藤本真由オフィシャルブログ

 瀬戸かずやのジョン卿が、見事レディに変身なった下町出身のヒロイン、サリーを人々に誇らしげにお披露目したとき、初めて腑に落ちたように思ったのである。――彼が、「マイ・フェア・レディ」のイライザのようにサリーを淑女へと仕立て上げたのは、何もビルとサリーの恋に幸あれと祈ってばかりではない。彼自身、マリア公爵夫人を深く愛しているからなのだと。マリアの望みは、下町育ちのビルが紳士となり、ヘアフォード家の立派な跡継ぎとなることである。ジョンははじめ、このマリアの望みに反対する。しかしながら、その望みを叶えたいと思いは次第に変わる。愛ゆえに。愛ゆえに変わろうとすること。変わることで愛を成就させようとすること。それこそが「ME AND MY GIRL」のテーマに他ならない。サリーの変化がその根幹を成すことは言うまでもない。しかしながら、ビルもジョンもマリアも、そしてジャッキーとジェラルドもまた、変化を遂げることで愛をわがものとする。三組のカップルが誕生するハッピーエンドは決してご都合主義ではない。変わることで実現された愛の成就が三つの相似形を描き出す。ビルとサリーのそれを中心に、ジョンとマリア、年月を経た熟成の愛の形と、ジャッキーとジェラルド、多少戯画的な愛の形と。
 瀬戸のジョン卿相手にマリア公爵夫人を演じた仙名彩世がまた、すばらしかった。彼女のマリアは終幕、甥のビルを肉親として深く愛するようになっている。彼にヘアフォード家を出ていってほしくない。けれども引き留めるすべがない。その微笑みのせつなさ。彼女が「サリーではあなたの相手にふさわしくない」とビルに言うとき、“サリー”は決して固有名詞に聞こえない。“下町育ちの娘”の象徴のような意味合いに過ぎない。個人攻撃ではない。彼女にとって、階級の異なる相手と交際することがそもそも考えにいっさい及ばないというだけの話である。ここで逆に引き合いに出されるのが、愛を貫いた英国王室の人々であるのが面白い。愛など上流階級には要らないと断じていた貴婦人が、愛を知り、愛にほどけていく様を、仙名はふっくらと体現してゆく。前半の厳しさ、厳かさにも、――こういう上流階級の人というだけなのだ、と、どこか生身の人間らしさを感じさせる。「For the people−リンカーン 自由を求めた男−」での瀬戸の活躍は既に記したところだが、(<“ジェラール(in)山下(公園)”〜宝塚花組公演「For the people−リンカーン 自由を求めた男−」の瀬戸かずや>http://daisy.eplus2.jp/article/437051325.html)、このとき、一般的には“悪妻”とされるリンカーン夫人メアリーを演じた仙名も実によかった。願望であるのかもしれないが、――信念の人をこのように支えていたとすれば、それは素敵なことだ――としみじみ感じさせる演技だった。このときの、どんなに激しく動いても、踊っても、長く重いだろうスカートが決して乱れて見えない裾さばき、いかにも花組娘役らしいそのたおやかさは、今年の宝塚歌劇において今のところ頂点に存する(その次に来るのが、ショー「THE ENTERTAINER」のスパニッシュのシーンの妃海風)。瀬戸、仙名、「For the people」で好演を見せた二人が、「ME AND MY GIRL」の世界をしっかり支えた。
 話の流れ上、トップコンビの話が後になったが、明日海りおと花乃まりあにとっては代表作の誕生である。「ME AND MY GIRL」。何よりトップコンビがタイトルロールの作品である。いいコンビでなくしてはこのミュージカルはそもそも成立しないことを、今回改めて痛感した。それはそのまま、二人が実にいいコンビになったことを意味する。サリーの物語を生きながら、――明日海りおというトップスターに、相手役としてふさわしい舞台人でありたい、そんな自身の物語をもまた、花乃は舞台で生きているように思えた。彼女のサリーは、一幕ラストのパーティを本気の本気でぶち壊しにやってくる。ビルにふさわしくない自分はランベスに帰るしかない、その一心で。その痛切な思いを知って観る「ランベス・ウォーク」への流れは、今までになくせつなかった。「ランベス・ウォーク」とは何も、客席降りがあり、舞台と客席とが手拍子で一体になって盛り上がれる楽しいシーンというばかりでは決してないのである。現実問題として考えてみたとき、上流階級の人々とその他階級の人々がかように交流することは果たして可能だろうか。“平等”の理念は何世紀も前からあって、しかしいまだ実現されずにいる。世界中どこでも、“隔たり”が引き起こす悲しく悲惨なニュースにあふれている。けれども。舞台芸術が上演される劇場空間においてならば、人はいっとき、そこに集う人々が心を等しくして一つとなれる夢を見られるのではないか。芸術家とはそのような夢を夢見て美に邁進する人々のことではなかったか。
 そんな花乃のサリーを、あたたかな包容力を発揮して包み込む明日海りおのビル。今回の舞台は、彼女の舞台人としての本質をこれまでになく露わにしたように思う。思えばこのコンビは、プレお披露目作となったオフ・ブロードウェイ・ミュージカル「Ernest in Love」も弾んでいて、今から思えば、「ME AND MY GIRL」での成功を予感させていたのである。ただ、「Ernest in Love」について私が書くことをためらっていたのは、この原作となったオスカー・ワイルドの戯曲「まじめが肝心」が、劇作家のセクシャリティと芸術家としての闘いの結晶のような作品であり、それ故に芸術作品としての命を永らえて続けているであろう事実があるからなのだった。楽しいナンバーとなっている“バンベリー”のその語すら同性愛の隠喩であるそうだが、詳しくは宮崎かすみの優れた評伝「オスカー・ワイルド」(中公新書)に譲りたい。
 さて、「Ernest in Love」において感じ始めていた、明日海の舞台人としての根幹とは、決して自身のイメージというものに溺れることなく、作品、役柄の本質に愚直なまでに真摯に向き合い、こつこつと演技を積み上げていくタイプであるということである。「Ernest in Love」でも、主人公アーネストの役はいかにも彼女のイメージに合うように思われたが、器用な人間ならば「こう見えているんだろうから」とそのイメージを即座に利用するであろうところ、彼女はこれを利用するということをしない。優等生タイプに見えて――というのもこちらの勝手な“イメージ”に過ぎないのであるが――、その意味では不器用とすら言えるかもしれない。ただ、本質に向き合って一から積み上げた演技は、一見遠回りな道に見えて、最終的には非常に太い。下町育ちのあんちゃんが、少しずつ少しずつ上流階級の紳士へと変わっていき、その過程でまた人間として成長をも遂げていく様を、明日海の演技は丁寧に描き出してゆく。
 私は前に、宝塚歌劇において花總まりの「エリザベート」の“ファントム”がときに現れると書いたけれども、実のところ、それよりさらに長年の“ファントム”を戴いてきたのが、この「ME AND MY GIRL」という作品なのであった。そう、作品の日本初演にして宝塚歌劇初演の主演を務めた、剣幸の“ファントム”に。剣も花總も、退団後もこの当たり役に取り組み、深め続けている点も同じである。しかしながら今回、私は、愚直なまでに作品と役柄の本質に向き合って創り上げた明日海のビルを観て、“ファントム”は少なからず克服された、そのように感じたのである。さまざまなビルが生きられていい。さまざまな「ME AND MY GIRL」があっていい。その中から、観客がそれぞれの心に添う舞台を、それぞれの舞台から心に添う何かを、見つければいい。私は、明日海りお&花乃まりあの演じた「ME AND MY GIRL」が大好きである。

 この公演の千秋楽をもって、鳳真由が花組の舞台を去る。率直に言って残念である。こんなところで何か言葉を記すことになるとは思ってもいなかった。舞台人としてその真価をさらに磨いていく様を見届けられるものと思っていた。ヘアフォード家の弁護士、パーチェスターを演じる彼女は、まじめな自己陶酔が何ともおかしい様を、激しいフラメンコの舞が最終的に至った決めポーズのような体勢も印象的に見せる。もっと舞台で観ていたい人だった。
 夢の世界を描き続けてきた宝塚歌劇団が、やはり夢の世界を描き続けてきたディズニーとのコラボレーションを果たした、今年一月の星組公演「LOVE & DREAM」。ディズニーの楽曲でつづる一幕、星組男役・十輝いりすはリアル・ディズニー・プリンスだった。絵本で、アニメで、陶器の人形で、子供の頃からさまざまな形で親しんできたディズニーの王子様が具現化され、目の前に立ち現われた感じ。実際にコラボレーションがなされてみると、ディズニーの世界というのはプリンセスが主である場合が多い印象で、男役が主となる宝塚の世界とは異なる点もあることが感じられた。だが、十輝いりすのプリンスは、図抜けた存在感を発揮してそこに立っていた。何も彼女が長身だからというばかりではない。鷹揚と漂わせるその気品、風格あってこその存在感。プリンスの輝きあってこそプリンセスもまた輝くということを、もしかしたら通常のディズニーの世界以上に感じさせてくれていたようにも思う。
 二幕では宝塚歌劇の名曲が次々と歌われた。十輝は「風と共に去りぬ」の中から「君はマグノリアの花の如く」を披露した。レット・バトラーがスカーレット・オハラへの想いを歌い上げる名曲である。十輝レットに相対するスカーレットはいかなる魅力にあふれた女性なのだろう…と想像しつつ聴いていて、…ああ、この人はもうすぐ夢の世界を去ってしまうのかもしれないな…という想いが胸にこみ上げた。はたして、公演終了直後、十輝の退団が発表されたのだった。
 最後の公演となったのは、ヨハン・シュトラウス二世のオペレッタを宝塚化した「こうもり」と、新鋭・野口幸作がデビュー作にしてヒットを放ったショー「THE ENTERTAINER!」の二本立て。「こうもり」での十輝の役どころは刑務所長フランクである。これがまた、鷹揚とした抜群の大ボケ。「ガイズ&ドールズ」の星組での上演が決まった瞬間、「十輝いりすにビッグ・ジュール役を!!!」と私が切望した話は前にもふれたが、それもこの鷹揚とした大ボケあっての話である。決して狙って見えない。けれどもおかしい。そこに和む。癒される。「ガイズ&ドールズ」で、長身の十輝は、まさにビッグなジュールとして存在感を発揮し、大ボケの魅力を披露した。ネイサンのでっちあげの結婚話に、ギャンブラーたちがお祝いの歌をとっさに歌うことになり、最後のフレーズを思わずビッグ・ジュールにふってしまう。「♪いついつまでも〜」というのがそのフレーズなのだが、通常音が下がっていくのをある日、上がっていくように歌っていて、それがまた何とも彼女の個性に合っていて、ほのぼのおかしかった。和んだ。「こうもり」のフランクでも、切羽詰って、「アザブジュバ〜ン」等々、まるでタモリのようなインチキ? フランス語を繰り出さざるを得ないシーンのおかしさ。その真面目な姿あってこそ、客席から引き出される上質な笑い。そしてきりっと決まる華麗な衣装の着こなし。本当に素敵な男役だな…と、見惚れた。
 「THE ENTERTAINER!」では女装のシーンもあったのだが、これがまた、男役の女装として正しいどぎつさがあって素晴らしい。何だかクセになるようなあのアクの強さ。それはある意味、勲章なのである。宝塚の男役として研鑽を重ねてきたからこそ出せる、その魅力。
 おもしろい人だった。舞台と客席とで交わされるキャッチボール、日々変化するその多種多様な球種を、「ふへへ〜、おもしろい〜〜〜」と見ている、そんな十輝いりすを観ているのがおもしろかった。そしていつも癒されていた。清涼剤だった。宝塚の舞台ではやはり競争というものもあって、それが舞台を活性化していることはもちろん大いにあるのだけれども、そんな状況とはどこか違う境地に悠然と在って、夢の世界を心から楽しんでいる、その風格あるたたずまいに、心癒される品のよさを感じていたのだと思う。得難い存在である。別れ難い存在である。でもきっと、宝塚歌劇を愛する限り、男役を、宝塚歌劇を愛する人とはずっと心つながっているのだろうと思うから――。これからの人生も、おもしろさと笑いにあふれた幸せなものでありますように。男役・十輝いりす、輝いて宝塚歌劇、卒業である。
 “目で妊娠させる”という表現がある。海外のセクシー男優を形容する際に使われたりするが、私にとっては長らくいまいち腑に落ちることのない言い回しだった。――宝塚雪組男役・蓮城まことの芸を知るまでは。“言文一致体”の評論、役者その人に直接言える評論を目指しているため、いつぞやの新年互礼会、ご本人に伝えてみた。…女の人に対して言うのは、もしかしたら失礼にあたるかもしれませんが、と注釈つきで。――からから笑ってくれた! “目で妊娠させる”男役は、気のいい女性だった。
 それくらい、男役・蓮城まことの目には、ただならぬ色気がただよっているのである。妖気、狂気とも通じるような。前雪組トップスター壮一帆もまた濃厚な色気をただよわせる男役だったが、壮の色気がどこか、武士が剣を構えた際に放つ殺気にも通じる清冽さ、清新さをもつものであったとすれば、蓮城の色気はねっとりと湿度が高いというか。かようにタイプの違う色気が場面場面で攻めてくるショーってすごいな…と、壮のトッププレお披露目公演となった「Shining Rhythm!」(中日劇場)を観て感じたことを懐かしく思い出す。
 蓮城は雪組生え抜きの男役だった。端正で折り目正しい、そんな雪組の男役芸と、キザってなんぼの花組の男役芸が融合すると、強い。壮一帆のトップ時代、花組と雪組とを経験した壮、そして花組出身の未涼亜希の二人の上級生男役と、雪組育ちの下級生男役陣とを、蓮城の男役芸がきっちりつないでいた。早霧せいなトップ体制となってからは、雪組随一、いや、宝塚全体でみても貴重な存在といえる、大人の色気をもつ男役として活躍。優しさ、包容力も兼ね備えていて、目で狂わせた後のフォローもきちんとある感じなのである。そんな個性を生かして恋敵的な役どころも大いに得意としたが、前作「星逢一夜」ではなんと渾身の子役芸を披露することとなったのも楽しかった。「一夢庵風流記 前田慶次」では黒田官兵衛に扮していたが、徳川家康の天下を取るとの宣言に対して一言放つ「なんと!」のセリフと、脚を引きずり舞台を去っていく姿で強い印象を残した。芝居も確かならショーにも強かった。圧倒的な雰囲気を醸し出し、場の空気を変える、銀橋での歌唱場面の数々が目に焼き付いている。
退団公演「るろうに剣心」がショーなし一本物なのは少々残念だが、その代わりというべきか、桂小五郎とフランス人ベルクールの二役。確かに日本物作品での蓮城の姿は記憶にあざやかなところであり、それでいてキザな西洋人姿も忘れがたいところではあり、うれしい二役で男役生活の有終の美を飾った。そしてフィナーレ。“目で妊娠させる”“優しい包容力”は最後まで健在だった。――ずっと雪組にいた人だから、何だか次の公演でも、舞台のどこかに目で探してさみしい思いをしてしまうような気がする。

 央雅光希もまた“芝居の雪組”“日本物の雪組”をよく支えた男役である。男役として落ち着いた声と立ち居振る舞いで、「若き日の歌は忘れじ」や「星逢一夜」といった作品において、芝居の厚みを増す演技を見せた。最近雪組は「ルパン三世」や今回の「るろうに剣心」といった漫画・アニメを原作とする作品で大好評を博しており、世の2.5次元ブームと関連付けて語られたりするが、宝塚歌劇とは時代時代のブームをその都度巧みに取り入れることで百年を超える年月をある意味しなやかにしたたかに生き抜いてきた劇団であって、芝居の充実がベースとなっているからこそ、雪組の快進撃があるわけである。その意味で、央雅のように脇の芝居できらりと光るものを見せる演者をどれだけ揃えられるかが組の力に直結している。「るろうに剣心」では警官に扮しているが、これが、明治の錦絵からそのまま抜け出てきたようにカイゼル髭が似合う立ち姿。これからますますおじさん役者として渋みを増してゆく姿を観られると思っていただけに、退団を惜しむ。

 大湖せしるは男役11年目にして娘役に転向した。男役時代はどことなく甘い雰囲気だったのが、娘役となるとからっとハードな印象に転じたのが興味深い。宝塚でもっとも可憐な娘役陣を誇る雪組において、その存在は異質な面白さがあり、例えば「ルパン三世」の峰不二子のような役に活きたといえよう。そんな彼女のベストアクトとして挙げたいのが、「Shall we ダンス?」のバーバラ役。映画版では渡辺えり子が怪演した役どころに当たり、壮一帆演じるヘイリーのダンス・パートナーとなる。大湖のバーバラには硬質な魅力と旺盛な生命力とが共存していて、ダンス・シーンは絵に描いたように美しく、そしてあけすけな物言いの場面では生の活力があった。
 「るろうに剣心」で演じたのは高荷恵役。会津藩の御典医の娘で、物語の鍵となる阿片を調合する。この阿片を用い、ジェラール山下は自身の“オペラ座”で主人公・緋村剣心に幻想を見せることとなる。剣心に思いを寄せるヒロイン神谷薫にとっては少々恋敵的なところもあり、少女漫画でおなじみの、「あの人にはかなわない〜」とヒロインに思わせる大人の女性の魅力をよく見せていた。
 ↑ですが、「〜」の左と右とが食い違っているわけではないので、念のため。

「…壮さんだったら、この役、素敵に/かっこよく/上手く演じられただろうなあ…」
 これが宝塚に現れる“壮一帆のファントム”である。当の壮一帆がミュージカル「エドウィン・ドルードの謎」で愉快な仲間たちと日本演劇界の大海原に壮快に船出した今、亡霊を追って何になろう。ちなみに、「…この役を演じたら花總さんみたいに素敵に見えるかしら…」が“花總まりのファントム”である。無理やねんなあ…と、「1789 バスティーユの恋人たち」でマリー・アントワネットその人が降りてきたような彼女の舞台を観て思う。高貴な人々が好んで降りてくる“形代”の如き。
 宝塚の舞台を観ていて、通すのが難しいセリフなどについて、「…これ、壮一帆だったらどういうニュアンスで発したかな…」とときどき考えないでもない。私自身が役者としての肉体を持たないが故、「自分だったらどう発するかな」と考えてもあまり得るものがないからである。しかし、「…この役、壮一帆で観たいな…」と考えたことはない。宝塚歌劇で男役をやりきったからこそ退団を決意し、新たな道へと一歩を踏み出したのであろうから、今はどんな新しいことへとチャレンジしていくのか、それを見届ける方が楽しみで仕方ない。
 では、宝塚時代の壮一帆の舞台について一切考えるべきではないかというと、そういうことではない。男役としての見せ方、しぐさ等は学べるものが非常に多いだろう。現在東京宝塚劇場で上演中の「るろうに剣心」では、相楽左之助役に扮した鳳翔大が斬馬刀を豪快に振り回しているが、ここには「一夢庵風流記 前田慶次」で歌舞伎の馬に乗って槍を振り回していた壮一帆の残像がポジティブな意味で浮かんでくる。ちなみに今回、鳳翔は、澤瀉屋の市川猿四郎の指導のもと、歌舞伎の殺陣と「白浪五人男」の口上アレンジにも挑戦。名前通りの大型男役として活躍中である。
 そう、つまりは、「…壮さんだったらこの役、どう向き合っただろうか…」があるべき問いの立て方なのである。そして、そのようにして役者として飛躍を遂げた人物もいる。

 宝塚歌劇がKAAT神奈川芸術劇場に初進出を果たした3月の「For the people」において、花組の瀬戸かずやは、主演の専科・轟悠のリンカーン相手に政敵スティーブン・ダグラスを演じた。リンカーンとの論争においては奴隷制を支持する役どころである。今日の我々の目から見て明らかに間違っていると思われる役を演じることは非常に難しい。
「…『ファントム』でキャリエールを演じたとき、壮さん、大変だっただろうな…」
 舞台を観劇する前、宝塚スカイステージのニュース番組の「突撃レポート」のコーナーを観ていたら、そうしみじみ考えているのが伝わってきた。相当な難役なのだろうなと想像がついた。そして、観劇の日。瀬戸は体当たりでこの役に挑んでいた。今日からすれば明らかに間違って見えることでも、その当時の人にとってはそう信じるに足る何かがあったわけである。アメリカという国家の礎を築き、繁栄させていく上では、奴隷制が必要であるとダグラスは考えた。リンカーンは、黒人を含めたすべての人々の自由なくしてはアメリカという国家の繁栄はないと考えた。過つは人、赦すは神。大切なのは、過去の過ちを今日の目から一方的に糾弾することではなく、その原因をしっかりと見定めた上で、二度とそのような過ちを犯さないことである。
 瀬戸の演技は真摯で力強かった。ダグラスの信念が伝わってきた。私自身はいついかなるときも決して奴隷制を支持するものではないが、舞台上の登場人物の多くを“敵”に回したかに思える一幕ラスト、信念をもって生きる一人の人間としての瀬戸ダグラスにエールを送らざるを得なかった。その姿に思い出したのは、「フロスト/ニクソン」でリチャード・ニクソン元アメリカ大統領を演じたフランク・ランジェラである。この世で神にも比される権力をもちながらも、過ちを犯した男、ニクソン。「同情をもって演じたのですか?」と尋ねた私に、彼は、「同情ではない。理解だ」と答えたのだった。
 瀬戸の演技は舞台評論家としての私に改めて大きな示唆をも与えてもくれた。実際のリンカーンの宗教観については諸説あるようでここでは立ち入らないが、この舞台におけるリンカーンは、神の名のもと奴隷制廃止を主張する。しかし、「私は神の代弁者であって、ゆえに私は正しい」的な物言いは、たとえその言が正しかったとしても、ときに人々の心に無用なアレルギーを引き起こすことだろう。大切なのは、反対意見をも取り入れた上で、自らの主張をより大きなものへとふくらませていくことである。例えば、私は、舞台芸術の場では美の追求が何より大切であると考えるものである。だが、なかには、「美と言ったってチケットが売れなくては何も始まらない」と考える人もいるだろう。実際、「あなたが言う芸術を追求した結果、(チケットが売れず)宝塚歌劇がなくなったらどうするのですか」と尋ねられたこともある。これについては、「では、あなたは宝塚歌劇とは究極的にどんな場所であるべきであると考えますか」と逆に問うものである。チケットさえ売れて繁栄すればどんな内容の舞台を上演しようとも宝塚歌劇は宝塚歌劇であるとは、私個人としては思っていない。私としては、宝塚歌劇でしか可能とはならない美を追求していった結果、作品が次々と好評を博してチケットが売れ、その歴史が続いていってほしいと考える。――多くの大切な人々と出逢った場所であるから、その歴史が永久に続いていくことを祈りつつ。

 素晴らしい観劇の後、横浜の山下公園を散策するのは爽快な気分である。私は、瀬戸の演技に思いを馳せながら、海に浮かぶ氷川丸や、ホテル・ニューグランドの重厚な建物を眺めていた。そして、壮一帆が「ファントム」で演じたジェラルド(ジェラール)・キャリエールの演技について、久方ぶりに、改めて深く考えたのである。――本当に大変だったんだろうな、そう思った。そして、あのとき舞台評論家として、舞台人の心への寄り添い方がまったくもって足りなかったとも。だから、その年の秋に壮が「カナリア」に主演した時期に、――私はまさに、「神様に怒られた」としか形容のできない経験をしたのである。そしてその翌年、蜷川幸雄演出「トロイアの女たち」による“じゃじゃ馬馴らし”があって、それ以外にも多くの人々との関わりがあって、今の私がいる。
 そう考えて、私は、横浜で経験したいくつかの“奇跡”のような瞬間を思い出した。花組全国ツアー「ラブ・シンフォニー」の神奈川県民ホール公演、「So in Love」のナンバーで壮一帆が覚醒したこと。神奈川芸術劇場に三谷幸喜作・演出「国民の映画」を観に行った際、その隣の駐車場あたりで、「自分はこの世界の一部である」とはっきりと自覚したこと。ちなみに、この観劇の帰りの電車で、“芸術の庇護者”ゲーリング役を演じていた白井晃さんと一緒になったのだが、その彼は今や神奈川芸術劇場の芸術監督である。
 ――そんなことを考えて横浜から戻ってきたら、その翌日、瀬戸かずやが「アイラブアインシュタイン」で宝塚バウホール公演初主演を務めることが発表されて、おお、と思ったのだった。そして4月になって、小池修一郎作・演出の雪組「るろうに剣心」を観たら、望海風斗扮する加納惣三郎は途中から“ジェラール山下”と名乗り、自らの“オペラ座”の中で“幻影”を見せる大暴れ。しかも“ジェラール山下”の“山下”は横浜にちなんでいるという設定で。――3月、「For the people」の瀬戸かずやに深く心動かされたあの日、まさに“ジェラール(in)山下(公園)”だったな…というわけで、タイトルの謎?、ここに氷解〜。
 4月1日から早霧せいな率いる宝塚雪組「るろうに剣心」の公演が東京宝塚劇場で始まり、4月4日にはその真正面のシアタークリエで前雪組トップスター壮一帆の女優転身デビュー作「エドウィン・ドルードの謎」が初日の幕を開けた。二つの舞台を観て、…めぐり合わせの妙に驚嘆せざるを得ない。神による“演出”は人智を遥かに超えてゆく。
 「るろうに剣心」で主人公剣心が対峙するのは、加納惣三郎こと“ジェラール山下”が、オペラ座を模して建てた商館“プチ・ガルニエ”において阿片の力を用いて見せる“幻想”である。オペラ座、ジェラール、幻想といえば、ミュージカル「ファントム」で壮一帆が演じたオペラ座前支配人ジェラルド(フランス語読みでは“ジェラール”)・キャリエールを思い出す。幻想を生み出しこれと対峙した人――。宝塚歌劇にはときおり名娘役・花總まりの“ファントム”が現れると以前書いたが、最近では壮一帆の“ファントム”もしばしば現れる。“ジェラール”が見せる幻影と対峙する役柄を、壮を継いで雪組トップスターとなった早霧が演じるというのは、多分にシンボリックではある。
 一方の壮はといえば、複雑なメタシアター構造をもつ「エドウィン・ドルードの謎」で、とてつもない演技を見せている。そして、宝塚雪組と壮一帆、この両者の舞台は、それぞれが力を尽くすことによってさらに支え合える関係になっている。私がめぐり合わせの妙というのは、まさにこの関係においてである。二つの舞台は例えば今日など公演開始時間も同じなら上演時間もほぼ同じで、私は雪組の気迫みなぎる舞台を観ていて、…二つの劇場の間の空に天からいかずちでも落ちてきそうな、そんな思いさえしたのだった。2016年4月、日比谷の舞台に役者は揃った。
 ウィリアム・シェイクスピアの人生について具体的に多くを知っているわけではないなと、シェイクスピアを主人公に据えて描く宝塚宙組公演「Shakespeare〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜」を観て思った。作品の中から何とはなしに浮かび上がってくるように思う姿はあるけれども。――美しい青年に愛を捧げ、その美しさをそのまま言葉で描き出そうとソネットを書いたこと。「女性と結婚してあなたのその美しさを子孫へと残しなさい」と最初は言っていたのが、次第に、「では私が言葉であなたのその美しさを残します」となっていく。芸術家の恋から生まれ出づる詩なる“子供”。――どうも、舞台作品を通じて何らかの“復讐”を試みていたのではないかと思われること。“復讐”と言っても人を殺めたりとかいったことではなくて、白井晃がオペレッタ「こうもり」演出の際に鮮やかに解釈してみせたような、あくまで舞台作品を通じてのそれだけれども。――そして、そういった“復讐”の際に、天というか神というかが何らかの力を貸したのではないかと思われること。グローブ座は天井が開いていて、しかも舞台装置や音響で雨だの嵐だのを見せられるわけではない。でも、例えばリア王を演じる役者が「風よ、吹け」「雨よ、降れ」とセリフを口にしたとき、実際に風が吹き、雨が降るということがあったのではないか。最後の作品とされる「テンペスト」を読んでいると、何だかそのように思える。
 率直に言って、今回の作品で描かれる姿に違和感があったというのは、まずは「君を夏の日に譬えよう」で始まるソネットからして妻に捧げるものとする、夫婦愛の物語となっていたからだと思う。何も自分の解釈だけに固執しているわけではない。例えば、Kバレエカンパニーの熊川哲也演出・振付「ロミオとジュリエット」においては、ロミオがジュリエットの前に恋を捧げるロザラインが、ティボルトと愛し合っているという設定になっている。私には15年くらい前から考えているロザライン側の物語というのがあるのだけれども、熊川版を観て、「その解釈もすごくおもしろい!」と思ったものである。要は説得力の問題である。
 “天才と悪妻”の構図に引きずられてか、物語は途中ミュージカル「モーツァルト!」風になっていくのだが、私にはどうも、シェイクスピアが名声や成功への野心と欲望のままに芝居を書いていた人とは思えず…。「わたしたちがシェイクスピアについてダンやベン・ジョンソンやミルトンほどにも知らないのは、たぶんシェイクスピアの悪意や怨恨や反感がどこにも見当たらないからです。作者のことを想起させるような『発見』で、妨げられることがありません。抗議をしたい、何かを説きたい、損傷を被ったと申し立てたい、恨みを晴らしたい、自分の苦労や怒りについて世間に知ってもらいたい、などの願望のすべてが、焼き尽くされ使い尽くされています。だからこそ詩情が淀みなく、妨げられることもなく、彼から流れ出ています」という、ヴァージニア・ウルフの言葉は示唆に富む(片山亜紀訳「自分ひとりの部屋」平凡社ライブラリー版より)。野心や欲望があるのだとしたら、それは、よりよい戯曲を書きたいというものでしかないように思えるのだけれども。
 シェイクスピアが自分の父親の職業に対してやたらと傲慢な物言いをするのも気にかかる。傲慢といえば、宮内大臣一座の役者リチャード・バーベッジに対して「お前は、僕の書いた台詞だけ喋ってればいいんだ」と言い放つのだが、はたしてこういうことを言う人だろうか…。
 息子が死に、妻に去られ、書けなくなってしまったシェイクスピアを、そのリチャードが、有名な「世界は劇場、人は誰もがみな役者」のフレーズをもって、励まし、説得する。お前は劇作家という役を演じて、書くんだ、と。リチャードを演じるのは沙央くらま。“沙央”が“沙翁=シェイクスピア”にちなんでいることは言うまでもない。その沙央の渾身の演技あって、ここが物語の最大のクライマックスとなる。沙央が、…書けなくなっている人を何とか励まして書かせたい! という強い一心をもって演じているからこそ、心を動かされる場面となっている。ただ、その一方で、…じゃあ例えば自分が書けなくなってしまって、「お前は舞台評論家の役を演じろ!」と言われたとして、書けるようになるだろうかというと、多分書けないと思う。じゃあ自分はどう励まされたら、どのような状況になったら書けるようになるんだろうかとずっと考えていて、昨日の朝になるまでわからなかったので、27日の公演の千秋楽までにこの文章をまとめることができなかったのだけれども。
 書きとめたい。そう思える舞台に、演技に出逢えたとき、書けるのである。というか、書くのである。書いているのである。「人は誰もがみな役者」論で言うならば、役者なり演出家なり劇作家なり、その人の役割を見事に“演じて”いる舞台人に相対したとき、すっと“舞台評論家”の役が降りてくるというか。

 というわけで、作品になじめなかった私は、舞台を観ながらまったく違うことを考えていた。シェイクスピアの豊饒な恵みを私にもたらしてくれた人物について。
 演出家・蜷川幸雄。
 蜷川幸雄だけがシェイクスピアを演出しているわけではない。蜷川幸雄だけがシェイクスピアを観客に紹介しているわけではない。けれども、私がシェイクスピアについて考えるとき、やはり真っ先に関連づけて考えてしまうのは蜷川幸雄なのである。現代に生きる人間で、そのように考える人は少なくないと思う。宙組公演では何作ものシェイクスピア作品への言及があるが、その都度、「蜷川さんの舞台では…」と思い出す。
 …時も、国も、遠くに住まう人がいる。その人が書いた手紙がある。それを、蜷川幸雄が、「この人はこういうことを言いたいんだと思うよ」とか、「この人のこういうところはちょっといい加減だよなあ」とか、適切な助言を差し挟みながら、丁寧に丁寧に、その人の素敵なところ、素晴らしいところをわからせてくれる。何だかそうやって、シェイクスピア作品の魅力、ひいてはシェイクスピア自身の人間としての魅力というものを教えられてきたと思ったのである。蜷川さんは、誰かと友達だとか誇らしげに言う人ではないから、「シェイクスピアと友達〜?」とか言いそうだけれども、何だかそうやって、大切な友人を紹介されてきたような、そんな思いがしたのである。最初にこの宙組の舞台を観たとき、私は、シェイクスピアを演じる朝夏まなとの隣に、蜷川幸雄の姿がはっきり見えて、…そして、“世界”という劇場で、そうやって自分の魅力を多くの人に伝えている演出家の姿を、他ならぬ劇作家自身が天から見ている、そう思った…。
 それで思い出した。あるところに、「我こそはインテリなり」という態の人物がいて、私が舞台好きというので、「僕は、シェイクスピアは、好きでね」と言ったのである(本当にこのように語句を区切って)。この人が好きなシェイクスピアと私が好きなシェイクスピアは何だか違いそうだな…と思って、まあ好きは人それぞれでいっこうに構わないのだけれども…と思っていた。それで、あるとき新聞広告記事のために蜷川さんにシェイクスピアについて取材する機会があって、最後の質問でこう聞いたのである。日本ではまだまだシェイクスピアは教養みたいな風潮があって、この新聞を読んでいる人たちには特にそういうところがありそうだけれども、そういう人たちに、シェイクスピアの魅力はこうなんだ! というところを語って下さいと。よしきた! という感じで演出家は語ってくれて、私はそれを原稿にした。すると、書き直しに次ぐ書き直し。恐らくこの多分に挑発的なところがどこかで引っかかったのかもしれないけれども、私は、蜷川さんから言葉を手渡された以上、絶対変えない! との思いで、決して大筋を変えることなく五回くらい書き直して事なきを得た。そして、舞台の初日が来て、劇場のロビーに蜷川さんがいる〜! と思って挨拶しに行ったら、演出家は一言、「…ありがとう」と…。そんなうれしいことを言ってくれた人はあと、熊川哲也芸術監督(英語で「Thank you!」だった)と齋藤吉正さんくらいなものである。そう言われたからその人たちの創る舞台に対して甘くなるということでは決してない。むしろ、これまで以上に真摯に真剣に臨まなくてはと思う。
 私にとって、ウィリアム・シェイクスピア作品とは、蜷川幸雄と共に存在しているということ。これは、名作とされるものがどのようなメカニズムで後世に残され伝えられていくかについて、非常に大きな手掛かりである。名作とは何も、そのものだけで名作として存在しているわけではない。多くの人がその作品を愛し、さまざまなことを考え、思いを吐露し、解釈を与える。そういったすべての事柄を吸いこみふくらんで、名作の存在はますます大きくなり、末長く語り継がれてゆくのである。
 私は、白水社から出ている小田島雄志訳のシェイクスピア全集を読むのが大好きなのだけれども、それは、作品の巻末の解説に、上演史や批評史がまとめられているからである。例えば、「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者」のフレーズで有名な18世紀の文学者サミュエル・ジョンソンは「リア王」の結末があんまり好きじゃなかったんだな…とか、さまざまな時代の人々が作品をどう受け止めたかがわかって、読んでいて非常におもしろい。「そうか、蜷川幸雄が演出したシェイクスピア作品を、同じ時代の人はこんな風に受け止めていたんだな」と、後世の人々が私の文章を楽しく読んでくれるようなことがあったら、うれしいだろうな…と思う。まあ、過去より未来より、大切なのはまず現世であって、シェイクスピアの魅力を広めんとする演出家のみならず、多くの舞台人の役に少しでも立てたなら、文章を書いていてこんなにうれしいことはない、そう思う。
 昨年4月に赤坂ACTシアターで上演された「TOP HAT」で、愛月ひかるはイタリア人ファッション・デザイナー、アルベルト・ベディーニ役を演じていた。日本語が下手な外人のような珍妙なアクセントで全編通す、情熱的なラテン・ラヴァー。率直なところ、舞台稽古を見学した際には、「…これ、滑らないかな、大丈夫かな…」と少々心配になったものだが、本番の舞台では見事に客席を湧かせていて、恐れ入りましたという感じ。ソロ・ナンバーでは“ストリップ”まで披露、日替わりのド派手なパジャマへと服を脱ぎ捨てる様もあっぱれないさぎよさ。その暑苦し…いや、熱演が何だかクセになってしまい、…実は、その後の来日公演ではちょっと物足りなさを覚えたという。
 …ああいうイタリア男って舞台でもあんまりお見かけしないのかしら…と思っていたら、いたのでした。シンガポールにて発見。シルク・ドゥ・ソレイユ「トーテム」に登場するクラウンの一人、イタリア男バレンティーノ。演じるは、アメリカ出身のジョン・モナステロである。
開演前、客席いじりにやってきたバレンティーノ。
「ウウ〜ン、バレンティ〜ノはあ〜、キミにキスしなくてはな〜らない。それがバレンティ〜ノの使命〜」
 …だか何だか、愛月ベディーニの日本語を思い出させる面妖なアクセントの英語をまくしたて、あひるとその隣に座っていたF社T嬢の手にキッス。「Call me」の言葉と電話番号、そして世にもノーテンキなポーズのポートレートが入った名刺を渡して去っていき。翌日、公演プログラムのためのキャストの取材中にお見かけしたので、「昨日の舞台、とっても楽しかった。名刺ありがとう」と言ってみたところ、…照れていた。根はシャイな方でした。日本公演でもイタリアの伊達男ぶりを大いに発揮して客席を湧かせていて、さすが〜と。ちなみに、日本公演には参加していないのが残念なのですが、シンガポール公演では宝塚星組組長万里柚美似の金髪筋肉美女が吊り輪を披露しており、その美女をバレンティーノがエスコートする場面があって、…このときめき、誰かに言いたいけれども周りにわかってくれる人がいない…と思ったあひる。「トーテム」をご覧になる宝塚好きの方、「TOP HAT」で愛月ベディーニの虜になった方は、バレンティーノにぜひ注目されたし。
 愛月はといえば、パジャマへと服を脱ぎ捨てたときに一皮むけたようで、その後の舞台姿に存在感が着実に増してきた。先日まで上演されていた宝塚宙組公演「Shakespeare 〜空に満つるは、尽きせぬ言の葉〜」では、陰謀の疑いを晴らすため、エリザベス1世に芝居を上演することを命じられ、女役を演じる羽目になる寵臣サウサンプトン伯ヘンリー・リズリー役。足を踏ん張って着る白いドレス、その“女装”の似合わなさっぷりは、男役としての成長の証、いわば“勲章”である。はじめは“男装”から始まり、女性性を削ぎ落とし削ぎ落として男性に見えるところまで芸が熟達し、その果てに内なる男性性と女性性とが融合して発露する。それが、宝塚の男役芸の究極的な美である。であるから、“男装”ではなく“女装”という言葉が似つかわしくなってこそ、男役として立派に一人前なのである。ちなみに、次回大劇場公演「エリザベート」での愛月の役どころは、“イタリア人”テロリスト、ルイジ・ルキーニ役である。
 杜けあきがしっとり歌い上げた歌に、思った。…宝塚歌劇とは、究極的には、大階段でも大きな羽根でも銀橋でもラインダンスでもない。それは、宝塚を愛する人々が共有する、美しい想いの集合体なのだと。だから、先に挙げたような要素がなくても宝塚であり得るし――もちろん、それら要素があると非常にときめくことは言を俟たないけれども――、先に挙げたような要素が満載であっても宝塚ではないケースもあり得る。よって、この宝塚感満載の公演は、宝塚に分類!
 歴代トップスターが5人、トップ娘役が4人、そして日替わりスペシャルゲストでトップスター経験者が10人登場するという、非常に密度の濃い舞台だった。久路あかり、舞城のどか、音花ゆり、鶴美舞夕、羽咲まな、祐澄しゅん、月央和沙、大月さゆ、美翔かずき、華月由舞、光海舞人、麗百愛、アンサンブルも、一人一人が芸でアピールできる、顔のはっきりわかる面々ばかりで実に見応えがあった。
 剣幸については別の項でふれた。
 安寿ミラ。――不思議な人である。内なる女性性と男性性との発露を切り替えるのが実に巧みな役者を、二人ほど知っている。その二人は切り替えサインの発信も巧みであって、しかもそれをこちらの女性性と男性性どちらで受ければいいのかのサインの発信も巧みである。だから、「わかった!」とこちらも切り替えて対応し得るのだが、…安寿の場合、わからない。…すみません、今、女と男、どっちになってますか〜?! という感じ。それくらい混沌としている。だから観るだに翻弄される。その翻弄こそが彼女の最大の魅力なのかもしれず。何度か引用してきたヤン・コットの言葉、「変装はもっと深い意味で悪魔的発想に根ざしている。それは自らの肉体と自らの性という限界を越えたいという、人間の夢の実現なのだ。それは、自己が自己の相手となり、官能の快楽をいわば相手の側からながめ経験するといった、エロティックな体験についての夢である。こういう体験においては、自己が自己であって同時に他者である――自己に似ていながらしかも違っているような他者である」(「シェイクスピアはわれらの同時代人」収録の「シェイクスピアの苦きアルカディア」より)を思い出した。ただ、安寿の場合、変装していてもいなくても翻弄してくるのであるが。
 姿月あさと。宝塚現役時代の最後の方で、何だか、…あまり客席が好きじゃないのかな…と思ったことがあった。そしてそのまま宝塚を去ってしまったように思った。だから今回、宝塚の名曲揃いのショー仕立てのこの作品で、彼女と楽しいひとときを過ごせたことが、本当に本当にうれしかった…。
 湖月わたる。辞めてますます男役芸に磨きがかかっている人である。今すぐ復帰してくれて構わない〜と思うことしばしば。男役は肌の露出を少なくして女性らしさを封印するものなのだが、湖月の場合、肌を見せていてもちゃんと男役に見えるのはなにゆえ。娘役をかわいらしく見せる術にも長けた人である。もちろん女性としてもコケティッシュな面を見せる。
 こだま愛。最大級のほめ言葉として“カマトト”を用いたい。それほどまでに完成された娘役芸である。わざとらしさの際の際ぎりぎりまで寄ったその技巧性。二幕冒頭、「ごめんなさい、遅くなって」という「川霧の橋」のセリフを発するのだが、あひるが何回繰り返し言ってみても、こだまのあのかわいらしさは出ない。歌も素晴らしかった。
 森奈みはる。こだまが“カマトト”なら森奈は“ぶりっこ”である。その後の娘役に与えた影響が非常に大きいことを、改めて確認。ディズニー・ソングを歌ったときのあのキラキラとしたアイドルぶり。剣とこだま、安寿と森奈と、二組のトップコンビの競演が見られたわけだが、…やはりこの人にはこの相手だな…と感じ入るものがあった。
 星奈優里。宝塚史上に残る名ダンサー娘役である。彼女も辞めてなお観るたびダンス力が向上しているのが凄い。彼女の長く美しい腕(かいな)が微細に動く様に見入っていると、…自分の知覚している世界すべてがその腕に支配されているような、そんな不思議な感覚にとらわれてゆく。
 彩乃かなみ。舞台人として非常に才能に恵まれた人である。この人がどんどん活躍していかなくては! と強く思う。コロコロとしたかわいらしい歌声を目いっぱい堪能。共有できる楽しい思い出をいっぱい作ることができて幸せである。
 スペシャルゲストで観ることのできたのは4人。紫苑ゆう。とある後輩の黒燕尾服の踊りに触発されたと思しく――よくよく反響を巻き起こす黒燕尾シーンである――、自身も黒燕尾服の舞を披露。紫苑は宝塚愛の強い人である。だから、その後輩も、声高に宝塚愛を叫ぶ人ではなかったけれども、その宝塚愛の強さがあのように美しい黒燕尾服の踊りに結実したことがわかってもらえたことと思う。一つ、反省がある。数年前、宝塚市内で食事をしていたとき、偶然同じ店に居合わせたことがあった。関係者か知り合いか誰かに勘違いされたらしく、どうも、自分に挨拶がないのはおかしいと思っているような…。最後には私の眼前で颯爽とコートを翻して店を出て行かれた。まるですべてが“紫苑ゆう劇場”を観ているようだった。「『エリザベート』スペシャル・ガラ・コンサート」の囲み会見で一度質問しただけの間柄なので、名乗るのも何だし…と思っていたのだが、あのとき、ちゃんとご挨拶すればよかった。「宝塚歌劇を愛する一人の評論家です!」
 真琴つばさ。「ノバ・ボサ・ノバ」から「シナーマン」を歌った。現役時代にも歌っていたが、あんな凄まじい「シナーマン」はついぞ聴いたことがなかった…。魂が震えた。人生で一番つらかった時期、彼女がトップスターとして率いる月組の舞台に本当に救われたと思っている。それだから余計、あんな凄い歌を聴くことができて感無量である。
 和央ようか。フランク・ワイルドホーン氏と結婚し、ひときわ女らしく美しくなった。その彼女が歌う歌に、思った。彼女の願いは、私の七夕の願いと同じだった。「皆が幸せになりますように」――。彼女は今とても幸せなのだと思った。そのことを幸せに思った。幸せな人こそが、人をも幸せにできる。
 壮一帆。今回登場の中で最下級生かつもっとも最近退団したトップスターである。「ベルサイユのばら」の中から「愛の面影」を歌ったが、最近の宝塚歌劇がどんなレベルにあるのか、宝塚の名曲がどのように歌い継がれているのか、先輩方に理解してもらう上でとてもいい機会になったのではないかと思う。
 2011年から毎年一人ずつ、宝塚歌劇の舞台で、…これからこの人は、舞台人として芸に生きていくんだな…という予感を抱かせた人物を選んできた。天真みちる(2011年、92期)、輝月ゆうま(2012年、95期)、愛希れいか(2013年、95期)、咲妃みゆ(2014年、96期)。その後の4人の活躍は言うまでもない。そして、本年は反省を踏まえて、複数名発表。
 というのも、2013年でいえば、後半、咲妃ががーっと伸びてきていた。そして2014年も後半、ある男役が非常に伸びてきていた。一年に一人では、若手の急激な伸びに対応できないのではないか…という、うれしい反省があったからである。
 ということで、2015年宝塚歌劇新人賞はまず、2014年後半から著しい伸びを見せていた花組の柚香光(95期)に。2011年、レビュー「Le Paradis!!」のオープニングに出てくる妖精役に抜擢されたが、入団二年目ながら客席を釣りにかかる“アンファン・テリブル”ぶりを発揮。2012年のラテン・ショー「CONGA!!」では、女装して壮一帆のダンスの相手を務める場面があったが、10年以上学年の離れた上級生に対して一歩も引かず、「たのもー!」とでも食ってかかるような、どこかふてぶてしさすら感じさせる舞台度胸。さすがに壮は余裕綽々、毎回掌の上で転がすかのようだったが、ダンスというより格闘技を思わせるようなシーンではあった。…この人はまだ、本当の意味での舞台の怖さを知らないところがあるな…と思ったのを覚えている。そして、その瞬間が訪れたのが、バウ初主演を務めた「ノクターン」(2014)である。ツルゲーネフの「初恋」を原作にしたこの作品では、ヒロイン・ジナイーダを演じた華耀きらりと、主人公ウラジーミルの父を演じた瀬戸かずやとが、リミッターが外れる超迫真の舞台を繰り広げた。稽古場で作り上げたものを劇場に持って行って、いざ観客の前で演じたとき、その客席の眼差しによって、作り上げたものがさらに熱量を増し、変化していく。真ん中に立つ柚香は、先輩役者たちのその姿に、大きなものを学んだように思えた。続く「エリザベート」(2014)ではルドルフ役。相手がどうであれ、自分はあくまで芸に邁進する姿勢を貫くあっぱれな舞台を見せた。
 今年に入って、「カリスタの海に抱かれて」では、青年時代のナポレオン・ボナパルト役。宝塚ではその前年、「眠らない男・ナポレオン」が上演されたばかりであり、イメージをかぶらせないためにも役作りには難しいところがあったと思うが、からっと高らかなナハハ笑いが胸をすく中に、後の時代に発揮することとなる大きな野望を確かに感じさせる快演だった。レヴュー「宝塚幻想曲」でも、柚香時代の到来は遠くないと思わせる活躍。
 そして、「新源氏物語」では六条御息所役。こんなに理路整然と知的な人が、狂おしい恋心ゆえ生霊になってしまうのか…と感じさせる好演だった。だが、女性役を突きつめて造形したためか、男役に何だか迫力を欠いてしまったような…。よくあることなのであまり気にはしていないが、男役・柚香光の本質は、相手が上級生だろうが構わず芸で食ってかかる痛快な威勢のよさにある。宝塚の男役と聞いて多くの人がいかにも思い浮かべるであろう、まさに男役をやるために生まれてきたような整った風貌と、小顔で理想的な等身バランスの持ち主で、男役としての決めの表情やしぐさには真飛聖と壮一帆のそれを受け継ぎ、ダンスにもキレのよさを見せる。女性役の経験を生かして、2016年も痛快に大暴れしてほしいものである。

 そして2015年宝塚歌劇新人賞を、今年はもう一人、敬意をこめて、星組新トップ娘役の妃海風(95期)にも。お披露目作「ガイズ&ドールズ」での新トップスター北翔海莉との丁々発止ぶりは心に残る。相手に依存せず、一人で立つことのできる、それでいて相手を活かし、自分を活かす道も心得たトップ娘役の誕生である。初日前の囲み会見での答弁を聞いていても、その日そのときを大切に、瞬時に対応できる勘のよさをもった人であると感じた。北翔&妃海の新生星組の今後の舞台が心から楽しみである。

 今後の有力候補二人。
 「ガイズ&ドールズ」のアデレイド役を好演した星組の礼真琴(95期)。ただ、礼は男役であり、女性役のアデレイドだけで判断してはならないと考えた。繰り返しになるが、女性役好演の経験を、男役に生かしていってほしい。
 シアター・ドラマシティ&赤坂ACTシアター公演「アル・カポネ」で、捜査官エリオット・ネスを演じた雪組の月城かなと(95期)。組替えしてきてそんなには日が経っていなかった望海風斗のアル・カポネに対し、「雪組は芸をやる組です!」と敢然と立ちはだかった。その瞬間、舞台が強烈に引きしまったのを今でも忘れることができない。望海はその後、雪組の舞台にも慣れ、「星逢一夜」「La Esmeralda」でも二番手としての責務を大いに果たしていた。月城は秋にはバウ公演「銀二貫」に主演。非常に好評と聞くこの公演、実際の舞台は観られていないのだが、タカラヅカ・スカイ・ステージでその初日映像を観ていて、月城と、そして専科から出演の華形ひかるの鬼気迫る演技に、…私は、舞台評論家として居ずまいを正されるような思いがしたのである。それはどこか、壮一帆の舞台に喝を入れられるときのあの感覚にも似ていた。芸で一喝する男役の系譜とでも言おうか。ルックス的にも壮一帆を思わせ、クラシックな魅力も持ち合わせた、雪組期待の男役である。東西大劇場公演でのさらなる躍進を望む。
 他に、「王家に捧ぐ歌」アムネリス役を“父の娘”として演じきった宙組の伶美うらら(95期)と、花組新トップ娘役として今後の活躍にますます期待がかかる花乃まりあ(96期)を挙げておきたい。それにしても95期生の活躍には目覚ましいものがあると思う、101年目の宝塚の年の瀬である。
 「新源氏物語」で一つ残念だったのは…。「源氏物語」といえばのかの有名な“雨夜の品定め”の場面において、女性が男性を演じる宝塚歌劇ならではの批判精神が発揮され得る格好の箇所なのに、そうはならなかったことである。彩の国シェイクスピア・シリーズ「シンベリン」(2012)のイタリア男たちによる女性品評会のシーン、演出の蜷川幸雄はバックに「源氏物語絵巻」のこの場面を用い、二つの物語の共通点を引き出してみせた。その演出からは、「まったくどこの国の男たちも、なあ」という盛大なツッコミが聞こえてくるようで、実に鮮やかだったのである。あのとき、蜷川幸雄の「源氏物語」論をも垣間見ることができていたのだなと、振り返って思うけれども。だいたいが、女性が女性の理想の男性を演じる宝塚歌劇自体、逆“雨夜の品定め”三次元版のようなものであるからして。
 右大臣役の天真みちるが怪演。終始目が開いているのかいないのかわからないようなおとぼけ演技で、左右にふらふら歩いているだけで笑いを誘う。前回二本立て公演でもダブルで“心のキャラ”をかっさらい、歌舞伎を観てもバレエを観ても、「あ、この人、宝塚で言うと天真みちる的な…」と、絶えずその影? を追い求めるようになっている己が怖い。雪組の久城あすと共に、将来の専科入りを望んでやまない。
 レビュー「Melodia」の作・演出は中村一徳。作者の色は感じさせつつも、異なる組、異なるスターによってカラーを変えてくるあたり、作者の安定した力量で楽しませる。ギンギンの音楽に乗ってガンガン大勢口を踊らせてもあくまで品がいいのが素晴らしいところ。スプリットを交えたラインダンスも迫力あり。ケガで長らく休演した花野じゅりあが完全復活を印象付ける大活躍。女海賊に扮して男役を引き連れ踊るシーンは非常に見応えがあった。ふくふくとした笑顔でそれは幸せそうに踊っている姿を観ていると、こちらまでにこにこ幸せになってくる。そして、次の公演から副組長に就任する彼女のもと、花組娘役陣がパワーアップ。桜一花、初姫さあや、華耀きらりと退団してさみしいものがあったが、菜那くらら、華雅りりか、朝月希和、春妃うららあたりが大いにアピール力をつけ、華を競う。トップ娘役花乃まりあの頑張りも、芝居レビューとも好印象。芝居仕立てのデュエット・ダンスにもコケティッシュな魅力がある。花組娘役陣、依然鉄壁布陣である。男役では鳳月杏の奮闘が心に残る。レビューで女装してのダンス・シーンは、大空祐飛の男役時代の女装を思わせるなまめかしさがあった。

 2015年の東京宝塚劇場をしめくくるこの公演で、副組長・紫峰七海が退団する。重厚感のある男役で、悪役をよく任されていた印象がある。それでも、ほっこりとした笑みを浮かべた青年像が強く記憶に残っているのは、「サン=テグジュペリ」の名シーン、「ミ・アミーゴ」があるからだろうと思う。主人公(蘭寿とむ)一人を本舞台に残して、空の彼方に消えていった五人の飛行士仲間たちが銀橋を渡り、友情を歌う。悠真倫、蘭寿とむ、壮一帆、愛音羽麗、華形ひかる、みんな花組を去っていった。そして最後の一人、紫峰も、今。「Melodia」の退団者への餞のシーン、銀橋を渡るくだりで、「ミ・アミーゴ」の銀橋が深い感慨をもって思い出されたのは、あのときと同じほっこりとした笑顔を観ることができたからなのだろうと思う。