藤本真由オフィシャルブログ

 2002年に公開された映画「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を観た瞬間、思った。
「これ、宝塚でやってほしい!」
 当時考えていたキャストは、トム・ハンクスが演じたFBI捜査官カール・ハンラティに紫吹淳、レオナルド・ディカプリオが扮した天才詐欺師フランク・W・アバグネイル・Jrに大和悠河。時代を遡ってよければフランク=天海祐希、ハンラティ=久世星佳もいいな…等夢想。
 やがて作品はブロードウェイ・ミュージカル化され、そして遂に、長年の夢叶って宝塚で上演されることとなった。日本語版脚本・歌詞&演出は小柳奈穂子。小柳は、ブロードウェイでこの作品を観たとき、宝塚でやりたい! と思ったという。そしてキャストは、フランクに紅ゆずる、ハンラティに七海ひろき、今の宝塚が誇る二大ワンダー激突。宙組から組替えの七海は、これが星組での最初の舞台である。
 そして、実際に舞台を観て、何故自分がこの作品を宝塚で観たいと思ったか、その理由を深く理解したのだった。

 物語は実話を基にしている。フランク・W・アバグネイル・Jrは実在の詐欺師で、1960年代、パイロットや医師、弁護士に成りすまし、世界中で小切手偽造事件を起こした人物。そんなフランクを、ハンラティ捜査官は追う。次第に両者の間に通い合う心情。最終的にフランクはつかまり、その頭脳を生かしてFBIに協力することとなる。舞台版にはなかったけれども、私が映画版で一番好きなのは、ラストである――舞台版ならではの秀逸なラストについては後ほどふれる――。FBIで働くことになったフランクだが、…その朝、姿を現さない。「騙されたか?」と内心あせるハンラティ。そこへ、フランクがひょいと顔を見せる。ほっと胸をなでおろすハンラティ。大きく表情を変えることなくこの一連の心の動きを表現するトム・ハンクスの演技がすばらしかった。
 追う者と、追われる者と。相手を深く理解することなしに、追うことはできない。そして、追われる者も、自分の天才的犯罪を唯一理解する者に、次第に心を寄せるようになる。映画版にも舞台版にもある、やはり好きなシーンは、一人ぼっちのフランクが、クリスマスの日、FBIで一人仕事をしているハンラティに電話をするくだりである。
 三島由紀夫の「黒蜥蜴」にも似た物語であると思う。しかし、アメリカのこちらは実話で、最後には追われる者が追う者と友情を築き、FBIに協力し、人生で成功を収め、自伝は映画化され、ブロードウェイ・ミュージカル化される。このアメリカンなあっけらかんさ。「黒蜥蜴」の方は実話ではないが、本当の自分をわかられてしまったら死を選ぶ妖しくも美しき犯罪者は、実際の人生で死を選んだ作者自身をどこか思わせるところがある。この違い。国民性故か、メンタリティ故か――。
 私はといえば、こうした物語の場合、それはもう自動的に“追う者”に自分を投影しがちである。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」だったらハンラティ捜査官、「黒蜥蜴」なら明智小五郎。これは、舞台評論という仕事について考えたとき、ご理解いただけると思う。ほとんど仕事は捜査官と同じである。相手の舞台を観、書いた文章やインタビュー記事があれば目を通し、その相手について深く理解したいと願って日々を生きる。相手は華やかな舞台上にいて、こちらは暗い客席にいる。
 その意味で、この物語すべてを“ショー”として描く、テレンス・マクナリーの舞台版の脚本は優れていて、だから舞台版のラストは舞台版ならではなのである。舞台版では、さまざまな人物に扮する天才詐欺師と、さまざまな人物に扮する舞台の上の役者との間にアナロジーが成立している。医師になりすまそうとしたフランクが、医師の活躍を描くテレビ・ドラマ「ベン・ケーシー」を観て勉強するエピソードなど、さらに効いてくる。演じられるもの。その“虚像”の向こうにひそむ実像。それを追う、捜査官、否、舞台評論家――。
 しかし今回、この舞台を観ていて、捜査官サイドの方にも自分をわかられたいという気持ちがあるなとしみじみと思ったのだった。自分の推理が正しいのかどうか、知りたい思い。だからこそ、どちらかというと人生、捜査官サイドの方にいると思う自分は、この物語をこんなにも愛しているのではなかったか。
 フランクとハンラティの間に通う心情は、友情である。男と男の友情。それはほとんど恋にも似ている。人と心が通い、その相手についてより深く知りたいと願う気持ちはすべて、私にとって恋なのである。そして恋は何も、男と女の間だけに成立するものではないと思う。友情が、男と男、女と女の間だけに成立するものではないのと同じに。
 たまに、嫌になるのである。男と男の間に通う友情はすばらしく、それは女には理解できないものである、そんな態度を目の当たりにしてしまうと。そのような疎外感を覚えたとき、内心むきになる。いや、女と女の友情も、男と女の友情もすばらしいですよ、と。せっかくこの世に生まれてきた者同士、男女の関係なく、友情も恋も大いに育んでいきたいものだと思うけれども。
 映画「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」は、そのように女性を疎外する作品ではなかった。人と人との間の心の通い合いを描いていた。女性が男役を演じる宝塚歌劇で上演される場合も、そこに描かれる男と男の友情は、女と女の友情をも当然内包するものとなる。
 では、男と男とがこのような物語を演じる場合、いかにして女と女の友情、男と女の友情をも内包するものとなりうるか。それについては、次項にて。
私は、小柳奈穂子がブロードウェイでこのミュージカルを観て、宝塚でやりたい! と思ったという話を知って、心からうれしかったのである。宝塚を愛する者の気持ちをわかっているなあ…と思って。勝手に深い友情を感じる。「ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−」では、芸に秀でた男役トップスターよろしく、男前に、お茶目にウィンクを決めてみせた小柳だったが、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」では、ヒロインのソロのシーンあたりの演出に、少女のような照れが感じられて、それがとてもかわいらしかった。男役性と娘役性とを兼ね備えた宝塚歌劇の座付き演出家である。

 紅ゆずる、七海ひろき、二大ワンダーの話。
 紅ゆずるの方がどちらかといえばわかりやすいワンダーかもしれない。例えば、「黒豹の如く」では、金と権力に物を言わせて人々をいたぶる男に扮していて、興が乗れば乗るほど生き生きとして見えた。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」でも、パイロットに医師に弁護士、さまざまな職業のコスプレに身を包み、その都度スチュワーデスや看護婦等々女の子たちに囲まれ、デレデレやにさがる様がキュート。見られて、快感。どこか自分に酔うような。役者向きである。
 七海ひろきの方はもっと訳がわからない。くたびれたサラリーマン・コートに身を包み、捜査官たちを引き連れて歌い踊る「Don't Break the Rules」のナンバーでも、ものすごくはじけているのだけれども、その沸点が普通とはどう考えても違うところにあるだろうという…。どうしてその温度で沸騰〜?! という感じ。そんな七海が演じた「ベルサイユのばら」のジェローデルは、これまで観てきた中で一番腑に落ちるこの役の造形だった。私にとって、ジェローデルは、まずもって変な人である。いかにも貴族的でクールな美しさをもっているのかもしれないけれども、そのすべての前に“変”が来てしまう人である。一人、空回りしている。それがどこか残念ですらある。そして、七海のどこか把握し難い変さと、ジェローデルの変さとは、それは見事に波長が合っていた。今回の舞台では、追い続けるうち、追う者に対し、どこか不思議な包容力を発揮。そして、たまにはっとする巧さを見せる。
 紅と七海、二人のワンダーが、ラスト、♪不思議、不思議…と歌っていたので、おかしくてたまらなかった。共にじっくり演技する場面が多いわけではないので、ラストで出会って、かみあっているんだかいないんだか、それもまたおかしく。しかし。私は二人をワンダー二大巨頭と考えるからこその期待がある。己のワンダーを思う存分発揮できているとき、ワンダーは強いのである。それが、二人は、どうもワンダーを発揮できなくなっているように見受けられるときがある。世間や常識にとらわれてか、ちんまり小さくおさまってしまうのはつまらない! ワンダーはあくまでワンダーを貫いてほしい。「ガイズ&ドールズ」では、紅のネイサン・デトロイトは次第に調子を上げ、14年間婚約しっぱなしで、自分はギャンブルをするわけではなくあくまで賭場を提供する人物のユニークさを出せていたと思う。ギャンブラー三人組の一人、ベニー・サウスストリートに扮した七海は、「カーネーション持ってるか?」と、賭場に行く合図のカーネーションを撫でて壱城あずさのハリー・ザ・ホースに柄悪くどやされる個所など彼女らしいおかしみが出ていたが、もっともっとやれる人だと思う。それぞれに唯一無二のワンダーを生かして、北翔海莉率いる星組を盛り上げていってほしいものである。

 それにしても。私は今回、反省したのである。ある物語に接して、瞬間的にあるタイプの役柄に自分を仮託する。その自動的な仮託をやめ、思考の幅をもっと広げていきたいものだと。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」の物語でいえば、自分の中に、ハンラティ捜査官だけでなく、フランク・W・アバグネイル・Jrもどこか存在するのだと認めること。そうすれば、もしかしたら、この世のどこかにいる、私をフランクの如く追うハンラティの存在にもまた気づくことができるのかもしれない。
 ――やっぱり、ジョージ・マイケルの声とたたずまいに似ているな…と、「ガイズ&ドールズ」で主人公スカイ・マスターソンを演じる星組新トップスター、北翔海莉の舞台を観ていて思った。厳密に言えば、ソロとなった後ではなく、ワム! 時代のジョージ・マイケル。深い声と目のあたりの感じが。北翔スカイでとりわけ心に残ったのは、まずは、「初めての恋」をデュエットする直前に銀橋で、自分の本名は“オベディア(従順)”であると妃海風扮するヒロイン・サラにうれしそうに明かすくだり。北翔の素直な個性に実にしっくり来る。その後、誤解したサラに拒まれて「俺には君がわからないよ!」と高く上ずった声で言うのだが、この声は女性が演じる男役だからこそ出せる、不思議な魅力に満ちている。今回非常に興味深く思ったのは、作品の原作となったデイモン・ラニアンの小説「ミス・サラ・ブラウンの物語」では、スカイ・マスターソンはサラとの賭けに負けて救世軍に入るのだが、その賭けすべてが恋したサラに自分を“手に入れて”もらうためのいかさまだったというオチになっている。ミュージカルの方では、スカイ自身がギャンブラーたちと魂を賭けていかさまではない勝負をするわけで、神による魂の救済がテーマになっていることは前にも述べた。その上でさらにおもしろいことには、最初のうち、スカイは、サラをハバナに連れて行けるかというネイサンとの賭けにあくまで勝つために、サラは救世軍ブロードウェイ支部で目覚ましい業績を上げるだろうだの何だの口から出まかせを言うわけである。しかし、サラへの本気の恋をきっかけに、これらの出まかせすべては真実へと変わる。つまり、口から出まかせは結果として“予言”であったということになる。嘘が誠になるといえば、劇場という場のもつ魔力の一つである。クラシックな傑作ミュージカルの深遠な魅力を知る思いだった。それにしても、最初の救世軍でのサラとのやりとりを観るだに、北翔のコメディ演技には心地よいリズムがある。オペレッタを原作とした次回星組大劇場公演「こうもり」も非常に楽しみである。
 無論、北翔の演技をさらっと受けてしまえる星組新トップ娘役、妃海風の演技もすばらしく、舞台人としてのポテンシャルを感じさせた。彼女もまた、コメディに強いところを大いにアピールした。スカイと共にハバナに行き、知らないうちに酔っぱらって見せる大暴れが爽快にキュート。前月組トップ娘役・蒼乃夕妃を彷彿とさせる、気丈で芯のある娘役である。あるとき、北翔がちょっと元気がないのかな…と思った日があったが(人間だからいろいろな日があって当たり前である)、妃海がきっちり手綱を引いて見事にやりとりを小気味よく成立させるのを目の当たりにして、おおという思い。今回観ていて気になったのは、北翔には何だかトップとしてすべてを自分で背負いこんでしまいそうな実に真面目なところがあって、そんなに自分を追い込まなくてもいいから! と言葉をかけたいくらいのときがあったのだけれども、こんなにも心強い相棒が隣に立っているのなら大丈夫!
 何だかお祭りがずっと続いていくかのようだった星組で、全員でパスを回す舞台を久々に堪能できた今回。星組出身の専科生、美城れんの活躍は、100周年後も続く宝塚にとって非常に明るい話題であろう。そして、星組の個性派も大暴れ。ということで、今回はダブルで“心のキャラ”発表。まずは、壱城あずさ扮するハリー・ザ・ホース。“山椒は小粒でもぴりりと辛い”を地で行く、すばらしい柄の悪さ。スカイとの賭けに負けて救世軍の深夜ミサに赴き、最初こそ文句を言っていたものの、最後は聖歌を歌わされる羽目に。しばし無言で周りを見ていたが、突如歌い出すというかがなり出すハリー。…え、音痴?! そんなオチの設定も見事。小柄な壱城ハリーが、大柄な十輝いりす演じる大ボケのビッグ・ジュールをなだめたり突っ込んだり、そのデコボココンビぶりもおかしい。ちなみに星組で「ガイズ&ドールズ」と発表された瞬間から、「十輝いりすにビッグ・ジュールを!」と心の中で祈っていたので、実現して大変満足である。そして今一人の“心のキャラ”は、ガレージを貸すか貸さないかでネイサン・デトロイトに千ドルふっかけるジョーイ・ビルトモア役の十碧れいや。花道で電話の芝居をするのだが、実に骨太で男らしい、大人の魅力が出せる男役である。
 アデレイドを演じた礼真琴は、非常に芸達者ではあるものの、それが内なる芝居心と結びついているのかどうか以前から気になっていたのだが、今回の舞台でしっかりコツをつかんだようである。最初のうちこそ、14年間結婚を待たされているという役柄の設定の割には若さばかりが前面に出ているように感じられたが、演技が進化し、アデレイドの若くはないかわいさを魅力的に出せるようになった。ネイサンと14年も婚約しているアデレイドは、結婚していないのにすでに古女房のようなやりとりをフィアンセと交わすところがおかしいのである。「持ってけミンク」のナンバーにもいささかの哀愁がにじむようになり、舞台人としての成長を感じさせた。
 ネイサン・デトロイトを演じた紅ゆずると、ベニー・サウスストリートを演じた七海ひろきは、先の公演「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」について記すときにふれたい。壮一帆に緒月遠麻といったワンダーたちが退団した後、この両者こそ、今の宝塚が誇るワンダー二大巨頭である。

 今日という日に宝塚歌劇を去る、一人の大切な星組生について。
 毬乃ゆいは学年で言えば壮一帆と同じ82期生、ベテラン娘役である。星組一筋に舞台を支えてきた。娘役としての品は決して失わないながらも、ちょっと崩れた色気が魅力で、例えば全国ツアー公演「ネオ・ダンディズム!V」のラインダンスなど、ドキドキして観ていたのを思い出す。
 私にとって、安蘭けい時代の星組の記憶は非常に大事な思い出である。そして、今回の「ガイズ&ドールズ」の舞台を観ていて、毬乃ゆいもまた、私にとって大切なその記憶を大切に心に抱いていたことを知った。――うれしかった。その大切な記憶を誰かに否定されるくらいなら、自分一人で後生大事に心の中に抱えて誰にも見せずに生きていこうとさえ思っていたから、分かち合える人のいることが本当にうれしかった。そして、彼女の存在に自分がとても甘えていたことを知った。何だかずっといてくれるように思っていた。そして、彼女がいるうちは、私の大切な記憶は星組にちゃんと結び付けられていたのだ。
 ――今回、何だかとても懐かしかったのである。万里柚美がいて、美稀千種がいて、美城れんがいて、そして毬乃ゆいがいて、退団してしまってにしき愛がいないことは残念だけれども。そうやって、星組の伝統を支え続ける人々がいて、新たに北翔海莉が真ん中にいる。宝塚の歴史は何もトップスターだけが紡いでいくのではないことを、改めて深く心に感じた。
 そして、歌、踊り、演技、毬乃ゆいの最後の舞台はとてもよかったのである。彼女の舞台を落ち着いて堪能できたことが本当にうれしい。救世軍のアガタはちょっととぼけた風合いがかわいらしく、妃海のサラのしっかりきびきびしたところと好対照を成していて、アガタをはじめ救世軍の人々がサラをリーダーとして慕っている感じがよく見て取れた。フィナーレで髪をアップにし、踊る姿は颯爽とりりしかった。――自分の甘えに気づかされた瞬間だった。そして、エトワール。大階段の真ん中で、毬乃ゆいは、満面の幸せな微笑みを浮かべ、宝塚を通して出会い、大好きになった人々への思いを絶唱していた。――泣いた。とても美しい姿だった。
 大切な記憶を分かち合ってくれて、それを新生星組に伝えてくれて、本当にありがとう。これからの人生に心から幸せを祈って――。
 北翔海莉の遅いトップ就任を報じる記事がネットに出ていた。遅い就任の例としてだいたい引き合いに出されるのは、大空祐飛と壮一帆である。北翔の就任は、17年4か月の史上最高学年記録をもつ大空に次ぐ遅さ。ちなみに、北翔は84期生だが、彼女の前任で6年間トップを務めた柚希礼音は85期、北翔と同期でトップになった音月桂は雪組の二代前のトップである。
 ――私はその記事を、本当に不思議な思いで眺めていた。自分の中では何だか、北翔はだいぶ前にトップに就任し、任期を務め上げ、今ではミュージカル界で活躍しているような、そんな気さえしていた。ここ数年の彼女の舞台を観ているにもかかわらず。
「…北翔海莉はもう、トップにはならないのかもしれない…」
 2012年に彼女の専科入りが発表されたとき、そんな思いを抱いた人は少なくなかったと思う。そして、そうあきらめることで、自分は内心とても傷ついていたのだと、その記事を眺めたとき初めて気づいた。ありえもしないパラレル・ワールドを夢想するほどに。もちろん、私が傷ついたことなど、彼女がその後味わってきたであろうさまざまな思いに比べれば、何の意味もないことではあるのだけれども。
 専科入りが発表されるまで、私は彼女のトップ就任を疑ったことはなかった。しかしながら、このような状態でトップになって欲しくないと思うような時期もあった。芸とは、それを振りかざして人を傷つけるためにあるのではない。人を愛し、包み込むためにあるものだ。――私には何だか、人が変わってしまったように思えた。入団2年目で「ノバ・ボサ・ノバ」の出世役ドア・ボーイに抜擢されたときの、純朴な笑顔を浮かべた姿はいったいどこに行ってしまったのだろうと思った。彼女を変えた何かを、私はほとんど憎んだ。自分が彼女について書いた文章にも何らかの責任があるのでないかと思って、自分自身をも憎んだ――。
 彼女は専科に行き、組という決まった場所がない中で、同期トップや下級生トップの下で公演に出た。――胸が痛んだ。その胸の痛みを、…自分が知っていた彼女とは別人になってしまったのだから…と思うことでやり過ごそうとした。その一方で、彼女ならばもっとやれるのに…という思いで歯がゆくもあった。「ルパン−ARSÈNE LUPIN−」のモーリス・ルブラン役は、今にして振り返ってみれば、壮一帆にとっての「ファントム」のキャリエールのように演じられたとも思う。作・演出の正塚晴彦は、原作者ルブランと彼が生み出した分身ルパンを描くことを通じて、宝塚の座付き作者である自分自身と、自分が宝塚の男役という存在をインスピレーションとして生み出してきたキャラクターとを振り返っていた。ルブランは、劇作家の魂が仮託された役だった。それを、どこか道化風に演じた。私は本当に腹が立っていた。正塚がその役にこめた思いを美しく昇華させて欲しかったし、そう演じることは何より彼女自身への冒涜でもあると思った。正塚自身は、その後、この舞台のスピンオフ作品「THE KINGDOM」で、かつての傑作「バロンの末裔」のこうもあり得べき姿を描いていたので――あの話、今だったらこうも書けるな…というのはほとんど、晩年のシェイクスピアとも似た姿勢である――、「ルパン」を書いたことで魂が救われたのだなと、胸をなでおろしたのだけれども。
 風向きが大きく変わったのは、昨年秋の花組公演「エリザベート」でフランツ・ヨーゼフを演じたときである。すばらしい舞台だった。愛にあふれていた。専科に行ってからのさまざまな経験が、彼女を大きく変えていた。そして、…トップになるんだ! と思った。茫然とした。一度はあきらめていた夢が、不死鳥の如く鮮やかに甦るその瞬間。夢想のパラレル・ワールドがその幕を閉じて、現実が新たな幕を開ける瞬間。

 トッププレお披露目となったのは、「大海賊」「Amour それは…」の全国ツアー公演。「大海賊」は、かつての月組トップスター紫吹淳の、東京宝塚劇場のみで上演されたトップお披露目作品で、耳について離れない「♪海賊たちは冒険が好きさ」のフレーズの他、音楽の印象が強い。ロマンチック・レビュー「Amour それは…」では、北翔が客席降りして三曲続けざまに歌うシーンがあり、私は、大宮ソニックシティ大ホールの二階席で、彼女が浦和から来た男性客に向かって「Mr. Lonely」を切々と歌いかけるのを大笑いしながら観ていた。…そのときちょっと思ったことを言ってしまえば、二階席、三階席を巻き込んでこそ、壮一帆&四代目市川猿之助の域なのだけれども。それから、黒燕尾服のダンス・シーンがあった。星組新トップスター北翔海莉の黒燕尾服は、私に、壮一帆のそれの透き通るような美しさを思い出させた――。

 そして、お披露目公演「ガイズ&ドールズ」。
 これまた、紫吹淳の宝塚大劇場トップお披露目作品で、北翔自身もかつてラスティ・チャーリー役で出演している。8月の終わり、宝塚大劇場でまずは観た。
 作品を強力に牽引するのは、主人公スカイ・マスターソンを演じる北翔と、彼女の同期で専科から出演、ナイスリー・ナイスリー・ジョンソンを演じる美城れん、84期の芸達者の二人である。2005年&2006年にウエストエンドでこの作品を観た際(スカイ役はまずはユアン・マクレガーで観たが、次いで観た、スカイ=アダム・クーパー、ネイサン・デトロイト=パトリック・スウェイジのコンビの印象が強い)、まず印象深かったのは、おじさんギャンブラーたちによる男声コーラスの力強さ、そして、ナイスリー・ナイスリーがおデブさん! ということだったのだが、美城ナイスリーは全身おデブさんの着ぐるみをまとい、軽やかに跳ね、歌い、踊る。その鮮やかで、ほっこりと気のいい個性。北翔と美城がリードを務め、星組生が一丸となって歌う「座れ船が揺れる」は圧巻である。…何だか、安蘭けい時代の星組を思い出した。ただ、星組生はもっともっと、個性を発揮して暴れていい。ちょっとやそっとじゃ舞台人・北翔海莉はびくともしないから、大丈夫!
 私自身としては、紫吹淳演じるスカイのちょっとしたセリフの言い方やコーヒーの飲み方まで記憶が甦ってくるところがある。そして、かつて紫吹のもと月組にいた北翔も、帽子のつばのなぞり方等、踏襲しているところもあるのだけれども、二人の異なる個性が見えて、それが大変興味深い。紫吹淳という男役は、なぜあんなにも私にとって思いを仮託しやすい存在だったのだろう…と思う。勝手に仮託していた部分も多いと思う。そうすることで、かつての私は大いに救われていた。客席の勝手な仮託を受け止めていてくれたんだろうな…と思う。思って本当に感謝している。
 ギャンブラーと救世軍の女性の恋。“神による魂の救済”というもともとのテーマが、今回の星組版ではよりはっきりと打ち出されているように思う。同じフランク・レッサー作曲のブロードウェイ・ミュージカルでは、やはり宝塚でも上演されている「ハウ・トゥー・サクシード」も、「♪この本があれば」と歌われるその“本”が実は聖書のパロディであることを考えると、非常に興味深い。
 ――私自身、神に怒られたときのことを思い出す。聖書をきちんと読まずして、リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」を論じようとしたとき。後に親友になった人物と大喧嘩して、…私がそんなことをしていたら、相手が何を悩み苦しんでいるかは絶対にわからない…と、それは猛烈に怒られたこともある。
 罪人はびこるブロードウェイを改革しようとして、ときに斧でぶった切りたい…とまで過激なことを口にする救世軍の女軍曹サラ・ブラウン(このあたりのセリフは、ブロードウェイの劇場で上演されたとき、客席の大きな笑いを呼んだことだろう)。彼女の悩みは、自分の説く聖書の教えが人々の心に届いていないことである。同じことを言うのでも、人に届くかどうかは、言っている人間自身の生きる姿勢が問われる。今回、星組新トップ娘役、妃海風のサラがとてもいいと思うのは、サラ自身が人間としての弱さをちゃんと抱えていて、ギャンブラー、スカイとの出会いによって、スカイだけではなく彼女自身もまた変わっていくのだということを確かに感じさせるからである。そうして互いに変化し、よりよき存在になっていくことこそ、恋の醍醐味であろうと思う。
 ――私自身、劇中のスカイのように、大きな賭けに打って出たことも何度かある。この言葉は、はたして相手の心に届くのだろうか――。悩み抜いた果てに、書く。届いたかどうかわかるまで、それはもう、心臓がつぶれそうになる思いなのを、何でもないふりを装っている。

 どのスターがトップになる瞬間も、それは本当にうれしいものである。けれども、それぞれの歩んできた道が異なるからこそ、それぞれの就任が与える喜びも異なる。私は何も、北翔海莉がトップという地位にたどり着いたというだけでこんなにもうれしいわけではない。彼女が、芸も人間性も秀でた存在となった今、トップになったことが、そして、そんな彼女が真ん中に立ち、星組の仲間たちと心を合わせた舞台を観られることがうれしいのである。
 正直、北翔海莉が、こんなにもせつない恋心を表現できる男役トップスターになるとは思いもしなかった。それは、パラレル・ワールドを越えた果ての現実の、本当にうれしい新たなる一幕である。
 私はかつて、「もう“みっちゃん”とは呼ばない」と書いた。けれども今、一周して、改めてその名前で呼びかけたい気持ちでいっぱいである。
 みっちゃん、北翔号の大海原への出航、心からおめでとう。
 「星逢一夜」は、主人公たちの子供時代の情景から始まり、子供時代の回想シーンで終わる。これはいったい、誰が語っている物語なのだろう…と考えていて、あるときはっとした。物語終幕において、九州・三日月藩藩主にして将軍吉宗の老中である主人公・天野晴興(早霧せいな)は、幼なじみたちが起こした一揆の責任を取り、自らが陸奥に流されることを受け入れる。その遠い地には、親しんだ者も、愛する者も、誰一人近くにいない。…永蟄居となった男は、子供時代の思い出を、自分が今の境遇に至るまでを、たった一人、繰り返し、繰り返し、心の中に思い起こす。彼を支えるのは、その美しい思い出、永遠に失われてしまった、無垢な子供時代の思い出ばかりである。
 それが、「星逢一夜」という物語なのだった。子供時代のイノセンスの喪失。
 唐突ながら、ここで自分の話をすると。…父が亡くなったとき、それは不思議な体験のいくつかがあった。そのことを書こうかどうしようか、ずっと考えていて、そしてそれを書かなければ例えば今年の蜷川幸雄演出「ハムレット」についてもきちんと書くことはできないのではないかと思うものでもあるのだけれども…。「星逢一夜」の関連で、一つだけ書いておくことにすれば。…私は、父が亡くなったとき、父とある意味一つになったというか、父という人間の意識のうち、私にとってとりわけ必要な一部と私自身とが一つになったような、それは不思議な感覚があったのである。生前話すことはなかったのに、父が私に関して考えていたことや、父の記憶などがすっと私の意識の内に入ってきた。とりわけ印象的だったのは、亡くなった晩、夢か現か、…幼い日、父が恐らくは疎開先で、姉と兄と三人、野山をかけめぐって遊んでいる情景を見たことだった。その情景を見たことで、私は、父の魂は、養子に出た先の跡取りとしてではなく、自分が生まれ育った家の人間に戻ることを望んで天に帰っていったのだと思った。次男として気ままに生きていたのに、唐突に跡取りになって苦労する。晴興にしても父にしても、昔はきっとそんな人間が多かったのだと思う。そして、それが内心どんなにつらいことであるか、口にはなかなか出せなかったのだとも。
それにしても不思議である。亡くなった晩に見た情景の中で父の着ているのと、子供時代の晴興が着ているのと、二つの着物の柄はどうして同じなのだろう…。ちなみに私の父が疎開していたのは、三日月藩の隣、熊本である。

 話は変わって「La Esmeralda」。
 作・演出を手がけた齋藤吉正の2012年作品「Misty Station」を録画してあったのを、あるとき観ていた。…止まらなくなった。一週間くらい、夜な夜なリピート。
「…どうしてこの作品、もっと生で観なかったんだろう〜!」
 それくらい、齋藤吉正作品は中毒性があるのである。そのことがあってから、私は、正しい吉正作品は気の済むまで観なくてはならないと心に決めた。
そして、「La Esmeralda」を、人の邪魔にならない二階の一番端の席で、手拍子し、拍手し、隣(は夫である)に聞こえない程度に口ずさみ、頭と身体を揺らし、心身で堪能していた。その姿を見た人からは「百年の恋も覚めるわ!」と言われそうなほど。そうして満喫しながら、…この作品を創った人間はある種の狂気にある、そう思った。この音と色と光の洪水を、自分の内に抱く人間。そしてその狂気こそが、観る者を熱狂させる。…それと同時に、私は、この作品を創った人間がとても好きだ、そう思った。この世に二人といない人。
 齋藤吉正は伝説的作品「BLUE・MOON・BLUE」で大劇場デビューを飾った。私のように熱狂的に受け入れた人間もいれば、受け入れなかった人間もいた。今をときめく花組トップスター明日海りお、そして雪組二番手望海風斗が宝塚に入ったのも、「BLUE・MOON・BLUE」という作品の存在が大きかったから――と書けば、作品の与えた影響力がおわかりいただけると思う。しかし、一部に受け入れられなかったことは、作り手の心に傷を残した。その傷というか傷痕というかにふれるたび、私は、あの作品に熱狂した人間として、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。悔しくてたまらない。観客を幸せにした、その一方で、なぜ傷つかなくてはならなかったのか――。無論、受け入れなかった人々を責めるわけでは決してない。万事、万人受けはありえない。けれども私は、作品を愛する人間の一人として、大きな責任を感じる。
 野暮を承知で「La Esmelada」の流れを記すと。海賊紳士と淑女たちが大海原に出帆した後、ビゼーの「カルメン」の曲が流れる闘牛場、チェッカーフラッグ翻るサーキット、1920年代のパリのクラブ、スペインのサン・ホセの火祭り等の場面が息つく間もなく展開。そして海賊たちは激しい嵐の中シーレーンとリヴァイアタンに翻弄されるも、やがてエメラルドの海を再び颯爽と翔けてゆく――愛の風を受けたこの大海原への航海において、歌詞に“帆”の一語が登場しないのは、帆が風を受けているのは当然の前提だからである――。
 そしてフィナーレでは、「BLUE・MOON・BLUE」を愛する人々への贈り物もある。雪組娘役陣を率いて大階段、望海風斗が歌い出すのは、「悲しき願い」。「BLUE・MOON・BLUE」でもフィナーレで、月組トップスター真琴つばさが男役陣を率いて歌い踊ったナンバーである。決して過去の名場面のノスタルジックな再現ではない。今回は望海が歌い出し、早霧が歌い継ぎ、二人和し、男役陣と娘役陣とが激しく入り乱れて踊る熱狂。
 火祭りの中詰、「You’re My Everything」(ディスコ・グループ「サンタ・エスメラルダ」のカヴァーの「悲しき願い」のB面曲というのが何ともしゃれているではないか)のせつないメロディが流れてくると、…熱い、暑苦しい叫びが、何だか聞こえてくるような気がする。
「みんなが去っていったって、お前には俺がいるじゃないか!!!」
(ちなみに齋藤作品には「俺/お前」呼びが多い。これまた雪組公演で、「♪俺とお前の合言葉/ロイヤル・ストレート・フラッシュ」等)
 ここはやはり、熱く、暑苦しく叫び返したい。
「世間があれこれ言ったって、お前には俺がいるじゃないか!!!」
 そうだ。タカラジェンヌはやめていっても、演出家は残る。齋藤吉正がいなかったら、「BLUE・MOON・BLUE」がなかったら、こんなにも宝塚歌劇を愛していなかったかもしれない。私の夫など、「BLUE・MOON・BLUE」を宝塚大劇場に観に行った帰り、興奮のあまり、花のみちの小林一三像に向かい、「宝塚を作ってくれて、一三、ありがとう!」と叫んだものである(「俺/お前」呼びにも似た…)。
 サーキットのシーンで、レースクイーンがチェッカーフラッグを振る。その一人、「勝利の女神が微笑む」と歌う桃花ひなの振りようが、…こんな風に振られたら、俺(あひるである)ももっと頑張れるかもしれない! と、人生のゴールに一目散に飛び込んでいきたくなるようにキュートでコケティッシュでふくふくとした娘役ならではの魅力に満ちていて、…私自身もそんな風に、チェッカーフラッグを振っていたいと思うのである。齋藤吉正だけでなく、傷つきやすいすべてのクリエイターたちのため。
 それにしても。この一ヶ月あまり、吉正ワールドに耽溺していたところ、…私自身の観方にも変容が訪れた。言葉の、思考の、意味を求めがちの人間である。歌を聴けば歌詞に引きずられる。しかし。「♪サン・ホセが歌い/お前が歌う/サン・ホセが踊り/お前が踊る」(というフレーズがもはや頭から離れない〜)――。ここに意味はもはや無意味である。必要なのは勢い、スピードをかきたてる言葉である。意味なるものは、勢いにのり、音の流れに身も心も委ねて疾走していった先に現れる。その際重要になってくるのが、音楽を素晴らしく自分の身体のうちに流し、体現するダンシング・スターである。今回の公演においては、沙月愛奈と笙乃茅桜、二人の娘役の活躍がめざましい。手も足もどこまでもびよーんと伸びていくような、沙月の小気味よさ。しとやかに正確無比に細かなステップを刻む、笙乃のしなやかさ。二人を中心に目を凝らし、言葉や意味を探って聴くのではなく、音楽を観ることに没頭したことで、Kバレエ「カルメン」を観ていても、以前より音楽の流れそのものに集中できるようになった自分を感じた。

 宝塚歌劇ならではの素敵な二作品を最後に、5人の雪組生が卒業する。
 齋藤吉正作品の魅力の一つに、娘役の活躍の場が豊富ということが挙げられる。今回、1920年代のパリのクラブにタイムスリップするシーンで、娘役・透水さらさが扮するのは、“黒いヴィーナス”ことジョセフィン・ベーカー。実在のベーカーと比べると肌の露出は控えめだが、史実通り、ちゃんと腰周りには多数のバナナをぶらさげている。透水はふっくらとした丸顔がチャーミングながら、その豊満さとギャップさえ感じさせるキレのいい踊りが武器の娘役である。そんな彼女の魅力が存分に活かされている。私は齋藤作品を観ると、「わがこころ環の如くめぐりては君をおもひし初めに帰る」という川田順の短歌を思い出すほど、宝塚歌劇を初めて好きになったときの感動を再び味わうことが多いのだけれども、今回、透水が、フィナーレの幕開けで、スタンダード・ナンバー「コメ・プリマ(初めてのように)」を、ここではいかにも正統派娘役のかわいらしさを放ちつつ、彩凪翔とデュエットしていたことに感慨を覚えた。「星逢一夜」でも、愛らしい声を聴かせる子供時代と、大人となって夫を一揆で失ってからの激しさと、一人の女性のさまざまな面を表現。ショーのエトワールでは堂々の有終の美の歌唱である。「Shall weダンス?」ではピリリとスパイスの効いた日替わりアドリブで客席を湧かせた芸達者の退団を惜しむ。
 此花いの莉は、昨年の全国ツアー公演「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」で、コラニー文化ホール(山梨県立県民文化ホール)の20列以降の後列まで思いを飛ばす歌唱を聴かせたことが心に深く残っている。「La Esmeralda」では、シーレーンの歌手として、パンチの効いた歌唱を披露。「星逢一夜」では、将軍吉宗に命じられ、主人公・晴興が享保の改革に取り組んだ結果、日本中を不況が襲ったことを、江戸城近くの橋の下の夜鷹の場面で表現しているところに作劇の妙があるのだが、色気と演技力を誇る雪組娘役陣の一員として、場面をきっちり支えている。
 この場面において、やはり夜鷹役であだっぽさを見せるのが雛月乙葉。雛月は、5〜6月の「アル・カポネ」で20年代のフラッパー・ガールを演じていて、いかにもモダン・ガールといった断髪姿が実に粋。ピシャリとアドリブを飛ばす姿がまた粋だった。そんな彼女の粋な断髪姿が、「La Esmeralda」の1920年代のパリの場面で再び観られて、眼福至極。ショーの他の場面でもかつらのセンスのよさに見惚れた。姐御っぽい色気の持ち主もここに卒業である。
 私は、退団者がどの場面にどの役で出ているかあらかじめ調べておくことはなく、肉眼で観て芸がはっきりわかった限りにおいてこうして退団の日に文章を書いているのだけれども、その意味でも、齋藤吉正のタカラジェンヌ一人一人への愛の深さに脱帽するというのは、今回の「La Esmeralda」において、男役・悠斗イリヤの芸をしっかりと認識することができたからである。1920年代のパリの場面では、ヘミングウェイやピカソと並び、作曲家コール・ポーター(!)役で登場。味のある小芝居と歌で魅せる。中詰でも此花と共に美声を朗々と披露してくれた。
 花瑛ちほは、…今やめなくてはいけなかったのか! という思いでいっぱいである。彼女は少々規格外の娘役である。美形なのにドスが効いている。力をつけて、その規格外な部分をも娘役像の中に取り込んでいって、いつか、一癖も二癖も三癖もある女役を怪演する日を楽しみにしていたのだけれども…。「La Esmeralda」では、レースクイーンの一人として、人気者ホープを追って銀橋を渡る場面、「1、2、…何よ私あの人から遠いじゃない!」とばかりに不満げな小芝居を披露する姿に、…君は女・天真みちるか! (いや、天真みちるも女ですが)と突っ込みたくなった。卒業を惜しむ。
 この日曜まで、東京の宝塚のショー好き人間にとっては夢のような半月だった。東京宝塚劇場では雪組が、齋藤吉正のエキサイティングショー「La Esmeralda」を上演。さらに、歩いて十分ほどの東京国際フォーラムホールCでは、梅田芸術劇場誕生10周年を記念し、元トップスター5人を含めた豪華出演陣による「Super Gift!」(構成・演出:三木章雄)が上演されていたからだ。「Super Gift!」は今週末から大阪公演が始まるが、「この人から目が離せない!」というショーにおける求心力がいかなるものなのか、宝塚の現役生も大いに学んでほしい。それくらい、内容の濃い舞台だった。その中から、まずは、稽古場取材のときから心をわしづかみにされた人物について。
 稽古場で剣幸は、かつて月組トップスター時代に日本初演し、異例の一年間のロングランを記録した「ミー・アンド・マイ・ガール」より「街灯によりかかって」を披露した。稽古着姿で、扮装しているわけでもメイクしているわけでもない。それでも、…泣いてしまった。自分の前から姿を消してしまった恋人サリーを待ちながら、ビルは街灯によりかかって彼女への思いを歌う。剣はこのナンバーを、アイデンティティ・クライシスの曲として歌うのだった…。ビルは、ロンドンの下町で育ちながら、実は貴族の落胤であることがわかり、伯爵家に迎えられ、言葉遣いを含めた跡取り教育を施される。この教育こそが、ビルにとってアイデンティティ・クライシスをもたらす。自分はもはや、これまで育ち、生きてきた下町の連中と同じ階級には属さない。かといって、貴族階級にすんなり属せるかというと、そうは問屋が卸さない。自分とは一体、何者なのか――。ここに、「ミー・アンド・マイ・ガール」とは、アイデンティティの揺らぎを扱う作品となる。剣のこの歌を聞いた後、ディケンズの研究家である小池滋の著作「英国流立身出世と教育」を読み、教育によって階級差を超えようとしたイギリスの青少年が、その結果、どこにも属さない、属せないという苦しみにいかに悩むこととなったか、そしてその事実をイギリス文学がいかに扱ってきたかについて知ったのだが、この苦悩はビルともまた共通するものである。ビルにとって唯一、自分が何者であるか教えてくれるのは、“マイ・ガール”こと愛するサリーの存在である。何より自分は、彼女を愛し、彼女によって愛される存在である。ビルにとって、サリーを失うことはすなわち、自分自身をも失うことに他ならない。この後、サリーに会えなくなってしまったビルが、伯爵家を去ろうとするのもむべなるかな。
 単に、好きな子がいなくなってさみしい以上のものを、剣の歌唱は伝えるのである。その姿に、思う。自分が何者かを教えてくれる相手こそを、人は“愛する”ものではないかと。
 本番の舞台では、一幕の後半が「ミー・アンド・マイ・ガール」コーナーになっていて、「街灯によりかかって」を含めた作品のナンバーが歌われる。そして、楽しい「ランベス・ウォーク」へと続くくだり。伯爵家ではビルをお披露目するパーティが開かれ、居並ぶ人々を前にビルは一応は気取ってお辞儀をするが、しゃれたジャケットを脱ぎ捨て、「♪違うよ生き方が」と歌い出す。このとき、剣のビルは、ジャケットと共に、“貴族の御曹司”という演技をもはっきりと脱ぎ捨てる。…「それらしい“演技”さえできていれば、貴族ってことで通るのか?」…! それはすなわち、作品のラストで、貴族の落胤でも何でもない下町娘のサリーが、「マイ・フェア・レディ」よろしく言葉遣いと振る舞いを直し、貴婦人として迎えられるというハッピー・エンドに秘められた“階級”なるものへの大いなる皮肉にも通じる。今回の「Super Gift!」には剣と名コンビを組んでいたこだま愛も出演、サリー役として思いのこもった歌唱を披露しただけでなく、やはり“演じること”がキーワードである「スカーレット ピンパーネル」から「あなたを見つめると」のすばらしい歌を聴かせてくれたのだが、…この二人の「スカーレット ピンパーネル」はさぞや楽しませてくれるだろうな…と思わずにはいられなかった。宝塚OG「シカゴ」に続く第二弾として如何でしょう。
 そして、日本物の情感。剣は二幕冒頭では一転、退団公演「川霧の橋」の曲を歌ったが、これも、心に秘めて決して口には出せない、その思いを切々と綴ってゆくのである。そうして長い独白としてその曲を歌い終わって、思いを寄せる相手にやっと言えるのは「もうどこへも行くな」の一言だけである。そのせつなさ。
 芸と人間性に優れた人物がトップに立つとき、宝塚の舞台はもっとも安定する。そんな確信をさらに裏付けるような、今回の舞台だった。最上級生として座長を務める剣が、下級生の芸にもきちんと敬意を払いつつ、あくなき探究心でどこまでも芸を追求していくから、キャスト全員もどこまでも上を目指していける。だからこそ今回の「Super Gift!」は、単なるノスタルジアを超えて、実に見応えがあった。正直、「今一番気になる男役は?」と問われたら、「剣幸」と答えてしまうだろう。退団してから女優としてさまざまなキャリアを積んできた、その経験によってさらに彼女の男役芸が広がっていることは言を俟たないけれども、それでも、退団してもう四半世紀も経つ人物がさらに上を目指す姿に、男役芸の無限の可能性を見出した。現役生のさらなる発奮を期待したい。
 もちろん、男役としてだけでなく、女優としても大いに気になる存在である。濃厚な男役から一転、ドレスをまとって出てきて歌えば美しい女性である。今年の夏の「エリザベート」ゾフィー役でも、剣はすばらしい演技を見せていた。ゾフィーとルドヴィカの姉妹は、それぞれの子供、フランツ・ヨーゼフとヘレネを結婚させようと画策するが、フランツが選んだのはヘレネではなく、妹エリザベートの方だった。…どっちにしても自分の娘だから、まっ、いいかと“テヘッ”の表情を見せる未来優希のルドヴィカに対し、剣ゾフィーは「(姉妹のうち)まずい方だわ!」と突っ込む。その突っ込みようが鮮やかなほどにシャープで、そこに、姉妹ならではの気心をの知れようを感じさせた。そして、“姉妹のうちまずい方”というのは恐らく、ゾフィーとルドヴィカ姉妹にもずっと当てはまってきた言い方だったのだということに思い至る。“姉妹のうちまずい方”の産んだ“姉妹のうちまずい方”。血縁関係にあるからこそよけいにエリザベートの振る舞いが許せない。そんなことを感じさせる剣のゾフィーだった。
 今回、この作品を“宝塚”の項に分類したのは、読んでいただいたらおわかりのように、宝塚歌劇について大いに学ぶことがあったからだが、具体的には、杜けあきの歌唱に触発されたところなので、その話についてはまた詳しく。関西方面の皆々様は、3日からの梅田芸術劇場公演をお見逃しなきよう。
 ――「七夕の願い事が叶った!」と、喜ぶ人がいた。
 「まゆちゃんは何をお願いしたの?」と、幸せそうなその顔を見て、私は、願いが一つ叶ったと思った。何故なら、今年短冊に書いた願い事は、「皆が幸せになりますように」だったから。
 ――星逢、七夕の夜のドラマティックな再会が描かれる雪組公演「星逢一夜」を観て、心に思い浮かべたのはそんなやりとりだった。
 宝塚歌劇団期待の若手、上田久美子の大劇場デビュー作である。2013年、作・演出デビューを果たした「月雲の皇子」が好評を博し、当初は宝塚バウホール公演のみだったのが急遽東京公演が決定。ブラームスとシューマン夫妻を描いた昨年の「翼ある人々」は第18回鶴屋南北賞の最終選考に残った。そして三作目がこの「星逢一夜」。宝塚大劇場公演の評判も高く、東京へとやって来たが、宝塚歌劇の正統を行く、骨太さと繊細さとを兼ね備えた作劇が光る。ヴィジュアルの美しさ、舞台機構の活かし方も見事なもの。「翼ある人々」もそうだったが、何より、「…宝塚歌劇を好きでよかった…」としみじみ感じさせる作品世界が素晴らしい。周囲からの期待に押し潰されて摩耗することなく、伸びやかに力を発揮していって欲しい人である。
 ラテン・ショー「La Esmeralda」の作・演出は齋藤吉正。そして今作は、きわめて正しい齋藤吉正ワールドである。戦隊ものヒーロー作品のエキサイティングなオープニングが最後までハイテンションで続いていくようで、体感時間が世にも短い。彼の衝撃的&伝説的大劇場デビュー作「BLUE・MOON・BLUE」にも通じる、音楽の眩惑。「夏はまだまだ終わっちゃいないぜ!」とでも言うような、熱い熱いショー。齋藤吉正が元気に己を貫いて突っ走っていったときにしか生まれ得ない世界は、観る者をも元気にする。そしてやはり、思うのである。「宝塚歌劇を好きでよかった!」と。
 どちらの作品においても極めて高いレベルの舞台を展開していることに、雪組生は誇りをもっていい。これぞ、本道たる二本立て、私の愛する宝塚歌劇である。
 オペラ「アイーダ」をもとにした「王家に捧ぐ歌」の初演は2003年である。この12年間の宝塚歌劇団の成熟を鑑みるに、「♪エジプトは強い/強くてすごい/スゴツヨ/スゴツヨ」(という歌があるのである…)のままでよかったのか、疑問なしとしない。キャラクターそれぞれに特定の旋律が流れる、オペラのライトモティーフ的手法で作曲された甲斐正人の音楽は依然魅力を放っており、宙組子によるコーラスの厚みも力強さを与えていたのだが…。初演のラダメスは、万物の上に大きな翼をぱっと広げるような包容力の持ち主、元星組トップスター湖月わたるに宛てて書かれた役である。一方、湖月と同じくこの作品でトップお披露目となった朝夏まなとは、湖月とはまた異なるタイプの包容力の持ち主である。四代目市川猿之助は、「ここですね!」と、その本人にさえ気づいていないような心の小さな穴を探り当てて手当てし、そこから何かが流れ出してゆくのをさっと塞いでしまう、非常に繊細な包容力の持ち主なのであるが、湖月と四代目とを直線上に並べてみたとするならば、朝夏はどちらかというと四代目側に近いタイプである。そして朝夏は、自分の持ち味においてラダメスを造形することに成功し、立派なトップお披露目を果たした。前々から、自分の理想とする宝塚歌劇観をしっかりと持ち、それを観客に見せることを喜びとしてきた男役スターである。プレお披露目作品「TOP HAT」でも、宝塚の男役を必ずしも素敵に見せるとは限らないタップダンスに挑戦、ロマンティックな恋の主人公を演じて成功を収めており、このときのフィナーレで、「宝塚歌劇を愛する観客を、私が守ります!」と宣言するかのように歌い踊ったとき、その姿が一段と大きく見えた瞬間があったのが実に印象的だった。彼女の繊細な魅力が存分に活かされるよう、今後の演目に期待したい。
 アムネリス役の伶美うららの演技がとてもよかった。歌は苦戦していたが、それを補って余りある、深く共感できるアムネリスだった。伶美のアムネリスは、“父の娘”である。ファラオの娘と生まれたからには、ファラオを継ぐ勇者と結ばれ、国を守り続ける責務がある。もしかしたらその脳裏には、自分が男であったなら、ファラオとなったのに…という思いが常にあったのかもしれない。ファラオがアイーダの兄弟によって暗殺され、ラダメスが裏切り者とされたとき、アムネリスは混乱を鎮めるため自らがファラオを継ぐことを宣言し、ここで敢然と“男”となる。伶美は娘役だが、…この人が男役だったら、どうだったろう…と感じさせるボーイッシュな魅力を持っており、実際「銀河英雄伝説」では少年役にも挑戦している。その彼女の魅力が、女でありながら“男”となるその瞬間に、激しい火花の如くきらめくのである。それでも彼女の心の内には、女としてラダメスに寄せる恋心の火がくすぶっており、ラダメスを何とか生かす道はないかと苦悩する。そして、平和を守ってゆくことこそがその道に他ならないのだと信じるに至る。アムネリスこそが、ラダメスとアイーダが命を賭して訴えた思いを最も深く受け継いだ者であると印象付けるラストシーンでの姿も実に印象的で、ダブル・ヒロインとしての力量を強く示した。姿かたちも美しく、きらびやかな衣装の数々も素晴らしく似合っていた。
 初演に引き続き、アイーダの父、エチオピア王アモナスロを演じた一樹千尋は圧巻の一言である。エジプト軍の捕虜となり、「殺せ! 殺せ!」とかえって詰め寄る際の王としての威厳。その後、狂気を装って復讐の機会をうかがい、一度は成功するかに見えるが、エジプト軍に攻め滅ぼされ、本当に狂気に陥る。正気ながら狂っていると見せかける、しかしながら、実は正気の際に考えていた復讐のシナリオの方が狂気であり、国家滅亡にあってその狂気が噴き出す。モザイク模様のような狂気の表現に凄みがあった。
 アイーダをエジプトの女官たちが執拗に折檻するシーンなど、どうにもミソジニー(女性嫌悪)が拭えず、娘役が積極的に活躍できる作品ではないように思う。そんな中で、宙組娘役陣の元気印、大海亜呼が卒業する。はつらつとした踊りで宙組を支えてきたダンサーだが、今回はエチオピアの捕虜の女性の一人として、歌の場面でも活躍を見せていた。
 帝国劇場公演「エリザベート」と共に、潤色・演出の小池修一郎復活を印象付けた宝塚月組公演「1789」だった。もともとはフレンチ・ミュージカル、フランス革命を民衆の側から描く群像劇を巧みに交通整理し、フランス革命を主に貴族の側から描く「ベルサイユのばら」という大ヒット作をもつ宝塚歌劇に適合させた。圧巻だったのは、「ベルサイユのばら」でもメインの登場人物であるフランス王妃マリー・アントワネットを演じた愛希れいかである。トップ娘役ながらトップスターと組まないというイレギュラーな配役だったが、スウェーデン将校ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンへの恋、その喜びに生きる一人の女性としての姿から、王妃として生きる覚悟に至るまでを、「ベルサイユのばら」に描かれているのとはまた異なるアプローチで描き出した。ときどき、はっとするほど大人の女性としての色気をただよわせる。デュエット・ダンスでの身のこなしもますます冴えわたり、舞台人としてのさらなる進化を見せた。愛希アントワネットに対してフランス国王ルイ16世を演じた専科の美城れんも、最後の最後で民衆を理解しない君主の哀しさを感じさせる。ラストの“人権宣言”の場面では、ルイ16世も含め、全員が一人の人間となって踊る。実際の生涯では恐らくあんなにも激しく踊ることはなかったであろうルイ16世の姿に、彼もまた一人の人間であったことが、美城の肉体を通して示されているように思えた。その場面及び民衆蜂起の場面の迫力あるボディ・パーカッション等を担当したKAORIaliveの振付が効いている。革命で倒される国王側がくっきりと描き出されることで、彼らに対して立ち上がる民衆の闘いもまたあざやかなものとなり、月組生による総力戦が光った。
 この公演で惜しくも退団する琴音和葉は、実在の革命派ジャーナリスト、カミーユ・デムーラン(凪七瑠海)の妻リュシル役を演じた。彼女が舞台に登場すると、まるで鈴の音が鳴るようなその声でわかる。実在のリュシルも夫をよく支え、最後は決然と断頭台に上がった女性だったそうだが、琴音リュシルも凪七デムーランに、楚々と、それでいて確かな意志をもって寄り添う様が印象的。ヴァランシエンヌ役を好演した「THE MERRY WIDOW」でも、琴音の静かながらもどこか決意を秘めた横顔が心に忘れがたい。琴音と同じく90周年の記念の年に初舞台を踏んだ瑞羽奏都もこのたび卒業である。西洋人のように彫りの深い顔立ちをもつ男役ながら、全国ツアー公演「愛するには短すぎる」では大真面目な顔でいきなり前転、虚を突き笑いをかっさらった。これぞ“心のキャラ”である。「1789」でもその長身から繰り出す踊りがダンス・シーンで際立っていた。
 石田昌也作・演出「長い春の果てに」の初演は2002年、原作はフランス映画「世界で一番好きな人」である。初演時に主演を務めた紫吹淳&映美くららの月組トップコンビは入団が13年離れており、脳外科医と難病を抱えるピアニスト志望の少女の恋物語は二人のその学年差にもしっくりくるもので、とりわけ映美にとってヒロイン・エヴァは当たり役となった。作品はその十年後、花組全国ツアー公演で再演された。初演の際、紫吹扮する主人公ステファンに絡む二人の大人の女性、ナタリーとフローレンスは、汐風幸と大空祐飛という男役スターが演じていたが、2012年の上演時には、桜一花と華耀きらりという二人の実力派娘役によって演じられることとなった。
 私にとってはどこか痛切な物語である。というのは、高校時代、数学の先生にずっと片思いしていたから。三年の間には彼氏がいた時期もあって、率直に言って、自分の心の中で“好き”の棲み分けがどうなされていたのか、自分自身でもよくわからないのだけれども、干支が一回り違うその先生にいつか大人の女性、恋の相手として認識されないかなあと思って生きていた。今でも思い出す。自分はまったくもってそういう相手とは認識されていないのだ…と落ち込み、学校からの帰りに抹茶クリームあんみつを食べて、その強烈な甘さに心の痛みをごまかしたりしていた日のことを。1月のセンター試験も終わればいよいよ受験戦線たけなわ、三年生は登校せずにそれぞれ自宅で勉強に励むことになる。そんなときである。先生が婚約したという話をどこからか聞いたのは。…悶々として、数学の勉強にまったく身が入らなかった。二次試験の本番で数学がほとんどゼロ点に近かったのは、そのせいもあるかもしれない。
「…そういう勉強で受かる人っているんだね…」
 そう、大変率直な感想を述べてくれた大学の同級生は、高校二年生までで三年分の勉強をすべて終わらせ、受験勉強がてら「源氏物語」全編を原文で読み、今は南の島在住のサラリーマンとなっている。それはさておき。合格発表の夜、何とか志望大学に受かることができた私に、先生は「おめでとう。すごいよ!」と電話をかけてきてくれたのだったが、私はお祝いの言葉を聞くのもそこそこに、「先生、婚約したの? いつ結婚するの?」と問い詰めたのだった。その後、先生に会ったのは一度きり。大学に受かったら、松任谷由実の「海を見ていた午後」に出てくる横浜山手のレストラン、ドルフィンにお祝いに連れて行ってくれると約束していたのだけれども、約束は果たされぬまま、私が高校を卒業して間もなく、学年の途中で、先生は学校を辞めてしまったのだった。
 人生でときどき、歳の離れた人にぽーっとなる。自分をどこか遠くに、高みに、導き連れて行ってくれる恋が好きなのだと思う。高校生の時、先生に憧れて数学を熱心に学んだ日のように。それで、先生と生徒が恋に落ちる物語を描いた少女漫画が好きで、随分集めていたのだけれども、「…今となっては、私にとって先生と言えるのは、リヒャルト・シュトラウス先生だ!」ということに気づいてからは、すっかり処分してしまった。
 そんな私にとって、歳の離れた脳外科医ステファンに憧れを抱く少女エヴァは、共感を寄せるどころではない。人生の一時期の自分そのものだった。エヴァが、ステファンに相手にされずに拗ねたり、ステファンを取り巻く大人の女性たちにやきもちを焼いたりする様は、自分自身の思いとして手に取るようにわかる。かつての自分のどきまぎや幼い悪戦苦闘を遠眼鏡で見るかのように。
「♪世界で一番好きな人の目の中に 私が映るの 幸せな気分/…/神様 お願い この想い どうか届けてね/世界で一番好きな人に届けて」
 宝塚歌劇の歌の中でどれか一つ歌ってと言われたら、エヴァが歌うこの「世界で一番好きな人」を選ぶと思う。
 問題なのは。とうに少女とは言えない年齢となった今でも、大人の男性や女性をどこか仰ぎ見るような子供っぽさと、一向に手が切れないことである。私はかつてエヴァだったし、今でもどこかエヴァなのである。…幼い。器用に立ち回れない。大人だったら当然知っていそうな手練手管もよくわからない。今でもときどき、「…こんなとき、大人の女性だったらどうするんだろう…」と悩んで、途方に暮れていたりする。成人年齢を二倍した以上生きてきているというのに! 大体が、自分が抱いている“大人の女性”のイメージを考えるだに、いかにも子供っぽい。大人の男性と仕事でも恋でも対等にやり合って、何年も何年も待たされても一向に進展しない関係に踏ん切りをつけることにも潔そうな感じというか。
 …それもまた幻想なのである。そう教えてくれたのが、華耀きらり演じるフローレンスだった。エヴァが、「私は、ナタリーにもフローレンスにも勝てない」と涙を流す、その相手。
 フローレンスは弁護士である。いかにも颯爽としている。エヴァにとっては恋のライヴァルかもしれないが、フローレンスからみれば、こんな小娘、ライヴァルにもならんという感じであろうか。けれども、エヴァからすれば仰ぎ見るような“大人の女性”フローレンスも、ステファンとの恋をめぐってはやはり心が揺れ、傷つき、最終的に自分をずっと見守ってくれていたブリスの思いに安らぎを見出す。自分にはブリスなのだと気づき、けれどもそれを今さら言い出せなくて、「(わかってくれないなんて)ばかぁ」とブリスの胸に飛び込む。全国ツアーではここのくだりをなんと客席通路でやっていて、至近距離で華耀のこの「ばかぁ」を観ることとなり、…女優やなあ、としみじみ思ったことだった。ちなみに、このときブリスを演じた望海風斗は、それまで娘役に思いを寄せられる役というのをあまり演じてきていなかったと思うのだけれども、このとき華耀の演技を受け止めて以来、男役ぶりが上がったように思う。
 …大人の女性といっても、昔は皆、少女だったのだ。華耀のフローレンスを観ていて、改めて気づいた。そして、その事実を如実に示せることにこそ、宝塚歌劇の娘役芸の真髄があるのだと。娘役。永遠の少女たち。いつまでもどこか、青春の甘やかな園に遊ぶ。大人になって、少女であったことを忘れる人もいる。覚えている人もいる。少女であり続けて悩む私のような人もいる。そんな、かつてのすべての少女たちを、かつて“少女歌劇”であったその場所は、優しく包み込む。
 学年が上がれば、娘役はいつか女役にシフトしたりもする。舞台構成上、もちろんそれも必要なことではある。華耀きらりは娘役にこだわり続けた。ツルゲーネフの「初恋」を原作とした昨年の「ノクターン」では、入団13年目にして初めてバウホール公演の単独ヒロインが回ってきた。7学年下の柚香光扮する主人公ウラジーミルが思いを寄せる年上の女性、ジナイーダ役である。女役として演じることもできたと思う。けれども、華耀は娘役として押し通した。あっぱれなほどに輝かしかった。発光していた。こんなに美しいものを観られて、幸せに思えるほど。
 彼女と組むと、男役はとてもやりやすそうなのである。男役を見るまなざし。ドレスさばき。リフトの際の身のこなし。どこをとっても、娘役芸の矜持に貫かれている。
 そんな華耀は、1月の特別公演「風の次郎吉−大江戸夜飛翔−」で新境地に挑んだ。女だてらに男装し、江戸の街を闊歩する武士の娘、堀田けい役。女性が男装して演じている男役との差異をきちんと見せなくてはならず、その上でめちゃめちゃはっちゃけた役どころだったが、娘役芸のぎりぎりで通した。遠山の金さんに思いを寄せ、女らしくしようとしてみるもやっぱり上手く行かず、得意の武術で助太刀致す、そのいじらしさ。このとき、はねっ返り娘けいに常に付き従うじいや、本田吾介役で飄々とにじみ出るおかしみを見せ、華耀といいコンビぶりを見せた神房佳希も、残念ながら本日をもって退団である。神房は、退団公演「カリスタの海に抱かれて」では、上には弱く下には強い、天真みちるが俗物の極みを見せる軍人の部下であるフランス兵役を演じ、上官に対して腹に一物あるところをコミカルに見せて笑いを取った。
 華耀が「カリスタの海に抱かれて」で扮したのは、フランスの植民地カリスタ島の総督夫人ブリエンヌ役。「間男」という直截な物言いをこの高貴な人にさせるのはいかがなものか…と感じさせる、しっとりとした貴婦人である。レヴュー「宝塚幻想曲(タカラヅカ ファンタジア)」では、オープニング、はっとする瞬間があった。舞台で踊っていた華耀が、その流れで使う羽根を、袖から持ってきてくれた相手から受け取る。そのとき、まるで「ありがとう」と言うようにちょっと肩をすくめるのだけれども、その後ろ姿に娘役芸のプロフェッショナリズムが凝縮されたような、それは美しい仕草を見せた――。そして、花組トップスター明日海りおにリフトされ、軽やかに、華やかに回り続けるあの至福。
 …先日、記者懇親会から帰るとき、楽屋口に偶然、彼女がいた。最後だもの、何か、何か言いたい…! しかし。泣いてしまいそうになって、「…とっても素敵でした」というのが関の山だった。ああ子供っぽい。退団を控えてさみしさもあるだろうに、舞台上では笑顔を貫き通すその人に学ばねば。
 誇り高く美しい女友達が、夢の花園を去ろうとしている。その潔い背中を見送るような思いである。けれどもきっと、美しい人はこれからも美しく生き続けるだろう。その道と自分の道とがどこか交わっていればと願う。
 昨年のゴールデンウィークに、NHKスペシャル「宝塚トップ伝説〜熱狂の100年〜」という番組が放送された。宝塚5組のトップスター(当時)それぞれに焦点をあてて紹介する形になっていたのだけれども…、これがまあ何ともはや。例えば。雪組トップスター壮一帆については、“三度の組替えを経てトップに上りつめた苦労人、日本物にこだわりをもつ”といった感じ。苦労話をアピールするタイプではないし、その時期上演していたのがたまたま「心中・恋の大和路」だっただけで、別に日本物だけにこだわりをもっていたわけじゃないぞ、と思った。壮の場合は、8月にNHK「思い出のメロディー」で退団公演「My Dream TAKARAZUKA」の一部がオンエアされ、洋物にもこだわりをもっていることがアピールできたわけで、まあいい。星組トップスター柚希礼音に至っては、キスシーンへのこだわりがフィーチャーされていた。別に観客は柚希のキスシーンだけを観に劇場に行っているわけじゃないぞ、と思った。思って、…何だか悲しかった。ある意味、それは彼女の置かれている状況を端的に指し示しているのかもしれない、と思えて。
 宝塚歌劇を観る楽しみの一つに疑似恋愛幻想があることを決して否定するものではない。けれども、宝塚歌劇を観る楽しみが疑似恋愛幻想のみに集約されてしまっていたとしたら――? そして、そのような固定概念が世間に遍く広まっており、この番組での彼女の紹介のされ方もまた、その概念のさらなる固定化に拍車を掛けるものだとしたら――? 
 百周年を迎えた宝塚歌劇団を六年にわたって牽引してきた柚希礼音は、絶大な人気を誇るトップスターである。そして、時代時代で絶大な人気を誇ってきた存在は、時代時代で疑似恋愛幻想をもっとも多く背負ってきた、背負わされてきた存在である場合が多い。歌、芝居、踊りのいずれにも大きな穴はなく、うち一つに武器があると望ましい。そして、健康優良児タイプ(に、少なくとも傍目からは見える)。疑似恋愛幻想を投影する上で、翳りとか屈折といったものはあまり必要がないようである。もっと言えば、投影する相手が何を発信しようとしているかさえあまり必要がないというか、むしろ、発信は投影の邪魔ですらあるかもしれない。私がたまたま宝塚歌劇のそれになじみがあるだけで、宝塚以外の場所でも状況は同じであろう。――相手だって、あなたと同じ人間なんですよ。そう言いたくなってくる。たとえ相手がスターであれ、トップスターであれ、幻想を一方的に押し付けていい、そんな逆説的に特権的な立場がこの世にあり得るだろうか。
 ――柚希礼音はとても優しい人だから、そんな重い圧力を、身体を張って受け止め続けてきた。そして! 異なる地平で勝利を収めて宝塚歌劇団を去ってゆく。快哉である。退団公演「黒豹の如く」で、柚希は、柴田侑宏が彼女に宛て、心の血のインクで書いたようなセリフを、今この瞬間、劇作家の内より生み出されたようなみずみずしさをもって成立させた。それは、彼女の芝居の力である。疑似恋愛幻想とは無縁の地平に存する。私は、朴訥な彼女の内から感情がポンっと唐突に飛び出してくる瞬間が好きである。彼女自身が舞台に立つことを望むのならば、これからも彼女の芝居を観続けていきたいと思う。「太陽王」のフィナーレでエレガンスを感じさせた踊りも。柚希礼音スーパー・リサイタル「REON in BUDOKAN〜LEGEND〜」の「君はどこに」で聴かせた歌声も。
 疑似恋愛幻想のみに従事すると思えば、宝塚の男役とは、退団後、何とも潰しの効かない職業であるだろう。けれども、宝塚で男役を演じてきた経験が生きる場を見出すこと、その経験が生きる場を作り出してゆくこともまた可能であるはずだ。その闘いに、微力ながらも関わっていけたら、そう願う。「あの海を行く帆船は風で進む方向が決まる訳じゃない。帆の向きで決まるんだ。世界の風がどう吹こうと、俺は俺の思うままに生きる」――そう、柴田も餞の言葉を贈っているではないか。

 そして、柚希礼音が身体を張って重い圧力を受け止め続けている間、トップ娘役・夢咲ねねはずっとその隣にいた。それもまた重圧のポジションである。柚希礼音と夢咲ねねが並ぶと、アメリカの学園ヒエラルキーの頂点、花形フットボール選手と人気チアリーダーのカップルのようなゴージャス感がある。だからこそ、疑似恋愛幻想の圧はいや増す。
 専科の轟悠の相手を務めたニール・サイモン原作「第二章」で、夢咲が生き生きと芝居をしていた姿が印象に残っている。女優であるヒロインを演じ、女優ルックの数々を着こなしてあでやかだった。柚希相手に生き生きと芝居をしていなかったということでは決してない。ただ、そこは、疑似恋愛幻想圧のない場所だった。“柚希礼音の相手役”を演じなくていい場所だった。
 重い責務を果たし続けたものである! 二人とも。

 2013年の東京宝塚劇場のお正月公演の三本立てで、私は、舞台に立つ柚希礼音の姿に感銘を受け、新年互礼会で彼女にどうしても伝えたかった。宝塚のトップスターとは尊い仕事であると思った、と。――私は少々涙ぐんでいたと思う。彼女は、「もう少し頑張らないけません」と言った。それからもう二年である。その間、蘭寿とむが辞め、壮一帆が辞め、凰稀かなめが辞めた。いくらなんでももう潮時であろう。柚希のパワフルな舞台姿を観ていると、つい、もうあと五年くらいできそうな気がしてきてしまうけれども。
 美に生きる大切な友人の船出に、幸多からんことを!

 ダンシング・スター鶴美舞夕は、「黒豹の如く」のカルナバルの場面で活躍、ショー「Dear DIAMOND!!」の女装した男役たちが柚希に絡むシーンで圧倒的な色気を放った。歌姫・音花ゆりは、品の良さと気の強さとを両立させる魅力をもった娘役である。彼女が演じた役でもっとも印象に残っているのは、「ジャン・ルイ・ファージョン−王妃の調香師−」(2012)のヴィジェ・ルブラン。マリー・アントワネットや自画像を残した18世紀の実在の美貌の画家、キャリアウーマンの元祖ともいえる存在を演じて、その個性が輝いた。「Dear DIAMOND!!」のエトワールでは有終の美を飾る歌声を聴かせた。タカラヅカ・スカイ・ステージ視聴者には「萩の月」CMキャラクターとしてもおなじみ、“踊るお姉さん”海隼人も、ショーのロケット・ボーイではつらつとした踊りを披露していた。