藤本真由オフィシャルブログ

 23日の初日前の舞台稽古を見学。舞台稽古ゆえ、爆笑手拍子拍手の類は控えねば…と思っていましたが、瀬奈じゅん演じるビルが矢継ぎ早に繰り出すギャグについつい、笑いをこらえきれなくなるあひるであった。あれで笑うなというのはほとんど、拷問かと。なかでも、出雲綾扮するマリアおばさまの後にくっついてあれこれ真似するシーンが秀逸で、主演男役として初めて“心の名場面”に輝いてしまいそうな勢い。演技だけでなく歌声も、作品の楽しいエッセンスをほとんどそのまま体現している瞬間があって、文句なしに代表作となりそうな予感あり。ジョン卿を演じる霧矢大夢も、渋さとキュートさのバランスが見事。歌でも踊りでも音楽と一体となれる、さすが海外ミュージカルに強いところをアピール。8月の博多座ではどんなビルを演じてくれるのか、こちらも興味津々。ジェラルドを演じる遼河はるひは、かわいらしい声をより活かせるセリフ回しに一考の余地あり。役の非常に少ない中、作品の雰囲気を盛り上げようとする出演者一同の奮闘が好感度大。メインの出演陣との相乗効果で、舞台がますます弾むことを期待。
 宝塚で海外ミュージカルを上演する際、しばしば焦点となるのは、娘役という存在と海外作品におけるヒロイン像、女性像との抵触を解消した上での複雑な融合が問われること。その意味で、ヒロイン・サリーを演じる彩乃かなみにはいつも以上に多くのものが要求されるのはやむを得ないところ。瀬奈演じるビルの心ある演技を生かすも殺すもサリー次第。泣いても笑ってもこれが宝塚生活最後の舞台、娘役の限界に挑戦し、宝塚の可能性を広げるような奮起を観たい。
 舞台稽古終了後、瀬奈さんの囲み会見。あひるからは、月組が誇る名作の宝塚公演を終えての手応えと東京公演に向けての意気込みをお聞きしましたが、お客様の参加あってのこの作品…とのコメントに、うなずくことしきり。早く満員の客席で、思う存分楽しみたいもの。
 昨年12月中旬に観た野田秀樹の傑作「キル」の深意が、何故かその一ヶ月後、1月中旬くらいになって、急にストンと腑に落ちた。「希望は、絶望の後にしか現れない。そして人は、たった一人で孤独だからこそ、どこへでも自由に行ける」――。
 戦後の混乱期、敗戦に打ちひしがれる日本人の中にあって、ダグラス・マッカーサーと渡り合い、「従順ならざるただ一人の日本人」と呼ばれた気骨の男、白洲次郎の生き様を描いた「黎明の風」を見た今では、その真理にもう一言書き加えることができる。「己を支えるプリンシプルあればこそ、人はどこへでも自由に行ける」と。
 自由に生きることは、難しい。己が生きる道を選ぶ場合も、他者の生き方を評する場合もえてして混同してしまいがちだけれども、自由に生きることと好き勝手に生きることとは似て非なるものである。その二つの生き方を峻別するのが、プリンシプルの存在に他ならない。
 恃むものは我が身一つ、組織に属さず、“侍ジェントルマン”としての人生を全うした白洲次郎も、生きているうちはおそらく、心ないやっかみや中傷にさらされたことだろう。けれども、人生の価値を最終的に判断できるのは、己のみなのである。己の信ずるところに向かってひたすらに歩むことができた、人生の終わりにそのように確信することができれば、白洲の残した遺言、「葬式不要、戒名不要」の域にまで、人間、悟ることができるのかもしれない。

 そんなことを考えるに至ったのも、今回の公演、白洲次郎を演じた轟悠、ダグラス・マッカーサーに扮した大和悠河の二人が、好対照を成す好演を見せたからである。
 前回の大劇場公演「バレンシアの熱い花」の際、私は大和について、その実に複雑かつ奥深い内面と、舞台を通じて伝えたいあふれんばかりの想いを伝えきるだけの技術はまだ手に入れてはいないように思える――と指摘した(「宙組新主演男役・大和悠河はおもしろいのである」http://daisy.eplus2.jp/article/57946637.html)。それが、どうだろう。一年も経たぬうちに、大和は男役として、そして役者として、飛躍的な成長を遂げたのである。オーバーアクションや声量の暴走は影をひそめ、役柄の心情をごく自然にしかし余すことなく伝える術を身につけた。今回のダグラス・マッカーサーの演技は、ほとんど神がかりと言っていい。まるで、2008年の今、ダグラス・マッカーサーがこの世に再び存在するために、魂の容れ物として役者・大和悠河の肉体を選んだのではないかと思えるほど、舞台上の大和はダグラス・マッカーサーその人にしか見えないのである。
 日本という国をこよなく愛し、敗戦後の混乱を鎮めて人々をよりよき方向へと導こうと、彼なりの信条のもと奮闘するダグラス・マッカーサー。そんな役柄の造型に対しては、もっと傲岸不遜な人間だったのでは――との疑問を抱く向きもあろう。しかし、ここで大和が演じているのは、ダグラス・マッカーサーという人間存在の魂、良心である。我々が彼の心のうちにあらまほしきと願う、純粋かつ最良の部分である。宝塚の「清く正しく美しく」とは何より、人間存在の表現にかかると信じる者にとって、大和のマッカーサーの演技は、宝塚の本分を行くものである。
 大和が短期間にこれほどまでの急成長を遂げたのは無論、今回の公演に轟悠の特別出演あったればこそである。主演男役という立場になり、自分の信じる宝塚を存分に追究し、舞台上に描き出そうとする段階になって、往々にして難しいのは、その自分の精いっぱいを受け止めきれる存在の少ないことである。組の頂点に立つ以上、それはある部分致し方のないことであって、何を恃みに己の芸のさらなる追究を進めていくかというのは、主演男役という立場に置かれたものの永遠のアンビバレントなテーマであろうと思うが、今回の大和の場合、そこに轟がいた。主演男役としての先輩であり、男役としての確かな技術を身につけた存在が。轟に遠慮なくぶつかり、日々己の限界に挑戦し続けることで、大和悠河は役者として開花したのである。
 一方の轟にとっても、今回は非常に得るものの多い特別出演だったと思う。男役としての轟悠はほとんど完璧に隙のない存在である。造作の美しさはもちろんのこと、一挙手一投足が男役として完成されているから、もはや、どんな仕草をしても美しい。しかしながら、隙のない存在として完成してしまうことは一方で、隙だらけで不完全な人間存在を表現する上では足枷ともなり得る。すなわち、ストイックに追究し続けてきた男役芸と、人間存在を表現する術とを、高度な次元で融合させ両立させることが必要になってくるわけだが、本来が実にストイックで、そしておそらくとんでもなくシャイな人であろうだけに、轟悠は己の心というものを、その完璧なまでの男役芸の後ろに隠してしまいがちなところがあった。その封印がほどけたか…と思えたのが、昨年11月のコンサート「LAVENDER MONOLOGUE」である。骨太で硬質なイメージのあった轟はこのとき、己のナイーブな心を拓いてそっと見せるような、聴く者の心にしみる歌唱を披露したが、今回の舞台では、白洲次郎の演技を通じて、その心の奥に在るこれまた実に複雑かつ味わい深い内面を見せてくれた。轟の白洲次郎は、己のプリンシプルを守り抜く骨太さが魅力であるのは無論、それでいて柔和で、他人の心の動きや痛みに敏感な優しさと、品のいいユーモア、そして、曲がったことは決して許さず当たりかまわず吠えてかかるほどの情熱を兼ね備えていて、実に魅力的だった。轟がここまで役柄を通じて心を拓くことができたのも、大和が役柄を通じてまっすぐに心をぶつけてきたからではないか。
 轟の白洲次郎、大和のダグラス・マッカーサーとも、文句なしにそれぞれの当たり役、代表作とする熱演ぶりで、二人が役柄上、そして演技上、まったくの遠慮なしにやりあう場面は、観ていて毎回手に汗握るほどの心地いい緊迫感に満ち満ちていた。そんな二人の真剣勝負につられ、蘭寿とむ、北翔海莉らも真剣度の高い演技を披露する成長ぶりを見せた。特に蘭寿は、ときに空翔けるかのようなセリフ回しを、恒常的にではなくここぞというときのキメとして使えるようになったのが効いている。
 そしてもちろん、汝鳥怜の吉田茂。もはや吉田茂について考えるときは必ずや汝鳥の演技を思い浮かべてしまうのではないかというはまり具合で、歴史の教科書でエピソードを通じてしか知らなかった吉田茂が、生きて動いてバカモン! なんて言ってる…と考えただけで何だかうれしくなってしまうくらいだった。この人もまた、一つ当たり役を増やした。

 主演娘役・陽月華の不在は確かにさみしいものがあったが、その穴を埋めるべく熱演を繰り広げる出演者一同を観ていて、今の宙組は一人一人の顔と個性がなんとはっきりと見えるのだろうと思わずにはいられない。
 大和、蘭寿、北翔の三人に共通するのは、非常にいい意味で宝塚スターたらんとする志である。宝塚の舞台に立ち、宝塚のスターとして視線を浴びる以上、客席に何を返すべきなのかを、ひたむきに追究してゆく心がけのおもしろさが共通していて、だから今の宙組の舞台は、宝塚的に実に濃い。その三人についてゆく下級生たちも、宝塚ならではのよさ、男役/娘役ならではの表現、そして一人一人の個性をはっちゃけて追究していて、おもしろい。そんな宙組に、まるで組織に属さず自由に生きる白洲次郎の如き轟悠が特別出演し、これまた組子相手に一歩も引かぬ宝塚の舞台への情熱を見せた今回の公演は、実に見応えのあるものだった。
 役者としての技術をプリンシプル、表現したい想いを心の自由と考えれば、冒頭に記した真理のアナロジーが成立する。プリンシプルが揺るぎないものであればあるほど、人は自由になれる。すなわち、身に備えた芸が確かなものであればあるこそ、役者は自由に想いを表現し得ることができる。芸とは、己の心の奥底に迫り、これを外に向かって表現する上で最強のツールである。芸の道を究めれば究めるほど、自由になれる。人も、そして、心も。
 非常に満足度の高かった公演、全体を振り返る前に、まずは恒例?、心の名場面&心のキャラ&新部門、“心のポーズ”を一挙発表。
 一連の星組公演での発表以来、どうやら楽しみにしてくださる方も多いらしいということで、各公演、忘れがたき一瞬を求めて一層アンテナをはりめぐらせることになったわけですが、最近つくづく思うのは、公演の充実度と比例して候補も多くなるということ。その意味でも、今回の宙組公演は非常に選択肢が多くて選ぶのに苦労したというのは、かなりヘビーな題材を扱った芝居全体の真剣度が高まるにつれ、息抜き的、お遊び的に挿入された場面の重要度&出演者の気迫もいや増したからではないかと思う次第。
 そんな中で、名場面はやはり、初見の際から心を奪われた“隣組ダンス”に。鈴奈沙也が怪演する白州家のスーパー女中? 、里村キクを筆頭に、着ているものはもんぺなれど足先まで力&気合いの入りまくった人々の踊りは、毎回、もうちょっと長く見ていたいと思わせるものが。その他、「日本が勝っていたらギブミー酢昆布&炭酸せんべいと言わせていたのに〜」と悔しがる酔っ払いや(八雲美佳がワンポイントでいい味。しかし、炭酸せんべいはわかるけど、なぜに酢昆布???)、熊澤天皇にDDTをぶっかけんとする人々などが現れ、終戦時の人心の迷いをヴィヴィッドに描き出す「混乱」の場面もかなり印象的。
 心のキャラは今回、2キャラクターの合わせ技で、風莉じん扮する“流しの男”&“外務省の武藤さん”に。京都ホテル屋上のビアホール、「東京行進曲」をいやに昭和のムードたっぷりに歌う流しの男。この「東京行進曲」がまた、耳について離れないインパクトがあるのだけれども、そんな歌唱を披露したのもつかの間、流しの男はスーツ姿も窮屈な役人に変身し、白洲次郎にボロいバッグで出張に行くなと説教されて大いにふてくされたり、遂に講和成って人目もはばからず男泣きに号泣していたりするのであった。何たる振り幅の広さ。それを言ったら、「黎明の風」でダグラス・マッカーサーを好演していた大和悠河は、ショーでは絶世の美女の姿であでやかに現れたりするわけだけれども、振り幅が広ければ広いほど「おもしろいじゃないか」とうなってしまうあひるにとって、そんな振り幅の広さこそ、宝塚観劇の醍醐味の一つ。芝居を締めるバイプレイヤー候補は、路線スター候補以上に得難い存在。今回の公演で惜しくも退団してしまう組長の美郷真也扮する“近藤さん”が、先輩役人として武藤さんに声をかける場面があったけれども、己の巧さを決してひけらかすことなく嫌みなく、それでいていつでもきっちりとした演技を見せて舞台を支えてきた名バイプレイヤー美郷真也の後継者として、今後の風莉に期待大。
 そして今回新設の“心のポーズ”。ショーのフィナーレのロケットの場面の導入で登場する“歌う青年”北翔海莉が、銀橋から本舞台に戻ってロケットガールズの前で披露する、左手前に、右手を腰に、身体半身横にひねって正面向いて決めるポーズがあるのだけれども、それを見るたび、「こんなに気分が楽しくなるポーズ、見たことない! これを見るためだけでも、この愉快な公演にぜひまた足を運ばねば!」と思うのだった。衝撃というか笑撃というか、ほんの一瞬のことなのに、なにゆえあんなにも中毒性があるのだろう。自分でも何度か真似してみたのだけれども、あの不思議なおもしろさはいっこうににじみ出ず…。余人をもって代えがたき北翔海莉の個性、恐るべし。
 東京公演終了からもう一週間も経ってしまいましたが、まだ名古屋公演は終わっていない……ということで、滑り込みセーフ? で「赤と黒」のお話。

 実に完成度の高い舞台だった。途中からほとんど、いい意味で「宝塚」を観ていることを忘れていた。それはひとえに、出演者全30名の作品・役柄に対する志の高さゆえに可能となった力演に起因していたと思う。
 海外などで出演者を一人も知らない舞台を観ていると、観劇の際、己が観客としてどれだけ役者に対する既成概念に捉われているかに気づかされることがある。これまでの観劇体験の蓄積で、この役者はこの役だったらこういう表現をするだろうという思い込みが事前に形成されているのである。
 無論、そのような既成概念は、役者の側にも存在し得るものである。巧いということになっている役者が、もっとも高い評価を受けた時代の己のイメージに捉われ、縛られ過ぎて、いかんともし難い状態になっているのをまま目にする。
 人とは変わりゆくものである。同じような日々を生きていても、日々少しずつ変化は訪れる。それをいい意味での変化とするか、悪い意味での変化とするかは、その者の志次第である。舞台に関していえば、昨日とまったく同じ演技でよしとするか、それとも、昨日より少しでも進化したいと志して舞台に立つかは、日々の演技に如実に現れる。
 スター芸を見せると一般的に思われがちな宝塚にあって、それぞれの演者が、これまでの己のイメージに捉われることなく、日々役柄と真摯に向き合うことからしか生まれない演技を見せていたからこそ、いい意味で「宝塚」を観ていることを忘れることができた。出演者が、演者自身としてではなく、役柄として自由に舞台に生きていたからこそ、観る者の心も作品世界の中に入り込み、自由にその中を遊ぶことができた。作品の舞台となったフランスの片田舎のヴェリエールの町で、パリの華やかな社交界で、登場人物たちと一緒になって、笑い、しゃべり、噂話に耳を傾け、共に生きているような感覚を味わった。登場人物たちにあまりに愛着が沸き過ぎて、いつまでもその世界に一緒に生きていたくて、終わってしまうのがさみしいとまでに思う舞台は、そうあるものではない。

 公演をそんな成功へと導いたのが、まずは、長年この作品の主人公ジュリアン・ソレルを演じたいと願い続け、その長き想いに自ら応えた安蘭けいの演技であることは言を俟たないだろう。
 公演が終盤に向かうにつれ、迫真などという言葉を遥かに超えたその演技に、舞台上に立つ人はいったい誰なのか、今目にしている人はいったい誰なのか、次第に判別が難しくなってゆくほどだった。そこにいる人は、安蘭けいであって安蘭けいではなく、ジュリアン・ソレルであってジュリアン・ソレルではない、その二者が高次元で融合した結果のみに出現するのだとしか思えない、今までに目にしたことのない人物だった。観る者のさまざまな想いやイメージを自由自在に受け止め得るという意味では実に透明で、それでいて、想いやイメージの投影に対して自由自在に示唆を投げ返すという意味では実に豊穣であるという、ある意味、矛盾した存在。これまでの観劇経験を振り返ってみても、こんな心境に至らしめたのは、劇評家ケネス・タイナンを一人芝居で演じた「タイナン」(2005年、ロンドン・ウエストエンド)のコリン・レッドグレイヴと、「異人の唄」(2007年、新国立劇場中劇場)の木場勝己、その二人くらいしか思い浮かべることができない。
 裁判の形で己の半生を振り返るという大枠に基づいて進むこの作品で、そんな安蘭のジュリアン・ソレルの演技を目にしているうちに、ジュリアンの人生に沿う形で、自分自身が己の人生を振り返らざるを得ない羽目に陥った。若かりし頃の希望。過ち。絶望。今なお自分のうちに残る、愚かしさ。ジュリアンに重ねて、かつての自分を笑い、涙し、希望と絶望のあわいを生きるうち、ここまでの自分の歩みをどこか肯定されるような思いがした。そして、この前そんな思いにさせられたとある舞台を思い出しもした。
 ここにもし、演者自身の人生が重ねられているとすることが許されるならば、これはほとんど、ミラン・クンデラが「ジャックとその主人」で提示した、<演じる者/演じられる者/観る者>の人生の三つの環の重なりの話になってくるのだが、ここではこれ以上深入りせず、<「赤と黒」の“恋愛論”>として別項にて論じることとしたい。

 演者全員揃いも揃って力演の今回、星組恒例? “心の名場面”を選ぶのには実に苦労した。「源氏物語」の“雨夜の品定め”並みの勝手な女語りを繰り広げる、柚希礼音・涼紫央・和涼華・彩海早矢の四人の貴公子ぶりの競い合いも楽しい「恋は曲者」のナンバー。面会のお目こぼしの代償に小銭をたびたびせびりに来る神学校の門番・美城れんと、さまざまな小銭の投球法でこれに応える柚希の駆け引き。恋の指南を軽妙に歌う柚希と、神妙な顔でそれに聞き入る安蘭(それにしても、「15のときから恋の修行」と言うけれども、修行と普通の恋とは違うものなのだろうか。ぜひ一度指南を受けてみたい)。そんなハイレベルな争いを制したのは、……ジャーン、“ヴァルノ氏とレナール氏の馬談義&その後日談”である。
 ヴェリエールの町を牛耳る有力者二人の、ノルマンディー産の馬やらラテン語の専属家庭教師やらをめぐる見栄の張り合い。きっとこの町ではこの手の見栄の張り合いが延々と続いてきたのだろうなと思わせるものがある。しかし私は断然、ヴァルノ氏の味方である。ヴァルノ氏は決して悪い人ではない。むしろ、いい人なのである。馬を自慢されても、妻に浮気されても、いつもいつも「人はどう思うだろう」しか考えないレナール氏に比べて(人が笑うのは、そうしていつも人の顔色ばかり気にしている心根に他ならないのに!)、ジュリアンのラテン語の聖書の暗誦に手放しの賞賛を送るヴァルノ氏は、馬やら女やら手に入れるにしても、「美しいから」「すごいから」という自分の感動を大切にしているように見える。ヴァルノ氏は気前がよく、人の心を読んでこれを喜ばせる術にも長けている。馬を手に入れたら町の連中に惜しみなく披露し、自分に有利な情報をくれたレナール家の女中には給料アップでの移籍を約束する。ラテン語の専属家庭教師を雇ったって、レナール家の子供たちが頭がよくなるかもしれないだけのことである。第一、馬と張り合う材料に人間をもってくるところが、レナール氏は実に趣味が悪い。
 …と、今回、新部門“心のキャラ”設立に踏み切らせた、ヴァルノ氏役にしき愛の好演なのだが、ヴァルノ氏とレナール氏の対立がジュリアン・ソレルの運命に終生大きな影を投げかけ続けることを考えると、ヴァルノ氏の演技は物語の行方を大きく左右している。そして今回、にしきが実にチャーミングに、そして人間の香気たっぷりにこの役を演じたことは、安蘭演じる「赤と黒」の世界に絶大な貢献を果たしている。「エル・アルコン」でのダーティ・ヒーロー、ティリアン・パーシモンの演技を見てもわかるように、主演男役となってからの安蘭が目指すものとは、人間存在のうちにある善と悪とを余すことなく描き出すことに他ならない。ある意味、善悪の相対化ともいえるその“清く正しく美しく”の実践において、一般的には悪役とされる役柄の立場をきっちり鑑み、このように魅力的に演じられる人材は貴重なのである。とはいえ、いくら巧いからといって同じパターンの役ばかり振るのはキャスティングの怠慢であり、観客の側にも演者の側にもイメージの固定化をもたらしかねない。今回、英真なおきが、三作品続いた、安蘭扮する主人公に父のような愛を注ぐ役どころとして集大成的演技を見せたこととあわせて考えると、二人の役柄を取り替える発想が出てきてもいいと思うのだが。

 “心の名場面”部門候補の他の三場面すべてに顔を出した柚希は、ジュリアンの親友フーケと、恋の指南役、ロシアの貴族コラゾフ公爵の二役に挑戦して大きな成果を残した。当初から二役を演じさせる想定やおもしろみを前提として書かれたわけではない中、二役に通底するジュリアンへの深い心情を感じさせつつ、それぞれに異なる印象を与えることに成功、うれしい成長ぶりを見せた。
 素晴らしいダンサーは、ちょっとした仕草が振りに見えてしまうきらいがある。今回でいうと、ジュリアンのナポレオン讃歌の途中でくるっと振り向く箇所があるが、ここが振りではなく、きちんと身振りに見えたことは大きい。利き過ぎるくらい利く身体を演技に生かせるようになってきたことの表れで、コミカルな恋の指南のナンバーにもそんな収穫が生きていた。舞台姿にも余裕が出てきて、そうなると、男役としても俄然色気が増してくる。何より、心弾ませて安蘭ジュリアンと生き生きとセリフを交わす姿に、安蘭を支える存在としての頼もしさ、そして、この人はダンスだけではなく、演技でも舞台に生きることのできる人なのだと感じさせるものがあった。トップと二番手が拮抗すればするほど、舞台はさらにおもしろくなる。悪役初挑戦の次回作にも大期待である。
 ジュリアンと真実の愛を交わすレナール夫人を演じた遠野あすかも、従来のイメージをいい意味で大きく裏切る演技を見せた。役者だから当然といえば当然なのだが、ついこの前まで、剣を振り回して颯爽と戦っていた女海賊とは思えない! 持ち味的に、もう一人の恋の相手、マチルドを演じてもきっと好演を見せただろうし、今回も、レナール夫人とマチルドの二役を演じても非常におもしろかったと思うが、そう感じさせるくらいの余裕を残して、若々しい青年に出会い、心の奥に眠っていた自分を見出して、妻や母といった役割ではなく、一人の女性、人間として生きることに目覚める人物を、たおやかにしっとり演じて新境地を拓いた。人妻を演じる次回作がこれまた楽しみな限りだ。
 そのマチルドを演じた夢咲ねねの、短期間でのめざましい進化には正直驚かされるものがあった。組替え早々安蘭の相手役を務めるという重圧にめげず、ジュリアンとよく似た魂を持て余す勝気な侯爵令嬢を、情感とせつなさをにじませて堂々と演じきった。舞台上で飛躍的に進化を遂げる姿に、今後につながる大きな可能性を感じさせた。

 先に趣味が悪いだの何だの言ってしまったが、レナール氏についてこれだけ熱く語れるのも、立樹遥の好演あってのことである。自分を持て余して傷つくことの多いジュリアンと対極にあるような存在、自分というものがあまりになくて人の顔色ばかり気にしているレナール氏の人間味あふれる造形に、笑いながらも次第にかわいそうになってきてしまったほどだった。とはいえ、あまりにコミカルに、そして男性としての魅力なしに演じ過ぎると、「ああいう夫だからレナール夫人は若い男の魅力によろめいたのね」と言われかねないところ、ダンディながらも何とも肩幅の狭い人間というストライクゾーンに人物像を設定したことで、ジュリアンとレナール夫人の魂の結びつきがより強調される効果をもたらしている。
 ノルベール伯爵役の涼紫央は正しい意味で“役不足”だが、やりようの限られた中できっちり、見事な仕事ぶりを見せた。衣装の着こなし、髪型、メイク、立ち居振る舞い、どれをとってもこれぞ正統派男役!、まるで少女漫画から抜け出してきたような貴公子ぶりを、下級生は大いにお手本とすべきである。この人一人いるだけで、パリのサロンの格も一段も二段もあがるというものだし、完璧な貴公子ぶりあってこそ、ホトトギスの鳴き真似なんぞをしても決して崩れることがないのである。

 ジュリアンに父にも似た愛を注ぐ三人、ラ・モール侯爵役の萬あきら、ピラール校長役の磯野千尋、シェラン司祭役の英真なおきとも、それぞれの深みで魅せた。三人がそれぞれの立場でジュリアンと真剣にやりあう場面は、背筋がぞくぞくするような演技の醍醐味を感じさせてくれた。
 名門貴族でありながらどこか型破りなところを感じさせるラ・モール侯爵の性格は、娘マチルドに確かに引き継がれている。だからこそ、ラ・モール侯爵は、自分がジュリアンを好ましく思う以上、娘がジュリアンに惹かれていくことをどこか気づいているのである。結婚が許されたと思いはしゃぐ若い二人を、「喜ぶのはまだ早い!」と怒鳴りつけるラ・モール侯爵自身、事の成り行きに困ったとは思いつつも内心どこか喜んで、ジュリアンを娘婿にふさわしい存在にしようと奔走し、そして裏切られたが故の哀しみを感じさせて圧巻である。
 ピラール校長は、神の世界に真摯に生きる気高さと、大貴族の引き立てで出世を狙う俗物さを絶妙に両立させた、なるほど、ジュリアンが師と仰ぐにふさわしい、これまた味わい深いキャラクターである。激昂して放つその「偽物がまかり通る」とのセリフが心に響くのも、磯野の本物の演技あってこそである。
 「シークレット・ハンター」、「エル・アルコン」と、英真なおきは安蘭扮する主人公の父もしくは父的な役割を演じてきたが、今回のシェラン司祭がベストの演技である。ナポレオン崇拝の公言をいさめ、過ちを犯したジュリアンを叱る厳しい態度に、慈愛がにじみ出てやまない。

 二役でセリフがあったなんて、言われないとそうそう気づかないのでは?! としか思えない化けっぷりを一幕と二幕とで見せてくれた紫蘭ますみと美稀千種。学生時代からの友人レナール夫人をいつまでも自分の支配下に置いておきたい心と、自分がジュリアンに選ばれなかったという心、嫉妬の複雑な二面性を、難曲の中に歌いきった琴まりえ。前者はおっとりとした貴公子ぶりで、後者はスマートな中にどこか野心も見え隠れする造形で、パリの社交界を華やかに彩った和涼華と彩海早矢。ジュリアンの恋の駆け引きの相手となる元帥夫人を演じてまさに嫣然といった魅力を見せた華美ゆうか。それぞれの性格の違いの描写が見事だった、レナール家の三兄弟、如月蓮、白妙なつ、花風みらい(特に白妙スタニスラスの巧さにはちょっと舌を巻く)。“家政婦は見た!”ならぬ“女中は見た!”なる暗躍ぶりでレナール家ひいてはヴェリエールの町を引っかき回す、一幕の進行役ともいえる女中の勝手な思惑を小気味いいまでに演じきった稀鳥まりや。印象論に終始したくないため、すべての名前を出せないのが本当に残念なのだが、全員が高い志と技術とでもってそれぞれの役割を果たしきった舞台は、観ていて非常に満足度が高かった。舞台には終わりが来るのが定めとはいえ、この世から消えてしまうのが残念だな……と、今は思う。
 初日(4日)前の舞台稽古を見学。2月の出張の際、宝塚大劇場で観劇したときよりさらにパワーアップした舞台を堪能。「黎明の風」では、出演者それぞれがさらに役との一体感を深め、おかれた立場を背負ってやりあう真剣勝負にわくわく。轟悠の白洲次郎、大和悠河のダグラス・マッカーサー、汝鳥伶の吉田茂をはじめ、多くの出演者にとって当たり役となりそうな好演の連発で、一度や二度の観劇では見きれないほど見どころ多し。星組公演「エル・アルコン」で発表したところ一部で大受けしたので、各組シリーズ化を考えている“心の名場面”ですが、今のところ“隣組ダンス”にかなり琴線に触れるものあり。ショー作品「Passion 愛の旅」は、宙組一丸となったパワー&パッションが炸裂して何だか凄いことに。色とりどりのポップで楽しい玩具がつまったおもちゃ箱みたいに、下級生に至るまで個性豊かな宙組メンバーが、それぞれ舞台ではじけていて、血沸き肉躍る興奮が! そんなエネルギーのマグマを、轟悠がさすがのパフォーマンスと抑制の効いた大人のパッションできっちり締めて、ダブルでおいしい味わいあり。一度聞いたらエンドレスで頭をぐるぐる回る後引くインパクトある主題歌も◎。芝居作品的に男性観客受けもよさそうなので、観劇デートにもお勧めしたく。
 舞台稽古終了後、轟さんと大和さんの囲み会見。あひるからは共演してのお互いの印象をお伺いしましたが、「大和クン」(轟さん)、「お兄さん、いや、お姉さん」(大和さん)なんてコメントも飛び出して、ほのぼのムードに思わず笑顔。
 近所の桜も綺麗に咲いたし、新作の帽子も手に入れたし、気分はすっかり春! 何とはなしに、四月からの新たなスタートの予感に胸を躍らせていたところ…、一足先にと思ったか、パソコンあひる号が真っ白になってしまいました(涙)。…ま、あひるが操作を間違っただけとも言うが。ということで現在、いささかの虚脱感と不思議な爽快感とを胸に、ここ3年ばかしの全データが消去されてしまったあひる号と悪戦苦闘中なのですが、ほとんど、急に記憶喪失になってしまった親友に、「この間まであんなに仲良かったのに、あひるのこと忘れちゃったの?」と問いかけているような気分…。
 気を取り直して、27日昼、都内で開かれた「スカーレット ピンパーネル」制作発表会へ。ブロードウェイ・ミュージカルの日本初演ということもあってか、いつもにも増して大勢の取材陣が集結し、熱気あふれる会見場。会見冒頭、登場人物の扮装をした安蘭けいさん、遠野あすかさん、柚希礼音さんによる歌唱披露が。今回の公演のために書き下ろされた新曲「ひとかけらの勇気」は、歌い込まれて安蘭さんの歌になる日が楽しみ。「謎解きのゲーム」の三重唱も美しく、人はいくつもの顔を持っている…という歌詞が、公演のたびに違う顔を見せてくれるお三方に何だかぴったりだなと感じ入った次第。質疑応答では、フランク・ワイルドホーン氏の手による楽曲を歌われた感想をおうかがいしました。取材陣の期待も大盛り上がりといった感があり、公演が本当に楽しみ。
 初日(16日)前の舞台稽古を見学。芝居作品、心優しいユーモアあふれるハートウォーミングな主人公を演じる水夏希は文句なしにチャーミングなのだけれど……。作品の“清く正しく美しく”性を最終的に担保するのは“悪役”、彩吹真央の好演。「ミロワール」は、鏡の多様なイメージが効果的に生かされていて、宝塚のショーならではの醍醐味と、宝塚きってのダンシング・スター、水の多彩な魅力を心ゆくまで堪能できる作品。オープニング、ゴールドの衣装に身を包んだ出演者たちが客席降りの後、階段を昇って一人ひとり銀橋に再び姿を現す様に、永遠に増幅する鏡のイメージを感じて、心に快い衝撃あり。80年代アイドル・ポップスを思わせる音楽使いも新鮮味いっぱい。AQUA5の「TIME TO LOVE」ボレロ・アレンジに乗せた男役の黒燕尾服のダンス場面も、これぞ宝塚! という感じで眼福。
 舞台稽古終了後、水さん、白羽さんの囲み会見。私からは、主演として初めてとなるオリジナル作品の見どころをおうかがいしました。スパンコールもまばゆいお二人のゴールドの衣装が、このところの睡眠不足でかすみがちな目にはまぶしすぎるくらいまぶしく。
 日帰り出張がてら、宝塚大劇場にて宙組公演を観劇(12日13時の部)。白洲次郎・正子夫婦を主人公に据え、出版界でも注目が集まっているという噂の「黎明の風」ですが、大いに見応えあり。
舞台上での役者の立ち姿とは、演じている役柄の人生に対する姿勢を示すものである。その意味で、低い重心でピシッと決まる轟悠の立ち姿には、白洲次郎が貫き通したプリンシプルをそのまま体現するようなところがある。サンフランシスコ講和条約へ向かう空港でのシーンではジーンズ姿で登場するが、ジーンズというユニセックスないでたちであっても男性として見せるあたり、長年培ってきた男役芸の表れといえよう。飄々とした軽妙さがにじむ台詞回しがきっちり細部まで内面とリンクすれば、次郎の人となりがさらに深く示せると思う。
 そんな轟次郎相手に一歩も譲るところのないダグラス・マッカーサー役の大和悠河の成長にも驚かされるものがあった。大人の男性を体現できる台詞回しを習得し、これまた一本筋の通った男として次郎に対峙するマッカーサーの大人物ぶりを見せている。歌いこんで歌に説得力が出れば、今以上に大物に化ける可能性あり。
 そんな二人ががっちり組んでやりあうところに、蘭寿とむ、北翔海莉らが絡み、それぞれが役を演じる中で男役を競い合うようなところがあって、充実の舞台となっている。吉田茂役の汝鳥伶も絶妙の味わい。宝塚で近現代の日本ものの話ということで、違和感を覚える向きもあるかもしれないけれども、こんなかっこいい男性が我が国にもいたんだ! と再発見させてくれるという意味でも、楽しめる舞台。
 人は誰でも心に一羽の鷹を飼っている。この世に生を享けた以上、己に与えられた力を最大限に発揮してその生を全うしたいと願う、野望という名の一羽の鷹を。
 心の鷹が死に絶えたとき、その年齢にかかわらず、余生という名の死への行程が始まる。生きゆくことと死にゆくこととは、それほどまでに違うのであるからして。
 「エル・アルコン−鷹−」とは、そんな心の鷹を思うがままに羽ばたかせた一人の人間の物語でもある。

 安蘭けいはかつて、「ベルサイユのばら」(2006)の舞台でオスカルと実存とを結びつけ、人間が実際に“オスカル”として生き得る可能性を示した(詳しくは<「ベルサイユのばら」の安蘭けい・その2>の項http://daisy.eplus2.jp/article/41255795.htmlを参照のこと)。そして安蘭は、今回の「エル・アルコン」の舞台においても、ティリアン・パーシモンなる人間は存在し得ると、その演技をもって示した。結果、立ち現れた厳然たる事実が一つある。それは、一羽の鷹になぞらえられたティリアン・パーシモンとは、原作者・青池保子の“心の鷹”に他ならないということである。
 公演プログラムに寄せた文章において、青池は、ティリアン・パーシモンというキャラクターに対する作者としての思いのたけを綴り、作品について、「私の漫画作りにおける転機」であり、結果、「本音で漫画を描く」ことを知ったと述べている。私は、安蘭の舞台によって、「己の信念に従って生きている」キャラクターの生き様に寄せる漫画家、芸術家としてのその思いの、想像以上に深い真意に気づかされたのだった。
 ティリアン・パーシモンとはつまり、青池保子が、もはや何ものにもとらわれることなく、己の信念のみに従って作品を描き続けようと決意した、漫画家としての確固たる誓いなのである。そして、何か一つのことに生きようと決意したとき、人生はあまりに短いが故に、人は、ティリアン・パーシモンのように、ときに善悪をも超え、自らのその野望実現に不要なものは切り捨てざるを得ない。ティリアン・パーシモンとは、そんな一つの生の壮絶な誓いに他ならないのである。
 漫画の分野に生きる芸術家である青池は、そんな自らの誓いを、漫画作品の形で発表した。今回の舞台は、そんな青池の表現者としての誓いの表れであるキャラクターに、これまた舞台に生きる安蘭が、舞台に対する自らの誓いを乗せて息を吹き込んだからこそ、“心の鷹”が一層空高く舞い上がることとなったのである。

 それにしても、そんな“心の鷹”を描く青池作品と、宝塚歌劇というメディアの出会いは最適だった。それを解くキーワードが一つある。原作に登場し、舞台化にあたっても取り入れられている、“オールドミス”なる言葉である。キャプテン・レッドの仲間となることを決意した少女ジュリエットに対し、レッドは「オールドミスになるかもしれないよ」と言葉をかけ、ジュリエットは、「キャプテンがいてみんながいて…私の幸せはここにあるのよ」と答えるのである。
 オールドミス。もはや死語となったことを喜ぶほかない、結婚しない女に対して投げつけられる蔑称。そして、結婚しない男に対する明確なる蔑称が存在しないことを考えたとき、この死語は、すべての女性存在に対する蔑称として作用するものともなる。女の人生の価値は結婚経験の有無によって決まるという勝手な論理が、その言葉の背景に透けて見えるからだ。
 己の“心の鷹”を羽ばたかせ、漫画という表現に生きようとしたとき、青池の心にこの言葉に対する多大な反発があったことは、原作でのやりとりから推測することができる。原作では、舞台以上にジュリエットの結婚に対する否定は明確で、たとえ海賊の仲間とならず、故郷の町にいても結婚はしない、と答えているからである。
 宝塚歌劇が、構成員が全員未婚の女性であることからときに理由なきまでの揶揄に曝されることを考えたとき、“オールドミス”なる唾棄すべき死語は、その舞台における最大のダーティー・ワードでもある。私はかつて、“すみれコード”なるものによって書くことを許されないとされるタカラジェンヌの年齢を、“適齢期”なる言葉を駆使して少しでも読者に推測させようとする者によって書かれた、噴飯もののインタビュー集を読んだことがある。「適齢期をとうに過ぎた」等々の表現が全編にわたって頻出するその書籍に、しまいには怒りを通り越してあきれ果てる他なかったが、要するに、その者の心の内にも、女が結婚せず何かに取り組んでいることに対して、“オールドミス”なる蔑称を投げつけるのと同じ思考が存在しているのである。
 漫画を描く。舞台に生きる。何でもいい。女が何か一つのことに生きようとしたとき、“オールドミス”に始まるどれだけの心ない言葉が投げつけられることか。それでも、ティリアン・パーシモンが言い切るように、「野心に理由などない」。“心の鷹”を羽ばたかせる理由は、それしかない。もちろん、それは何も、他者が結婚その他の選択肢を取ることを否定するものでは決してない。ただ、自分の人生においてはその選択肢は、現時点では取らない、取っていないというだけの話である。
 未婚の女性が集まって何やらやっていて、そこにまた女どもが何やら群がっている……なる、宝塚歌劇に対する理由なき揶揄に対して、私は、「そこでは、この世に二つとない舞台が創造されていて、それを尊ぶ者がいる」と答えるものである。しかし、そんな揶揄に曝され続ける宿命を背負った宝塚歌劇において、青池保子のアーティスト宣言ともいえる作品が上演されたことは、「ベルサイユのばら」上演と同様、実に幸福な出会いだったと言うべきだろう。

 人の心に棲まう鷹。理由なき野望。しかしながら、それこそが、人類の歴史の歯車を前へ前へと回してきたものに他ならない。例えば、コロンブスはなぜ、そんなにもアメリカを発見したかったのか。もちろん、名誉欲等々、後付の理由はいろいろあろうが、その根本を問うてみればきっと、ただそうしたかっただけのことで、理由などないと答えることだろう。まだ見ぬ七つの海と空を見たいと切望し続けるティリアン・パーシモンもまた、同様の想いを抱く者である。それまでに存在していたのとは異なる選択肢を取る人間がいたことで、歴史は発展し、人類は今日ある姿となったのである。
 安蘭演じるティリアン・パーシモンが、ギルダとレッドとの美しい三重唱で、「私は羽ばたく/この翼折れるまで」と高らかに謳うとき、舞台を見入る私もまた、生きたいと願う。生きようと誓う。己に与えられた何がしかの力、心の鷹を、命尽きるまで、力の限り、空高く羽ばたかせたいと思う。理由などない。それこそが、私にとって生きるということに他ならない。
 ティリアン・パーシモン。生きる本能に忠実な、あまりに忠実な。その人を私は、“我が友”と呼ぼう。
 昨夜、力尽きた続き(……申し訳なかったです)。
 今回の公演でもっとも進境著しいところを見せたのが、キャプテン・ブラックを演じた和涼華である。
 顔にキズありのワイルドな風貌で、赤いバラをくわえて後ろ向きにセリ上がるという派手な登場の仕方に、初見の際、「バラをくわえた男がさまになるのは、この世で少女漫画と宝塚歌劇だけ……」とうれしくも度肝を抜かれたものだったが、そんなおいしい役どころをしっかり自分のものとしただけでなく、新たな魅力で魅せて、星組にこの人ありというところを大いにアピールした。
 キャプテン・レッドと出会いがしらに一戦交えるも、彼の内にある大志に共感を寄せ、厚い友情を誓ってそのよき右腕となるキャプテン・ブラックの存在は、レッドの人となりを語る上で実に大きな役割を果たす。というのは、人というものは、その親しい友人によって価値を慮られるところがあるからである。この人物がここまで友情や愛を寄せるからには、その相手もひとかどの人物であるに違いないというわけで、ブラックが男前であればあるほど、そのブラックに友情を寄せられるレッドの男前も上がる。男の格を上げるその親友の存在というのは、宝塚の作品でも多分に必要不可欠なところがあって、最近の星組の作品でいえば、「ヘイズ・コード」での立樹遥の好演が印象深いところである。
 今回、和は、ヴィジュルアル的なインパクトもさることながら、男役としての骨太な魅力を開花させてブラックを演じきった。海賊としての経験自体はブラックの方がレッドより多いから、頭脳的な作戦を参謀として理知的に遂行しつつ、レッドにきっちり復讐を遂げさせる、実に気持ちのいい男前ぶりである。目の前でティリアンにスペインに亡命され、我を失ったレッドをいさめるシーンでは、まだまだ若いレッドを温かく見守る包容力がどんどん増して、頼もしい限りだった。終幕、ティリアンへの複雑な想いを吐露するレッドを見つめる眼差しも、多くを語らなくとも深い理解と優しさにあふれているのが実にいい。
 登場の際の大仰なセリフ回しが当初は気になったが、公演が進んで芝居の本気度が増すにつれ、ブラックの気持ちを素直に伝える自然な言葉運びとなっていったあたりに、芝居勘のよさを感じさせる。トーク番組などを見ていると、興味深く人を観察する目に鋭いものをうかがわせる。「観る/観られる」は演技の根幹、その観察眼を役作りに生かすことで、さらなる大きな成長を遂げていってほしい、今後が実に楽しみな男役である。

 それにしても、レッドとブラックの関係を、ティリアンとギルダの関係に敷衍してみると、多分にせつないものがあるのである……。
 男同士だから、海賊同士だから、若くて素直な者同士だから、レッドとブラックは、気が合うことさえわかればすぐに仲間となって、一緒に戦うことができる。ところが、ティリアンとギルダは、男女の違い、海軍士官と海賊という立場の違い、そして何より互いにプライドの高さがあって、なかなか素直になれない。
 男によって家に囲われている女しか知らないティリアンは、ギルダを捕らえて自分のものとした後も、同じ船には乗せても一緒に戦うことはしない。ギルダは、軍人なら名提督と謳われるくらいの凄腕の女海賊なのだから、それこそ男装でもさせて、一緒に戦えばよかったのである。そうすれば、ギルダは哀しい最期を遂げることもなく、ティリアンもそのため死ぬこともなく、二人して本当に七つの海と空を見ることができていたかもしれない……とまで考えるのは、幾分穿ち過ぎかもしれないけれども。
 ブラックが「俺はお前が気に入った」で済ますところを、「最大の敬意と愛情をもって」云々とやっているティリアンとギルダを見ていると、何とまあまどろっこしいことよと思ってしまう。それに、もしかしたら、ブラックが「俺は借りを返す男だぜ!」と颯爽とレッドを救いに来るのを見て、友愛というものに一切縁のなかったティリアンが、「そうか、友情とは、あのように育むものなのだな」と思い、ギルダと仲良くなりたくて、「借りを返したまでです」と言っているのかもしれない……と考えたら、その不器用さが愛おしくて何だか涙さえにじみそうだ。もっとも、そこで「私を差し出しなさい」と誇り高く返してしまうギルダもまたティリアンと同じくらい不器用なわけで、不器用の度合いが釣り合ってこそのこの二人の関係なのかもしれないと思うものでもあるけれども。