藤本真由オフィシャルブログ

 初日前の通し舞台稽古を見学してきましたが、「エリザベート」のときと匹敵する報道陣の多さで、「ベルサイユのばら」に対する注目度の高さを実感。
 舞台稽古終了後、主演・湖月わたるさんの囲み取材。衣装のままで駆けつけての短時間の会見、しかも大人数相手という独特の雰囲気の中、密度の濃い話を聞けたことは大きな収穫。私からも、フェルゼンの役作り、そして大劇場公演と異なるキャストで臨む東京公演に向けての意気込みを質問。後者の質問については、「ずっと一緒にやってきた」と安蘭けいさんの名前を挙げつつ、星組のメンバーと作品を練り上げていきたいと抱負を語っていたのが印象的でした。
 作品自体の感想については後日記すことにします(雪組大劇場初日もまだ書いてなかったし)。

 本日発売のぴあ2月23日号に星組公演「ベルサイユのばら」開幕に寄せる記事を書いています。短いものですが個々の演技にもちょこっと触れていますので、ご興味のある方はぜひご一読を。

 この日も昼夜観劇。オープニングの白羽アントワネットの鬘に、船が! 生で目の当たりにすると、やはり感動。そこまで徹底する精神に感服。それにしても、あの船は重くないのだろうか。そして、船の部分は鬘職人が作るのか、それとも模型を持ってきてくっつけるのか、などといろいろなことを考えてしまった。
 五人目の役替わりオスカルとなった大空祐飛は、好演した「エリザベート」のルドルフを髣髴とさせる役作り。愛国心に燃えるオスカルだが、その愛国心はあくまで軍人として戦うこととセットになっており、悶絶夫人たちの大騒ぎの場面での孤独感が際立つ。
 大空オスカルはまた、“父の娘”でもある。オスカルを軍人となるべく育て、愛国心を培わせてきたのは他ならぬ父ジャルジェ将軍であり、愛国心を通じて、オスカルは父と深くつながっている。「当たり前の女として育っていたら」のセリフを口にする大空オスカルがさみしそうな表情をするのは、水オスカルのようにそちらの世界に未練があるからばかりではなく、そちらの世界を選んでしまっては父との深いつながりが失われてしまうことを知っているからである。
 さて、父の心のままに育ってきた大空オスカルに、思春期が訪れる(年齢的におかしいとの意見もあるかもしれないが、彼女がここで味わう心理的葛藤は、どう考えても思春期の心の揺れとしか言いようのないものである)。父の言うように、国王一家及び貴族たちを守ることが真の意味での愛国につながっているのかどうか、彼女は疑問を抱く。そしてまた、おそらく初めであろう恋に落ちるが、その相手はといえば、彼女がこれまで育んできたところの愛国心、つまり、現在疑問を抱いているところの愛国心と真っ向から対立し、これを揺るがしかねない存在、つまり、王妃と許されざる愛を交わしているフェルゼンである。愛国心への疑問が生じ、その結果フェルゼンと恋に落ちたのか、それともフェルゼンと恋に落ちたから愛国心への疑問がわきあがってきたのか、どちらが先かはわからない。大空オスカルの心を悩ませる二つの要因は、分かちがたく結びついている。
 そんな大空オスカルに向ける安蘭アンドレの笑いは、「お前もそういうことで悩む年頃になったんだなあ」という感慨である。幼いときから見守ってきたアンドレならではの反応だが、ここでアンドレのショックが深かろうというのは、「奥手だから今はまだ仕方がないけれども、いつか恋に目覚める日が来たら、俺の気持ちに気づいてくれるかもしれない…」との期待がアンドレになかったとは言えないからである。それが、他の男に初恋を抱く姿をも見守るしかない。やはり、思いを秘めているだけで幸せですと笑顔を浮かべるまでに、どんなにか深い葛藤があったことだろうと察する。それはさておき、大空オスカルの愛国心の強さを受け、安蘭アンドレの憂国のセリフもひときわ強調される。
 <今宵一夜>は演出が変わり、アンドレがオスカルの肩を抱くシーンがない。ここで安蘭アンドレは、セリフと態度に劇場中を埋め尽くすような深い包容力を発揮して、肩を抱くという行為の代わりとする。大空オスカルの「お前の心を知らないではなかった」が一味違うのは、そこに、「お前の気持ちは知っていた。そして、長年その深い感情に守られ過ごしてきたけれども、それこそがまさしく“愛”なのだということに、私は最近まで――初めての恋を知るまで――気づいてはいなかった」との懺悔の念が込められているからである。だから大空オスカルはその後、「お前はこの私が好きか」と確認を求める。「私が“愛”だと感じているところのお前のその思いは、正しく“愛”なのか」と。
 大空オスカルに対しての安蘭アンドレの「俺は今日まで生きてきてよかった」は、オスカルと共に生きてきた人生の全肯定である。オスカルを幼い頃から愛し、その成長を見守り続けてきた。そうやってずっと見守ってきたからこそ、今こうしてオスカルが大人へと成長を遂げ、愛を解するようになったその瞬間さえも見届けることができる。「お前もまあ、よくぞ大人になって…」とのさらなる感慨が、「今日まで生きてきてよかった」と語られるのである(これが、なまじの人間のようには決して押し付けがましくないところが、真の包容力というものであろう)。しかしまあ、一人の人間の人生をこうまで包み込んでしまえるというのも、つくづくとんでもない愛の深さである。
 こうして愛を知り、一つ大人になった大空オスカルは、父から教えられた愛国心とも決別し、さらに大人になる。自分の心のままに国を愛し、行動しようという決意、すなわち成長が、父の世界の否定である痛みを知っているからこそ、大空オスカルの決別の辞は、王妃より父に向けられたときにいっそうせつなく響く。ここで大空オスカルが抱く新たな愛国心こそ、フランス革命の掲げる理念の一つである“友愛”に他ならない。
 父の説いた旧来の愛国心にわずかながら未練があったのかもしれない大空オスカルの心は、愛するアンドレを無残にも殺されたときに固まる。自分と同じように愛国心に燃えていた人間をこうもあっけなく殺してしまう側に、理などやはりない。そんなものに自分の国への愛を利用されてはならない。自らの決意に確信を抱いた大空オスカルは、憤然として戦い、そして倒れる。死にゆく大空オスカルが最後に口にするのが、愛するアンドレの名前ではなく、「フランス万歳」であるというのは、その愛国心の強さゆえ当然とはいえ、やはりせつない。
 組でのポジション、個性ゆえの役回りということなのか、これまで大空祐飛に回ってくるのは、どことなく影があったり、屈折していたりといった役柄が多かったように思う。「エリザベート」のルドルフにしても、理想にいっとき燃えるものの、挫折し、死を選ぶ人間だった。オスカルのように何かを選び取り、それをまっとうするというまっすぐな役柄を演じる姿は非常に新鮮で、もっとこのような役柄で観てみたいと思わせるものがあった。
 以上、星組大劇場公演にて四人のオスカルを観てきたが、“一人五役”ともいえるアンドレを造形した安蘭けいが、東京公演ではオスカルをどう演じてみせるのか、それに対する立樹遥、柚希礼音のアンドレがどのような演技を見せてくれるのか、楽しみな限りだ。また、引き続いての雪組大劇場公演“オスカル編”ももちろん、大いに期待するところ。ということで、「ベルサイユのばら」観劇日記はまだまだ続く。

 というわけで、安蘭アンドレの「俺は今日まで生きていてよかった!」は、対水オスカルの場合、「…勝った!」と聞こえる。何に勝ったかというと、「俺が愛する者をつまらない料簡に押し込めようとしていた世間」、そして、「愛する者が卑怯にも逃げ込もうとしていたロマンティックな夢想」に対してである。世間に対しての戦いについては前段で述べたが、その上で、夢の世界に一人閉じこもるのか、それとも自分と一緒に現実の愛を生きるのか、安蘭アンドレの存在は水オスカルに決断を迫る。アンドレは最終的に勝利をおさめるわけだが、ここで、安蘭けいが今回造形しているアンドレ自体、“世間の思惑に勝った”アンドレとなり得ているというのは、非常に重要なことだろうと思う(何と言っても、大芝居で演じられがちな「命だけは…大切に…」を、ああも自然体の演技で押し切って見事成立させてしまったのだからして)。
 祖国フランスのために戦おうという演説は、水オスカルが、男や女といった次元を越えて、一人の人間としての魂の叫びを聞かせるから感動的で、それなのにその後、またもや「結婚式だ」などと乙女チックモード全開になる水オスカルを、安蘭アンドレは「いつものオスカルらしいや」と、本当に嬉しそうに見守る。水オスカルの口にする「もろもろの古きくびき」には、安蘭アンドレが笑い飛ばしたところの「自分をつまらない料簡に押し込めようとしていた世間」が無論、含まれている。やっと自分自身を受け入れ、ありのままの自分として人生を歩んでいくことを決意したのに、そんな自分を丸ごと受け止め愛してくれる人を失い、自らも倒れなくてはならなかった、そんな運命が、水オスカルの悲劇を際立たせる。
 ここで少々物足りないように感じないでもないというのは、水オスカルがありのままの自分を受け入れる上での葛藤の過程や、安蘭アンドレが世間の思惑に対して勝負を挑んでいるであろう様子等々が、今回の脚本には描かれていないからだ。そのあたりは、雪組“オスカル編”東京公演での安蘭アンドレ、そして全国ツアー公演での水オスカルに大いに期待するものだし、逆に、星組東京公演で安蘭オスカルがこのあたりの苦悩を描き出すのか否か、描くのだとすればいかに敢然と戦いを挑むのか、気になるところだ。

 水オスカルを目の当たりにして、個人的に解けた謎が一つある。それは、田中真紀子が涙を流して世間から非難されたとき、彼女自体は好きでも何でもないのに、何だかかばわなくてはならないように思ってしまった不思議である。ここでのキーワードは、“乙女心”だ。あのとき私は、田中真紀子の涙に、何とはなしに乙女心を見てしまったのだろうと思う。
 乙女心とはつくづく、社会で生きていく上でまったく役に立たない代物である。それは、“女心”と違って、(乙女心を解さない)男を利するところがかけらもないからだろう。しかし、日本には宝塚があって、「ベルサイユのばら」がある。ここに、日本の乙女心は救われるのである。

 それにしても、水オスカルが表現し得たものは、宝塚歌劇というメディアにおいてかなり挑戦的ではある。“男性性”を体現するものが男役、“女性性”を体現するものが女役だという約束事こそが、女性がすべての役柄を演じる宝塚の鉄則である。そこに、男性性と女性性の間をこうも平気で揺れてしまう人物を登場させるということは、鉄則で出来上がっている世界を壊しかねない。水オスカルのあのような表現が成立する上では、湖月フェルゼン、白羽アントワネット、安蘭アンドレをはじめとして、周りがきっちりと“男役”“女役”を体現していなくてはならなかったと言えよう。
 もはや世界から失われつつあるのかもしれない“男らしさ”、“女らしさ”を伝統芸能のように継承してゆくことが、これからの宝塚に課せられた役割なのかもしれないと考えていたが、水オスカルという表現に、新たな可能性が見えたように思った。<終>

 このような人物造形であるからこそ、なぜフェルゼンという男性を好きになったか、水オスカルの場合は理由が明白である。あのように男性性と女性性の間で揺らぎ、引き裂かれているからこそ、自分の中の女性性を強烈に意識せざるを得ないような圧倒的な男性性を目の前にしたとき、水オスカルは恋に落ちるしかないのである。
 これは、湖月わたるという、圧倒的な男らしさを兼ね備えた役者がフェルゼンを演じていることも大きい。湖月フェルゼンを前にしたとき、水オスカルは自分が女であることを確認できる。そして、恋に落ちる。なぜなら、目の前の人は、二つのジェンダーの間で揺れる自分に、“女”としての絶対的な安定を与えてくれるかに見えるからである。しかしながら、そういう強固な男性性をもった男性というのは往々にして強固な女性性をもつ女性を好むものであって、フェルゼンもその例に漏れず、初めて逢ったとき君が女だとわかっていれば云々などと口にする。
 こういう状況をもう、歯噛みしながら見ているとしか思えないのが、ありのままのオスカルを深く愛しているアンドレである(思いを秘めているだけで幸せですと笑顔を浮かべるまでに、どんなにか葛藤があったことだろう)。飾り人形と言われるのは私が女だからだろうかとか、また女のクセにって言われたなどとあれこれ思い悩む水オスカルに、安蘭アンドレが大らかな笑いで応えるのは、「おまえをつまらない料簡で縛ろうとする世間なんか、笑い飛ばせ」という気持ちからである。俺はたとえ、混乱していようとどうあろうと、おまえのことを愛しているのだからと。
 水オスカルがなかなかアンドレの言うようには割り切れず、ひいてはアンドレの愛を受け入れられないのは、女としての自分に自信がもてない女というものは、そういう自分を愛する男なんか、ろくなもんじゃないと思っているからである。「…この人、女の趣味がおかしいんじゃないだろうか。そんな人に愛されたって、女としての自信なんか全然もてないし…」と、卑屈にも思っている。
 客観的に見れば、ありのままの自分を愛してくれるアンドレの方が、女らしさという自分の一面だけを意識させるがゆえにその面前ではぎこちなくならざるを得ないフェルゼンより、一緒にいて幸せに決まっている。何と言っても安蘭アンドレは、明日からの戦いを前に覚悟だ何だと“雄々しい”セリフを口にしたかと思いきや、瞬時に「星がきれいだ」と乙女チックモード全開になってしまえる水オスカルに対し、「おまえって昔からそういう乙女チックなところがあったよな〜」と、いささかも動じず受け止めてくれる人なのだから。自らの中に乙女心がない者は、乙女チックを理解できない。すなわち、乙女チックを解する男の中には乙女心が当然あるのだが(安野モヨコが「監督不行届」で、結婚相手の監督クンが、ときとして自分以上に乙女心を全開させる…と分析していることに注目)、このことも、水オスカルには不満である。なぜなら、乙女心を持った男の前では、自分は絶対的な“女”でいることはできないからである。
 水オスカルがアンドレの愛を受け入れるかどうかというのはつまり、彼女自身がそのままの自分を受け入れられるのかという問題と等しい。しかしながら、ここで生来の乙女心が邪魔をするというのは、白馬に乗った王子が自分をどこか異国にさらってくれることを夢見るような人間にとっては、「幸せはすぐ近くにあったのでした」という「青い鳥」的エンディングなんか、ちっともロマンティックには思えないからだ。それより、自分を絶対的な“女”であるかのように思わせてくれる、自分をそのような意味で“異国”にさらってくれる男性を夢見ている方が、たとえ叶わぬ夢でも、ロマンティックではある。<続>

 アメリカから帰国して中一日、ヘロヘロの身体に鞭打って訪れた大劇場。昼夜と観劇したこの日のオスカルは、水夏希の最終日。ほぼ半月ぶりの観劇だったが、舞台が全体的に引き締まってさらによくなっていた。際限なく広がっていくかに思える、湖月わたるの、人としてのスケールの大きさ、かっこよさ。東京公演の頃にはいったいどこまで行ってしまうのか。
 そして、水オスカル。2001年にも好演していた役なのでさらに掘り下げてくれることを期待していたが、期待を遥かに上回る出来だった。現代に生きる女性と大いに共通する苦悩を背負ったオスカルであり、これだけのものを見せてくれたというところに、彼女が五年ぶりに同じ役を演じる意味があったと思う。

 水オスカルの背負った苦悩は、例えば安野モヨコが「美人画報」シリーズ等のエッセイや「働きマン」で繰り返し描くところの苦悩と共通する。それは、働く上で社会が要求するところのジェンダーと、自分の内面に存在するそれとが分裂してしまっているため、生きる上で多大な齟齬を来たしつつあるという苦悩だ。仕事をするのも好きだし女の子らしいことも好きで、自分の中ではその二つは問題なく共存している。しかしながら、社会の方はどうもそういう自分のあり方を許してはくれない。乙女な心を捨てて完璧に“男”となって働くか、女性らしさを売りにして働くなり家庭に入るなりするか、そのどちらを選べと社会は自分に迫っているかのように思えて、水オスカルの心は混乱の極みにある。
 セリフ回しから伝わるその性格は、まっすぐ過ぎる正義漢と言おうか、相手を逃げ場のないところに追いつめる形で正論を吐くため、男から「かわいげがない」として非常に嫌われるタイプである。そして、まっすぐ相手を追いつめた挙句、「女のクセに」というもっとも言われたくない逆襲を食らって、大いに傷つく。そんなオスカルを見守るアンドレは、ハラハラし通しだ。「正論言うのはいいんだけど、もうちょっと言い方とか工夫しないと、通るものも通らなくなるだろうに」と。
 水オスカルは、霧矢オスカルのように、男装して戦うという運命には苦悩していない。男装すること、軍人でいること自体は別に嫌ではない。むしろ、好きである。しかし、だからと言って、いわゆる“女の世界”にまったくもって共感できないというわけではない。「もしも当たり前の女として育っていたら…」のセリフを、朝海オスカルが「私にはまったく関係のない話ですが!」と切り捨てたのに対して、水オスカルは、「その世界はその世界で、非常に魅力的だけど…」と未練を見せる。しかしながら彼女は、自分がそちらの道を選んでも満足しきれないであろうことも知っている。だから、軍人として生きる運命は受け入れている、と語るのである。<続>

 というわけで、またもや行って来ました宝塚大劇場。星組「ベルサイユのばら」を昼、夜と観劇。役替わり中心に感想を記すと、この日のオスカルは霧矢大夢。お目目ぱっちり、まるでフランス人形のようにかわいらしいオスカルで、原作で特に女らしさをこめて描かれている場面の表情を思い出させる。声のトーンは上げつつも、男役を演じるときと同様の涼やかでりりしいセリフ回しで、男装の麗人ならではの相反する魅力を表現。朝海ひかるが、己の運命を敢然と受け入れてしまった者の孤高を描き出して観る者に畏れと憧憬の念を抱かせるのに対し、霧矢の場合、運命を受け入れるまでの過程における苦悩の表現が実に人間的で共感を誘う。自らを支え続けてきてくれたアンドレの気持ちを受け入れることが、戦う運命を受け入れる決心を下す上でも大きく作用しているように見えるだけに、愛する者を失ってなおも奮い立ち、戦いへと身を投じて死んでゆく、その最後に「アンドレ、お前はもういないのか」とつぶやく、その喪失感はあまりに深い(オスカルとアンドレの一心同体感がより宿命的なものとして描かれていた朝海オスカルバージョンの場合、このセリフは、「お前が死んでしまった以上、私がここで死ぬこともまた運命なのだろう」と聞こえ、その静かな諦念が心に響く)。
 そして、オスカルが変わったことで、安蘭けいのアンドレも、朝海オスカルバージョンとは別人?と思えるほど演技が変化していて、慄かされるものがあった。相手が変われば当然のことかもしれないが、これだけのハードスケジュールの中で、そこまで緻密に演技を組み立てていっているとは…(先日までの貴城けいオスカルバージョンを見逃したのがつくづく残念でならない)。シャープで硬質な持ち味の朝海オスカルに対しては、眼光あくまで鋭く、切れ者感をみなぎらせていたが、ほんわかとした雰囲気の霧矢オスカルに対しては、見守る様も笑い声も春の木漏れ日のように温かい。私のように甘えのある人間を愛してくれるのか…とのセリフに対する反応も、霧矢オスカル相手だと、「何を今さら。そういうところが好きなんじゃないか!」と、笑いこそ取っていないもののまるでボケに対するつっこみのよう。水夏希と大空祐飛、残る二人のオスカルに対しては、いったいどんな演技を見せてくれるのだろう。
 オスカルの愛の告白を受けての、「俺は今日まで生きてきてよかった」というセリフの表現も、ちょっと呆然としてしまったほど奥が深い。普通に演れば、「想いが叶う日まで生きてきてよかった」になるところ、安蘭アンドレの場合、昨日までの自分の不幸を発見してしまったセリフになっているのがすごい。昨日までの自分は、相手を一途に想い、その想いを胸に秘めているだけで幸せだった。幸せだと思っていた。しかしながら、心が通い合った今、胸いっぱいに広がる幸せと来たらどうだ。昨日までの“幸せ”など及びもつかないほどの、この至福。そして、昨日までの自分は、人生にこんな幸せがあることを知らないほどに、不幸だった――。だから、「今日まで生きてきてよかった」のである。愛を知った人間の心のうちをここまで微細に描き出してしまう演技に、ただただ感服。

 宝塚の「ベルサイユのばら」という作品にはやはり魔力があると思う。作品の本質について、そしてその真髄を舞台上に描き出そうと心を尽くす出演者の演技について考えていると、止まらなくなってくるところがある。宝塚、そして「ベルサイユのばら」の魅力はセットで考えるべきものだろうし、そのように考えることによって、宝塚が多くの観客をひきつけてやまない本当の理由が少しずつ見えてきたように思う。舞台をご覧になっていない人、宝塚というものに興味がない人にとっては「何のこっちゃ」という感じかもしれませんが、せっかくの機会なので、「ベルサイユのばら」、そして宝塚歌劇の魅力について、いま一度とことん向き合ってみようと思います。その過程で、今までまったく興味のなかった方にも、「ん? 何だかすごいんだな」と思って頂けたら幸いです。

 3日に宝塚大劇場で星組の「ベルサイユのばら」(午後の部)を観てから、もう一週間以上にもなろうというのに、何と言うか、あまりにずーんと来るものがあって、余韻にずっとひたっている。観劇した次の日なんか、何かに取りつかれたかのように神戸の街をさまよってしまい、気がついたら三万歩近く歩いていた。いや、久々の神戸でチェックしたい帽子屋&カフェ&建物・廃墟が多々あったのは事実だけど(それにしても、新年早々廃墟めぐり…。我ながら、2006年も趣味道全開爆走中という感じ)。このままいくらでも余韻にひたり続けられそうな気もしたのだけれども、そろそろ次の観劇が迫ってきたので(そう、また行く気です)、感想を書き記しておくことにします。

 全国ツアー公演を市川で観劇したときから、湖月わたるのフェルゼンの、男や女といったものを超えて、人としてマリー・アントワネットに寄せる理解と想いの深さに激しく打たれた。アントワネットが死んで後、終幕に浮かべる「…それでも彼女を愛した人生に悔いはなかった」とでも言わんばかりの静かな微笑に、「そう来たか」と本当に度肝を抜かれた。そこまでの愛され方をしてしまったら、応える相手も、やっぱり毅然として断頭台に向かうしかないなあと…。そして大劇場公演では、持ち前の包容力がさらにスケールアップして、何だかすごいことになっていた。今までだったら、「ああいう風に愛され包み込まれるのって幸せだろうな」と舞台を眺めていたのが、もはや客席に座っているだけで包み込まれている実感が味わえるというか。一幕最後の、フランスでさまざまな愛の形を知った…というセリフも本当に心に迫るもので、だからこそ終幕、自分の命と引き換えにしてでも守りたい、愛する人の命を、愛するがゆえに救うことができないという、これまた異なる愛の形を自ら見せざるを得ない悲劇の重みが効いてくる(そういう意味では、最後のセリ下がり&すぐに始まるラインダンスがちょっと余韻を壊してしまう気もするのだけれども…)。対するマリー・アントワネットの白羽ゆりも、全国ツアーから本当にドレス姿が美しいなあと見とれていたのだけれども、少々うわずりがちだったセリフ回しも安定し、本当の愛、そして母としての愛を知って人間的に成長を遂げてゆく様が一層きっちりと描き出せるようになってきている。
 観劇した日のオスカルは朝海ひかる。昨年の制作発表会のとき、衣装もメイクもない姿なのにオスカルにしか見えない! と、取材陣からどよめきさえ起きた人だけに、漫画から抜け出てきたようなオスカルだった。ルックスはフェアリー系だが演技や声は実に男らしいという持ち味が非常に生きている。恋心を抱いてフェルゼンやアンドレに女として接しようとするのだけれども、何だかぎこちないというあたりも上手い(何というか、一生懸命働いてたらすっかり女を忘れてた! という現代女性の悩みと大いに共通するものを感じる)。主演を務めるこの後の雪組公演が本当に楽しみ。
 そして、全国ツアーの湖月フェルゼンに続き「そう来たか」と度肝を抜かれてしまったのが、安蘭けいのアンドレ。理想一直線にひた走るオスカルの側からひしと離れず、四方八方に冷静に目を配りながらも深い愛を心に抱いて見守り続ける、まさにオスカルの影といった感じの、とんでもなく人間として奥行きの深いアンドレだった。出番が少ないのは無論残念なのだけれども、登場シーンの一つ一つがあまりにもインパクトが強いので、出番の少なささえ逆手にとって観る者の好奇心をそそっているのだろうかとすら思えてくる(そういう計算をする役者さんではないと思うけれども)。芝居はあっさりとリアルで、絶叫調になってもおかしくない決め台詞も心からつと出てくる感じで発してゆく、それなのに表現している人間性はひたすら深い。これだけ再演を重ねてきた演目で、彼女にしかできない演技で思い切って勝負し、これだけのものを見せてしまうというのが本当にすごい。秋に主演を務めた「龍星」で演じた役柄において、本当の自分などどこにもいないかもしれないという、今に生きる人々が皆心の奥底に抱えているのかもしれない、けれどもおよそ向き合いたくないような凄絶な諦念と真っ向から向き合ってしまった彼女は、とんでもない境地に達してしまったのかもしれない…と思う。朝海オスカルに対しては、同期である強みも生かし、早すぎるくらいの反応を返して幼なじみのよしみを表現していたのが印象的だったけれども、他の四人のオスカルに対してどのように違いを見せていってくれるのかも大いに気になるし、東京公演で演じるオスカルも楽しみな限り。
 一方でオスカルとアンドレが、身分という不自由なパラダイムを乗り越え、愛と理想を貫いて死んでゆくというカタルシスをきっちりと体現しているからこそ、愛の成就を阻む身分もまた自分の一部であるという自意識に殉じる他なかったフェルゼンとマリー・アントワネットの悲劇が際立ってくる。湖月わたるが夢を現実の世界のものと根付かせる能力の持ち主ならば、安蘭けいはリアルを夢の高みへと昇華させることのできる人というように、対照的な持ち味の二人が同じ地平を目指して両側から橋を架けていっているようなバランスのよさが、今の星組にはある。

 それにしてもやっぱり宝塚ってすごいところだなあと改めて実感。底力を見せつけられた感じ。普段宝塚を観ない人にも今回の「ベルサイユのばら」はぜひ観ていただきたいところだけれども、これ以上チケット争奪戦を激化させるというのも…。うーむ。

 宝塚歌劇月組公演「JAZZYな妖精たち/REVUE OF DREAMS」(東京宝塚劇場)13時半の部観劇。「JAZZYな妖精たち」は、妖精の扱い方等、夢の世界を夢として提示するのはなかなか難しいと思わせられる作品(このあたりに非常に腐心しているのが、熊川版「くるみ割り人形」だと思うのです)。しかしながら、描かれているテーマ自体は宝塚にふさわしいものだし、アジ演説みたいだった先の公演より全然好ましい。
 何より、幼なじみという設定のメイン五人の魅力がきちんと引き出されているのがいい。好青年の主人公を演じる瀬奈じゅんは、トップお披露目という重責をまったく感じさせず、真ん中に立つ姿があまりにも自然なことが逆に驚き。相手役の彩乃かなみも、やっと立つべき場所に立ったという感じで、すでに何作品も主演を務めてきたかのような安定感のあるコンビ。「エリザベート」でルキーニを演じると、後々演技に非常に効いてくると常々思ってきたのだが、実力派の霧矢大夢には即効性があったようで、共感を呼び起こさずにはいられない翳りのある役を好演。男役として今後いったいどう変化していくのかなと考えると、ちょっとドキドキしてしまう。好青年とニヒルを受けて、また違った色の屈折を出さなくてはいけない大空祐飛も難しい役どころをきっちり務め、この公演で退団してしまう月船さららも、彼女らしいあったかみのある演技を見せる。はじけた役どころに回った娘役の城咲あいにも成長の跡あり。
 「REVUE OF DREAMS」は、同じ系統の音楽が続くのがちょっと? なのと(ギンギンのハードロックなので、少々疲れてしまう)、ニューヨーク・ネタが芝居とかぶるかなという気がしないでもないのだが、久々にオープニングからガンガン踊る月組を観るのは非常に楽しい。瀬奈の明るさが光り、彩乃の存在感と実力が大いに効いている。

 本日も東京メトロ一日乗車券コース。
 「春野寿美礼 イン・コンサート『I GOT MUSIC』」(昭和女子大学人見記念講堂)12時の部観劇。宝塚花組主演男役・春野寿美礼が、クラリネットにスネアドラムの演奏、タップ、オーケストラの指揮と八面六臂の大活躍。もちろん、美声で聴かせる熱唱もたっぷりと。ジャズ・テイストのクラリネット、「ブラスト!」の石川直直伝のスネアドラムと、“楽器を演奏するかっこよさ”という、男役の魅力の新たな境地を見せてくれた。クールで端正なルックスから、優等生、正統派貴公子のイメージが強いけれども、こんなにも多面的な魅力をもったスターであるところがいつも非常に興味深い。個人的には、春野寿美礼ほど、人間の本質にある孤独と真摯に向き合い、深く受け止め、そんな自分の姿をすがすがしいほどにいさぎよく表現して魅力的なパフォーマーはなかなかいないと思っている(ここでいう“孤独”を否定的な意味合いで理解してほしくない。人間の本質を確かに見つめているからこそ、人と人とのつながり、それを求める人間の心をもきちんと表現できるのだと思うし、だからこそ、春野寿美礼の微笑みはいつも慈愛に満ちて優しい)。その意味で、私は彼女の持ち味をかねてから“究極の孤独芸”と呼んでいるのだが、今回のコンサートでも、そのあたりの心情を聴かせる曲が深く印象に残った。それにしても、出演者が一列に並んでの楽しいスネアドラム演奏や、「ブラスト!」Tシャツを着た春野寿美礼と石川直のツーショットが載ったプログラムを見たら(石川直のヤマハの広告もあり)、「ブラスト!」が観たい気分でいっぱいになった。

 続いては、「ドラマ・リーディング いのちをともにした女たち〜近代日本女性史〜 Bプログラム『中也が愛した女−いかに泰子いまこそは−』」(紀尾井小ホール)15時半の部観劇。中原中也と小林秀雄、文学史に名を残す二人の男性が激しく恋を争った長谷川泰子を演じる秋山菜津子がすばらしい。冒頭、年老いた泰子として発するしわがれ声の第一声だけで、こういう女の人っている! という圧倒的なリアリティ、そして泰子の生き様がありありと見えてくるようで、背中がぞくっとした。若いときの生き生きとした魅力も、二人の男性に愛されたという人物像に説得力がある。それにしても、ゼルダ・フィッツジェラルドや高村智恵子など、芸術家に愛され、結果、精神を病んでいく女性の物語はつくづく胸に痛い。常に「自活しなければ」と自らに言い聞かせる泰子の、「我に職を与えよ!」との悲痛な叫びが心に残る。初めて訪れた紀尾井小ホールの、ロビーの窓から見える緑の中の迎賓館が美しかった。

 本日ラストは映画「ジョージ・マイケル〜素顔の告白〜」完成披露試写会(スペースFS汐留)へ。イギリスが世界に誇るスーパースター、ジョージ・マイケルのヒストリーを、懐かしい映像と、マライア・キャリーやエルトン・ジョン、ボーイ・ジョージ、それにもちろん本人の話もたっぷりとまじえてつづってゆくドキュメンタリー。昨年、彼がひさかたぶりのオリジナル・アルバム「ペイシェンス」を発表した際、インタビューを担当し、解説と対訳を手がけた縁で、プレス・シートに文章を書かせていただいている。そのために先日、字幕なしバージョンを観せていただき、かなり激しく泣いた私ですが、今回も胸にこみあげるものが多く、またまた目頭が熱くなり…。エイズに倒れたクイーンのフレディ・マーキュリー追悼コンサートで、同じ病に侵されているかもしれない自分の恋人(後にやはりエイズで亡くなる)への祈りをも込めて「愛にすべてを」を絶唱するシーンなど、涙なくしては観られないものがある。ワム!時代の相棒アンドリュー・リッジリーも登場して、ジョージとの変わらぬ友情と、ワム!解散へと向かう時期の苦しい想いを語るのもグッと来る。アンドリューの頭がすっかり薄くなっていたのはショックだったけれども、すごくいい顔になっていて(昔より魅力的かもしれない)、きっといい人生を歩んできたんだろうなと思わせてくれるのもうれしい。「もっと聴きたい!」と思うと次へと切り替わってしまって、観終わったら思わずCDを聴き返したくなる曲の使い方も憎いほど。
 それにしても、わいせつ行為をしてロサンゼルスの公衆トイレで逮捕されたかなり恥ずかしい事件のときの心情まで正直にしゃべってしまう、その率直さこそが彼の音楽の魅力の源泉なのだなと改めて思う。スーパースターなのに、さまざまな事件が起きるたびにいちいち、ナイーブ過ぎるほどに傷ついて、その深く傷ついた心から、いつしか美しい楽曲が生み出されてくる。「この曲が流行っていたとき、少女だった自分はこんなことを考えていたな・・・」なんて振り返るとあまりに懐かしくて、でも、そういう時代があったからこそ、今、自分がこうしてここにいられるのだと思うと、ジョージの曲と一緒に人生を歩んでこられたことに感謝せずにはいられない。その意味でも、ワム!世代の人は絶対に観に行くべき作品! ワム!世代ではない人も、観れば必ず、織田裕二や平井堅もカヴァーしている(そういえば昔、郷ひろみや西条秀樹もカヴァーしていましたが)彼の楽曲の魅力がわかるはず。劇場公開は、永遠の名曲「ラスト・クリスマス」が街中に流れているであろう12月頃、渋谷のBunkamuraル・シネマにて!