藤本真由オフィシャルブログ

 男役・水夏希がもたらしてくれた宝塚歌劇論について、私は、発売中のレプリークBis vol.19に、<“行動するリーダー”水夏希を送る>と題して書いている(特集は「ウィ−ン・ミュージカルのすべて」)。さまざまなスターの退団に当たり、このブログでこうしてしたためている「送る言葉」を、今回初めて、写真も交えて誌面に記すことになった。本来ならばもっと早くご紹介すべきだったのだけれども、どうにもできなくて、発売から一ヵ月も経った今、ようやっとご紹介しているのは……、退団がさみしかったからである。取材しているときからまずい! と思うくらいに。だから、退団の日まで考えないようにしていたかもしれない。
 けれども、とうとう考えなくてはいけない日が来てしまって、……今思うのはやはり、どうしようもなく、さみしいなあということである。水夏希は、私がこうして宝塚歌劇の評論を手がけていることには意味があると、明確な形で初めて示してくれたタカラジェンヌだった。

 水が、赤十字の創始者アンリー・デュナンを熱演した「ソルフェリーノの夜明け」を観ていて、私は、大学時代の恩師、鴨武彦氏をどうしようもなく思い出していた。「ソルフェリーノの夜明け」のデュナンは、負傷兵を施設の整った病院まで送り届けようと、緊迫する戦地を無謀にも横断しようとし、周りの多くの人々にその“夢想”を否定される。そんな水デュナンを観ていたら、「世界平和は必ず実現します」と、涼しげな顔で断言してやまなかった一人の国際政治学者の姿が、思い起こされてならなかったのである。大学生なんて生意気盛りもいいところである。周りの男子学生の多くは、「平和なんて実現するわけないじゃねえか」と言い放って憚らなかったし、私自身も内心、……難しそうだよな、先生はロマンティストだな……と思っていたのである。
 それが、負傷兵を救いたいと、血気盛んな軍人たち相手に無謀にも熱弁をふるう水デュナンを観ていて……鴨先生は、世界平和の実現の困難や、反発や否定を受けることなど承知の上で、敢えて、その言葉を口にしていたのではなかったかと思ったのである。
 どんなに実現が困難であろうと、人間には、実現すべき、もしくは、実現に向けて少しずつでもたゆまぬ努力を続けるべき目標がある。それを、無理です、はい、終了と言ってしまっては、何にもならない。何も言ったことにも、何をしたことにもならない。“インテリ”とは、自分が人より知識がある、もしくは、あるかもしれない程度のことを笠に着て、ああでもないこうでもないと、したり顔で批評したり批判したりして、何かをしたつもりになっている人間に対して向けられる、もはや“蔑称”である。何かを成し遂げるためには、行動しなくてはならない。きっちりとした意味をもたらす行動を。
 ――大学を卒業して十五年目にして、恩師の教えが初めて身に沁みた気がして、私は、「ソルフェリーノの夜明け」のラスト、赤十字の大きな旗を振りながら花道を去る水デュナンの姿が、照明によって幕に影を落とす光景が、忘れられない――。

 いつ、なんどき取材することがあっても、水さんは常に平常心に見えた。本当に忙しいときもあったと思うし、実際、今、ホントに大変なんですよ〜と口にすることはあっても、忙しさに揺れる心を相手にぶつけるようなことは決してしなかった。それは、水さんが、「私は誰であれ、“対人間”をモットーにしてきた」と語る人間だったからだと思う。あなたと私は同じ人間で、それぞれに立場があって、世界は全体として成り立っている。そんな方針を常に貫いていた。それは、背負うべき責任があまりに多い、宝塚のトップスターという立場にあっては、ときにとてつもなく難しいことではないかと思うけれども。
 だいぶ前のことになるけれども、水さんが、取材していた私の着ていた黒いワンピースをほめてくれたことがある。トップスとボトムスとが異素材で、スカート部分が三段フリルになっていて、自分としてもけっこう気に入っていた。それを、「ホントかわいいですよね〜」と、例によって、勢い&誠意にあふれる感じで、ほめてくれるのである(注:かわいいのはあひるではなく、あくまでワンピース)。私はそのころ、水さんに乙女の部分が大いにあるとはそんなには知らなかったので、男役として、私には一生着こなせないようなマニッシュな衣装をビシバシ着こなして人々を魅了している人が、フリルをかわいいかわいい言っているのが、何だかおかしかったのである。
 けれども、今となっては、そのフリルをかわいいと思う気持ちを心の内に通底させて、水さんと私は、異なる立場で、宝塚歌劇に情熱を注いでいたように思うのである。そのことを、水さんは理解してくれていた、そう思うから、退団がこんなにもさみしいのである。
 歌劇団での最後の取材のとき、水さんは、「これからもよろしくお願いしますね」と言ったのである。てっきり、退団してもよろしくお願いしますね……という意味だと思っていたら、「宝塚のこと」と続けられて、……私はもう、何だか言葉に詰まってしまったのである。私は、宝塚歌劇団の人間ではないが、宝塚を真摯に愛し続けた人にそう言われてしまっては、「わかりました」と言うしかなかった。しかし、とんでもなくさみしくなって、水さんが、宝塚歌劇検定のHPで、私の書いた「公式テキスト」を、仕事上とはいえ、おもしろいと宣伝してくださったお礼を言うのを忘れてしまったことを悔いている。
 思えば、退団したら宝塚コメンテーターになってほしいと考えたのも、何とかして水さんを宝塚から去らせたくないという想いからかもしれない。実際、四組を経験した水さんの言葉には、深みがあると思うのである。「スカーレット ピンパーネル」の星組版と月組版の違いも、水さんがかつて解説してくれた組ごとの分析によって理解できた部分も少なくなかった。
 ちなみに、件の黒いワンピースだが、「水さんがほめてくれたあれを着よう」と、かなりヘビーローテーションして、着古してしまった。けれども今も、お守りのように、私のクローゼットにかかっている。
 宝塚雪組公演「ロジェ」を観ていて、私は、作・演出の正塚晴彦の心と“対話”していた。何度も泣いた。
 前作「ラスト プレイ」について、昨年暮れ、私はこう記したものである(<「書けない!」もとい「弾けない!」〜月組公演総集編>http://daisy.eplus2.jp/article/136655817.html)。
<「ラスト プレイ」とは、作・演出の正塚晴彦にとって、自分の演劇的良心と対話を遂げる話なのだなと思い至ったのである。物を書く人間である以上、正塚自身、筆が進まなくて苦悩することも大いにあるだろう。そして、書き上げた脚本を酷評され、自分自身が否定されたと感じて思いつめたことが一度もなかったとは言いきれまい。もう書けない、書くことなんてできなくていい――そこまで追いつめられたときに、劇作家自身が、自らが演劇に向かう初心、良心といま一度向き合って、交わす会話。それが、アリステアとムーアのあの、「弾け!」「弾けない!」の火花を散らすようなやりとりなのである。>
 このたびの「ロジェ」という作品では、正塚は、かつて自分の心を踏みにじって追いつめ、書けないような状態に追いやった過去の事実について、ときに率直すぎるほどに語る。家族を無残に殺された主人公ロジェは、24年もの間、復讐の念一筋に生きてきて、結局はその殺した相手を殺さない。一見、復讐は成らなかったように見えるけれども、劇作家自身は、この作品を書き上げたことで見事に“復讐”を果たしている。あっぱれという他ない。表現者は、自分の選んだ表現手段で“復讐”を遂げるべきなのである。
 24年間も憎んできた相手を、殺そうと思えば殺せたけれども、結局は殺さなかった。それは、ロジェが、そのように無残に人を殺せる人間など人間ではなく、獣でしかないと固く信じてきたにも関わらず、いざ向き合った相手シュミットは、どうしようもなく弱さを内包した、人間だったからである。収容所にいる全員の処刑命令を拒んだおかげで死を宣告されたシュミットが、逃亡して飢え、食料を探して盗みに入ったのが少年ロジェの家だった。ロジェの父親に発砲されたシュミットは、ここで死ぬのか……という一心でナイフで応戦してしまったのである。獣と蔑み、憎んできた相手もまた、人間でしかなかった。そんな厳然たる事実を突き付けられたロジェは、シュミットを殺さない。殺せない。
 追いつめられて、人を殺す人間と、殺さない人間とがいる。シュミットは前者で、ロジェは後者で、けれども、どちらもやはり、人間である。そして、殺す人間の中にもやはり、“清く正しく美しく”は存在するのかもしれない――。人間存在をここまで描き切ってしまったことで、もはや、宝塚歌劇においては安易な復讐譚は成立しない。その意味で、「ロジェ」は宝塚歌劇の新たな地平を拓く作品なのである。傑作である。
 「ロジェ」は雪組トップスター水夏希の退団公演にあたる。退団公演において、佳作が生まれることは決して少なくないが、傑作が生まれることは決して多くはない。惜別の念があふれすぎてしまうケースも少なくない。「ロジェ」の前、文句なしに傑作だったと言えるのは……と歴史をたどって思い浮かぶのは、かつて正塚自身が、正塚の作品世界を誰よりも巧みに体現できる男役として名高かった月組トップスター・久世星佳のために書いた「バロンの末裔」(1996〜1997)である。貴族家の次男坊を演じた久世が、生家を去るにあたり、「(私は)バロンの末裔なのだから!」と高らかに言い切るシーンは、宝塚を去るにあたり、卒業生としての誇りをもって生きていってほしい……との、正塚の思いがこめられた名場面だった。久世と、トップ娘役の風花舞が緊迫したやりとりを重ね、深く愛し合いながらも結局は別離を選ぶ“雉打ちの場面”も、芝居作品におけるトップコンビの可能性の一つの頂点として、今も深く心に残っている。

 「バロンの末裔」から13年の時が流れて、雪組トップスター水夏希が、「ロジェ」で退団する。水は月組での下級生時代、「バロンの末裔」に出演していたという縁がある。2008年の「マリポーサの花」もそうだが、水夏希は、正塚晴彦に一歩踏み込ませてしまう、書かせてしまう男役なのである。人生の途に迷いたたずむ男性像の魅力を多く書いてきた正塚が、水に対しては、能動を、行動を書いてしまう。能動を書き切る行為こそ、また能動に他ならない。そして、水夏希ならば演じられる――と、劇作家の真摯な思いを手渡されることは、演者にとって最高の餞でなくてなんであろう。
 作品は、銀橋にたたずむロジェが、舞台上を埋め尽くす雪組生と共に、人と人との出会いの不思議とその尊さを祝福して歌い、見送られて花道を去って終わる。憎んだ相手シュミットも含め、登場人物全員に見送られるロジェ。その姿は、今、宝塚歌劇に別れを告げる水夏希の姿とそのまま重なる。何か不思議な運命に導かれて、人は出会い、束の間の時を共に過ごし、別れてゆく。それが人生の必然である。“卒業”の制度のある宝塚で、ときにとりわけ明示的になる必然である。多くのタカラジェンヌと出会い、作品創りに情熱を共に傾け、そして、別れがあったこと。ここで正塚は、宝塚における己の表現者としての人生を肯定する。そう、「ロジェ」は、宝塚の座付き作家として創造に情熱を燃やす人生を生きてきた正塚晴彦が、表現者としてのかつての無念を晴らし、己の人生を受け入れた、どこかほろ苦くもせつない喜びに満ちた作品なのである。
 ロジェのかたわらに終始寄り添うバシュレ役を、正塚作品の常連ともいえる存在、専科の未沙のえるが演じているのがまた、象徴的である。去りゆくことが必然の宝塚にあって、去らない存在。その未沙自身、長らく、呪縛から解けずにいた。“未沙のえる”という名の呪縛から。この人はもう、“未沙のえる”を演じることにしか興味はないのだろうか――何度、そう書こうと思ったことか。それは決して、未沙一人の責任に帰すべき問題ではない。“未沙のえる”に“未沙のえる”を演じることを求めてきた者すべてに帰すべき問題なのである。けれども、「ロジェ」での未沙のえるは、長きの呪縛から解けて、別人のような舞台を見せていた。この人にはこんな表情が、こんな一面があったのだ、未沙のえるとはこんな演者だったのだ……と、新鮮な驚きを感じさせて、……だから、私は心からうれしかったのである。
 正塚晴彦と未沙のえる、二人の次の公演は「はじめて愛した」。水夏希の後を継いでトップスターとなる音月桂のプレお披露目公演で、二人にとって、宝塚歌劇にとって、新たな世界が広がるのを、楽しみにしている。――タカラジェンヌは去っても、去らない観客もまた、いるのである。
 雪組トップ娘役・愛原実花は実によく白が似合った。白の衣装で登場すると、まるで発光しているように、圧倒的なオーラを放つ。そのままの姿で初日前の囲み会見に現れると、間近で目の当たりにするあまりのまばゆさに、目が、目がまぶしいよう〜と思ったものである。
 囲み会見での彼女は、雪組トップスター水夏希の言葉を、それは真剣な表情で、集中して聞き入っているのだった。「この人の言葉には、一言だって聞き洩らしてはならない、これほどまでに真摯に聞かねばならない重みがあるのです!!!」と全身で訴えるその様子に、宝塚のトップコンビの美点の一つを感じ入らずにはいられなかった。トップスターが歌い、踊り、セリフを語る、その真横に、「そう、その通りです!」と、微笑みや目線で肯定してくれる存在があればこそ、トップスターの一挙手一投足がさらなる説得力をもって客席に届くのである。
 彼女が質問に答える番が来ると、今度は、水夏希が、大丈夫かな、ちゃんと質問意図を理解した答えができるかなと見守っている。何だかまるで、先生と生徒みたいだな……と、何とも微笑ましかったのを覚えている。
 それでいて、組んでのダンスシーンともなれば攻守逆転、妖艶な愛原の踊りに、トップスターが翻弄され、男役としてまた奥深い色気をふりまいてゆくのが、人の関係の不思議を思わせて、興味深くてならなかった。なかでも印象深いのが、「カルネヴァーレ睡夢」の“カナルグランデ 深夜”の場面である。コンテンポラリーの要素が盛り込まれたこのダンスシーンで、愛原の長い腕はしなやかに、雄弁に、魅力を放っていた。かつて、2004年月組公演「薔薇の封印」で、ヴァンパイアの主人公を演じる紫吹淳が、島崎徹の振付による、時を超えるダンスを踊って圧倒したことがある。その時以来となる、宝塚の舞台におけるコンテンポラリーダンスの名場面……と思っていたのだが、その後、愛原が実際に島崎の指導を受けたことがあると知って、何だか一人納得していたのだった。
 「カルネヴァーレ睡夢」では、パンツルックに身を包み、炎の鳥となった水を再び翻弄する“カルネヴァーレU 炎”の場面も印象に残っている。パンツルックでそれは颯爽と踊っても、愛原の表現は決して“男前”とはならない。それは潔くてかっこよい、“少女”なのである。宝塚の娘役には“男前”と“絶対的少女性”の方向性が可能性としてあることに思い至った瞬間だった。
 もっとも、彼女の舞台人としての魅力は、宝塚においてフルに発揮されたとは言い難い。「歌劇」誌で、演出家・小池修一郎が彼女をそれは残念気に送った言葉に、同意する。人生の決断に水を差すものではないけれども、宝塚の舞台で彼女をもっともっと観ていたかった、そう思う気持ちでいっぱいである。

 宝塚大劇場での退団公演中に、愛原は父君、つかこうへい氏を亡くした。それでも彼女は舞台に立った。私は、実家の愛犬が死んだ夜は原稿が書けなかった弱い人間である。彼女が舞台に捧げる真摯な想いを、心から尊敬する。
 演劇人つかこうへいについていえば、私は完璧に遅れてきた世代である。取材の機会がやってくることは、結局、ないままに終わってしまった。
 それでも、一度だけ、氏の素顔にふれる機会があった。氏のとある作品を手がけている演出家と、その主演女優とが交際していて、二人の初めての公式なツーショットを、私が当時勤務していた雑誌で披露させてもらえることになったのである。演出家と私の上司が知り合いだったから、事前に話はついていた。けれども、実際現場に出向くと、どうも雲行きが怪しい。このままじゃ写真を押さえられないな、編集部に帰ったらどんなに怒られるだろう……と内心おびえていたあひる。そこへ、近くでやりとりを聞いていたつか氏が、初めて口を開いてこう言い放ったのである。
「ゲスな感じじゃなきゃいいんだろ」
 “ゲス”という言葉を日常会話で聞いたのは生まれて初めてかもしれない……と思いつつも、私は、その“ゲス”という言葉がまったくもって“ゲス”ではなく、むしろ品のよさと、それでいて、その言葉が当然もつべき凄みを伴って発されたことに、驚いたのである。その一言で現場の空気は一変、まだまだひよこ時代のあひる記者は無事ツーショット写真を入手し、編集部に帰還することができたのだった。もっとも、この話をここで書くのは、何も、つか氏にそのときの恩義を感じていたから、その娘さんを好意をもって見守っていたということでは決してない。氏への感謝の念と、愛原実花という舞台人に魅力を感じるのとは、まったく別の話である。
 私にはずっと、夢があったのである。現在、宙組が全国ツアー公演において、氏の「蒲田行進曲」を原作とする「銀ちゃんの恋」を上演中だが、自身の作品と宝塚歌劇の舞台との比較、宝塚歌劇を舞台芸術としてどう評するか、そして、愛娘を舞台人としてどう評するか、直撃してみたかった。その夢はかなわぬままになってしまったけれども、愛原実花の宝塚卒業にあたって、私は、氏に聞くのではなく、むしろ、氏にきっぱり言うべきなのだろうと思うのである。
 お嬢さんは、魅力的な宝塚のトップ娘役でした……と。
 退団公演の初日前の囲み会見では、水夏希の言葉に耳を傾けるあのかわいらしい姿が見られなかったのが残念である。本当に、本当にお疲れ様。そして、心から微笑むことのできる日が来たら、また舞台に戻ってきてほしいなと……。愛原実花はやはり、舞台に生きる人だと思うから。そのときは、不肖あひるが、お父上に負けない厳しい目で、見ています――。
 「人間のこんな部分、見たくない! やめて! もう、やめて!!!」
 まるで野田秀樹作品か松尾スズキ作品を観ているときのように、心がそんな悲鳴をあげるほどの思いをしたのは、宝塚歌劇作品では初めてかもしれない。それほどまでに、宝塚版“蒲田行進曲”こと宙組公演「銀ちゃんの恋」で、大部屋役者ヤスを演じる北翔海莉の演技は、凄まじかった。スターとその子分と、自尊心をめぐるときに残酷な心理ゲームの中、狂気と自虐の限りを尽くした果てに生のきらめきの刹那を見せるヤス役の北翔は、宝塚や男役といった枠組みを超えて、役者、すなわち、己の内面をさらけ出して舞台上に生きることを選んだ人間だけがもつ、いびつだからこそ人をひきつけてやまない輝きに満ちて、作品の本質を慄然とするほどに指し示していた。
 「カサブランカ」「TRAFALGER」と、このところの北翔の舞台は決して悪かったわけではない。いずれも水準以上の好演だった。しかしながら、私は別に、“水準以上の好演”程度のものを、北翔海莉に求めているわけではない。かつて、霧矢大夢が「エリザベート」でルキーニ役を演じたとき、すべては己が見せている“劇場”として物語を自分のものにしてしまったように、敵か味方か、こうもりのように保身にさとい警視総監ルノーを演じて、北翔は、戦時下のような特殊な状況においては、多くの人はそのようにして生きるしかすべはなかった――として、「カサブランカ」を自分の物語にすることだってできた、私はそう思っていたのである。この物語にはそのように魅力的な解釈もできる、そう提示することは、何も、主役の領域をおびやかすまでのことでは決してない。北翔海莉ならそこまでできる、そう思っていたから、歯がゆかったのである。私は、「スカーレット ピンパーネル」の初演を観たときから、いつか、北翔がパーシー/グラパンを演じて、人間の内面の複雑性を示してくれることをひそかに夢見ていたくらいなのである。それが、作品こそ違え、人間の本質に迫る圧巻の演技を見せて、飲めないあひるも今夜は祝杯である!
 最後に一つだけ。男役・北翔海莉は、本質的には正統派二枚目である。巧くて、それでいてヒーローが似合う人である。このところ渋い役どころでの好演が続き過ぎていて、周りも、そして、ときに当の本人も忘れているのじゃないかと心配になったりしなくもないので、念のため。
 作・演出の正塚晴彦が、今回の公演をもって退団する雪組トップスター、水夏希とがっちりタッグを組んだ「ロジェ」は、宝塚歌劇の新たなる地平に敢然と踏み込んだ作品である。正塚がここで描き切った信条、死生観を、私は断固、支持する。
 正塚の演劇的良心を誰より支えたのが、主人公ロジェを演じた水夏希であることは言を俟たない。だが、水のロジェが物語終盤、下す一つの決断――その決断こそ、宝塚歌劇を新たなる地平へと踏み込ませるものに他ならないのだが――を支える、欠くべからざる存在がいる。“悪役”シュミットを、人間としての高貴さを決して失うことなく演じる緒月遠麻である。素晴らしい演技である。出番がほとんどなく、悪事に対する善人的言い訳もあまり担保されない中、彼の中にそれでも残る“清く正しく美しく”あるものを、堂々たる存在感をもって描き出す。今年の宝塚における最優秀助演賞候補の最右翼に躍り出る好演である。人々のセリフの中でのみ語られるシュミットの人間像をさらに深くつなぎあわせ、死に臨む覚悟をさらなる凄みで表現してゆければ、緒月は、男役として、舞台人として、この公演で決定的な成長を遂げることと思う。
 そして、ここに提言する。今こそ緒月遠麻に主演作を与えるべきである。この人に、新人公演主演という、トップスター候補となるチャンスが与えられなかったのは、21世紀の宝塚における最大の謎である。しかし、役替わり公演でこの条件をクリアした、同じ雪組の先代トップスター、朝海ひかるという前例もある。センターにふさわしい資質を兼ね備えた人材かどうか、一度試すべきである。今の緒月ならそのハードルを軽々と超えるであろうことを、私は確信するものである。宝塚歌劇創立百周年に向けて、英断が待たれる。
 今回の公演タイトル“トラファルガー”に、今から14年ほど前のことを懐かしく思い出した次第。
 結婚後半年ほどで、あひるの夫は一人で海外留学に向かった。目的地はイギリス。英語があんまりしゃべれず、白米が大好物でパンは苦手という彼の単身での留学は行き先大いに危ぶまれるものがあった(実際、留学中にやせてパスポートの写真と別人のようになってしまって、パスポート審査ではいつも「これは本当にお前か?」と問い質されるというネタを提供)。しかし、あひるは出版社に入社したばかりで、ついていくという選択肢はまったく考えられなかった。ロンドンに到着した日にそれは心細そうに電話してきて、やっぱり一緒に行けばよかったかなあ…と後悔したのを覚えている。
 心配の種はもう一つあった。夫はかなりの方向音痴なのである。ちなみに、あひるの異名は“磁石を飲み込んだ女”である。生まれて初めて行ったロンドン郊外の街で、到着後わずか30分で、適当なバスに見当をつけて乗り降りして無事目的地にたどり着いたこともあるし、迷宮のようなヴェネツィアの街も迷うことはなかった。夫と一緒に出かけて、「あれ、方向、どっちだったかなあ?」と迷っているのを見ると、「ふふ、今ここで私が君をおいて一人で立ち去ったら、君は家に帰れないかもしれない。君の運命は私の手の中にあることを心せよ〜」と、内心ほくそ笑んでいたりすることもある、ダークあひる。
 それで、夫は、二年間の留学中も、後の三年間のハノイ勤務時代も、毎日、日本時間0時に欠かさず電話してきた非常にまめな人なのだが(ケム川のほとりで鴨だかあひるだかをずっと眺めていて、うっかり遅れたことはあった)、留学中、ロンドン到着して間もないころ、電話がかかってきて、「今どこにいるの?」と問うと、必ず、「トラファルガー広場だよ!」と返ってくるのだった。そんなに毎日行っちゃうほどトラファルガー広場が好きか!!! と思ったら、それは、方向音痴ゆえの苦肉の策だったのである。バスに乗ると、トラファルガー広場を通過する便が多い。広場のあたりは一面パッと視界が開けるから、そこなら、方向音痴の彼でも方角がわかりやすい。広場に到着して、電話して、そこから、方角を見定めてソーホーの日本料理屋に向かったりしていたそうで…。方向音痴だといろいろな苦労があって、それゆえの工夫が生まれるんだなあ…と思ったものである。今回、公演を見ていて、夫がトラファルガー広場で、あっちかな、こっちかなと迷っているのを、記念碑の上のネルソン提督がずっと見守っていたんだなあと、何だかちょっとじーんとしてしまった…。
 しかし。夫は、方向音痴ではあるが、人生にはほとんど迷わないのがうらやましいところである。歩く道は迷う割に、人生においては、「目的地がそこなら、こう進むしかないでしょ!」とビシッと示してくれたりして、え、道なき道なんだけど、自分で道を作って進めってこと? とちょっとうろたえてしまったりするあひる。あひるは、人生においては、体力に任せて、可能な道を行ったり来たりして全部試してみようかなと思う、それはドンくさいタイプだったりするので…。ま、夫婦で適当にバランス取れているところが長続きの秘訣なのかもしれませぬ…。
 番外編、これにて終了〜。
 1月3日に宙組公演「カサブランカ」の舞台稽古を観て、…心にずーんと来すぎて、何だか落ち込んでしまった2010年の年明けなのだった。手帳を見ても、それから数日間、真っ白なのは、家でぼーっとしていたためだと思う。
 理由は、明白である。2009年12月30日付で、<合言葉は「プリティ・イン・ピンク」!〜ジョン・ヒューズを送るhttp://daisy.eplus2.jp/article/136903373.html>なる記事をアップした。その中で、映画「ストリート・オブ・ファイヤー」の主役、マイケル・パレがヒロインの歌姫に向かって言う、「俺はお前の荷物持ちにはなれん。でも、俺が必要なときには呼んでくれ。助けにくる」なるかっこいいセリフを、いつか言われてみたいと長年思っているうち、むしろ自分で言ったれ! と思うようになってきた…という話を書いたのだけれども、わずか四日後に、「そういうやせ我慢の美学を、お前は実際に、本当に、やり通す覚悟があるのか!」と、「カサブランカ」で大空祐飛演じる主人公リックの姿に突き付けられたようで、自分の人間としての甘さを思いっきり突き付けられたようで、新年早々落ち込んでしまったのである。舞台版「カサブランカ」を観て最初に思ったことは、「やっぱり愛する者同士、結ばれなくっちゃいやだ!」という、どこか子供っぽい感慨だったから。
 自分には愛する人がいて、その人も自分を愛していて、でも、その人には他に大切な誰かもいて、誰かが身を引かなくては事は収まらない。しかも、その大切な誰かは、多くの人間の生命を救う上で非常に重要な任務を背負った人物でもある。これが、「カサブランカ」の主人公リックとヒロイン・イルザ、その夫ラズロのおかれた三角関係である。基本的に、この世でもっとも大切なのは愛でしかないとそれは固く信じ切っている人間なので、何らかの事情があって、愛し合った二人が一緒に生きて愛を貫けない話にそれは身悶えしてしまうのである。まだ幼稚園のときに出会った少女漫画の傑作「キャンディ♥キャンディ」は、今から思えば、役者の生理の神秘を初めて教わった大切な作品なのだが、やっぱりキャンディとテリィは結ばれるべきだったんじゃないの! と永遠に納得が行かないであろう自分がいる。…というあたりで、やせ我慢の美学はあひるにはやっぱり無理なのかも…と思わないでもないけれども、「カサブランカ」も、ナチスに追われているラズロを逃がすのはいいとして、リックも、物わかりよく引きさがってしまうのではなくて、後からイルザと一緒に脱出する手段を何とか考えてでも、愛する人と共に生きる道を模索すべきなんじゃないのか…と思ってしまったのである。これほどまでにあひるは、愛と共に生きることに非常に貪欲である。…けれども、昨年経験したとある出来事を思い出すうち、ああ、リックのおかれた心理的状況も、同じようなことだったのかもしれないな…と思えるようになったのである。
 …お前は、もっとも愛が困難に思える状況において、愛を貫いたか…と、内なる声が聞こえる。成し得る限り、最善を尽くしました、そう私は答える。では、観るがよいと、声が答える。目を開ける。――そこに広がる光景すべてが、私の瞳に乾杯している。
 大空祐飛の宙組トップスターお披露目作「カサブランカ」は、私にとって、そんな重みのある舞台だったのである。なぜなら、その舞台姿は、私を舞台評論の道にいざなった人物の姿を、あまりに懐かしく彷彿とさせたからである。この道を志して以来、何度もつまづいて、ときには逃げ出したくなるほど苦しくなって、それでもやはり、一心に歩んでゆくしか道はない……と思って進んできたら、同じ美しい想い出を心に抱いて歩んできた人と邂逅してしまった、そんな驚き。想い出を、舞台上と客席とで、そんな形で共有できると知ったのは、それが初めてだった。
 宙組公演「TRAFALGER」「ファンキー・サンシャイン」で、トップ娘役・野々すみ花の魅力が遂に! 花開いた。
 下級生の頃からその芝居の巧さには定評があったけれども、個人的には、まだまだ上に行ける人なのにな…とずっと思っていた。何というか、“正解”を、自分の中にではなく、自分の外、例えば、他の女優やかつての偉大な娘役たちだったらどう演じるか…というところに求めていて、舞台がどこか優等生的に落ち着き過ぎている感じがしていたからである。稽古場であまりに“正解”をきっちり創ってきてしまっていて、いざ舞台に立ったとき、役柄を自由に生きて楽しめていない風なのも気になった。取材でお会いしたときも、若いながら非常にしっかりしていそうなところ、雑談中など、それはかわいらしい天然ボケが炸裂するのが魅力的なのに、いざ取材が始まると何だか優等生になってしまう。もっと自由に、自然に、無邪気にかわいらしいところを、舞台でも見せられるようになったらいいのに…とずっと思っていた。
 それが、「カサブランカ」の東京公演の後半、自然に自由に役を生き、全身全霊をぶつける大空祐飛の相手を務めるうち、可憐な花のつぼみがほころび始めるように、徐々に変化が表れてきた。そして、今回の二本立てで、遂に魅力開花と相成ったのが喜ばしい。
 「TRAFALGER」で野々が演じているのは、イギリス海軍の英雄ホレイショ・ネルソンと不倫の恋に落ち、彼の子供を宿してしまう“ファム・ファタル”エマという、宝塚のトップ娘役としてはかなりの難役である。夫の殺害を夢想する「相棒」のパリス、親を殺されたことから負傷兵を国籍によって差別する「ソルフェリーノの夜明け」の看護婦アンリエットと、最近、トップ娘役に課せられるのは、観客の共感を誘いにくい、ハードルが高い役どころが多い。けれども、前者を演じた花組の桜乃彩音、後者を演じた雪組の愛原実花とも、「私はこんな役じゃなくて、もっとかわいらしく、観客受けする“いい役”がやりたい」などという甘えはいっさい見せず、難しい役どころに果敢に取り組み、舞台人として大きな成長を見せたことが記憶に新しい。はたして野々も、奔放なヒロインをコケティッシュな魅力全開で演じ切って、宝塚の娘役の領域を拡張することに成功した。
 彼女の魅力の一つに、セリフ回しのこのうえない色っぽさがある。月組の蒼乃夕妃の持ち味がどこかキリッとしたセクシーさなら、野々の持ち味は、湿度幾分高めにしっとり艶っぽいところにある。「TRAFALGER」で大空祐飛が演じる主人公ホレイショ・ネルソンは、二次元から抜け出てきたような金髪の超絶ビジュアルが、どう考えても女が放っておかないんじゃ…というくらい色男すぎて、軍務に熱心なあまり色恋沙汰にお堅いようには一見思えないのだが、野々扮するエマのこのセリフ回しで、堅物ネルソンが翻弄されている感じがきっちり醸し出されていた。白いエンパイア風ドレスでネルソンと腕を組んで現れるシーンの、清冽な色気といったら!
 ショー「ファンキー・サンシャイン」でも、長い腕を生かしたダンスが、はじけるような色っぽさで実にキュート。「サン・フラワー」の場面では、無邪気なお天気レポーターの大空相手に、若干年上のお姉さん風な魅力。中詰の「サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」でも、低音の迫力に男前な魅力がある。
 下級生時代から活躍してきていたから、何だかもうキャリアを積んでいるように思ってしまっていたけれども、まだ入団六年目なのである。どちらかというと大人っぽい持ち味が勝る人だから、学年を積めばさらなる魅力が開花しそうな気配も感じさせる。大空祐飛も大人っぽいと思えば無邪気というギャップが魅力な男役なので、二人で、同じ方向性を分かち合ったり、逆方向に引き合ったりが自由自在にできるようになれば、トップコンビとしてますます魅力が増すことと思う。前例にとらわれず、自分だけの個性と魅力で、宝塚の娘役の領域を広げ、彼女自身が偉大な娘役の系譜に連なってゆくことを大いに期待したい。二度目の挑戦となる「銀ちゃんの恋」全国ツアー公演で、野々すみ花オリジナルのヒロイン小夏を観られることを楽しみにしている。
 昨年の夏、シャーリー・マクレーン主演の「ココ・シャネル」という映画を観ていたときのこと。ヒロインに群がる男たちが、「僕はもう、君なしでは生きていけない…」といった類の、歯が浮きそうになるセリフを、文字通り歯が浮きそうに発していて、聞いていてちっとも、うらやましいなとか、自分も言われてみたいな…という気持ちにならなくて、いったいこれはどうしたものか、と思った。その直後、宙組公演「逆転裁判2」を観に行ったところ、主人公の熱血弁護士フェニックス・ライトに扮した蘭寿とむが、それは青臭いセリフの連発を余裕で通していて、ああ、蘭寿とむは、“超越”を獲得したスターなのだ…と思わずにはいられなかった。
 普通だったらちょっと言わないようなセリフや、キザに見える仕草も、この人ならば似合ってしまう。歯が浮くからやめて〜ではなく、むしろ、もっともっと言って♡と逆方向に作用する。そんな“超越”を獲得した者、それが“スター”である。普通、こういうこと日常会話で言わないよなあ…とどこかためらいつつ発するから、歯が浮きそうになるセリフがやはり、歯が浮きそうにしか聞こえないのである。そういうためらいが伝わるから、聞いている方も、そうだよな、日常会話では言わないよな…と思ってしまって、ちっともうれしくはならないのである。蘭寿とむを見よ。もはや“超越”自由自在である。
 「君の瞳に乾杯」の名セリフで知られる映画「カサブランカ」だが、宝塚版においては、蘭寿扮するレジスタンスの英雄ヴィクター・ラズロによって、新たなる名セリフの誕生をみた。
「我々は生きている」
 どうです、この直球勝負。「そりゃ人は誰だって生きてるだろうよ!」と突っ込むのはお門違い。蘭寿とむが発すれば、この世に生きる喜び、身体中にみなぎる血潮、そんなものを感じずにはいられないのが不思議である。こんなストレートな人間讃歌を、参加者全員で力の限り大声で歌ってしまったから、地下道での秘密集会もすぐにバレて追われて逃げる羽目になったのでは…と少々思わずにはいられなかったけれども、聞いていて、そうだそうだ、我々は生きているんだ! と内心拳を振り上げたくなる、そんな作用を心にもたらすのは、スターが発すればこそである。また、途中で踊るダンスがまた、「生・き・て・ま・す!!!」と言わんばかりの生命力にあふれていた。蘭寿のダンスといえば、吹き出しでセリフをつけたくなるほどに雄弁で、「Amour それは…」で手話をしながら歌って銀橋を渡るシーンでも、「そうだよな、ダンスでもいつもあれだけ何かを語っているみたいなものだから、一度に一つ以上の伝達方法でないと、心の想いを伝えきれないのかもしれん…」と思わず納得してしまったことを思い出した。実に直球勝負、自分の理想のためならば、他の犠牲も止むを得ないところがある…と、どこか狂気をも感じさせる純粋さで、レジスタンスの英雄ラズロを演じて、大空祐飛扮する主人公リックと実に好対照、好相性で魅せた。大空祐飛といえば“黒”の男役である。いろいろ手を汚したこともあっても、理想と大義のためだから…と己を正当化できるラズロに対し、昔犯した過ちゆえに、俺は幸せになっちゃいけないんだ…とか、ましてや愛する女を幸せにする資格なんかないんだ…とか、それはもう盛大にあれこれ悩んで一人やけ酒をあおったりするところに“黒”の魅力の最骨頂がある。蘭寿のラズロには、そんな大空のリックの魅力を引き立てる味わいがあった。
 “超越”を獲得したスターは、「TRAFALGER」「ファンキー・サンシャイン」でも大活躍である。なんせ、スターである。「TRAFALGER」では実在の英雄ナポレオンに扮しているが、もみ上げも麗しい雄姿を見つめていたら、次第に、スマートな男役が、精力あふれる小男の軍神に見えてきたのが不思議だった。一方の「ファンキー・サンシャイン」では、太陽族の青年YUZOに扮し、合コンならぬ合ハイで知り合ったと思しき恋のお相手に、昭和の名セリフ「幸せだなあ、僕は君といるときが一番幸せなんだ」もバッチリ決めてみせる。さすがはスターである。宝塚の二枚目男役がやる役どころなんだろうか…と思わないでもないところを、嬉々として演じて昭和の時代のめくるめく青春ワールドへと観客をいざない、魅了してしまう。あの笑顔、あの腰つき、「♪真っ赤に燃える〜」の歌い出しの凄み、どこをとっても輝きに満ちている。YUZO、文句なしに今回の心のキャラである。
 最近、観劇の際、前もってプログラムを読んだりしないでフレッシュな状態で臨み、その日感じたことを受け止めるようにしているという話を前にも書いたけれども、今回のショーでも、まったく予習しないで、蘭寿とむが下級生たちを率いて超絶ダンスをバリバリ繰り広げるシーンを観ていて、「粒子運動を思わせるな…」と考えていたら、役どころが実際に“プラズマダンサー”だったのでちょっと驚いた。そして、“ギュイーン、キュルキュル”なんて擬音で形容したくなるその鋭角的な動きを観ていたら、何だか、ヒンドゥー教の太陽神、ヴィシュヌ神を連想してしまったのだった。軍神から太陽族、太陽神まで縦横無尽のスターの今後が楽しみでならない。
 今回、“心の名場面”はありません。すべてが完璧なまでにテンポよく進んでいって、途切れることがないから。そして、どの場面も心に本当に深く残っているから。
 それより何より。遂に、「プロヴァンスの碧い空」を抜く、生涯ベストワン宝塚作品が現れてしまったのだった。まあ、あの作品は、あひるが今の道に進むきっかけを作ったという意味で、“心の永久欠番”みたいなところがありますが……。月組版「スカーレット ピンパーネル」こそ我が家、じゃなかった、心のベストワン!
 それくらい、この作品には、子供のころから抱いてきたわくわくするような夢が、それはいくつもつまっていた。私は小学校のころから、図書館中の本を読み尽くしたくて、毎日、二冊ずつ本を借りてきて、薪を背負って歩きながら本を読む二宮金次郎像のように、ランドセルを背負って歩きながらまで読んでいる子供だった。電信柱に激突しそうになるすんでのところで、近所の人に声をかけられて救われたこともあるから、「赤と黒」のジュリアン・ソレルを笑えない。友達の家に遊びに行っても、本棚の本が気になって、「もう、貸してあげるから、家に持って帰って読んでいいから、今は遊ぼうよ」と怒られたこともある。
 そうして、リトルあひるの心は、本の中の空想の世界に遊んでいた。本の中ではどんな冒険も可能だった。お姫様を救い出すヒーローにもなりたかったし、救い出されるお姫様にもなりたかったし、ヒーローと一緒になって戦う勇敢なお姫様にもなりたかった。七つの海を駆け、山々を越え、地の果てまでめぐってゆきたかった。
 かつての私は、本の世界の中だけに引きこもっているような子供だったのだろうか。そして、大人になった今、多くの夢ははたして叶わなかったと言うべきなのだろうか。否、と私は答える。
 確かに、我々が生きている現実には、ギロチンで政敵を粛清する独裁者もいなければ、幽閉された王太子もいない。日々が血沸き肉躍るような冒険に彩られているわけではない。けれども、物語の中で、想像力を駆使して経験することのできたすべてを、日々の営みの中で生かしてゆくことは可能である。想像力によって、自分の世界、自分の人生を、実際生きている以上に広げ、豊かにしてゆくことができる。そうでなければ、人は、自分の経験したことしかわからない、視野の狭い生き物として生きるしかない。芸術とは、そうして、世界を、人生を広げるために存在するものでもあるのだと、改めて思わずにはいられない。もっとも、これは“物語”の幸せにしてポジティブな効用である。人を縛る、不幸にしてネガティブな効用もあるとは、現在、東京芸術劇場中ホールで上演中のNODA・MAP「ザ・キャラクター」が如実にするところではある(実に骨太で手強い作品なので、現在考察進行中)。

 脚本の解釈。音楽・セリフのテンポ。月組版「スカーレット ピンパーネル」は、清く“正しく”美しい。何より、霧矢大夢によるベルギー人スパイ、グラパンの造形が、脚本の深い読み込みに基づいていて、見事なまでに正しい。宝塚のトップスターが演じる役の従来的範疇を大きく超えていそうな偏屈な老人の役作りである上に、冒頭の登場シーンで演じている老農夫とはまた違った造形なのが、役者としての矜持を大いに感じさせる。
 霧矢大夢は、脚本自体が本来もつおもしろさをまずは優先すべきであって、アドリブだの何だのによって笑いを取ることはその次に来ると考えている、本質、実質重視の役者である。そして、脚本や譜面を正しく読み、それをきっちり再現する才能にも恵まれている。もちろん、関西人である。日替わりのアドリブにも抜群のセンスを発揮して、きっちりオチまでつけて客席を笑いの渦に巻き込んでいた。
 人はなぜ“仮面”をつけるのか、すなわち、人はなぜ“演じる”のか。能天気なイギリス人貴族を演じ、グラパンを演じ、人によって異なる顔を使い分けて、霧矢大夢の演技は、鋭く問いかけ続ける。それも、違う役柄を演じていると見せるのではなく、同一人物が違う顔を見せているに過ぎないと表現できる、秀逸な演技力あったればこそである。小道具の仮面の使い方も実に巧みだった。一幕ラスト、登場人物それぞれの思惑が重層的に歌われる「謎解きのゲーム」のナンバーの最後で、銀橋に出てきた霧矢パーシーが、己の顔をさっと仮面で隠し、「さまざまな思惑を心に秘めて、人は皆、“仮面”をつけて生きている――」と、人間の本質を厳然と指し示す様に、背筋がぞっとした――。
 グラパンの扮装を解き、ルイ・シャルルの眼前にパーシーとして姿を現す霧矢は、ときに、これまでに演じてきたさまざまな“役割”を脱ぎ捨て、トップスターとしてまばゆい輝きを放つ、今の彼女自身の姿をも連想させずにはおかなかった。その一方で、グラパンの扮装を解いた刹那、“グラパン”役の際に見せていた、不遜で尊大な笑いの持ち主、偏屈な老人としての表情が、彼女自身の中にすっと入りこんで隠れてしまうのを、何だか不思議な思いで見つめていた。何だか、グラパンが消えてしまうのが、グラパンを演じているときにしか見せない彼女の一面が消えてしまうのが、さみしくさえ思えるときがあった。ほとんど、デヴィッド・ビントリー振付のバーミンガム・ロイヤル・バレエ団「美女と野獣」である。野獣が元の王子の姿へと戻った刹那、ヒロイン・ベルは、一瞬困惑して、王子をよそに野獣を探す、非常に興味深い振りがある。
 そして、気づいた。さまざまな変装をし、さまざまな顔を使い分け、縦横無尽な活躍を続ける我らがヒーロー、パーシバル・ブレイクニー。その姿こそ、役者の本質なのだった。パーシー扮するグラパンがいなくなるのを惜しむ気持ち。それは、役柄が役者を離れ、この世から姿を消した瞬間の、あの不思議な喪失感と同じなのだった。あの人は今、どこにいるのだろう。この世に存在するのだろうか。役者の中には今なお生きているのだろうか。どこに行ったら会えるのだろうか。せつなくももどかしい焦燥感。劇場でしか会えない不思議な人、役者の演じる役柄に会いに、今日も私は劇場に足を運ぶ。
 今回の「スカーレット ピンパーネル」で、好きな場面を強いて挙げるとするならば、パーシーがグラパンに変装して、タンプル塔に幽閉されている王太子ルイ・シャルルを、もうすぐ救いに来るからと励ましに来る場面である。昨年の秋、原稿が書けなくなって、自分自身の塔に閉じこもっていた私に、「書け!」(実際は、「弾け!」ですが)と霧矢大夢扮する「ラストプレイ」のムーアが喝を入れてくれた瞬間を思い出した。
 そして、二年前、モスクワ郊外での思い出が鮮やかに甦ってきた。「ルイ・シャルルとチャイコフスキー」(http://daisy.eplus2.jp/article/105433602.html)なる文章に記した、チャイコフスキーの家博物館での出来事。おびえた顔のルイ・シャルルの版画。チャイコフスキーはなぜ、ルイ・シャルルの話にそんなにも魅入られていたのだろう――。そんなことを考えていて、ふと、思ったのだった。
 あのとき、霧矢大夢が救い出してくれたのは、私の芸術的良心だった――。
 炎の中をも恐れず、新たな美の現出に懸ける想い。命の闘い。ただ、愛だけが、挑み続けるひとかけらの勇気を与えてくれる。紅はこべの紋章は、そんな勇気の証――。
 霧矢大夢のグラパンは、“心のキャラ”を超えて、私の芸術的良心を支え、守る騎士(ナイト)である。