カチューシャが従事する医療刑務所で彼女にセクハラし、カチューシャがもともとは売春婦であるのをいいことに、彼女の方から誘ってきたと卑怯にも言い逃れるユスチーノフを演じた夕霧らいも、一度ついてしまったレッテルをはがすことが容易ではない社会の悲しい現実を逆手に取る人間の弱さを感じさせた。怒れるトルストイが「復活」において糾弾したかったのは何より、人間の弱さではなく、弱い人間に罪心を起こさせるような社会の絶望的なありようではなかったか。
 ネフリュードフの叔父コロソフ役で渋みを発揮した浦輝ひろと、法廷事務官マルチェンコ役で美声を披露した煌雅あさひ。シェンボックの恋人役アニエスでキュートな魅力をふりまいた月野姫花は、ショー「カノン」では、蘭寿とむを囲むフィナーレ場面での男前な踊りも印象的だった。そして、真瀬はるかについては、「惜しい」の一言である。「ファントム」新人公演キャリエール役での歌唱は堂々と立派に上手すぎて、若かりし日に美とエロスに溺れた弱い男には聴こえなくて、逆に、これからここに人間味がますます加わった演技を披露していくのだろうと楽しみにしていたのだけれども。すべての退団者に幸あらんことを。
 16日13時、日本青年館大ホールにて観劇。宝塚歌劇とは、日本人がいかに西洋文化を受容したか、そのきわめてユニークな解の一つであるとかねてから考えてきた人間として、普仏戦争後のパリで市民と共に闘った侍、前田正名を主人公に描く雪組公演「Samouraï」における、作・演出の谷正純の視点に深く共感するものである。「文屋秀子」の芸名で宝塚に在団していた正名の次男の嫁、前田光子の存在を絡め、「モン・パリ」主題歌なども交えて構成したあたりに、演出家の深い宝塚愛が感じられる。
 雪組出演陣が一丸となって緊迫感に満ちた舞台を展開し、トップスター音月桂が主人公・前田正名役で覚醒間近の熱演。そして、正名の理解者を演じる二名が覚醒。日本人留学生のよき庇護者であるシャルル・ド・モンブラン伯爵役の飛鳥裕。そして、正名の師である坂本龍馬役に扮した緒月遠麻は、もう一役で演じるパリ市民兵の隊長、オーギュスト・フルーランス少尉がとりわけ覚醒の演技。「目覚めよ緒月遠麻!!!」と記してから8カ月、緒月がかくもすっきりとした二枚目男役を演じられるようになったことの意味はきわめて大きい。男役・緒月遠麻がフルーランス少尉役で体現している精神こそ、組替え先の宙組において必要不可欠な刺激だからである。無論、依然大きなポテンシャルあり。
 さらなる論の展開はしばしお待ちいただければと思いますが、難しい理屈抜きに宝塚の醍醐味を味わえる作品。20日までの短い公演、お見逃しなきよう!
 祝! 壮一帆「復活」にて復活&宝塚花組・星組、舞台・客席一体化!
 ということで、皆様、あけましておめでとうございます。宝塚大劇場、東京宝塚劇場とも新年の幕開けにふさわしい素晴らしい公演で何よりです。帰省ラッシュの人混みで疲れたので今宵はこれまで〜。取り急ぎ、2012年星組のムードメーカーは夢咲ねねに決定。
 「舞台は最高のエクスタシー」とは、「ファントム」の公演の前に出た取材記事での壮一帆の発言である。YahooやGoogleでそのまま検索をかけると、「難役ほど正面切って」という日刊スポーツの記事が出てくるが、その中に記されている。
 エクスタシー、忘我、恍惚。その境地こそ、今年私が知り得た芸術の真髄の一つであるのだが、「ファントム」でのその発見を記す前に、このような発言が生まれる前提となった「Le Paradis!!」の舞台を振り返っておきたい。

 「Le Paradis!!」で、壮一帆は、映画「ラストタンゴ・イン・パリ」の曲に乗り、ドレス姿で真飛聖とデュエットダンスを踊った。宝塚大劇場公演時はまだ硬かった。男役でも、ショー作品などでたびたび女役が回ってくるタイプと、あまり回ってこないタイプとがいて、彼女はどちらかというと後者である。何だか照れて恥じらっているのがありありだった。それにしても妖艶な演出のシーンではあった。ドレス姿で壮がせり上がってくると、その白い薄いスカート越しに網タイツを履いた美脚が透けて見える照明が施されている。対する真飛聖は、黒のベルベットに光り物があしらわれた、彼女の男役としての香気がもっとも際立つ衣装をまとい、花組が誇るセクシー男役陣とバトルを展開した果て、遂には壮と頂上決戦を行う。この公演で退団だった真飛聖が、男役の集大成ともいうべき色気を放って、ドレス姿の壮に向かうのである。もはや恥じらってばかりはいられない。太腿の上までスリットの入ったスカートをちらり、ちらりとさばいてみせる姿に、「美しいものは積極的に見せていこうぜ!」と内心思うあひる。“憧れの先輩”相手に(http://daisy.eplus2.jp/article/165951526.html)、ノリはすっかり体育会である。そして、「いったいお前は舞台評論家としてどういう舞台の見方をしているのか」と問い質されそうだが、女性が女性の美しさ、セクシーさを楽しむこともまた、宝塚歌劇観劇の醍醐味の一つである。
 そうして女性としての色気を解き放ってゆくにつれ、男役・壮一帆を成り立たせている存在の心もまたほどけ、解き放たれてゆくようだった。今年の壮一帆の快進撃の原因の一つに、このシーンでの経験があったことは言を俟たない。男役とは、まずは自身の女性性を否定し、男性らしさを演じてみせるところから始まる芸なのだと思う。それが、年月を経て、男役芸をしっかりと培い、自然体のうちに表現できるようになった果て、女性性をも含めて自身を丸ごと肯定し、これを男役芸の中に取り込んで一体化したとき、その者が男役として最高に輝く瞬間がやってくる。ここに、世界の他には存在しない、宝塚の男役の極意がある。真飛聖をはじめ、宝塚の舞台を去っていった数々の男役トップスターの舞台にも、そんな輝きを見せた瞬間をはっきりと思い出すことができる。女役を演じた男役がその後ぐんと伸びることがあるのも、この原理においてであろう。
 その美しい脚をもっと見たいと思っていた私は、実のところ、その美しい心をもっと見たい、そう思っていたのである。
 ある日、このシーンで、ショートの黒髪のかつらをつけて出てきた壮を見ていたら、どうにも、「白鳥の湖」の黒鳥、オディールにしか見えないのである。その次の観劇のときは金髪のかつらで出てきて、神々しさに、今度は、インスピレーションそのものにしか見えないのだった。追う者をじらし、誘いかけ、翻弄して、ふわふわとただよう美の化身。オディールにインスピレーション、いずれにせよ、ファム・ファタルには違いない。
 思うに、あの場面で、壮一帆は舞台人としてのエクスタシーを知ったのではないだろうか。我を忘れて没頭し、陶酔できる、恍惚の境地を。

 来たる「ファントム」で、私は、「舞台は最高のエクスタシー」なる発言が生まれるメカニズムを探ろうと、その舞台に目を凝らしていた。不思議な話である。忘我、陶酔の境地にあって芸を披露する者を前にして、――観ているこちら側まで忘我の境地に至ってしまうのだった。忘我、陶酔と言っても、決して舞台上で独りよがりに暴走しているわけではない。客席にその姿を見守る存在を認めたうえで、心を解き放って、ゆだねる。そんな境地にある姿を観ていると、客席に座る私もまた心を解き放たずにはいられない。そうして、もはや心に彼我の境はなくなり、意識が遥か彼方、天の果てまで飛び、いまだ理性では知り得なかった世界に易々と到達してしまう。
 それこそが芸術表現の真髄なのだと、私はそのとき体感したのだった。
 舞台評論家である私は、舞台を観て、書くことが大切な使命の一つであると考える人間である。そんな人間にとってもまた、「舞台は最高のエクスタシー」ともなり得るのだった。
 私はいまだかつてあんなに幸せな劇場にいたことはない。心も身体も解き放って意識を飛ばし、自分のちっぽけな理性、思考の限界を超えたとき、――そこに、知り得ぬ世界が広がっていた。そんな忘我の境地と、キャリエールの物語とが相俟って、私は遂に、今までの人生で抱えてきたトラウマやコンプレックスまでをも手放すことができたのである。今まで虐げられてきた、あるいは、虐げられてきたと考えることによって自分自身で虐げてきた、自分の女性性が丸ごと肯定されて癒され、――私はもはや、男性性に接することが怖くなくなった。それは、自身の女性性を丸ごと肯定し、忘我の境地で舞台上に立つ人物の姿を観て、そしてその姿に忘我の境地で耽溺することで、私は遂に自分の女性性を、男性性の欲望の客体としてのみではなく、己の主体として認識し直せたのからなのだと思う。
 そこに、私が長年、宝塚歌劇にひかれ続けてやまない理由もあったのだ。私をおびやかす男性性のいない、夢の世界。そんな夢の世界で、自分の内なる女性性と男性性を自由に解き放って過ごす、夢の時間。けれども、トラウマを手放した私には、もう夢を夢として追う必要がない。そのように美しい夢をいかに現実のものとするか、現実世界をいかに夢と地続きの美しい場所に変えていくか、それが自分に与えられた使命なのだと今は思う。だから、宝塚歌劇との接し方も当然変わらざるを得ない。私はもう、タカラジェンヌを、自分とは遠くかけ離れた存在、自分とは違って何でも実現できる力を持った、無敵で万能な存在と思い込んで憧れたりはしない。憧れに値しなくなってしまったというわけではない。一人の人間として向き合った上で、その人間が成し得ている舞台の凄さ、素晴らしさをきっちり認識し、書き記していきたい。
 そう思わせてくれた、2011年の壮一帆の数々の舞台に、心から感謝するものである。