藤本真由オフィシャルブログ

 今回、男役として大きな成長を遂げたのが、ショーヴラン役とアルマン役を役替わりで務めた龍真咲と明日海りおである。白と黒、切磋琢磨し合う男役同士、実にいい並びであることがわかった今回の役替わりだった。役を深めたところでの一週間交替というのは、負担を考えても、役を深める上でも、いかがなものかと思うが、霧矢大夢を支えるスターとして、二人とも、きっちりとその存在感を示した。

「これぞ、彩吹真央退団の後、“ヘタレ”を継ぐ者だ!」
 アルマン役を演じる龍真咲を観ていて、“ユリイカ!(我発見せり)”と興奮せずにはいられなかった。彩吹真央のつけた足跡は、きっと龍真咲が踏みしめる。今回の“心のヘタレ”である。
 それほどまでに、超絶“ヘタレ”芸である。男役芸が未熟で“ヘタレ”に見えるのではない。きっちりと構築された男役芸で、“ヘタレ”をそれは魅力的に見せているのである。宝塚の男役が新たな領域を獲得できるか、その結果、娘役が新たな領域を獲得できるかが、今や、龍真咲の双肩にかかっている。
 だいたいが、マルグリットの弟アルマン役は、こんなにもおもしろく、おいしい役だっただろうか! ただでさえ、泣いたり笑ったり、テンポのよさについていくのが大変な今回の「スカーレット ピンパーネル」なのに、龍アルマンが出てくると、シリアスなシーンなのに思わず笑ってしまったりして、あひる、さらに混乱。まず、登場の「ねえさ〜ん」からしてツボである。何ですか、このかわゆい生き物は……と、小さな子供のころ、自分の後をついてきていた二歳年下の弟を思い出さずにはいられないあひる。気の強い姉マルグリットに守られ、気の強い恋人マリーに守られ、「姉さんも新婚の旦那様に甘えたらどうだい?」って、君は甘えさすんじゃなくって甘えてる方だろう! 「君が(イギリスに)残りたいなら残りたまえ」というセリフも、マリーの「ついてゆくわ」という言葉を待っているのがありありだし、マリーに「私が監督しますわ」と言われてもそれはうれしそう。
 それなのに、正義感は人一倍強く、ピンパーネル団に参加するなんて言い出したから、周りも大変。「炎の中へ」のナンバー中、デュハーストやフォークスは、「面舵いっぱい!」「上部マストにつけ!」なんてりりしく指示を出しているのに、龍アルマン一人、うきうきと「フランスは近いぞ〜!」って……、故郷にたどり着くのが待ちきれない様子。一人でフランスに帰ったんじゃないかとマリーに問われ、「マリーは僕のことは何でもお見通しだから、隠し事はやめよう」と即座に顔に出す。「この人をピンパーネル団に入れるなんて、パーシーは何を考えているのかしら……?」と言いたげなマリーも、アルマンを監督するためか、自らピンパーネル団入団を志願する始末。口だけはえらく達者で、生意気にもパーシーに「あなたには愛のレッスンが必要かもしれませんね」とか、見事ルイ・シャルル救出成ったラストでも「たいしたもんだ」とか、君がどの口で言うのか〜! と思わず突っ込みたくなる。
 というわけで、あんまりピンパーネル団の活動には貢献していないような印象を受けるのだが、ところがどっこい、一筋縄ではいかないのが龍アルマンなのである。スカーレットピンパーネルの正体を明かせと拷問されても、決して口は割らない芯の強さを発揮。というか、拷問の鞭二発で気を失ってしまう効率の悪さ! その都度、いちいち水をかけて正気づけなきゃいけないから、拷問している方がくたびれるというものである。こうして、捕らえられている間、時間稼ぎをし、ショーヴランたちの体力をいたずらに消耗させ、その判断力を狂わせたのが、龍アルマンの最大の功績だったりして……(笑)。超絶ヘタレアルマンを演じている龍真咲は、それはキラキラとチャーミングで、何だか、「愛のソナタ」の真琴つばさを思い出さずにはいられなかった。
 一方のショーヴラン役でも、本質はヘタレである。“革命”なる劇は、もはや単なる茶番と化してしまったのに、そのヒロイックな物語を、そして、自分自身も英雄的役どころを演じている、もっと大きな役どころを演じられると、いまだにどこか信じようとしている、哀しい道化。
 歌いながら、龍ショーヴランは夢を見る。「鷹のように」では、今の自分自身より大きく強い、鷹のような存在を思い描いて、独裁者ロベスピエールの一言で、はっと我に返り、卑小な存在に過ぎない己の現実に気づく。「君はどこに」では、自分がもっとも強く輝いていたように思えた、かつてマルグリットが恋人であった時代を夢見て歌う。「栄光の日々」は、そんな己の夢がもはや破れそうであることをどこか知りつつもなお、夢見ていたいと哀しい願いを歌い上げる。弱い人なのである。
 こうして、自分の世界に入ってしまうナルシスティック芸を深めた結果、ふっと右目のみ伏せる&白い歯を光らせるという、独自のセクシー技が炸裂。黒を演じて、しなやかな鞭のような魅力を発揮した。
 「エリザベート」のルキーニ役、「HAMLET!!」のタイトルロールと観ていて気になったのが、一生懸命になりすぎるあまり、ときに、セリフも歌もすべて同じ抑揚で流れていってしまい、感情が伝わりにくいことだったが、今回、そのクセも改善された模様。大劇場公演中、喉を痛めるアクシデントがあったが、それでもフィナーレでは満面の笑みで通すなどして、舞台のテンションを下げなかったところに、舞台人としての精神力の強さを見た。実に緻密に繊細に役作りしていることが、今回の二つの役でもしっかりうかがえたので、後はそれをいかに伝えるか、研究していくことが肝要だと思う。

 歌には、物理的に音として官能をもたらす要素と、心の中に想いを想起する要素と、脳内にどこかヴィジョンを想起する要素から成り立っているのだと、このところ考えている。ここでいうヴィジョンとは、楽曲を聴いていて、考えるのでも感じるのでもない、ふっと頭に浮かぶものであって、管弦楽等を聴きに行った日にときに記しているのはその説明に他ならない。
 歌においてもそのようなヴィジョンは可能なのだと発見させてくれたのが、昨年の「Heat on Beat!」東京宝塚劇場公演での霧矢大夢の「枯葉」の歌唱である。このとき浮かんだヴィジョンは、昨年11月にヨーヨー・マのバッハ「無伴奏チェロ組曲第6番よりサラバンド」を聴いたときに浮かんだものと酷似していて、客席で思わず声を上げそうになったほどびっくりしたのだった(<2009年あひる心のベストテン発表!!!>http://daisy.eplus2.jp/article/137082715.htmlに説明あり)。
 そして、中日公演「Heat on Beat!」でこの「枯葉」を歌ったとき、おぼろげながらもやはりヴィジョンが浮かんで、やるなあ! と思ったのが明日海りおだった。霧矢の歌唱を日々間近で聴いて参考にしているからか、明日海に続き、龍真咲、蒼乃夕妃の歌もヴィジョンが浮かぶようになってきていて、今や月組、恐るべし状態になっているのだが。
 この「Heat on Beat!」中日公演での“心の名場面”は、明日海が紫門ゆりやと煌月爽矢を引き連れて歌い踊る「ダンシングフール」だった。「ダンシングフール」といえば、かつてミュージカル「コパカバーナ」で、湖月わたるが壮絶な男らしさを発揮したナンバーである。このナンバーを歌って明日海は、男役としてそれは骨太な魅力をふりまいていた。アイドル風の整ったルックスに惑わされていたけれども、全然違う路線を驀進すべき人なのだ! と思ったものである。
 ショーヴランを演じる明日海は、目の強さもあいまってか、黒曜石から削り出したナイフのような魅力がある。「鷹のように」と歌っているからか、どこか、「エル・アルコン−鷹−」の主人公ティリアン・パーシモンと、「エリザベート」のトートを併せた造形のようにも思える。己の野望のためには人を殺めることも厭わないティリアンが、「♪最後のダンスは俺のもの〜」と地獄の果てまで追いかけてきたら、それは怖い。実際、明日海りおの男役像には、若くして人生の何を知ってしまったのだろう……とときに思わせる凄みがある。ますます、アイドル風のルックスを裏切る味わい深さというか、アイドル風のルックスだからこそ、凄みがいや増すというか。
 明日海のショーヴランは、かつて、貴族たちの圧政によって、愛する者たちを失った恨みゆえ、革命の旗印のもと、貴族たちの粛清に嬉々として従事しているような恐ろしさを感じさせる。人は、憎しみから強くなるのではない。愛だけが、人に勇気を与える。ティリアン・パーシモンに父を殺されたルミナス・レッド・ベネディクトが、一人ティリアンのみを斬り、ティリアンのような殺人マシーンとはならなかったように、愛する者を失ったショーヴランは、愛する者を失わせた者のみを憎むべきであって、復讐の名のもとに、無関係の者の命を無造作に奪うようなことはすべきではなかったのである。
 愛を信じない者は、愛に裏切られる。一見能天気なパーシーよりも、自分の方が、かつての恋人マルグリットを深く知っていると思い込んでいて、そんな自分に裏切られる。強く賢い者が、その強さ、賢さを発揮するため、ときとして弱さや愚かさを演じる場合もあることに、ショーヴランは気づかない。
 それにしてもロマンティックな「君はどこに」である。はっきりとラヴソングである。ここでの明日海ショーヴランは、トートさながらの誘惑者としての魅力に満ちている。過去から甦った誘惑者。明日海の「君はどこに」を聴きながら思わずにはいられなかった。過去は、自動的に過去になるのではない。その人の中で過去だと割り切れたとき、初めて過去になるのだと――。
 一方のアルマン役では、しっかり者の弟ぶりが好感度大である。あひるの場合、高校生くらいで弟との大人関係が逆転して、「もう、お姉さんはさ〜」などと平気で説教されるようになったので、両方味わえてお得な役替わりではあった。それはさておき、ピンパーネル団の中に一人フランス人として在る異質さ、文化の違いを強調するような役作りが光った。ラストの「たいしたもんだ」も、フランス人である自分には想像もつかなかった“復讐劇”を、イギリス人のパーシーがやり遂げてみせたことへの素直な賛辞として聞こえる。自立した恋人マリーとの関係も、対等なパートナーシップを感じさせてお似合いの風。それにしても、新人公演を卒業したばかりとは思えない逸材である。これからどのような男役像を創り上げ、宝塚にどんな新風を巻き起こしていくのか、心待ちにしたい。
 月組上級生の職人芸はさすがだなあ……と感じ入ったのが、ドゥ・トゥルネー伯爵役の一色瑠加とサン・シール侯爵役の研ルイスである。共に出番は多くないながらも、作品全体をきっちり見渡した上でスペシャリストぶりを発揮している。
 ドゥ・トゥルネー伯爵は幕開きのセリ上がりでパーシーの右腕であるデュハーストと共に登場、革命の混乱続くパリからの妻子の逃亡の成否を憂えていること、そして、王太子ルイ・シャルルを救出せんとするスカーレットピンパーネル団の計画に協力を惜しまない旨を語る。今回、このセリ上がりでの会話が物語全体に非常に巧く生かされているなと思ったのは、物語の究極的目標とその困難の度合いが、二人のやりとりのうちに明確に浮かび上がってくるからである。目標は、ルイ・シャルル救出。そして、一色ドゥ・トゥルネーが「私もそのためならどんな犠牲も厭わない」と熱情的に語れば語るほど、その目標達成に向けてのハードルの高さを推し量ることができる。実際、彼は後に革命政府に捕えられ、拷問を受けるが、「放せ、放したまえ」と語る一色の憔悴ぶりに、その拷問の過酷さが見て取れる。パーシー&ピンパーネル団が万が一失敗して捕えられたとして、彼らを待つのはその過酷な拷問であることが明示され、スリルがいや増す。
 中日公演「紫子」で一色は家老の三太夫を演じ、鋭い間合いで的確に笑いを取っていた。今回の作品ではコメディ部分に絡む役柄ではなかったのが残念なくらい。日本物の得意な人で、若衆姿も目を引く美しさだったが、「紫子」でもう一点目を見張らされたのが、歩く表現の巧みさである。領主の婚礼の夜、舞台を横切るその歩みの中に、家老が大きなお役を果たし、ほろ酔いでいい気分になっていることまでが見て取れた。
 サン・シール侯爵は「マダム・ギロチン」で一節歌って処刑される、ワンポイントの役どころだが、研のこの歌唱は鳥肌ものである。「♪いつかお前たちに報いが来るぞ〜」の歌い上げに、聴く者をぞくぞくとさせる凄みがある。そして実際、彼のこの呪詛通り、パリの民衆は後に、ロベスピエールが先導する粛清の嵐に怯えることとなるのである。研は他に民衆の役どころも務めており、その際、目力と迫力ある歌唱で舞台の熱気に貢献しているが、民衆を演じているときと、これに対立する貴族とを演じているときとでは、衣装の違いばかりではなく、身にまとう空気が全く異なっている。
 サディスティックに民衆をいたぶるピポー軍曹役の綾月せり、おヒゲの向こうからすべてを見透かし、主人を思いやる優しさをあふれさせる執事ジュサップ役の彩央寿音、監禁中のルイ・シャルルに対する虐待ぶりのあまりの迫力に観ていて思わず悲鳴を上げたくなる靴屋のシモン役の華央あみりと、ユニークな面々が揃っている。「WOW」なんて言っちゃったりして、コメディ・フランセーズでのあたふたとした司会ぶりに、実にいい味出しているなあと思った鼓英夏は、これで退団とは惜しい。そして今回、その小芝居を堪能してしまったのが、ショーヴランの部下のズッコケコンビ、美翔かずきのメルシエ&響れおなのクーポーである。
 美翔はまず、「次回宙組公演で“紫吹淳祭り”が開催されているそうですが、私こそ、月組に残った後継者であります!」と言わんばかりの“紫吹淳”ぶりに驚愕! “紫吹淳芸”については、宙組公演の際、各組への伝播も含めて考察したいと思っているが、言うなれば、男役の表現の一つのスタイルであると考えている。しかし、美翔の場合、目の剥き方や顔の向け方といった微細な表情作りからメイク、身のこなしまで、“紫吹淳”が時を越えて憑依したかのよう。もはや“一人紫吹淳祭り”である。たまたま、その三代前の月組トップスターご本人が観劇されている回を観たのだが、「私は今、当のご本人に“紫吹淳芸”をご覧に入れているのであります!」と言わんばかりのその日の美翔メルシエに、「ああ、今何か、とんでもない凄いものを観ているなあ…」と感じ入ってしまった。それはさておき、美翔と響の受けの小芝居は、本筋の芝居をさらにふくらませる上で実に効いていた。ショーヴランが、パーシーこそスカーレットピンパーネルだと気づく直前の大笑いとそれがはっと途切れる瞬間。グラパンに扮したパーシーがマルグリットとステッキの引っ張り合いをしている際、マルグリットを取り押さえている美翔メルシエの、間合いを合わせた引っ張り方。響は、スカーレットピンパーネルの声明ビラの扱いが非常に巧みで、悔しそうに見据えたり、ギュッと握りつぶして敵意を示したり、セリフない中に感情を雄弁に表していた。美翔メルシエが、拷問の執行を命じられたショーヴランにさっと鞭を差し出すタイミングも実に的確で、こういう気の利く部下がいると、たとえ嫌でもテキパキ拷問せざるを得ないなあ、ショーヴランもつらいところだなあと思った次第。

 スカーレットピンパーネル団の助さん格さん、デュハースト役の青樹泉と、フォークス役の星条海斗は、この半年で印象が大きく変わった二人である。持ち味を存分に発揮できるようになり、舞台姿が一回りも二回りも大きく見えるようになった。長身から繰り出すダンスと、声量豊かな歌声で、パーシーの活動を支える参謀的役どころをきっちり務め上げた。今回、若手の多かったピンパーネル団をまとめる上でも、二人が果たした役割は非常に大きい。
 青樹は中日公演「紫子」で、霧矢大夢扮するヒロイン紫子の恋のお相手、風吹役を演じていたが、そのどこまでも懐深い包容力を実に頼もしく感じた。風吹は、兄の身代わりを務めている紫子に頼まれ、婚礼の夜の床で身代わりを務めるのだが、自分で言い出して頼んだくせ、紫子は嫉妬の虜となる。それもこれも、わかったわかった、何でも聞くよ……と優しく聞き入れてしまうこの人の優しさあったればこそなのだろうなと思った。そして、この人は“春”のような男役だな……と思った。何だか今日は心弾んで過ごしやすいな、自然と微笑みが浮かんでくるな……と思ったら、もう春だからなんだ、とうれしくなる、あの心持ち。青樹泉の笑顔を観ていると、何だか春に包まれているような、そんな気分がしてくる。
 そんな優しさに加え、シャープさと、熱情を表現しても決して崩れない品のよさを感じさせる男役である。今回も、パーシーとマルグリットの行き違いを案じ、見守る様に、親友を思いやる優しさと、かといって情には流されない理性を感じさせていた。
 決して冷たいのでも、扉を閉ざされているわけでもない、でも、扉がいったいどこにあるのかわからない……、星条については、何だかそんな印象があった。男役として十分に魅力的な世界を創り上げているのだけれども、あまりにきちんとできあがっていて、そこにどう入っていったらいいのかわからないというか。無論、中日公演「紫子」で演じた悪家老・天野外記のような役どころには、その感じが非常によく生きていた。今回、主のパーシーとマルグリットの夫婦仲が険悪になっているにもかかわらず、その庭で恋人とラヴラヴぶりを発揮する場面があったからか、星条海斗という男役の世界の扉が大きく開いて、入ってみると、それは温かく居心地のいい場所であることが感じられて、非常にうれしいものがあった。娘役を受け入れ、観客を受け入れることで、その男役世界はますます広がってゆくことと思う。

 ピンパーネル団の若手では、エルトンを演じた宇月颯がめざましい成長ぶり。宇月は二月の日本青年館公演「HAMLET!!」で、作品の成否を握るホレーシオ役を好演していた。その際に発揮していた歌唱力もさることながら、セリフのタイミングもドンピシャ。新人公演で演じたロベスピエールも、初演のにしき愛にも似た冷ややかな造形に迫力があった。ファーレイ役の紫門ゆりやは、ナルシスティックな造形がかわいらしい。新人公演のショーヴランを観ていて思ったのだが、小器用にこなそうとするのではなく、一つ一つ着実に積み重ねてゆく中に、男役としての味わい深さがいずれ自然とにじんでくるのではと期待。王太子ルイ・シャルルを演じた愛希れいかは、研二とは思えない芝居勘のよさが光る。タンプル塔監禁中に見せる深い絶望のいじらしさ、処刑された両親、ルイ16世とマリー・アントワネットの愛の深さについて語る際ににじみ出る、いかにも王族らしい不思議な威厳。今後が楽しみな人である。
 物語のクライマックス、ミクロンでの決闘の直前、グラパンに扮しているパーシーとステッキで引っ張りあいっこをして、「馬鹿力〜」なんて言われた後もなお、顔を紅潮させて蹴りなんか入れようとして、グラパンと闘う気満々のマルグリット、蒼乃夕妃が実に魅力的だ。娘役としては決してハードルが低くはないシーンなのに、まったく嫌みがなくて、かっこよくて、何よりキュート。そして、思い出した。昨年秋の星組公演「コインブラ物語」で、蒼乃は、ヒロイン・イネスと、彼女に瓜二つの盗賊団の娘、ミランダを演じていた。まったく同じドレスを着て出てくるシーンがありながら、二役の演じ分けもきっちりされていて唸らされたばかりではなく、ミランダ役を演じている際、盗賊団の仲間のお尻に蹴りを入れるところがあって、それがまた実にチャーミングだったことを。そう、星組歴代“心のキャラ”が顔を揃えたグランプリ・シリーズの趣あった(あくまで、あひるの心の中で)この公演で、見事“心のキャラ”に輝いたのは、蒼乃のミランダだったのである! (さあ、皆様、「いつの話だ」と盛大に突っ込んで〜)。そして、中日公演「紫子」でも、三場面しか登場がないながらも、そのけなげさで客席を感涙させた、蒼乃扮する舞鶴姫が“心のキャラ”なのだった! 舞鶴姫をめぐる不思議なエピソードについては後日、「千代さんと舞鶴姫」という項目を設けますが、そんなわけで、昨年後半からずっと心の大きな位置を占めていたのが、蒼乃夕妃という娘役だったのである。
 不思議な人である。彼女に関していえば、研4で抜擢され、轟悠のタイトルロール相手に女優志願のはねっかえり娘アンナをそれは思い切りよく演じた「KEAN」の印象があまりに強くて、何だか長らく、本人もそういうタイプの娘役なのかなと思い込んでいた。若くして抜擢された場合、そんなに多くは引き出しがないのもしかたがないことで、評価されるのは往々にして、自身と近いタイプの役をふられた場合が多いからである。けれども、その後観ていると、そうとも言いきれないものがある。しっとりとした大人の色っぽい魅力も出せれば、潔く颯爽と踊っていたりもする。若くして、いろいろな顔をもっている人なのだな……と思った。そんな娘役が演じる“女優”、マルグリット・サン・ジュストが楽しみだった。
 演じる者を演じるとは、演じる者にとってときに危険な行為である。その者本人が、“演じる”行為、つまりは自分の生業をいかに捉えているかが露わになってしまうからである。ああ、この人にとって、女優とは、華やかに着飾って人の目を引く程度の意味しか持たないのだな……と鼻白むことさえある。余談になるが、その意味でいえば、退団公演「ガラスの風景」で、作・演出の柴田侑宏によって、中断していたキャリアを再開しようとする女優の役をふられたことは、星組娘役トップ渚あきにとって最高の餞ではなかったかと思う。実際、娘役トップ時代の彼女は、素晴らしい演技で、当時の星組の舞台に大きく貢献していた。
 はたして、蒼乃夕妃演じるマルグリット・サン・ジュストは、自らの芸をもって、愛と理想のために闘うことを恐れない、毅然とした、堂々たる女優だった。物語序盤、コメディ・フランセーズで歌う「物語のように」からして、劇中劇中歌の体裁を取りながら、恋人たちが自由に愛を語り結ばれる平和な世界を希求する、マルグリット自身の願いがきちんと重ねられ、本体の物語と重層的に響き合っている。マルグリットの願いは、夫パーシーとの心のすれ違いを経て、彼の心にある理想を知ったことで、はっきりとした決意に変わる。そして、独裁者ロベスピエールの眼前で、敢然と「ひとかけらの勇気」を歌うに至るのである。マルグリットが友人マリーに「衣装を用意してちょうだい」と告げる箇所では、戦時中、派手な身なりを軍人に咎められ、「ドレスとヒールと化粧は歌手の戦闘服!」と言い返していたという、かつての大歌手、淡谷のり子のエピソードを思い出さずにはいられなかった。歌うことは歌い手にとって、舞台に立つことは女優にとって、闘いである。蒼乃夕妃は若くしてそのことを知っている娘役なのである。
 そして、彼女の何よりの特質は、役柄であれ相手役であれ、無理なく寄り添ってその良さを引き出し、それでいて、自分の良さもきちんと発揮する、その柔軟な協調性にあると思う。昨年、ヨーヨー・マのチェロを聴いていて気づいたことなのだけれども、何も、自分が自分がと強固に主張しなくとも、自分というものをしっかり持っていさえすれば、相手を受け止める中に自分の個性は十二分に発揮できるのである。
 彼女の表現するせつなさに私はどうも弱い。夫パーシーの愛を見失い、銀橋で一人歌う「あなたを忘れましょう」の、「♪この胸は張り裂けそうに痛いの」と空に消える高音を聞いていると、つらかった時期を思い出す。毎朝、目覚めても、胸に抱えた痛みが決して去っていることはなくて、まるで悪夢に目覚めるようで、こんなにつらいことしか感じないのなら、心なんてもう、自分の身体からなくなってしまえばいいのに……と思っていた日々。そういえば、そんな張り裂けそうな胸の痛みも、結局は闘うことでしか克服はできなかったのだけれども。一幕のマルグリットに胸が張り裂けそうになった人は私以外にも少なくなくて、「紫子」での客席感涙状態といい、娘役トップお披露目早々、蒼乃夕妃、快進撃である。何より、せつなさの後に、前向きな明るさで照らしてくれるのが魅力的である。霧矢大夢の徹底したプロフェッショナリズムに敢然とついていく奮闘ぶりも頼もしくもキュートな限り。これからももっともっと娘役の地平を切り拓いていってほしい、期待の大型娘役である。
 東京公演中のある日、ヒロイン・マルグリットとその友人マリー、そしてイギリス貴族の恋人たちが、スカーレットピンパーネルの正体についてあれこれ推理している大好きな場面を観ていたときのこと。一列に並んで元気よく行進する9人の姿が、色も形も匂いもそれぞれに異なる可憐な花が、いたずらなそよ風にふわっと揺れたかのように見えて、……あ、月組娘役陣完全復活だ! と思って、あんなに楽しいシーンなのに涙してしまった……。
 かつて月組は、元気も個性も、そしてもちろんキュートさも、ありあまるほど持ち合わせた娘役の宝庫だったのである。当時、副組長、後には組長を務めた怪娘役(褒め言葉です)、夏河ゆらの影響も少なくなかったようにも思う。それが、最近じゃあんまり元気は求められなくなってしまったのかしら……と思うようになってしばしだったのが、元気な娘役陣が見事復活して思わず感涙。そうだそうだ、月組娘が「♪随分にぎやかだね」と突っ込まれるなら、わいわいきゃあきゃあ、こんな感じにそれははしゃいでにぎやかじゃなきゃ困る! 元気&色気のある娘役陣ににっこり微笑みかけられてこそ、月組男役陣の男気もますます上がるというもの。そして、元気いっぱいの娘役陣の中にあって、ひときわ元気よく個性を発揮する、それが何だか、長年の月組娘役トップのイメージ。娘役トップ不在の時代を越えて、見事花を咲かせた、美夢ひまり、萌花ゆりあ、羽咲まな、夏月都、彩星りおん、琴音和葉、玲実くれあの七人に、乾杯! 歌うのが一、二フレーズだけだったりする中で個性を断定したくないけれども、お茶目さんにおっとりさん、お姉さん肌に妹タイプ、笑顔のキュートさも実に個性豊かなのがうれしい限り。何だか観ていて、この様子じゃ、他ならぬ自分たちの恋人がスカーレットピンパーネル団だったとわかったとき、お嬢さん方はまた、わいわいきゃあきゃあはしゃいで、そして、惚れ直すんだろうな、そのときの様子もまた元気よくかわいらしいんだろうな、なんて想像してしまった。月組娘役陣、このまま元気にGOGO!
 そしてこの場面、元祖元気印の憧花ゆりのがお姉さん格のマリー役で出ていたのが◎。彼女が歌う「♪パリの噂じゃ彼はイギリスの渋い紳士らしい」の「らしい」の弾む様子が、それはリズミカルでツボだった。マルグリットの弟アルマンの恋人マリーは今回、マルグリットの仲の良い友人であるという性格付けが役作りからもはっきりうかがえて、作品上果たす役割もさらに大きくなった感がある。アルマンが革命政府に捕らわれた後、マルグリットがマリーを訪ねてくる心情を吐露する場面も、マルグリットにとって、弟の恋人である以前に、マリーは一番の友達なんだろうな…と、非常に説得力があった。マルグリットは闘う女優で、マルグリット同様「気の強い」と形容されるマリーは、闘うデザイナーで、だからこそ二人は仲が良くて、弟の解放と引き換えにコメディ・フランセーズで歌えとショーヴランに言われたマルグリットは、他ならぬマリーに「衣装を用意してちょうだい」と頼むのである。昔の親友に再会したり、最近仲良くなったおしゃれ友達と友情を深めたり、女友達のありがたさをひしひしと感じる近頃、闘う女、マルグリットとマリーの友情は理想形。ましてやマリーは、舞台に立つ人を支える女友達なわけで、そういう存在になれたらいいな…と憧れたりして。しっかりとした芯の強い女性を魅力的に演じることのできる憧花だが、今回の作品では、柔和な笑顔が非常に印象的。龍真咲と明日海りお、二人の個性異なるアルマン相手に、包容力と甘えの配分を巧みに変えて対応する臨機応変さも特筆もの。今回の“心の女友達”である。
 タンプル塔に幽閉されている王太子ルイ・シャルルを見張っている靴屋のシモンの妻ジャンヌ役の美鳳あやは、「ヘンゼルとグレーテル」に出てくる残忍な魔女のように禍々しい熱演。民衆の一人に扮していても、小柄な身体から発する生命エネルギーに凄まじいものがあって、「みっぽーが、めっぽー怖い…」などとダジャレめいた戯言であまりの怖さをやり過ごそうとするあひるであった……(念のため、みっぽーは美鳳の愛称である)。個人的には、小柄な身体からありあまる生命エネルギーを発散していて、目にときに狂気の宿る男優に何だか惹かれがちなのだけれども、女優さんで初めてそんな存在を発見〜。洗濯屋に化けてパリから逃亡しようとしたところを、ピポー軍曹に手を掴まれて動揺する、貴族の女ルネ役の天野ほたるは、軍曹の嗜虐性を誘わずにはおかない、はかなげな令嬢芸がさすが。
 そして、ドゥ・トゥルネー伯爵夫人役、花瀬みずかの、いつまでも瑞々しく美しいこと。華奢な肩で着こなすドレス姿のあでやかさに、出席した夜会のゴージャス度もいや増すというものである。しかしながら、副組長でありながら今なお正統派娘役であり続ける花瀬が演じたヒロインの中でとりわけ好きなのが、男装してひざまずくシーンに颯爽とりりしい魅力を感じさせた、「十二夜」のヴァイオラだったりするあひる。やっぱり月組娘役は元気が一番!
 月組版「スカーレット ピンパーネル」について今、ビシバシ文章を書いている自分に改めて思うのは…昨年の秋からこの春までずっと、気力体力ともにホントに低下してたんだな…ということ。この間、宝塚だけではなく、さまざまな舞台について、書きたくても書き切る気力がなくて、ブログに書けなかったことがいっぱいあって、今になって、あ、この話書いておかなかったから話がつながらない…と思ってあせることしばしばなのですが。どうぞ皆様、「いつの話だ」と盛大に突っ込みながらお楽しみいただければ。今回も、そんな話の一つをば。

 月組の前回大劇場公演「ラストプレイ」について、「喪失感」なるタイトルで文章をしたためたことがある(http://daisy.eplus2.jp/article/131196086.html)。「ラストプレイ」の主人公、ピアノに生きる道を一度は見失いかけた、瀬奈じゅん扮するアリステアの心境に思いを馳せての文だった。その後、同じ公演を観に行ったとき、私は、アリステアをピアノの道に引き戻そうとする友人ムーア役の霧矢大夢の演技に、こう問いかけられた気がしたのだった――。
 あひるさんはアリステアの喪失感に共感を寄せているのかもしれないけれども、それなら、私が演じているムーアについてはどうなります? アリステアは、両親がいなかったとはいえ、孤児院でピアノの才能を見い出されて、英才教育を受けることができた。でも、ムーアは、両親がワルだったために、ワルの道に手を染めざるを得なかった。誰も、ムーアの才能を見出して、それを育てるなどということをしようともしなかった。だから、彼は自分自身で何とか生きる道を見つけざるを得なかった、自分にどんな才能があるかも知らずに。ピアノが弾きたいのに弾けないアリステアの喪失感に共感するならば、そのような喪失感すらあらかじめ失われているムーアの喪失感については、いったいどう考えますか――と。
 思わずハッとした。そして、「エリザベート」のフランツ・ヨーゼフに続いて、またしても霧矢大夢に一本取られた〜、やられた〜と思って、悔しくて、でも、何だかとってもうれしかったのだった(フランツ・ヨーゼフ役の演技については、2009年のあひるブログの心のベスト原稿、<ずるい貴方〜宝塚月組「エリザベート」霧矢大夢のフランツ・ヨーゼフ>http://daisy.eplus2.jp/article/124718704.htmlをどうぞ。そういえば、今年もそろそろ流しそうめんの季節になりました)。
 「エリザベート」の霧矢大夢を観たとき、私は本当に衝撃を受けたのだった。ああ、私がぼーっとしている間に、この人の芸はこんなにも深化していたのだ…と思って。その後、霧矢が主演した2008年夏の博多座公演「ME AND MY GIRL」を映像で観る機会があって、そのときもまた衝撃を受けた。生で公演を観なかったことをあんなにも後悔したことはない。昨年の秋ごろ、精神的に本当につらくて、もう文章なんて書けないかもしれない…と思ったとき、「ラストプレイ」の彼女の演技に、とにかくパソコンの前に座って書け! と喝を入れられたような気がしたし(<「書けない!」もとい「弾けない!」〜月組公演総集編>http://daisy.eplus2.jp/article/136655817.html)、その後も、文章を書いていて願ったのは、舞台の上で日々真剣に芸を構築している彼女に、自分も決して恥じない仕事をしたい…ということだった。心から尊敬していて、だからこそ、その舞台に真剣に向き合うことで、いつの日か自分もその人に絶対に追いつきたいと思っている演劇人は、上の世代に何人かいる。そして、これからずっと一緒に歩いていける同じ世代に、この人に恥じない仕事をしたいと思える存在を発見して、昨年の私は、救われたのである。
 「エリザベート」以来、何だかずっと、舞台上の霧矢大夢と“対話”しているように感じる。とは言っても、別に、取材でお会いしたときに、「いやあ、あの演技には一本取られましたよ」と直接言うわけではないけれども。向こうは演技を通して、こちらはそれを観ること、そして書くことを通して、作品や役柄について、お互いの思考をやりとりしている感覚というか。
 そして、負けないぞ! と思って臨んだ「スカーレット ピンパーネル」でも、トップお披露目公演から、この大作で、いきなりこの完成度で来るのか…と思って、またもや衝撃を受けて一本取られたわけで…。何だかいつも一本取られてるみたいな(笑)。でも、それでいいのだと思う。一本取られて、何を〜と思って、こちらもさらに本気になって舞台を観て、そこに新たな発見があれば、新たな美の現出に貢献することができるのだと思うから。
 演劇の話からちょっと離れてしまうけれども、以前、秋の中禅寺湖に夫と遊んだことがある。その際、少し離れた場所から、中禅寺湖を見上げる感じで眺める機会があって、私は、あんな高い位置にあんなにも豊かに水が湛えられているなんて、なんて神秘的なのかしら!…などと乙女? っぽいことを考えていたのである。すると、隣に立って同じように眺めていた夫が、「ふむふむ、火山活動の影響によって堰き止められた湖の典型ですね」などと言っていて、同じ景色でも、見え方は本当に人それぞれなんだな…と感じ入ったことがある。私は、小学二年生の理科の授業で金魚を観察したとき、観察日記に「ひらひらちゃんと名づけました」と書いて先生にそれは怒られた、科学的視座にいささか問題のありそうな人間なので、自分と異なる夫の視点が非常に興味深かった。そして、大げさかもしれないけれども、立場や視座の違いで自分の世界を拓いていってくれるからこそ、他者との対話は人間の成長によって必要なのだなと思ったのである。
 人間、まずは一人で努力することが肝要で、でも、他者の存在に触発されることによって、一人だけでは達し得ない境地に至ることができる。だから私は、霧矢大夢に演技で一本取られると、何を〜、負けていられるものか〜と思って、そう思える存在が同じ世代にいることを、本当に幸せだなと思うのである。
 月組版「スカーレット ピンパーネル」は、ミュージカル作品として、宝塚歌劇作品として、そして、人はなぜ仮面をつけるのか、すなわち、人はなぜ“演じる”のかという、演劇の本質を問いかける作品として、完成度が高い。その際、必要不可欠であったのが、プリンス・オブ・ウェールズ殿下役の桐生園加のパフォーマンスである。秘密結社の首領として妻にも言えぬ顔を持ち、得意の変装でさまざまな人物を演じ分ける演劇的人間、イギリス貴族パーシバル・ブレイクニーと、桐生演じるプリンスとの関係は、2007年に星組が日生劇場で上演したミュージカル「キーン」(2007年)における、主人公の名優エドモンド・キーンとプリンス・オブ・ウェールズとの関係を彷彿させるところがある(両者の関係については、<役者とは何者か〜宝塚星組日生劇場公演「キーン」>http://daisy.eplus2.jp/article/56372103.htmlに記したところである)。パーシー役の霧矢大夢がその演技を通して体現し得た演劇の本質を、桐生の演技が好アシストで支えている。
 桐生扮するプリンス・オブ・ウェールズは、パーシーがスカーレットピンパーネルとして革命の混乱続くフランスから貴族たちを救い出していることをほぼ間違いなく知っている。その上で、何知らぬ顔をしてパーシーたちの活動を黙認している。イギリス皇太子としては、己の支配者としての立場を危うくしかねるような事態、例えば、民衆が王室および貴族たちに反旗を翻したような革命の嵐が自国まで波及してくるような状況は防ぎたい。他方で、革命が頓挫し、貴族が復権するようなことのあった場合に備えて、フランス貴族たちに恩を売っておくに越したことはない。だが、フランス革命政府に対する臣下の敵対行為を容認していると受け取られることは、フランスとの関係を考えたとき、非常にまずい。王宮での仮面舞踏会のようなパブリックな場面で、彼がパーシーに「今話題のスカーレットピンパーネルとは、君ではないのか?」と問い質すのは、スカーレットピンパーネルの活動に対し憂慮していると見せる、世間へのアピール、“演技”であって、パーシーが否と答えることも当然、計算済みである。パーシーがスカーレットピンパーネルであったなら仲間に入れてほしいなどとおちゃらけたことを言うのも、はたしてこの皇太子は切れ者なのか道化者なのかと、世間の目を煙に巻くため。すべて計算づくなのである。フランスとの関係悪化の懸念が生じた際には、プリンスはパーシーの正体を革命政府に売りかねない。その目は、真顔でありつつ笑い、戯言を言いつつ笑わず、ときおり鋭くキラリと光る。道化者の仮面の下には、切れ者の権力者であるプリンスの真実の姿が見え隠れする、と見せて、再び戯言で決定的印象をかわす。暗く重厚な雰囲気を漂わせるのではなく、明るくキレている風なのが、よけいに凄みを感じさせる。
 もちろん、パーシーの方でも、プリンスが己の正体を見破った上で演技していることをわかっていて、平気で冗談で話を合わせ、スカーレットピンパーネルごっこをしようなどというプリンスの提案にあまつさえ笑顔で賛同する。仲間に入れてほしいなどというプリンスの頼みを真正直に受けたら、いつ裏切られるかわかったものではない。どちらが王で、どちらが道化か。お互い、本心を、真実の顔を知りつつ、本気と冗談のあわいをゆくスリリングな会話を交わし、“ごっこ遊び”に興じようとするパーシーとプリンスの関係は、多分に演劇的である。
 二場面にしか登場しないプリンス・オブ・ウェールズだが、桐生の風貌はインパクト大、その役作りは冴え渡っている。「プリンス・オブ・ウェールズ殿下」と呼ぶ声の音とリズムに合わせて華麗にステップを踏んで登場し、日替わりのアドリブポーズを披露して観客の度肝を抜く。碧いアイメイクが映える金髪貴公子姿ながら、お腹はメタボ。麗しくもおもしろいそのいでたちからして、どこまで本気でどこまで冗談かつかぬプリンスのキャラクター設定を際立たせている。名ダンサー桐生園加による、月組助演陣らしく個性豊かな、最優秀助演賞ものの演技である。
 前回大劇場公演時、私は桐生を、“白”の男役であると評した(http://daisy.eplus2.jp/article/136655817.html)。その後、中日公演「紫子」を観て、この人には、もう一つ、“頭脳派”という言葉がふさわしいと思い至ったのだった。「紫子」で桐生は忍びの丹波役を演じたが、忍びとしての職務を全うせんとしながらも、仲間に対する想いの深さをにじませて、さわやかながらも深みのある二枚目ぶりを発揮していた。“白”といっても、桐生の“白”は、白しかないのでも、白でない部分を切り捨てて成立させているのでもない、白でない部分をきちんと認識した上で成立させている白なのである。だから、その“白”は、奥行きが深く、陰影に富んでいる。そうした“白”の成立に不可欠なのは、知性であることは言うまでもない。
 登場の瞬間の華麗なステップ、そして、二幕冒頭のナンバー「ここでも、そこでも」のラストで、パーシー役の霧矢の歌声に合わせて階段を降り、舞台中央に進んでくる足取りの確かなリズム感を観ても、桐生は、音に敏感に反応でき、基本に忠実に、端正に踊ることのできるダンサーである。世の中には、身体能力だけで踊るダンサーも少なくない。その身体能力が衰えた瞬間、いったいどんな踊りを表現として展開できるのだろうかと思わずにはいられないが、頭脳派・桐生の場合、その心配は無用であろう。そして、花組育ちゆえ、黒燕尾服姿が颯爽と決まる。例えば、前回までの雪組公演での水夏希と彩吹真央のように、黒燕尾服のダンス場面で花組育ちが二人フロントラインにいると、そのシーンの印象が際立つ。霧矢、桐生の二人がフロントラインに並ぶ、月組の黒燕尾服場面も今後、大いに楽しみである。
 月組で「スカーレット ピンパーネル」が上演されると発表されたとき、真っ先に思ったのが、セクシー組長・越乃リュウがロベスピエール役を演じたらぴったりだろうな…ということだったので、願いがかなって非常にうれしい。
 初演の星組版でロベスピエール役を演じたにしき愛が、実在の革命家の魂を降臨させるような名演を披露したのに対し、今回の月組版の越乃ロベスピエールの演技は、独裁者なる存在の見事なカリカチュアとなっている。革命を批判する者は粛清しろだの、お前を降格させるだの、王太子は外交の切り札だから決して殺さず監禁しておけだの、スカーレットピンパーネルの正体を吐かせるために昔の恋人の弟を拷問しろだの、残忍な命令を次々と下し続けるゆがんだ顔の下、あざやかな白の襟が彼の冷酷無比ぶりを引き立てる。こんなひどい人が、現代日本に、自分の身近にもしいたとしたらどうしよう、こわいよう〜と、客席でぶるぶる震えるあひる。
 人間存在に対する不信感に満ちあふれながらも、自分の崇拝者はなぜか盲信する、孤独な独裁者。その愚かさが、彼をして、ベルギー人のスパイなるふれこみで登場した、実はパーシー扮するグラパンを寵愛させ、結果的に破滅をもたらすわけだが、越乃ロベスピエールを観ていると、独裁者と民衆との関係が、スターとそのファンとの関係に似たものにも思えてくる。民衆あふれるバルコニーの上、こぶしを振り上げてシャウトしている越乃ロベスピエールはまるで、ロック歌手のようだ。
 というのも、越乃はロックが実に似合う男役なのである。この人の名が初めて脳裏にくっきりと刻み込まれたのは、2000年のショー「BLUE・MOON・BLUE」の銀橋、ギンギンのロックを歌う姿を観てのことだったと思う。二月の日本青年館公演「HAMLET!!」で、髪型も激しくノリノリで歌う、この人演じるクローディアスを観ていて、十年前の記憶を懐かしく思い出した。フランス革命最大のカリスマ・スター、それが、越乃がカリカチュアライズするところの革命家にして独裁者、ロベスピエールの姿である。
 そんな越乃ロベスピエールを観ていて、先に上演された「ドリームガールズ」に出てきたスター歌手ジミーを思い出さずにはいられなかった。いささか人気が落ち目のジミーは、ステージで気絶するのは自分が最初に始めたネタなのに、みんなが真似するからもうウケない、他のネタを考えないとなんてあせって、ついにはふらちな振る舞いに及び、マネージャーに縁を切られてしまう。民衆の目をくらますため、劇場に派手な出し物をかけさせろなんて部下に命ずる越乃ロベスピエールは、自分の人気が落ちてきたことを気に病み、客ウケしそうな安易な手をあれこれと考え出す、わがままで小心者のスターなのである。もっとも、「劇場に派手な出し物」なんて聞くと、あら、どんな出し物かしら、今だったら、「エリザベート」とかそれこそ「スカーレット ピンパーネル」みたいな海外ミュージカルみたいな出し物かしらなんて、不謹慎にもわくわくしてしまう劇場好きあひるなのであるが(苦笑)。
 越乃が伝える、冷酷無比な独裁者の物語は、どこか悲しさに満ちている。人間存在を信じられないくせ、人気なるものは己の打つ手で何とかできるとあさはかにも考えてしまった者の悲しみが痛切に描き出されている。人々の受け取りよう、気配、それが人気。政治家もスターも、人間ではなく、その受け取りようや気配の方を信じるようになってしまったら、おしまいである!
 フィナーレの剣舞では、先ほどまでの冷酷な顔はどこへやら、セクシー組長は世にも色っぽい笑顔で踊る。踊っているうちに、その心が解放されて、ほとんど、幸せの彼方へ昇天していくかのようである。けれども、決して独りよがりではなく、観る者をも幸せとセクシーの彼方にいざなってくれるのは、この人が天才的な色気の持ち主なればこそである。なんせ、新緞帳贈呈式の後の囲み会見で、緞帳の前で挨拶する機会が多いので、緞帳と共に気持ちも新たに歩んでまいります…なんて、袴姿で顔を赤らめコメントする様も、見ているこちらまでなぜか顔が赤らんできてしまうほど色っぽい人なのである。男役の色気が出ないと悩んでいる向きは、セクシー組長・越乃リュウを一度見習ってみるべきである(もっとも、天才すぎて真似できない可能性もあるかもしれないけれども…)。
 今回の月組版のフィナーレには何だかとっても物語を感じるあひる。場面ごとに、心の中でつけた副題を一挙ご紹介〜。
 海外の劇場だと、カーテンコール、悪役を好演した役者に向かって観客が盛大に「ブ〜〜〜」とブーイングするのがほめ言葉のかわりだったりするのだけれども、宝塚にはフィナーレがある。ということで、“悪役”ショーヴランを役替わりで演じている龍真咲&明日海りおが、フィナーレのトップバッターで登場〜。二人とも、ここで歌う「ひとかけらの勇気」までフルに使って、ショーヴランの物語を構築しているのが非常に印象的。二人のショーヴラン論に関わってくるのでここでは詳細は控えますが、龍版には<ショーヴランの本心>、明日海版には<ショーヴランの教訓>なんて副題が浮かんでくる次第。
 続いては、これがなくっちゃ宝塚じゃない! のラインダンス。マルグリットの分身風の衣装&帽子がかわゆいのだが…、何だかとっても野郎度大。途中で飛び出しセンターで踊る三人、鳳月杏&星輝つばさ&珠城りょう、とりわけ鳳月のキメ&目線ゆえと思われ。ということで、ここは蒼乃夕妃のマルグリットの分身にふさわしく、<男前ロケット>と命名〜。
 次はお待ちかね、新トップスター霧矢大夢、大階段センターに、娘役陣に囲まれてスタンバイ! の場面。ここで歌う「謎解きのゲーム」が、実は、今回の「スカーレット ピンパーネル」の核心を衝く歌唱ではないかと思うあひる。霧矢が「♪月さえも形を変え/人の目を欺く」と歌う先には、「いわんや人間をや」という詠嘆が隠されている。ということで、ここは題して<詠嘆の場>。詠嘆の主体である歌い手はここで、変わりゆく月を見つめながら、そこに、つれづれによって変わりゆく自分自身の心を映す。そして、人間存在の深淵を覗き込んでしまう。月に己の心を映す人間と同じように、人間存在の深淵を覗き込む舞台上の役者を目の当たりにした観客は、自分自身の心の深淵を覗き込まざるを得ない。それこそ、役者・霧矢大夢が「スカーレット ピンパーネル」という作品、その中で演じているパーシー/グラパンを通じて観る者に投げかける、人間の本質、真理をめぐる問いに他ならない。
 そして、以前、<“指環”の意味〜新国立劇場オペラ 楽劇「ニーベルングの指環」第2日「ジークフリート」>(http://daisy.eplus2.jp/article/141357655.html)で、ミーメ役のヴォルフガング・シュミットの他にも三拍子の艶めかしさそのものになれる人を“再発見”したと記したことがあったけれども、実はその人物こそ、他ならぬ霧矢大夢である。2月の「Heat on Beat!」のフィナーレでミュゼットを歌っているとき、今、“艶めかしさ”そのものになった! とドキドキした瞬間があって、霧矢大夢は歌と踊りの両側面から音になれる人であることを改めて確信した次第。今回の「謎解きのゲーム」でも艶めかしさそのものに変容するのだけれども、歌があまりに短いので、”艶めかしさ”のまま、元気&キュートな月組娘役陣とのダンス・シーン、<霧矢大夢セクシー・タイム>に突入! 「もう少し男役としての色気があればいいのに…」などと観る者を心配させていたのも今は昔、男役として艶めかしく進化を遂げた姿を、銀橋上でとくとお披露目〜。わかりやすい色気ではないかもしれない。けれども、ああ、綺麗な花だな…と思って、近づいてじっと見入ったら、その中にとんでもない造形美が隠されているのを知ってしまってもう抜け出せなくなるような、そんな深遠な色気。
 そして、大階段を降りてきた月組男役陣と繰り広げる剣舞はといえば、<Repeat After Me!(私に続け!)>。外国語講座なんかで先生のお手本をまねぶ場面で出てくる、あのフレーズです。霧矢先生のお手本のような舞に続き、男役陣がキレよくダンシング。先生去って後は、月組が誇るダンスリーダー桐生園加が、短いながらも見応え十分のソロを披露! ものすごく回転しにくそうな衣装なのに颯爽とワザを決めていて、心の中で思わず拍手〜。
 ちなみに、星組版にも剣舞はあったのだけれども、今回、見比べて両組の違いが非常によくわかるなと…。観ていて体温がぐんぐん上昇する熱さは共通するのだけれども、星組の場合、湿度も上昇してムンムンする感じだったのが、月組の場合はからっとしたさわやかさあり。組カラーとは確かに存在するものなのだと深く実感した次第。
 そして、心が寄りそうデュエットダンスへと続いて、月組「スカーレット ピンパーネル」フィナーレ物語、ここに幕〜。
 心は見えない。だから、心と心が寄りそう様も、目で見ることはできない。
 けれども、見えた。今回のフィナーレ、霧矢大夢と蒼乃夕妃によって踊られるデュエットダンスで。完璧な呼吸の調和。ひらひらと舞う二匹の蝶が、やがて一つに重なり合う、一編の美しい詩のような情景。
 宝塚のデュエットダンスでここまでしびれたのは、2001年の星組全国ツアー公演「風と共に去りぬ」のフィナーレの「ナイト・アンド・デイ」で、隣の稔幸を全然見ないのにどうしてすべての動きのタイミングが完璧に合っているの!? と驚愕させられた、名ダンサー娘役、星奈優里の神業を観て以来かもしれない。
 個人的には、宝塚のデュエットダンスには、今回のように、リフトはない方がいいくらいに思っている。体格差のあまりない中、一方が他方を持ち上げることで、男役が女性であることがかえってあらわになってしまいかねないからだ。それに、リフトはどちらかというと乗る方の技術が問われるものであって、持ち上げる側の男役としては、力自慢に見えるに過ぎないように思うことが多い。男役の包容力を示す上で表現として意味があった…と思えたのは、この十年でいえば、2001年雪組公演「パッサージュ」での、湖月わたるによる月影瞳のリフトくらい。今の男役陣でそのような表現が可能となりそうな体格と包容力とを兼ね備えているのは、宙組の悠未ひろ、もしくは雪組の緒月遠麻あたりだろうか。

 そして、霧矢と蒼乃によるデュエットダンスには、宝塚のトップコンビの意味を如実に示すものがある。
 宝塚の男役がときに不自然に見える可能性があるのは、これを演じることを志す者が、そのとっかかりとして、己の中の女性性を隠し、男性性のみを表現しようとする部分にあるからだろうと思う。人とは何も、男性だからといって男性性のみ、女性だからといって女性性のみで成り立っているものではない。また、そもそも、男性性と女性性という観念からして、人や時代、文化によって捉え方も考え方も異なる。無論、“女らしさ”と思える部分を消して、“男らしさ”と思える部分を取り入れる、男役とはそう思うところから創り上げてゆくしかない芸ではあるのだが、男役芸がその演者と一体となったとき、この消去と添付の不自然性は消え、男役はもはや、自分の性別を意識することなく、自然体で舞台に立つことができるようになる。
 だから、男役芸が自然の極みに達した者は、女性としての魅力を感じさせつつ、それでいて、男役として決して不自然さを感じさせるところがない。霧矢大夢のみならず、トップスターともなれば、その境地に達した者が多い。
 自然体の境地に達した者の隣に立つ者として、娘役トップにも、娘役としての自然体が当然、求められるところだが、この自然体の方向性として、“男前”と“絶対的少女性”の二種類がある。今の娘役トップ陣でいえば、前者として抜きん出た存在感を示すのが蒼乃であり、後者として圧倒的魅力を放つのが雪組の愛原実花である。
 中日劇場公演「Heat on Beat!」の終幕近く、黒燕尾服をまとった霧矢をはじめとする男役陣に、ドレス姿の蒼乃が一人まじって踊るシーンがあった。“男前”とはしばしば、肩の動きによって秀逸に表現され得る(最近観た公演の中では、「ドリームガールズ」でミシェル役を演じていたマーガレット・ホフマンが、粋な肩使いでそれは男前にかっこよかった!)。黒燕尾服姿の男役は、衣装上の制約もあって、肩をあまり動かさない方が美しく見える。そんな中で、蒼乃は一人、肩を入れて颯爽と踊っていて、男役陣の中にあって人一倍、男前でかっこよかったのである。
 今回のデュエットダンスでも、クラシック・バレエの技巧と男役としての技巧を高いレベルで融合させた霧矢の隣にあって、蒼乃はダイナミックに粋に踊る。男役と娘役、それぞれが、男性性と女性性とを兼ね備えていて、それでいて、並んだとき、男性性と女性性とが対照として表現される。現実社会にある男女の並びとはそもそも、そのようにできあがっているものである。ここに、並び立つ二人は完璧な調和をみる。宝塚のトップコンビの究極の在り方である。
 あひるとて家庭にあっては主婦、スーパーにお買い物に行けば「あら、今日は鶏卵がお安いわ」なんて特売品を買い込んだりもする。この不況、生活自衛のための節約も大切である(もっとも、買い込んだ特売品を腐らせてしまったりもするけれども…)。人間、ときにはケチになることも必要であろう。
 だが、どうにも苦手なのは、愛についてケチくさいことである。人への愛を出し惜しみしたり、人からの愛を分け与えず、自分一人で独占しようとする人間。別に減るもんじゃなし、ケチケチしないで! と思ってしまう。
 もちろん、愛を実現するには、時間や体力をはじめとするさまざまな力が不可欠であって、その点において限りはあるが、それは決して、愛をケチることではないと思うのである。
 舞台作品も同じである。自分は観客、つまりは世界を愛していないくせに、自分だけは愛してほしいという、キャストなり、クリエイターなりのエゴばかりが透けて見える作品は、興醒めする。自分は愛において特権的な人間であると、どうしてそんなにも勘違いできるものなのだろうか。美と同じように、愛とは万人に開かれたものなのに。
 芸術作品において、愛とは、そのクリエイターの芸術性と人間性、それぞれの深みがかけ合わされたところに成立する。人間存在をどれだけ愛しているか。世界を、人生をどれだけ愛しているか。その愛の深みを、どれだけ高い技術力でもって示し得ることができるか。芸術家とは、そうして世界を愛する力を与えられたという意味ではある意味、特権的な人間なのかもしれないけれども、その力は決して、自分だけが富や栄誉を得ようという目的ばかりに使ってはならないと思うのである。その力は何より、この世に未だ存在し得なかった美を現出せしめることで、この世界とは生きるに、愛するにふさわしい場所であることを示すために与えられたものだと思うからである。
 舞台評論家という道を選んだ以上、私に与えられた使命とは、舞台芸術の場における新たな美の創造を一つでも多く目撃し、正しい深みでもってそれを書き表すことにあるだろう。

 五月のある日、大阪・中之島の国立国際美術館で行なわれている「ルノワール−伝統と革新」に足を運ぶ機会があった。そして、展覧会を通じて、自分と同じ日に生を享けたこの印象派の巨匠の絵画がなぜこんなにも人の心を捉えるのか、改めて深く実感したと共に、――何だか、霧矢大夢の舞台から受ける印象と似ているなあと、微笑みが口の端にのぼってくるのを抑えきれなかったのである。
 ピエール=オーギュスト・ルノワールの人物画は、特に女性画は、描かれた対象に対する愛に満ちている――もちろん、モデルによっては、「あ、この人のこと、あんまり好きじゃなかったのかもしれないな」と思うことなきにしもあらずではあるが。眺めていると、何だか、描かれた人物が今にもしゃべり出しそうに思えてきて、私は絵の前にじっと立ち止まる。そして想像する。その絵が描かれたとき、画家とモデルの女性や少女との間に交わされたであろう会話を。「私のこと、いったい、どう見えているの? いったい、どう描くの?」、そんなことを聞かれて、「どうって、こう見えているんだよ!」と画家が描いた答え、それが、陶器のような肌、薔薇色の頬、幸福を具現化したかのような、女性美の極致を捉えたあの絵に他ならないと思うのである。

 「スカーレット ピンパーネル」で霧矢大夢演じるパーシバル・ブレイクニーを観て、心打たれるのは、その愛の深さである。彼は、妻マルグリットが自分を愛しているかどうかより、むしろ、自分の愛が妻に伝わらないのはいったいなぜなのかについて思い悩む。自分の愛の力が足りないのか、自分が正すべき問題は何なのか。霧矢大夢が体現するのは、愛されることを望むより、愛することを望む人間である。なればこそ、イギリス貴族であるにもかかわらずわざわざフランスまで出向き、ときに己の命を賭してまでフランス貴族救出にあたる正義のヒーロー像に説得力が増す。粛清の嵐吹き荒れる他国に赴いて人を救いたいと願うほどに、彼は人間を、世界を愛しているのである。
 霧矢がパーシー役を通じて表現するその愛とは、霧矢自身の、舞台への愛、宝塚への愛とも大いに重なる。当たり前である。霧矢大夢は舞台人である。舞台人とは、己の舞台を通じて世界への愛を表現する人々である。その演技に、その歌声に、その踊りに、どれだけ万物への愛が満ちているか。舞台人の価値は、その愛において量られるべきものである。

 二月の中日公演「Heat on Beat!」の「EL TANGO」の場面、裸足になって一人踊る霧矢を観ていて、彼女自身の人生を踊っているのだと心を衝かれたことを思い出す――。
 ちょうどそのころ、男子フィギュアスケートの高橋大輔選手がバンクーバーオリンピックで銅メダルを獲得したけれども、そのフリーでのプログラムで表現された世界と同じである。映画「道」の楽曲にのって舞われたあのプログラムは、高橋自身が、これまで生を尽くして賭けてきたフィギュアスケーターとしての“道”を描き出していた。何度も何度も困難に出会い、くじけそうになり、それでも決してフィギュアスケートという表現手段から逃げなかったこと。彼自身の人生が氷上にそのまま描き出されたあの舞は、“芸術”だった。
 二月、中日劇場の舞台を裸足で踊る霧矢もやはり、人生を踊っていた。あきらめそうになったこと、くじけそうになったこと、それでも――と歯を食いしばり、思いとどまって、踊り続けてきたこと。そのとき私には、裸足のはずの彼女の足に、“赤い靴”が見えた。いったん履いたら死ぬまで踊り続けなくてはならない、赤い靴。子供のころに観た、アンデルセンの童話を元にしたモイラ・シアラー主演の同名バレエ映画は、私の心に、畏れにも似た深い跡を残している。そこまで何かにとりつかれるとは、いったい、どういうことなのだろう。そんなことははたして現実にあり得るのだろうか――。心のどこかにそんな思いを抱いて長らく生きてきて、はたして、裸足のはずの足に見えない“赤い靴”を履いて踊り続ける人間を目の当たりにして、――私はほとんど声を上げそうになったのである。
 この人から踊りを取り上げたら、この人の魂は、死んでしまう――。
 そして、そんな叫びを押し殺して舞台上の彼女を凝視する自分もまた、何かを“観る”、そして“書く”ことにかくもとりつかれた人間であることを自覚せずにはいられなかったのである。私が装着してしまったのは、赤い“眼鏡”、それとも、赤い“ペン”? 靴に比べるとどうも、かっこよさには多分に欠ける感じがしないでもないけれども――。

 「スカーレット ピンパーネル」での霧矢パーシーは、「祈り」の楽曲において、己の愛にまつわる疑念を吐露し、勇気の力によって愛の与えしハードルを乗り越える覚悟を決める。終幕近く、疑念晴れて歌う「目の前の君」はもう、目の前にいる存在、他ならぬ観客に向かって歌い上げる、舞台人・霧矢大夢による敢然たる愛の決意表明である。
 何度も迫り来る困難を越えて、霧矢大夢はそれでも、宝塚の舞台に立ち続けることを選んだ。今、霧矢がトップスターとして見せる舞台は、彼女が乗り越えてきた困難の分だけ、深い輝きに満ちている。彼女だって、人生を呪いたくなる日もあったはずである。舞台を、宝塚をやめようと思った日もあったはずである。それでも、彼女はそうしなかった。その都度、より深い愛を心にみなぎらせて、困難の一つ一つを乗り越えてきた。舞台に対する愛でもって、より芸術性の高い舞台を実現することで、世界がより愛に満ちた場所になるよう、心を尽くしてきた。そう、何も、困難とは、挫折とは、愛を奪うものではない。世界により深い愛を捧げることができるか、その者の生きる覚悟が問われる機会なのである。彼女が世界への愛を歌うその「目の前の君」が、聴く者の心を愛と生きる喜びとで満たさずにはおかないのは、彼女自身がこれまで生きて体現してきた深い愛ゆえである。
 世界を愛する霧矢大夢だが、その愛をひときわ享受できるのが観客であることは言を俟たない。舞台人・霧矢大夢の愛は他のどこでもない、劇場において実現されるものだからである。
 霧矢大夢が世界を愛する。その演技で、その歌で、その踊りで。その深い愛に、いつまでも包まれていたい。――その愛を、いつまでも書き記していたい。