藤本真由オフィシャルブログ

 劇場に怪人が棲んでいる――。「ファントム」の如き物語は、劇場という場における一種の“荒行”であって、“怪人”を憑代として劇場に棲まう霊を降ろし、これを鎮める、そんな、“精霊降ろし”のための演目なのではないか――と、今回つくづく思わずにはいられなかった。
 そんな、ある種非常にヘビーな作品であるからこそ、コミカルな笑いの要素が多々含まれているのが、観客としては非常にありがたかった。パリ・オペラ座に金の力で乗り込んできたプリマドンナ・カルロッタ(桜一花)とその夫アラン・ショレ(愛音羽麗・華形みつる)についてはすでにふれたが、そのカルロッタの付き人ヴァレリウスを演じて、初姫さあやはボケの魅力爆発である。「EXCITER!!」で真飛聖扮するMr.YUの遅刻を「なんでいつもギリギリなのよ〜」となじっていた姿や(あひる自身、いつもギリギリなので、よく脳内でこの声で自分を叱っています…)、「メランコリック・ジゴロ」の鉄火肌のルシル役といった、強い感じの女性の役どころが印象に強かったのと好対照。よりによってカルロッタをお化けと間違えたり、他の人々と一緒にショレまで部屋から叩き出してしまったり、おっちょこちょいにもほどがあるキュートさ。あの大ボケぶりゆえ、みんなが恐れをなすカルロッタにも、「カルロッタ様〜」なんて楽しげに献身的に仕えていられるのかしらん。カルロッタとアラン・ショレに買収された文化大臣モンクレールの紫峰七海は、カルロッタの扱いにほとほと手を焼いている風がおかしい。
 しょっちゅうパリ・オペラ座にやって来ているルドゥ警部(悠真倫)は、警備のためだなんだと言いつつ、実は大のオペラ好きなのでは…と思いたくなるほど。ファントムから文句の手紙が多々届いたというアラン・ショレの苦言を聞くとき、愛音、華形、それぞれのショレに対し、悠真の茶々の入れ方が絶妙に変化。「メランコリック・ジゴロ」で、悠真のノルベールと愛音のフォンダリがやりあう白熱のシーンは見ものだった。私はもう何年も前から、この人が超本格的技巧派として覚醒する日が楽しみなのである。
 クリスティーヌがパリの街で楽譜を売る「パリのメロディー」は、三拍子も軽快な楽しい旋律だが、拍子数よろしくトリオで出てくるのが、セルジョ(華形みつる・朝夏まなと)、リシャール(望海風斗)、ラシュナル(瀬戸かずや)。パリ・オペラ座の“かしまし娘”同様、この三人の動きもテンポよし。華形セルジョは腕白ガキ大将風、朝夏セルジョはひょろっといかにも少年風。オペラ「カルメン」のリハーサル・シーンでは、セリに乗って蘭寿とむのエリックが現れ、いたずら心を発揮して舞台を混乱に陥れる。蘭寿が無邪気なかわいらしさを発揮する場面で、「真夏の夜の夢」のパックや「ティル・オイレンシュピーゲル」をついつい想像してしまうのだが、ここで役を乗っ取られそうになる二人のセルジョのボケ演技も実に楽しかった。
 コミカルな演技をしているわけではないのだけれども、ビストロのシーンで、バレエ教師マダム・ドリーヌ役の花野じゅりあが、びしっときつい一言でカルロッタから一本取る箇所は、セリフの言い方が痛快で、「言ってやって! 言ってやって! わあ、言ってやった〜」と、見ながらにやりとしてしまう。その花野が、クリスティーヌがオペラ座の舞台への憧れを歌う「Home」で、ダンサーたちを厳しく指導する姿には、彼女自身が実際に教えを受け、教師たちの真摯な姿勢に学んできたことを感じずにはいられない。同じ場面で、高翔みず希の音楽教師メルシエが熱血指導している後ろ姿も、何だかとても心温まる。舞台監督として誠実な仕事ぶりを発揮しているモーク・レール役の扇めぐむは、“白の男役”の予感大。そんな人々が生きるパリ・オペラ座の楽屋番ジャン・クロードを温かみのある演技で演じている夏美ようこそが、カルロッタの桜一花共々、花組もう一人の覚醒リーチ者。
 新人公演クリスティーヌ役の実咲凜音は、“天使の声”の形容にふさわしい歌唱が◎(舞台稽古見学にて)。ラインダンスのセンターでも表情豊かに笑顔を発揮して、これからが楽しみな限り。
 四月末の「ファントム」の制作発表会で壇上に上がっていたスポンサー会社の方が、とても渋く響くバリトン系の声をしていて、その方がその美声で、「蘭蘭コンビ」と蘭寿とむ&蘭乃はなの新花組トップコンビを呼んだのが、何だか妙にツボにはまってしまったあひる。
 蘭寿とむは5年ぶりに宙組から花組に戻ってきて、この公演からトップスターを務めることとなった。宙組に行った彼女が、自分の個性を打ち出さんと、苦労していたように見えた頃のことを思い出す。そのとき、宙組トップスターは大和悠河、三番手は北翔海莉と、かつておもちゃ箱のように個性がひしめき合っていた月組から、二大おもしろジェンヌが輸出されていた。しかも、トップ娘役の陽月華までユニークな個性の持ち主。男役はキザり、娘役は華麗に、そんな花組から宙組に行った蘭寿は、それまでそこまで強くは要求されていなかったであろうおもしろさを何とか獲得せんと奮闘していたような気がする。その集大成が、昨年「ファンキー・サンシャイン」の“心のキャラ”に輝いた太陽族の青年、YUZOだったのだと思う(<超越〜宝塚宙組・蘭寿とむ>http://daisy.eplus2.jp/article/158782272.html)。
 その蘭寿が花組に帰ってきて、しかもトップお披露目作品は「ファントム」。もうちょっと彼女の魅力、持ち味に配慮した演目にしてあげられなかったものだろうか…と思わずにはいられない。7月の雪組・梅田芸術劇場公演「ハウ・トゥ・サクシード」も、主役のキャラクターがトップスター音月桂にまったく合っていなくて、気の毒に思った(しかも、どう考えてもあの作品は、今の宝塚で上演するには女性の扱い方が古すぎる!)。「トップスターならば、芸の力でどんな作品でもねじふせてみよ!」との声もあるかもしれない。けれども、それは例えば真飛聖の退団作「愛のプレリュード」のような宝塚オリジナル作品の場合であって、「ファントム」、「ハウ・トゥ・サクシード」のような海外ミュージカルとなると話が変わってくると思う。「エリザベート」や「スカーレット ピンパーネル」のように、宝塚アレンジやトップスターの個性に合わせての上演が可能な演目ならいざ知らず、作品や役柄にふさわしい声やキャラクターがシビアに問われる演目の場合、ねじふせるにも限度があるし、ましてやお披露目ともなれば、もっと個性にマッチした演目で観たかったというのが本音である。蘭寿は今回も奮闘し、パリ・オペラ座の地下で実は父であるキャリエールに純粋培養された純真な青年として怪人エリックを造形し、蘭乃扮する純真なヒロイン・クリスティーヌと素敵なカップルぶりを見せ、新トップコンビとしての船出を果たした。
 今回、エリックとして華麗なコスチュームに身を包んで現れる姿を観て、蘭寿とむとは、綺麗で、どこか中性的な魅力ももっている男役だったのに、宙組時代、ついついおもしろ個性を楽しむ方に関心が行っていて、自分は見落としていたんだな…と思った。蘭乃と踊るフィナーレのデュエットダンスを観ていても、鋭角的ではなく、しなやかでやわらかな動きの方が、今の彼女の個性をより引き出すような気がしてならない。花組トップスターとしてこれからどんな舞台を見せてゆくのか、楽しみにしたい。

 蘭乃はなは今回の「ファントム」でトップ娘役として大きな壁を乗り越えたのではないかと思う。女性が男性を演じる男役を相手にした娘役芸とは難しい芸であって、娘役を演じすぎてもいけない。あまりに技巧的になってしまえばしらじらしく見えてしまう。そして、トップ娘役ともなれば、トップスターの“相手役”を演じすぎてしまうという“問題”も生じる。これは例えば、「ファントム」初演でヒロイン・クリスティーヌを演じた花總まりでさえ、宝塚時代には乗り越えられなかった壁なのではないかと思う(ミュージカル「ドラキュラ」で舞台人として再生、女優としての一歩を踏み出した花總については別項でふれたい)。最近思うのだが、トップ娘役は、トップスターの相手役を務めるのもさることながら、その組の娘役の代表として娘役芸を見せるということを大切にした方が、娘役全員の舞台への思いをすんなり引き受けることができ、組の体制がより強固にまとまるような気がしてならない。
 トップ娘役は早くして抜擢されたりするものだから、舞台の怖さを知る瞬間がその就任後にやってきたりする。宙組トップ娘役の野々すみ花も、トップ就任作「カサブランカ」で随分苦労して、東京公演後半で魅力を開花させたものである。稽古場で創ってきたようには舞台では行かないこと、舞台に立ちながらさらに役柄をふくらます楽しみもまた大きいことを、「愛のプレリュード」と「ファントム」を経験した蘭乃は存分に知ったのだと思う。それがわかれば、これまで培ってきた個性を発揮し、さらに上を目指してゆくことが可能になる。
 蘭乃はなの魅力は、宝塚の正統派娘役たるところにある。今回のヒロイン・クリスティーヌ役でも、その魅力が実によく発揮されている。昨年ヒロインを務めた「HAMLET!!」の“心のキャラ”は、蘭乃が演じたオフィーリアだったのだが、娘役らしさと狂気とを矛盾なく結び合わせる演技だった。このとき彼女は、かつて花總まりが「満天星大夜總会」の“GO GO HANACHANG!”の場面で着ていた、ペパーミントグリーンとピンクのミニの衣装をかわいく着こなしていた。これは、私にとって、娘役の衣装として心のナンバーワンなので、何だかとてもうれしかったのを覚えている。トップ就任作「麗しのサブリナ」でのサブリナ・ファッションの着こなしも見事だった。併演のショー「EXCITER!!」では、オープニングの銀橋でウィンクを飛ばしていて、それがまるで「秘密戦隊ゴレンジャー」のモモレンジャーが「いいわね? いくわよ!」とイヤリング爆弾を飛ばしているような、フェミニンかつ男前なかっこよさがあった。再演だった「EXCITER!!」が成功を収める上では、作品に初参加となった彼女のフレッシュな頑張りの貢献も大きかったと思う。
 「HAMLET!!」や、「EXCITER!!」の「灼熱のカルナバル」で、無心に踊っている彼女を観ていて、名ダンサートップ娘役としてならした星奈優里のような色気がふっと薫ってくる瞬間があった。純真なかわいらしさだけではなく、大人っぽい魅力も今後は期待できたら言うことなし。華奢な人ゆえ、公演終盤にかけてのスタミナ不足が気になるところだったけれども、「ファントム」ではそれも随分改善された模様。蘭蘭コンビのこれからに期待したい。
 正直、「ファントム」という作品で“心のキャラ”を選ぶことになるとは、公演が始まるまであまり予期していなかった。というのは、非常に率直に言ってしまえば、この作品には演じ甲斐のある役柄がきわめて少ない印象があったこと、そして、そのことも大きな理由の一つとして、作品自体、どちらかというと苦手だったからである(苦手であるもう一つの理由は無論、キャリエール役の設定があまりにあまりで、それを演じる役者にいろいろな面で負担がかかりすぎることである)。
 しかしながら、花組生&スタッフ一同の頑張りで、今回の舞台は実に楽しいものになった。それも、出演陣がそれぞれに個性を発揮して己の役柄を深めていったがため。そんな中で今回、“心のキャラ”に輝いたのは、愛音羽麗が役替わりで演じた、パリ・オペラ座の新支配人、アラン・ショレ!
 しかし、ここではっきり記しておくべきは、アラン・ショレを演じたもう一人、華形ひかるの演技あってこそ、その好対照として、愛音のショレの造形もまた生きたという事実である。人は単体だけで物事を受け取るよりも、対比しながらの方が思考を深めやすい。華形がきわめて正攻法で、実直な芝居心でもってこの役を造形したとしたら、愛音はかなりの搦め手、変化球でこの役に取り組んだ。あざとさスレスレのきわどいところを、巧みな芸で通し切ったわけだが、全公演通じて愛音のショレだけだったとしたら、観客の中にはううむ…と思ってしまった人もいたかもしれず。男役・華形ひかるの武器とは、実に男っぽく、ワイルドで骨太に見えて、実はその瞳の奥にある、「…いいんだな、本当に俺で、いいんだな…」とでもささやきかけてくるような弱気な光の色気であって、そのナイーヴな光にふれてしまうと思わずキュン。だから、華形はアラン・ショレのような恐妻家の役がよく似合って、「メランコリック・ジゴロ」、「愛のプレリュード」、そして今回と、恐妻家シリーズ三部作である(もしかして、恐妻家の役ではなくても、華形の魅力で恐妻家に見えてしまうのかも?)。
 愛音ショレはまず、見た目からして実にインチキきわまりない。初めて観劇した日、あまりのうさんくささに登場だけで客席から笑いが起きる始末。ナマズ髭風の髭面に、ロンドン・ミュージカル「ジェリー・スプリンガー・ザ・オペラ」でサタンを演じていたデイヴィッド・ベデッラの、愛すべきうさんくささを思わずにはいられなかった。
 愛音ショレを観るだいぶ前のこと、夫と私は、「Le Paradis!!」のタンゴの場面における壮一帆の脚線美について語り合っていて、二人とも大好きなミュージカル「シカゴ」のヴェルマ・ケリーがかっこよく似合いそう…という話をしていた。すると夫が、「それなら悪徳弁護士ビリー・フリンは愛音羽麗がいい!」と言い出して、…え、それはいったい、宝塚の舞台なの、外部なの? とおかしくなってしまったことがあった。そして先月中旬、一時帰国した夫は、愛音ショレのうさんくささを目の当たりにし、「やっぱりビリー・フリンをやってほしい!」と言い残して赴任先に帰って行ったのであった(いったい何をしに帰ってきたんだ…。笑)。
 それくらい、見た目からして実にうさんくさい愛音ショレ。美の殿堂を守らんと尽力してきた芸術家肌の前支配人、壮一帆のキャリエールと好対照である。そして、愛音ショレは、そのうさんくささの中に、意外や意外、妻であるプリマドンナ、カルロッタへの限りなく深い愛を秘めている。君はいつまでもなんてかわゆいんだ! なんたる才能の持ち主なんだ! スイートハニー! 妻ラブ! 華形ショレが妻の尻に敷かれているなら、愛音ショレは妻を平気で図に乗らせている。お姫様だっこまで披露しちゃったりして、その溺愛ぶりは正直、見ていて気恥ずかしいくらい。昔、「趣味は妻」と言って世間を震撼? させた政治家がいたけれども、そんな感じ。横暴な妻がパリ・オペラ座の皆さんに多大な迷惑をかけているのも、君のその野放図なまでの愛し方にあるのでは…? とでも苦言を呈したくなってくる。
 カルロッタの歌声をあんな雑音…と評した怪人エリックは、ヒロイン・クリスティーヌの初主演舞台の前にカルロッタがクリスティーヌに怪しげな飲み物を飲ませたことを知り、復讐のためカルロッタを殺す。観ている方としてはどうしても、エリック、クリスティーヌ側に肩入れしてしまうところがあるが、殺人は殺人、見過ごされるべきではない。最愛の妻の姿が見当たらなくなったことに愛音ショレは激しく動揺し、その死体を目にして、「妻が変わり果てた姿で…」と肩を落とす。そのあまりの憔悴ぶりに、いくらカルロッタが人として許されざることをしでかしたとはいえ、エリックが死という厳罰をもってそれに報いたのははたして正しかったのか…という疑問が生じる。クライマックスの、キャリエールによる息子エリックの射殺へと、あざやかな補助線が拓ける。
 愛音はもう一役、オペラ座の有力なパトロン、シャンパンで財を成したフィリップ・ドゥ・シャンドン伯爵を演じていて、こちらの方は、ロマンティックな貴公子ぶりに、危うく“白の男役”認定をしてしまいそうに。しかし、これはあくまで、彼女が擬態を見せる“カメレオン役者”だからなのだと思う。かつて私は「スカーレット ピンパーネル」が再演されたときのパーシー候補として、壮一帆、愛音羽麗、北翔海莉、龍真咲、明日海りおをあげたことがあるけれども(<2010年あひる心のベストテン発表!!!http://daisy.eplus2.jp/archives/201012-1.html>、今回、一作品にして貴公子とうさんくさい愛妻家をゆきかう愛音を観ていて、愛音がパーシー役を演じた場合、グラパンの扮装を脱ぎ捨て、それはいけしゃあしゃあと「私がスカーレット・ピンパーネルだ!」とパーシーに戻って出てくる箇所はさぞ大爆笑だろうな…と思ってしまった。はたして「カナリア」での愛音羽麗の覚醒はあるのか、楽しみである。
 花組公演「ファントム」において超スピード覚醒を遂げた娘役、華月由舞が、9月11日をもって宝塚を去る。
 これまで一度たりとも直接言葉を交わしたことはないけれども、私は彼女の存在を、宝塚音楽学校に入学する前から知っていた。私の母の女子大時代のとても親しい友人(ちなみに、母の父親とその方の父親も同じ会社に勤めていた親しい間柄で、それが偶然、娘同士も同じ大学で顔を合わせて親しくなったらしい)に、私より年下の、日本のとある名作児童文学シリーズに出てくる姉妹にちなんで名づけられた姉妹のお嬢さんがいて、そのお嬢さんと彼女とが知り合いだったからである。「今度知り合いに宝塚を受ける人がいて…」という話を聞いてから、もう10年以上も経ったのかと思うと本当に感慨深い。
 彼女が宝塚音楽学校に入学した2001年の暮れ、私は勤めていた出版社を辞め、フリーの物書き、演劇ライターとして出発した。その頃、私にはファンだった宝塚のスターがいて、そのスターが退団するまでは、いきなり誰かを好きではなくなるというのも無理な話だからしかたがないけれども、その人が退団した暁には、誰が好きとかそういうことは自分には一切禁じて物を書いていこうと心に決めていた。それが、取材で携わる人間としての責務だと思っていたから。「公私混同はしないように」という家で育って、「取材相手と親しくなるな」という会社で育って、自然とそう考えるようになっていたのである。ちなみに、私が人生で一番太ったのは、件のスターが退団して二年ほど、心の中の一切の“好き”を無視し、何を観ても誰を観てもとにかく客観的であろうと自分を律し続けた頃である。自分の心を殺して生きるとは恐ろしいことであって、絶対にどこかに無理がくるのだと、そのとき私は悟ったのだった。自分の中に、芸や美にまつわる確かな基準ができさえすれば、個人的な好みにとらわれず、すべてを心のままに感じて愛することができると、今の私は思う。そして、この数年、つくづく悟ったのである。自分がこうして人生を費やして追究している事柄はやはり、その向こう側で、同じように人生を費やして追究している相手としか深く語り合えないし、そうした相手としか深く語り合いたいとは思わないものなのだと。無論、それを行なう場は、私にとっては劇場でしかないのかもしれないけれども…。
 知り合いの知り合いである彼女は、2003年に宝塚歌劇団に入団して、「華月由舞」というタカラジェンヌとなった。美少女だった。しかも、名前が「由舞」で、「真由」としては親しみを感じずにはいられない。知り合いを通じてお話してみたいな…と思ったことがなかったわけではない。自分が取材に携わっている分野に知り合いの知り合いがいるのだから、話してみたいと思うのが当たり前だろう。けれども私は、それができなかった。だから、彼女のことも、ただ客席から観ているだけだった。
 彼女の宝塚最後となる「ファントム」の舞台を観ていて、…私が何かを言ったところで何になるわけでもないけれども、知り合い伝手でもいいから、一度くらい、「舞台、頑張ってくださいね」という言葉を彼女に伝えたかった…と思って、ああ、我ながら鈍くさいにもほどがあるなあ…と天を仰いで、…本当に情けなくて泣きたくなった。自分が弱くて、評論家としての基準が知り合いだとか好みだとかいった個人的な事柄に左右されるのがこわくて、この十年間、何だかとても大切なものをどこかに置き去りにしてきたような気がして…。
 けれども、華月由舞は最後の最後で覚醒を遂げて、それを見届けて、私は自分が、評論家と舞台人として彼女と向き合ってきたことは、それはそれでよかったのだ…と思えるようになった。そのことを、彼女に心から感謝している。それくらい、最近の彼女の舞台はまぶしかった。何だかちょっと近寄りがたいようなクールビューティだったけれども、オフビートなボケキャラに挑戦した昨年秋の全国ツアー「メランコリック・ジゴロ」あたりから表情がずいぶんほどけてきた。前回大劇場公演「Le Paradis!!」では、朝夏まなとと組んで踊り、高さも回転も迫力十分の超絶リフトを見せた。そのとき、朝夏の腕に包み込まれる振りでの表情が、ドキッとするほど艶っぽかった。今回の「ファントム」でも、オープニングでの、衣装が白から黒にぱっと変化するダンスシーンで、きりっとした妖艶な表情と背中を披露。フィナーレのダンスシーンで浮かべる顔中に広がる笑顔はキュートな限り。
 「ファントム」で彼女が演じているのはフローラ。パリ・オペラ座の団員である。第1幕第5場、ヒロイン・クリスティーヌ(蘭乃はな)が初めてオペラ座に足を踏み入れるシーンで、「(オペラ座の有力なパトロンである)シャンドン伯爵に言われてここに来たの?」と彼女が声をかけるのだけれども、ここが今回の“心の名場面”である。“かしまし娘”みたいに三人組で出てくるフローレンス(梅咲衣舞)、フルール(月野姫花)と一緒に、クリスティーヌに、胸のロケットに入ったシャンドン伯爵の肖像画を次々と見せる、三人のそのセリフのテンポの間合いがとても軽快。そこに、団員の中ではスター的、大人っぽいあでやかさが魅力のお姉様的存在のソレリ(華耀きらり)と、ファントムが見えてしまうメグ(仙名彩世)も加わって、誰がシャンドン伯爵と一番親しいか喧々諤々、かしましくもかわゆいことこの上ない。ソレリ役の華耀が、シャンドン伯爵が一番気に入っている私は、その後押しでもっと上に行くのよ〜という野心ではなく、彼に対する恋愛感情や憧れの念を前面に押し出している印象なので、ここでみんなが張り合っているのが、シャンドン伯爵の素敵な貴公子ぶりを強調する感じになっている。やいのやいの言っているうち、楽屋番のジャン・クロード(夏美よう)に「早くお帰り」なんて追い出されてしまうのだけれども、パリ・オペラ座ならぬ宝塚の舞台裏もこんな感じなのかな…なんて、楽しい想像をしてしまう。
 最近になって私は、宝塚歌劇団の創設者、小林一三の「アーニイ・パイルの前に立ちて」という文章の中で、彼がパリ・オペラ座に足を踏み入れた晩の日記の一部が引用されているのを読んだ(http://www.aozora.gr.jp/cards/001256/files/46657_29245.html「帝劇に夢見た私の計画」)。第1幕第3場、夜のために着替えをしてオペラ座へ出かけよう〜と、団員たちや初日の客、クリスティーヌ、エリックが歌うシーンは、出演者自らの、宝塚歌劇の舞台への真摯な想いが伝わってくる華やかな場面だが、もし今一三氏が生きていてこの場面を見届けたなら、かつて自らが足を踏み入れ、興奮を味わったパリ・オペラ座での夜と比べて、いったいどのような感慨を覚えたことだろう…と思わずにはいられなかった。その場面で、かつてこんな風に胸弾ませて宝塚の劇場にやって来ていた私が、今、その舞台に立っていて、本当に幸せな思いのまま、退団してゆくことができる…と華月が歌っていて、…じーんとしてしまった。
 クールビューティも素敵だけれども、顔いっぱいに笑みを浮かべている美少女もまた、素敵なものである。「メランコリック・ジゴロ」での彼女のセリフを借りるならば、これからの日々も、その笑顔いっぱいで進んでゆけばきっと、「カンペキ、カンペキ、カ〜ンペキ」。幸せな人生を!
 「ファントム」でプリマドンナ、カルロッタを演じている桜一花が実に素晴らしい。宝塚歌劇に年度最優秀助演女優賞があったなら、間違いなく最有力候補の一人である(しかし今年は、「黒い瞳」の晴華みどり、「アルジェの男」の花陽みらがいて、大激戦!)。
 カルロッタは金の力で文化大臣を買収し、パリ・オペラ座に乗り込んでくる。支配人の首を挿げ替えて夫をその地位に就かせ、自らはプリマドンナとして劇場に君臨する腹づもりである。カルロッタは、「この場所は私のもの」なるナンバーで、次のように高らかに歌い上げる。

「すべてのオペラで主役を演じ 物語を書き換える
神のように 女王のように 好きな場面で歌うのよ
他の役の人が 少しでも目立つことは
この私が許さないわ 絶対!

私のためだけに 地球を回らせるの
衣装もセットも照明も拍手も 私のものよ
あらゆる栄光独り占めして 大喝采浴びるのよ」

 この大ナンバーを歌う桜カルロッタだが、実に楽しげ、ときにほとんど恍惚状態…! 聴いていて思う。そりゃ楽しいに決まってる! いつもいつも、他の人々を大勢、脇役、引き立て役と従えて、自分だけが目立つ衣装を着て、主役を張り続ける人生。それも、最高に華やかでゴージャスな劇場で。
 カルロッタまで度を過ぎないまでにしても、こういう人っているよなあ…と思ったものである。私が思い出すのは、日本ではなく、あるアジアの国での話である。数年前、私と母が大好きだったとあるロンドン・ミュージカルで主役を張っていた男優が、そのアジア某国初となる本格的ミュージカルに主演するというので、その国まで母と一緒に観に行ったことがある。彼は、その国の血が混じっているハーフだったこともあって、乞われて出演を決めたのだった。そのエキゾティックな容姿ゆえ、最初の主演作にはフィットしていたけれども、ウエストエンドではなかなか配役的に苦労するところがあったようで、新天地が拓けたのだったら素晴らしいなと、応援の気持ちで観に行ったのだ。物語は、その国の英雄伝説を基にした、ラブロマンスありの冒険活劇で、最初の主演作でマッチョな魅力を発揮した彼にぴったりだった。
 しかし。舞台が始まってびっくり。彼の恋のお相手、ヒロインが、出てきたかと思いきや、三曲立て続けに己のビッグ・ナンバーを披露! その後も何かというとその人にばかりスポットライトが当たって、ロンドンからはるばる飛んできた彼は、ヒーローだというのに何とはなしに十把一絡げに毛の生えた程度の扱い。…女帝? 女帝なの? 客席で動揺といささかの笑いを隠せない母と私。何と彼女は、ヒロインにしてプロデューサーにして、その国の大臣の妻だった…! つまりは、彼女の存在なくして、その作品の上演はありえなかったというわけである。確かに綺麗な人だった。しかしながら、カルロッタの先のナンバーにも「いつもよりもさらに綺麗で 年齢は少しごまかして」とあるけれども、彼女も、その男優より十は歳が行っていたような…。そして、歌も踊りも演技も頑張っていたけれども、ロンドンからはるばるやって来た男優より勝っていたかと問われれば…。最初に観劇した晩は何かの貸切公演で、本来ならば一般でチケットを買えないところ、メールのやりとりをしていた主催会社の方が、遠いところからわざわざ飛んできてくれたのだから…と、好意で母と私を空いている席に座らせてくれた。その空いている席というのがなぜか最前列のセンターで、初めて来たばかりの国でこんな親切にふれることができるなんて! と、それは幸せな気持ちでロンドンから来た彼を見つめる私たち親子に、「…どうしてあなたたち二人は私のことを見ないの…!」とでも言いたげな目線をカーテンコールで浴びせる“女帝”…。
 パリ・オペラ座の“女帝”たらんとするカルロッタに扮した桜の演技が素晴らしいのは、無論、まっとうな、その場に立つ実力なくしてセンターに立ち、スポットライトを浴びることの虚しさを、彼女自身が舞台人として存分に理解しているからである。その理解を、歌に演技に踊り、彼女の実力が確かに支えている。芸ではないものによってそのポジションを得ようとした者の悲哀を、芸の力で表現しきる逆説がここにはある。人の心はお金では買えない。たとえ、衣装の豪華さ、照明のまばゆさにいっとき目を奪われたとしても、生涯を通じて心に残るものは、真心から発露した何かだけである。
 今回の桜カルロッタの演技がもう一点秀逸なのは、この役柄を、ヒロイン・クリスティーヌとの対比において、“美に見放された存在なのに美を表現する場所に執着する者”として演じるのではなく、“彼女は彼女として美を体現すべく日々それは頑張ってはいるのだけれども、その努力が足りず、また、美意識のいささかのずれゆえに、その努力の方向性もどこかおかしい者”として演じているからである。“天使の声”と描写される可憐な歌声の美少女に対し、ドスの効いたおばさんとしてこれを演じるのは、もっともたやすい選択ではある。吊り上がった眉毛のメイクは確かにインパクト大で、彼女の美意識のおかしさをうかがわせるけれども、桜カルロッタにはプリマドンナにふさわしい美しさが十分にある。ということは、桜が演じた場合、カルロッタの悲劇とは、選ばれし“声”がないにもかかわらずプリマドンナを張ろうとした肥大した自意識に起因するものとなる。怪人エリックの父、キャリエール役の壮一帆が、その役柄の造形を通じて物語全体に徹底して“美”を通底させたことにより、今回の「ファントム」の物語は、それでははたして“美”を選び取るのか否か――という最終テーゼにおいて、例えばアンドリュー・ロイド=ウェバー版の「オペラ座の怪人」と比べてよりオープン・エンディングであることが強調されている(アンドリュー・ロイド=ウェバー版ははっきりと“美”を選び取らない作品である)。その方向性を支える上でも、コミカルな中にもなお美が担保された桜カルロッタの造形はきわめてふさわしい。
 人は誰しも己の人生の主役を生きている。しかし、そうして己の人生の主役を生きる上で、同様に人生の主役を生きている他者を自分の人生の“脇役”として扱ったり、自らの人生を他者の人生の“脇役”として扱ったりすることは、決して許される所業ではないのである。だいたいが、後に痛烈なしっぺ返しを食らうことになる。無論、さまざまなシチュエーション、場面場面において、センターを張るべき人、主役となるべき人は当然存在する。それでも、他者の人生を含めて成り立つ複雑不可思議なこの世界で、人生の最初の瞬間から最後の瞬間までずっと真ん中に居続けるということは、主役が最初から最後まで出ずっぱりの舞台がときにまったくおもしろくないように、ありえないのである。主役を演じる場面、支えに回る場面と、時と場合に応じて、自分という役の臨機応変な“演じ方”、もとい、生き方を選択することが大切なのだと思う。
 どちらかというと小柄で、しかも芸達者ゆえ、昨年の春には子役、そして今年の春にはおばあちゃん役を担当するという役の振り幅を誇る桜だが、カルロッタ役を演じて実に大きく見える。プリマドンナ役に似つかわしい、堂々たる存在感、迫力である。前回大劇場公演「Le Paradis!!」でも、オープンカフェの場面で、長身の壮一帆相手に披露する踊りがぱあっと大きいなあ…と見惚れたものである。キュートな役柄の印象が強かったけれども、今回のような大人の女性を演じても、コケティッシュな姐御肌の魅力がある。もっともっといろいろな役で観てみたい人である。
 子供の頃から父親が大好きだった。それを言い出したら、私は母親も弟も大好きだから、ファザコン、マザコン、ブラコンのファミコンということになるかもしれないけれども。とにかく父が憧れで、幼稚園児くらいのときから、お父さんはすごいんだ!、お父さんと同じ大学に行く! と思い込んでいた。その夢は後に、父と同じ職業に就きたい…というものへとふくらんでいった。父に「お父さんと同じ大学に行って、同じ職業に就きなさい」と言われたことは一度もない。ただただ自分の憧れ、思い込み。ミュージカル「エリザベート」に「パパみたいになりたい」というナンバーがあるけれども、あれを地で行く少女だったのである。
 同じ大学には行ったけれども、同じ職業に就く夢は叶わなかった。その職業にたとえ就けていたとしても、そもそもが適性がなくて、本当にすぐに辞めていたと思うけれども……。今でも思い出す。自分のいたところを受けに行っても、お父さんの名前は絶対に出すんじゃないと父に固く釘を刺されたことを。しかし私には「お父さんと同じところに勤めたい」という気持ちしかなかったので、そう言われてしまったら面接官に告げる志望動機がなくて、困り果ててしまったのだった。本当にアホである。面接マニュアルを馬鹿にする人もいるけれども、当時の私は一冊手にとって、「そうか! 他にどの会社を受けていて、第一志望はどこですって言っちゃいけなかったのか!」と目から鱗が落ちるような、何でも正直に言うことが正しいと信じていた大アホ少女だったのである。大学を出たってこんなものである(はは、情けなさすぎ)。
 父と同じ職業には就けなかった。それが私の人生の最初の大きな挫折だとしたら、何とかもぐりこんだ出版社を辞めるに至ったきっかけが二度目の大きな挫折である。大学を卒業して就職するとき、アホ女子として非常に苦労して、自分にはもうこの世に居場所がないのではないか…とまで思ったのが、入った出版社で、最初の数年はそれは楽しく働いていた。それが、ここにも自分の居場所はないのかもしれない…と思いつめて、“トート=死”の声を聴いたのはそんなときである。人は、自分を肯定し、受け入れてくれたと思ったものから拒絶されたとき、さらに深い痛みと絶望とを味わう。この二度目の挫折こそが、私に現在に至るまでの道を選ばせた要因に他ならないのだが、ここ数年、書かなくては…と思いつ書けないでいたその話は、近々、ようやっと書けることになるだろうと思う。
 父と同じ職業には就けず、そして、父が自分に理想として思い描いているように思える“妻”、男に伍してバリバリ働きつつ毎朝味噌汁を作るかわいい奥さんにもなれたわけではない。そちらの方もどう考えても適性がないような…。自分は自分として心のままに生きるしかない、やっとそうふっきれたのはここ数年のことである。それでもどこか、私は父の理想の娘にはなれなかった、そんな思いを抱えている自分がいて…。
「それって、娘じゃなく息子に生まれたかった…ってことじゃないの?」
 ある日、「ファントム」のラスト近く、息子である怪人エリックに自分が父親であると告げ、親子が赦しと和解に至る「You Are My Own」のナンバーを銀橋上で歌う、キャリエール役の壮一帆の演技にそう問いかけられた。心を衝かれて息が止まりそうだった。その日に至るまで自分にはまったくもってその発想はなかった。けれども、言われてみればそうかもしれない…と、素直に思えた。女性が男性を演じる宝塚歌劇の男役という職業を選んだ彼女もまた、女ではなく男、娘ではなく息子に生まれたかった…と考えた日があったのかもしれない、そう思った――。
 しかしながら、ここで一つはっきりと反論しておきたいことがある。昨年私はとあるところで、大変不快な文章を目にした。それは、リヒャルト・シュトラウスのオペラ作品におけるズボン役、男性する女性歌手の役柄と、宝塚歌劇の男役とを並べて論じようとするものだったが、まったくもってこの魅惑の論点に迫りきれていないばかりか、筆者は少なくとも最近の宝塚の舞台を観ていないことは明白であり、そのため、他の人物がこれを観て嫌悪感を催したという感想をどこからか引いてきてお茶を濁していた。しかも、女性客が宝塚を観て男役なる存在に憧れるのは、自分が女として生まれ、男にはなれなかったという思いを抱えているから云々…。リヒャルト・シュトラウス作品及び宝塚歌劇を愛する者として、憤懣やるかたないとはこのことである! 人はそのような理由で宝塚歌劇の男役に憧れるものではないし、リヒャルト・シュトラウスも決してそのような理由で自らのオペラ作品にズボン役を登場させたわけではあるまい。最近、舞台上の壮一帆の上にリヒャルト・シュトラウス先生が出てきて言うことには、「オクタヴィアンと力を合わせ、この世の謎を解き明かしなさい。シェイクスピア、モーツァルト、ベートーヴェン。偉大な芸術家たちはその作品の中に、男装する女性を登場させてきた。それは、性が男と女の二つに分かれていること、そのこと自体がこの世の一つの謎だと、彼らが考えていたからとは思わないかね」と。その言葉を聴きながら、私は、「ヴェニスの商人」のポーシャ、「フィガロの結婚」のケルビーノ、「フィデリオ」のフィデリオことレオノーレ…と思い出しながら、その性とはまた、二つと分かれた男、女、そのそれぞれの中でまた、男性性と女性性、その二つに分かたれることの神秘に思いを馳せていたのである。宝塚歌劇の男役、そしてそれに相対する娘役とは、女性の中のその男性性/女性性の発露の可能性を極限まで試し、追究することのできる、世界的にも稀な芸術的存在なのだと思う。
 芸術上の反駁が長くなってしまった。とにかく私は、「息子に生まれたかった…ってことじゃないの?」と、キャリエール役の壮一帆に問われて、…人生で初めて、自分のそんな秘めたる思いに気づかされて、本当にびっくりしてしまった。いろいろ思うことは無論、あるのだけれども、基本的には、今生、女として生まれてきて幸せだとずっと思ってきていて、男に生まれたいとは一度も思ったことがなかったから。
 それで私は初めて気づいたのである。自分が父と同じ男に生まれてこなかったことを、どこか父に申し訳なく思っていた自分がいたことを。男に生まれていれば、本当にお父さんみたいになれていたかもしれないのに、自分は女に生まれたから、そうはなれない。無論、男に生まれていれば、父との関係性においてそれはそれでまたいろいろあったと思うけれども、申し訳なく思ってもしかたのないそんなことを、自分はずっと申し訳なく思っていたのだ…と。
 思い出す光景がある。弟がすでに生まれていた頃だったと思うから、私がそれこそ三つくらいのときだっただろうか。父と二人、吉祥寺の井の頭公園に行ったことがある。確か遊園地のあたりで風船を買ってもらったのを、鈍くさい私はすぐに手放してしまって…。非情にも舞い上がっていく風船と、「あ、飛んでっちゃったのか」と私に言う父の困った表情と声音を、今でもはっきり覚えている。
 ――私はずっと、父に謝りたかったのだ。あの日、風船を手放してしまったこと。息子には生まれてこなかったこと。自分が勝手に想像して作り上げた、半ば幻想の“父の理想の娘”にはなれなかったこと。それがわかって、けれども、いまさら、お父さん、ごめんなさい、…と父に直接言うわけにも無論、いかなくて、私は、壮キャリエールの、聴く者誰しもの心をも包み込むようにあたたかな歌声に、ただただ優しく頭をなでられるような思いで、…お父さあん…と、客席で幼子のように泣いていたのである…。
 私は父の“理想”にはなれなくて、父も何も完璧な人間というわけではなくて、それでも私は父をとても深く愛していて、そして父も私を深く愛していて、それでいいのである。
 ちなみに私の父は声がとってもいい。発表会か何かでボーイソプラノを披露したこともあるそうだし、私が子供の頃も、「Take Me Home, Country Roads(カントリー・ロード)」や「Bridge over Troubled Water(明日に架ける橋)」といった英語の歌を、自宅のカラオケセットで歌っていた。今でも七十歳過ぎとは思えない、若々しいテノール系の美声で、とりわけ絶品なのが電話の声である。もっとも父は極度の電話嫌いなので、かけてもすぐに切られてしまうのだけれども…。先日、いつもは仲がとってもいい母と電話していて、本当にちょっとしたことで口論になってしまったとき(その後すぐに仲直りしましたが)、見るに見かねた父が代わりに電話口に出てきて、早く切ろう、早く切ろうとするのを、いい加減いい歳した娘だけれども、こんなときとばかりに甘えちゃえ…と、「お父さん、ちゃんと私の話を聞いて!」と言い続けて通話を長引かせて、…不肖の娘は、電話口の向こうの父の声を、…やっぱりいい声だなあ…と、うっとり聴いていたのだった。
 「ファントム」第二幕第五場で、パリ・オペラ座に棲む“怪人”エリックは、ヒロイン・クリスティーヌを自分の“領地”に連れてゆく。前場で彼は、クリスティーヌの初主演舞台において彼女に怪しげな飲み物を飲ませ、声をつぶしたオペラ座のプリマドンナ、カルロッタを殺害している。
 エリックの“領地”とは、彼がオペラ座の地下深くにあつらえた“森”である。日の差さない荒地であったその場所を明るい森として整備したと彼は語るのだが、彼の後ろにあるのはどう見ても森のドロップである。つまりそこは、劇場の中に作られた“幻想の森”に過ぎない。ここで彼は、自分の代弁者であるというウィリアム・ブレイクの、「母は僕を南の荒野で産んでくれた」で始まる詩「黒人の少年」の一節をクリスティーヌに朗読させる。
 劇場の中に作られた“幻想の森”。それは、舞台上に生きる人々、そして客席に座る我々にとっても、あまりにおなじみの光景である。舞台上に設置されたものは、極言すればすべてが“まがいもの”である。例えば、ロココの時代を描こうとして、実際にその時代に使われていた“本物”の家具や小物を舞台上に持ち込んだとて、流れている時間が違う、つまり、今現在は21世紀なのであるから、本物のロココの時代がそこに出現するということにはならないだろう。
 すべてはまやかし、まがいもの。それでも人が、劇場空間で、舞台上で展開される世界に心惹かれ、心動かし、泣き、笑い、ときには実人生すら変わってしまうような経験をしてしまうのはなぜだろう。
 あるいは、騙されているだけなのかもしれない。騙されやすい、夢見がちな人間が、劇場や映画館といった、虚構を現出させる装置に心惹かれ、集まってしまうのかもしれない。少女の頃に大好きだったウディ・アレンの映画「カイロの紫のバラ」を思い出す。冴えない生活を送るヒロインは足しげく映画館に通っているのだが、上映中の映画「カイロの紫のバラ」のスクリーンから飛び出してきた登場人物と恋に落ちる。そこへ、騒動を収めるため、その登場人物を演じている俳優がやってきて、やはりヒロインと恋に落ちる。同じ顔をした、けれども異なる、現実と虚構の二人と三角関係に落ちて、ヒロインは現実、つまりは登場人物ではなく俳優の方を選ぶ。登場人物はスクリーンに戻ってゆき、俳優も結局は彼女を捨て、それでも彼女は懲りずに映画館に通ってスクリーンに見入り、微笑む。映画好きの母親が「何だか身につまされる話…」と言っていたのだけれども、その言葉の意味は私に年々重みを増して私に迫ってくる。劇場とは、騙し、騙されるだけの場所。そう割り切ってしまえたら、どんなに楽なことだろう――と思う。そう割り切れる舞台人も、観客も、嫌味ではなく、心の底からうらやましくてならない。劇場という場で、真実を、真理を、美を追究したいとなぜか願ってしまった者だけが、そこに七転八倒し続ける人生を選ぶ。
 すべてはまやかし、まがいもの。それでもなお、劇場という場に、そこに集いし者を震わせる本物があるとしたら、それは、心だけである。演じる者の心。見守る者の心。互いから真心を引き出すのはただ、真心のみ。真心が劇場空間を満たし、その空気を動かすとき、まやかし、まがいものだったすべては、真実へとあざやかなまでに反転する。
 だから私は聞きたいのである。あなたの心は本物ですか、と――。

 幻想の森でクリスティーヌは、怪人エリックに、仮面を取って顔を見せてくれるよう頼む。彼女はエリックの父親であるキャリエールから、エリックの産みの親であるベラドーヴァが彼の顔を美しいと心から思っていたことを聞かされている。お母様があなたの顔を見て微笑んだような愛が、自分にもある、だから顔を見せてほしい――とクリスティーヌは願って歌う。心動かされ、エリックは仮面を取る。驚き、悲鳴と共に逃げ去るクリスティーヌ。絶望の悲嘆を叫ぶエリック。刹那、森のドロップは落ち、オペラ座の地下の闇が露になる――。
 海外の地図などを見ていると、劇場の場所は仮面の印で示されていることが多い。仮面は劇場の象徴である。そして、劇場で仮面をつけている者とは、自分自身ではない何かの役柄を演じている役者であるのは言うまでもない。ここに、役者と観客との関係を示す、あまりに痛烈に心抉るアナロジーが成立してしまう。仮面をつけて観客を魅了していた役者が、その仮面を外したとき、観客はいかなる反応を示すのか。この物語のクリスティーヌのように、悲鳴を上げて逃げ去るのか、それともそこに踏み止まって微笑むのか――。
 昨年来日した国立モスクワ音楽劇場バレエが上演した「エスメラルダ」は、ヴィクトル・ユーゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ」を基にした作品だが、作中、鐘つき男カジモドの顔を見て逃げ出すヒロイン・エスメラルダの姿を見ていて、思ったものである。人の顔を見て醜いと思う、それは容姿に対するあからさまな差別である。では、人の心を見て醜いと思う、それは差別には当たらないのか。あるいは逃げ出したくなるような心の持ち主でも、人は踏み止まって微笑むべきなのか――。
 私は、今回の「ファントム」で、難役キャリエールを見事に共感誘う人間像に創り上げてしまった壮一帆の演技を見て、自らへのこの問いかけは、そもそもが成立するものではなかったことを悟ったのである。人は誰しも内なる美を秘めている。だから、心の醜い人間など、究極的には存在するはずがないのだと。そのとき、たまたま醜いところが現出してしまっただけなのだと。向き合った者の愛によって、その醜さを美しさで置き換えてゆくことができるはずなのだと――。
 私がクリスティーヌならば、仮面を取ったエリックの姿を見て叫んで逃げることはないだろう。そもそも私は、一度も逃げる気などなかった。そこに真心を、美を認める限り、向き合った者の心の美しさをただ信じた。私という“鏡”に映った己の姿を見て自ら逃げ出した者が、あるいはいたかもしれないけれども――。
 だからやはり、私は聞きたいのである。あなたの心は本物ですか、と――。
 宝塚花組公演「ファントム」が面白い。美、芸術について考える上で、実に奥深く示唆に富む。いったんそう思ってしまうと、「いったいどこまで面白くなっていくんだろう…」と、物も言わずにただただ見入って考えに耽ってしまう癖が、私にはある。あと一週間で千秋楽、そろそろ考えをまとめる時期に入ってきてしまっているのが、何だかさみしくてならない。
 「ファントム」はガストン・ルルーの「オペラ座の怪人」を基にしたアメリカン・ミュージカルであるが、ユニークな切り口によってこの美しくも妖しい作品を料理している。パリ・オペラ座の“ファントム”の父親たる存在を登場させたことで、この作品は、劇場に棲みつく怪人、幻想とはそもそも何の象徴であるのか、観る者により一層問わずにはおかないところがある。そもそも人はなぜ、劇場に怪人が棲みついているなどという「オペラ座の怪人」の物語にこんなにも心惹かれ、数多のバージョンを創り、それを楽しむということを、かくも長きにわたって続けてきたのか――。
 いたずらに複雑に思考を走らせる前に、物事は万事、いったんシンプルな出発点に戻して考えた方がいい場合がある。例えば私はかねてから、「白鳥の湖」という美しく幻想的な物語の出発点とは、次のようなシンプルなところにあると考えてきた。
「湖のほとりに、白鳥とも乙女ともつかぬものがたたずんでいて、それがあまりに美しく見えた――」
 無論、白鳥と乙女とを見間違えてしまうのだから、こう見えてしまう人間は一種の極限状態にあるとしか言いようがないが、“美”に対峙した人間の心理状態とはえてしてそのようなものである。「白鳥の湖」にはここではこれ以上深入りしないで、「オペラ座の怪人」及び「ファントム」の話に戻したい。私にとって、この物語のそもそもの出発点とはこうである。
「劇場という場所にはどこか、怪人や霊、幻影が棲みついているように思える――」
 霊的存在を信じるか否かは無論、人それぞれの心に委ねられているものではある。だがしかし、「霊なんて信じない」と思う方も、「霊的存在を信じる人もこの世にはいるのだ…」くらいの気持ちがないと、「ファントム」や、“トート=死”が登場する「エリザベート」といったような作品はそもそも楽しむことはできないだろう。「美の殿堂を統べるのはただ、美のみ。闘え。闘うのだ。美の殿堂を守る聖なる魂を降ろし、味方につけて。ただ、清らかなる魂しか、聖なる魂を降ろすことはできない」とのリヒャルト・シュトラウスの声を聴いた身としては、――というか、劇場空間においてそもそもリヒャルト・シュトラウスの姿を見、声を聴く者としては――、私は当然のように、劇場に棲みつく精霊の存在を信じるものである(初出は2011年7月15日<美の殿堂を守りきれ!〜NHK交響楽団第1700回定期公演Aプログラム リヒャルト・シュトラウス/交響詩「英雄の生涯」>http://daisy.eplus2.jp/article/215026774.html)。劇場における精霊、また、劇場空間をときとして支配する不思議な力について、偉大な芸術家がどのように考えていたか、そしてその事実を現代の優れた演出家がどのように解釈しているかについて、最近で一番示唆に富んでいたのは、鬼才ジュリー・テイモアが監督し映画化した、ウィリアム・シェイクスピア原作「テンペスト」であるが、この作品についてもここではこれ以上ふれない。
 そして、今回の「ファントム」で私の思考をとらえたのは、「劇場における“ファントム”の正体」なるテーマばかりではない。“ファントム”、幻想とは、何も劇場のみならず、人の心にもまた根強くひそむものでもある。また、そもそも、ファントムのように劇場で仮面をつけている存在とは、役を演じて仮面をつける“役者”のアナロジーなのではないか――という論点も生じる。劇場の立つ地、劇場建築における“地霊(ゲニウス・ロキ)”についても考えざるを得ない(“地霊”なる概念について私の目を拓いてくれたのは、もう十年以上も前に最初に手にした、建築史家・鈴木博之の「東京の[地霊]」、「日本の<地霊>」の二冊である)。また、劇場の地下に棲むファントムがヒロイン・クリスティーヌに歌のレッスンを施す際に歌われる「You Are Music」のあまりの官能性、エロティシズムにふれて、人間の内にひそむ“音楽なる官能”についても考えることとなった。
 今回の「ファントム」がこれほどまでに多様な示唆に富む作品たりえたのは、出演の花組一同及びスタッフの、三度目の上演にあたって前二作より少しでも進化した舞台を創造したいという意欲、奮起があってのことである。なかでも、オペラ座の歌姫との道ならぬ恋に溺れ、不義の子“ファントム”を為した父親、オペラ座前支配人ジェラルド・キャリエールを演じた壮一帆の演技は、前段落で挙げた論点を発見する上で、創造の泉から水が湧き出すようなインスピレーションを私に与えてくれた。“ファントム”=幻影を生み出す人の心の弱さ、それに打ち克とうとする愛の強さ、人間存在にひそむ官能、そして、役者なる不思議の存在について、彼女ほど大いなる霊感を示してくれる人物を、今の私は他に知らない。壮一帆の演技は、「ファントム」なる作品の構造と、キャリエールという人物像を、根本から変えてしまったのである。
 金縛りショックが続いたまま「高円寺阿波踊り」に行ったら人酔いしてぐったりしまったので、取り急ぎ。フィリップ・ドゥ・シャンドン伯爵役を演じる姿で最終確認。
 朝夏まなとは“白”の男役!
 白&淡い色の衣装を着るとさらに引き立つそのオーラ。まばゆし! 今年に入ってもっとも伸びた一人であること間違いなし。上背&長い手足をもっとフルに生かして、男役の仕草でも魅了できるようになるとなお良し。
 最近、こうやって“白”と感じるのはもしかして、“共感覚”といわれる現象なのかな…と思わないでもなく。文字や音、数に色が見えることはないのだけれども、“ミラータッチ共感覚”(二方向あるうち、他者が対象者にふれられているのを見て、自分がふれられているのと同じ感覚が生ずる方)はたまに起こるような…。ちなみに、この作家はもしかして人に色を感じる共感覚の持ち主なのかな…と、“ブルー”、“ブラック”、“ホワイト”等々、色名で呼ばれる人物ばかりが登場する、ポール・オースター原作の舞台「幽霊たち」を6月に観て思った次第。個人的に非常に不思議な出来事があったこの舞台についてもまた詳しく。
 宝塚大劇場で花組公演「ファントム」を観劇したとき、「あれ、もしかしてヴィジョン出せるようになってきたのかな?」と思った娘役がいた。それが、東京公演の幕が開いて一週間足らずであっという間に覚醒してしまった! パリ・オペラ座の舞台を華やかに彩る“かしまし娘”の一人、華月由舞がその人物。自身が宝塚歌劇の舞台に立つ喜びを、役柄がオペラ座の舞台に立つ喜びに重ね合わせて、壮絶オーラでチャーミングに熱演中。シャープ&セクシーな踊りと共に見せる表情もとっても蠱惑的。今公演で退団とは本当にさみしい限りだけれども、9月11日の千秋楽まで素敵な舞台姿を見守り続ける次第。
 それではここで花組の現在の覚醒状況を発表〜。超覚醒して美の道驀進中の壮一帆の他に、覚醒リーチが三名。そのうち一番覚醒に近いのは愛音羽麗。想念のヴィジョンが出ているのは他に六名。そのうち一人が“白の男役”認定間近で、新人公演学年ではトップ娘役の蘭乃はなともう一人。今公演中にはたして何が起こるか、楽しみ!