藤本真由オフィシャルブログ

 祝! 美穂圭子覚醒。
 というわけで、専科より出演の汝鳥伶、美穂圭子、そしてトップ娘役の野々すみ花と、覚醒者三人という状況下で行なわれていた宙組公演。芝居、ショーともオリジナルの佳作で、何とはなしに心慌しい年末の時期にほっこり楽しい二本立て。「クラシコ・イタリアーノ」で昔ながらの頑固な仕立て職人を演じた汝鳥は、実在の著名人から名もなき市井の人まで、この人が演じるとどうしてこんなにもリアリティをもって胸に迫るのだろう…と思わせる余裕綽々の演技。ショー「NICE GUY!!」で覚醒の美声を聴かせて大活躍の美穂は、かつて星組「ア ビヤント」「メイちゃんの執事」や雪組「オネーギン」等の作品に出演、舞台と客席とが真の意味で一体になる瞬間を体感している人でもあり、彼女のエネルギーの燃焼ぶりで舞台上のまとまりが判断できる部分がある。
 野々は、芝居作品で、ハイヒールでたびたびこけたり盛大にもじもじしちゃったり、現実にはちょっといないかも…なドジっ子のヒロイン・ミーナを、男性への媚びや嫌味をまったく感じさせることなくチャーミングに好演。今回の“心の名場面”は、彼女が掃除機のミュージカル仕立てのCMに出演、歌い踊りながらNGを連発する際、周囲の動きと真逆に一人ピョンピョン跳びはねている実にキュートなシーン。自分は巧いという自意識がありすぎる役者が“下手”に演じる場合、対象に対する目線の底意地の悪さが見え隠れして鼻についたりすることもあるが、野々はそうした自意識はいっさいなく、彼女らしく素直で伸びやかな演技でミーナを造形していた。「クラシコ・イタリアーノ」作・演出の植田景子は、女性の描き方に、どこか自己嫌悪のようなものを感じさせるところがあって、もっと己を受け入れ自信を持てばいいのに…と思わずにはいられない。今回の作品もその点だけが気になるところを除けば◎であって、野々の演技に救われた部分も大いにあったと思う。ショー作品のオープニング、純白の衣装で銀橋中央で一人歌う野々は、これぞ覚醒! のまばゆすぎるオーラ。

 さて、宙組全体についてだが、いったん書こうと思っていた文章の構想を、今月初めに発表された大規模な組替えによって放棄せざるを得なくなった。舞台上が一層まとまりなく、落ち着きなくなるのはやむを得ないことだし、歴史が短いという組事情もあるわけで、一概に責めるものではない。ただ、先に記した、真の意味での一体感がいまだ訪れていないのは、今のところ宙組だけであることも記しておきたい。
 全体的に、客席への気持ち、心の出し方がどうにも足らないのではないかと思う。例えば今回、「NICE GUY!!」で、“セクシャル9”なる男役9名が客席降りして観客にアピールする場面があった。だが、男役としてのキザりもアピールもまだまだどうにも足りない。「もっと! もっと!」と、観ていて非常に歯がゆいものがあった。そもそも、今回このような場面を作・演出の藤井大介がどうして設定したのかから考えてみるべきである。舞台からではアピールが足りないから、近くに行って、宝塚の男役としての誇りに賭けて最大限観客を釣ってこい! という、演出家の愛ゆえではなかろうか。個々の男役としてのアピールがきっちりできている組でこんな色気たっぷりな客席降りをやったら、客席は陶酔恍惚にノックアウトされ、演者はもみくちゃになって舞台に帰れなくなるはずだろう。芝居はスーツ物、しかも紳士服の仕立て業界が舞台という作品だったのに、どうもスーツをぴしっと着こなせていない男役が多いのも気になる。男役としての気概は何よりその立ち姿と歩き方に現れるものである。トップ男役・大空祐飛をはじめとする一部上級生男役の隙のない立ち姿を大いに見習うべきである。
 その大空だが、今回非常に興味深く感じたのは、「――何ゆえ、男役・大空祐飛はここまで来て覚醒しないのだろう――」ということだった。男役としての芸に何も不足があるわけではない。普通なら覚醒ポイントが当然来てもおかしくないリミット、心と芸の臨界点を、大空はたやすく超えてしまっている。それは彼女がとてつもない理性と意思の人であるからなのだと思う。徹底した理性の力によって、大空祐飛なる男役は創り上げられている。その同じ理性が、彼女の覚醒を阻んでもいる。心のリミッターを外すのが怖いのだろうと思う。相手が誰であれ、人に覚醒を強制するものではない。何より、覚醒という行為自体に他者からの強制は決してなじまない。覚醒とは、自分自身で自分を認めること、この世で自分という存在は唯一無二であると認めることが出発点としてあって、その上で、自分の心を解き放ち、他者もまた自らと同じく唯一無二の存在なのだと知って受け入れる行為だからである。そのことによって、これまで理性では考えられなかった境地に至り、自分でも知り得なかった新たな自分を発見することができる。
 男役・大空祐飛が認められなくてはならないのは、他の誰でもない、大空祐飛自身によってである。

 二月の「仮面のロマネスク」中日劇場公演を前にして、1997年、この作品によって初舞台を踏んだ83期の二人の男役が宝塚を去る。天羽珠紀は「カサブランカ」のウガーテ役で強い印象を残した。ドイツ政府が発行した通行証を、大胆不敵にも罪を犯して手に入れ、カサブランカから脱出しようとしたウガーテだが、結局はつかまってしまう。このときの天羽は、大空扮する主人公リックと絡むワンシーンで、かつての宙組組長・美郷真也を思わせるきっちりとした演技で大空と対峙、美郷も大空も“芝居の月組”育ちであることを思わずにはいられなかった。「誰が為に鐘が鳴る」の“心のキャラ”は、珠洲春希が演じたアンセルモである。「じいさん」と呼ばれるアンセルモは、年輪を重ねた人間ならではの重みと、老いてもなお正しきに己を賭けて闘う人としての高貴に満ち満ちていて、大空演じる主人公ロバートと互いに認め合う様が、ロバートの男っぷりを一層引き立てていた。「NICE GUY!!」の、水色を基調とした衣装が美しい“風”の場面で、天羽は83期生の宝塚への愛を絶唱していた。その想いは、愛音羽麗をはじめとする同期生たちが必ずや受け継ぐはずである。
 舞台人の覚醒についてわかるのは、だいたいがその後になってからである。けれども、壮一帆についてはなぜか、覚醒のその瞬間まではっきりと思い出すことができる。
 ちょうど一年前の今日、壮は全国ツアー公演で神奈川県民ホールの舞台に立っていた(ちなみに私が観ていたのは12時からの公演だった)。レビュー「ラブ・シンフォニー」の終盤、男役陣がコール・ポーターの「So in Love」を歌い継ぎ踊る場面がある。その場面で黒燕尾服姿の壮を観ていて、不思議な感覚にとらわれた。心がふわっとたぐり寄せられとらわれて、空の彼方に奪い去られてしまったかのような。”enchanted”や”spellbound”といった言葉があるけれども、その“魔法にかけられた”という語がまさにふさわしいような。舞台上の人物が、劇場空間に漂う空気、ある種の“魔法”とでもいうべき空気の存在を認識し、それをふわっとまとうことが可能となった瞬間なら、何度か目撃したことがある。それは恐らく覚醒への大きな一歩に他ならないのだと思う。けれども、一年前のこの日の経験は、そういった瞬間とはまた異なるものだった。
 しばらく記憶の中をたどってみて、以前同じような感覚にとらわれたときのことを思い出した。数年前、ニューヨークのバードランドで、秋吉敏子トリオの演奏するコール・ポーターの「Just One Of Those Things」を聴いた夜。秋吉の奏でるピアノが超絶にかっこよくて、そしてやはり、不思議な感覚にとらわれたのだった。まるで、曲中の”A trip to the moon on gossamer wings”――細い蜘蛛の糸に乗って月までひとっとび――という一節を地で行くような。心が見えない糸にからめ取られて、空の彼方まで奪い去られてしまったかのような。
 瞳の奥に永遠の一瞬が焼き付いている。あの夜、バードランドで、見得を切るかのように鍵盤から両の手を滑らせて曲を終えた秋吉敏子。一年前、舞台への愛を、男役の象徴である黒燕尾服姿で気迫のうちに体現しきった壮一帆。
 あるいは、いずれの瞬間も、コール・ポーターの音の為せる“魔法”もあったのかもしれない。
 「仮面の男」で、舞台上空から吊られ、自らスカート部分のミラーボールを回して歌う晴華みどりの、ある種神々しい姿を観ていて、思った。タカラジェンヌとして覚醒した彼女だからこそ、ミラーボールにも負けない輝きを放つことができるのだと。“ミラーボールに人間が乗ってます”状態ではなくて、“人間ミラーボール”として一体となった輝きを放つことができるのだと。
 全国ツアー「黒い瞳」エカテリーナ役での覚醒から約半年、彼女は発光するかの如く舞台上に在った。「ハウ・トゥー・サクシード」のヘディ・ラルーもセクシーさに光り輝いていた。マリリン・モンローよろしく、お尻ふりふり道行く男性陣の眼を釘付けにするお色気秘書も、彼女にかかれば、「人生に一度くらい、こうやって悩殺することができたら楽しいかも!」という”dreams come true”の役どころとなるのだった。
 退団公演ともなれば、晴華の歌にはますます慈愛が増していた。宝塚歌劇を愛し、劇場空間に集ったすべての人々への愛が。そんな彼女が、上空で、二階席の観客をもゆっくりと見渡しながら歌う様を観ていて、そして、「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」ではエトワールとして、パレードの大階段を最初に降りてきて歌い上げる様を観ていて、思った。
 晴華みどりは一人、舞台センターに在って光り輝く娘役なのだ――。
 一度も取材することは叶わなかったけれども、この半年間、何だか、戦友として一緒に駆け抜けてきたような気分である。彼女の舞台を観ていて、宝塚を愛してきてよかった――と思う瞬間に何度も恵まれた。それだけ、彼女の宝塚を愛する心が、ピュアに、ストレートに、客席へと伝わってきていたからだと思う。

 晴華みどり、舞咲りん、沙央くらま、愛加あゆ、舞羽美海、いま現在の雪組の覚醒戦隊が娘役多めの黒一点状態であるのは、覚醒第一号者が娘役の晴華であったことも大きいのだろうと思う。
 人それぞれが唯一無二の存在であって、それぞれの生に与えられた使命が唯一無二であるが故に、覚醒、己のその使命に気づくこともまた、それぞれに唯一無二の状態である。二つとして同じ覚醒はあり得ない。そして、使命に気づくことができれば、己の人生の時間と力のすべてをその目的に向かって燃焼させることができる。生体エネルギーを正しいベクトルでフルに燃焼させているからこそ、覚醒した者はあんなにも光り輝くのである。
 そんな覚醒者同士の関係もまた、唯一無二の関係、友情であるはずである。誰かが誰かの代わりになることはあり得ない。例えば、晴華が「ハウ・トゥー・サクシード」で、同じく覚醒者である専科の汝鳥伶と、また、覚醒にきわめて近い(あるいは、もしかしたら一応一度はしたのだけれどもまだまださらなる覚醒の余地が残されているから何とも判定しづらいのかもしれない)緒月遠麻と繰り広げる場面は、お互いに、ああもできる、こうもできるという芸の上での探り合いが見応えたっぷりで、しかも、その二人でしか成立させられないという稀少性があったのである。
 「覚醒したかな、してるのかな」と思っているうちはまだまだである。本人にとってはきわめて自然に訪れて、「あ、あれが覚醒の瞬間だったんだ…」と、後から気づくようなものではないかと思う。そして、ポジションや本人の心理状態の変化によって、覚醒は無限に繰り返され得るものである。宝塚でいえば、トップと二番手では覚醒は自ずと異なってくるのだと思う。例えば、舞羽美海の覚醒は、“娘役トップお披露目作での”のカッコ書きが必要で、またすぐにでも次の段階が来そうな気もする。何と言っても、雪組の最終兵器、舞咲りんを向こうに回してコメディ・シーンを張れる(”ALICE IN WONDERLAND”)、そして、その舞咲をキューティー路線に回してコメディ・シーンを張れる(”There is no Victor”)娘役トップの誕生は、頼もしい限りではないか。
 晴華みどりの退団後の覚醒戦隊の隊長は、舞咲りんがきっちり引き継ぐはずである。今後、リーチ状態の男役四人が加わって、“フルハウス”以上成るか。否、組長の飛鳥裕と副組長の麻樹ゆめみあたりが先だろうか。

 退団公演で、日本物作品でもないのに、水戸黄門役! 大凪真生の足長スラリのご隠居様ぶりを、忘れない。「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」では、パーッと駆け出してきて、思いの丈を長身からぶちまけるように踊るGI役が印象に残る。
 改訂後、「仮面の男」の一番の悪役を務めることとなった彩那音は、フランス国民の王に対する陰口を逐一王に報告する役どころだが、男と女の声色をそれぞれ使い分ける多芸ぶり。こんな芸達者な人をモリエールが一座にスカウトしない手はないんじゃないの! と思ってしまった。「ロジェ」のヤコブ、「黒い瞳」のベロドローボフと、甘いマスクながら、リアリティのある、地に足のついた人物像を造形することに長けていた人だったなと思う。「ロミオとジュリエット」での、はじけた頭の婚約者パリスもキュートだった。
 「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」の終盤、彩那、晴華、大凪が、大階段に三人並んで歌い継ぐくだりは、作者・齋藤吉正の愛にあふれた餞の場面である。
 今の己を知らずして、明日また一歩と進歩することはできない。その意味で、最新作「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」において、これまでの自分の得意技を全部引っ張り出してきた作・演出の齋藤吉正の選択は正しい。2000年の大劇場デビュー作「BLUE MOON BLUE」のウサギ以来、齋藤作品のお約束である動物コスプレ娘役四人組、しかも今回は原点復帰ともいえるバニーガール。「満天星大夜總会」の”GO GO HANACHANG”にも匹敵する、トップ娘役による変身コメディ・シーン”ALICE IN WONDERLAND”。中詰のラスヴェガスでのショー・シーンでは、自作ではないが紫吹淳のトップお披露目作である「大海賊」に、自作の「エル・アルコン−鷹−」の女海賊一味“ブランシュ・フルール”を絡ませる凝りよう。作中、同題曲で、「見せてやるよ最高のカードを/…/ハイライトシーン」と歌われるのは伊達ではない(「ヴィーナスハント」と、「BLUE MOON BLUE」の名場面への言及もある)。要素をあれこれ詰め込んでいたらカードが増えすぎて、あれ、持ち札が5枚を越えたらポーカーじゃなくなっちゃうんじゃないの…? 状態ともいうべきか。
 齋藤の何よりの得意技は“音楽で一気に語ること”である。これがショー作品における彼の何よりの強みである。フェイヴァリット・ミュージックをつないでいって、最初から最後まで一気に駆け抜ける。そこに一種中毒的、麻薬的な醍醐味がひそむ。私は舞台作品を映像で見返すということをほとんどしないが、「BLUE MOON BLUE」だけは別で、今でも数年に一度見返しては唸ってしまう。デビュー作にしてこの完成度。
 しかし、「BLUE MOON BLUE」がすべての宝塚ファンに受け入れられなかったであろうこともわかる。斬新すぎて。そして、そのことでその後、作者が大いに悩んだであろうこともわかる。“音楽で一気に語る”という彼の強みが、芝居作品においては必ずしもプラスには働いてこなかったということもある。音楽でつづってゆくジュークボックス・ミュージカルの演出なんて向いていそうな気がするけれども、ドラマや登場人物の心情等、語りたい内容量が、音楽で語るスピードに追い付かない場合、すべてが駆け足の印象を与えてしまいかねないからである。齋藤吉正は宝塚愛の人である。宝塚歌劇に対して、出演者に対して、愛がありすぎて、物語もキャラクターももう、両手いっぱいに抱え込みすぎるきらいがある。その上、“宝塚らしさ”について悩んで…。ここ数年、私は何だか、ずっと言いたかったのである。
「いいから、『BLUE MOON BLUE』みたいに、自分が大好きでたまらないことだけやれ〜!!!」
 そして、彼があふれんばかりの宝塚愛をフルに発揮して、「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」なる作品がきらめいたわけである。音月桂、舞羽美海、早霧せいな、未涼亜希、沙央くらまの”ROYAL STRAIGHT FLUSH”五人衆に加え、ジョーカー緒月遠麻とハートのA愛加あゆ、彩那音に舞咲りんに涼花リサに晴華みどり、蓮城まことに大湖せしる、彩風咲奈と、綺羅星の如き雪組生がおもちゃ箱みたいに次から次へと飛び出してきて大活躍するエキサイティングな作品が。「Go! Go! Girls!」なる歌詞にふさわしい、男の子も女の子も共有できる、宝塚讃歌、女の子讃歌が。宝塚を好きでよかった――と客席で思った。
 ”ALICE IN WONDERLAND”、五人衆がゴレンジャーよろしく次々とキャッチフレーズを決めていく中詰後(このキャッチフレーズがそれぞれドンピシャ)、キュートなインディアン・コスチュームの総踊り、そこに挟みこまれた退団者のシーンと客席降り、好きな場面は多々あれど、めくるめくように心が運ばれていく作品だから、“心の名場面”は敢えてない。“心のキャラ”は、サンフランシスコの場面で、GIたちがタップを踏んでいるといきなり乱入して軽やかに鮮やかなタップを披露する、飛鳥裕&花帆杏奈の老紳士&老婆カップル! 虚を突かれて思わず、大笑い。飛鳥は”ALICE IN WONDERLAND”でも、舞羽ALICEにオタ芸全開で声援を送る草食系サラリーマン・スーツ姿のプロデューサーに扮してメーター振り切れそうに踊っていて、何だか最近ますます気になる雪組組長である。官能美という意味においては、星組の万里柚美と並び、すでに覚醒しているのでは…とかねがね思わないでもない花帆は、ここではすっかりお色気封印の老婆芸。ちなみに昨年の大劇場作品「ロック・オン!」の“心の名場面”は、花帆と涼花がマリリン・モンロー風美女に扮して「ブブッピドゥ」と歌い踊っていたシーンなのだけれども、今年の全国ツアーでは花帆が引き続きこの場面に出演、各地の方言まじりでセクシーに客席いじりをしていた姿が忘れられない。
 目を切る等の一種独特の妖しいフェティシズムがまた一つの魅力ではあった「BLUE MOON BLUE」に比べ、「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」は、作者が彼の独自性を大いに発揮しつつも、だいぶ幅広い層に受け入れられる作風になったと思う。けれども、齋藤吉正は賛否両論の議論を呼んでなんぼのショー作家である。いわゆる宝塚の正統派ではない。熱狂的に受け入れる人がいる一方で、否定的な人もいて、そうやって宝塚歌劇の可能性がどんどん広がっていったら、それでいいのだと思う。
 「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」の作中、「勝利への渇望」なる印象的なフレーズがある。個人的に、「BLUE MOON BLUE」は、つらい時代に心にあって私を支えてくれた作品である。その分、思い入れも深い。その目で観て、「『BLUE MOON BLUE』を文句なしに超えた!」と思える作品が誕生したとき、齋藤吉正は確かに己に克ち、渇望し続けた勝利を得るのだと思う。それはすなわち、宝塚歌劇にとっての勝利でもあるはずなのである。
 2001年暮れの初演から、十年の時を経て甦った正塚晴彦作・演出「カナリア」。悪魔学校の優等生ヴィムは、最初に出会った人間を不幸にしなくてはならない課題を背負って人間界にやってきたのに、すでに不幸のどん底にいる女性アジャーニとめぐりあってしまった! “幸せ/不幸”をめぐって展開される、悪魔対人間の“化かし合い”の行きつく末は――。
 個人的には、この十年の最大の変化はと言えば、一観客から舞台評論家になったこと(私が出版社を辞めたのがまさしく2001年暮れ)。再演の舞台が初演を超えることを志すように、私自身の見方も初演を超えたい。
 ――と、念じるような思いで観ていたところ、ユリイカ! 我見い出せり! しかし、至極当たり前のことではあるのですが、これは宝塚歌劇の座付き作家としての正塚晴彦の本質にも関わる話になってくるかもしれず。ということで、「カナリア」及び作家論を展開する前に、初見の方でももちろんクスリと笑えてちょっとホロっとできる「カナリア」の“心のキャラ”をまずは発表したく。めちゃめちゃ濃ゆいキャラばかり登場する作品ゆえ、激しくも楽しい葛藤ありつつ、今回あひるの心をとらえて離さなかったのは――。
 ディジョン役の月央和沙〜!
 スリの集金係であるディジョンは、登場シーン、アジャーニから上がりをせしめようとして、悪魔も真っ青な悪人ぶりを見せる。しかし、ヴィムにもらったルビーの指環をはめたらあら不思議、強面ぶりはどこへやら、すっかり毒気を抜かれてとんでもなく気弱ないい人に。果てには周囲の人からまるで愛玩犬のように扱われる羽目になり。それでもディジョンは一向に構う様子がない。彼は気のいい、まったき善の人となったのだから。そして“恩人”ヴィムには頭が全然上がらない。この世界の善と悪、ポジとネガを、“悪魔”というある種の逆さ鏡を用いてシニカルに描くこの作品の中で、象徴的存在、マスコットキャラともいえるこのディジョンなる人物を、月央は、悪意の混じり気ない無邪気な笑顔もキュートに演じる。周りから犬扱いされてこれに応えるあたり、卑屈さがいささかなりともにじむといやらしく見えかねないところ、あくまで“いい人”としての自然体の誇りがキャラ造形にうかがえて。強面ぶりを発揮する際、ヴィムにパンチを浴びせようとして透明な“バリア”に幾度も阻まれ、そのたびに、「何でもないぜ」的にうそぶいて見せるあたりの間合いもおかしく。昨年秋の全国ツアー、同じ正塚作品の「メランコリック・ジゴロ」で、月央は、足を使って捜査しなくてはならないのに新品の靴を履いて来てしまい、靴ずれに悩まされて先輩に小言を言われる刑事を演じていたのだけれども、靴ずれに悩む態があまりに絶妙で、以来、彼女を見ると即座に「靴ずれの人〜」と思ってしまうほど。無論、彼女が毎回靴ずれしているわけでは決してなく、今回も、マフィアの男として登場する場面で花組の男役らしい粋な颯爽としたダンスを披露している。
 忘れられない一本の舞台がある。
 年月を経ても、映像を見返すことをしなくても、あの日、劇場で観た情景と、そのとき感じた思いは、私の中にいつまでも残っている――。

 宝塚月組「プロヴァンスの碧い空」が大阪・梅田のシアター・ドラマシティで初演されたのは、1999年の暮れも押し迫った時期。今から十年以上も前のことである。
 アンリ・レニエの「燃え上がる青春」とヘルマン・ズーデルマンの「消えぬ過去」を原作としたその舞台は、師も走る十二月に観るには、心理的にいささか重い作品ではあった。クリスマスのライトアップが華やかな街と、舞台の内容との対比を今も思い出す。19世紀末のフランス、外交官を目指す主人公アンドレは親友のフィリップら仲間たちと共に勉学に励んでいたが、美しい人妻ジェルメーヌと不倫の恋に落ち、決闘の果て、彼女の夫を殺してしまう。刑期を終えて故郷プロヴァンスに帰ってきた彼を待っていたのは、順風満帆な人生を送るフィリップと、今は彼の妻となったジェルメーヌの姿だった――。
 当時の私はといえば、仕事内容にどうしても興味がもてず、人間関係にもなじめない部署で、鬱々とした毎日を送っていた。大学に入り、社会人になって、心の隅にどこかずっとあったもやもやとした思い、この“男社会”にとって何らかの価値があると男たちによって見なされなければ、女としても人間としても中途半端な存在でしかありえないのではないか――という思いは、日に日に強くなって私を苦しめた。往々にして容姿はいまいちとされていた東大女子を排除するために、男たちが知恵を駆使してさまざまなルールを設定していた、大学入学時のサークル勧誘。男と同じように働けない以上、もしくは、女として男を楽しませるように働けない以上、企業にとって必要な戦力とはされないかに思えた就職活動(私は、「あなた、浴衣姿のおじさんとチークダンス踊れる?」という質問に即答できなかったばかりに、某メガバンクの総合職の面接を失敗したことがある)。やっとのことで入り、天職を得た、と思っていた出版社でも、新入社員で配属された編集部から異動になった後、一部マスコミに根強い東大アレルギーに遭い、東大出は使えない、帰国子女は使えないと、さんざんな言われようだった。
 そのころの私はもう、自分がどう生きたらいいのか、まったくわからなかった。帰国子女らしくない、東大女子らしくない(男になんか負けない! という気概が絶対的に足りないということだと思う)とずっと言われてきて、今度は、そのレッテルが故に苦しめられて。かといって、自分が確かに女に生まれたと確認するためだけに、生殖機能を使うということはしたくなかった。私は生める、だから女、母になって一見落着という、“男社会”の安易な“赦し方”だけはしたくなかった。だいたい、男の子が生まれても、女の子が生まれても、どちらにしても悩ましい。この“男社会”に与する人間を一人増やすのか、それとも、この“男社会”に苦しめられる人間を一人増やすのか――。今ならわかる。子供のころから父と同じ大学に行きたいと憧れ続けてきて、勝手にあれこれ理想を描いた結果、現実に対応しきれなかっただけなのだと。他の考え方だってあるはずなのに、そのときは気づかなかったのである。
 そんな鬱々とした日々の中、芝居を観ることだけが私の楽しみだった。心を慰められた舞台の創り手は、蜷川幸雄に野田秀樹、三谷幸喜、熊川哲也……。それから十年以上経ってもなお、彼らが第一線で舞台を創り続けていることの強さを思う。なかには、松尾スズキ作品のように、当時の自分にとってあまりに心に痛すぎて、その時期、観に行けなくなってしまった舞台もある。それは松尾スズキにとって、早い段階から女性が“他者”ではなかったからだと思うけれども。
 なかでも楽しかったのは、宝塚歌劇を観るひとときだった。そこでは、私と同じ女性たちが、舞台上、いつもキラキラと輝いていた。そして、10代の終わりから私をずっと苦しめてきたような“男”はいなかった――。
 すべて女性が演じていて、舞台上に男性がいないから、ということではない。自分が男であるというだけで女性を見下し、自分の方にすべての選択権があると思い上がって女性を苦しめるような男は、宝塚の舞台には存在しない。脚本上描かれることも非常に少ないし、万が一描かれたとしても、演じる女性が“清く正しく美しく”の精神で嫌な要素を抜きとってしまえる。それは何も、現実から目をそらして、本来男性の中にあるような男尊女卑を描かないということではない。本来男性の中にそのような男尊女卑はなくていい、ないはずだ、そのように男性性を信じてのことであると私は思う。それは、女性を解放すると同時に、男性を解放する行為でもあるはずなのである。自分を絶対的に上に立つ者と信じ続ける行為はしんどく、いずれ破綻をきたしかねないはずなのだから。
 宝塚には実際的な利便性もあった。何しろ、東西二つの大劇場で、年がら年中公演が行なわれているだけでなく、他の劇場を使用しての全国ツアーや特別公演なども始終開催されている。その意味で、“いつもそこにある劇場”、“いつでも観客を待っていてくれる劇場”なのだった。チケットを取って、次の公演を心待ちにする。その楽しみが絶えることなく続いていく。その当時、軽い症状とはいえ、円形脱毛症から過食症、味覚障害まで、ストレスが起因のさまざまな不具合に悩まされながらも、具体的に死にたいとまで思いつめることがなかったのは、宝塚歌劇をはじめとする観劇の楽しみと、次の観劇までの期待感との楽しみとがくりかえし続いていっていたからだと思う。
 「プロヴァンスの碧い空」は、外交官になりたいと考えていたこともある私にとって、心に痛い舞台だった。その痛切さが一層心に響いたのは、2001年の3月、東京のルテアトル銀座にて再演が行なわれたときだった。前途洋々、若く希望に満ちていた頃から、罪を犯し、人生が八方塞がりになり、そして、新天地を求めてブラジルに渡航するという、逃げとはいえ、何らかの救いを見出すまでの魂の彷徨を、紫吹淳扮する主人公アンドレと共に、私の心もたどっていた。それは、のたうちまわりたいような苦しさの果てに安らぎを見出す、一種のセラピーのような観劇体験だった。スティーブン・ソンドハイムの名曲「Send In The Clowns」の前奏が流れ、紫吹アンドレが、「俺にはもう、清く美しい魂なんてない。そんなものはもう、ないんだ――」と述懐する、そのとき、私も心からそう思っていた。自分の人生がかくも行き詰まってしまったことで、私はもう、自分を育ててくれた両親に申し訳ない気持ちでいっぱいだったから――。紫吹アンドレと、初風緑扮する親友フィリップの、深い愛と友情で結ばれているお互いを思いやる言葉が、少しずつずれてお互いの心をどうしようもなく傷つけてゆくやりとりにも、涙せずにはいられなかった。そして終幕、故郷から出奔したアンドレを、ブラジル行きの船が出る港町でとうとう見つけ出した初風フィリップが、故郷プロヴァンスはもう春であること、だからもう、アンドレの心にも“春”が来ていい頃合いであることを告げるくだりに、私自身、赦しを乞うべき誰かに赦され、包み込まれるような、そんな気がした――。
 鬱々としていた頃、食べたくもないのに自分の口の中に無理矢理食べ物を詰め込みながら、自分はいったい何の罪で自分自身によって罰を受けなくてはならないのか、自分でも茫然とするしかなかったことがある。それはきっと、自分が、この社会と何とか折り合いをつけてうまく振る舞えないことに対する罰だったのだろうと思う。「プロヴァンスの碧い空」の舞台を最後に観た日の帰り、立ち寄った銀座のカフェで食べたチキンサンドウィッチは、おいしく、満腹感をもたらすものであったことを、今もはっきり覚えている。
 それから三カ月ほど経った日のこと。私が新入社員で配属された雑誌が休刊になった。いつかその編集部に戻って、また舞台関係の取材をしたいと思っていた、その願いがかなわなくなったことを知った。だから、会社を辞めようと思った。自分は舞台に関わる取材がしたい人間なのだ。あのとき、「プロヴァンスの碧い空」という舞台が、自分を救ってくれた。そのような心への作用は、いかにして起こり得るものなのか。その不思議を解き明かしたい――。
 フリーになった私を、今度は違う困難が待ち受けていた。宝塚歌劇は、演劇界では、なぜか色物扱いされていた。不思議な話である。2014年で創立百周年を迎えるという長い歴史を誇り、数百万人にのぼる年間観客動員を数えながらも、どこかよそ者扱いし続けられる劇団。私が宝塚の取材をしているのを知りながら、「宝塚ファンなんて馬鹿ばかり」と、面と向かって言い切った演劇関係者もいる。どういうわけだか、宝塚に関しては、そうやってはっきり暴言を吐いても大丈夫、という認識があるようなのだった。多くの場合、実際に舞台を観ることもしないで。
 私は、自分がくだらないものに人生を救われたとはとても思えなかった。だから、宝塚歌劇の魅力を何とか自分の言葉で伝えようとした。宝塚を不当に貶めるような意見を耳にすれば、そのたび反論してきた。「あんな舞台には真実なんかひとかけらもない」と、ある演出家に言われたこともある。じゃあ、私が、美を、真実を、宝塚の舞台に発見したらいいんだな!、それで勝ちなんだな!、と、そんな勝負をずっと続けていたような気がする。
 けれども、それはある意味、私のエゴに過ぎないところもあったのかもしれない。特にこの数年、自分はどこか躍起になりすぎていたのかもしれない……とも思う。宝塚歌劇の舞台が芸術を志向するか否かの判断は、何より、その創り手と出演者に委ねるべきことなのに。舞台評論家としての私の役割は、そこに美や真実が自ずと現れたとき、あるがままに受け止めることにあるのだと、年月を経て、多くの舞台、現役OG問わぬ多くのタカラジェンヌの心にふれて、つくづくそう思うようになった。
 何より、昔、鬱々とした日々を送っていたとき、宝塚の舞台を観ていた私は、何もこんなにあれこれめんどくさいことを考えて楽しんでいなかったはずなのである。ただ素直に心躍らせてその舞台を楽しみ、その過程で、傷ついた心が次第に癒されていった。初めてその舞台にふれる人から、観劇を重ねたファンまで、誰が観てもわかりやすく、楽しい。それが何より、宝塚歌劇の魅力の一つであるはずなのに、ここ数年、芸術性追究の前に、一番大切なそのことをどこか見失っていたのかな……とも思う。
 今年の三月、東日本大震災と原発事故が相次ぐ状況になって考えたのは、「昔、舞台に命を救われて舞台評論家になったのだから、どうなろうと、舞台を観て、書くことが自分の使命のように思える」ということだった。その大きなきっかけの一つとなったのが「プロヴァンスの碧い空」という舞台であって、だから私にとって、この作品は永遠に心に残る一本なのである。
 先週末、市川市文化会館にて「小さな花がひらいた」を観劇し、つくづく宝塚歌劇の魅力が凝縮された作品だなと、心を打たれた。
 山本周五郎の「ちいさこべ」を原作とするこの作品が初演されたのは1971年、今から四十年前のこと。以来たびたび再演されてきているが、改めて、数多くの出演者に見せ場を振りつつ、宝塚の舞台にふさわしい作品として物語をきっちりとまとめあげる、脚本の柴田侑宏の手腕に感服する。大切な家族の命や家財一切合切をも奪うような大火の後、次々と苦労に襲われながらも、互いに助け合って生きる江戸の人々。人と人とが互いを思いやって生きることのあたたかさ、貴さを描く物語は、実際にスタッフ・キャスト一人一人が力を合わせなくては成立することのない舞台の上で演じられたとき、さらなる奥行きを増して、心にほのぼの沁みる。劇中、何度か歌われる「もう涙とはおさらばさ」は、一度聴いたら忘れられない、そしてついつい歌詞とは反対に涙を誘われてしまう名曲である。三月の東日本大地震の後、人と人とが力を合わせることの大切さをますます痛感する中、東北地方をも回るこの全国ツアーで上演されるに似つかわしい作品である。
 宝塚歌劇の作劇においては、トップスターを頂点とするピラミッドが形成されている以上、個々の役者にその番手にふさわしい役割を振らなくてはならないが、その一方で、生徒一人一人がスターであるという、一見矛盾するかにも見える難しい制約があるように思える。しかし、「小さな花がひらいた」にしても、また、10月中旬まで東京宝塚劇場で上演されていた「アルジェの男」にしても、柴田侑宏という座付き作家がその制約をいかにクリアしているか、その力量に胸のすく思いがする。例えば、「小さな花がひらいた」では、大火でみなしごになってしまった子供たちを主人公の大工の若棟梁・茂次が引き取るか否かが物語の発端となる。このとき、お上の決まりを告げに来る町方の役人、中島市蔵役の高翔みず希は、役としてはここしか出番はない。だが、決まりを告げに来たその人物が、子供たちを引き取るという茂次の決意を聞き、納得して帰っていく、その流れが、物語上必要不可欠な構成要素として描かれている。そして、高翔がベテランならではの落ち着きのある演技で、杓子定規に規則を振り回すばかりではない人物像を描いて場面を引き締めるからこそ、物語がスムーズに流れてゆくと同時に、「この人の芸をきっちり観ることができた」という充足感も同時に得られるのである。同じことは、「アルジェの男」での、社交界の華シャルドンヌ公爵夫人邸に仕える執事、レイモン役の描き方にも言える。ここでレイモンは、夜会の準備に余念のない使用人たちを率いてのナンバーを歌い踊るが、その大人数、華やかさぶりに、夫人の社交界での位置付けや夜会の盛大さがうかがえる。そして、レイモン役を演じていた一色瑠加が、確かな歌唱力と真面目な勤務態度をきっちり披露するからこそ、場面が後の展開に生きてくる。
 ここに、座付き作家ではなく、外部から脚本家を招いての「美しき生涯」に対して抱いた疑問の原因がはっきりする。秀吉に仕える七本槍の武将たちの描かれ方がどこか十把一絡げだったこと、なかでも、加藤清正役の悠未ひろと福島正則役の北翔海莉が、俺たちは体育会系で頭の方はいまいちだから、上に仕えるだけ…といったやりとりを交わすあたり、どうしても違和感をぬぐい去ることができなかった。時間的制約もあるのかもしれないとは思うが、せっかくテレビ界で有名な脚本家を招いたのだから、その人物が宝塚の生徒一人一人に発見した新たな魅力、個性が、脚本を通じて具体的に伝わってきたら、互いにとって大いに実のあるコラボレーションになっただろうに…と思うと、何だか非常に残念だったのである。今後このような企画が実現した際には、二重にも三重にもふくらむ形でのコラボレーションを期待したい。また、小柳奈穂子作の「めぐり会いは再び」を高く評するのも、個性豊かな星組メンバーにそれぞれ見せ場を振りつつ、いかにも宝塚の作品らしい舞台に仕上げた手腕を買ってのことである。
 「小さな花がひらいた」の主人公・茂次を演じる花組トップスター蘭寿とむは、合う役どころを得て水を得た魚のように生き生きしている。もともと日本物姿が似合うことには定評があり、自らも両親を大火で失いながらも、人前では決して泣けない男のやせ我慢を背中に見せて、いなせである。ヒロイン・おりつの蘭乃はなは、もう少し声を落ち着かせて使うようにすると、芝居にさらなる説得力が増すと思う。くろ役の華形ひかるは、いかにもの人のよさがコミカルに出てとてもチャーミング。京三紗、夏美よう、紫峰七海らがさすがのキャリアで芝居を締める。花野じゅりあは、西洋絵画に描かれた貴婦人のようにふっくらとしたあたたかみが魅力の娘役だが、大店のお嬢さんを演じて、日本物作品でもあでやかな令嬢ぶりで魅せる。そして、作品のマスコットガールともいうべき存在が、みなしごの一人、子役のあつを演じている月野姫花。美少女ぶりに何ともミスマッチなファニーボイスが魅力の彼女が、「私、あっちゃん」と笑顔をほころばせるとき、客席もついつい、破顔一笑。今後もあの独特の声を生かさない手はない。
 併演のショー「ル・ポァゾン 愛の媚薬U」は、子役たちの活躍ぶりも楽しい「小さな花がひらいた」とは打って変わって、花組のアダルトな魅力がはじける作品。こちらでも蘭寿が生き生きとダンシングスターぶりを発揮し、支える活躍の華形ともグッドバランス。スーツ姿でのダンスシーンに、花組男役陣の心意気がみなぎる。望海風斗の見せ場は今回やや少なめだが、後半に歌唱力発揮の場面がある。蘭乃率いる娘役陣も、色遣いもふんわり華やかな衣装に勝るとも劣らぬ咲き誇りぶり。
 出演者をよく見慣れていても、「これ、さっきの芝居と本当に同じ人が演じているんだろうか」と、芝居とショーとの雰囲気のギャップが何とも味わい深い二本立てゆえ、この公演で初めて宝塚にふれる観客をはじめ、なかなか普段、宝塚と東京の大劇場に足を運ぶ機会のない観客にとっても、楽しいびっくりに満ちているのではないかと想像する。大階段がなくても、豪華な舞台装置がなくても、宝塚は宝塚、その本質的な楽しさは決して変わることはない。この公演で、一人でも多くの地方の観客に、宝塚の魅力が伝わるといいなと願うものである。その魅力を支えるのは無論、出演者一人一人の奮闘と、それを支えるスタッフワークあってこそ。出演者それぞれがさまざまな役どころで力を尽くしているのを承知の上で、個人的に一番サプライズがあった人物について記しておきたい。芝居作品では、「ああ、こういう妙に大人びた説教くさいしゃべり方をする子供、いるいる」とついつい納得してしまう、こまっしゃくれた子役・忠を演じていたかと思いきや、ショーでは正統派美形ならではの男役の色気で魅了、かと思えば“女装”シーンで妖艶な魅力をふりまき、はたまた、元気はつらつ、キュートにラインダンスにまで登場。冴月瑠那に今回の「ギャップありすぎでびっくりしたで賞」を贈りたい。
 初日前の舞台稽古を見学。「仮面の男」の演出が宝塚大劇場公演から変更になったことで、物語がわかりやすくなり、宝塚らしいコスチューム・プレイと雪組生の力演をゆっくり楽しめるように。いくつか場面が変わったことで、作品の中でのシリアスとコミカルのバランスが落ち着き、他の場面も随分異なる印象に。鉄仮面として生涯を牢に閉ざされて生きてこなければならなかった主人公フィリップと、ヒロイン・ルイーズが指での影絵作りで心を通わせる銀橋のシーンも、東京バージョンはしみじみ効いている。大劇場公演から東京公演の間の短い期間で変更場面を仕上げたスタッフ・キャスト一同の奮闘に拍手を送りたい。
 芝居の演出変更は結果的に、併演のショー「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」とのバランスの落ち着きも与えて。芝居の印象に少々引きずられるところがあって、大劇場公演時に多少気にかかったシーンもこれで問題なし。バランスとはかくも大切なものなのだ…と身に沁みた次第。文句なしにもりだくさんで楽しい宝塚のショーを満喫した! という気分にさせてくれる作品。雪組トップスター音月桂の舞台での雰囲気は、昨年秋の花組「麗しのサブリナ」「EXCITER!!」公演序盤の真飛聖の状態にきわめて近い印象。
 終演後、雪組新トップコンビ、音月桂さんと舞羽美海さんの囲み取材。雰囲気や並んだときのバランスのよさに加えて、宝塚を信じ、愛する気持ちの方向性が非常に重なり合うコンビの誕生という印象。よき相手役を得ることで、トップスターとしての風格と自信もさらに増すというもの。音月桂率いる雪組生の宝塚愛スパーク&エネルギー炸裂の瞬間を、君も東京宝塚劇場でキャッチ!
 先週、ふらりと宝塚大劇場に行ってきました。そして、何だか不意に思い出したことがあって、携帯でパチリとしてきたのですが、せっかくなのでここでクイズをば。前にも一度書きましたが、実は、あひるの家の応接セット&ダイニングセット、宝塚大劇場のロビーにおいてある椅子と織り地がまったく一緒。では、下の写真のうち、どちらがあひるの家のソファで、どちらが宝塚大劇場にある椅子でしょう?

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 あひるの家に来れば気分は宝塚大劇場(笑)。それはさておき。最近何かと話題の雪組公演「仮面の男」のお話をば。
 宙組公演「美しき生涯」を見たとき、トップコンビ&二番手以外にまったく愛のない脚本にびっくりし、「ま、座付き作家じゃないからしかたないのかもしれないけど、今年の大劇場公演のワースト作品はこれで決まりだな…。いや、しかし、『仮面の男』がまだあるから予断を許さないな…」と思っていたのですが、その懸念が見事に的中。というか、「美しき生涯」はワースト脚本で、「仮面の男」はワースト演出だなと。演出家が自慢気に、「どう? 私の演出、おもしろいでしょ? すごいでしょ?」と入れた箇所がことごとく滑って、あくびが出そうになるくらい壮絶におもしろくないので、そこを全部とっぱらえば普通に楽しめる作品になりそうな。だって、なんだかんだいっても原作はかのアレクサンドル・デュマ、物語はしっかりしているので。真っ赤な唇だけがしゃべるのは映画「ロッキー・ホラー・ショー」のオープニングを思わせるし、人間ボウリングはもう十年以上も前に、学ラン姿がトレードマークのダンスカンパニー「コンドルズ」がやっていたのを観たことあり(どちらも何も、「ロッキー・ホラー・ショー」&コンドルズに限らないとも思いますが…)。しかし、「ロッキー・ホラー・ショー」は見事にキッチュに結実していたし、コンドルズの人間ボウリングももっとユーモアが効いていて全然しゃれていたわけで。「メイちゃんの執事」も、なにゆえ宝塚でロベール・ルパージュ風を観なくてはならんのかと…。あちこちからいろいろなものを手当たり次第に取り入れてくるのもどうかと思う上に、その取り入れ方にセンスがまったく感じられないというか、趣味が悪すぎるのが致命的。個人的には、今年の宝塚の大劇場公演の初演作品のベストは、小柳奈穂子の大劇場デビュー作「めぐり会いは再び」なのですが(原作はマリヴォーの「愛と偶然との戯れ」。しかしこれは、脚本はしっかりしていたのに、何だかドタバタアドリブ合戦ばかりが目につくようになって、公演が進むにつれ、舞台全体がぐだぐだになっていったのが非常に惜しかった。笑いとは、役者にとって、何かを麻痺させる、どこか麻薬のように恐ろしいものなのだな…と痛感)、この小柳演出作が、万事趣味がよくて大いに感服したのと対照的。何より、「仮面の男」の演出家は、宝塚歌劇ならではの世界、男役&娘役の魅力や華やかで夢のある世界を見せたいという思いより、独りよがりな演出を前面に押し出してくるところがどうにかならんのかと…。トップスター音月桂は声の使い分けで懸命に一人二役を演じ、雪組生も頑張っているだけに、残念な限り。これまた本当に趣味が悪い監獄拷問シーンも、演じている沙央くらま自身はあっぱれな仕事ぶり。
 併演の「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」が非常に楽しかったのが救い! (ま、編み傘かぶったベトナム兵の踊りは必要なのだろうか…とちょっと思わないでもなかったですが。あと、フィナーレ近くのシーン名ですが、「Dedicated to our friends」が文法的に正しいのではないかと…。) 先日書いた、「満天星大夜總会」の“GO GO HANACHANG!”の場面にも楽しさの似た、トップ娘役舞羽美海がアリスに扮して出てくるシーンなんかとてもかわゆい。「ハウ・トゥ・サクシード」を観て、この人はコメディもいけるんだな…と思ったところだったので、我が意を得たりという感じ。雪組のムードメーカー、舞咲りんのはじけ具合も◎。今公演で惜しくも退団の晴華みどりが、両作品とも、さすがは覚醒のキラキラオーラを放っていたのがうれしくもさみしく(それにしても芝居の人間ミラーボールは、周りも含めくれぐれも気をつけて〜!)。フィナーレあたり、立ち見して一緒に踊りたかった!
 「ファントム」の壮一帆のキャリエールについて語っていたら、「だってあれはおいしい役だから」と言う人がいた。私は考え込まざるを得なかった。自分の不倫の恋ゆえに異形の子が生まれてオペラ座に怪人として棲みつき、その子供を最終的には自らの手で殺さなくてはならない。そんな役を、はたして“おいしい”の一言で片づけてしまえるものだろうか。人間として誠実に向き合おうとすればするほど、役者に精神的負担を強いる役なのではなかろうか――と。
 もう時効だと思うから書いてしまうけれども、私はかつて、とある方から、この難役を演じるにあたってどんなに悩んだか、そしてそのために体調まで崩してしまった…という話を聞いたことがある。だいたい、役をおいしいかおいしくないかで判断する役者がいるとしたら、あんまり気持ちのいいことではないな…と思うものだし。だから、壮一帆が持てる力のすべてを発揮してキャリエールを演じ、作品を支えた今も、否、今だからこそ、「ファントム」なる作品は、宝塚歌劇においてあまり再演を重ねてほしい演目だとは思わない。

 壮一帆のキャリエールはどこか物語の“外”にいる。――そう、感じさせる。自らの恋と“怪人”誕生を回顧する「エリックの物語」は当然のこととして、終幕のファントムの葬送の場面でも、たたずむ姿がどこか、遠い。その立ち姿を見ていると、この「ファントム」の物語はすべて、キャリエールが語っていたこしらえ事に過ぎないのではないか、そんな不思議な感覚にとらわれてくる。「私はそのとき、こう考えていたのだった――」、物語すべてを、そう語っているかのような。
 異形の子はいたのかもしれない。あるいは、いなかったのかもしれない。不義の恋の良心の呵責に苦しむキャリエールが心に抱いた、ただの幻想なのかもしれない。彼は歌姫ベラドーヴァを愛したのかもしれない。あるいは、愛してはいなかったのかもしれない。…わからない。話を聞いているだけでは、決して。それはキャリエールにとっての“真実”であって、すべてはどこか、闇に包まれている。そう、まるでこの世界、この人生、そこに確かにあるはずの“真実”そのもののように。
 例えば、私がここにこう書き記していることは、私が実際に見、聞き、味わった人生の真実そのものである。けれども、それはあくまで私にとっての真実であって、他の者にとっては真実とは思えないこともあるかもしれない。劇場の精霊は、いるのかもしれない。いないのかもしれない。パリ・オペラ座に怪人はいたのかもしれない。いなかったのかもしれない――。
 真実は、それを真実として語る者と、それを真実と信じる者との間においてのみ真実であって、それでいい。

 作中、怪人が棲む地下への階段を降りきるのは、怪人を除いてはキャリエールただ一人である。オルフェオとエウリディーチェ。イザナギとイザナミ。人はたびたび、渡ることを禁じられた異界への橋を渡る。キャリエールも、また。彼岸から此岸へと降りてくる「アラベッラ」の、あの三音のように――。
 「ファントム」の舞台となったパリ・オペラ座から2008年7月に来日した、パリ国立オペラのバルトーク作「青ひげ公の城」を思い出さずにはいられない。――「私の前に、貴方はどんな人を愛していたの?」――。今、どんなに愛し合う者同士といえど、どこか聞いてはいけない、けれどもやはり聞かずにはいられない問いを抱いて、青ひげ公の“城”という名の心の迷宮を、ヒロイン・ユディットはさまよう。あの舞台の演出を手がけたスペインのパフォーマンス集団、ラ・フラ・デルス・バウスの二人は知っていた。パリ・オペラ座という劇場もまた、青ひげ公の“城”、すなわち、人の心と同じ迷宮であることを。真実と幻想が闇の如く色濃く立ち込め、ときに、自分自身さえ見失う異界であることを。第一、第二、第三、第四、第五、第六、第七と、ユディットは城の、心の、劇場の扉を開ける。そのとき、扉の向こうから現れてくるものとは――。
 あの「青ひげ公の城」もまた、パリ・オペラ座に棲まいし者に捧げられた、“精霊降ろし”の演目だった――。

 壮一帆のキャリエールが、まるで「エリザベート」のルキーニのように、すべてを、自分が創り上げ、観客を幻惑する物語と語っているのだとすれば、“息子”、オペラ座に棲まいし怪人とは、自らの心に棲まいし“幻想”である。終幕、“息子”と和解と赦しを果たす銀橋での「You Are My Own」――お前は私のもの――はだから、自分自身が抱いてきた“幻想”との和解と赦しに他ならない。
 幻想は、劇場にも、心の中にもいる。私の目の前に広がる舞台にも、そうして見守る私の心の中にも、数多の幻想が、まるで漆黒の闇の中で出くわす怪人のように、立っていた。愛の幻。夢の幻。叶えられなかった約束の幻。幻覚。幻想――。
 弱かった自分。つらかった思い出。たとえ幸福で楽しいものであったとしても、今を生きることをはばむ過去の記憶は、すべて幻想である。そして、今を生きることをはばむ未来への不安もまた、幻想に他ならない。今、生きるこの一瞬だけが、真実なのだ。今しかない。今しか。目の前に広がる舞台も、人生も、後戻りも先送りもできない――。
 「ファントム」を観て、あの地下への階段を自分の心の中へと降りてゆくようなキャリエールを観て、私も、自分自身の心の中へと降りてゆき、その迷宮、異界で、数多の幻想の中をさまよった。――もう何年も、それは多くの人たちに、「どうしてそうしてみないの?」と勧められながらも、どうしても踏みきれないことがあった。その原因が、十年前のとある出来事に起因していると気づいて、私は何だか自分に笑ってさえしまった。そのことをかくも長い間引きずっていたとは、自分自身、この舞台を観るまで思いもよらなかったからである。――私は臆病な人間である。40年近く生きてきて、未だに、人の母になる踏ん切りさえつかない。人に覚悟を迫る資格などない。その踏ん切りのつかなさもまた、何かの幻想にとらわれているからなのかもしれない――。
 Carrière。フランス語で、「職業・キャリア・生涯」。人は生きるうち、さまざまな物を背負う。幻想をも、また。壮一帆のキャリエールが、背負ってきた“ファントム”――怪人、幻想――を撃って、撃って、そうして私は、自分の心の中のファントムを一つ、一つと手放していった。父の“理想”の娘たらんとした幻想。数多の幻想。壮キャリエールが撃って、撃って、劇場の悪しき精霊もまた、一つ、一つと姿を消していった。撃って、撃って、キャリエールを演じる壮一帆もまた、彼女自身の心の中にある幻想を一つ、一つと手放しているのかもしれなかった――。
 そうして幻想を手放してゆく彼女の姿は、私にとって、美そのものだった――。
 演出家は、制作発表会で、今回の「ファントム」の謳い文句を、ガストン・ルルーの「オペラ座の怪人」から引用して、次のように述べた。その言葉はここに完成する。
 「あなたの歌には、魂がある。私はそれを、美しいと思う」――。
 一人の人間として”carrière”を生き、宝塚歌劇の男役として16年にも及ぶ”carrière”を積んできた壮一帆が私に見せたのは、そんな舞台である。