藤本真由オフィシャルブログ

 初日(6日)前の舞台稽古を見学。春野明智の、この人にしか出せないやるせなき退廃を楽しむ。「TUXEDO JAZZ」はとにかく、大好きなニューヨークのジャズクラブ、バードランドにものすごく行きたくなりました! 舞台稽古終了後、春野さんの囲み会見。明智小五郎の役作りについておうかがいしたのと、スーツの着こなし術を世の男性に伝授していただけるようお願いしました。ポイントは、自分のサイズへの妥協なきこだわりと、背中で何かを語れるようになるか、だそうですよ、男性の皆さん!

 今年も桜の季節がやって来た。

 小学校から高校まで通っていた学園には見事な桜並木がある。身体に余るようなランドセルを背負って、一人、電車通学を始めた小学一年生のときの晴れがましい気分。それが、記憶に残る最初の桜。

 桜とはせつない花なのだと知ったのは、大学入学を控えた春。志望校への進学を果たしたものの、当時つきあっていた人の夢は叶わず、自分の合格もどこか手放しで喜ぶことはできなかった。そんな折、夜桜見物に出かけた千鳥が淵は雨。家族に遅れて歩き、傘で顔を隠して、満開の桜の下、一人泣いた。同じ花でも、見る人によって違って映っていることに気づいたのは、それが初めてだった。

 桜はまた、亡き人の思い出を呼び起こす花でもある。
 祖母が生きていた頃はよく、母の運転する車に乗って三人で花見に出かけた。善福寺公園。東京女子大学。成蹊学園。小金井公園。その道中に通り過ぎる、道端の一本の桜をもお互い、教え合いながら。祖母が亡くなった今、母と車で花見に出かけ、眺める桜にいつも祖母を思い出す。そのとき、互いにどこか無口になる。
 祖母には亡くなる前、友達と二人、東へ西へ、桜の名所に足繁く通っていた時期があった。咲く花への執着があまりに強いように思えて、何だか生き急いでいるように思えて、いやだった。実際に亡くなったのはそれから数年後のことで、最後の何年かは自分でどこかに出かけていくことは無理だったから、この世に心残りがなくてよかったのかもしれないと、今なら思うことができるけれども。あの桜尽くしの日々は、祖母の死に支度だったのかもしれない。

 そもそもが、桜は美しすぎるのである。この世のものとは思われない。どんなに眺めても飽くことはない。咲き誇る花の下、いつまでもその美しさのもとに佇んでいたいと思う。どんなに佇んでも、決して心が満ち足りることはないと知りながらも。
 満開のとき、千鳥が淵から対岸を眺めると、薄紅に霞むそこは彼岸への入り口のように思える。そのままそこに吸い込まれて行ってもかまわないと思うときがある。「願わくば花の下にて春死なん」と詠んだ古人の気持ちがわかる気がする。
 それでいて、散るときはいさぎよいほどあっけない。彼岸への入り口を一瞬開いておいて、瞬く間にそこを閉ざしてしまう。はかなく美しいものは、そのはかなさゆえにひときわ残酷である。
 なぜ、花は散るのだろう。なぜ、喜びも悲しみも永遠ではなく、我々の上をほんのいっとき通り過ぎては去るのだろう。なぜ、人は生まれ、死ぬのだろう。桜の季節のたびに、そんな問いが胸に迫り、そして、桜が散ると共に消えて去る。いくばくかの痛みを心に残しながら。そんな問いを人に投げかけるために、桜は毎年咲いては散るのかもしれない。

 安蘭けいの主演男役就任。第93期生の初舞台口上。宝塚舞踊詩「さくら」はまずは晴れがましい気持ちにあふれている。雛祭りの終わりを惜しむ雛人形が出番を待つ武者人形を閉じ込めようとするコミカルな場面、狂言「花折」のオペレッタ仕立ての陽気な場面など、春という季節の始まりに人々が寄せる華やいだ気持ちの演出にも事欠かない。その一方で、安蘭が落ち武者に扮し、花と共に散りたいと絶唱する場面も用意されている。そして、フィナーレ。安蘭は満開の桜の木の陰から手だけ伸ばして花びらを散らし、やがては姿を現して舞う。その刹那、こんな一節を思い起こす。

「桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは『孤独』というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。」(坂口安吾『桜の森の満開の下』)

 表現とは、人誰しも孤独に生まれた中で、その孤独をひときわ痛切に見つめざるを得ない者が、それでも何とか他者と通じ合うことを願って伸ばした手である。それは、花の盛りは永遠ではないと教えるためにか、ひらひらと舞い散る花びらにも似ている。
 満開の花の下で、安蘭けいは孤独となって舞う。舞う。その姿の無常に、思うしかない。いつまでもその美しさを心につかまえていたいとどんなに願っても、花も、舞台も、人生も、今しかない。今しか。そんな人の世のはかなさを教えるために、安蘭けいは舞台に生きる命を与えられたのかもしれない。

 星組公演「さくら」「シークレット・ハンター」観劇。この公演から主演男役を務める安蘭けいをはじめとする出演陣に大いなる進化の兆しを感じたので、舞台評については今後にご期待いただくとして、二作品共、とにかく楽しいこと。久々の日本物ショー「さくら」は、観ると花見がしたくなり、花見をしたらまた舞台が観たくなるような、そして、花見の季節が終わった後も花見気分が味わえるという意味では何度もおいしい作品。クライマックスの総踊りの場面では、日本に生まれた者なら誰でも知っている、美しい四季の花々の中でもひときわ美しく咲き誇るさくらを愛でる気持ちに想いを馳せるうち、記憶の中、せつない想い出や亡き人の面影が甦ってきて思わずホロリ。“一竹辻が花”の着物も豪華! カリブ海を舞台にした併演の「シークレット・ハンター」には、かつてカナダに住んでいた時代(もう四半世紀も前! ですが)、訪れたことのあるバハマを思い出し。澄んだ空、透き通った海、飛び込んだ近くをゆうゆう泳いでゆくエイに驚き、朝食でサーブされるメロンの美味しさに感動し……。この世に楽園みたいな場所って本当にあるんだなと、子供心にも思わずにはいられなかった。そもそもユーフォリックな子供時代の想い出とあいまって、南の楽園で過ごした幸福な時間は、そのときホテルのバンドが演奏していた音楽と共に、今もはっきりと心に残っている。そして、前に「ノバ・ボサ・ノバ」観劇の際にも感じたことなのだけれども、宝塚大劇場には南の楽園の話が実によく似合うというのは、宝塚という街自体が、どこか楽園を思わせる、ユーフォリックな雰囲気に満ちているからだと思う。日本人の死生観に沿う「さくら」と、南の楽園の空気を伝える「シークレット・ハンター」、そのどちらも実にしっくりと来ているあたりがやはり、宝塚歌劇というメディアの奥深い面白さ。そして、安蘭けい率いる星組が、そんな二作品で宝塚のさらなる可能性に挑みつつあるのが非常に興味深く。「シークレット・ハンター」フィナーレ、アンコウ! と戦いを繰り広げる、技術的にも凝りに凝ったラインダンスではつらつとした踊りを見せている初舞台生の活躍をチェックできるのも大劇場公演だけだし……。やっぱり、花見と同時に楽しめる関西方面の皆様にはお得感あるなあ。

 奇跡のような舞台を観た。すべてが台本通りに完璧に進んでゆくのだけれども、決して単なる予定調和ではない。出演者一人ひとりが役として生き、心を動かしてセリフを言い、リアクションを返した偶然が積み重なって、必然の帰結としてこの物語が語られたとでも言うべきか。緊張感ではない、けれども張りつめた空気が劇場を満たす中、すべては人生の一コマであったかのように、あっという間に過ぎ去っていった。そして、主人公レイモンド・ウッドロウを演じる安蘭けいは、もはや安蘭けいであって安蘭けいではなく、レイモンド・ウッドロウであった。私自身がこれまでに生きてきた中で経験した感情の反芻ではなく、レイモンド・ウッドロウの感情だけが心の中に流れ込んでくる不思議な感覚。そのとき彼女は此岸ではなく、舞台という名の彼岸に透き通る“無”であったのかもしれない。

 「ヘイズ・コード」に登場する人々は、主人公レイモンド・ウッドロウをはじめ、みんなひとくせもふたくせもある人間ばかりである。だが、そうでなければ、人間の内なるコードをテーマとするこの作品は成立しない。今回はたまたまウッドロウという人物を主人公に据え、その人間的成長を描いているだけの話であって、どんな人間の心の内にもコードは存在しているものなのである。そのことを、それぞれのキャラクターの個性の違いによってきっちり見せないことには、一人の風変わりな人物の特殊な物語を面白おかしく描くだけに終わってしまう。プログラムに一人ひとりの人物説明がきっちり書かれていることからも、作・演出の大野拓史の、キャラクター設定への深いこだわりがうかがえる。
 それぞれに個性豊かな、つまり内なるコードを抱えた人々が登場し、さまざまな事件が起きる。しかし、一人として根っからの悪人はおらず、誰も不幸になることなく大団円が訪れる…という物語は、“清く正しく美しく”を標榜する宝塚に実にふさわしい。そもそも、この世に根っからの悪人などいない…という、多くの人々の心の奥底のどこかにひそむ願いを舞台上において実現してくれるところに、宝塚歌劇というメディアの特性がある。そして、出演者全員の力演によって、「ヘイズ・コード」は、“清く正しく美しく”を、決して表層的ではない、深い部分で体現する作品となり得ている。

 遠野あすか演じるヒロイン・リビィは、明るく無邪気で気が強いが、実はその裏にせつなさ、さみしさを隠したキャラクターである。ウッドロウに想いを打ち明けられ、これまではくじけそうになると星空に誓っていたけれども、明日からはあなたがいる…とその心情を吐露する場面のいじらしさ。遠野の持ち味たるこのせつなさあってこそ、男役・安蘭けいの包容力が生きる。
 ウッドロウを限りなく深い友情で支えるのが、幼なじみで、プリンストン大学で共に演劇を学んだ親友、映画監督のラルフ・カールトンである。カールトンが、演劇への情熱を心に燃やしていたかつてのウッドロウの無邪気さは未だ失われていないと信じ続けることがなければ、ウッドロウとて自分を取り戻すことはなかったかもしれない。そのカールトンに扮した立樹遥のここ最近の成長の著しさには目を見張るものがある。役柄を分析し、自分の個性とすり合わせるコツを遂につかんだようで、その結果、持ち前の大らかな魅力、明るさが今回、包容力へと進化を遂げ、深みある人物像を造形することに成功している。ウッドロウが少しずつ素直な自分を取り戻してゆく様を目撃した瞬間の微笑みの温かいこと。こういう素敵な友人がいるからには、主人公は魅力的な人物なのだろうな…と思わせる、主人公の格、男っぷりを上げる親友役を演じることのできる人材は貴重である。

 人間の内なるコードがテーマとなっている以上、今回の作品のキーパーソンとなるのが、“ヘイズ・コード”の遵守を司るPCAでウッドロウの上司を務めているオリガ・ウスペンスカヤと、米国聖公会のコリン・ホワイト牧師である。
 かのメイエルホリド(!)に女優として育てられたという設定のオリガは、ロシアからアメリカに渡り、プリンストン大学で演劇を教え、その後、PCAの幹部に転身したという経歴の持ち主である。異国人であるため、常にアメリカへの愛国心を示さなくては疑われる…と語る彼女は、さまざまな外的、内的コードの存在と虚しさ、それが時の状況、支配者の気まぐれ等々によっていかようにも移ろうものであるという事実を、哀しみをもって知っている。そして、かつての教え子であるウッドロウとカールトンに、だからこそルールを逆手に取る術を身につけなくてはならないのだと折にふれて示し続ける。ウッドロウのいわば生涯の恩師ともいうべきこの存在を、万里柚美が人生の先輩たるにふさわしい大きな優しさをもって演じている。いかにも元女優らしくゴージャスに装い、エスコート役の美青年を常に物色している風なのに、この人にかかれば決して下品には見えないのが強みである。
 一方、催眠術をそれとは知らず使用し、人々の真実の心を明らかにして周囲を大混乱に陥れるのがコリン牧師である。あるいは、彼が催眠術を使うことがなければ、ウッドロウも自分の心に気づくことはなかったのかもしれない。どう考えても催眠術でしかないのに、それを神のみわざと信じてしまっている時点で実はとんでもない大ボケキャラなのだが、もしかしたら何か企んでいるのかもしれない…と多少なりとも思わせた方が観客の楽しみが倍増する、それだけに見せ方が非常に難しい役柄を演じて、にしき愛が芝居巧者ぶりを発揮している。
 設定上、演じ方によっては悪役にも転びかねないキャラクターを絶妙なバランスで見せているのが、ウッドロウに心を寄せる令嬢役の琴まりえと、彼女の父親である上院議員役の専科の磯野千尋、そして彼に雇われる私立探偵役の紫蘭ますみである。ヒロインの恋のライバルである思い込みの激しいお嬢様キャラに、琴は、やりすぎない戯画的演技でかわいらしさ、上品さを残す。そんなかわいい娘のためならどんな手段を使っても…というちょっと怖い裏の顔が、娘へのその深い愛ゆえに蕩ける瞬間のおかしみを体現して、磯野が見事である。「悔い改める」とセリフで説明される紫蘭の場合、その場面が実際に登場するわけではない。だが、誰が雇い主だか吐かせようとウッドロウがコリン牧師に催眠術をかけさせようとする、その瞬間の「催眠術?」というセリフのトボケ具合に善人さを感じさせることで、後のセリフでの説明に巧みにつなげている。
 個性あふれるキャラクターを憎めない人物として描き出しているのが、ちゃっかり者の映画スタジオ所長役の一樹千尋、ウッドロウの親戚筋で遊び好きのお坊ちゃま役の涼紫央、その姉でウッドロウの兄に嫁いでいる文化財団理事長役の南海まりである。窮地に追い込まれて泣き崩れたり、物事が上手く行きそうと見るや笑顔を見せたり、一樹の、この人にしか出せない調子のよさが実に楽しい。「できればギャラを払いたくないんです〜」と、催眠術にかかって打ち明けてしまう場面のおかしいこと。最近ボケキャラに新境地を見出しつつある涼は、それほどしどころが多いわけではないお坊ちゃま役を、場面場面を大切にすることできっちり成立させている。享楽的な性格とはいえ決して嫌味に見えないのは、涼の持ち味によって、どこかいつも折り目正しさと繊細さが添えられているからだ。その涼と大ボケ姉弟としていい味を出しているのが、今回、名コメディエンヌぶりで魅せる南海である。牧師の催眠術にかかって真面目一本槍のはずの夫への疑念を口にし、浮気相手と目される秘書の口紅の銘柄を叫びながら猛スピードで後ずさりしていく大爆笑シーンは、この作品の名場面の一つである。
 気のいい俺様ぶりが何ともかわいらしい、映画の主演俳優役の麻尋しゅん。内気なメガネっ子の、催眠術やお酒の力で出てしまう地とのギャップがコミカルなスクリプター役の彩愛ひかる。古き良きブロードウェイ・ミュージカルにはつきもののちょっとオフビートな女優役をコケティッシュに見せる星風エレナ。ロサンゼルス市長選へ打って出ようとしているウッドロウの兄役で、弟とも大いに通じる正義漢ぶりと長子らしい如才なさとを示しつつ、妻と愛を確かめ合うシーンではイチャイチャ、バカップルぶりで大いに楽しませてくれる祐穂さとる。こういう風に何かと苦労を背負い込みがちなおじさんっているよなあ…というリアリティあふれる撮影所の制作補佐役を、似合いの極太もみあげ姿で演じる美城れん。監督の代わりを務めることとなった瞬間の声のうわずりが絶妙な、少々頼りない助監督役の銀河亜未。レヴュー・ガールの一人で、ヒロイン・リビィのしっかり者の親友としてキュートな魅力をふりまく華美ゆうか。上院議員の裏の顔を知る秘書を演じてキレ者ぶりをうかがわせる一輝慎。名前を挙げなかった者も含め、最下級生に至るまでのすべての出演者が、それぞれの役割をきっちりと果たす、芝居心を大いに感じさせる舞台を見せて、作品世界を支えている。

 それにしても、「psiko」1月号の紹介記事にも書いた通り、昨年五月にブロードウェイでミュージカル「パジャマ・ゲーム」を観て、「こういう楽しい作品を宝塚でもぜひやってほしい!」と思った身としては、そんな願いが新年早々叶えられて、人生、いろいろ思ってみるものだなあ…と感じる次第である。まずは、宝塚歌劇の特性を信じ、これを生かした作品を創り上げた大野拓史の次回作に大いに期待するものである。“ヘイズ・コード”のもとで、誰にでも楽しめる作品を…と映画創りへの愛を歌うテーマソングにも仮託されているところだが、この「ヘイズ・コード」という作品そのものが、“すみれコード”なる不文律があるとされる、すなわち、女性が男性の役柄を演じることも含め、さまざまな制約が多いとされる宝塚において、制約とされるものを生かし、ときには超え、ときには逆手にとって、出演者と共に観客を楽しませる舞台を創り続けてゆきたいという、大野のひそやかな矜持あふれる表明に他ならないのだから。そして今回、揃って好演を見せた出演者一同に、その力量を存分に発揮できる作品が与えられんことを願っている。

 昼、都内で開かれた雪組公演「エリザベート」制作発表会に出席。ちょっとしたショー仕立ての歌唱披露が粋。まず、インストゥルメンタル曲の「私だけに」に乗って、あたりをはらうような艶やかなドレス姿のエリザベート=白羽ゆりが登場。そこへ雷鳴が轟き、雪組新主演男役の水夏希が現れてトートのナンバー「最後のダンス」を熱唱するという趣向。終始自信がみなぎる堂々たるパフォーマンスで、ダンスに転じてからも妖しい魅力に思わず身が引き込まれる感じ。作曲家のシルヴェスター・リーヴァイ氏からも、「今日これだけ自信に満ちあふれた演技を見せたからには、舞台装置等々すべてが整った環境ではいかに素晴らしいものとなるか、容易に想像できる」とお墨付きをもらった水トート、本番の公演が楽しみな限り。

 複数の人間が集まって形成された社会においては、そこに何らかの合意が必要である。合意、すなわちルールなくしては、それぞれの人間がてんでばらばらに自己を主張して生きることになり、その結果、集団としては混乱を来たしかねないからである。大は国際社会から、小は町内会や友人同士の集まりまで、それぞれの集団によって、条約・法律から会則の類に至るまで、さまざまなルールやコードが存在し得る。星組東京特別公演のタイトルとして掲げられた、1930年代のハリウッド、映画に登場するキスは三秒以内…と定めた“ヘイズ・コード(映画製作倫理規定)”は、そのように世界にあまねく存在するコードの一つである。
 その一方でコードは、人間の心の中にも存在する。法令や社会常識に則ったものから、他人から見れば突拍子もないように思えるものまで、その種類は千差万別であり、個々人に特有なコードこそが、その人の個性を形作っているともいえる。そして、そのような内なるコードの多くは、その人間の心の弱さや愚かさを守る楯として機能している部分がある。自分の心の中に定まったコードがあるということは、それに従っている以上問題はないと信じるということである。状況ごとの対応を考えなくていいという意味で、その人にとっては楽なのである。「それはこういう風に決まっていることだから」と思ってしまえば、そして、そう納得できるうちは、己の弱さや愚かさと直面せざるを得ないような事態があったとしても、正面きって向き合わず、コードのせいにして逃げてしまうことができる。例えば、親が決めたことだから、社会や慣習がそうなっているから、自分としては如何ともしがたいのだと、己の心を偽ることができる。
 心のコードにいつまで従い続けるかは、そのコードが個人的なものである以上、あくまで個人個人の判断に任されている。昨日まで正しいと信じていたコードを捨て、自分の心に忠実に、新たな道を歩んでいきたいと願う、そんな決断を人間に迫るのは、いつでも他者との出会いである。複数の人間で構成された社会の中で生きている以上、それは人間にとって当然の摂理である。一つのコードを捨て去ることができたとき、人は己の弱さ、愚かさを一つ克服して強くなる。他者との出会いとは、そのように人の心を変えてしまう可能性をいつでも秘めている。

 「ヘイズ・コード」の主人公レイモンド・ウッドロウには、政治家の家系に生まれたことを理由に、演劇への志を捨てた過去がある。家名を貶めることのないような名誉ある職業に就かなくてはならないという内なるコードと、演劇や映画の世界に携わりたいという己の真の願望の狭間で揺れ動くウッドロウは、“ヘイズ・コード”の遵守を司る「PCA(映画製作倫理規定管理局)」のオブサーバーの職を選択することで、自分の心に何とか折り合いをつけて生きている。そんな彼の心を否応なく乱すのが、オブサーバーとして派遣された映画の撮影現場で出会った面々、なかでも、“ヘイズ・コード”なんて関係ないわとばかりに熱演を繰り広げるヒロイン、新人女優のリビィ・フォンティンである。
 ラヴ・コメディの常道として、当然二人は反発しあいながらもひかれあってゆく。女優として羽ばたく夢を抱くリビィのためにも、映画の製作を邪魔しようとする勢力の妨害工作を何とか乗り越えようとウッドロウが奮闘するうち、彼の内なるコードが次第にほどけてゆく…というのが、「ヘイズ・コード」の筋書きである。
 満を持して星組新主演男役の座に就任した安蘭けいは、レイモンド・ウッドロウのような、傷つきやすい心に弱さや愚かさを秘めた役柄を演じて輝く人である。才能に恵まれた演劇青年でありながら、その道をあきらめ、妥協してオブサーバーの職に就いたことで、かえって、直接関わりを持てない人間として撮影現場を見守り続けなくてはいけないという苦悩を背負う。そのジレンマが彼をして、規則を振りかざして撮り直しを要求する傲慢な仮面を被らせる。傷つきやすい心を、自らの内に定めたコードで頑なに守り、何事にも動じないクールでニヒルな表情を装って、レイモンド・ウッドロウは生きている。
 彼が幾重にもめぐらせたガードを越え、その心に容赦なく踏み込んでくるのが天衣無縫なリビィなのだが、安蘭と主演コンビを組むこととなった遠野あすかも、この手の役に扮したときの生き生きとした魅力には、余人をもって代えがたいものがある。その遠慮のなさ加減は、ガードの固い人間にとってはほとんど傍若無人に思えるほどなのだが――ウッドロウなど最初のうち、「卑怯だぞ」と反応するくらいだ――、遠野にはこれを、まったくもって嫌味も悪意も感じさせない無邪気さ、可愛らしさとして見せてしまう天賦がある。
 当初こそガチガチの防御姿勢を見せるウッドロウだが、昔取った杵柄、華麗なタップの技を意に反して披露することになったりするうちに、徐々に心のコードがほどけてゆく。その一つの大きな仕掛けとして、一幕ラスト、催眠術にかかったウッドロウとリビィが夢見心地で踊る場面が用意されている。君にどうして恋してしまったのか…と訝しく思うウッドロウに、これは夢なんだからいいじゃない…とリビィが応え、「そうだった」と返す刹那、ウッドロウは笑顔を見せるのだが、心の重荷を解き放った瞬間にのみ可能になる晴れやかな表情が、安蘭けいという人は抜群に上手い。昨年の「ベルサイユのばら」星組宝塚大劇場公演でアンドレ役を務めた際、特別出演した月組の霧矢大夢扮するオスカルに対して「俺は今日まで生きてきてよかった」の決め台詞を発したときの笑顔も、愛する者と心が通じ合う幸せを知らずに生きてきた、そんな昨日までの己の不幸を発見してしまった瞬間の人間の表情となり得ていて衝撃的なものがあったが、今回の「そうだった」の笑顔も、自分の心にかくもコードが存在していた不幸を認識してしまったが故の晴れやかさに満ちている。しかし、この時点ではその晴れやかな笑顔は未だ哀しいというのは、彼はここで、夢だから自分自身を解き放ってもいいと、まだまだ心にコードを残しているからである。
 未だ心に残るコードを、ウッドロウは自分の力でほどいてゆくことができるのか。それが、続く二幕の最大のポイントである。撮影中の映画の挿入歌に仮託して、二幕冒頭、彼は、自分の心を偽っていた…と心情を歌う。以下、妨害工作をかわし、“ヘイズ・コード”をかいくぐり、映画の製作を進めようとするストーリーラインと並行して、ウッドロウの心がほどける様が少しずつ描かれてゆくが、心情の微妙な変化を、得意の歌に乗せて、あるいは表情を段階的に絶妙にやわらげて表現してゆくあたり、役者・安蘭けいの真骨頂である。
 己の愚かさを認め、弱さを知り、その過程においても傷つき、それでもやはり、昨日までの自分からは一歩でも前に進みたいと思ってしまったウッドロウが最終的にたどり着くのは、「たとえ傷つくことがあっても、そこからやり直せばいい」という人生の一つの真理である。そんなナンバーを歌って、安蘭演じるウッドロウは笑顔を見せる。夢などという状況を借りることなく、自力で勝ち得た笑顔にもはや哀しみはない。その晴れやかな笑顔は、内なるコードを振り払い、弱さ、愚かさを克服した人間だけが知る、まごうことなき強さを映した輝きに満ちている。

 夕方、発売中の「psiko」1月号に紹介記事を執筆した宝塚星組「ヘイズ・コード」舞台稽古を見学(日本青年館大ホールにて)。舞台稽古ゆえ詳しい舞台評は控えますが、主演の安蘭けいさんはじめ、出演者の皆さんが寒さに負けず一丸となって生き生きと舞台を務めていたのが印象的。コミカルなやりとりに笑い、美しいナンバーの数々にホロリとし…。タップ・シーンもふんだんに盛り込まれ、初笑いにぴったりといった感じの舞台、明日からの本公演が楽しみな限り。

 あけましておめでとうございます。2007年も「あひる日記」をよろしくお願い申し上げます。
 「Domani」での公約?通り、本年も2日から劇場通い開始。まずは東京宝塚劇場にて初日前の舞台稽古を見学。終了後、貴城けいさんの囲み取材。宝塚でのラストステージにあたり、去りゆく時間、経験のすべてを一つ一つじっくり味わっていきたいとの想いが切々と伝わってくる会見。息の合ったところを見せている相手役・紫城るいさんとの出会いを「奇跡」と表現していたこと、また、心に沁みる歌唱を聴かせてくれるショー・ナンバー「虹色の空」についてお聞きしたところ、ご自分だけでなく、今回一緒に退団する六名全員の心を代弁するつもりで歌っている――と答えていたのが印象的でした。

 先の星組主演男役・湖月わたるの「愛するには短すぎる」「ネオ・ダンディズム」が宝塚の王道中の王道を行くさよなら公演だとするならば、雪組主演男役・朝海ひかるの退団公演には新機軸の二作品が並んだ。
 「堕天使の涙」、「タランテラ!」共、朝海に求めているイメージが人間ではないもの、人間という存在を超えたものであるということは共通している。「堕天使の涙」で朝海が演じるのは天国を追われた堕天使ルシファーだが、主演男役としてのキャリア、演者としての格からして役不足である感は否めない。天使と悪魔が共存するキャラクター自体は朝海のイメージに合うが、宝塚での集大成となる舞台ならば、生死や善悪を司るようなより大きな存在――例えば、「エリザベート」のトートのような――を与えてほしかったところだ。作品的には、登場人物たちが皆多分に他力本願で、絶対的な存在による救済を待ち望んでいるあたりがひっかからないでもないが、少なくとも、作・演出の植田景子が、そのような救いの手がかりになり得る夢を宝塚歌劇というメディアに見、その舞台に現出させたいと考えていることは確認できた。
 さて、問題は「タランテラ!」である。ここで朝海は、スペイン〜アルゼンチン〜アムステルダム〜大西洋〜アマゾンと彷徨うタイトルロール――毒蜘蛛――に扮し、“舞踏曲”“舞踏”をも表すその言葉にふさわしく、フィナーレにおいて八分間にも及ぶダンスマラソンを繰り広げる。“問題作”という言葉がこれほどまでにぴったり来る作品もなかろうと思われるこのレビューは、作・演出の荻田浩一が一人のクリエイターとして、朝海ひかるという表現者に突きつけた過酷な挑戦状である。
 二つの作品において与えられた役柄からも明白なように、朝海ひかるは“非人間性”の表現に長けた男役である。その種の役柄を多く与えられて輝いてきた彼女の、主演男役となってからの当たり役は文句なしに、今年、「ベルサイユのばら」で演じたオスカルに他ならない。オスカルに扮した朝海は、男とも女とも、人間とも天使ともつかない存在として立ち現れ、ペガサスに乗って空まで飛んでみせた。朝海のように、己の中から人間性の痕跡を留め得ぬほどに消し去り、“非人間性”を体現した者は、観る者が抱いた自由気儘なイメージの投影体、プリズムとなることができる。だからこそ、朝海オスカルは、性別も、人間性も超えた、それゆえにこの上なく蠱惑的な存在として、「ベルサイユのばら」という宝塚の象徴的な作品で光り輝き、世界広しといえども宝塚でしか味わえないであろう醍醐味で観る者を魅了した。
 そんな朝海の持ち味を確信犯的に生かした実験作が、「タランテラ!」と同じ荻田浩一の作・演出による、朝海ひかるバウ・スペシャル「アルバトロス、南へ」であった。退団イベントの一つとして上演されたこの作品で、荻田は、朝海がこれまで宝塚において演じてきたさまざまな役柄をコラージュし、とあるイメージを体現したかと思いきや瞬く間にそれを裏切って次のイメージへと移り変わる、そのプリズムとしての魅力を大いに引き出してみせた。
 「タランテラ!」で荻田はさらに進んで、朝海のプリズムとしての強度を極限まで試す。だから、この作品では、大まかな場所の設定はあれど、舞台美術等においてほとんど具象が省かれている。具体性に頼ることなく、自らの身一つをもって、どれだけその場を舞台上に現出せしめることができるか。それがまずは朝海に課せられた責務である。さまざまなイメージを生き、それを瞬時にすり抜けて次のイメージへと身を委ねる、その目まぐるしい連続を体現してゆく朝海を観ていると、己の意識がいったいどこに連れてゆかれるのかわからない――行き着く果ては、この世には到底存在し得ない場所なのかもしれない――という、途方もない不安感と浮遊感、高揚感に襲われずにはいられない。
 そして、問題のフィナーレにおいて、荻田は朝海の体力の限界を試すかのような壮絶なダンスマラソンを課す。後ろで踊る人々がいれかわりたちかわり現れては去る中で、朝海一人は舞台に残り、ひたすらに踊り続ける。ここが無論、“非人間性”を志向する表現者としての朝海に、荻田がクリエイターとして突きつけた最大の挑戦であることは言を俟たない。
 要するに荻田は、「タランテラ!」という作品において、朝海が是とする“非人間性”の追求を、己の限界を超えた次元まで押し進めよ、ただし、骨は拾ってやるから――すなわち、限界を超えて追求された“非人間性”が体現すべき美については、自分がクリエイターとしてのすべてをかけて責任をもつから――と、朝海に挑んでいるのである。そして、このような舞台を務めている以上、朝海は一人の表現者として、勝負を受けて立ったのである。その壮絶な勝負の根底に流れるものは無論、互いへの限りない信頼と、だからこそあまりに厳しい愛に他ならない。
 朝海としても、まさに宝塚でのラストステージにふさわしい作品を与えられて、嬉しかったはずなのである。「ベルサイユのばら」の公演の前、彼女にインタビューする機会を与えられたとき、「群舞でもいいからバスティーユの場面に出たかった」と興奮を隠さない様子を目の当たりにして、いつものクールな態度とのギャップに正直驚かずにはいられなかったが、「タランテラ!」を観た今では、その熱狂の意味がわかるような気がする。朝海はあのとき、己の志向する“非人間性”とその生き方の方向性とが合致するオスカルという役を演じられるのが、心底嬉しかったのだろうと思う。はたして彼女は「ベルサイユのばら」において、“天使”オスカルを見事体現してみせた。ましてや、一人の役者のためというよりは、宝塚全体のために上演される部分も少なくない「ベルサイユのばら」とは異なり、「タランテラ!」は、朝海ひかるのために特別に創られた、カスタムメイドの作品なのである。嬉々として身を削って完全燃焼しようというものである。
 朝海ひかるは踊り続ける。その熱狂こそ、まさに“タランテラ〜舞踏病〜”の名にふさわしい。そして、その熱狂に、“朝海ひかる”という男役をこの世に存在せしめている人間が、逆説的に透けて見える。細身の身体をさらに細らせてまで踊らずにはいられない、そのようにしてまで“非人間性”を追求せずにはいられない一人の人間が。ここに、宝塚における朝海ひかるの“非人間性”の追求、イメージの完璧なプリズムであらんとする挑戦は完成を見る。八分間を踊り終え、静かに大階段を昇ってゆく朝海ひかるを観ていると、このような作品世界を成立せしめる男役は二度と現れることはないかもしれない…という惜別の思い、そして、荻田浩一というクリエイターが、朝海ひかるという表現者をそれほどまでに愛していたという事実が同時に胸に突き刺さる。二人の真っ向勝負は、二人の勝利で締めくくられる。
 こうして朝海ひかるは奇妙な形で宝塚に別れを告げる。しかし、クリエイターと表現者がここまでの真っ向勝負を繰り広げてしまったそのさよなら公演は、宝塚の舞台における表現の可能性を、二度とは戻れない境地にまで大きく押し広げてしまったのである。