藤本真由オフィシャルブログ

 次回公演「赤と黒」ではなくて、星組の若武者の如き二人の男役の話。
 「ヘイズ・コード」以来、星組公演では毎回、物語の本筋とはまたちょっと離れたところで強烈なインパクトが残ってしまう場面があって、個人的には“星組心の名場面”と呼んでいる。「ヘイズ・コード」では、にしき愛に催眠術をかけられた南海まりが夫の浮気相手とおぼしき女の口紅の銘柄(「小悪魔レッド」!)を口にしながら猛スピードで後ずさりするシーン。「シークレット・ハンター」では、プリンセス誘拐の芝居を打っている黒幕三人組(柚希礼音、涼紫央、綺華れい。博多座公演では、涼、綺華、夢乃聖夏)が、鉄砲持ち出し即興で狂言を演じて「プリンセス〜」と絶叫するシーン。どちらも観劇のたび爆笑を誘われたシーンである。
 そんな名場面に絡んだ二人、綺華と南海が退団してしまうのが実にさみしい今回の公演だが、ここで、「エル・アルコン−鷹−」の“心の名場面”を発表させていただくと……ジャジャーン……ティリアンがスペインに亡命してしまい、復讐を遂げられなかったキャプテン・レッドが逆上、それをキャプテン・ブラックがいさめ、仲間たちが今まで以上に熱く団結を誓うシーンである。「ティリアンを追え!」と命じるレッド、それを思いっきり殴って止めるブラック、正気に戻ったレッドの姿に再び勇気を取り戻す海賊一味、すべてのセリフ、すべての動作が、いちいち熱い! 寺嶋民哉の活気ある音楽の盛り上がりとあいまって、若き情熱が一秒ごとに滾り、まるで熱い熱い青春スポ根ドラマのような感動を味わわせてくれる。「シークレット・ハンター」フィナーレの“クンバンチェロ”の場面でも、観劇のたびに体感温度が五度くらい上がるような興奮を感じたが、今回のこの場面も、「ティリアン、必ず貴様を倒す!!!」のレッドのキメゼリフに、観ているこちらまで「おお、やったるで〜!」(何をだ?)と拳を振り上げたくなってしまう高揚感にあふれている。
 そんな“心の名場面”の芯を務めているのが、キャプテン・レッド役の柚希礼音とキャプテン・ブラック役の和涼華だが、レッドとブラックが打倒ティリアン! で熱く燃えるように、両人とも、宝塚の舞台に若さのエネルギーをぶつけるような熱い舞台を繰り広げている。

 通常の宝塚の舞台であれば主人公になってもおかしくないキャプテン・レッドという役柄を、柚希礼音は主役を支える立場で演じるという重責を任された。ダーティ・ヒーロー、ティリアン・パーシモンに共感を誘うのが難しいのと同様の意味で、このキャプテン・レッドという役も難しいところがある。すなわちレッドは、無実の父をティリアンに殺された復讐を遂げるという部分では観客の共感を誘わねばならないが、ラスト、ティリアンとギルダを自らの手で殺し、そちらに観客の共感を集めるだけでなく、ティリアンなる悪を善として救う役割も果たさなくてはならない。そのためには、ティリアンとギルダを殺した自らの行動を、高度な意味で正当化する必要がある。勧善懲悪のヒーローとして、単に悪を滅ぼして終わり、ではないのである。
 個人的には、ティリアンなる悪を善であるレッドが救うことこそ、真に深い意味での宝塚のモットー、「清く正しく美しく」の実現――私はこの言葉を、究極的にはすべての人間の中に“善”を見出すことだと固く信じてやまないものである――だと思っている。星組の舞台で描かれた「エル・アルコン」とは、端的にいえば、人誰しもティリアンとなる可能性があるところ、いかにしてティリアンにならずレッドとして生き得るべきかをめぐる物語だと思う私は、ティリアンとはレッドになり損ねた者、レッドとはティリアンにならなかった者だと考えている。この件については別項で詳しく論じることとして、ここではレッドを演じる柚希について話を進めたい。

 ある意味、作中もっとも難役となったこのレッドなる役を、柚希はその役柄の気質とも重なる体当たりの演技で造形したが、最終的には、今後、柚希の大きな魅力となっていくであろう一つの要素が、その役作りの決定打となったと思う。大柄な体躯に似つかわしい明るさ、陽気さ、華やかさが柚希の持ち味であることは言を俟たないが、その一方で彼女は、ふとした折に見せるさみしげな表情が魅力的な人でもあって、その表情は、明るさや華やかさといった美点をも引き立てる陰翳となるからである。「シークレット・ハンター」で主人公ダゴベールの親友セルジオを演じた際も、見守る表情にどことなくさみしさを感じさせるときがあって、そのさみしさゆえにダゴベールとどこか引き合うものがあるのだろうと思うときがあった。
 今回演じているレッドは、何不自由ない環境で育った屈託のない青年だが、父を殺され、復讐を誓って海賊となる。基本的には仲間思いの包容力あるキャプテンだが、柚希は例えば、ブラックに語る「私が心から憎む敵はこの世でただ一人だ」というセリフで、さみしげな表情を見せる。この表情は、実に効いている。心から憎む敵はこの世でただ一人ティリアンのみとはすなわち、ティリアンこそがレッドに“憎む”という感情を教えた相手であって、ティリアンとの出会い以前にレッドの中に“憎む”という感情はなかったということである。“憎む”を知ってしまったレッドは、一つ大人になって、一つ無垢を失う。ティリアン、ギルダとの美しい三重唱でレッドが歌う「帰る場所を失くした」とはすなわち、子供時代のイノセンスを失ってしまったということであって、だからこそレッドはさみしくて然るべきなのである。歌に関していえば、この歌のみならず、全般的に説得力が増したことも、レッドの造形に大いに役立っている。
 そして、ティリアンとの壮絶な果たし合いの後、銀橋でつぶやく「さらばティリアン、私は君を忘れない」。東京公演で増えたこのセリフを語るときも、柚希はやはりさみしげである。そのさみしげな表情には、レッドの実に複雑な内面がないまぜになっている。父を殺し、自分からすべてを奪った相手、その相手の中に自らと同じ魂を見出し、理解を寄せること。ここに、「エル・アルコン」の“清く正しく美しく”は一点の曇りもなく実現される。
 今回、レッドという役柄を最終的につかむまでには相当な苦労があったと思うが、「柚希礼音」なる方程式の答えは、柚希本人の中にしかない。決してあせることなく、心に余裕をもって、自分自身をとことん見つめ、突きつめて、世界に一つしかないその方程式のバリエーション豊かな解をこれからも見せ続けていってほしいものである。

 ブラックについては、また明日。
 青池保子作の少女漫画を原作とした宝塚星組公演「エル・アルコン−鷹−」で、安蘭けいはダーティ・ヒーロー、英国海軍士官のティリアン・パーシモンを演じている。
 「七つの海、七つの空をこの目で見たい」――そんな、理由なき己の野心のため、利用できる者はとことん利用し、邪魔者は消し去り、実の父親と目される男まで自らの手で葬り去る冷血漢、ティリアン・パーシモンに果たして心はあるのか? ――それを問う以前にそもそも、この舞台作品の台本には、“心”がない。初見の際、登場人物に感情移入しようとしては気持ちの流れがぶつ切りにされる、そんな作劇に憤りと不快感すら覚えたものである。観る側ですらそうなのだから、演じる側にとっての苦労はいかばかりか。何しろ、主人公ティリアンでさえ、説明めいたセリフが多すぎるのだ。そんなキャラクターに、安蘭はいかに心を通したか。
 人は対峙する相手によって、抱く感情、そしてその開示と装いとの度合いが異なるものである。露骨に好悪の念を抱き、それを開示することを厭わない相手。何らかの感情は抱いてもそれをいかほどかは装いたい相手。感情というものをいっさい抱かない相手、等々。逆に言えば、いかなる相手にいかなる態度を見せるかによって、その人物がいかなる人間であるかがわかるとも言える。安蘭は、セリフを交わす相手及びモノローグに登場する人間すべてに対して、実にきめ細かに、その人間性の一貫性に一切の疑問を生じさせることなく、感情と装い及び開示の度合いの違いを示すことによって、台本が描くことのできなかったティリアン・パーシモンという人間を、舞台上に鮮やかに息づかせてみせる。台本の不味さが役者の演技力をこれほどまでに引き出すとは、実に皮肉な話である。
 そんな安蘭の演技は、“悪”と“演じる”という行為との相関性を明らかにする。
 先に感情とその装いについて述べたが、その装いこそが“演じる”と呼ばれる行為に他ならない。以前、「私は演技というものを見たことがない」と語る演劇人に出会ったことがあるが、その言葉が言い当てているのがまさにこの真理である。人は何も舞台という場においてのみ演じるものではない。日々を過ごす中、いかなるときでも状況と相手に即した演技をしているともいえるし、だからこそ、舞台上で別に演技なるものがなされているわけではないとも言うことも可能である。
 本来的に“悪”とは、己の無実を装うものであったり、己の本心を隠す必要性が高いことから、多分に演劇的な存在であると言える。しかしながら、ティリアン・パーシモンとして一点の齟齬もなく、すべての人間に対して感情と装い及び開示の度合いを違えてみせる安蘭の演技は、“悪”と演劇的行為のもう一つの相関性に光を当てる。
 自分本位のルールで支配できる強固な世界を構築し、その領域を広げようとする行為を“悪”と呼ぶならば、それは、今ここに存在しているあるがままの世界や、人によっては“神”と呼ぶ存在への挑戦でもある。
 翻って、舞台上に、この世界とは異なる世界を構築しようとする演劇という行為は、実在しない人間を創造し、本来は再現不可能な生を繰り返そうとするものであり、それは、人造人間やクローン人間を創造せんとする欲望、すなわち、世界や“神”への挑戦にも似た“悪”なる所業ではないか。演劇的行為の根幹に、“悪”の本質と通底するものがあるからこそ、“悪”とは古今東西、舞台作品の格好の題材となってきたとも言える。
 安蘭の演技はまた、“悪”と美の相似についても示唆に富む。ティリアン・パーシモンの人間性をくっきりと、限りなく豊穣に描き出す、しかしながら一切の無駄のないセリフ術。そして、立ち回りの際にひときわ鮮やかに発揮される、これまた無駄なく研ぎ澄まされた動き。そうして舞台上に体現される美は、己の野心達成のために不必要なものは、過去でさえ、肉親でさえ切り捨ててゆくティリアン・パーシモンなる“悪”と、見事なまでに相似形を成す。“悪の美学”なる言葉が成立する所以である。
 知的な男役である。舞台上で与える印象がそうであるだけでなく、台本の読みもシャープで、役作りの方向性もその深化の度合いも実に的確。その才知で、見どころの多い舞台を続けている。
 「シークレット・ハンター」東西大劇場公演で演じたマックスは、自国のプリンセスの替え玉を大泥棒に盗み出させることでプリンセス暗殺の計画を防ごうという大芝居を、国王の総指揮のもと、自らも重要な役柄を演じながら巧みな演出で打つという役どころだった。プリンセスを盗み出させる船上パーティでの場面、会場を見渡し、すべてが彼の手のうちにあると客席に気づかせるその姿に、芝居の全体、大局が見えているからこその知的な役の造形なのだなと感じた次第である。
 今回の「エル・アルコン−鷹−」で演じている陸軍大佐エドウィン・グレイムは、主人公ティリアン・パーシモンにフィアンセ・ペネロープ嬢を横取りされる。海軍提督の令嬢であったペネロープとの婚約は、エドウィンにとって出世をも意味していたが、恋も手にしかけた権力も奪われ、しかも当のペネロープは利用され弄ばれた挙句ティリアンにあっけなく殺されてしまう。愛するペネロープの仇を取ろうと、エドウィンは復讐に燃える――という設定ではあるのだが、登場シーンも役の書き込みも少なく、最終的に何かを成し遂げることもなくフェード・アウトしてしまう按配である。なまじの演技力では、いったいこの役は何をしに出てきたどういう人間なのだろう? との疑問を観客に抱かせかねないところ、少ない登場の中でその人間像にきちんと一貫性をもたせている。それどころか、いかなる背景をもつ人物で、物語の後はいかなる人生を送るのだろう――と観る者の想像力を大いにかきたてるという意味では、短い出番を逆手に取る好演である。舞台に描かれない役柄の“余白”の豊穣さを感じさせる役者である。
 「エル・アルコン」に出てくる男たちはみな野望や復讐、友情に燃えていて、恋が描かれてもあまり甘いムードとはならないのだが、そんな中、涼演じるエドウィンがもっとも、いわゆる宝塚のラヴ・ロマンスのロマンティック・ヒーローたりえている。あまりにあっさりティリアンに殺されてしまうペネロープの運命は哀れを誘ってならないが、そのペネロープに、こんなにも愛を注いでくれる男性がいたのだ……と思うとき、観客はどこか救われる。悪がヒーローに設定されているこの作品では、周囲のキャラクター配置も多分にイレギュラーなものとなっているが、己の美貌と才覚で名家の令嬢を手に入れ、楽して出世しようとしていたお坊ちゃん気質の男が、恋人を奪われ、己の内にある愛に気づいて人間として成長を遂げる……という、エドウィンを主人公にした物語をひねり出すことも十分可能である。
 そんなことを考えてしまうのも、涼紫央が、“白”の魅力をたたえた宝塚の正統派の系譜に連なる男役だからなのだと、東京公演で改めて気づかされて、目を拓かれる思いがした。正統派中の正統派たる男役というのは実はそう多くはない存在である。男役とは何も、正統派と個性派とに大別されるわけではなく、正統派とは、確固たる“白”の個性をもった男役にのみ与えられるべき称号だからだ。例えば、下級生に候補となりそうな者はいても、明らかに正統派であるとはっきり断言できるのは、全組見渡しても瀬奈じゅんを筆頭に何名いるか。星組では涼と、意外と言っては大変失礼かもしれないが、にしき愛が正統派男役の系譜に属する存在である(“正統派男役”についてはいずれ瀬奈じゅんの項できちんと論ずることにしたい)。
 正統派の中でも、その根本となる“白”を引き立てる要素がいかなるものであるかによって個性が異なってくるのだが、涼の場合は、前述したように、知性と、宝塚の男役の美学への微細を穿ったこだわり、そして、濃厚さと爽快さのえもいわれぬ共存である。黒燕尾服の着こなしやリーゼントの具合、その踊りの際の肩や腕のラインの微妙な角度、ソフト帽の被り角度、和物の若衆姿の立ち姿、宝塚の男役の表象の表現において、研究に研究を重ね続けていることを如実に感じさせるその舞台姿からは、上質の石鹸をきめ細かく泡立てたときにのみ可能になるような、緻密な男役の美学が薫り立つ。そうして体現しようとしている男役像は相当に濃いものであるのだが、本来の持ち味が非常にさわやかなため、濃厚に見えてさっぱり、それでいてやはり濃厚という、まるで実際口に運んでみるまで想像もつかない滋味のようなのが、実に興味深い。今回の「レビュー・オルキス」でも、一場面、艶やかな女役姿で登場するが、清潔感のある色気が少女のような魅力を感じさせる。
 今回の「エル・アルコン」ではあまり腕の見せどころがないのが残念だが、役者としては、繊細な人間関係を表現でき、コメディも大いにいける多才な人材である。「シークレット・ハンター」の博多座公演で、涼は、東西大劇場公演では柚希礼音が扮した主人公ダゴベールの親友セルジオ役を演じた。柚希が、ダゴベールに父性愛にも似た包容力を発揮する人物としてセルジオを演じたのに対し、涼は、ダゴベールに対して友情以上愛情未満の感情を抱いているような、それでいて、自分に対して友情以上のものは抱いていないダゴベールにはそのことを感じさせぬよう振る舞うという、少々哀しみをも感じさせる、実に大人の魅力あふれる男性としてこの役を造形していて、まるで、漫画家よしながふみが好んで巧みに描くような人間関係の微妙なあわいを表現できる役者なのだと感じ入ったものである。
 コメディセンスについていえば、その「シークレット・ハンター」の中の名場面、ダゴベール相手に一芝居を打ってみせるシーンで、東西大劇場、博多座とも大活躍を見せていた。「ヘイズ・コード」でもちょっとしたセリフの言い回しにキュートなおかしみがあったものだったが、忘れられないのが、「愛するには短すぎる」での一言である。このとき涼は新進女優に美人局に遭わされる、人のいい女好きの演劇プロデューサーを演じていたのだが、船上で狂言自殺を図った彼女に、次々と大きな役を約束する羽目になる。最終的には新作のヒロインを与えるところにまで追い込まれるのだが、そのときの、「ヒロインといえば、主役だぞ〜」と尻すぼみに発するセリフに何とも言えないトホホ感が漂っていて、観劇の度に笑ってしまったものである。
 セルジオを演じた際に感じさせた、主演男役・安蘭けいとの芝居の相性のよさをも含め、これからも、実力と持ち味、そして男役の美学を発揮し、星組の、宝塚の舞台を大いに盛り上げていってほしい人である。
 久々に宝塚で本格的ラヴ・ロマンスを堪能したなあ……と、観劇後、何だかホッとしたのが、日本青年館大ホールにて25日まで公演中の「HOLLYWOOD LOVER」である。
 イングリッド・バーグマンとロベルト・ロッセリーニの不倫愛、ジョン・F・ケネディ・ジュニア夫妻の墜落死といった、アメリカ史を華麗に彩るセレブ達にまつわる事件をモチーフとして織り込んだ脚本にこれといった破綻はなく、若手作家ならではのスタイリッシュな感覚にあふれたナンバーとダンスが盛り込まれていて、二時間半を楽しめる。それより何より、主演の大空祐飛の魅力が引き出されて輝く。相手役を務めた城咲あいの嫌味のない妖艶な個性もあって、実に大人の雰囲気を醸し出せる主演カップルが、がっちり組んでほろ苦い恋物語を体現している。フィナーレのデュエット・ダンスの艶やかなこと。アメリカ中が憧れる大スターに扮した城咲が次々と着こなして出てくる女優ファッションもため息ものだ。
 どんな作品においても、時代の空気をグラマラスにまとうことのできる姿が印象的な五峰亜季。一見軽薄にゴシップを追うようで、真実追求の決意を心の奥底に秘めたジャーナリストをキュートに好演した憧花ゆりの。娘役の活躍が目立つ公演でもある。

 2006年の「ベルサイユのばら」星組公演にオスカル役で特出したときにも思ったことだが、主演の大空は実は、この作品の主人公ステファーノ・グランディのような、まっすぐひたむきに何かを追い求める役柄が向いている。
 この人は、今の宝塚の男役スター陣にあって、実におもしろい存在である。なかなかに得難い個性をもっている。舞台上で垣間見せるその個性に大いに魅力を感じながらも、いざ、プロフィールやキャッチ等々の短い字数でまとめようとすると難しい……というのが、大空の個性のユニークたる所以である。
 話をわかりやすくするためいつも持ち出して恐縮だが、安蘭けいが、人間存在の混沌を可能な限り己の役者としての存在のうちに咀嚼して舞台上に提示するのに対し、大空祐飛は、人間存在の混沌をそのまま無邪気に舞台にぽんと載せてしまうようなところがある。だから、その個性は観客にとって一見非常にわかりにくい。わかりにくいけれども、何か心ひかれるものがある。何ゆえこのようなことが可能になるのだろうかと考えて、取材の際の彼女を思い出して、納得する。大空祐飛は実に理路整然と話す人である。テープをそのまま起こして句読点をつけたらもう原稿ができあがっているような話しぶりなのである。昔、政策派と言われる若手国会議員のインタビューの連載を一年以上担当していたことがあるが、彼女以上に理知的に話す人は、その中でも一人か二人いたかどうか。
 自分の中で思考が整理されているから、混沌を舞台上に投げ出しても、本人はどうということはない。その混沌を目にした者が、自らの混沌を見透かされたような気がして、心が騒いでしまうのである。だから、斜に構えたような役をやってももちろん魅力は発揮されるけれども、役柄の内実と本人の投げ出す混沌との相乗効果で、観る者の心理がどんどん袋小路に追い込まれてしまう恐れもある。実はまっすぐな役が向いていると言ったのは、この混沌の無邪気な投げ出し方ゆえである。

 大空といえば、代表作として挙げられるのが、今回の作・演出を担当した植田景子と組んだ作品、ジャズ・エイジの寵児F・スコット・フィッツジェラルドを好演した「THE LAST PARTY」である。大空は、第一幕、時代の寵児と持てはやされる若き日の作家の姿が実に生き生きと魅力的で、その座から転落した晩年を描く第二幕では、人生にあがく姿を自己憐憫やかっこつけなしにあまりにストレートに見せるのが、正直、意外だった。観劇前は、第二幕の悲劇的運命の描写に力を入れてくるのかなと予想していたからである。
 今にして思えば、その二幕の造形にも大いに納得がいく。というのは、時代の寵児の座から転落したフィッツジェラルドが世間から“終わった”作家とみなされていたのと同様に、かつて私自身が“終わった”とされるものを生きていた年月があったことに、その後ほどなくして思い当たったからだ。“終わった”ものとは、新入社員時代を過ごした、今はなき写真週刊誌の編集部のことである。
 私が配属されたとき、雑誌にすでに往時の勢いはなく、200万部もの部数を誇った時代を知る人は、しばしば昔を懐かしんでは語って聞かせた。いい時代など知らない私にとっては、最初のうちこそおもしろかった思い出話も、次第に鼻についてくる。何とか昔のように雑誌が売れないものだろうか、そのために自分は何をしたらいいのか、日々そのことしか頭になかった。その雑誌がもはや“終わった”と思っていた内外の人々にとって、そんな私の姿は滑稽ですらあったかもしれない。けれども、物事も、人生も、すべては本当に終わりが来るまでは決して終わってはいないのである。他人に“終わった”とされた人生でも、当事者にとっては未だ続いている。だから私は、“終わった”という安易な表現を、ときにほとんど憎んでいる。
 そう考えると、「THE LAST PARTY」第二幕での大空がなぜ、自己憐憫に耽る姿を魅力的に見せるのではなく、人生にあがき続ける姿を平気でさらしてみせたか、合点がいく。大空扮するフィッツジェラルドは決して人生をあきらめてはいなかったのである。人生をあきらめないその姿に、大空は男役として表現すべき美を見出していたのだろうと思う。

 他に印象的だった役として、「飛鳥夕映え」の中臣鎌足が挙げられる。この役柄の造形は出色の出来だった。作品において悪役的位置付けとなっていたこの役を、大空は、かつて自分が純真であったがゆえに、その後度重なるさまざまな人生の困難、挫折を経て、他者の心を読み、自分の野望に沿う形で操れるようになり、そのことに無論幾許かの快感を覚える一方で、そんな人間の怪物となってしまった自分自身をどこか持て余している、そんな風に演じていて、それ以来、私にとって、この人は何だか怖い役者でもある。
 「HOLLYWOOD LOVER」を最後に、大空祐飛は長年在籍した月組を離れ、花組にその活躍の場を移す。新天地が、未だ解き放っていない個性を大いに発揮する場とならんことを期待するものである。
 八月の博多座公演の終盤のある日、「シークレット・ハンター」を観ていて、遠野あすかは、真に深い意味で舞台に立つことの喜びに目覚めたのではないだろうか……と感じた瞬間があった。
 安蘭けい演じる主人公ダゴベールが、遠野演じるヒロイン・ジェニファーに、自分が盗みに手を染めるようになった過去を打ち明ける要塞の場面で、ダゴベールの傷ついた心を深く理解しながらも、それでも人として間違ったことをしてはならないとジェニファーは諭す。その日の安蘭ダゴベールと遠野ジェニファーは、役柄を演じるという次元を越えて、それぞれが背負った役柄の人生を賭けて本気でセリフを交わしていて、二人して演劇の彼岸に透き通っていくようなその光景に、自分が芝居を観ているのではなく、まるでダゴベールとジェニファーの人生の一コマに立ち合い、その会話に耳を傾けているような感覚を覚えた。そして前述のような感慨を抱いたわけだが、その思いは、「エル・アルコン−鷹−」を観て揺るぎない確信に変わった。宝塚の主演娘役としては異例ともいえる役柄、誇り高き女海賊ギルダ・ラヴァンヌに扮して、遠野あすか、快演である。
 入団二年目で大抜擢を受けて演じた「Crossroad」のヒロインをはじめとして、遠野の舞台姿には当初、向かう人生怖いものなし! という印象があった。そんな怖いもの知らず感が、入団四年目で花組に組替えとなってからは少々鳴りをひそめてしまったようなところがあって、正直、何だか物足りなく感じると同時に、宝塚における娘役のあり方とは想像以上に難しいものなのかもしれないな……と思うこともあった。そんな怖いもの知らず感が、星組にやって来て安蘭けいと主演コンビを組んでから見事復活したことに、宝塚における娘役の活躍を支持する者の一人として、快哉を叫びたい。もちろん、経験を重ね、力を貯えてきた今見せる怖いもの知らず感は、かつてのそれとは大いに質の違うものである。
 役柄的にぴたりとはまったときには大きな武器ともなってはいたが、以前は、ときとして一人で芝居をしてしまう癖があった。それが、臨機応変縦横無尽、舞台上で飛び道具のような変化を見せる安蘭の相手を務めるうち、相手の出方や空気を読む術にも長けてきて、そんな遠野が安蘭と真剣勝負でやりあう芝居を観ていると、宝塚以外の舞台であってもそうそうお目にかかれない本気の演技合戦に、背中がぞくぞくする。
 遠野の役者、娘役としての最大の武器は、その声と発声である。女性が男性を演じる男役以上に高い声を出さなくてはいけない娘役は、ときとして非常に無理な発声を強いられる場合があるが、遠野の発声は実にナチュラルで、それでいて、透明感ある声は宝塚の娘役らしい好ましさに満ちあふれている。この声と発声によって、遠野は、宝塚の娘役の本分を守りつつ、その領域を拡大していくという、相反しかねない使命に挑む。相手役の安蘭との声質の相性もよく、二人がえも言われぬハーモニーを聴かせる瞬間、舞台作品におけるデュエットとは、二人の人間の心が重なり合ったその瞬間を示すために歌われるものであるという基本原則を、改めて実感させられる。
 今回のギルダ役では、その声を一段と低く落ち着かせて使うことで、女海賊としての誇り高さ、主人公の策士ティリアン・パーシモンとも堂々と渡り合えるしたたかさ、度胸のよさを示す。その一方で、ティリアンに心ひかれ、己の誇りのためにひたすら戦ってきた人生を振り返るためらいの歌では、透明感ある声を高く響かせ心に染み入る歌唱を披露する。その美しい声が最大に生かされるのは、エンディング、永遠の復活を遂げた白い衣装のティリアンに、「貴方のその翼に乗り/遥か彼方羽ばたくのよ」と高らかに歌い上げる瞬間である。そのとき、主人公ティリアン・パーシモンの劇的な人生を見守ってきた観客の心は、遠野の歌声に誘われ、永遠の自由に羽ばたくティリアンの翼に乗り、空高く飛び立っている。
 それにしても、ギルダ・ラヴァンヌ率いる女ばかりの海賊軍団ブランシュ・フルールとはほとんど、女性だけの出演者で舞台を創り上げる宝塚歌劇団のアナロジーである。女海賊一味を引きつれ踊る遠野ギルダの勇ましくもりりしい姿を観ていると、世間という名の男社会の中で行き場を失くし、宝塚の舞台にのみ慰めを見出していたかつての自分を思い出して、ときに胸が熱くなる。自分という人間に与えられた女性性とは、少女性という、男社会の中でもとりわけ役に立たないものであることに、10代の終わりから割に最近まで大いに悩んできた私には、ティリアン・パーシモンという男性性に剣を取っての正攻法で立ち向かって敗れるギルダの逡巡の歌は、ほとんど鎮魂歌に近い響きをもって届く。ただし、そんなギルダがティリアンに心ひかれていくのは、ティリアンの暴力まがいの愛の行為に屈して自らの女性性を突きつけられたからではなく、ティリアンの中に、自分の中にあるのと同じ孤独と哀しみを認めたから、すなわち、人が生きる上で負う心の痛みに、男も女もないということをギルダが知ったからだと信じたい。遠野ギルダの繊細な演技には、そんな深い説得力がある。
 ショーの「レビュー・オルキス」でも、歌に踊りにコミカルな演技に、キュートな持ち味が全開である。大人っぽいムードの場面でも、彼女の体現する娘役像にはどこか、永遠の少女性を感じさせるところがあって、それが非常に魅力である。ただ、ときとして、宝塚の娘役という存在に求められる条件があまりに浮世離れしているようなところもあるためか、娘役の少女性は多分に人工的なものと見えたり、あるいは芸の本分を見失って単なるハッタリ芸となってしまうようなケースも見受けられるところ、遠野の場合、あくまで娘役芸に忠実に、それでいて舞台に確かに息づくヒロインを演じられるのがいい。世界に一人で立ち向かい、ときに傷つき、けれどもまた一人で立ち上がり、そんなうちに、少女から大人の女性へと成長を遂げてゆくヒロイン――。世界は、正攻法だけで戦うには手強過ぎて、でも、結局のところは正攻法で戦ってゆくしかない。そんなちょっぴり苦い人生訓を思い出させてくれるヒロインを演じられる娘役が、私は大好きである。
 親友のような存在だった祖母が亡くなって半年ほど、タンゴしか聴けなかったことがある。
 祖母がタンゴが好きだったわけでも、祖母との間にタンゴにまつわる想い出があったわけでもない。それなのに何故か、心が、身体が、規則正しいリズムにのって展開されるあの哀切感あふれるメロディーしか、受けつけようとはしなかった。観劇に訪れた劇場で異なるジャンルの音楽を聴くことはあっても、家では何故か、タンゴのCDにしか手が伸びなかった。

 タンゴを取り入れたショー作品に安蘭けいが主演すると聞いて、瞬間的に、安蘭とタンゴは合うだろうなと思った。その予感は実際、裏切られることはなかった。
 ストーリー仕立ての「レビュー・オルキス」で安蘭は、愛を求めて世界を彷徨う男に扮する。世界を旅して男は、ついにただ一つの愛を見つける。孤独から愛へ、男のその彷徨は、かつて「安蘭けい、窯変」なる原稿で指摘したところの、安蘭けい自身の演者としての窯変そのものとも重なるところがある。作中、安蘭は、予感、彷徨、邂逅、成就と、四つの愛の相を語る曲を歌い、アルゼンチンから招聘されたオスカル・アライス他の振付による手の込んだステップを踏む。歌詞の心を深く響かせてやまないその歌、そして、男役としての一つの完成形を見せるダンス共々、タンゴのムードと安蘭の内的世界とが呼応し、重層的に響き合う。
 安蘭の歌にはどこか、一人で生まれ、一人で死んでゆく人間が本質的に抱えざるを得ない孤独ゆえの根源的な喪失感、哀切感を思わせるところがある。そして安蘭は、決して大柄とはいえない身体で黒燕尾服をはじめとする男役の衣装を端正に身にまとい、律儀に一心にステップを踏む。その姿は、規則正しいリズムを刻むうちどこか聴く者の心をめくるめく陶酔へと誘ってやまない音楽に実によく似合う。思うに、その喪失感ゆえの痛みと、亡き人との幸せな記憶がもたらす陶酔こそ、祖母を失った私の心を慰めるものであったのかもしれない。

 祖母を失くして二年ほど経った日のこと、私は、単身ロンドンに渡り、少女時代から憧れてやまなかった一人のアーティストにインタビューする機会に恵まれた。その人、ジョージ・マイケルは、恋人と母との相次ぐ死から立ち直れず、新たなオリジナル・アルバムをリリースするまでに八年もの月日を要していた。
 ショックが大きいのはわかるけれども、それにしても八年とは――と、当時の自分は考えていた節がある。何のことはない、自分自身が、祖母の死から立ち直るのに同じくらいの月日を要したというのに。そして、今となっては思う。人は結局のところ、愛する者の死から、究極的に立ち直れるものではないのかもしれないと。
 八年ぶりにリリースされたそのアルバム「ペイシェンス」に収録された「アメージング」は、愛する者の死によって直面した深い絶望と、新たな愛がもたらした一条の光にも似た救いとが、心の奥底から想いを絞り出すかのような、魂の叫びにも似た痛切なヴォーカルによってつづられる名曲である。ロンドンでのインタビューの際、この曲について、ジョージ・マイケル自身は、「ワム!以降に書いた中で、もっともハッピーでオプティミスティックな曲」と語り、「非常にせつない曲に聴こえる」と感想を述べると、「こんなにハッピーな曲なのに、君はおかしな人だね」と笑うのだった。そのときは、見解の相違が不思議でならなかったのだけれども、今回、「レビュー・オルキス」で安蘭けいの愛の歌を聴いていて、思い当たったことがある。
 世界でただ一つの愛との邂逅、そして、その成就を歌うときにさえ、安蘭の歌にはどこか、せつなさが残る。やっとの思いで我が物とした繊細なガラスの玉を手の中に大切に包み込み、こわごわ慈しむような、じれったいような優しさともどかしさとがある。
 世界は無論、多くの愛のあふれる場所ではあるけれども、人を真の意味で生かし、育む愛にめぐりあえる機会は、人生において数えるほどしかない。そんな愛の稀少性と貴さとを知る人が歌う愛の歌は、そのもっとも至福の瞬間を歌ってさえ、どこかせつないものであるのかもしれない。
 真の知性とは、この世界や人間の複雑性を、殊更に高尚を装って描写することにではなく、その複雑性を可能な限り咀嚼し提示しようという営為とその懸命なる努力がもたらす結果とに存する。その意味で、この舞台作品(と呼べるほど作者の自己愛が昇華されているかどうか甚だ疑問だが)において、真に知性が認められるべきは、いたずらに観念的で難解めいた作劇を何とか生身の肉体でもって体現しようとする主演の瀬奈じゅんをはじめとする出演陣に他ならない。
 観る者が救われるのは、今の瀬奈じゅんの持つ宝塚の正統派男役としての“白”の輝きは、どんな作品が来ようとも決して損なわれ得ぬものであるからだ。もっとも、その“白”のあまりのまばゆさゆえに瀬奈は、宝塚の伝統と革新がもっとも激しくせめぎあう最前線とならざるを得ない宿命を負っているのだが。

 なお、作品世界に多少なりとも興味を持たれた向きは、シアターコクーンで上演中の野田秀樹作品「キル」に足を運ばれることを強くお勧めする。
 以前、星組の舞台を観に行くと、公演期間の前半と後半とで印象ががらりと変わる役者がいた。自分の納得が行く演技ができるまであきらめず粘り強く舞台に取り組み続ける人なのだなと、立樹遥を観るたび思っていた。
 その立樹は、ここ一年で、大柄な体躯に似つかわしい、存在感ある男役に成長した。きっかけとなったのが昨年の「ヘイズ・コード」であろうことは言を俟たない。立樹はここで、主人公レイモンド・ウッドロウの親友ラルフ・カールトンを、包容力あふれる温かみのある人物として造形、好演し、物語のムード作りに大きな貢献を果たした。
 次いでの大劇場公演「シークレット・ハンター」で立樹に与えられたのは、主人公である大泥棒ダゴベールを追い続ける“男爵”という綽名の殺し屋役である。実はこの役どころは、結果的に、作品全体において一番の難役であった。すべての道具立てがどこかマンガチックな印象を与えずにはおかない「シークレット・ハンター」という作品で、ダゴベールを演じる主演男役・安蘭けいが、その芸質の必然として敢然と“人間”を生きてしまえば、一番割りを食うのは、なかでももっとも戯画的に描かれた“男爵”であるのは目に見えている。しかも、ところどころにフランス語を交えて話しキザに振る舞うという設定は、宝塚における“男役”のあり方そのものを問いかねないところがある。男役の立ち居振る舞いは、見慣れぬ者にとってときに笑いの対象ともなることを考えると、男役の本質とも微妙に重なる“キザ”は、下手をすれば笑いを招きかねないという意味で実に危険なのである。その難役を、立樹は、宝塚大劇場から博多座に至る一連の公演で、キザを愚直なまでにストレートに追求することで演じ通した。
 その結果、立樹遥が獲得したのは、宝塚の男役という存在が本質的に抱えずにはおかないせつなさである。だから、博多座公演で上演されたレビュー「ネオ・ダンディズム!U」の立樹は実によかった。「ネオ・ダンディズム!U」自体、“ダンディズム”という言葉に寄せて男役のせつないまでの美学を語るレビューであり、主演男役の安蘭けいがまた、せつなさの権化のような存在であるわけだが、立樹はまず、オープニングで歌う「疵」がせつなく、その歌声に合わせて踊る安蘭のせつなさを支えた。続いて、序詞師として語る“ダンディズム”とはのセリフも、ダンディズムの裏返しのせつなさをきっちり伝えていた。
 立樹がこうして獲得し、培ってきたせつなさは、上演中の「エル・アルコン−鷹−」で演じているジェラード・ペルー役にも大いに生きている。「エル・アルコン」のダーティー・ヒーロー、ティリアン・パーシモンは、母イザベラとジェラード・ペルーとの間に生まれた子である。スペイン人でありながらスパイとしてイギリス海軍に従事し、幼き日のティリアンに海への憧れと野心のままに生きる人生の素晴らしさを教え、結果、ティリアンが悪へとひた走る土壌を準備することとなったジェラード・ペルーは、これまたせつないまでの弱さを抱えた人間である。愛する女性と息子とを捨ててスペインへと逃亡し、後に敵味方として相まみえることとなったその息子ティリアンに共闘を持ちかけるも、己の人間としての器の小ささを正しく見定められ、息子への罵りの言葉を吐きながらその手にかかって死ぬのだから。長身でひるがえすマント姿もりりしいその人物が、息子の成長ぶりとその心、そして人間性とを読み違え、笑顔から瞬時に憤怒と焦りへと表情を豹変させ、悪あがきの末果ててゆくそのせつなさ。その死は、実の父を手にかけてまで野望の道をひた走らねばならない悪のヒーロー、ティリアン・パーシモンのせつないまでの純粋さと哀しき運命、そしてその不吉な行く末をも暗示するものである。
 ショー作品「レビュー・オルキス−蘭の星−」では、トレードマークの春の太陽のような笑顔が印象的であるのはもちろんのこと、男役の制服ともいえる黒燕尾服でのダンスシーンでの立ち姿など、大人の色気が増したと感じずにはいられない。あくまで若々しく張りがありながらも成熟した魅力をたたえたその声を武器として生かしていけば、大人の男役としても魅力もいや増そうというもの。今後の展開も期待大である。
 それにしても、あの笑顔。それ一つであんなにも観る者の心に温かい灯を宿すことのできる笑顔の持ち主を、私は他に知らない。
 物を書くというのはときにただただ孤独な作業で、家にこもって誰とも話さない日が何日も続いたりすると、「ああもういいや一人ぼっちで」などという訳のわからない拗ね方を平気でしてしまったりする。そんなとき、劇場で、立樹遥の、観る者すべてを受け入れるような、人と共に生きること、人と何かをわかちあうことの素晴らしさを教えるような微笑みを目の当たりにすると、「そんな風に拗ねてちゃいけないんだった」と、私はいつも反省するのである。
 初日(2日)前の舞台稽古を見学。宝塚には珍しい悪のヒーロー、「エル・アルコン」の主人公ティリアン・パーシモンは、お正月早々、実に極悪! 取り巻く人々も、宝塚大劇場公演よりさらにパワーアップ。「レビュー・オルキス」のオープニングで主演コンビが見せるおじいちゃんおばあちゃんの絶妙な演技で初笑い。舞台稽古終了後、安蘭けいさんの囲み会見。私からは、悪を演じる楽しさと苦労についておうかがいしました。
 夕方、最後の公演を終えたばかりの宝塚花組主演男役・春野寿美礼さんの退団会見に出席。私からは「春野さんにとって宝塚はどんな場所だったか」「その宝塚で17年間幸せだったか」&「歌を続ける可能性はあるか」についてお聞きしました。一つ一つの言葉をじっくりかみしめるように語る春野さんのお話は、一言ですぐにまとめきれるようなものではないので、後ほど他の詳しいメディアで見ていただくとして、取り急ぎ最後の質問について。あひる、思いっきり、とことん、食い下がってみましたところ、「可能性は、ある」とのことでしたので、速報まで。
 本日の公演はライブ中継で観ていたのですが(すごくクリアで観やすい映像だった!)、ハプニングが一つ。開映ギリギリに会場であるスカラ座に到着したところ、私の席にはすでに先客が。この年配の男性も春野さんのさよならを見送りに……と感心しつつ、席番もまったく同じだし、いったいどうしたものかと考えていたら、「ここ、みゆき座だよね?」とその方が。「スカラ座です! 春野寿美礼ラストデイ中継です!」と指摘して事なきを得たのですが、あのまま座っていて中継が始まったら、陣内孝則監督・森山未來主演「スマイル」を観に来たおじいちゃん、さぞかしびっくりしただろうなと……。しんみりムードの日に一気にほっこり。