藤本真由オフィシャルブログ

 私は“母性”という言葉が嫌いである。厳密にいえば、長年のうちにその言葉にこびりついてしまった澱のような既成概念が嫌いである。
 母が子に対して発揮する愛情を正しく母性と言い表すならいざ知らず、なぜ、女性が他者を愛で包みこむことすべてを“母性”という一言で総括しなくてはならないのか、私にはそれがわからない。女性のそのような愛は母が発揮するものとしてしか知らないから…という、想像力の欠如した“母性”の使用のされ方には大いに異議がある。それはやはり、包容力と言い表してほしいと思うのである。
 男役・湖月わたるは包容力の人である。大柄な体躯から放つ温かな想いで、大劇場全体をすっぽり包んでしまう。その包容力の大きな翼の下にいて、とてつもない安らぎを感じることが好きだった。女性同士で組む宝塚では、ダンスの際のリフトは必ずしも必要ではないと思うものだが、湖月の場合は別だった。なぜなら、そのリフトは、技術をてらい、力を自慢するものではなく、人が他者によって守られる、そのとき生じる絶対的な安心感の具現化に他ならなかったからである。
 そのようにして発揮される湖月の包容力は、“母性”を微塵も感じさせない。湖月の体現してきた男役は、なまじの男など敵いようもないほど“男”なのである。だが、いかにしてそのような表現が可能であったかというと、何も彼女自身が、“女らしさ”のかけらもない、“男らしさ”に満ちあふれる人間だったからではないだろう。実際、専科時代の外部出演作「フォーチュン・クッキー」で演じたモナは、実にキュートでチャーミングな女の子だった。
 湖月わたるは、複雑な世界や感情の中から、そのときどきに合わせたある一つのものを、非常に純度の高い大きな結晶として取り出す能力に長けた人なのである。楽しい場面ならば楽しさを、悲しい場面なら悲しみを、“男”を演じるならば“男”を、できるだけ大きな結晶として提示する。そのとき不要なものは、できるだけ削ぎ落として。“男”を体現するときには、残っていては“男”として見えなくなるものすべてを、丁寧に、繊細に、削ぎ落としてみせる。その繊細さが逆説的に“豪快”の表現を可能にする。だから湖月は、主演男役となってからは特に、押し出しの強い大人物の役柄を多く振られてきたのだろうが、宝塚最後の舞台で、「愛するには短すぎる」の主人公フレッドという、繊細さが生きる役が回ってきたことは、その能力をフェアに示す上でよかったと思っている。
 自分の中から“母性”と呼び表されがちなものを削ぎ落とし、“男”としての包容力を表現するその姿に、包容力とは、男にも女にも等しく開かれた言葉だと改めて強く思う。なぜなら、“母性”とされがちなものを削ぎ落として残ったその包容力とは、「湖月わたる」という男役を務めてきた一人の女性の中に、確かに存在するものだからである。

 彼女には何度か取材する機会に恵まれたが、その都度心が洗われるような思いがしたというのは、その舞台に接して抱くのと変わりのない印象である。即座にその人柄に魅せられ、「この人はオレ、素敵に撮っちゃうからね〜」と気合の入るカメラマンも多かった。
 なかでも印象深いのは、初めての取材、「フォーチュン・クッキー」のパンフレット用のインタビューでお会いしたときのことである。吉祥寺駅からはるばるバスに乗ってようやっと到着したその場所で、取材のために用意されたのは稽古場の隅の物置のような部屋だった。その狭い部屋に彼女を迎えなくてはならなかった私は(それと、日向薫さんも…)、自分ではどうしようもないことながらも申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだが、そんなことは少しも意に介する風もなく、常設の稽古場があり、次の出演作が常に用意されている宝塚のすばらしさをざっくばらんに語ってくれた姿を、今でもありありと思い出すことができる。もともと深かった彼女の宝塚への愛は、あの専科時代を経てさらに並々ならぬものとなり、卒業の日までひたすらに走り続ける原動力となっていったのではないかと思う。
 一つのムードで劇場を包み込むことに長けた人だったからこそ、退団を発表してからの舞台は、ときに胸に迫るものがあまりにも大きすぎた。ダンシング・リサイタル「Across」では、想いをこめて舞台狭しと踊る姿に、こちらも同じ想いに押し流されそうな気がした。ミュージカル「コパカバーナ」でも、最後の最後まで楽しく盛り上げようという心意気が見られ、それだけに、幕が下りることが即座に退団後のその不在を感じさせ、一瞬にして気持ちが逆ベクトルへと向かってしまうのだった。
 そもそもが、「ベルサイユのばら」宝塚大劇場公演の千秋楽近くの舞台を観ていて、一幕ラスト、フランス宮廷への惜別の念を語る湖月フェルゼンの姿に、「退団を決意したんだな…」と感じずにはいられなかったことがある。実際の退団発表はその半月ほど後のことだったけれども、それほど彼女の中では、フェルゼンが去りゆくフランス宮廷と、自分が去りゆく宝塚とが重ね合わせられていたということなのだろうと思う。だから、東京公演の際には、そのアナロジーがあまりにも成立してしまって、胸が痛いことがあった。何と言っても、フェルゼンはここで、「振り向けば心の荒野に/優しく微笑む愛の面影」と歌うのだから。宝塚を退団した彼女の行く手にあるのが、“心の荒野”ではなく、愛が優しく微笑む場所であらんことを願わずにはいられない。

 「愛するには短すぎる」「ネオ・ダンディズム」は、この公演をもって宝塚を退団する星組主演男役・湖月わたるへの惜別の念がこめられた公演である。
 「愛するには短すぎる」は、豪華客船での四日間の旅で二十年ぶりに再会した幼なじみの男女が、互いの心のうちにある愛を確かめ合いながらも、それぞれの境遇ゆえに貫き通すことはできず、別々の人生を生きてゆくことを誓う…という筋のミュージカルで、セリフの端々に至るまで、湖月をはじめとする退団者十名を送り出そうという観客、星組生、劇場スタッフの想いがあざやかに取り込まれ、重ねられている。レビュー「ネオ・ダンディズム」には“惜別”と銘打たれた場面があり、ここでは湖月が一人ひとりと、出会えた幸せを分かち合い、別れを惜しむダンスを繰り広げる。
 日に日に惜別の想いがいや増すその舞台を観ていると、“入団”という名の出会いと“退団”という名の別れを九十余年の長きにわたってくりかえしてきた宝塚という劇団には、人の出会いと別れを描く一連の作品群が存在すること、そして、見目麗しい男女の恋物語と並んで、いや、おそらくはそれ以上に、この分野を得意としてきたことに改めて気づかされる。今回の「愛するには短すぎる」は、作・演出を手がけた正塚晴彦の巧みな作劇、そして、主演コンビの湖月わたる&白羽ゆり、次期主演男役の安蘭けいをはじめとする星組生が、何気ない日常のドラマを紡ぐ市井の人々を実に生き生きと演じていることもあり、出会いと別れを描くそんな作品群の中でも秀作の一つに位置づけられようことは間違いない。
 船上における出会いと別れを描いたこの物語には、宝石盗難事件の犯人捜査の顛末もからみ、親友同士として登場する湖月と安蘭の絶妙なかけあい、楽しいナンバーの数々による軽妙な展開もあって、前半は笑いのうちに進んでゆく。しかし、白羽演じるヒロインが、結ばれぬ運命に思いを馳せ、「私達、どうして会ったのかな」と吐露するあたりから、ムードは一気に感傷的なものへと変わる。その問いに対し、湖月扮する主人公は、「でも、会わなかったら」「僕はこんなにも君を思うことはなかった。(中略)君に会えたから、僕は気づかなかった沢山のことを知ったよ。自分のことも、人のことも」と答え、「でも苦しいよ」と返すヒロインに、「うん、苦しいよ。だから一緒にいよう」と告げる。
 別れの瞬間が来るまでの、少しでも長くその時間を引き延ばしていたいような、でも、あまりの痛みゆえに早く過ぎてほしいような、何ともやりきれなく胸にわきあがる想いを、その後の物語は丹念に描き出す。そして、「笑うまで行かない」「じゃあ、笑わない」のやりとりの後、ヒロインは主人公の頬をつかんで無理やり笑い顔を作り、彼の前から去ってゆく。そんな彼女の背中に主人公が投げかける「幸せになれ」はそのまま、劇場に集う人々が共有し、宝塚を去る湖月へと投げかけ返す言葉でもある。
 人と人はなぜ出会うのか。そして、なぜ別れのときはやってくるのか。物語に見入るうち、そんなせつない問いが、どうしようもなく胸のうちに押し寄せてくる。例えば、なぜ、私たち観客は湖月わたるという男役に出会ったのか。そして、なぜ今、彼女演じる男役に別れを告げることが、こんなにもせつないのか。何も湖月に限らない。宝塚の舞台を通り過ぎていったすべての生徒に、その問いは当然当てはまる。
 無論、それは何も、宝塚という場に限られた問いではない。生きとし生ける者は誰でも、出会いと別れを繰り返して日々を生きている。それは人生における必然でしかない。井伏鱒二による漢詩「勧酒」の名訳を借りるならば、「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」ということなのである。出会い、別れとはっきり認識できるかどうか、共に過ごせる時間の長短、密度、そうした違いはあれど、そのことを日々、意識して生きているかどうかに過ぎない。入団、退団という、学校制度にも似た宝塚における出会いと別れのシステムは、日々の生活の中で漫然とやり過ごしているそんな人生の真理をクローズアップし、目の前に突きつけてくる。
 人が、生まれ、死にゆく生き物である以上、どんなに身近な、親しい人間とも、いつか必ず別れのときはやって来る。究極的には、死によって。そのことを思えば、これまで経験してきたすべての出会い、これから経験するすべての出会いが愛おしく、これまで経験してきたすべての別れ、これから経験するすべての別れを思って胸がしめつけられるように苦しい。しかしながら、その愛おしさと苦しさの前に、我々には、縁あってその都度めぐりあった人々に、心の限りを尽くして向かい合うことしか残されてはいない。そして、すべての人々にそのように接することができたならば、どんなに時間の限られためぐりあいも、どんな人生も、“愛するには短すぎる”ことは決してないのだろう。湖月をはじめとする退団者と共に創りあげる最後の作品の一瞬一瞬を愛おしみながら、ありったけの想いを込めて舞台を務める出演者たちの姿を観ていると、そう感じずにはいられない。
 それにしても愛は、注がれたその瞬間に等分の愛情でもって返されることはきわめて稀である。多くの場合、多寡の違い、時間のズレが生じ、それはときに悲劇とも喜劇ともなりうる。しかし、ときたま、向かい合う両者の愛がそのままつりあう、奇跡のような瞬間が訪れる。例えば、日本ハムファイターズが日本シリーズを制した夜、札幌ドームを埋め尽くしたファンと、この日で野球界を去る新庄剛志の間には、愛が確かに交わされていた。どのような分野であれ、無数の人々から注がれる愛にたった一人で応え、愛を存分に返しきれる者こそ、真の意味でのスターなのだろう。
 「ネオ・ダンディズム」の終盤、万感の想いを込めて一人踊り、銀橋へと出てきて客席に深々と頭を下げる湖月わたると、鳴り止まない拍手でもってそれに応える観客、その間にも、愛は確かに交わされている。男女の恋物語に仮託して、人と人との間に愛が通う奇跡の瞬間を描き出してきた宝塚とは、夢の世界を去りゆく者をそうして送り出してきた場所なのである。

 先日発売になったレプリークBis VOL.5「キャラクターと俳優のおいしい関係」の“宝塚・男役特集”、すでにご覧になられた方も多いかと思います。早速感想を送って下さった方もいて、大変ありがたく読ませて頂きました。
 先輩に憧れ、その芸を何とか自分のものにしようと努力し、ひいては自分だけの“男役”を完成させてゆく…。そんな“男役道”が取材を通して浮かび上がるにつれ、自分自身が出版社に入社し、雑誌編集部に配属になり、何とか一人前になりたいとあがいていた頃を思い出しました。先輩の取材に一回同行しただけで、後はもうカメラマンと二人きり、取材の仕方もコツも教わることのないまま、誌面になるだけの話を聞いて来なくてはならない。入社後半年くらい経った頃から自分で記事も書き始めるようになったのですが、最初はこれがまたなかなかうまく書けなくて。毎週のように上司に怒鳴られ、ときにはたまらず涙して。何とか一週間を乗り切って校了が終わり、空いた時間ができると、バックナンバーのページをめくり、先輩の書いた記事を食い入るように読んで、どうやったらこんな軽妙洒脱な文章が書けるのだろう、どうやったらこんな斬新な発想ができるのだろう、いつか自分もこんな文章が書けるようになるのだろうか…と考えていた。そんな風に毎日無我夢中で過ごしていたことが本当に懐かしく思い出されてきて。そして、思うのです。人が何かを学び、習得するとは、結局のところ、先達を見つめ、その姿を真似てゆく、そのことに尽きるのではないかと。そして、どの道もそうやって受け継がれてきたのではないかとも。

 初日前の舞台稽古を見学。舞台稽古見学の際は進行の邪魔にならないよう拍手なども控えるものなのですが、「愛するには短すぎる」の場合、軽妙な掛け合いや仕草等があまりにおもしろいため、こらえきれない笑いがちらほらと。「ネオ・ダンディズム!」共々、東京に来てさらに全体が引き締まった感があり、取材陣の間でも非常に好評。
 舞台稽古終了後、湖月わたるさんの囲み会見。二作品とも退団を重ね合わせる場面やセリフが多く、観ている方としてはぐっと来るところが多いのだけれども、湖月さん本人が演じていて、ぐっと来つつもこらえている場面などあれば教えてください…とお尋ねしたところ、芝居の方では、自分と役柄とが重なる部分が多いので、役としてぐっと来ている、ショーの方では、“惜別”の場面、白羽ゆりさんと安蘭けいさんのセリフ等にぐっと来る…とのお答え。全体の見どころとしては、これまで男役同士でがっちり組むことがなかった安蘭さんとのやりとりを挙げ、この公演で組替えとなる白羽さんとのコンビについても、「組むには短すぎた、とは言わせない」とふれて、自身の退団公演であっても、跡を継ぐ者、残る者への気遣いを本当に自然に見せるあたり、いかにも湖月さんらしい優しさが。ちなみに本日の囲み会見にはイギリスBBCの取材陣も姿を見せていました。

 26日発売のレプリークBis VOL.5「キャラクターと俳優のおいしい関係」で、<タカラヅカ「男役」というキャラクター>全13ページを担当しています(他に「ボーイ・フロム・オズ」の紫吹淳さんの記事も担当)。内容ですが、現役生では安蘭けいさん、水夏希さん、OGでは麻実れいさん、真琴つばささんのインタビュー記事、男役の“制服”ともいえる黒燕尾服の美の秘密を解き明かした図解ページ(モデルは愛音羽麗さん)、男役の系譜をまとめた試論という組み立て。半分体験入団? したかのような気持ちで、男役、ひいては宝塚の魅力について真剣に取り組んだ今年の夏は、人生でもっとも大変な夏休みの宿題に立ち向かったような感があり(九月頭まで持ち越して、「終わらない〜」と頭を抱えたところまで宿題と同じ…)。一夏考えて私なりにたどりついた結論については、特集をご覧頂ければ幸いです。

 宝塚版“オペラ座の怪人”の初日前の舞台稽古を観劇。“ピュアな心同士の通い合い”を基調に、異形の怪人と歌姫との恋を描き出してゆく花組新主演コンビのキャラクター造形が好感度大。舞台稽古終了後、春野寿美礼さんと桜乃彩音さんの囲み会見。役作りのポイントについてお聞きしたところ、春野さんから“純粋”というキーワードが挙がり、納得! という感じ。お気に入りのナンバーはとの問いに、桜乃さんが春野さんの方に向いて「……」と小声で答えたのを、春野さんが「全部好き、だそうです」と“通訳”してくれたのも微笑ましい光景でした。

 朝海ひかるバウ・スペシャル「アルバトロス、南へ」(日本青年館大ホール、18時の部)観劇。“朝海ひかる”という、何とも不可思議な、だからこそこのうえなく蠱惑的な存在、その魅力をさらに際立たせる、雰囲気のある作品。彼女がこれまで出演してきた数々の作品が縦横無尽にコラージュされ、夢とも現ともつかぬ世界が展開されてゆく。さまざまな役柄を瞬時に行き来する朝海ひかるは、そのどれもでありながら、どれでもない。その役、一つのイメージとして捉えたと感じた刹那、把握の腕をすり抜け、また次の何かへとうつろってゆく。人々の抱くさまざまなイメージを映し出し、朝海ひかるはそこに在る。もはや生命体ではなく、何かのプリズムであるかのように。それこそが、彼女の何よりの魅力なのだと改めて教えてくれる、退団の餞にふさわしい作品。七人の出演者全員が、それぞれに個性と芸を輝かせて見応え十分。作・演出の荻田浩一が、これぞ座付き作家といった仕事ぶりを見せている。

 宝塚雪組全国ツアー公演「ベルサイユのばら」をグリーンホール相模大野大ホールにて昼夜観劇。あちこちの劇場に出かけていって宝塚の舞台を観劇するのも全国ツアー公演の楽しみの一つだと思うのですが、やはり、グリーンホール相模大野のようにゆったりとゴージャス感があって観やすい劇場だと楽しみもひとしおというもの。大理石の白にオスカルの白い衣装がひときわ映える感じ。
 昨年秋の星組全国ツアーから続いてきた一連の「ベルサイユのばら」の公演ですが、個人的には、観劇は相模大野でファイナル。この間、さまざまに魅力あふれるオスカル、アンドレ、フェルゼンに出会うことができ、自分にとって「ベルサイユのばら」という作品、そして、宝塚の舞台が持つ意味を改めて考え直す機会を与えられたように思います。素晴らしい舞台を見せてくれた出演者の皆さんに、心から感謝するものです。
 水夏希主演のオスカル編も、一連の公演をしめくくるにふさわしい舞台。彼女はアラン役でもアンドレ役でも魅力を放っていたけれども、今回主演の立場で扮しているオスカルが、集大成ともいえる輝きに満ちて、非常に魅力的。正義感にあふれ、人々の先頭に立ってこれを引っ張ってゆく役柄が実に似合う。「ベルサイユのばら」を通じて再認識した彼女の魅力も、じっくり考えてみたいと思っています(…という訳で、観劇は終わりましたが、原稿はまだ続く予定です…)。

 初日前の舞台稽古を見学。このところ一本もの公演も続いていたし、久々に宝塚らしいレビューを観たような。
 舞台稽古終了後、轟悠さんと瀬奈じゅんさんの囲み会見。轟さんが金、瀬奈さんが銀の衣装ということで、「きんさん、ぎんさん」と言いつつ現れたお二人。まずは挨拶で、轟さんが同期の夏河ゆらさんの退団を惜しめば、瀬奈さんが加えて楠恵華さん、椎名葵さんの二人の退団者の名前をあげていたのが印象的(個人的にも、月組らしい個性輝く三人の退団は残念な限り)。私からは共に舞台に立つ中で見出したお互いの魅力をお聞きしましたが、轟さんは瀬奈さんの著しい成長ぶりと多面的な個性を評し、瀬奈さんは轟さんについて「目だけで多くを語れる」点をあげるなど、囲みといえど充実した内容の会見でした。

<オスカルを生きる〜東京宝塚劇場・オスカル〜>

Don’t dream it Be it
                                     “The Rocky Horror Show”

 「ベルサイユのばら」の主人公であるオスカルは、アンドレに比べ、「これが私!」と主張することをより要求されるキャラクターである。女でありながら男、軍人として育てられ、貴族でありながら最終的に民衆の側に与して革命を戦うオスカルの、人生におけるいくつかの重要な決断が、「これが私!」との信念に基づくものであろうことは疑いようがない。ところが、オスカルの影として生きるアンドレの「これが私!」なる信念を、セリフや歌の手がかりなしにそのあり方によって表現した安蘭けいは、今度はオスカルを、一貫して受けの演技で造形する。それは無論、オスカルという人間の並外れて深い包容力を示すためである。
 「すべての人には立場があり、その立場ゆえの信条がある。――私はこれを尊重する」。これが、安蘭オスカルを貫く基本姿勢、揺るぎなき信念である。ここにいう“立場”とは、性別や身分の違いに始まって、それぞれの人間の差異を形作るとされるすべての要素を含むものである。安蘭オスカルは、徹底した受けの演技によって、すべての人を、温かく、優しく、受け入れてゆく。フェルゼン役の湖月わたるの包容力が、大きく広げたその両腕に世界を収めるものだとするならば、安蘭オスカルの包容力は、一人ひとりに真摯に向き合うということを、すべての人間相手に貫き通すようなところがある(どこまで行ってもこの二人は対照的で、だからこそ素晴らしいコンビである)。
 安蘭オスカルが怒りや憤りをあらわにするのは、人が己の立場を濫用したり、これを逸脱し、他者の立場や信条を侵害してまで己の信条をふりかざす場合である。先に述べた信念は、オスカルが女であることを理由に侮辱的な言葉を投げつけるブイエ将軍に対して挑みかかる、「女だから分かることもあるんです!」とのセリフの発し方に如実に示されている。安蘭オスカルが口にするとき、このセリフは、「私だから分かることもあるんです!」と聞こえる。――私、オスカルは、フランスを守る貴族の家柄に生まれ、女でありながら男として育てられた軍人である。その私が、これまで生きてきた中で得た経験を通じて理解したことを、なぜあなたは、「女である」という一点のみで否定してしまえるのか。それは、あなたの「男」という立場の濫用に他ならず、私の立場を明白に侵害しており、私という人間の否定でもある――。そのような憤りが、安蘭オスカルをして、父ジャルジェ将軍に対して、「何故、何故…私が女だから莫迦にされるのですか!」と言わしめるのだが、このセリフもまた、「私が私だから莫迦にされるのですか!」と等価となる。安蘭オスカルが口にする場合、セリフの中に登場する「女」には、「貴族」、「軍人」、他のどんな要素も投入可能である。
 安蘭オスカルが「これが私!」を声高に表明するのは、この場面と、市民側に立って戦おうと衛兵隊士に呼びかける演説の場面くらいである。こちらの場面にもやはりブイエ将軍が絡んでおり、先の場面において父の手前引き下がらざるを得なかったオスカルは、「女にだって生きる権利はある。主張を述べる権利はある」と敢然と始めて意趣返しを果たす。その小気味いい「命がおしければ黙って聞け」には、先の憤りが転化されたところの、相手に対する侮蔑の念が含まれている。――人生をかけてつかみとってきた信条から、私は今、このような言葉を口にしている。しかし、お前と来たらどうだ。その言葉に、己の信念、人生など、到底かけてはいまい――! 正しく己の人間性を見切られたブイエ将軍は、捨てゼリフを吐いてすごすごと退散する他あるまい。
 安蘭オスカルが伯爵の称号と伯爵領のすべてを捨てるのは、そんなものがなくとも在る己、すなわち「これが私!」を知ったから――少なくともその段階では、知った、と思ったからである。「誰かが弱い市民を守ってやらなければ…」と一人語るオスカルには、かすかながらも驕りがある。オスカルが本当に己を知った瞬間は、アンドレが死んだその刹那に他ならない。愛する者を無残にも殺され、初めて市民と同じ地平に立ったからこそ、ここでの呼びかけは「シ・トワイヤン」でなくてはならないのだが、その呼びかけに続くくだりに、先ほどまでの己の驕りに対する悔悛の情をにじませてしまうあたり、一見ネガティブな感情や人間性さえも躊躇なく表現することによって結局は“清く正しく美しく”反転させてしまう、“逆説の役者”の真骨頂である。
 安蘭オスカルを観ていて私は、それまで難解に思えていた橋本治の「色気は譲歩の能力だ」という文章を初めて理解することができた(「ひろい世界のかたすみで」収録「女って何だ?」より)。他人を受け入れるという譲歩こそ、色気、つまりは、その人間のもつ本質的な魅力へとつながってゆくものなのである。すべての人間を受け入れる包容力に発露する安蘭オスカルの魅力は、ブイエ将軍に対峙するときのオスカル同様、人生をかけてつかみとってきたすべてを舞台上においてさらけ出すことをためらわない、自身の役者としての魅力と、究極的には等しいものであるのだろう。

 それにしても安蘭オスカルは人間的である。国家の窮状をよそにはしゃぐ貴族のご婦人方には仏頂面で嫌味をかまし、心を許したアンドレの前では拗ねてすらみせる。軍神マルスの生まれ変わりのような死闘を繰り広げるバスティーユの場面においてさえ、市民たちが一人、また一人と倒れるたび、一人ひとりの死を食い止められない己の無力さに、激しく胸を衝かれずにはいられない。
 そんな姿に観入るうち、漫画のオスカルに心を揺さぶられた日を思い出した。幼い日、オスカルは、男や女、貴族や人種などといったものすべてを超えた、遥かなる憧れの存在であった。しかしながら私は、安蘭オスカルを目の当たりにするまで、オスカルという人物が生身の人間として存在する可能性というものを考えたことがなかった。安蘭オスカルを目にして初めて、オスカルと実存とが私の中で結びついたのである。憧れは何も、憧れのままにしておく必要などない。そのように生きればよいだけなのだと、きわめて人間的なその姿が教えてくれている。

<参考項目>

「ベルサイユのばら」の安蘭けい・その1
http://blog.eplus.co.jp/daisy/2006-05-15-2