藤本真由オフィシャルブログ

 にしき愛がいなかったら、今ではおなじみとなった“心のキャラ”なる部門は生まれていなかった。2008年春の星組公演「赤と黒」でにしきが演じたヴァルノ氏こそ、初代“心のキャラ”に他ならない(http://daisy.eplus2.jp/article/93270845.html)。
 にしき愛がいなかったら、宝塚歌劇の作品における悪役の描き方、演じ方について、考察を深めることはできなかった。一時期の彼女は、何だか悪役ばかり回ってきていた――。“清く正しく美しく”を是とする場所で、一般的に“清く正しく美しく”ないとされる役割ばかりを演じることの苦悩を思う。それはひいては、例えばアメリカにおいて、かつての敵国はソ連で、今の敵はイスラム圏と擬するような、非常に単純で幼稚な正義観についても考えさせずにはおかない。多くの人が、自分は善だ、正義だと思い込み、気分をよくする一方で、常に“悪”の役割を背負わされる人々がいる。かつて「にしき愛問題」として考察した次第である(http://daisy.eplus2.jp/article/117374810.html)。
 にしき愛がいなかったら、フランス革命における重要人物の一人であるロベスピエールについて、こんなにも考えることはなかった。ブロードウェイ・ミュージカル「スカーレット ピンパーネル」の星組による日本初演の成功を支えた立役者の一人が、ロベスピエールの魂を降臨させるような名演を披露したにしきであったことは言を俟たない(http://daisy.eplus2.jp/article/107198247.html)。続く全国ツアー「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」では今度は、若き日の理想に燃えるロベスピエールを熱演(http://daisy.eplus2.jp/article/110815320.html。この二作品以来、“ロベスピエール”の名をどこで目にしても、胸元に白いレースをつけ、バルコニーに立つにしきの姿を思い出さずにはいられない。

 昨年の「太王四神記 Ver.U」の“心の名場面”は、紅ゆずる扮するチュムチと壱城あずさ扮するセドルの“どっちもどっちの田舎者対決”のシーンなのだけれども、にしきが演じたフッケ将軍と、その壱城セドルとは、訛り具合で純朴さとかわいらしさをいい感じに醸し出していて、ああ、この親にしてこの子ありだな…と思ってしまう“心の親子”なのだった。秋の「コインブラ物語」では、主演の轟悠の父親役、ドン・アルフォンゾを演じ、「かぼちゃみたいな袖の服があんなに似合う人が現実にいるなんて!」と取材陣の間でも大好評の美しい王様ぶりを見せた。今年の「ハプスブルクの宝剣」でも、堂々とした立ち姿が実に印象的だった皇帝カール六世役。悪役を振られることの多かった彼女が、宝塚生活の終わりに、王という、内面に堂々としたところがないと決して体現することができない役柄を得意とする男役となったことを、幸せに思う。退団公演となった「宝塚花の踊り絵巻」では、「さくら」以来、久しぶりに、日本物作品でのりりしく美しい姿を観ることができた。「愛と青春の旅だち」の、似合いの淡い色のスーツで銀橋を渡る、その舞台姿の大きさが忘れられない。

 彼女が二度目のロベスピエールを演じた全国ツアーのある日、私は、客席に座った後で気分が悪くなり、「…まずい、これは最後まで身体がもたないかもしれない…」と思ったことがある。スケジュールの無理を押してでも観劇しようとした己の判断の愚かさにうなだれそうになりながら、ショーで颯爽と踊るにしきの男役姿に目を奪われ、一心に見つめていたら…、まあ、何ということでしょう、すっかり気分爽快に! 宝塚&男役一筋に生きてきた人の舞台は癒しパワーが凄いなあと感服したものである。
 彼女については、悪役のイメージが何だか強かったから、最初のうちは、正直なところ、ちょっとだけこわい気持ちがなくもなかった。けれども、先入観にとらわれることなく舞台を観ることができるようになって、気づいた。白の正統派男役とは、何もトップ候補たちの中ばかりにいるのではない。なぜなら、にしき愛もまた、白の正統派男役だったから――。
 宝塚の出演者に取材するとなっても、舞台を支え、脇をしっかり固める演者の取材はほとんどない。彼女たちが、役柄を、宝塚をどう考え、舞台に立っているか、聞くことのできる機会はほとんどない。例えば、もし、このあひるブログでそのような取材ができるとしたら、真っ先に話を聞きたかったのがにしき愛だった。私は今、激しい後悔の念に苛まれている。2008年の新年互礼会で彼女に話しかけて、宝塚について、男役について、聞いてみればよかったのに――! 取材や会見以外の場ではいつもドキドキして固まりかけるあひるがいる。
 大切なことを舞台からたくさん教えてくれて、今日まで、本当に、本当にありがとう。星組男役・にしき愛は、永遠に、あひるの心の中の美しい宝塚の一部です――。
 “みっちゃん”とは、宝塚宙組・北翔海莉の愛称である。ここでは敢えて“みっちゃん”と呼ばせていただくことにする。

 ごくたまにいる。舞台上で発するものがあまりに薄っぺらくて、どうにも困ってしまう人が。何の因果か、そういう人がメインどころを張っていたりしたりすると、もう、苦痛である。いったいいつも、どういうことを考えて、あるいは、考えないで生きていると、こういう舞台になるのだろうかと、逆に驚嘆してしまう。
 こういう役者に出くわすと、あひるは、ウルトラマンのカラータイマーの限界、約3分より早く、マッハのスピードで飽きてしまう。観るべきものがない舞台で、いったい何を観ろと言うのか。客席で時間を持てあまし、そして、決まって思うことがある。
 みっちゃんを見習え。
 みっちゃんは、フェンシングだのフラメンコだの、数え切れないくらいのお稽古事をした経験があるそうな。「宝塚おとめ」によれば、趣味は「挑戦」、集めているものは「津軽塗、漆器」。漬物も漬けるのがうまいらしい。好きな役者は藤山直美で、瀬川瑛子のディナーショーにも行くそうだ。
 …私は何も、みっちゃんが、若い世代にしては古風な趣味の、良妻賢母タイプだと言いたいわけではない。もちろん、そうであるかもしれない可能性を否定するものでもないけれども。同世代とは異なるかもしれない独自の感性を大切に、その感性のままに活動する、積極性と行動力について指摘するものである。歌に踊りに芝居、三拍子揃った実力に加え、その感性と行動力で得てきた濃厚かつ豊饒なものがあったればこそ、みっちゃんの舞台は観客を楽しませてやまない。その濃厚な豊饒さが、ときに本人も意識しないような形でほとばしるからこそ、例えば、「Passion 愛の旅」での“心のポーズ”のような刹那も生まれる(<宙組公演・心の名場面&キャラ&ポーズ発表!>http://daisy.eplus2.jp/article/97079149.htmlを参照されたし)。
 というわけで、退屈な舞台ともなれば自然、みっちゃんについて考えがちなあひる。そして、幸いなことに、心の中にはみっちゃんのストックが多いので、退屈な観劇も何とかやりすごすことができる。「エリザベート」で、何だか革命を裏切りそうな気配を漂わせていて、エルマーに懸命に協力を要請されていたハンガリーの青年将校シュテファン。芸者姿に身をやつし、ときに三味線をベ、ベンとかき鳴らしながら逃げる「維新回天・竜馬伝!」の桂小五郎。ワトソンくんとのコンビが絶妙だった「A/L−怪盗ルパンの青春−」のシャーロック・ホームズ。アニメ界の青春を描いた「Paradise Prince」では、姿を現さずとも「ハ〜イ」というそのファンキーな第一声だけでもう、“心のキャラ”に決定。そして登場したみっちゃん演じるラルフは、アニメ絡みのアドリブをさっそうと飛ばすのであった。観劇していた日は「Dr.スランプ アラレちゃん」の歌を熱唱、「♪〜ガッちゃんも」のフレーズを「♪〜みっちゃんも」と言い換えてしめくくるあたりで何だか照れて主演の大和悠河に突っ込まれていたのがあまりにインパクトが強すぎたが故に、本稿でも“みっちゃん”と呼ばせていただいている次第。数年前に取材させていただいたときの印象も強烈で、担当編集者と私は、その後何年経っても、顔を合わせるたびに「あのときのみっちゃん」について語りあったものだった。
 シュークリームにたとえるならば、中においしいクリームがぎっしり詰まっているのと、スカスカのと、どちらを選びますか――? という話である。私は当然、クリームのぎっしり詰まっている方を味わい尽くしたいタイプである。先の“心のポーズ”のように、ときにどんな味が舌に乗っかってくるか、わからないところもまた魅力である。

 つかこうへいの「蒲田行進曲」を原作とした秋の全国ツアー公演「銀ちゃんの恋」で、みっちゃんは大部屋俳優ヤスを演じた。凄まじい演技だった。心が震えた。初日近辺のその凄まじさについては<「役者・北翔海莉ここにあり!」http://daisy.eplus2.jp/article/161669259.html>に記したものだけれども、千秋楽近くともなれば、さらにとんでもない舞台になっていた。
 ――これまで、舞台に楽しく立てれば、それでよかった。でも、それだけではもう満足できない、役者としてもっと上に行きたい自分がいる。楽しいだけでよかった時代は終わってしまって、これからは、自分だけの道を一人で見つけていかなくてはならない――、ヤスを演じるみっちゃんの魂がそう告げていた。
 思わずはっと口を押さえた。かつての自分の姿がそこにあった。私もかつて、そうしてイノセントな時代に別れを告げたことがあった――。
 初配属となった雑誌で、演劇にまつわる取材の楽しさに目覚めた私は、その後、まったく分野の異なる編集部に異動となり、心満たされない日々を送っていた。いつかまた、演劇の取材に戻りたい…との願いは、雑誌の休刊と共に打ち砕かれた。会社を辞めるしかない、そう思った。
 会社を辞めることを決意した後、私は、新入社員時代の自分が育てられた編集部の懐かしい部屋に行った。すべての荷物が運び出され、寒々しくガランとしたその部屋で、かつて自分の机がおかれていたあたりに立って、私は思っていた。
 これからは一人だ。一人でやっていくのだ。昔、この部屋にいたときのように、叱ったり、励ましてくれたりする人はもういない。やるべきことを一人で見つけ、一人で進んでいくしかないのだ――。
 それはすなわち、自分が無条件で周りに愛され、守られていた、そして、願うことならいつまでもそうされていたかった、子供時代との別れを意味していた。人はそうして大人になるのだ。愛される側から、愛す側へ。何も、そのときの私がそこまで気づいていたわけではない。会社を辞めてほぼ九年が経ち、ずっと一人で歩いてきた今、そう思うまでである。
 そうしてかつての自分を思い出しながら、私はひどく狼狽した。私はそれまで、その孤独を、みっちゃんが知っているものだとばかり思っていたのである。あまりにも若いときから、達者な舞台を見せてきていたから。けれども、気づいた。今のみっちゃんと、会社を辞めたときの自分とは、まったく同じ年頃であったことに――。
 みっちゃんが、あの孤独を知ってしまった――と思ったら、何だかとてつもなく悲しくて、せつなくて、それから数日間、何だか泣けて泣けて、しかたがなかった。――みっちゃんが孤独を知っていることを、自分が望んでいたにもかかわらず。なぜなら、その孤独を知らなければ、みっちゃんと私とは同じ地平で闘えない。ここで言う闘いとは無論、舞台における新たなる美を発見するための共闘に他ならない。その孤独を知らなくては、自分だけにしか可能とはならない手段で世界を愛すことなどできない。オリジナルなものなど生み出せない。けれども、その孤独を知っていることがはたして幸せなのかどうか、私にはわからない。私にわかるのは、そうして孤独を突きつめていくしかない道が目の前に拓けてしまった人もいる、それだけである。今、もう一人、月組トップ娘役の蒼乃夕妃にも、孤独を知っていてほしいのか、知ってほしくないのか、葛藤を感じないでもないのだけれども…。
 そして、やっと私は思い至ったのである。今までなぜ、「北翔は」と書くことにどこか照れがあったのか。入団わずか二年目で、かつて麻実れいが演じた出世役、「ノバ・ボサ・ノバ」のドアボーイを演じて、おさげ髪が似合うような純朴な笑顔を見せていた彼女を、どこか“みっちゃん”のままにしておきたかった自分もいるのだと。でももう、“みっちゃん”とは呼ばない。呼べない。表現者として大きな一歩を踏み出した北翔海莉に、失礼というものである。
 「銀ちゃんの恋」で、目の覚めるような真緑のジャージを着て、転げ回ったり、はいつくばったままピョンピョン飛び跳ねたり、優れた身体能力を発揮してヤスの人間性を見せてゆく北翔を観ていて、思ったことがある。
「いつか、野田秀樹作品に出てみないか!」
 …はい、今、関係者全員の意向をまったく鑑みずに発言してみました。でも、宝塚退団後の姿として、何だか非常に似合いそう…と思った次第。
 無論、その前に、北翔海莉は宝塚で男役としてやり遂げなくてはならない仕事がある。前にも言ったように、私は、「スカーレット ピンパーネル」のパーシー/グラパン役を北翔が演じる姿をいつか観てみたいと思っている。そして、北翔がこの役を演じる際に焦点となるであろう新たなテーマも私には見えている。ただ、必ずしもこの役に固執するものでもない。北翔海莉が実力と個性をいかんなく発揮できる役柄があれば、それでいいのである。
 「誰がために鐘は鳴る」については東京公演の際にふれることとして、今から楽しみなのが、来年三月に予定されている主演作「記者と皇帝」である。作・演出を担当するのは、「ヘイズ・コード」、「ロシアン・ブルー」と秀作を放ってきた、若手作家でもっとも深みのある作品を創出することのできる大野拓史。その題材はといえば、19世紀後半のサンフランシスコで、自分が皇帝であるとの妄想にとりつかれた“初代合衆国皇帝にしてメキシコの守護者”こと“ノートンI世”をめぐるスクープ合戦! ということで、おもしろくならないはずがない。このところ渋い役が続いていた北翔が色男ぶりを発揮してくれそうなのも、本当に楽しみにしている。
 そう、ここで私は敢えて繰り返したい。北翔海莉は、歌踊り芝居と三拍子揃った実力派で、かつ、正統派二枚目なのである。ただ、あまりに個性が強すぎて、おもしろすぎるから、二枚目の印象が薄いだけの話である。真琴つばさ、紫吹淳、そして大空祐飛と、色気たっぷりの男役の下で学んできた経験を今こそ生かして、その二枚目の発揮の仕方についてもっと考えてもいい時期に来ていると思う。何も、似合わないキザリを今さらやる必要はない。自分という男役にはどんな魅力があって、それをどのように見せることによって客席を魅了することができるのか、男役・北翔海莉にしか舞台に描き出すことのできない宝塚の夢とはどんなものなのか、主演作を機に一層深く考えてみるべきであろうと思う。彼女にしか可能とはならない男役の色気が熟成され、微笑ましいおかしみにあふれる得難き個性と、さまざまな芸事を通じて培ってきた実力とに見合った深い形で発揮され得るようになったとき、北翔海莉は、2014年に創立百周年を迎える宝塚歌劇の最大の起爆剤となっているはずである。
 初めて観たときから、月組公演「ジプシー男爵」は大好きな作品になった。主人公の演じられ方さえ深まれば、オペレッタ・ベースの傑作がまた一つ、宝塚に誕生することになると思った。宝塚アレンジもしっくり行っていて、大作「スカーレット ピンパーネル」を経て格段にレベルアップした月組生のコーラスも迫力がある。ヨハン・シュトラウス二世の流麗な楽曲が、活気あるダンスを伴って宝塚の舞台に流れるのを聴いているだけで心が躍った。ハンガリー風の衣装もかわいらしく、登場人物の一人、豚飼いジュパンにちなんで、ドア枠や窓枠や彫像など、キュートな豚の意匠がふんだんにあしらわれた舞台装置も目を楽しませてくれた。しかしながら結局、最後の最後まで主人公の造形が深まることはなかった。心から残念でならない。
 何も、さほど難しい台本でも、役どころでもない。今年の東京宝塚劇場公演でいえば、佳作の部類に入る。出演者が力技で何とかしなくてはどうともならない作品でもなかったのだが……。結局、何度足を運んでも主人公の演じられ方は変わらないのかもしれない……と思った私は、11月の初め、新人公演の舞台稽古に足を運んだ。そこにははたして、私が心に思い描いたのと近しい「ジプシー男爵」の世界があった。
 新人公演でこの役、シュテルク・バリンカイに挑戦した宇月颯は、台本と役柄にきわめて素直に向き合っていた。幼いときに父と母に死に別れ、一人異国の放浪の旅を続けてきた、つまりは、どこまでいってもただただ孤独であったからこそ、何ものにもとらわれず自由に生きてきた、自由に生きざるを得なかったシュテルクの心情を舞台上に丁寧に描き出そうとしていた。シュテルクが、猛獣も妖精も俺様の家来と歌うのは、それまで彼には、人間の友達、仲間がいなかったからである。ハプスブルグ帝国の女王マリア・テレジアにさえ「ちわっす」と挨拶し、俺は誰にも頭を下げないで生きてきたと語るのは、彼が、周囲の人間全員より自分がえらいと思って生きてきたわけではなく、そのように孤独に、ひいては自由に生きる上では、身分の差など何も意味を成さないことを、身をもって痛感していたからである。
 その彼が、幼いときに追われて後にした故郷に戻り、その地に住まうジプシーたちと出会い、彼らと心を交わしてその仲間となり、彼らの安住の地を守りたいと願う。その中には、妻にと願うジプシー娘、ザッフィもいる。しかし、誤って徴兵のワインを口にしてしまったことから、ジプシーたちの住む土地を守るには、ハンガリー軍の一員としてスペイン相手の戦争に出兵しなくてはならない。長らく、孤独に裏打ちされた自由を生きてきた彼にとって、愛と友情のためにその自由を放棄するとは、どのような意味をもつのか。真の自由とははたして、何なのか。
 宇月シュテルクが生きる「ジプシー男爵」の物語は、一人の青年が愛と友情を知り、大人へと変化を遂げてゆく成長物語にきっちり見えていた。女王相手の「ちわっす」にも、傍若無人さではなく、細事をものともしない大らかさとキュートなちゃめっ気、いたずら心が感じられた。孤独と自由の相反関係を理解していたからこそ、自分にはジプシーの仲間から与えられた称号がある、誇りをもってジプシー娘を妻にする……と高らかに歌い上げる「♪俺こそジプシー男爵だ」へと至る流れも、孤独に生きてきた人間が生まれて初めて仲間を得た、得もいわれぬ高揚感に満ちていた。新人公演ということで、本公演より出演人数は少ないながらも、コーラスも懸命の努力の跡がうかがえたが、全体の力を一点に結集させ、そこに自分の満身の力を乗せてさらなる大きな力として客席に届けるという、真ん中に立つ者が負う義務をきっちり果たしていた。
 何より心に沁みたのは、孤児同士のシュテルクとザッフィが心を通わせてデュエットする、宝塚版オリジナル・ソング「風の歌」である。「話し相手は影法師」だったシュテルクと、「谺相手に夢を叫ぶ」日々を過ごしてきたザッフィが、二人で「ヒュー ヒュー ルルラ/ヒュー ルルラ/風が歌っている」と声を重ねる。そのとき、それまで生きてきた孤独が、それまで以上に二人の身に沁みる。なぜなら二人は、互いに心交わし、愛する人がいるという状態を、今や知ってしまったからである。今、愛があたたかく在る心の場所、そこには、愛を知るまでは、孤独の空洞があった。空洞があったればこそ、愛の入りこむ隙間があるわけで、だから今、愛が占めるこの心の場所を、昨日までは、孤独の風が「ヒュー ヒュー ルルラ/ヒュー ルルラ」と吹き抜けていたのだった……と二人が歌う歌は、愛の歌ながらどこか物悲しさに彩られていて、歌声が心の空洞を吹き抜けていって、泣けた……。
 最後のチャンスで初めて主演をつかんだ宇月颯だが、今回の新人公演で、歌に踊りに芝居と、三拍子揃って安定した力をもつ若手スターとして大いにアピールした。三拍子揃った実力派は、器用な分、えてして小さくまとまってしまうきらいなきにしもあらずだが、自分の個性は何なのか、自分にしかできない男役像とは何なのか、つきつめて追究し続けることで、今回の成功を今後に大いに生かしていってほしいと思う。
 ヒロイン・ザッフィを演じた花陽みらは、本公演の「ラプソディック・ムーン」でも、ラインダンスのセンターにエトワールを務める活躍ぶり。本役の蒼乃夕妃とは、大人っぽさと少女らしさの魅力のマーブル模様が、ほぼことごとく逆に出ている感じなのが非常に興味深かった。ラインダンスのセンターでの、くるくる生き生きと変わる表情も◎。早くして抜擢される娘役の場合、どうも、表情の乏しさが気になるケースが多い。結局は心を動かさないと自然な表情など生まれようがないのだが、彼女はすでにしてそこをクリアしている風なのが期待大。
 銀橋を渡る際の歌唱で、この新人公演で一人、想念のヴィジョンを出したのはバリ役の煌月爽矢。技術的な側面もしっかり磨いていけば、さらに表現力に厚みが増すことと思う。オトカー役の紫門ゆりやは、彼女の持ち味であるおっとり上品な天然ボケが炸裂し、物語にキュートなアクセントを加えていた。専科の汝鳥伶が演じた豚飼いのジュパンに挑んだ珠城りょうは、凄みを感じさせるチョイ悪キャラでこの役を造形。研2で二番手の役どころ、研3となっての前公演「スカーレット ピンパーネル」では主人公パーシー・ブレイクニーに挑戦と、抜擢が続くのも納得と思わせる、男役としての仕上がりの早さだが、だからこそ決して、今の段階で固まってしまってほしくない。「前世紀の遺物」と形容されるにふさわしい昔気質の堅物ぶりを発揮したカルネロ伯爵役の響れおな、本公演ばりに貫禄いっぱいの堂々たる演技で圧倒したマリア・テレジア役の彩星りおん、若々しくも達者な芝居を見せたツィプラ役の琴音和葉、絵に描いたような美しい武官ぶりが光ったホモナイ伯爵役の鳳月杏、チョイ悪ジュパンに麗しく寄り添うヨランダ役の咲希あかね、アニメ声がお嬢様キャラのこましゃくれた我がままを引き立てていたアルゼナ役の愛風ゆめと、主要登場人物もそれぞれ印象的だった。
 そして、新人公演では初めてのことながら、新人公演“心のキャラ”をここに発表〜。“心のキャラ”新人賞とでも言おうか。それは、ジュパン家の使用人かしらイシュトバンを、ヨレヨレおじいちゃんキャラで演じ切った輝月ゆうま! ベテラン汝鳥の造形に対して、珠城のジュパンは多分に若々しいキャラ設定だったのだけれども、その主従関係のバランスも絶妙に効いて、これはもう、アイディアの大勝利である。一番役に立たない使用人を戦争に出そうと画策するうち、「イシュトバン、あなたね!」とアルゼナに指摘され、徴兵を余儀なくされて言う「ご主人様、そんな殺生な……」が、本当にあまりに殺生な。戦争から無事帰還しての凱旋行進、銀橋で歌い踊るヨレヨレぶりも、決して老いのパロディには陥らない、上品な笑いの持って行き方で、思わず目が離せなかった。まだ研2にしてこの芝居心やあっぱれ。“芝居の月組”の未来は、彼女たち若手の活躍が握っているのだ……と深く実感した次第。
 私の夫は、宝塚を初めて観劇したのが1999年の「ノバ・ボサ・ノバ」なので、その作品で初舞台を踏んだ85期生には特別な思い入れがあるらしい。個人的にも、85期生には忘れ難い思い出がある。5年前のこと、とある雑誌で、組ごとに85期生が集まっての座談会を記事にする機会があり、時間がどうしても合わなくて残念ながら取材を見送った花組以外の組を担当した。最大で一度に8人もが集まって話をするというこの取材は、いろいろな意味で大変で、それだからこそひときわ心に残っているのだけれども、組ごとの雰囲気の違いがわかって興味深かった。あまりに元気がよすぎて集合写真を撮るのも一苦労の組、役割分担がピシッと決まっている組……。
 その中で、月組の85期生は、ちょうど大作「エリザベート」に挑戦中で、新人公演で青樹泉、真野すがた、彩那音がトート、フランツ、ルキーニを演じたばかりだったということもあってか、集まった全員が舞台と役どころについて落ち着いた語り口でじっくり話してくれたのが印象的だった。その後、音姫すなおと涼城まりなと葉月さらが退団し、真野すがたと彩那音が組替えとなった今も、そのときの情景をありありと思い出すことができる。なかでも、お姉さん格の雰囲気をただよわせていたのが美鳳あやだった。彼女の存在が、あの座談会の真面目な空気作りに貢献していた部分も少なくなかったように思う。
 それ以前から、彼女はダンサーとして注目される娘役だった。確か2002年の全国ツアーのときだったのではないかと思うけれども、ショーの一場面で踊る彼女を観て、“エアリイairy”とはこの人のためにあるような言葉だ……と感じたことを思い出す。最近では、芝居作品でもなくてはならないバイプレイヤーとして活躍していて、「スカーレット ピンパーネル」、「ジプシー男爵」と、どこか肝っ玉の据わったような役どころが続いたけれども、私は、あのときの、空気のように軽やかで、娘役としての美徳に満ち満ちていた彼女の舞を、いつまでも忘れることができない。
 今回の「ジプシー男爵」は、結果的にメインストーリーが機能せず、二つのサイドストーリーをより合わせる形で物語を提示せざるを得ない状況になった。実質的主人公を務めることとなった専科の汝鳥伶が演じる豚飼いの王様ジュパンが担ったストーリーがその一つで、もう一方のストーリーにおいて、美鳳は、最優秀助演女優賞ものの大きな役割を果たすこととなった。美鳳演じるジプシーの占い師ツィプラが言う、「その土地の正統な継承者が愛する人を得たとき姿を現す“財宝”」とはいったい何のアレゴリーであったか、そのことが、「ジプシー男爵」なる美しくも宝塚的な作品の最大の論点であったわけだが、美鳳はもちろん、“財宝”の寓意の深い理解あったればこその堂々たる演技を披露した。主なきジプシーたちの、ほとんど女頭領のような役どころで、主人公に、仲間の中にあって人として生きる道を説くその姿には、大いに説得力があった。
 ショー「ラプソディック・ムーン」では、月組のダンスリーダー桐生園加と並び、男役陣に一人混じって踊る“キャラバン”が圧巻である。エアリイな彼女が回転すると、竜巻が起きたかのよう。桐生が率いる1月のバウホールのダンス公演「Dancing Heroes!」を観たらきっと、「もう、お前はいないのか……」と、アンドレを失ったオスカルの如き言葉をつぶやいてしまいそうな、そんな残念な思いでいっぱいである。

 天野ほたるについては、失礼を承知で言えば、まさか12年もの間、宝塚の舞台でその姿を観られるとは思ってもみなかったというのが正直なところである。というのは、彼女は、大変な美人だからである。それも、女優系の凄みのある美人というのではなくて、あくまでたおやかでおっとりとした美人。だから何だか、良縁に恵まれて早くに退団しそうに思っていた……というのは、考えてみれば、美人に対するとんでもない偏見であるわけだが。考えてみれば、芸能界ではあまり目にしないタイプの美人を目の当たりにできるというのも、宝塚歌劇の一つの特質なのだろうと思う。
 「ジプシー男爵」では、天野は、汝鳥扮するジュパンの奥方ヨランダという役どころ。綺麗な顔で、強欲な夫といい感じに調子を合わせているのが何だかとっても業が深そうだ。専科の最終兵器、汝鳥とセリフを交わす様も堂に入っていて、こんな演技ができるようになったのに退団しちゃうのか……と、これまた非常に残念な……。「ラプソディック・ムーン」では、青いドレスで桐生と絡むシーンや、娘役だけの白いドレスのシーンがもう、眼福な限り。

 研7の取材のときには8人いた月組85期生は、今回の二人の退団で、ついに青樹泉一人になってしまう。「ジプシー男爵」で、美鳳ツィプラが青樹扮するホモナイ伯爵に、ヒロイン・ザッフィの出自を明かす手紙を渡す重要場面や、戦争から帰還したホモナイ伯爵がヨランダと無事を祝ってうれしそうに舞い踊っているのを観て、何だか、胸が痛くなってしまった……。
 ちなみに、研7のときの件の取材では、舞台人の目標を問われて、天野は、「割といつもキレイめの役が来るので、汚れ役、悪役をやってみたい」、美鳳は、「舞台は、その人のすべて、それまで経験してきたものがさらけ出される場所だと思うので、人間として、女性として、素敵な人でいたい。女性としての永遠の課題」と答えている。
 私はいつも、娘役がやめるとき、苦労しただけの割にあった宝塚人生が送れたかどうかが本当に気にかかる。ときとして男役至上主義のような心ない主張がなされる宝塚において、娘役とはどれだけ報われる職業なのか、いつも気にかかる。娘役なかりせば、男役も存在できないのに――。私は、二人の夢は見事かなったなと思って、取材した者として何だか本当に感慨深いのだけれども、二人もそう思えて卒業の日を迎えることができたのだとしたら、こんなにうれしいことはない。
――いいえ、月にかけて誓わないで、不実な月は
一月ごとに丸い形を変えてゆくもの
あなたの愛もそのようにうつろうものになってしまう(『ロミオとジュリエット』より)

春――
二人
同じ景色を見ていた
別々の場所で
靄がかった空気の中、ほの白い月の光に照らし出される景色を

秋――
月はやはり闇夜を照らして、でも、二人は同じ景色を見ない
同じ輝きが二人の心を満たすことはもはやない
貴方の鈍い光の矢は
月を陰らせ
夢を壊す

そのためだけに生きる、そう誓った喜びは、貴方が殺した
他の何にも代え難い喜びを、貴方は殺した
今、貴方の歌声が虚しく響いて、誰にも届かない
かつて、月の夜に多くを告げた貴方の歌声が、何も伝えない

広大な砂漠に愛を注ぎすぎて
私の心は干上がってしまった

美しい想い出は霧散し
瓦礫と崩れ去り
荒れ果てた城跡だけが
貴方の生きる縁(よすが)

私の想念の中、浮かぶ貴方はもはや、幻に過ぎず
貴方の想念の中、私はもはや、浮かばない

ほんのひととき、すれ違って、同じ景色を見ていた二人
今は遠く、違う景色を見ている二人
――月だけが、すべてを見透かし、心を射抜くように、今夜も、光る――
 嗚呼、またもや本日、感動の舞台を観た喜びを消費活動によって表現してしまったあひるです。それくらい、このところ、すばらしい公演が続いています。17日にさみしくも終わってしまった宝塚花組公演、新国立劇場オペラ「アラベッラ」、宝塚雪組東京特別公演「オネーギン」、そして今夜、東京オペラシティコンサートホールで聴いてきたばかりの「ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタル」……。17日には「アラベッラ」二回目に行ってきたのですが、リヒャルト・シュトラウスの魂をあまりにも激しく受け止めすぎて、感受性の安全弁がぱっかーんと開きっぱなしになってしまって、最後なんかもう、自動泣き人形のように自分ではどうすることもできないくらいただただ涙が流れっぱなしになって、家に帰ってそのままその場に倒れて寝込みました……。ラファウ・ブレハッチについてもまた詳しく書きますが、ショパン生誕2010年をあざやかに彩るオール・ショパン・プログラム。まだ25歳と若いのに、しっかり自分の人生を生きて、それをしっかりショパンの音楽に乗せて表現できる真の芸術家だった! 「一歩一歩を確かに重ねて行って、いつの日かショパンと同じ美の天空の果てまで、僕も昇りつめる!」と空高く翔るアンコールの「英雄ボロネーズ」の神々しくも輝かしいこと! 同じプログラムが聴ける23日の横浜みなとみらいホールでの公演、真剣にお勧めいたします。それにしても。連日連夜激しく心を動かすと、それは疲れる……。あ、花組の続編も忘れてはおりませぬ〜。あひる、もうヘロヘロ……。はは。
 さて、東京公演も残すところあと二日となってしまった「オネーギン」ですが、宝塚の文芸路線の豊かな薫りをたたえた佳作。組名からの連想も多分にあるのかもしれないけれども、雪組とロシア物作品は非常に相性がよいイメージ。硬質で端正な個性とロシアの凍てつく冬景色とが結びつきやすいのかなとも思ったりするのですが、今回の主演を務める轟悠も雪組出身、しかもニヒルでダンディな主人公とくれば似合いのキャラクター。実際、今の段階でも、東京公演が先行とは思えないほど、舞台全体の仕上がりも良し。……なのですが、あひるはここで敢えて言いたい。
 轟悠も雪組一同も、まだまだ行ける!
 「オネーギン」といえば、あひるはチャイコフスキーのオペラが大好き。特に、自分の世界に引きこもりがちなタチヤーナは大いに共感を寄せてしまうヒロイン。オネーギンに想いを吐露するタチヤーナの「手紙」のアリアを聴くといつも、心を思いきって文章にした後の自分をついつい重ねてしまって、その後オネーギンに拒絶されるとき、タチヤーナと一緒になってガーン……とめちゃめちゃ落ち込みがち。
 その一方で、タチヤーナや親友のレンスキーあたりと比べて、オネーギンという虚無に取りつかれた主人公は、表現の難しい静の役どころ。歌う歌手によっては、「……この人、何も考えてないだけなんじゃ……」と思ってしまったりすることもある、かなり受身一辺倒のキャラクターではあります。今回の舞台は、オペラ版に比べ、オネーギンが能動に描かれていて、とある行動を決断するラストが見どころとはなっているのだけれども、今年舞台生活25周年を迎えた轟悠としては、これまで培ってきた人生経験と男役芸とを、静の魅力の中に、なにげない立ち姿や背中で雄弁に表現する好機。何しろ、周りの雪組生にとっては、轟悠は入団したときから憧れとしてきたであろう先輩スター。あひるも、子供のころから憧れてきた演劇人に、大人になって取材等でお会いできたときの晴れがましくも誇らしい気持ちを覚えているからよくわかるのだけれども、そんな憧れの存在と同じ舞台に立って演技の上で対等にやりあえるとなれば、みんなうれしくてうれしくて、若さのエネルギーと心のパワー全開で轟に向かってくるのは当たり前といえば当たり前。そうやって向かってこられて、ついついパワーで返したくなる気持ちも本当によくわかるのだけれども、オネーギンは、感じやすくて頭が切れすぎるがために、社会に絶望してしまって、心がほとんど死んでしまったところを、周囲の人々の熱い思いや情熱、真摯な愛にふれて、最終的に能動の決断を下す、非常に難しい役どころ。革命派の将校たちにどんなに熱く激しく向かってこられても、耐えて耐えて耐えて、想いをためてためてためて、最後で吐き出す役柄とでもいうか。あひるは行ったことはないけれども、轟悠の故郷の人吉はきっと、いいところなんだろうな……等々、想念のヴィジョンはあれこれ感じるのに、少しでもよけいな力が入った瞬間、せっかくのヴィジョンは一瞬にして霧散してしまう。力むと「黎明の風」の白州次郎がちらついてしまうし、やりすぎては「キーン」の二の舞の恐れあり。リラックスして、心をやわらかく解き放って、こめるべきはただただ想いのみ! あひるは16日の11時公演と19日の14時公演を観たのだけれども、16日の第一幕はいまだかつて経験したことのない轟悠の姿に茫然とし、19日は第二幕、タチヤーナに想いを打ち明けようとするあたりからラストにかけてがとりわけよかった。……ということは、16日の第一幕の感じと、19日の第二幕の感じで続けていけば、いまだかつてない新しい“轟悠”が完成するはず! 一度創り上げたものを壊すのは確かに恐ろしい。けれども、その創造と破壊のメタモルフォーゼを繰り返し続けた者だけが、真に一流の表現者たりうる……とは、蜷川幸雄演出作で変容を遂げる役者たちの姿にあひるが教えられた真理。あひるは最近、2014年の創立百周年に向け、宝塚歌劇が今、真の舞台芸術創造集団たらんと、日々刻々と凄まじいスピードで進化しているのを感じずにはいられないのだけれども、その上でも今回、轟悠が新たな男役像を打ち出せるか否かは、後に続く者たちにとって大きなキーとなってくるはず。25年間のうちに培ってきた芸と人間性、そして観客を信じて、心を自由に解き放っていけば、若さのパワー恐れるに足らず。もちろん、周りも、新しく誕生するであろう“轟悠”をさらに大きなものとするためにも、パワー全開でぶつかって行くべし。大丈夫! まだまだ行ける! あひるももう一回行きます。皆様もくれぐれも新しい“轟悠”誕生の瞬間をお見逃しなきよう〜。
 今回の公演は、「麗しのサブリナ」も「EXCITER!!」も楽しいシーンの連続で、選ぶのに大いに迷ってしまったけれども、心の名場面は、「麗しのサブリナ」第13場、観劇デートに出かけるライナスとサブリナを見送ったライナスの二人の秘書、ウィリス役の未涼亜希とマカードル役の桜一花が「ライナス様がデートなんてまた、珍しい」とかまびすしく展開するソング&ダンス! 二人の息の合った一挙手一投足がもう、最高におかしい。あの二人をミニチュアサイズにして家に持ち帰って、落ち込んだとき、机の上で「♪あなたは大丈夫〜」と歌い踊ってもらったら、さぞや元気が出るだろうな……と思った次第。
 未涼と桜は「EXCITER!!」の第6章でもコンビで出てきて歌うシーンがあるが、これがまた絶妙な連携プレイである。真飛聖が前場で披露した、世界への愛と包容力あふれる歌を、未涼が歌い継ぎ、そこに桜が歌声を重ねてゆくという趣向なのだが、真飛の歌で涙を誘われ、一息つこうかと思った間隙を突いて、未涼がすかさず中押し、桜がダメ押しするという、聴く者の心に寸分のスキなく想いをきっちり詰め込む二人の職人技が絶品である。何かを袋に詰め放題の企画があったとして、いくらなんでももうこれ以上は詰められないだろう……と思っていたら、桜が広げた袋の中に、未涼が、「いえ、この向きをこうしてこう変えればここにもっと入ります」と、手際良く冷静にどしどし詰め込んでいく感じ。未涼の雪組への組替え前に、未涼と桜の名コンビぶりが堪能できた公演だった。
 「麗しのサブリナ」では、プラスティック事業拡張の大切さを語るソング&ダンスも本当に楽しかったのだが、ここではもう、まじめくさって披露する、未涼のヒザの前後運動だけで笑えた。もはや身体のわずかな動きで笑いを取れる芸達者、それが男役・未涼亜希である。無心に踊ればストイックなセクシーさが匂い立ち、歌の巧さは言うまでもなし。演じられる役の幅も広い。男性至上主義の封建時代のプロパガンダ演劇を何も宝塚歌劇でやらなくても……と思ってしまった前公演「虞美人−新たなる伝説−」では、作劇のまずさから、項羽でも劉邦でも虞美人でもない、未涼演じる軍師・張良がほとんど主人公になっていて、彼女の演技自体は非常によかった。ああした方がいい、こうしない方がいいと、劉邦をあれこれいさめる役どころなのだけれども、やっぱりポータブルサイズを家に持って帰って、「そろそろ原稿に取りかかられた方が……」とか、「同じ洋服を色違いで何枚も買うのはやめにした方が……」とか、張良先生にあれこれいさめられたら人生万事まじめに生きられるかしら……と夢想するあひるであった。
 その未涼は、2010年宝塚大劇場お正月公演から雪組に参加する。音月桂が新しくトップスターに就任し、若さのパワーではじけてくることが予想される新生雪組だが、人材豊富な娘役陣の色気が供給過多になっており、これをがっちり受け止める男役陣の育成に期待がかかる現在、実力と男役芸とを兼ね備えた未涼のはたす役割は非常に大きくなってくると思われる。音月との銀橋歌合戦や、緒月遠麻との身体能力を駆使したダンス&コメディバトルを期待したいし、桜一花と同期でこれまたエネルギッシュな舞咲りんと今度はコンビを組んでみてほしいなとか、花帆杏奈&涼花リサのお色気二人娘をはべらして両手に花をやってみてほしいなとか、あれこれ楽しみに想像してしまう。芸と心のある舞台人は、どこへ行っても大丈夫! 新天地での大暴れを期待するものである。

*今宵はこれまで。あひる電池切れ〜。
 今月初め、宝塚のトップスター経験者が語り合う地上波テレビ番組が放映されたけれども、……何だか非常に残念な内容だった。もちろん、興味深い話もいくつかあったのだけれども、その発言はさすがにないんじゃないんでしょうか……と思ったのが、「目線が合ったと客を誤解、勘違いさせたら、しめた」みたいなコメント。
 その番組を観ていて、何だか、花組の愛音羽麗だったらどう感じただろう……と思ったのである。愛音羽麗は、まだまだ下級生の時代から“一本釣り”の凄腕業師として知られてきた男役である。“一本釣り”とは、これと狙った観客に強烈なウィンクや流し目を送ってトリコにする、男役の伝統芸の一つである。かねてから評判の高かったそのワザに、私自身が実際に遭遇したのは8年も前、2002年の「エリザベート」宝塚大劇場公演のこと。たまたま前の方で観ていたら、フィナーレで見たのである。バッチンと、それはまた強烈なウィンクを。それまで噂でのみ知っていたワザを実際に目の当たりにすることができて、実に感動的だった。
 そして、その残念な番組の放映後、何だかもやもやとした気持ちを抱えて花組公演を観に行ったら、愛音羽麗はやっていたのである。「今あなたと私の目が合っているのが勘違いや誤解だったら、この世のすべては幻です!」とでも言いたげな、それはえらく気合いの入った、パッショネイトな一本釣りを。目の合った一人一人に確かに自分の心を送りこむ、魂のこもった炎の一本釣りを目の当たりにして、私はすっきりしたのである。私にとって宝塚歌劇とは、舞台上の演者と客席との間に確かな心の交流が感じられることがその大きな魅力の一つなのだけれども、愛音羽麗もその魅力を確かに信じて舞台に立っている人なのだとわかったから――。
 2002年といえばまだ新人公演の学年、そんなみぎりから色気をふりまいてきた愛音だが、“男役の花組”の伝統を確かに守り、受け継ぐ存在として、その色男ぶりには拍車がかかる一方である。「麗しのサブリナ」では、愛音は“ストーリーテラー”として、さまざまな場面に多種多様なキャラクターで顔を出すカメレオン的役どころを担っているが、パリの料理学校でサブリナに料理を教えるシェフ姿の色っぽさに、「シェフにこんなに濃厚な色気があったら、料理そっちのけで見とれていろいろ焦がしそうだな……」と思ってしまった。ライナスとサブリナが出かけるクラブでは、紫の総スパンのスーツでぬっと現れ、二人を強引に取り持つかのようにラブソングをねっとり熱唱。デイヴィッドを治療する医者役ではあふれんばかりの色気を封印しておじいちゃん役に徹し、一瞬、このベテラン男役、誰だっけ? と思ったりして。シェフ帽を脱いだ瞬間、はっと頭をふって髪を乱されさせたり、なぜか夜なのにサングラスをかけて電話をし、しかも通話が終わった瞬間、それは色っぽくサングラスを外してみたり、キャラクター設定上何の意味があるのかよくわからない色気ダダ漏れ大サービス状態で、男役芸の色気を愛する観客の心をわしづかみ。「EXCITER!!」では、ジャケットを半分はだけて真飛聖に迫る、しかもその裏地が紫という、花組の男役同士ならではの超絶セクシーシーンがある。色気のある男役にしか紫は似合わない、そう、力説するものである。
 “紫”で思い出す色気の男役といえば紫吹淳だけれども、「“紫吹淳祭り”と言っても、紫吹さんの男役芸はもともと花組仕込み、あれは“紫吹芸”と言うより“花組男役芸”です!」と、愛音羽麗は、決して大きくはないその身体をめいっぱい使って、いつでも激しく主張している。そのねっとりが、くせになる。愛音羽麗が男役芸の継承者として大暴れする限り、花組の舞台はいつでも“男役祭り”である。
 憧れの運動部の先輩。花組・壮一帆に対する私のイメージは、ここ数年ずっとそんな感じである。さわやかなスポーツマンで、みんなの人気者で、文化部人間だったあひるからすれば、素敵だな……と遠くから眺めるばかりで、一度お話してみたいなと思っていても、なかなか話しかけづらい感じというか、そもそもどんなことお話したらいいの、共通の話題がない〜とあせる感じというか。
 ところが、スポーツにばかり興味があると思っていたその先輩が実は大の演劇好きと知ったら、話は別である。もう、話し倒してしまうことだろう。好きな作品を語るその目にふと影が差す瞬間なんかがあったら、先輩のイメージが変わってしまう。さわやかで、いつも壮快な笑顔をふりまいている先輩の内面には、いったい何があるのだろう……と、気になってしかたなくなってしまう。……以上、やや古き良き少女漫画テイストではありますが。
 しかしながら、男役・壮一帆のイメージが大きく変わった瞬間があったことは事実である。2009年春の主演作「オグリ!」を経た後の秋の本公演「外伝 ベルサイユのばら」「EXCITER!!」あたりだっただろうか。“さわやか”のイメージを具現化したようなその男役像に、確かな影がついた。男役として実体化し、その結果、舞台上の存在感がぐんと増した。このころから歌唱面にも磨きがかかり、じっくり聴かせる歌を歌うようになった。ヒジ下ヒザ下の独特の使い方が回転技にキレを与えるダンスが魅力的なのは言わずもがな。花組育ちなだけあって、黒燕尾服姿も実にシャープである。
 「外伝 ベルサイユのばら」のアラン、「相棒」の神戸尊、そして今回の「麗しのサブリナ」のデイヴィッド・ララビーと、いつも感服するのが、この人の、さりげなく、それでいてしっかりとなされる愛情表現の深さである。「外伝 ベルサイユのばら」では、目が見えないアンドレを戦場につれて行きたくない一心から、目が見えないことを隠しておけと頼まれていたにもかかわらず、周囲に明かしてしまう。冷たいよ! と思ったその瞬間、そこに相手への深い思いやりが隠されていたことがわかって、思わずぐっと来てしまう。「相棒」でも、真飛聖扮する杉下右京とつかず離れずの関係ながらも、根底には相手への敬意が確かにあることが見て取れた。
 今回のデイヴィッド・ララビーも、ヒロイン・サブリナが自分ではなく、兄ライナスを愛していることを知り、兄もまた彼女を愛している、そのことを兄にはっきりとわからせるためにサブリナへの憎まれ口を叩き、わざと殴られる。その瞬間、壮デイヴィッドはそれはさわやかな満面の笑みを浮かべるのである。なんと気のいい! そして、「愛してるんだろ」と、兄にサブリナを追いかけるよう優しく諭す。なんと心憎い! 私は愛情表現というと、単色一色で塗りつぶすというか、好き好き好きの一本やりになりがちなタイプなので、さりげなく深い愛を表現できる人に憧れてしまう。
 そして壮は、モテモテの役が非常に似合う男役でもある。今回も、「僕はドン・ファンなんかじゃない」という、若くして三度の結婚に破綻した俺様モテモテソングを、あっけらかんの笑顔で歌って、嫌味ないどころか大いに魅力的。そう、壮デイヴィッドは、プレイボーイではなくて、ただ、世界中の女性にひそむ美しさを知り尽くしたいという己の欲求に貪欲なだけなのだ。さりげなく愛が深くて、しかも博愛主義者。こういう人だからこそ、たまに真顔で言う「好きだよ」が強烈に効くのである。
 弟さんも素敵、お兄さんも素敵、どうしよう、どちらを選ぼうかしら……という贅沢な悩みを味わえるのが「麗しのサブリナ」の楽しみどころの一つであって、真飛聖の主人公ライナスが素敵であればあるほど、弟デイヴィッドも拮抗する魅力がなくてはならない。兄とは違う魅力で楽しませてくれて、でも、最終的にはフェアプレイで恋を兄に譲る。心映えのフェアさも、男役・壮一帆の魅力である。筋の通らないことや人の心を裏切る行為なんて絶対に通しそうにない正義感に満ち満ちた感じ。
 「麗しのサブリナ」はロマンティック・コメディだから、サブリナ、ライナス、デイヴィッドと、ウィットの効いた会話をコメディにふさわしいテンポのよさで展開していくことが必須の作品だったが、誰と会話を交わしていても、壮のセリフのテンポは聞いていて実に小気味いい。ああ、この間で突っ込んできてほしかったの! というツボつきまくりで、見事な好アシスト。「相棒」のときから深く実感していたことだけれども、壮一帆は、花組トップスター、真飛聖にとってよき“相棒”である。
 スポーツマンを連想してしまうだけあって、壮一帆は舞台上でとてつもなくエネルギッシュな魅力を発散する男役である。一般的に、巨大なエネルギーを発散する存在は、ときに、受け止める側のエネルギーを大いに吸う場合もあって、取材でもたまにそういう存在に遭遇すると、終了後は口もきけないほど疲弊しきってしまったりする。けれども、壮の場合、発散してくるエネルギーが非常に大きいのに、客席で受けていて心地よく、ポジティブなエネルギーを大いに与えてもらえる。人間間のエネルギー循環の術に長けた人なのだと思う。やっぱり、壮一帆は私にとって“憧れの先輩”である。
 過去のすべてを消し去りたい、高いビルの窓から飛び降りてしまいたい、そう思ったことがあると語る「麗しのサブリナ」のライナス・ララビーの気持ちが心からわかる。ライナスを演じる真飛聖の魂がそう、語っていた。
 けれども、自分には、宝塚の舞台が、男役があって、そして今、男役として宝塚の舞台に立つことがこれまでになく幸せなのだと、真飛聖は「EXCITER!!」の“Life Exciter!!−命の革命−”で歌っていた。泣いた。泣いて、本当にちょっぴりだけ、私は口をとがらせていた(あひる口?)。
 ……そんなにつらい想いを今まで一人で抱えてたなんて、もっと早く打ち明けてくれればいいじゃない!!! だってだって、水くさいじゃない!!! ずっと客席に座っていたっていうのに!!! と。打ち明けてっていうのは無論、舞台からですが、この場合。
 でも、ほんのちょっぴりだけあひる口になりながらも、私は心からうれしいのである。9月24日のブログでの予言通り、今回の公演中、花組トップスター真飛聖が、男役として、舞台人として覚醒したことが。そして、その立ち姿に、それは大きなポテンシャルを秘めた舞台人を見られたことが。「EXCITER!!」の最高に楽しい場面、“Men’s Exciter!!−男の革命−”で、キュートなドジっ子Mr.YUが、「チェンジBOX」に入り、麗しくもかっこいい究極の男に変身して観客の前に姿を現す、それくらいのディープ・インパクトが、その覚醒にはあったのである。

 私は決して、2007年末に花組トップに就任してからこれまで、舞台上の真飛聖が奮闘していなかったと言うのではない。宝塚の男役トップスターという存在にかける己の真摯な想いを、王座をめぐる人々の権力闘争に巻き込まれつつも最終的に真の王となる主人公タムドクに重ね合わせて演じた「太王四神記」、全国ツアーと本公演でそれぞれアランとアンドレを演じた「外伝 ベルサイユのばら」など、きっちりとした舞台を着実に務めてきた。ただ、トップスターとしての責任を真面目に果たそうとするあまりか、どこかはじけきれていないようなおとなしい印象を、何とはなしに与えてしまっているようなきらいがあった。
 今となっては、真飛自身、自分の個性をはっきりとつかみあぐねていたのかもしれないと思わないではない。何しろ、トップとなるまでの当たり役は二極分化している。「ベルサイユのばら2001」で演じた荒くれ者のアラン、「雨に唄えば」の悪声の女優リナといった役柄で強い印象を残す一方で、外部出演作「シンデレラ」の王子では立ち姿もエレガントな貴公子ぶりで魅せる。極端なのである。
 主役、トップスターよりも、二番手以下の方が色濃く、“おいしい”役どころが回ってくるということもある。トップとなってからの真飛は、周囲に自由に個性を発揮させながら、己の個性をどう発揮してゆくか、悪戦苦闘していたような気がする。
 風向きが変わってきたのは2009年の秋である。このとき初演されたショー「EXCITER!!」の“Men’s Exciter!!−男の革命−”は、「ハゥ・トゥ・サクシード」に「ビッグ」、「ヘアスプレー」に「ドリームガールズ」のエッセンスを混ぜ合わせたような、アメリカン・ミュージカルのポップなテイストにあふれたシークエンスである。ここで真飛は、ぶかぶかスーツに真ん丸眼鏡のドジっ子、Mr.YUなる役どころを与えられた。かわいらしい声での歌唱もあり、男役芸、そしてコメディ・センスがしっかり身についていない者でなければ到底魅せられない長さのあるシークエンスなのだが、真飛はここで、チャーミングな個性をフルに発揮して観客を大いに魅了した。それは例えば、終始強烈な個性で押し通した2003年の「雨に唄えば」のリナあたりと比べても、格段の進歩を感じさせた。あまりやりすぎてしまうと、コミカルなキャラは鼻につかないでもない。けれども、Mr.YUを演じた真飛は、キャラの押し出し加減や笑いの加減のあんばいが絶妙だった。
 続いて真飛は、年末年始にかけて、シアター・ドラマシティと日本青年館で「相棒」に主演した。そう、テレビ朝日系で放映され、人気を博した、水谷豊主演の刑事ドラマの宝塚版である。ちなみに、この作品の話をすると、「えっ、宝塚ってそんな舞台もやってるんですか???」と驚く人が非常に多いのだけれども、宝塚はそんな舞台もやっているのである。そして、今この文章を読んで少しでも興味をもたれた向きにはDVDでの鑑賞を大いにお勧めしたいスマッシュ・ヒットである。映像から飛び出してきたとんでもなく強烈な個性の面々が繰り広げる、抱腹絶倒でありながらも、宝塚の“清く正しく美しく”にもきっちり則った作品だった。
 しかしながら、ここで真飛に与えられた主人公・杉下右京こそ、近年の宝塚歌劇において最高難度を誇る役どころの一つだった。何しろ、ドラマ版でこの役を演じている水谷豊に似ていなくては話にならない。それでいて、宝塚の男役が演じるからこその滋味をキャラクターに与えられることが要求されてくる。しかもコメディ。ハードルの高さやかくや。けれどもここで、真飛は、周囲の超個性派の面々を自由にはじけさせ、遊ばせながらも、水谷豊の創ったキャラクターに則った、それでいて、男役という存在だけが内包する魅力をきっちりとアピールする好演で、作品の成功の最大の立役者となったのである(これについては何も私一人の意見ではなくて、テレビ朝日事業部の某嬢もまったく同意見でした)。このドラマをまったく観たことがなかった私も、宝塚版を大いに楽しんだだけでなく、今度、ドラマの方も観てみたいなと思わずにはいられなかった。

 そして、2010年秋。「麗しのサブリナ」「EXCITER!!」の二本立てで、真飛聖は遂に決定的進化を遂げた。
 「麗しのサブリナ」での真飛の役柄は、映画版ではハンフリー・ボガートが扮したライナス・ララビー。素直でまっすぐなヒロイン・サブリナの心にふれ、はっちゃけて破天荒な弟デイヴィッドに後押しされて、閉ざしていた心を開いていく、動ではなく静で魅せる役柄である。この耐える男の役どころを、真飛は、コートを羽織った後ろ姿にも哀愁がにじむ、男役の美学薫る演技で体現。派手なナンバーがあるわけではない、渋いたたずまいの中に、サブリナと接するうちに生まれる微妙な心情の変化を確かに見せていった。淡々と日々を送るかに見えたライナスの中には、ビルから飛び降りて命を絶ちたいとまで思った絶望があった。それでも彼は、ビルの下で子供たちが遊んでいるのを見て思いとどまる。実業家として事業の拡張に邁進するのも、お金儲けが目的ではなく、その事業の発展によって恩恵を受ける人々のことを考えればこそ。他人のことを優先する、心優しき人なのである。だから、事業拡張とサブリナへの愛に板挟みになり、サブリナは弟デイヴィッドの方を愛しているだろうと一度は身を引く決心をした彼が、弟に殴られ、心を決めて、サブリナの乗るパリ行きの船“リベルテ”号の甲板に姿を現すとき、観客は心から彼に喝采を送るのである。ああ、彼はやっと、自分の心のままに生きる決心ができて、愛する人と幸せになれるのだ……と。愛を選んで“リベルテ”−自由−号に乗るライナス。その晴れやかな姿は、宝塚の舞台への愛を貫き通した果てに、今、舞台人として覚醒し、真の自由をつかんだ真飛聖の姿と重なる。
 新場面も加わり、再演といえど新たな装いとなったショー「EXCITER!!」の中では、真飛聖はもう、水を得た魚のように自由自在である。オープニング、大階段での登場シーンで着用した衣装の、淡く美しい水色の何と似合うことか。そうして貴公子ぶりでアピールしたかと思うや否や、さっと紅の衣装に早変わりして、ワイルドな魅力を見せる。
 パッショネイトにタンゴを踊るその姿を観ていて、こんなに複雑な男役像を一つに収斂させるまでには、時間がかかるのも無理はない、そう思わずにはいられなかった。何しろ、星組での下級生時代から吸収してきたのであろう、実に多種多様な先輩男役の愛すべき個性が、真飛の中からそれは次々と飛び出してきたからである。真飛が新人公演でその役を三度演じた、星組トップスター、稔幸の洗練。稔の次にトップを務めた香寿たつきの“おっさん”芸。香寿の後を継いだ湖月わたるのオラオラ男前芸。どこか似た個性をもつ、四代前の花組トップスター、真矢みきの粋。星組時代の先輩、安蘭けいのドスの効いた凄みや、前花組トップスター、春野寿美礼の人智を超えた包容力も見えた。しなやかにりりしく強く、骨太に耐える粋な男役。それが、真飛聖という男役が今、達し得た境地なのである。
 そして、Mr.YU。キュートなドジっ子が「チェンジBOX」に入ると、究極の男に変身する――。これはほとんど、宝塚の男役のアナロジーである。男役・真飛聖にとっての「チェンジBOX」とは、「スカーレット ピンパーネル」におけるパーシー/グラパンの如き、役者としての根幹、本質を見せる装置に他ならない。
 だからこそ、Mr.YUとして、真飛聖という男役を成り立たせている存在が本質的にもつキュートさを発揮しつつも、決して女性の部分を見せることはないそのパフォーマンスに、私は逆に、海外ミュージカル作品のヒロインの役どころは、この人にどんなにハマることだろう……と、未来を夢想したのである。今はその男役芸を堪能していたいから、無論、先のことでいいのだけれども。
 もう、先輩男役の誰にも憧れる必要はない。今の真飛なら、海外ミュージカルでも、宝塚ならではのオリジナル作品でも、何でもござれだろう。ただ一つ、芸とは、「これでいいんだ」と思い上がった瞬間、それは笑ってしまうほどにあっけなく情けなく堕落するものだということだけ心に留めて、これまで耐えに耐えて男役芸をじっくり培ってきた精神で、今後もまっすぐに歩んでゆけば、舞台人としての未来はますます拓かれてゆくことと思う。舞台人としての覚醒を、心から祝福するものである。