藤本真由オフィシャルブログ

 アナーキーな魅力にあふれていてあひるの大好きな本屋、ヴィレッジ・ヴァンガード高円寺店に、「マイ流しそうめん機」が入荷している。店頭、うず高く積まれた在庫の上に、ペコちゃん人形が立ち、頭に「もう流すしか無い」とのポップが飾られていて、その前を通るたび、「己は霧矢フランツか〜」と激しい怒りを禁じ得ないあひるであった――この暑いのに。
 そんな憤りを誘うほどに、霧矢大夢演じるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは流す。すべてを流す。流したそうめんを拾わないどころの騒ぎではない。もう、人生のあれやこれやを流しっぱなしである。それも、確信を持って。
 無論、このキャラクター造形には、霧矢の役者としての実に知的な計算がある。レプリークvol.15で行なった取材において明らかにしているところではあるが、霧矢は、実際のフランツ・ヨーゼフが何故、68年もの長きにわたって皇帝に在位し、86歳という天寿を全うすることができたのかというところから逆算して役作りしているのである。国内においても、国外においても、家庭内においても、あれほどまでに諸問題に苦しまされていたはずなのに、何ゆえ長寿? と。そうしてたどり着いたのが、「いろいろなことを割り切って流すことのできた」「一番ずるい人間だったんじゃないか」という結論なのだ。
 実は、これまでの「エリザベート」上演で多少ひっかからないでもなかったのがこの点だった。死だの何だの言っている割に、フランツもエリザベートも当時としては長寿の方なのである。もちろん、かくも苛酷な生に耐える宿命を神が与えたもうたという、運命論的解釈もあり得る。しかし、霧矢は、人間の生に対して実に知的で合理的な解釈を導き出した。
 流す。要するに、心を動かさないということである。日々直面しなくてはならない出来事すべてに、心を揺らさない。いちいち反応していては、消耗してしまう。同情など、もっての他である。
 霧矢のフランツは、登場シーンからすでに、確固たる信念をもって確固たる責任を負わないことに腐心している。政治マターの判断内容を母である皇太后ゾフィーや重臣たちに任せるのみならず、ときには判断を下すか否かさえ人に委ねる。自分では何も決めない。ずるいのである。
 もちろん、フランツにはそうせざるを得ない必然がある。皇帝である自分が元気に長生きして、オーストリアという国家とハプスブルクの御世を守ってゆくこと。それが、ただ一つの彼の生における責務なのである。それを全うするためには、すべてを流すずるさなど大したことではない、そう彼は信じている。というより、それ以外の生き方を彼は知らない。弱い人間なのである。
 そんな人間に愛を求められてしまったところに、エリザベートのかくも深き絶望と苦悩は始まるのである。

 今回ほど、バート・イシュルで、フランツが本来の見合い相手のヘレネではなく、その妹のエリザベートを見初めてしまうことに憤りを感じたことはない。フランツ的には、どうせ長い人生を一緒に過ごすなら自分の好みの女の方がいいし、姉も妹も大した違いはないだろうくらいに思っているのである。そして、エリザベートに愛を告げる銀橋での「嵐も怖くない」で、早速ずるさを発揮する。エリザベートの同情にいわばつけこみ、その愛を得て、自分と同じ責務を彼女の人生にも負わせようとする。愛という場においても彼は、判断を他者に委ねている。
 流すことのできるずるさをもった人間に愛を求められるとは、求められた側にとっては実に残酷な事態である。愛という、心の領域に関わる問題においても、ずるい人間は、自分の心を動かすことなく、愛だけを貪り得ていこうとするからである。愛という、それだけでは無力な、実にふわふわとした感情を、“関係”という形でこの現実にしっかり根付かせるためには、本来ならば、その両サイドにいる人間双方の努力が必要なのである。しかしながら、ずるい人間は、その努力を相手のみに委ねる。「愛している」といえば、それですべてが通ると思っている。
 だからエリザベートは、ときに“最後通告”のような極端な形で、フランツに問わねばならないのである。「貴方は私を本当に愛しているのか」と。「愛しているならば、それを今回ばかりは形に示してはもらえないものだろうか」と。「何故なら、こちらとしては、この関係を続けていく上ででき得る限りの努力をしてきたけれども、ここに至ってはそれももはや限界である。私という存在が貴方にとって大切というならば、この関係が貴方にとっても大切だというならば、貴方の方でもそれを大切だと思い、努力をしているという証拠を見せてはもらえないだろうか。それが実際、何かの役に立つかどうかはわからないにせよ、証拠を与えられたという一点において、こちらとしても、困難な努力を続けていく覚悟ができるかもしれないから」と――。
 皇帝という立場の人間を愛で支える方の人間にだって、感情があり、人生があるのである。人は、自分という人間の精神的限度を超えてまで人を愛することはできない。フランツにとっては国家と御世を守ることが一番大切なのかもしれないが、妻だからといって、エリザベートにとっても必ずしもそうとは言い切れない。けれども、“愛”という魔法の言葉を使えば、フランツはその差異を不問に付せると思っている。自分にはそうするだけの権利があると思っている。“国”のトップだから。帝国随一の“スター”だから。忙しいから。他にやることがあるから。時間がないから。
 ――ずるい、あまりにずるい人。弱い人。他人を本当に愛したことのない、かわいそうな人。ずるい、ずるい貴方。

 心を動かさずに生きてきたそんな人間の心のうちにも、愛を求めてやまない弱さがある。そんな人生の陥穽を、霧矢はフランツ・ヨーゼフの一生の中に淡々と描写してゆく。その哀しさのクライマックスが、「夜のボート」のデュエットである。人生の黄昏時に至ってもなお、フランツは人を愛するということの何たるかを理解してはいないし、しようともしていない。それぞれの人生に違う運命を背負った人間が、互いに自立した人間として向き合い、心のうちを互いに傾けること。生まれながらにそれぞれ孤独な人間が、その一点において、確かにつながり、一人では到達し得ない境地に至ることのできる至福。愛は結局、究極的な意味においてはフランツの人生に訪れることはなく、晩年に至ってその事実ももはや十分知りながらも、なおも己の無理解を理解しようとはしない。
 「一度私の目で見てくれたなら/君の誤解も解けるだろう」
 そう歌うフランツこそ、人生、エリザベートの目で見ようとしたことなど一度たりともない。
 愛の喜びを説いて観客にいっときの夢を与える宝塚歌劇の舞台において、かくもはっきりと愛の不可能性を示し、それでいて、かくも魅力的な貴公子として立ち現れる矛盾。名演である。
 思えば、前回2004年の月組での本作上演時も、霧矢は一ひねりも二ひねりも施したルキーニの造形で驚かせてくれた。このときの「エリザベート」は、すべてが、霧矢ルキーニが創り上げ、観客を幻惑する光景に見えた――。自分がエリザベートを暗殺した理由を説明するために、トート=死というキャラクターを持ち出す。このときトートは、皇后と一介のアナーキストという身分、立場の違いゆえ、決して結ばれることのないエリザベートと愛し合うためのルキーニの“形代”であった。何とも不思議な見え方のする「エリザベート」だった――との、そのとき受けた非常に強い印象は後に、霧矢本人との取材の場で確かめられることとなり、優れた表現を受け取ることのできた幸せを覚えた。
 知的で、実に深遠な人間観察眼。――ときに、観ている人間の背後にそっと回り込み、その首筋に冷たいナイフの刃を当てるような。こんなにも人間存在について達観してしまったところのある、しかも、それを表現する力にも不足のない役者が演じる人間ならば、男であれ、女であれ、楽しみでしかないというものであろう。
 白の正統派男役を語るとは、ある意味、宝塚歌劇を正面切って語ることである。
 というわけで、構想二年余、瀬奈じゅん論、いよいよ登場である。

 明日は瀬奈の舞台を観る、会見や取材がある…というとき、無意識のうちに白い服に手が伸びている自分におかしくなるときがある。それくらい、私にとって瀬奈は“白”の人である。
 瀬奈じゅんという存在によって、私は、ある色が似合うということは、その人間の内面とどのような関わりをもつのかという、色彩心理学的にも非常に興味深い問題について、実に多くの発見と示唆を与えられた。この人は“白”の人であるという判断が下せるようになったのは、瀬奈の存在あったればこそである。もちろんこれは男役の判断のみにとどまるものではない。例えば、「三文オペラ」と「オットーと呼ばれた日本人」で主役を演じて大いに魅力を放った吉田栄作は“白”の役者である。
 瀬奈がある色を着る。すると、その色のもともとの明度と彩度が際立ってはっきり示される。赤とは、青とは、本来このような色であったのかと、目が拓かれる思いがする。クリームイエローのような微妙な色合いにおいても然り。
 もちろん、“白”の男役がもっとも似合うのは、白である。瀬奈の白は、無垢の白である。穢れなき白。まばゆい白。人生の何にも汚されていない、生まれたばかりの人間を思わせる白。
 色があるばかりが個性ではない。白は、個性である。ときに、実に強い。白をまとった瀬奈の舞台姿が、そう教えてくれた。

 宝塚のトップスターは白い二枚目の役が多いとはよく言われることである。個性派で鳴らしてきた男役の場合、二番手時代の方がおいしい役どころが回ってきて、トップになると白い役ばかり回ってきて似合わなかったりということはままある。では、白の男役が白い主人公を演じるとなると、どうなるか。
 正統派が正統派を演じる、まったき正統が現出する。つまり、瀬奈が演じれば、そこが、宝塚歌劇の正統の真センターなのである。かくして、トップになってからの瀬奈は、演出家思い思いの描く宝塚歌劇の正統をふられてきた。これは、トップになってさえ、己の野望のためには人殺しさえ厭わないようなダーティ・ヒーローをふられた、つまりはどちらかといえば“異端”と目されていた安蘭けいの、「安蘭で通れば宝塚の陣地拡大」とはまた別の、しかしながらそれぞれに重い苦労ではあった。
 トップ就任後、瀬奈の白の持ち味をもっとも興味深い形で生かしていたのが、正塚晴彦が作・演出を手がけた「マジシャンの憂鬱」である。このとき瀬奈は、透視能力があるとのふれこみで一躍寵児になるも、実際にはその能力のないことに“憂鬱”を抱いているマジシャン・シャンドールに扮した。
 私は、いわゆる“霊能力”の類は信じていないが、人間のもつ潜在能力はすべてがすべて発揮されるには至っていないと考える人間である。そうでなくては、極限状態に置かれた人間がときに人智を超えた力を発揮することの説明がつかない。当初、仲間の事前調査に多くを負うていたシャンドールには確かに、透視能力とまで呼べる力はないのかもしれない。けれども、瀬奈の白に宛て書きされたことを鑑みるに、シャンドールは、人の心を自分の心に映す能力がきわめて高く、それゆえ、普通の人間が見えないものがある程度以上見えてしまう可能性の高い人間であるように思われる。そう、まるで、白が、他の色の明度や彩度を際立たせてしまうように。
 そう考えると、白の“憂鬱”も納得がいく。白でない人間からすれば、自分の中のわずかばかりの白が相手の白に映し出されて満足かもしれないが、たとえどんなどす黒い色でも映し出さねばならない白の方はたまったものではないだろう。
 作中、そんな白の困惑をもっとも象徴的に示す場面があった。“超能力マジシャン現る”とはやりたつ世間の人々が珍妙な振りのダンスを繰り広げるのを、センターに立つ瀬奈が横目に眺め、一人遅れて振りを繰り返す、そのおかしさ。振りに、瀬奈が何か付け加えておかしく見せるのではない。その振りのもともとのおかしさを、“白”がそのままの通りに映し出すからおかしいのである。人の心や振る舞いのありようをそのまま映す“白”の魅力をあざやかにとらえた名シーンだった。
 15日、宝塚月組「エリザベート」を観劇した作曲家のシルヴェスター・リーヴァイ氏が終演後の記者懇親会に出席、舞台の感想をおうかがいすることができたのでご紹介をば。
 今回の上演をいかがご覧になりましたか? と尋ねたところ、「エリザベートからトート、ルキーニからフランツ・ヨーゼフ、二人の役者の変貌ぶりがすばらしい」とまずは瀬奈じゅん、霧矢大夢に賛辞を。そして続けて、「今回ゾフィーを演じた若い役者が、エリザベートをはっきりと脅かす役作りをしていたのが非常に印象に残りました」とのコメントが。大いに同感! とあひるも思った次第。
 これまでの上演に比べて格段に若い年齢での挑戦となった城咲ゾフィーだけれども、ウィーン版に近い作りとなった今回のプロダクションを考えるに、貫禄よりもむしろ“エゴ”の描写が重要になってくるのは言うまでもないところ。これまでゾフィーはどちらかというと、女性性なるものを捨て去った猛女、怪女として戯画的に演じられがちな傾向にあって、個人的には、“娘”でも“母”でもない“女”の領域の描写が不足していることに不満を感じないでもなかったのだけれども、その意味でも城咲ゾフィーには大いに満足。エリザベートに対峙する悪役としてではなく、ゾフィーという人間にきっちり共感を寄せて演じているからなのだろう、観る側としても非常に共感できるキャラクターになっている。
 例えば、エリザベートに政治を牛耳られることを恐れたゾフィーが、重臣たちと組み、フランツ・ヨーゼフに娼婦を差し向けようと謀るシーン。実は私は今まで、このシーンが非常に苦手だった。というのは、同じ女として、自分がそういうことをされたらいったいどれほど傷つくのか、そのあたりの感受性が欠落している女性、つまりは女性性を捨て去ってしまった女性ってほとんど憎むべき存在だな…と思っていたからなのだけれども、城咲ゾフィーがここで一味違うのは、彼女のうちにも女性性があるということをきっちり押し出して「息子を取られたわ」と歌っているから。つまり、彼女はここで、「私だって、エリザベートなんかに負けないくらい、まだまだ美しい。母なんて立場でさえなければ、息子をあんな女にいいようにはさせないのに」という、一人の女としてのエリザベートへの敵愾心を表明しているわけである。夫が娼婦を抱いたことに対してエリザベートがどれほど傷つくかもお見通しどころか、エリザベートに息子を奪われたということが自分にとってどんな痛手であったか、同じ痛みでエリザベートに味わわせてやろうという企みに結果的になっていて、だからこそ、ゾフィーという一人の人間の内面がよりはっきり映し出されるようになっている。決して戯画的には陥らないものの、臨終の瞬間など、きっちり笑いを取れる芝居を丹念に構築しているのも、きつい面ばかりがクローズアップされがちなキャラクターの当たりを和らげているし、女帝的キャラクターの気品の高さが表現できているのも◎。
 思えば四年前、前回月組上演時の新人公演の舞台稽古を観たとき、城咲のゾフィーの演技に大いに感服し、「この人は、娘役である以前に、役者であることを選び取った人なのだ」と、彼女への認識を新たにしたものだった。役に入り込むあまり演技が激情一辺倒になってしまうきらいがときになくはないものの、シリアスからコミカル、キュートからセクシー、しっとりからちゃきちゃきまで、娘役として守備範囲の大変に広い人である。何より、演じる女性像に知性と意志の強さを感じさせるところが好ましい。どんな女性に扮して共感を誘ってくれるのか、これからも大いに楽しみな存在である。
 10日午前、初日前の舞台稽古を見学。
 レプリーク最新号(vol.15)における、今作にまつわる瀬奈じゅん×霧矢大夢の対談を、私は「新たな『エリザベート』の地平へ」と題した。そして、誕生した舞台はまさに、これまでのプロダクションとはまったく異なる次元に展開されるものだった。これは、「エリザベート」の、宝塚における上演史のみならず、作品自体の上演史におけるコペルニクス的転回である。
 それを可能にしたのは、今回トート役に扮した瀬奈じゅんの、4年前の上演において男役ながらタイトルロールのエリザベート役に挑んだ経験であることは言を俟たない。その経験を不可欠とした上で、演出家・小池修一郎と瀬奈のコンビは、現在の宝塚を代表する白の正統派男役にしか演じることのできないまったく新しいトート像を舞台上に現出させることに成功した。それはまた、女性が男役を演じる宝塚においてのみ可能となるトート像でもある。今回、他組の若手男役を大抜擢し、タイトルロールを演じさせることが大きな話題を呼んできたが、その起用も、これほどまでの舞台効果を生むために狙ってなされた演出家の意図であるとしたら、恐ろしい話である。何しろ、ここで意図されているのは、一人二役と二人一役の同時進行に他ならないのだから。
 コペルニクス的転回を可能にしたもう一つの要因は、皇帝フランツ・ヨーゼフを演じる霧矢大夢の、これまたまったく新しいキャラクターの彫塑である。女性が愛の甘やかな夢を見るとされてきた宝塚歌劇の舞台において、甘い二枚目が、愛の対象であるはずの女性をここまで人間扱いしない様をはっきりと目の当たりにしたのは、2004年の宙組全国ツアー公演「風と共に去りぬ」で初風緑が好演したアシュレ・ウィルクス以来だ。一言でいえば、どこまで行ってもただひたすらに“ずるい”としか言いようのない男性像、そして、“ずるく”あるしかなかった彼の必然を、宝塚きっての実力派・霧矢が、持てる力のすべてを発揮し、淡々と演じてゆく。その男性像とは、突き詰めれば、野田秀樹が「THE DIVER」で問題提起したところの、日本において長らく続いてきた実にいびつな男女関係を成り立たせてきたものに他ならない。かくなる人物造形を可能にした、限りなく深い人間洞察と論理構築、感情の葛藤、つまりは、己自身も含めた人間一般へと向き合う真摯かつ峻厳な姿勢は、芸術家として、人間として、最大級の賛辞と尊敬に値する。宝塚での今後の活躍のみならず、相当に気の早い話ではあるが、退団後も役者として目の離せない存在である。
 二人の男役の対決が、今までの上演以上にはっきりした一つの軸として作品を貫く今回の「エリザベート」は、“愛”という名の戦場において、人々のエゴがぶつかり合い、火花を散らす、凄然なまでの生存競争を描き出してゆく。「誰も互いに愛がなかった。――だから、ナチスなるものが台頭した」とする、ウィーン版にきわめて近い精神ながら、宝塚版でしか成し得ないカタルシスを最終的に生み出し、宝塚歌劇を観る愉悦の極致を説く。それが、他の演出家による新たな発見ということではなく、日本における作品上演に長らくかかわってきた同じ演出家によってなされたことも、特筆すべきである。今回のプロダクション以上の舞台が可能になるのは、やはり、瀬奈じゅんがいま一度タイトルロールのエリザベートに挑んだときでしかないだろう。
 かくして、長らく構想してきた瀬奈じゅん論のパズルの最後のピースが嵌り、自分としても想像し得なかった絵図が展開されることとなり、嬉しくも驚いている。また、今回の舞台ではっきりと示されることとなった霧矢大夢の役者としての真髄についても、さらに詳しくふれる必要があるだろう。95周年を迎えた宝塚に、とんでもない舞台が誕生した。
 宝塚生活最後の大階段を黒燕尾服で降り、そして、そのままの姿で退団記者会見に現れた大和悠河の姿を見て、何だか、胸がしめつけられるような思いがした――。
 一作前の宙組本公演の“心の名場面”が、レビュー「ダンシング・フォー・ユー」で、黒燕尾服をまとった大和悠河が、宙組の男役たちを率いて颯爽と踊るシーンだったからである。それを観て私は、アルキメデスの「ユリイカ!」ではないけれども、今さらのように、「やっぱり男役は黒燕尾服だ!」と思ったのである。黒燕尾服姿にこそ、男役としての個性がはっきりと表れるものなのだと、改めて感じ入ったのである。
 大和のその黒燕尾服姿の踊りは、外へ外へと向かうものだった。大和の内面が、その一見ストイックないでたちからどうしようもなくあふれて、客席へと外向する黒燕尾服姿。伝えたい。つながりたい。そんな熱い熱い想いがほとばしっていた。
 “男役の制服”と呼ばれる黒燕尾服、顔と手以外はほとんどすべてを覆われた、周囲とまったく同じいでたちにおいて個性を出すのは、それほど容易なことではない。まずは、男役として黒燕尾服をきっちり着こなせるようになった上で、己の個性を確立し、それを表現できるだけの技量を身につけなくてはならない。キャリアを積んだ上級生のその姿は、わずかな仕草にもそれぞれの性格や生き様が現れるようで、観ていて飽きることがないが、男役としてまだまだの下級生のその姿からは、ひたすら若さのみが感じられるだけだったりする。
 私は、「ダンシング・フォー・ユー」での大和の黒燕尾服姿を見て、これほど“男役の制服”が似合うまでになったのだ――と、本当に感慨深かったのである。大階段のセンターに立つ姿もトップスターとして見事で、ああ、大和率いる宙組はここからさらなる旅を続けていくのだと、勝手に思い込んでいたのである。そう思っていたら、突然、退団が発表されて、半月くらい何だかがっくりしてしまったくらいなのである。
 だから、旅立つ日の盛装に、大和が黒燕尾服姿を選んだことに、深く心を打たれたのである。この人はそんなにも、宝塚の男役を愛していたのだなと――。

 彼女を初めて取材したのは、2003年の日生劇場公演「雨に唄えば」の製作発表記者会見の日のこと。日生劇場のロビーで行なわれたその会見で、彼女は、登場しての開口一番、集まった取材陣に対し、「みんな、聞けよ〜!」と一発かまして、自ら振り付けたという踊りと共に、「笑え!」のナンバーを大熱唱した。あまりのはっちゃけ具合にほとんど度肝を抜かれてしまったのだが、その後、対談形式での取材で、主演の安蘭けいさんに、「『聞けよ〜!』って、みんな、聞きにきたんやん」と突っ込まれ、「そうですね、そうでしたね」と神妙に生真面目に答えている姿とのコントラストがあまりに落差が激しくて、ああ、何だかこのギャップこそが大和悠河らしいなあ……としみじみ思ったことを覚えている。
 相手役の陽月華も、この製作発表での印象が忘れがたい。会見後の懇親会の席で、「陽月さんは、ボーイッシュだったり、現代的だったりする役が似合うから、今回のヒロイン、本当に楽しみですね」と声をかけたところ、「でも、私、正統派の娘役もできるようになりたいんです」と返された。そのとき、会場の薄明かりの下で一瞬見つめた、彼女のハッとしてちょっと思いつめたような表情と、着ていたワンピースの色と模様と質感が、不思議なくらいいつまでも心にあざやかに残っている。
 二人はお似合いのコンビだった。まるでファッション・ドールのようなルックスとプロポーションと現代的センスをたまらなく魅力的な個性として持ちながら、古き良き宝塚をこよなく愛し、そこに何とか自分の個性を融合させようとしてあがく、不器用さが二人の共通点だった。二人して手に手を取って“ハッピーエンド”(!)へと爆走して行ってしまうロミオとジュリエットのようなコンビは、観ていて微笑ましかった。公演については後日、某誌に書く予定があるのでここで多くはふれないが、そんなコンビの最後の作品が「薔薇に降る雨」「Amour それは・・・」の二本であったことを、早すぎる退団の残念の中の僥倖だったと思っている。
 そして、七帆ひかる。個人的には、雪組の葵吹雪、星組の和涼華と並んで、今年の宝塚三大もったいない退団の一人である。宝塚一パリッとしたサラリーマンルックが似合う男役として、今後の活躍を楽しみにしていたのに――。美羽あさひも、現代性と“娘役”とをきっちり両立させていた、大和の宙組に似つかわしい人だった。

 退団会見での大和さんの、「幸せでした!」との言葉と表情が、本当にすがすがしく感じられた。そして、気になる今後については「(具体的には)ないです」としながらも、「歌も芝居もダンスも、楽しいですね」と満面の笑みを浮かべていたので、必ずやこの世界に戻ってきてくれると信じている。コンビ揃って、女優姿にまったく違和感のない二人だから、違う世界でまた、それぞれに爆走を見せてくれるのではないかと期待している。
 安蘭けいは、彼女の後を継いで星組主演男役に就任する柚希礼音が“ダンサー”であるという意味では、確かに“ダンサー”ではなかったかもしれない。それでも私は、彼女の踊りを観ていて決して飽きることがなかった。それこそ、指一本一本の開き方や反り方といった細部に至るまで、一挙手一投足に男役としての美学が徹底されていたからである。彼女の一つ一つの細かな仕草に、男役として美しく見せるためのこだわりに、心惹かれてならなかった。
 男役を究めれば究めるほど、結局のところ、その制服と言われる黒燕尾服姿にすべてが収斂されてゆくのだと、最近ますます思うようになった。だからこそ、それぞれが個性を競い合う黒燕尾服でのダンスシーンは宝塚歌劇においてもっとも見応えのある場面の一つなのだが、私にとって、安蘭けいのその姿はなぜか、自分の中に原体験としてある男役のイメージにもっとも近いのである。ストイックに、どこまでも自らの内へ内へと向かう黒燕尾服姿。内へ内へと向かううちに、その内的世界がどこか突き抜けて宇宙的広がりすら感じさせてゆく。

 そして、退団公演でさらに凄みを増した歌。心の震えをそのまま言葉に紡いで音に乗せたようなあの歌。決意を告げるときは力強く、神に己の生を問うときは畏れ、愛を歌うときは陶酔に満ち、ときに、それほどまでにナイーブな心の内を知ってしまってもいいのだろうか…? といささかの当惑さえ感じさせずにはおかない歌。聴く者の心が震えるのは、安蘭の歌声を通じて伝わるその心の震えに共鳴すればこそである。

 その演技の成立については、私は長らく、こんな風に考えてきた――。
 安蘭の心には、そのやわらかな感受性ゆえ、無数の“傷跡”がある。どんなささいなことでもかまわない、何かにふれるたび、その“傷跡”は一つずつ増えてゆく。そして、実際に舞台に立ち、役として演技を見せるとき、そのつど必要な感情のバリエーションが、数限りない“傷跡”から瞬間的に、実に適切に引き出されてくる。昨日と今日、今日と明日では、同じ演技でも、刺激される“傷跡”、そこから引き出されるものが異なる。そのあまりに豊饒な多様性を味わうには、生の舞台をもって他にない。
 瞬間的にふさわしい“傷跡”を心の内に探り当て、適切な感情を縦横無尽に引き出して舞台を生きる、そんな安蘭を観ていると、私は、劇場とは何より、人の心を観る場所であり、そして、表現とは、形なきその心をでき得る限り形にして見せる手段に他ならないと思うのだ。
 美という、およそそれ以外の目的にとって実用的ならざるものを追究する心。矛盾にさえ満ちた複雑性を内包してときにその人間本人をも翻弄して揺れる心。不確実性に満ち満ちた世界を生きる上で、その不確実性を一層増幅させる心。心あればこそ、人間は人間たり得る。その心の動きの一瞬一瞬こそが、生きる喜びに他ならない。
 安蘭けいは、悲しみも苦しみもすべて含めた、実に複雑極まりない人間の生きる喜びを、その演技のうちに描き出すために生まれてきた人間なのだ。そして、安蘭の演技を見守ることは、同時代に生まれた者だけに許された、生きる喜びなのである。

 愛とは何度も苛酷な試練を問うものであって、表現への愛もまた例外ではない。退団作「My dear New Orleans」で安蘭扮する主人公ジョイは、音楽への愛を高らかに歌い上げた刹那、歌う場を失くすという試練に見舞われる。結局は、彼の才能を見込んだ音楽プロモーターの誘いを受けてニューヨークへ行き、成功を収めることとなるのだが、表現者の誕生を描く上で重要なのは、安易な成功譚ではなく、試練をどう乗り越えたかの方なのである。
 試練はそれは何度もやって来る。うんざりするほど、手を変え品を変えて。だから、あきらめそうになる。くじけそうになる。実際、どこかであきらめ、その道を挫折する者も多いだろう。それでも、実にあきらめの悪い一握りの人間だけが、愚直なまでに表現への愛を貫き通す。才能がより必要なのは、続けることの方なのだ。愛を貫き通すことの方なのだ。そうして続けていくうちに、いつしか愛は豊饒な実りを見せる。
 2009年4月26日、安蘭けいは宝塚歌劇団を旅立つ。
 その長い在籍期間中に彼女が培い、勝ち得た表現。それは、主演男役という称号を超えて、安蘭に、安蘭のみに輝く、唯一無二の栄冠である。
 まずは、心のキャラ候補から。
 芝居の冒頭の方で、1917年のニューオリンズへといざなう歌を熱唱する英真なおきのクレオールシンガーを観るたび、東京ディズニーランドで一番好きな場所、“ブルーバイユー・レストラン”を思い出すあひるであった。「カリブの海賊」の乗り場の向こうに見えるこのレストランは、南部アメリカ、ニューオリンズを流れるミシシッピ川の夕暮れをイメージしているから、いざない方ドンピシャなのである。芝居では続いてジョイの母親を演じ、ショーの方では掃除夫に扮して実にキュートな魅力をふりまいているが、英真の持ち味の真の爆発力は、まだまだ発揮されるに至っていないと思う。これは、花組の壮一帆とも共通する話なのだが、毎公演、二人は心のキャラの最有力候補なのだ。ただ、心のキャラとして評したいのは「英真なおき」「壮一帆」の方であって、二人が演じている役柄自体ではない……と引っかかる何かがある。役柄を演じて出るおもしろさが、もともとの個性のあまりのおもしろさを凌駕するに至っていないように思う。問題は役柄か、表現方法か、それともその両方なのか、引き続き考えてゆくことにしたい重要テーマではある。
 ジョイのバンド仲間のうち、お笑い担当&どうやらかなりの食いしん坊キャラでもあるらしいオリヴァーを演じているのが彩海早矢である。今回芝居の方が黒塗りということで、かなり手間取ったのだが、ショーを観ていて遂に気づいた。個性派、面白キャラへの道を懸命に模索しているようだけれども、実は“白”の正統派ではないですか!(ちなみに、前にも書いたように、“白”は立派な個性である) 無理に“個性”で味付けするより、内面にある過剰さ(はもちろん、ほめ言葉である)を素直に出す道を模索した方が、まだまだ隠れている繊細な持ち味も生きるように思う。おそらく参考になるのは、宙組の大和悠河である。
 本物の黒人女優! と見まがうルックスの娼婦ローズ役の花愛瑞穂は、魅惑の声でささやく「思い通りにいかないのが、男と女」が強烈。歌声の表情が実に豊かで、「スカーレットピンパーネル」東京公演後半はいささか表情がつき過ぎかなと思わないでもなかったが、今回はそのあたりのコントロールも抜群である。退団した名シンガー矢代鴻の後継者路線として期待の人。また、百花沙里、華美ゆうか、音花ゆり、如月蓮は、今後の心のキャラ候補としての活躍を楽しみにしたい人材。

 ヒロイン・ルルとレニーの母親ジョゼフィンを演じた万里柚美は、心理的欲求と物質的欲望とが対立軸となる今回の作品において、助演女優賞ものである。“黒いヴィーナス”ジョセフィン・ベイカーや、黒豹のしなやかな美しさを連想させるゴージャスないい女が見せるあまりの因業ぶりに、思わずゾクゾク。けれども、彼女がそんなにも金銭、損得に執着するのは、結局のところ、子供たちを思ってのことなのだ……と、終わりの方で見せる愚かな母親ぶりが愛おしくすらある。
 これが退団となる遠野あすかの真骨頂は、ショーでセンターを務めるカンカンの場面で見せる、生き生きとしたエネルギーに満ちたコケティッシュさ、永遠の少女のキュートさにある。だから、今回のヒロイン・ルルは、必ずしも彼女にもっとも合うタイプの役ではなかったのが残念だ。もっとも、芝居でもショーでも、彼女にしか似合わないような難易度大のコスチュームを見事着こなし、大輪の花のようなあでやかさで娘役の集大成を見せている。彼女のポテンシャルは、宝塚の娘役、相手役というポジションでは決して開き切ったとは思えないので、もし今後も舞台を続けるようなことがあれば、さらなる飛躍を期待したい。
 次期主演男役の柚希礼音が演じたルルの弟レニーは、今回の作品においてもっとも難しい役ではなかったかと思う。何といっても、「どんな男に抱かれたって、姉ちゃんの心は、俺だけのものだ」と姉を抱きしめるシスコンぶりが???だからだが、柚希はこのセリフを、娼婦という生業をしていても、姉の心に穢れなきことを知っているのは、この世で弟の俺だけだ……と響かせて、不思議キャラに見事整合性を与えた。レニーの演技を観ていても、ショーでのさまざまな場面を観ていても、男役として実に表現の幅が増えてきたなと頼もしい。大人の男のやさぐれ感、無力感、子供のような純真な笑顔。ショーの中詰めで見せる、セクシー・ダンシング・スターぶりに感じた昂揚は、安蘭けいが主演お披露目作で見せた「クンバンチェロ」の熱狂にも似たものがあって、このあたり、熱い熱い星組は変わらないんだろうな……とうれしくなった。主演男役という立場に立ったとき、いたずらに重圧を感じるのではなく、自分の個性をよりよい形で発揮できるポジションととらえれば、柚希の主演男役としての道が自ずと見えてくる。その暁に、柚希礼音論をしたためるのを楽しみにしている。
 柚希の相手役を務めることとなる夢咲ねねも、今回のようなしどころのない役では限界があるが、あれこれ違った演技を試していたのは芝居心の表れとして買いたい。役の人となりに一本筋を通すようにすれば、凝らした工夫もさらに生きてくると思う。
 他に娘役では、蒼乃夕妃がやはり目を引く存在だ。「ブエノスアイレスの風」や、今回の新人公演のように、大人っぽい役を演じたときには語尾のあたりがちょっとさみしくなりすぎてしまうきらいがあるのだけれども、「キーン」のヒロインや今回の本公演の役どころのように、生き生きとエネルギーをふりまける役だと彼女の魅力が前面に出てくる。ショーのポワソンの場面を観るだに、えらく男前かつセクシーなダンスができる人なので、かっこいい娘役路線で頑張ってほしい。

 和涼華は、退団が本当にもったいない今回の舞台である。今まで肩に力が入り過ぎて舞台を楽しめていないように感じられたのが、ショーでセンターを務めるダンスの場面など、実に自由に、生き生きとしていた。この場面で、彼女は舞台への夢を歌うのだが、彼女自身が宝塚の舞台に見た夢が叶っているといいのだけれども――。
 今回も人生の枯淡を感じさせる演技を見せている紫蘭ますみは、「キーン」で見せた道化的演技の味わい深さが忘れ難い。おっかない系おかみさんのイメージが強い朝峰ひかりだが、「レビュー・オルキス」のコミック・ソングで見せた、ほのぼのとしたかわいらしさも印象的だった。星風エレナは、「ヘイズ・コード」や「エル・アルコン」での怪演ぶりが心に残っている。麻尋しゅんも、男役姿が様になってきたと思いきや……。退団は、さみしいものである。

 今回、専科からは汝鳥伶と美穂圭子の二人が特出。汝鳥は、今回のスティーヴン牧師を観ていて、すぐには「黎明の風」で吉田茂を演じていたことを思い出せなかったほど、何だか一役一役ごとに擬態のように色合いが違う。美穂圭子は、同じ作者の作品「Paradise Prince」で、これまた息子溺愛ぶりが???の母親を演じていて、せっかくの美声の持ち主をこういう使い方せんでもらいたいと思ったものだが(声が本当にかわいらしいだけに、溺愛ぶりによけいに???が増すのだ)、今回のショーではセクシー・ダイナマイトな歌唱をたっぷり聴かせてくれて大満足。この人の本領はキュートでありながら実に艶っぽい表現にあるわけで、まだまだ母親役に落ち着く人ではないだろう。

 新生星組を占う上で、最大のキーパーソンではないかと踏んでいるのが涼紫央だ。主人公ジョイの才能に惚れ込み、彼がミュージシャンとして成功する足掛かりとなる人物、アルバート役を演じ、退団する安蘭けいへの餞の言葉とも言うべきセリフを、何とも心地よい温かみをこめて語って最高級の好演を見せているが、芝居巧者のこの人にとってはやはり、役不足だろう。難役に挑んで拓く新境地に期待。
 若手に目を転じると、夢乃聖夏は、こういう黒人の男の子って絶対カナダ時代の友達にいた! と思ってしまった。包容力を感じさせるようになってきたのが◎だが、セリフの間をもっと自由自在に操れるようになると演技がより生きてくると思う。紅ゆずるはセリフに心情をこめようとするあまり顔の表情がおもしろくなってしまう点に気を付けて、かっこよさとおもしろさの両立を心がけてみてはどうだろうか。壱城あずさは、この学年でよくもこれだけ男役の「俺について来い」の目&表情ができるものだと感心。ショーのダンス場面での回転の猛スピードには毎回、目が釘付け! 紅と壱城が、ブルーのアイシャドウも麗しく、「キザッてなんぼ」を並んで体現しているショーの銀橋を観ていると、やっぱり宝塚の男役はそう来なくっちゃ! とうれしくなってくる。創りに創り込んだ後でなければ、人それぞれの男役の表現など生まれて来ようはずがないのだから。
 ジョイの言葉を借りてしめくくることとしよう。
「この街からまた新しい未来が育っていく。こんなに嬉しいことはありませんよ」
 出張していたりしてすっかり遅くなってしまいました。恒例、心のキャラ発表!
 人材豊富で心のキャラ激戦区の星組、今回も候補者多数の中を勝ち抜いたのは、…ジャーン、美稀千種扮する“ポン引きのボブ”! セリフは「旦那、どうだい」、「やばいぜ」「冗談じゃねえ!」の三つ、ソロは「今夜はお楽しみだ」のみながら、歌舞伎の定式幕のような配色のジャケットを着たこのボブ、何だか妙に気にかかる。なんてったって、めっぽう色っぽい! 身のこなしもさっそうと粋で、でもちょっと抜けたところがあるのが癒し系で、娼婦たちの信頼も厚く、街の住人ともしっかり交流していて。自分が生活ベタという意識が強いので、男の人は生活力(経済力ではない)がある方がいいなというのがあって、今までヒモをもつ女性の心理がいまいちわからなかったのですが、こういう男の人ならありなのかも…と新しい心境を拓かれた感じ。ジョイの世界とルルの世界、二つのかけ離れた世界を、ルルの弟レニーを追って来たボブが一瞬つなぐのも、ストーリーヴィルという街の奥行きを出して。十年後のチャリティ・コンサートのシーンでは、さっぱりこぎれいな身なりで登場するボブ、ストーリーヴィルがなくなった後はポン引きから足を洗って正業についたのかしら、娼婦の誰かと所帯を持ったのかしら…等々、何だかボブのことばかり考えてしまう。
 物語的にも、ボブの“ポン引き”という職業のもつ意味は決して小さくない。レニー曰く、「愛なんて金で買うもんだって、子供だって知ってるさ」というこの街で、ボブは“愛”を金銭で売買する手助けをする人間である。その対極に、ジョイがルルに捧げる愛、愛のみを対価とする愛がある。ジョイが歌う「スイート・ブラック・バード」にこめられた愛の重さ、深さは、“愛”が金で取引される場所から生まれ出たがゆえである。

 昨年秋の全国ツアー公演においても、美稀は、「外伝 ベルサイユのばら」でばあやのマロングラッセ役を好演し、その後のショー「ネオ・ダンディズム!V」の“アディオス・パンパミーア”の場面では男役として、誰よりも激しく肩をいからせて踊っていたりして、ギャップの大きさで楽しませてくれた。今回は、芝居作品で最高に粋な男を演じた後に、ショーのフレンチカンカンの場面でキュートな踊り子に! ショッキングピンクのかつらをかぶった姿が意外と言っては失礼だが何だか妖艶で、でも、コミカルな展開の場面では計算された動きで笑いをきっちり取ることも忘れない。芸達者やなあ…と感服。今後も大いに期待!
 4月27日以降、宝塚の劇場で、立樹遥のあの笑顔に励まされることはもうないんだ…と思ったら、何だか無性にさみしくなってきてしまった…。

 私があの春の太陽のような笑顔の真価に思い至ったのは、恥ずかしながら、ごく最近のことのような気がする。
 人間、笑顔でいられるときばかりとは限らない。肉体的にも、精神的にも、笑顔でいることを妨げる要因は枚挙に暇がない。けれども私は、立樹が心からの笑顔を絶やすのを観たことがない。
 あの笑顔は、彼女の意志の表れなのだ。世界を、向き合う相手を、常に温かく受け入れ、包み込みたいという強固な意志の。そのことに気づいてから、彼女の笑顔が一層貴く感じられるようになった。そして、自分でも…と心がけて知るのは、その意志を貫くことの難しさである。

 もっとも、今回の芝居作品「My dear New Orleans」では、その笑顔は封印されている。演じるはニューオリンズの歓楽街ストーリーヴィルの顔役、ジュール・アンダーソン。主人公ジョイが愛を寄せるヒロイン・ルルのパトロンである。
 安蘭けいが主演男役に就任して以来、立樹が演じてきたのは難しいところのある役柄が多かったように思う。というのは、物語上は重要な意味合いを占めながらも、どうにも書き込み不足のケースがままあったからだが、立樹は真摯な取り組みでいつもきっちり成果を出してきた。今回のアンダーソンも、恋敵、悪役かと思えばルルを心から愛する貴族的紳士で、どこか捉えどころのなさは否めない。さらに言えば、アンダーソン/ルルの関係は、白人/有色人種、男/女、権力者/囲われ者と、支配/被支配の関係が幾重にも成立しているのが、恋心という力点においてあざやかに反転してしまう面白さがあるのに、どうにも演出しきれていない。そのあたりの不足を補う力演で、立樹は男役の集大成となる舞台を見せた。捉えどころのなさはミステリアスな雰囲気を漂わせる造形で魅せ、去りゆく宝塚への想いと重ね合わされる、ストーリーヴィルへの挽歌は情感たっぷりに歌い上げる。ルルに、多くを、愛を求めはしない…と歌い上げる四重唱のせつなさあればこそ、男役最後のセリフ、「私にできないことなどない」のせつなさが一層際立つ。権力者が唯一できなかったこと、それは、愛する女の心を手に入れることだったのだから。
 ショーでも、ジョイ/ルル/アンダーソンの三角関係をなぞるような場面で、安蘭と男役同士の火花散る対決を見せて圧巻である。その後の中詰めからは一転、笑顔満開。春の太陽の人だから、オレンジの衣装が実によく似合う。そして、そのオレンジの温かみに負けない笑顔が、逆にさよならのさみしさを感じさせずにはおかない。

 彼女とは不思議なくらい縁がなくて、結局一度も取材できずに終わってしまったことが残念でならない。宝塚への想い、男役への想い、聞いてみたいことは多々あったのに……。一度だけ、懇親会の席上で言葉を交わしたときの、やはり明るい笑顔は今も心に残っている。これからの人生も、彼女は温かな笑顔で、その道程を照らしてゆくのだろう。どうか、あの笑顔が人々の心にもたらした以上の幸せに恵まれんことを。
 宝塚歌劇においては、座席がセンターに近ければ近いほど、舞台上に異なる光景が広がるということを知ったのは割と最近である。あまりそんな場所に座った経験がなかったからなのだけれども、考えてみれば、演出家的にはセンターがデフォルトなわけで、他から見える光景こそが異なるという話なのかもしれない。
 それはさておき、とりわけその真価が発揮されるのは、大階段を使用してのレビュー・シーンである。あまりにすべてがシンメトリーを成していて、ちょっと恐ろしくなるような、悪魔的な美しさがある。あまりのシンメトリーゆえ、舞台上で展開されている三次元の出来事が、二次元的、絵画的に見えて、それでも実体を伴って動いているという事実を、慣れないうちは目と脳がなかなか飲み込めない。その完璧なシンメトリーの中心に、トップスターがスポッと入り込む刹那、いまだかつて味わったことのない昂揚感に圧倒される。
 しかも、今回の「ア ビヤント」では、そのシンメトリーの中心人物が、客席に向かって手をまっすぐに差し伸べる振りがある。まるで悪魔的な美の世界にいざなうかのようなその仕草に……心は浮遊し、舞台上へと彷徨い込んでしまう。それは、ベルギー人画家、ポール・デルヴォーの絵画の不思議世界に心彷徨い込む瞬間とも似ている。二次元の世界の中に入り込む瞬間。この世には絶対にありえない、けれども、舞台上には確かに存在する、魅惑極まりない矛盾を孕んだ完璧なる美の世界に彷徨い込む瞬間。デルヴォーの絵の世界に入り込んだときも、これ以上絵の中の道を歩いていってしまっては引き返せなくなる……と恐ろしくなったものだったけれども、客席でのその一瞬も、あまりの不可思議さに息が、心臓が止まりそうで……もしかしたらあの手は、黄泉の国からやって来た使者の手だったかもしれないとも、思わせるものがあったのである。