藤本真由オフィシャルブログ

 関わった多くの方々には申し訳ないことだが、「ファントム」宝塚初演版が苦手だった。
 私の信じる宝塚の「清く正しく美しく」とは何より、“心”にかかる言葉である。舞台上の人々の姿かたちの美しさも、心の「清く正しく美しく」を裏打ちするものだと思っている。その宝塚でどうしてこんなにも人の容姿の美醜だけを云々するような作品を上演しなくてはならないのか、理解に苦しんだ。“見目麗しい男女の恋物語”として演ずるのであれば、ファントムと父親との葛藤などという要素は一切必要ない。ファントムの顔の醜さだって必要ないだろう。
 そこまでの苦手意識を感じていた「ファントム」なのに、春野寿美礼がタイトルロールを演じる花組版を観て、これは宝塚で上演するにふさわしい作品だと思うようになったというのだから、舞台とは不思議なものである。「ファントム」には、春野寿美礼が宝塚の舞台において体現してきた男役像の真髄と、そのたどり着くべき帰結とが確かに存していた。

 主演男役となって後の春野寿美礼が長らく体現してきたもの、それは、この苦悩多き生、そして、その生を生きねばならない人間存在の確たる孤独に対する、ほぼ完璧なるまでの諦念である。その男役像でもって、春野は「ファントム」の主人公エリックに確かに魂を吹き込んだ。
 生まれながらに呪われたような容姿をもち、それ故オペラ座の地下深く棲まう運命を選ばざるを得ず、どうしてこの世に生まれてきたのだろう――と一人煩悶するエリック。その彼を唯一この世界につなぎとめていたものは、音楽という美であった。そして、その音楽という美を通じて歌姫クリスティーヌに出会ったことで、エリックは、“美”に加えて人間の生をいま一つこの世につなぎとめるもの、すなわち“愛”を見出す。その愛との出会いは、この呪われた運命背負いし己をこの世に生み出した父への赦しにつながってゆく。音楽という美を通じて、父と母もかつて出会い、そして愛を交わした。今自分がここに生きているという事実は何より、その美と愛の帰結に他ならない。自分自身、美と愛にふれ、人間とは美と愛に生かされる者であると知ったエリックは、父を赦し、己の生に納得してこの世を去ってゆく――。春野の演じたエリックの物語とは、そんな、人はなぜ生まれ死んでゆくのかという、人間存在の永遠なる謎の一つを解き明かすものだった。春野はエリックを、生に迷い、傷つき、それでもなお美と愛を信じる心を決して失わぬ人間として舞台上に描き出した。故に「ファントム」は、宝塚で上演するにふさわしい作品となったのである。
 春野がそんなエリックの物語を演じる上で、この作品から桜乃彩音という相手役を得たことも、観客にとっては幸せなことだった。「エリザベート」のトートとエリザベートとして火花を散らし合った大鳥れい、孤独な春野の男役像にいつも寄り添うようにしてあったふづき美世、それ以前の二人の相手役と並んだときにも、春野はそれぞれに得難い魅力を発揮していたものだったけれども、桜乃には何より、孤独な春野の男役像を知らず知らずのうちに愛で包み込んでしまうような包容力と、孤独という名の深淵の向こうで一人静かに微笑んでいるような春野の彼岸まで黙って橋をかけてしまうような強さがあった。それは、春野が体現してきた男役像にとって、どんなにか救いとなったことだろう。ここに観客は、かくも孤独である人間を生かすものとはやはり愛に他ならないという永遠の真実を、花組の舞台に観ることとなったのである。

 その立ち姿だけで人間存在の孤独を体現してしまうような人だから、退団公演「アデュー・マルセイユ」の歌詞は、少し言わずもがなのところがある。いったい人生の何を知ってしまったというのだろう――と感じさせずにはおかない春野の歌声は、ときにその歌詞を軽々と超えた深みある音でもって、聴く者の心に届く。
 春野寿美礼は“音”の人である。ときにセリフすら、言葉の意ではなくイントネーションで、そこに託された想いを伝えていることがある。話をわかりやすくするために対照的な例を持ち出すと、同期の安蘭けいが“言葉”を響かせることに腐心し、ときに音より言葉の意を優先して歌うのに対し、春野は“音”に込められた意を響かせることに長けている。私は多分に高次的な芸術的判断の話をしているのだが、作曲家と作詞家、どちらの創作意図を優先するのかと歌いながらに問われたとき、瞬間的に、春野は前者を、安蘭は後者を選ぶということである。共に優れた、しかしながら対照的な芸術性をもった同期の二人の名歌手が並び立つ姿が短い間ながらも見られたこともまた、観客にとっては幸せなことだった。
 退団公演「アデュー・マルセイユ/ラブ・シンフォニー」の春野は、どの瞬間を切り取っても男役の集大成としての舞台を見せる。立ち姿、何気ない仕草、人生の達観を深くにじませたセリフ回し、崩しの美学が色濃くただようダンス……。その歌があまりに深いため、名歌手としての側面についつい気を取られがちだったけれども、春野は、三拍子揃った実力で花組を、宝塚を長年にわたって愛し、支えてきた、押しも押されもしないトップスターだった。

 彼女を取材したのは、主演男役就任から一、二年の間が多かった。とにかく察しがいい人なので、こちらが多少言葉足らずの質問をしても、意図を汲んで答えてくれるようなところがある。「つまり、こういうことが聞きたいんでしょ」とばかりに返答がシャープに返ってくるのが実に小気味よくて、あえていささか言葉足らずの質問をしていた節もあったように思う。
 それが、今年の夏。久々に取材することとなった彼女は、舞台姿からある程度わかっていたこととはいえ、数年前とは受ける印象がまったく違うのに驚かされた。ここ数年の彼女自身の心境の変化についてはその「レプリークbis」のインタビュー記事でも多くふれられているところだが、以前はどこか張りつめたようなところがあったのが一変し、その笑顔はほわほわとかわいらしく、何ものにも縛られない心の自由を感じさせた。
 そして、話の方も、
春野「なんて言えばいいかな、その……」
あひる「ああ、つまり……」
春野「そうそう、それそれ」
あひる「(焦。いや、“それ”じゃさすがにわからないんですけど〜)えーっと、つまりはこういうこと?」
なんてやりとりがあったりして、かつての借りを少しは返せたのかなと思ったものである。
 「レプリークbis」の記事は、そのインタビューに加え、桜乃さん、真飛聖さんの退団を送るコメントで構成されていたが、桜乃さんの談話の中にとりわけ印象的なエピソードがあった。相手役として、この世では結ばれない間柄ばかり演じてきたことを桜乃さんが嘆いていたところ、大切なのは心が結ばれているかどうかだから、そういう意味では全部ハッピーエンドじゃない?……と笑っていたという話を聞いて、何だか非常に彼女らしいなと思わずにはいられなかった。
 しかしである。この世ではやはり、結ばれてこそ、手に入れてこその幸せというものもまた多くあるわけで、宝塚を去った後の彼女の人生が、多くの幸せにあふれていることを願わずにはいられない。これまで宝塚の舞台で、そのベルベットのような歌声で、苦悩多き生を生きる観客の心を癒してきた以上に。
 そして、歌。最近世間では“心”というものがあまり歌に求められなくなっているようなのは嘆かわしい限りだけれども、私は春野寿美礼こそ、歌における心の復権を担うべき人材だと思っている。人生の深みと凄みを感じさせるその歌は間違いなく、大歌手の系譜に連なるものである。そんな歌声が聴けないことは何より、同時代に生きる者にとって多大なる損失である。退団してすぐにとは言わないけれども、春野さん、歌だけでも、どうかどうか、続けていってください。
 うわー、月組公演・瀬奈じゅん論を書き上げる前に花組公演が始まってしまった……。
 初日(16日)前の舞台稽古を見学。二作品共、どこを切っても主演男役・春野寿美礼が男役としての集大成にふさわしい舞台を見せて、圧巻。
 舞台稽古終了後、春野さんの囲み会見。正直、舞台でこんなにもすべてが語り尽くされているときはもう何を聞いても野暮というものですが、私からは、大劇場での退団公演を終えて東京公演に臨む心境と、作中、春野さんが一番心を解き放てると感じる場面をお聞きしました。前者については、花組の皆さんと一緒にまた新しい作品を創っていきたいとのお答え。ショーの中詰のラテンのナンバー、何を言っているのかちょっとよくわからない歌詞で歌う場面で、言葉にならない気持ちをぶつけている…との後者についてのお答えに、“音の人”春野寿美礼の真髄を改めて確認。
 9月の日生劇場公演「キーン」を経て、轟悠は確かに変わった。
 90年を超える宝塚の歴史においてみたとき、男役芸、娘役芸とは、伝統芸能の域にも達そうとする芸でありながらも、個々の演者の人生の時間においてみたとき、非常にはかない芸であるともいえる。轟悠は一人、去りゆく場所として位置づけられた組織に残り、そのはかなさと悠久さのあわいの矛盾を生きる道を選んだ男役である。
 「LAVENDER MONOLOGUE」と題されたコンサートには、轟にしか見出すことのできないその矛盾の一つの昇華点がある。特に、ドラマ仕立ての第一幕が秀逸である。永遠の青春、すなわち若さを讃えるという側面を魅力の一つとしてもつ宝塚において、人生で過ごしてきた時間、その中で積み重ね磨き上げてきた芸を見せることはどのようにして両立し得るのか、その一つの答えがここにある。そして、骨太で硬質なイメージの先行していた轟が、その心の奥底に秘めていた繊細さとやわらかさを余すことなく表現して、新境地を拓いている。
 組を率いるのではなく、専科から特出するという形で主演男役を務めなくてはならないことで、轟は二重の矛盾を生きねばならない。男役・轟悠の進む道は、轟悠にしか見出せない。けれども、その道は今後も確かに続いていくのだと感じさせてやまない舞台である。残り二日、見逃すには惜しい。
 初日(5日)前の舞台稽古を見学。異色作「MAHOROBA」の“宝塚性”を支えるのは、主演男役・瀬奈じゅんの“白さ”とまっすぐさ、つまりは正統派男役ぶりなのだと実感。「マジシャンの憂鬱」では、軽妙なセリフの応酬に客席からしきりにくすくす笑いが。
 舞台稽古終了後、瀬奈さんの囲み会見。私からは、外部クリエイターとのコラボレーションの話題も多い二作品の見どころをお聞きしましたが、舞台でマジックを披露することよりマジシャンである男の生き様を演じることを…との言葉に、先の思いをさらに痛感した次第。
 1日昼、都内で開かれた制作発表会に出席。会見冒頭、月組主演コンビの瀬奈じゅんさん&彩乃かなみさんが披露した主題歌「ミー&マイガール」が素晴らしい! 恋かない、心固く結ばれた本作のカップル、ビル&サリーの幸せ感が伝わってきて、聴いているこちらまで幸せな気分に&思わずうるっと来てしまい。たった一曲でそんな天にも昇るような恋のハッピー気分で会場を包んでしまえるところに、お二人の主演コンビとしての充実ぶりがうかがえて。続く「ランベス・ウォーク」は、記者会見としては異例の客席降り&手拍子ありで、会場は一気に明るく楽しい雰囲気に。瀬奈さんが挨拶で「(歌っていて)皆様の笑顔を見ることができて、幸せになりました」と語っていたけれども、演じる方も観る方もそんな幸せ気分を共有できる作品って本当にいいなあと…。「新国立劇場開場10周年記念式典」の時間が迫っていて、質問ができなかったのが非常に残念なのですが、「ランベス・ウォーク」冒頭のビルのセリフの感じからして、役柄の研究も相当進んでいる様子。半年先の公演が今から本当に待ち遠しい…! と、その前に、まずは10月5日からの「MAHOROBA」「マジシャンの憂鬱」の東京宝塚劇場公演が楽しみ。
 劇場に足繁く通う大きな理由の一つとして、何より、人間のおもしろさを観たいということがある。ここでいうおもしろさとは何も、必ずしも笑いに結びつく要素ということではなくて、個々の人間のもつ、奥深い魅力のことである。興味を誘ってやまないおもしろさが、意表を突くような形で現れる瞬間を求めて、私は劇場に行くのだろうと思う。
 新しく宙組主演男役に就任した大和悠河は、文句なしにおもしろい存在である。このたび主演男役となって、つまり、自身の持ち味を存分に発揮できる立場となって、その底知れぬおもしろさがさらにパワーアップした形で見られるようになったことをうれしく思う。細やかすぎるほどの繊細さと、あっと驚くような大胆さが、大和の中に不思議な形で共存していて、そんな奥深い内面が舞台上、突拍子もなくほとばしる瞬間を目撃するのが、たまらなくおもしろい。
 繊細な人なのだと思う。その演技には、相手の心の傷を知り、そのことによって自分自身が傷ついてしまって、けれども自分が傷ついてしまったことを知ってさらに傷つくことを恐れて、相手が何も察することのないよう振る舞うような複雑な繊細さがある。だから、例えば、「少し痩せたようだね」といった、話し相手に何気なく投げかけたセリフに、さりげないながらも実に深い思いやりがあふれる。男役・大和悠河が発揮する包容力とは、相手に包み込んでいることをそれと感じさせないような、透明な、それでいて温かな糸で入念に織られたような包容力である。そして、相手役となった陽月華はといえば、さっぱりとしたせつなさが身上の娘役であるから、そんな大和の包容力と非常にしっくりくる。トップコンビとしての二人の相性が抜群な所以である。
 主演お披露目公演の二作品のうち、「バレンシアの熱い花」でも、大和の包容力、魅力は存分に生きていたが、底知れぬおもしろさがより発揮されたのは、ショー「宙FANTASISTA!!」の方である。役柄を演じることよりむしろ“宝塚のスター”として立ち現れることを要求されるショー作品で、大和は“宝塚歌劇”という、世界に一つしかない存在への愛を、そして、観る側、立つ側問わず、そこに集ったすべての人々への愛を、全身全霊どころか500パーセントくらいのハイ・ボルテージで表明する。そして、無私の境地で舞台上から愛とエネルギーを放出し続けるうち、繊細な心が、癒され、解放されてゆくのが見える。彼女にとって、そうして心が解き放たれる場所は、世界の他のどんな場所でもなく、宝塚の舞台でなくてはならないのである。
 ときに、こめた想いが強すぎ、オーバーアクション気味になったり、声量が暴走気味になったりするという課題はある。その、実に複雑かつ奥深い内面のおもしろさに釣り合い、これをあますことなく伝えきれるだけの技術はまだ手に入れてはいないようにも思える。しかし、世の中には、技術はあっても心の伴わない舞台や、技術も心もなくただただ自己顕示のみが跋扈する舞台だって多いのである。大和の場合、多少の技術力不足など突き抜けるほど伝えたい想いがある。表現者にとって、伝えたい何かを持つこと以上に大切なものがあるだろうか。
 大和を支える布陣も強力である。相手役の陽月は、娘役に許されてきた可動域を超えるかもしれないほど身体が利くダンサーであるところに、従来の娘役像を塗り替える破天荒な魅力がある。この二人は、ルックス的にも実に似合いのコンビでありながら、決して無味乾燥な美男美女カップルでないところがいい。蘭寿とむは、「バレンシアの熱い花」で役替わりで務めた貴族のロドリーゴ役が、いかにも花組出身らしいクールさ、スマートさと、その奥に潜む温かさを感じさせる好演で、男役として大和と好対照を成す存在感が際立っていた。ショーのパレード、大階段を降りながら歌う「宙FANTASISTA」の節に顕著に現れるように、歌声に、宙を翔けながら夢見ているような浮遊感があるのもいい。大和とも通じる突拍子のないおもしろさを感じさせる北翔海莉は、ロドリーゴ役、役替わり公演のラモン役とも抜群の歌唱力と持ち味のせつなさを生かして大きな成長を見せた(長らく、この人が放つ好ましい懐かしさはいったい何に起因するものなのだろうと考えていたのだが、最近になって、80年代、「ワム!」でバリバリアイドルしていた、アルバムでいえば「メイク・イット・ビッグ」の頃のジョージ・マイケルに、表情や歌い方が似ていることに気づいた)。この他、若手男役や娘役にも個性豊かな面々が揃い、新生宙組、実に充実といった感じである。
 組を率いる大和のあふれんばかりの愛とパワーのもと、組全体が一つとなり、エネルギーを客席にぶつけてきた今回の宙組公演は、観劇後、「あー、宝塚を観た!!!」という気持ちでいっぱいにさせてくれるものだった。東京宝塚劇場での公演は残念ながら本日限りとなってしまったが、10月30日からは同演目での全国ツアーもある。役替わりによってまた新たな若手の魅力が見出せることだろうし、同時期の北翔主演のバウ公演「THE SECOND LIFE」共々、本当に楽しみである。
 必要とされているのは自分の存在ではなく、自分の書いた本だけである――という事実と冷静に直面したとき、「明日の朝自分は死んでるな……」との境地に思い至ったと、橋本治は「恋愛論」で書いている。
 橋本治の文章ほど世に必要とされているかどうかはともかく、自分も似たようなことを考えるときがある。そして、自分の存在以上に必要とされているのかもしれない自分の文章に、嫉妬するときすらある。おかしな話かもしれない。自分が存在しなければ自分の文章も存在しないのだから。しかし、ときに自分と文章とはそれくらい平気で切り離されている。「このときの自分は、こういうことを考えていたのだな……」と、冷静に客観的に読んでいるときもあれば、下手をしたら自分でも書いたことを忘れていて、読んだ相手に指摘されて「そんなこと書いてたんだっけ」と思うときもある。自分と文章とが真の意味で一体であるという幸福感にひたれるのは、もしかしたら、書いているその瞬間だけかもしれない。
 自分の文章は限りなく自分自身であって、しかも、自分自身ではないようなところがある。その意味でも文章は嫉妬の対象となり得る。文章の上で、自分が抱くところの理想の自分として立ち現れることができてしまったときがそれである。文章の中の自分の方が、現実に生きる自分より遥かに立派に思えるとき、文章を通じてしか自分を知らない人は現実の自分に会ったら幻滅するのかもしれないと考えることもある。その意味では、文章上の自分は実に自由で、そしてまた実に不自由である。それが、いわゆる商品としての文章だけではなく、個人的に書き送る手紙やメールにおいてもそうなのだから、厄介な話である。

 翻って、演技と役者との関係はどうだろうか。一見、物書きと文章の関係ほど切り離されていないように思えるところに、さらなる深い苦悩は存在するのかもしれず、また、必要性における思い違いも生まれそうではある。もちろん、その人なくしてその演技はありえないわけだが、必要とされているのは自分ではなく演技でしかないと考えることも、逆に、必要とされているのは演技ではなく自分であると考えることも可能である。観る側からすれば、前者に苦悩する役者は悲劇的であり、後者に溺れる役者は喜劇的であるとも言える。
 ミュージカル「キーン」の主人公、天才シェイクスピア役者エドモンド・キーンは、そんな、存在の必要性のアンビバレンスと、悲劇と喜劇の狭間、演技と現実のあわいを生きる人間である。“キング・オブ・ロンドン”とまで大衆に崇められ、プリンス・オブ・ウェールズその人とも飲み友達でありながら、階級差を決して超えることはできず、女性に愛されたとしても、その愛の対象は、舞台で甘く恋を語る役者としての自分なのか、それとも舞台を降りて現実を生きる自分なのかが判然としない。自分がおかれたシチュエーションをあくまで劇的状況として把握し、プロンプターの助けを借りて日常会話をセリフさながらにしゃべり、自分の感情を吐露しようとしてシェイクスピアのセリフを吐く。シェイクスピアよ、なぜキーンという役を書かなかった――との彼の叫びは、無論、天才役者としての傲慢さゆえ、そして、戯曲に書かれているものならば容易に演じられるのに、書かれていないがために容易に生きることができない己の人生のままならなさを物語っている。本心を語りたいときに演技をし、舞台上で演じながら本心を語るキーンの中では、現実と芝居の境界が容易に揺らぎ、ときに反転すら起こす。
 「オセロー」上演中の劇場で、愛する女性とプリンスとの親しげな振る舞いに腹を立てたキーンは、オセローを演じることを放棄して素に戻り、自身の言葉でプリンスを批判する。作中のプリンスとキーンとの関係は当然、シェイクスピア作品に多く登場する王と道化との関係を踏まえて描かれているが、王と道化との関係の反転は、シェイクスピア作品においては許されても、プリンスとキーンが生きる現実においては許されるものではなく、大衆は手のひらを返してキーンを罵倒する。それは、キーンの内面においては現実と芝居は容易に反転しても、現実は決してその反転を容易に受け入れるものではないからである。事を重く見たプリンスはキーンに舞台上からの謝罪を要求するが、それは、プリンスとしてのプライドを傷つけられたというよりは、現実世界においても人はそれぞれの役割を演じて生きるしかなく、自分やキーンはその役割からの逸脱が特に許されない立場にあることを、プリンス自身知る人間だからである。つまりプリンスは、プリンス自身としてではなく、世間に対して、プリンスとしての役割を演じる上でキーンの謝罪が必要なのである。しかしながらキーンは、シェイクスピアのセリフを語ることで謝罪に以って代え、プリンスの上手を行く。そして、謝罪に代えてのセリフを語る上で、キーンは気づく。自分が演じる役柄こそが、本当の自分を形作るものに他ならないと。

 文章上の自分と、それ以外の自分。演技上の自分と、それ以外の自分。どちらがより本当の自分なのか。それは、どこまで突きつめていっても答えの出ない問いなのかもしれない。というのは、そもそも、「本当の自分」なる確固たるものが存在しないか、万が一存在したとしてもその把握が実に困難極まりないものだからである。マイケル・フレインが戯曲「コペンハーゲン」において、“相補性原理”と“不確定性原理”を人間存在のレベルに適用してあざやかに看破してみせたように、自分自身が自分にとってこの世でもっとも理解し難い謎であり、鏡としての他者の存在なくしては自分自身を把握することはできない。そして、人とは、時と場合と相手に応じて違う顔を見せる生き物である。その違いの幅が大きくぶれない人と、激しくぶれる人がいる、それだけのことである。あまりに甚だしくぶれたり、ぎこちなかったりすれば、それははっきり“演技”や“芝居”とみなされかねないが、TPOに適した振る舞いを選択している時点で、人は誰でも、多かれ少なかれ“演じている”生き物なのである。
 役者とは、そんな人間の不確かさ及び多面性を、舞台という場で、観客に鏡として見せる存在である。そして、キーンのように、日常においては過剰に“演じて”しまう、つまり、時と場合、相手によって求められる役割をついつい見事に果たしてしまう一方で、自身の本心を明かす上では、舞台の上を一番適した場所として選んでしまう人間こそ、天才役者の名にふさわしい存在なのかもしれない。

 宝塚歌劇において上演が難しい作品であるというのは、何も、役者の力量や観る側の成熟の問題ではない。幕切れ、自分が演じる役柄こそが本当の自分を形作るものだと吐露するキーンの姿がそのまま、キーンという役柄とそれを演じている役者自身との関係に重なるからこそ、演劇的状況の中に人間存在の深意が浮かび上がり、作品の余韻が深く響く。ただ、宝塚の場合、女性が男性を演じるという意味での“虚構”が演じる側観る側双方にいささかなりとも残らざるを得ないがために、余韻がストレートに伝わりづらいだけでなく、“男役”にとって諸刃の剣として機能してしまう恐れがある。宝塚ではやはり、世界に稀なる“男役”という存在を最大限生かす作品を上演すべきであろうと思うし、「キーン」のような作品をあえて上演するのであれば、そこまできっちり踏み込むことで、宝塚歌劇のメディアとしての可能性を試してほしかったと思う次第である。
 3月23日、安蘭けいは、一番大きな羽根を背負い、パレードの最後に大階段を降りて、宝塚大劇場に星組主演男役としての雄姿を披露した。それから5ヵ月後の8月23日、博多座公演の千秋楽において、安蘭は同じ姿で、宝塚〜東京〜博多と続いた一連の主演お披露目公演の幕を無事下ろした。
 長い間、多くが主演男役になると信じて疑わなかった、それでいてなかなかその座に就くことはなかった安蘭は、遂にその地位に昇りつめたとき、どのような舞台を見せるのか。この5ヵ月は、これまでの宝塚人生において積み重ねてきたものすべてを思いのままに発揮できる立場となったとき、安蘭がいかなる舞台人として立ち現れるのか、その軌跡を見届ける期間であった。ダムになみなみと湛えられた水が、放出のときを得て滝さながらの激しさで勢いよく流れ出してゆくような、整備万端のレーシングカーがスタートの合図と共にフルスロットルで発進してゆくような、そんな姿を客席から見つめていた。
 その途中経過を私は、「桜の森の満開の下の孤独」と「人の世の奇跡」という二編の文章に記したものだったが、正直なところ、宝塚大劇場公演の途中から、安蘭の舞台の与える印象が変化してきたことに、とまどいを覚え始めていた。持って生まれた才能に加え、蓄積してきたものが桁外れに多い人である。変化と進化のスピードが速いのも、無理はない。中途半端な中間報告を重ねるよりも、「シークレット・ハンター」という主演お披露目作品が続演される博多座公演までとにかく見届けるしかないとの結論に達した。宝塚大劇場公演、東京宝塚劇場公演において「シークレット・ハンター」の前物として上演された日本物ショー「さくら」については、作品全体を“美をめぐる考察”として読み解いたときに非常に興味深いものがあるので、別に項目を設けて論じることにして、ここでは「シークレット・ハンター」を軸に、主演男役となってからの安蘭けいの窯変について考えることとしたい。

 東京宝塚劇場公演途中で思い至ったのは、「シークレット・ハンター」とは、真の意味で大人になるとはいったいどんなことであるのか、問いかける作品だということである。
 安蘭演じる主人公のダゴベールは、人はよいが不器用で世渡り下手なアル中の父と、実直で信仰に篤い母との間に生まれた。父と母の間には諍いが絶えず、ある日父は、「人が天から心を授かったのは、人を愛するためだ」との言葉を残してカリブの海に死す。父の死をきっかけにダゴベールは盗みに手を染めるが、母は盗品に手をつけようとはせず、ダゴベールは母の元を飛び出す。それが、今や世界を股にかけて活躍する大泥棒となったダゴベールを形成したところの過去なのだが、ダゴベールが標榜するところの「この世で俺に盗めぬものはない」とは、この世界において自分の思い通りにならないものはない……と信じることがどこか許されている、その意味である限られた範囲においては幸福な子供時代のアナロジーとも考え得る。かくなる幼い思考と決別し、大人になる上で人間に必要とされるものとは何か、それが、おそらくは作者の意図を越えて、安蘭の表現力が作品から浮かび上がらせたテーマである。
 人が生きるとは、それぞれがもって生まれた何らかの力を行使することに他ならない。その力を、この世界が少しでもよりよき場所となるよう行使できるかどうかは、その人間の強さ/弱さ如何である。ダゴベールが父親との過去を語る要塞の場面で「心の弱い人間だっている」と吐露するように、人間は皆、自身の力を間違った方向へと行使する弱さを内包して生きている。そして、人間の弱さとは、それに触れた他者の弱さを往々にして誘発するものでもある。この物語でいえば、自ら命を絶つという父親の弱さがダゴベールの弱さを誘発し、結果彼は盗みに手を染めることとなったのである。
 どんな人間の内にも弱さが存在することを認め、自らのそれはできるだけ克服して、自身に固有の力をよりよい形で生かせるよう導くものとは、結局のところ、他者と世界に対する想い、“愛”である。つまりは、自分に与えられた力を自分にしかできないやり方で発揮することこそ、他者を、世界を具体的に“愛する”ことに他ならない。そして、子供とは、多くの場合、他者から無条件に愛を与えられることばかり期待する存在であるのに対し、大人とは、たとえ他者や世界から自分に対して愛が注がれていないかのように思えるときでさえ、自身を、他者を、世界を愛し、他者から向けられた弱さに対しても、弱さではなく、愛で包み返すことのできる強さをもった存在である。
 しかしながら一方で、弱さを克服することこそが人の成長であるならば、人が成長し続けるためには、己の中に克服すべき弱さを認め続ける、ある意味子供のような無邪気な感受性を必要とする。真の意味で大人になるとは、心の弱さに封印を施すことでは決してないのである。

 「ヘイズ・コード」東京公演千秋楽の際に指摘したところの“無”の境地は、もはや安蘭にとっては日常である。そして、今や安蘭の舞台とは、何らかの技巧を見せるものでもない。すべての技巧は、技巧としてではなく、その役柄の内面を表現するために発揮される。自身の生の感情が役柄のそれとして、日々、舞台上に自由に解き放たれる。技巧と内面、役柄と安蘭自身、すべては自然に溶け合ってそこにある。“演じる”場においてもっとも“演じていない”という逆説が、ここに成立する。
 かくなる境地に至った安蘭の舞台を観ていると、ときに、舞台を観ているという感覚が消えてしまう。観る側の心も解き放たれ、舞台上を自由に浮遊して、役柄の心情と寄り添うような、そんな不思議な感覚に捉われる。私はときに、カリブの海辺で、要塞跡に建てられた礼拝堂で、パラスアテナ国の王宮で、安蘭扮するダゴベールの言葉を、同じ世界に生きる人間として聞いたのである。
 東京公演中のある日のことである。ひょんなことから逃避行を共にする羽目になったパラスアテナ国のプリンセス、ジェニファーとカリブの島々を転々とするうち、ダゴベールは故郷の島へと戻ってくる。そのとき彼がつぶやくセリフ、「この島だけは来たくなかった」に、私は、自分自身にとってもこの世にそのような場所が存在することを気づかされて、胸を衝かれる想いがした。あまりに懐かしく、そして、そこで生きた日々を失ってしまったことを悼むがゆえに、二度とは訪れたくないような、その一方で、どんなにか訪れたい場所。私にとってのその場所とは、新米記者時代を過ごした編集部、今はもうこの世に存在しない場所である。そこは、今はもうこの世にいない人との思い出に彩られた場所でもある。
 新卒で入社し、半年あまりで記事の執筆を任されるようになったものの、最初のうちは、今は亡き創刊編集長に、「人間が書けていない」「芸術がわかっていない」と怒鳴られ通しだった。そのときは、いきなり人間だの芸術だの言われたってわかるわけなんかないのに……と、しばしば憤慨し、混乱していた。それから十年以上文章を書き続けてきた今、その言葉の意味がふと腑に落ちて、自分の物分かりの遅さに苦笑することがある。そして、大学を出たての小娘を、何とまあ一人前の大人扱いしてくれていたことよ……と思わずにはいられない。文章を書くことを生業とする以上、その文章の中に、人間を、対象を息づかせること。それが、文筆を生業とした人間が、他者を、世界を愛する方法に他ならない、そう教えられていたのだと、今なら理解できる。

 翻って、安蘭が他者を、世界を愛する方法とは無論、その表現力をもって、役柄を舞台上に息づかせることに他ならない。
 かつて私は、「桜の森の満開の下の孤独」と題した文章で、「さくら」における安蘭の舞台について、“孤独”というキーワードをもって論じた。だが、今の安蘭に“孤独”という言葉は似合わない。孤独から愛へ。それこそが、私をしばしの間とまどわせた、安蘭けい窯変の理由である。
 初日(17日)前の舞台稽古を見学。宝塚が好き!宙組が好き!お客様が好き!のパワーで突っ走る若き宙組新主演男役、大和悠河の心意気や良し。相手役・陽月華のダンスも、とにかく“男前”でかっこいい! フェデリコ・ガルシア=ロルカの「血の婚礼」の世界を思わせる往年の名作「バレンシアの熱い花」には、舞台全体に、タイトル通り血のたぎるような熱さがもう少しほしいところ。
 舞台稽古終了後、大和さんの囲み会見。私からは二作品の見どころをお聞きしましたが、自分のことよりまずは組のことを語る大和さんに、主演男役としての意識の芽生えを感じることしきり。新生宙組の今後に期待!
 18日昼、都内で開かれた制作発表会へ。スタッフ・クリエイター陣の会見→歌唱披露→出演者会見という流れ。長年の「エロイカより愛をこめて」ファンとしては、「エル・アルコン」原作者の青池保子先生にお会いできるとあって、かなり前からそわそわわくわく。会見では、青池先生に、主人公ティリアン・パーシモンというキャラクターへの想いと、そのキャラクターを生身の役者が演じることへの期待をおうかがいしましたが、「この人の生き様を作者自身が追求したいと惚れ込んだ人物。作家としての目覚めというか、転機となった、自分にとって大変重要なキャラクター。どのくらい美しく妖しく悪く演じていただけるか楽しみです」とのこと。さらに、「お芝居も踊りも歌もお上手な方だと思います」と、ティリアンを演じる安蘭けいさんの実力についてもお墨付きあり。続いては、安蘭さん、遠野あすかさん、柚希礼音さんによる歌唱披露。タンゴ調の「レビュー・オルキス」主題歌と、「エル・アルコン」から二曲。いかにも冒険活劇にふさわしい勇壮なタッチの「エル・アルコン」と、雄大な海の世界に心いざなわれる「七つの海七つの空」、寺島民哉氏による非常に難易度の高そうな二曲が実際の舞台でどのように使われ、歌われるのか、期待大。出演者会見では、安蘭さんに、宝塚の主人公として“悪”を演じるにあたっての抱負をおうかがいしました。作・演出の齋藤吉正氏も気合十二分!という感じで意気込みを語っていたのが印象的。人生のいっとき、聴く音楽としてはアルゼンチン・タンゴしか身体が受け付けなかった時期のある人間としては、アルゼンチンからオスカル・アライス氏を振付に招聘する「レビュー・オルキス」も楽しみな限り。