藤本真由オフィシャルブログ

 みずみずしい――。それが、宝塚歌劇団の座付き作家、柴田侑宏の十年ぶりの待望の新作、星組公演「黒豹の如く」に接して抱く感慨なのだった。柴田は大ベテランである。今年83歳を迎えた彼は、1958年の入団以来、昨年百周年を迎えた宝塚歌劇団を支えてきた。日本物、洋物問わず、香気あふれ、抒情性に満ちたその一連の作品群。柴田の存在なくして、宝塚歌劇の今日の姿はありえない。
 病を得て目を悪くして後は、口述筆記による執筆、また、演出を他の者に任せる形で作品創りに関わってきた。その分業体制下の最初の作品の題名が「黒い瞳」(1998)――言わずと知れた名作である――とは示唆に富む。二度ほど柴田氏にお会いし、お話させていただく機会を得たが、私が発する声、そこから自然とにじみ出るものによって私の人となりを知り、判断されているのだろうと、身の引き締まる思いがした。無論、そこであわてて声色を取り繕ったところでどうにかなるものでもない。そして、彼が私の文章に接する機会があるとすれば、それは誰か読み上げてくれる人物の声を通じてなのだろうと考えると、身の引き締まる思いがする。私の書く文章は、声に出して読み上げられたとき、聴く人の心に届き得るものだろうか――。
 「黒豹の如く」は、六年にわたって宝塚を牽引してきた星組トップコンビ、柚希礼音&夢咲ねねの退団作にあたる。柴田は二人に、海軍大佐と、彼のかつての恋人で今は未亡人であるヒロインとの、再会して燃え上がる恋の物語を描いた。――1920年、スペイン。主人公アントニオ・デ・オダリス侯爵(柚希)は、大航海時代に七つの海を駆け巡った海賊を祖先にもつ海軍大佐である。第一次世界大戦後の世界は空の時代へと移り変わろうとしており、かつての輝かしい栄光は過去の話、スペイン海軍には無用論さえささやかれている。野望に燃えた大実業家のビクトル・デ・アラルコン公爵は、アントニオを、ファシズム体制下の海軍の最高司令官に招こうとする。アントニオはこの誘いをはねつけながらも、その一方で、自らが時代遅れの産物とはなっていないかと苦悩する。
「強いとは何か? 国の力か? 金の力か? もう男の力など用はないのか! 俺の海はどこだ、どこへ行った。俺の海はどこだ、どこにある。/海の男たちの時代は 終わったのか」――
 物語の中で、独裁と金権政治は明確に否定される。ヒロインの愛と絶大な権力とを手に入れようとするアラルコン公爵の野心は、彼の愛人の妄執により結局は潰える。迷えるアントニオも一つの決意に至る。
「あの海を行く帆船は風で進む方向が決まる訳じゃない。帆の向きで決まるんだ。世界の風がどう吹こうと、俺は俺の思うままに生きる」
 作中、もっとも印象深いセリフである。そして、新たな任務を得、ヒロインや仲間たちに見送られて旅立つアントニオは歌う。「大海原は俺の故郷」と。
 ――作家が自らの心の内にペンを突き立て、そこから湧き出る血の紅いインクでしたためたようなこれらの言葉を、客席で聴き、脚本で読む。若々しい。そこに、今なお理想に燃える一人の青年を見る。その青年の、熱情に震える手に自分の手を重ね合わせ、伝えたい。私もまた、志を同じくする者なのだと――。
 柚希扮するアントニオの叔父、退役軍人アロンソ・デ・バンデラス侯爵役で英真なおきが出演している。星組組長を長らく務めた英真は、組配属のときから柚希を見守り、柚希トップ時代の2012年に専科に移動した。気心の知れた二人のやりとりは作中のハイライトであり、クラブでグラスを傾けながら海と女たちについて歌う「海と女 永遠の謎」は、作家が、半世紀以上、命を傾けて支えてきた宝塚歌劇と、そこに生きる女たち、それを取り巻く女たちへの讃歌である。
「怒りだすわけも/涙流し すぐに笑うわけも/分からないけど 愛しく思う女たち」
 自らも女性である英真と柚希とが、男の姿で、それぞれの男役芸を存分に発揮しながら、男性作家から託された女たちへの讃歌を歌う。――宝塚歌劇でしかありえない讃歌。柴田侑宏が去りゆく柚希礼音に贈ったのは、そんなみずみずしいきらめきに満ちた作品である。
 2014年9月29日。都内で行なわれた雪組公演「ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−」の制作発表会は、夢乃聖夏扮する銭形警部のパフォーマンスから始まった。…ルパンが犯行予告したから来てみたら、何だって現場にマスコミがいるんだぁ〜! 居並ぶ報道陣に向かってまくしたてる夢乃銭形。…そう来なくっちゃ、ここは絶対夢乃聖夏だ! と思った。夢乃は作・演出の小柳奈穂子の笑いのミューズである。前回、小柳が雪組で担当した「Shall we ダンス?」において、夢乃は大方の予想通り、映画版で竹中直人が快演したドニー役を演じることとなり、劇場を大爆笑の渦に巻き込んだ。そして今回の「ルパン三世」でも、大方の予想通り、とっつぁん役を任された。夢乃聖夏はそのような期待を寄せられる存在なのである。小柳の作品に賭ける意気込みと、夢乃への信頼を感じた。そして、夢乃がパフォーマンスのトップバッターを務めたことに、安心感を覚えた。役者として大きくなったんだな…と、そんな感慨を抱いていたら、この作品が彼女の退団公演となったのだった。
 実は、彼女は私の夫の父親と同じ、佐賀県多久市の出身である。聖夏の「聖」は、多久の人々にとっては大切な場所、市内にある重要文化財、多久聖廟(孔子廟)にちなんでいるのだという。
「遠い先祖をたどったら、もしかしたら同じとかかもしれない」(夫)
 それを知って以来、義理の父親の遠い遠い親戚に接するような気分で、彼女の舞台を観るあひる。そうか、この熱い暑い夏の太陽のような人と…。そういえば、非常に大らかなところは似ているかもしれず。
 夢乃は、“男役十年”を越える研12まで、星組で過ごした。持て余すような長い手足を生かして黒人役を造形した「My Dear New Orleans」(2009)、「エンパイア・ステート・ビル、でっかいなあ」の迷セリフを残した主演作「摩天楼狂詩曲」(2010)などが思い出に残るが、何といっても観客の度肝を抜いたのが、ショー作品「BOLERO」(2010)のアフリカン・ダンシング・ファンタジー“トマケ”の場面であろう。夢乃率いる男役陣が、「トマケトマケトマトマケトマケトマ…」と叫びながら激しく歌い踊る。その思い切りのよさ。すべてが吹っ飛ぶあまりのインパクト。夢乃の姿を思い浮かべつつ、作品を観ておらず、“トマケ”について何の知識もない夫の前で唐突に叫び踊ってみたところ、「何その土着な踊り〜」との感想が見事得られた。
 雪組時代は、本人も認めるように、前トップスター壮一帆との“迷コンビ”ぶりが印象的である。壮がトップとして主演した「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」、「Shall we ダンス?」、「一夢庵風流記 前田慶次」の三作共、壮に付き従い何のかんのある“迷コンビ”。熱い、熱すぎるジェローデル。爆笑の嵐を巻き起こしつつ、人間として成長を遂げるドニー。前田慶次と勝負して負け、たまさかその鬱憤のはけ口となるも、笑顔を浮かべて「旦那ぁ〜」と明るく慶次に従い、最後には友となる深草重太夫。壮慶次の手荒いアドリブを受け、その身が心配になる日もあったが、夢乃の明るさが、壮のこの退団公演を湿っぽいものとしない上で大きな役割を果たしていた。全国ツアー公演「若き日の唄は忘れじ」で演じた壮の“刎頸の友”、小和田逸平役で、「ふんけいっ!」と自らの体躯で大の字を描いてみせたことも忘れがたい。「Shall we ダンス?」のドニー役といい、ショーでのダンスの場面といい、長い手足をどこか持て余し気味の熱く激しい動きが、男役・夢乃聖夏の真骨頂である。
 さて、「ルパン三世」の銭形警部である。作品をご覧になれなかった方も、宝塚歌劇公式ホームページでポスターを見ていただきたい。あの表情。あの左足の上がり具合。躍動感。思わず見入ってしまう、あまりのインパクトと思い切りのよさ。あのポスターで、宝塚版「ルパン三世」に大いに興味をひかれた人、宝塚版「ルパン三世」の成功を予感した人も多かったのではなかろうか。
 前項でふれたように、「銭形マーチ」に乗って「ベルサイユのばら」の秀逸なパロディが展開されるシークエンスは、「ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−」の肝とも言える。生のオーケストラの演奏によって繰り広げられる、大野雄二作曲のあのメロディ。東京公演初日後の囲み会見で、この点につき大野氏に質問したところ、原曲においては、この曲を歌った三波春夫を生かすため、サビが“和”になる、すなわちそこでチャンチキが鳴るのだが、宝塚版における青木朝子の編曲につき、「お、やるなと思った」と大変うれしそうであった(脚本ではここの「銭形マーチ」につき「ロック」と書かれており、他にも「ロココ調」などあちこちで使われている)。このビッグ・ナンバーの芯を任されたのはもちろん、宝塚が自信をもって送り出した銭形警部、夢乃聖夏である。そして、大方の予想通り任された「Shall we ダンス?」のドニー役で大爆笑をさらったように、やはり夢乃は期待を裏切らない。長い体躯と手足で再現するとっつぁんのがに股。アニメ的な動き。夢乃のシトワイヤンとっつぁんが民衆の中に飛び込み、ロベスピエールと共に「シトワイヤン…行こう!」と「ベルサイユのばら」のバスティーユの戦闘の如きダンス・シーンを繰り広げる際、笑わずにはいられようか。だいたいが、ルパン三世とその一味はカリオストロ伯爵の魔術によって首尾よく8年後にタイムスリップするというのに、一人取り残されて激動の8年を真面目に生き抜くあたりがとっつぁんらしい。「銭形マーチ」の哀感あふれる歌詞とあいまって、心に沁みるその哀愁。大真面目なのに、どうしようもなくおかしい。そこに、夢乃聖夏ととっつぁんとが見事重なる。今こうして思い出していてもやはり笑いで身体が震えそう。楽曲を締めくくる歌詞は「いつかは俺が主役になる時が来る/主役になる時が来る/ワォ!!」!
 …なんて楽しい去り際だろう! やはり、すべてを吹っ飛ばして余りあるインパクト。他の男役スターではちょっと考えられない。それがいかにも男役・夢乃聖夏にふさわしい。これからも、明るく、熱く熱く、笑いとボケにあふれた楽しい人生を歩まれんことを。

 近松門左衛門の「冥途の飛脚」を原作とした「心中・恋の大和路」で、この達者な人は誰だろう…と思った、それが、ヒロイン梅川のいる槌屋の女将・お清役の舞園るりだった。セリフのはしばしにどことなく底意のありそうな、なさそうな。組の地力は、大劇場公演において、たとえ一言であれセリフを任された者がきちんとそれを発せているかどうかでまずはわかる。組がいくつかに分かれての公演の際は、より多くの者にセリフがつき、このとき組の地力がさらにはっきりする。「心中・恋の大和路」は日本物ということで難易度も高かったと思うが、下級生に至るまで演技がきちんとしており、雪組の底力を大いに感じさせた。今回退団となる舞園もそんな雪組を立派に支えてきた一人である。
 同じく退団の帆風成海にも、まだまだこれからでしょう、そう思えてならない。彼女は「Shall we ダンス?」宝塚大劇場公演で代役で務めた探偵の助手ポール役があまりに達者だった。ただ、まだまだ新人公演学年、あまりに達者にまとまりすぎる前にもっとはじけていってもいいのでは? とも思った。その達者さは「心中・恋の大和路」の番頭役ではしっかりとした重しとして効いていた。「一夢庵風流記 前田慶次」での前田利家の家来、富田重政役で、前田慶次と馬の松風双方に翻弄されるコミカルな受け演技も忘れがたい。今回の「ルパン三世」では、時空を超えた銭形警部とロココのベルサイユで出会い、意気投合する近衛兵コンビの一人、アンリ役。相方ジョルジュ役の真那春人と二人、とっつぁんに従い、時にいさめ、共に泣く。ルパンたちは一味でタイムスリップしているけれども、銭形は一人なわけで、仲間ができてよかった…とほっとさせてくれる役どころであり、帆風の達者なコメディ演技を楽しむことができた。退団が惜しまれる。
 フェルゼンがいないのである。スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンが。――宝塚雪組公演「ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−」の話である。
 しかし。作・演出の小柳奈穂子にとって、不在は織り込み済みなのである。その不在を逆手に取って、ルパン三世は、フェルゼンが成し得なかったことを、見事成し遂げてしまうのである!
 不在問題について語るべきはむしろ、併演のショー「ファンシー・ガイ!」の方であろう。作・演出の三木章雄は、花組公演「カノン」(2012)において、…準トップなる呼称が存在するとするならば、それは(当時二番手だった)壮一帆にふさわしい…との思いのもと、トップコンビに壮と実咲凜音を加えた形で、「アルビノーニのアダージョ」に乗せたダブル・デュエット・ダンスを展開した。その思いには深く共感するものではあるが、壮を継いで雪組トップスターとなった早霧せいなのお披露目公演で、そのときの衣装、そして「アルビノーニのアダージョ」を、別々の場面においてであるとはいえ、用いる必要があったのかどうか。
 不在問題これで終わり。
 さて、宝塚の「ルパン三世」である。キャラクター設定はそのままに、小柳によるオリジナル・ストーリーが展開される。「ルパン三世」といえばおなじみ、大野雄二による名曲の数々も華やかに作品を盛り上げる。宝塚歌劇は何も「ベルサイユのばら」だけを上演している劇団ではない。しかしながら、宝塚と言えば「ベルサイユのばら」を上演している劇団というのもまた、世間一般に広く共有される認識ではある。ルパン三世と宝塚歌劇との出会いの場として、小柳は、この「ベルサイユのばら」の世界を選択した。フランス王妃マリー・アントワネットおわす、ロココのフランス、パリ――。始まりは現代。“王妃の首飾り”を盗みにベルサイユ宮殿に侵入したルパン三世は、一味(と銭形警部)と共にタイムスリップ、そこでマリー・アントワネットと運命的な出会いを果たす。この作品においては、フェルゼンはスウェーデンに帰国していて不在であることがしっかり言及される。「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」で言うならば、一幕ラスト、「♪振り向けば 心の荒野に/優しく微笑む 愛の面影」と絶唱してフランス宮廷を辞し、後にフェルゼン自身が「私がフランスからの帰国以来、生きていたと思うか? 私の心は生きながら屍となっていた」と振り返るあたりの出来事だと即座に想像がつく。フェルゼンの無事を祈るアントワネット。請われてルパンは彼女を街に連れ出すが、そこで目にしたものは、彼女とフェルゼンの仲とを揶揄する芝居であった。自分はかごの鳥に過ぎないとしょげるアントワネットに、ルパンは、多くを学んで自由に生きることのすばらしさを歌う。そして、自分の未来を尋ねるアントワネットに、子供や孫に囲まれ、旦那に添い遂げて幸せに暮らすと告げるのである! 初めてこの作品を観たとき、…なんて残酷な嘘をつくのだろう…と思わずにはいられなかった。だが、ルパンは“嘘”を“誠”にする。時を超える錬金術師、カリオストロ伯爵の力を借り、銭形警部を一人1785年に残して、一味は8年後のパリにタイムスリップ。ルパンは処刑前夜のアントワネットの独房に忍び込み、“犯行”を予告。処刑当日、見事マリー・アントワネットを救い出し、やはり救われていた国王一家と再会させる。物語には、革命期に実際に起きた“王妃の首飾り事件”も巧みに取り込まれている。
 一人1785年に取り残された銭形警部が、己の運命を嘆いて歌うのが、三波春夫の歌唱で名高い「銭形マーチ」。このナンバーの用い方が、ルパン三世×宝塚歌劇の融合として世にも絶妙である。銭形は、再びルパンと出逢うまでの8年の月日を、シトワイヤン銭形として、革命の指導者ロベスピエールの片腕となって生きる。フランスのその激動の年月が、銭形の歌う「銭形マーチ」にのって描かれてゆくのだが、曲が流れる中、「シトワイヤン…行こう!」という掛け声のもと、ロベスピエールとシトワイヤン銭形と市民たちが繰り広げるダンスは明らかに「ベルサイユのばら」の名場面、バスティーユでの戦闘のダンス・シーンを模しており、そこを貴族たちが逃げまどう。ルパンがアントワネットの独房に忍び込む場面は、やはり「ベルサイユのばら」の“フェルゼン編”及び“フェルゼンとマリー・アントワネット編”の大詰、フェルゼンが牢獄に忍び込む場面をなぞっている。大工仕事が得意なルイ16世により、アントワネットの登るギロチンには回転の仕掛けがなされており、これによって彼女は命を救われるのだが、その遺体を運ぶと見せかけ、死体運び人に扮した五ェ門と次元が、荷車に載せた人形を銭形に見せる。銭形がこれをあっさり通したことで、彼がルパンの王妃救出作戦を見抜き、これに協力するため、身をやつして革命の時代を生き抜いてきた事実が明かされる。この場面は、やはり「ベルサイユのばら」の世界を巧みに取り入れ、行きすぎたフランス革命の時代におけるイギリス貴族パーシー・ブレイクニーの活躍を描いてヒットした「THE SCARLET PIMPERNEL」(2008、2010)のもじりである。また、レーザー光線をくぐり抜け、高貴な姫を「ローマの休日」よろしく街に連れ出す泥棒という、今回の作品におけるルパン三世のキャラクター付けには、「シークレット・ハンター」(2007)の主人公ダゴベールを思い起こさせるものがある。
 ここまで大胆な「ベルサイユのばら」のパロディを、他でもない宝塚歌劇でやってのけてしまう。「ルパン三世」の世界を借りたからこそ可能になった技である。演出家の手腕はそのまま、王妃の一番大切なもの、すなわち命を盗み出してしまうルパン三世の手腕とも重なる。まるで、「宝塚歌劇で、『ルパン三世』なんだから、こんな幸せな夢を見たっていいじゃない?」と、演出家が、観客に向かい、芸に秀でた男役トップスターよろしく、男前に、お茶目にウィンクを決めてみせたような。小柳奈穂子、かっこよすぎである。
 もう一つ、“嘘”は“誠”になる。ルパンに出会うまで、カリオストロ伯爵はあくまで“自称”錬金術師、その実は単なる詐欺師だった。それが、タイムスリップしてきたルパンに時を超える魔術はあると諭され、師匠アルトタスに学んだ魔術に挑む。そして見事ルパン一味を8年後に飛ばし、本物の錬金術師となり、果てには現代にまで現れる。カリオストロ伯爵は、小柳が温めてきた題材なのだという。つまり、ルパン三世とカリオストロ伯爵、その二人が演出家の分身となり、時を超え、自由に活躍する。
 タイムスリップの条件がよくできている。必要なのは、500のダイヤと“マリアの涙”、そして死にたてのネズミの死骸。500のダイヤに相当するのは他でもない“王妃の首飾り”である。聖母マリアがキリストの死の際流した涙が結晶してできたとされる伝説の宝石“マリアの涙”はハプスブルグの秘宝となっているが、1793年、アントワネットたちを救い出したルパンたちの手元にはない。ここで、命を救い、その命をつなぐために“王妃の首飾り”を彼女に託すルパンの深い想いに、マリー・アントワネットは涙を流す。そのマリーの涙こそが世界で一番貴重な宝石“マリアの涙”となり、ルパンたちを無事現代へと戻す。ルパンの歌うオリジナル曲「My Dear Queen’s Diamond」は、叶わぬ想い寄せる王妃の瞳と涙をダイヤモンドの美しさにたとえた、心に残るナンバーである。
 嘘が誠になり、時空を容易に超えることができ、涙が流される場所といえば、思い浮かぶのは劇場である。「ルパン三世−王妃の首飾りを追え!−」は、宝塚歌劇の座付き作家である小柳奈穂子による、舞台論、秀逸な宝塚歌劇論であり、座付き作家としてのますますの飛翔を宣言するものである。キーワードは、“ルパン三世”が宝塚歌劇の象徴としての“マリー・アントワネット”に語る“自由”である。“清く正しく美しく”に沿う限り、宝塚歌劇作品は限りなく自由でいい。そしてこの作品は、宝塚歌劇ファンと「ルパン三世」ファン、双方から広く支持され、宝塚大劇場、東京宝塚劇場とも連日大入りを記録したのである。
 「ルパン三世」の原作者、モンキー・パンチ氏は、東京公演初日後の囲み会見で、ルパンと宝塚歌劇の美意識とが意外とうまくマッチしたと語っていた。1998年、この作品が「ルパン三世 I'm LUPIN」なるタイトルでミュージカル化された際に取材させていただき(ルパン三世のそっくりさんという設定の主人公に扮したのはルー大柴である)、驚きと新鮮な感想をうかがったことが今も忘れられない。彼が生み出した「ルパン三世」の豊かな世界と、宝塚歌劇との大胆なコラボレーションへの快諾に、敬意と感謝の念を捧げたい。そして、あまりに名高いナンバーの数々を手がけた作曲の大野雄二。作品に詳しくなくとも日本国民ならば一度は耳にしているであろうあの楽曲群あってこその「ルパン三世」の世界を、宝塚ならではの“歌劇”で楽しめたことは大きな収穫である。テーマ曲が流れ始めた瞬間の、客席の「待ってました〜!」のあの雰囲気。アーティスト大野雄二の世界に大いに魅せられた次第である。
 この作品は、雪組新トップコンビ、早霧せいな&咲妃みゆのお披露目公演である。ルパン三世のダンディズムと小柳奈穂子の男前も大いに乗っかって、早霧ルパンが軽妙な活躍を見せる。今回の役作りにあたってはアニメ版ルパンの初代の声優を務めた故山田康雄の声色を参考にしたそうだが、これが功を奏した。というのは、早霧は囲みなどで普通に話しているのを聞いていると魅力的な声なのに、舞台上での男役発声に多少難が感じられるところがあった。何も無理して声帯を締め付けるように話さずとも、男役としての発声は成立させられることを、今回の作品で学んだのではないかと思う。この点、山田康雄に大いに感謝したい。終幕、王妃の首飾りは甦ったカリオストロに奪われ、マリー・アントワネットへの想いを胸に、次の獲物を狙って明日へと歩いてゆく背中に、男役としてのせつない哀愁がにじむ。「ルパン三世」と「ベルサイユのばら」とをつなぐ上で、マリー・アントワネット役の咲妃みゆは重要な役どころである。あまりにパロディに転んでは今後の宝塚歌劇における「ベルサイユのばら」の上演がぶち壊しになってしまう。だが、小柳の演出及び咲妃の奮闘あって、「ベルサイユのばら」とは違う、それでいて「ベルサイユのばら」へと戻ることも可能な役作りがなされた。ダンスに秀でて軽やかな物腰の、それでいて気品あふれるロココの女王。ルパンに連れられ、お忍びで出かけた街で、自分とフェルゼンとの仲を揶揄する舞台を観、愚痴をこぼす。なるほど、王妃と言えど人間、もしそんな舞台を実際に観る機会があったなら酔っぱらいたくもなるだろうなと納得させられる。咲妃が演じる「ベルサイユのばら」のマリー・アントワネットも観てみたいと思わせるものがあった。そんなフレッシュな二人を、一昨年の「フェルゼン編」や昨年の全国ツアー「オスカルとアンドレ編」など、「ベルサイユのばら」を三次元少女漫画世界として見事成立させてきた芸達者な雪組陣ががっちり支える。新生雪組、好調なスタートである。
 大変失礼を承知で、まずは、男役・凰稀かなめにその昔、勝手に抱いていたイメージから記すこととしたい。
――これだけ美しいと、他人に興味を抱くことなんてあるんだろうか――。
 そして、彼女にはいい意味で、すばらしい意味で、それはたくさん“裏切られた”! いかにも宝塚の男役に似つかわしい、美しい人だから、彼女は必ずやトップスターになると多くの人が考えていたと思う。そして彼女は、自らがトップスターにふさわしい人間であることを、期待の遥か上を行く境地で証明してみせて、そうして宝塚歌劇を去ってゆく。――こんなに痛快なことがあるだろうか。
 一時期、ついてしまったセリフ回しが気になったことがあって、癖がない方がいいと思うのだけれども…とつぶやいた。「宝塚のトップスターは、言われても直したりなんかしない」と言われた。だが、そんなことはなかった。癖はなくなって、その方が彼女の美をより引き出したと思う。もって生まれた美しさと、それにさらに磨きをかけんとする美しき努力と。その双方が彼女には備わっているのだ。
 そして、周囲を思い、率いる力。若くまだまだ難しい組、宙組をまとめ上げてみせた。その力あってこその「ベルサイユのばら」のオスカルである。宝塚歌劇百周年に見事なまでにふさわしい。バスティーユ進軍の際の、燃える炎のような姿をまざまざと思い出す。そうだ。彼女がそんなにも燃える心を、命を、宿していることを知らずにいた。それだって見た目からの勝手なイメージである。美とは恐ろしいものである。虚心坦懐に向き合うということをしないと、圧倒されて終わってしまう。
 ――私は何だか、この人とはあまり接点がないんだろうな…と頑なに思い続けてきたところがあったのだけれども、いざ退団となってみるとまったくもってその逆で、どんどん接点が増えてきたように思った。そして、今後も――。
 例えば会見の場で、彼女はあまり表情に出すということをしない。それが私にはうらやましい。表情にせよ涙にせよ、平気で出してしまう、出てしまう質なので。けれども、観察を続けるだに、「あ、今うれしいんだ!」等々、微細な表情の変化でその思いがわかるようになってきた。
 そして、気づいた。彼女は、自分を表現する上で、舞台、演技やセリフ、踊りを必要とする。私は、自分を表現する上で、書き言葉を必要とする。同じことではないかと。
 凰稀かなめはその意味で、実に表現者向きの人なのである。そして、舞台と客席とで、出会うべくして出会った人だとも思う。

 「白夜の誓い」の主人公グスタフV世は、啓蒙思想に通じ、芸術にも理解の深い君主である。その役柄を彼女に宛てた時点で、作・演出の原田諒を評価する。
 原田が手がけた「ロバート・キャパ 魂の記憶」は凰稀の代表作の一つだが、その関係で、2012年のタカラヅカスペシャルで、彼女はお茶の間で人気者となった某戦場カメラマンのパロディを演じていた。嬉々として。…途中まで、凰稀かなめその人だと全然わかっていなかった。そんな芝居心は、ショー「PHOENIX 宝塚!!−蘇る愛−」の“伝説の宝鳥”の場面、七変化を見せるシーンでも大いに発揮される。聖職者に老人、そして最後には美脚を披露してのマドモワゼル。「Amour de 99!!−99年の愛−」のパイナップルの女王でも思ったことだけれども、彼女の“女装”は、美しい中にどこか男役が演じるからこその毒気が感じられるのがいい。それだからこそ後を引く。旺盛な芝居心に支えられたショースターである。それにしても。「孤独だっていいじゃない/自分が赤く燃えていれば」とは、彼女にぴったりの歌詞を、ショーの作・演出担当、藤井大介は書いたものである。
 トップ娘役・実咲凜音は残って次期トップスター朝夏まなとを支えることとなったが、必ずしも添い遂げ退団が美徳であるとは思わない。そして、凰稀かなめと実咲凜音のトップコンビが私は好きである。ベタベタしてはいなくて、けれども、信頼関係に基づいてきちんと芸を見せるプロフェッショナルな点が。これからは、実咲が凰稀から学んだ多くのことを伝えていく姿を楽しみにしたい。
 そして。私に、凰稀かなめについて大きな示唆を与えてくれた人物二人が、退団公演に共に出演していたのは本当にうれしいことだった。汝鳥伶と、緒月遠麻と。彼女との接点を見出しかねていた私に、舞台上の二人は、その美点を教えてくれた。二人の存在がなかったら、舞台人としての彼女を理解しようとする上でひるんでしまっていたかもしれない。
 ――不思議なくらい、これから! という気がするのである。何だかやっと始まった思いでいっぱいである。ということで。2015年2月15日、宝塚歌劇宙組トップスター凰稀かなめさん、卒業、心からおめでとう! どうか幸せな日を。そして、これからもよろしくお願いいたします。
 あひると南の島在住のサラリーマンは、宝塚大劇場に赴いた際、花のみちにある小林一三先生像(朝倉文夫作)と心の中で会話を交わすことを常としている。ある夏の日、いつものように夫婦はそれぞれ先生と語らんとしていた。…先生、お言葉を!
 と、そのとき。ファンを引き連れた一人のタカラジェンヌが目の前を通り過ぎた。
「…今の、見た?」
「見た」
 ――見届けてほしい――。そう、言われた気がした。
 こう書くと。「百周年は壮で行く」の預言の話を書いたときも、ある人物から、「一三先生はそんな、一人のタカラジェンヌだけに目をかけるようなことはしない」と言われたものだったが(もっとも、あの預言が誰の声によるものだったか、私自身は書いてはいない)、またもや何か言われるかもしれない。もちろん、先生も、いわんや神も、誰か一人だけを依怙贔屓するということはありえない。ただ、各人にそれぞれ果たすべき役割が任されるということはあろうと思う。
 目の前を通り過ぎたのは、緒月遠麻だった。

 緒月遠麻はキノコ好きジェンヌとして知られる。最近でこそ“キノコ女子”がブームだが、彼女のキノコ好きは高校生のころからだというから先駆者的存在である。そしてある時期、その舞台からはキノコ愛が炸裂して伝わってきたものだった。
「今朝もキノコ食べてきた!」
「酒のあてに、キノコ!」
「元気がないの? だったらキノコを食べればいいよ」
 私自身はどちらかというとキノコの類は苦手な方だったのだが、啓蒙されるうち、食べられる種類もキノコに関する知識も増えた。自宅近くの商店街の店の看板を見て、「…あ、これ毒キノコなんだ」と気づいたり、「マイ流しそうめん機」を売っていたヴィレッジ・ヴァンガード高円寺店で「キノコ栽培キット」に心ひかれたり。それにしても、この人は舞台とキノコ、いったいどっちが好きなんだろう…と考え込んだ時期もあり、さまざまなキノコの特色を男役のさまざまなカラーとして表現してみてはと提案してみたこともあった。
 しかしながら。キノコへの愛が大いに表明された時期を越え、緒月遠麻は舞台人としてますます大きな存在となっていった。例えるならば、真顔で頓狂なことをして見せる様が何だかとても気になる近所の子供がいて、それがいつしか花と成長していたような。男役の技量のうちに、本来もつ女性としての美しさも溶け合わさって。
 彼女には新人公演主演の経験がない。そして、その経験の有無は、トップスターになる上での必要不可欠な条件であるのみならず、宝塚歌劇の舞台で重要な役を演じる上での条件でもあると考えている人もいて、そういう人々からすれば、例えば、緒月が「ベルサイユのばら」でアンドレとアランという重要な役どころを役替わりで演じたりすることは不思議に映るようである。ほとんど、10代の終わりに受験勉強がどれだけできたかを計るに過ぎない大学入試の結果で、その後の人生が決まってしまうと考えるようなものである。それが何だ! と言いたい。舞台で着実に成果を出していって、その技量にふさわしい役柄を与えられることに何の問題があろう。舞台に立ってすぐに技量を発揮できる者、時間をかけてゆっくり技量を身につけ、個性を発揮していく者。宝塚歌劇にもさまざまなタイプのタカラジェンヌがいて、努力が実ったときに報われるようであって欲しいと心から願う。そして、緒月遠麻は彼女にしか可能とはならなかったであろう唯一無二の道、けれども、後に続く多くの者が希望を見出せる道を切り開いたタカラジェンヌだったと思う。
 「風の錦絵」の小坊主のロケット。「ロシアン・ブルー」のユーリ先輩。「ロジェ」のシュミット(殺人犯)。「オネーギン」のある革命思想家。「ニジンスキー」のセルゲイ・ディアギレフ(宝塚では珍しい同性愛の役どころ)。「銀河英雄伝説@TAKARAZUKA」のヤン・ウェンリー。「風と共に去りぬ」のベル・ワットリング(女役!)。「翼ある人々」のロベルト・シューマン。「ベルサイユのばら−オスカル編−」のアンドレとアラン。――それにしても、多種多様な役柄で個性を発揮したものである。ほとんど、多種多様なキノコの特色を表現したようなものである。今振り返ってみても、どれが一番とは選べない。
 退団公演「白夜の誓い」では、主人公グスタフV世の幼なじみなれど、後に袂を分かってその暗殺者となるアンカーストレム役。率直に言って、グスタフV世との対立が割に急にやってくる印象があり、難しい役どころだが、堂々たる演技で押し切った。ショー「PHOENIX 宝塚!!−蘇る愛−」では、コメディ仕立ての“伝説の宝鳥”の場面の警部キタロール役で、十八番の真面目くさったコミカル演技を披露。“祈り”の場面では、男性性と女性性とが融合した美しさにはっとした。

 残念ながら縁がなくて、緒月さんには一度も取材させていただくことがなかったのだが、先月下旬の新年互礼会で初めて言葉を交わす機会があった。まずはキノコの話題から入るあひる。そして、退団後の進路についておうかがいしていたところ、…何たることか、涙が〜〜〜。これまで舞台上でさまざまな役柄を演じる姿を楽しみ、キノコ愛をも感じてきたのに、その機会がもしかしたらなくなってしまうのかも…と考えたら、何だかとてつもなくさみしくなってしまい、涙がそれはぴゃあ〜と流れて一向に止まらない。初対面の人相手に。しかしながら、彼女の対応は大変男前だった。そして、今後舞台に立つことに関しても前向きな感触を得た、と思う。これからも、緒月遠麻らしい、自分自身の道を切り拓いていってください。舞台人としてだけでなく、キノコ親善大使やイメージ・キャラクターを務めてみても、きっといい味を発揮することと思います。
 フェルゼンがいないのである。スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンが。――宝塚宙組公演「白夜の誓い」の話である。
 「白夜の誓い」の主人公、スウェーデン王グスタフV世といえば、フェルゼンと同時代人。2001年の宙組「ベルサイユのばら−フェルゼンとマリー・アントワネット編−」の一幕ラストで、フェルゼンに、マリー・アントワネットを救いにフランスに赴けと告げる人物である。それなのに、今回の作品ではフェルゼンへの言及が一回もない。少し不自然にも思えるほどに。
 評の分かれる「白夜の誓い」だが、私は大変興味深く観た(大劇場公演から、東京宝塚劇場公演に向けて手直しされたと聞く)。何より、「白夜の誓い」における“スウェーデン”に、「アルジェの男」の“アルジェ”、「A-“R”ex」の“マケドニア”と同種のアナロジーが成立しているならば、国を牛耳る“親ロシア派”に対する“グスタフV世”の闘いは支持して然るべきだろう。ということで、さらなる洗練された闘い方を考えてみたい。
 まず、フェルゼン不在問題についてであるが、一言でいい、言葉があれば、「…どうしてこんなにも出てこないんだろう…」と悩まずに済んだはずである。例えばグスタフV世が愛する女性のフランスからの救出を部下に頼むところで、「今、フェルゼンはフランス王妃の救出に向かっているのだが」と語る等。あまりなじみの深くないスウェーデン史において、フェルゼンは宝塚歌劇の観客にとって非常に有名なキャラクターである。ましてや、宙組の前作は「ベルサイユのばら−オスカル編−」。前作がそうであったからこそ余計に言及したくなかったとも考えられるが、一言でもあれば、「物語が地続きなのね」とさらに楽しめたのでは? ここで思い出すのは、2008年の星組公演「THE SCARLET PIMPERNEL」と続く星組全国ツアー公演「外伝 ベルサイユのばら−ベルナール編−」である。「THE SCARLET PIMPERNEL」では、にしき愛演じる独裁者ロベスピエールがクローズアップされていた。すると、「外伝 ベルサイユのばら」作・演出の植田紳爾は、若き日の理想に燃えるロベスピエールを作品に登場させ、やはりにしきに演じさせた。作品双方を観る層が多いと踏んでのことだと思うが、それによって物語につながりができ、観客はロベスピエールという人物を多角的にとらえることができるようになったわけである。もちろん、観客全員に「ベルサイユのばら」及びフェルゼンについて知識があるわけではないだろう。けれども、「ベルサイユのばら」をはじめとする宝塚歌劇の名作群の力を借り、客席に蓄積されていると思われる知識に訴えかけてゆく手段を考えてみてもいいのではないだろうか。
 「白夜の誓い」はグスタフV世のいささか無念な死で物語が終わるが、この後スウェーデンがどうなったかというと。V世の息子グスタフW世が即位し、フェルゼンは彼のもと元帥にまで昇りつめる。その間、大使として赴いたウィーンで愛するマリー・アントワネットの忘れ形見マリー・テレーズにちらと再会したり、国際交渉の場でナポレオン・ボナパルトと顔を合わせ、「フランス王妃と寝た男」として冷遇されたり(もっとも、フェルゼンとマリー・アントワネットの間には肉体関係は一切なかったという説もあり、その場合、ナポレオンの下品な言いがかりに過ぎないわけだが)、そして果てには冷酷な権力者となって民衆に撲殺される。というわけで、その後のフェルゼンを描けば、「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」と「白夜の誓い」双方の続きの物語となるわけである。あんまり恋愛の要素はなさそうではあるが、それはさておき。
 何だか展開が読めてしまうセリフや演出も散見された。例えば、グスタフV世が夜風にあたってくると言ってベランダに出る、すなわち、舞台上に設置された壁の向こう側に行く。となると、彼を舞台正面にもってくるには盆を回すしかなく、果たして盆は回るのであるが、その際、舞台正面側にいた舞踏会の客たちは、途中で盆から歩いて降りて舞台袖にはけるのである。せっかく着飾った姿なのに、スペクタクルとはならずもったいない。ロシア女帝エカテリーナU世が、グスタフV世の妻ソフィア王妃と女性同士、二人だけで話したいから人払いをしてくれと言う。それだけで、往年の傑作「黒い瞳」(1998〜1999月組・2011年雪組全国ツアー)の名シーン、エカテリーナU世とヒロインとの二重唱が思い出され(もっとも、宙組の文脈でエカテリーナU世といって思い出すのは、この役を演じて花總まりがりりしい男装を披露した「望郷は海を越えて」なのだが)、果たしてエカテリーナU世とソフィアとは二重唱を披露する。ちなみに、ある日、エカテリーナU世役の純矢ちとせの熱唱に、凍てついたロシアの大地と、雪組版でエカテリーナ役を好演した晴華みどりの姿が見えるなあ…と思っていたら、果たして晴華みどりさんその人が客席にいて驚いたのであるが。また、グスタフV世とアンカーストレム伯爵が対立し、アンカーストレムが部屋を退出して舞台の脇の方に行った瞬間、宝塚でよくある相克のデュエットが歌われるんだろうなと思ったら、果たして二人は対立の二重唱を歌う。どうしてこのように展開が読めてしまうかというと、展開が読めるだけの間がそこに存在してしまっているからである。劇的瞬間の連続を作り出す上では、「ベルサイユのばら」の作劇・演出に学ぶところも多いように思う。…と、大いなる老婆心を発揮してしまったのも、作・演出の原田諒が、基本的には非常に誠実に宝塚歌劇の作品作りに向き合っていると思うからこそ。今後の作品にも期待するものである。
 2014年の宝塚歌劇のワースト作品は「眠らない男・ナポレオン―愛と栄光の涯に―」である。ただし、組子の頑張り自体は高く評価するものである。
 何が問題か。まずは、エピソードが並べられているだけで有機的なストーリーが語られないこと。次に、女性差別的な内容であること。何も、ナポレオンの時代にさまざまな差別があった歴史的事実を改竄しろと言っているのではない。ただ、当時存在していた差別を、今日に生きる我々からの何らかの批判的視座なくしてそのまま描くことは、単なる差別の再生産ではないだろうか。これは、一度我が身に受け止め、その痛みと共に描くということなくして暴力をそのまま舞台に持ち込めば、暴力の再生産でしかないのと同じ話である。そして最後に、独裁、独裁者を賛美する内容であること。ナポレオンを教祖と仰ぐ宗教のプロパガンダ演劇のように思えて、率直に言って薄気味悪かった。この作品ではフランス人作曲家が起用されていたが、その楽曲にも冴えがなかった。例えば、オーストリア皇帝フランツ1世に扮した一樹千尋が歌った曲など、同じ作曲家の作品「ロミオとジュリエット」において、彼女が2010年の日本初演から三度演じた当たり役、キャピュレット卿のナンバーと、メロディといい歌詞といい、酷似。独裁は、国の政治体制であれ、宝塚の舞台上であれ、決して許されるべきではない。「ナポレオン、ナポレオン」のリフレインが空しく響く。それは、独裁者への讃歌ではなく、挽歌である。
 宝塚歌劇の舞台には、名娘役・花總まりの“ファントム”がときおり甦る――。今年、そんなことを思った瞬間があった。本家本元の花總まりが華麗に復活を遂げ、帝国劇場で主演を含む活躍を見せているというのに、彼女の影、亡霊を追うことにいったい何の意味があろう。ということで、そのような亡霊にとらわれることなく、それでいて、彼女の切り開いた道に続く舞台を見せている娘役たちを紹介して、御祓いとしたい。

 今年、ヒロインとしてもっとも優れた演技を見せたのが、花組宝塚バウホール公演「ノクターン−遠い夏の日の記憶−」の華耀きらりである。この作品はツルゲーネフの「初恋」をモチーフにしていて、華耀は、花組のホープ、柚香光扮する主人公ウラジミールの憧れの年上の女性、ジナイーダを演じた。柚香よりも学年が上の立場で務めるヒロイン役となったが、華耀は女役ではなく、娘役としてこの役を演じきった。そこに彼女の娘役魂、貫徹されたプロフェッショナリズムを見る。堂々と真ん中でここまで娘役を貫く姿を見せたのは、花總まり以来だと思う。これまでの華耀の舞台で私がもっとも好きだったのは、全国ツアー公演「長い春の果てに」(2012)のフローレンス役で、彼女の好演によってほとんどヒロインに見えたものだったが、フローレンス然り、ジナイーダ然り、華耀は、少女が自分をもてあます様を表現して美しい。「長い春の果てに」の方は、私自身が最近ようやっと手放した“ファントム”とも関連する話なので、またいずれ。「ノクターン」では、自分に思いを寄せる親子二人が居並ぶ食卓で、自分の母が金の無心に近い話を始め、いたくプライドを傷つけられて無言で座っている様に、凄みを含んだ美しさがあった。「ラスト・タイクーン」の、気位が高いと見せかけて実は情に厚い大女優ヴィヴィアン役も素敵だったし、「TAKARAZUKA ∞ 夢眩」では、ケント・モリ振付のハードな場面を、娘役らしさを決して失うことなく、それでいて男役陣に負けじとかっこよく踊っていた。男役陣を引き連れ、いかにも娘役らしくたおやかに踊る場面も華麗な限り。「エリザベート」の、エリザベートの姉ヘレネ役もよかった。通常この役は、皇帝フランツ・ヨーゼフに選ばれなかった哀れで少々滑稽な存在として造形されがちに思うが、彼女の演技は違った。お見合いの場面ではハンカチを握りしめ、気の毒なほどどぎまぎとしていて、内気な性格をはっきりと打ち出す。彼女の演技を観ていると、確かにフランツには選ばれなかったけれども、この世に生まれてきた人間誰もがそうであるように、ヘレネはヘレネとしてやはり選ばれし者なのであって、彼女には彼女の選ばれし運命、人生、幸せがあったことを思わずにはいられなかった。今年の華耀きらりの舞台は、宝塚の娘役道の一つの到達点である。

 今年の宝塚の新人賞は、雪組新トップ娘役、咲妃みゆである。昨年、「THE MERRY WIDOW」と「月雲の皇子−衣通姫伝説より−」でヒロインを務めて快進撃を見せ、春の全国ツアー公演「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」のロザリー役で雪組デビュー。自分がロザリーならばこのようにオスカルを慕いたいし、自分がオスカルならばこのようにロザリーに慕われたい。私にとっては理想のロザリーだった。原作の漫画で、ロザリーが、…どうしてオスカル様は女なんだろう…と思ってさめざめと泣くように、オスカルとロザリーとの関係には、吉屋信子的に言えば「エス」(「sister」の「s」)、今で言えば「百合」の要素が濃厚に香ってこそだと思うが、そこについても、あくまで“清く正しく美しく”表現。可憐な春風。
 「一夢庵風流記 前田慶次」では、男装して前田慶次の命をつけ狙う捨丸役。壮一帆演じる慶次に本気で食ってかかり、いなされる様が、二人の舞台人としての関係をも感じさせて興味深かった。そして、タイトルロールを務めた日生公演「伯爵令嬢−ジュ・テーム、きみを愛さずにはいられない−」で、鮮烈なトップ娘役デビューを飾った。原作は70年代終わりから連載された少女漫画で、泳げないのにしょっちゅう水に落ちて部分的に記憶を失うヒロイン・コリンヌは、現代の感覚からすれば少々ウザいキャラのような…。だが、作品の制作発表会で、扮装して出てきた彼女が、ぴょんぴょん飛び跳ね、「怒らないで、怒らないで〜」とセリフを発した瞬間、報道陣から思わず好ましさの笑いがもれた。作品の副題、「きみを愛さずにはいられない」が心に刻み込まれた瞬間。そして、実際の舞台。七色にも思える声の使い分けも絶妙に、見事に難役を成立させてみせた。舞台人として花總まり以来のポテンシャルを秘めた逸材である。彼女がその力を美に尽くしていけるよう見守っていくことが、今の私の喜びである。

 そして、花總まり。
 彼女が12年以上トップ娘役を務めた中で、私は、「一度くらい開演アナウンスをして、最後に大階段を降りてくる姿が観たい!」と思っていた人間なので、花總まりが「レディ・ベス」に主演し、帝国劇場の舞台、最後に出てきて迎えられる姿を観て、夢が叶ったような思いだった。「レディ・ベス」にしても「モーツァルト!」にしても、彼女の登場シーン、…え、こんなに美しい人がこの世に本当にいるの?!…と、思わず二度見してしまう。世界の皇族よりも似合うのではないかと思える、気品あふれるドレス姿。「モーツァルト!」の姉ナンネール役では、貴族ではないのでドレスさばきが多少荒っぽいのも演技のうちである。エリザベス1世に扮した「レディ・ベス」では、女王としての責務に目覚めていく第2幕、何だか必要以上に“演じて”しまっているようなのが気にかかったので、一度、ストレートプレイでがっちり演出を受けてみるのもいい勉強になると思う。「レディ・ベス」での男装が世にもりりしくかわゆかったので、男装シーンのあるシェイクスピア作品なんていかがでしょう。そして来年は待ちに待った「エリザベート」。GO GO HANACHANG!
 ↑何だか強そうなタイトル! 実際、武道館に立った柚希礼音は強かった。武道館ロビー、「武道憲章」が掲げられた前で囲み会見に応じる姿に、彼女に本当に似つかわしい場だなあと…。5年前、安蘭けいを継いで彼女が星組トップスターに就任したとき、この日を想像できた人間がはたしていただろうか。柚希礼音は彼女らしい確かな大きな歩みでずんずん進んで、そうして到着した先が、日本武道館なのだった。
 映像を含め、ハイテク技術が駆使されていたけれども、手作り感、舞台と客席とで一体になって盛り上がっていこうという心遣いが胸に沁みるステージだった。客席も一緒に踊る場面と、一緒に歌う場面がある。私は初日(11月22日18時)に先駆けての舞台稽古を見学していたのだが、聴衆8500人が入り、反応が返ってくると想定して、がらんとした武道館の客席に向けて稽古が行なわれている。少しでもその役に立ちたい一心で、ダンスレッスンのシーンでは、近くに座っていた記者数名と共に立ち上がり、教えを受けて懸命に踊ってみた。
「…うーん、いまいち」
 REON先生はめちゃめちゃ厳しかった。素人相手に妥協というものがない。その厳しさあってこそ、今の彼女があるのだろうなと思った。しかし。宝塚きってのダンサートップが「ロミオとジュリエット」のフィナーレで踊ったダンスをいきなり踊らされる身にもなってほしい。
「…私たち、絶対ちゃんと踊れてないよね…」
 うなだれる取材陣。そして、一緒に歌うシーン。「明日へのエネジー」を、主旋律と、娘役パートと、男役パートに分かれて歌う。これまたいきなり難しい。私は座席的に娘役パートで、シンガー音花ゆりのよく通る美声に合わせようと思っていたら…、本番、彼女はオブリガードを担当していて、目論見が外れてしまったという。
 そして、それから数時間後に行なわれた初日を観た。観客がいなくても、超満員になっていても、柚希礼音という人は変わらず自然体でこの場に立ってしまうんだなと、そのことに本当に心を打たれた。広い会場でも心がちゃんと伝わってくることにも。MCで彼女は言った。ちえちゃん時代(彼女の本名である)、自分はコンプレックスだらけだった。けれども、宝塚に、男役に出会えて、本当によかったと。日本武道館という場でそんな率直な心情を述べてしまえる彼女は、弱さに打ち克った真の強さをもっている人なのだと思った。昨年秋、東京国際フォーラムホールCで開催された、柚希礼音スペシャル・ライブ「REON!!II」のときは、客席から舞台にかかる掛け声が何だか暴走気味で、ちょっとこわかったのだけれども、いざ日本武道館という広い場所に来たら、舞台と客席との呼応もいい感じにおさまっている。これまで彼女が演じ、歌ってきた曲を取り上げるコーナーもあった。とりわけ心に響いたのは、二番手時代、「スカーレット ピンパーネル」の悪役ショーヴランを演じて歌った「君はどこに」である。…泣いた。彼女はあのころと変わらずにいたのだと思えたから。柚希礼音は今年百周年を迎えた宝塚歌劇を代表するトップスターである。通常グッズにすら販売制限がかかるほどの圧倒的人気を誇る。そんな彼女を、どこか遠い存在に感じる自分がいたのだなと思った。でも、そうではなかった。そして、彼女が今年初めに主演した「眠らない男・ナポレオン―愛と栄光の涯に―」を観て、ほとんど逆上するほど怒り、その後激しく落ち込んだ理由をはっきりと悟った。確かに彼女は圧倒的人気を博するトップスターである。けれども、だからといって決して独裁者ではない。独裁者型のトップスターならば、自分が日本武道館に立つような特別な人間であることを誇示したことだろう。けれども彼女は、星組のメンバーと、観客と、みんなで一緒にそこにたどり着いたことを何より大切にしていた。でなければ、一緒に歌ったり踊ったり、あんなにも楽しい時間を分かち合えるなどということはなかっただろう。ちなみに、初日のダンスレッスンシーンでは、ダンサー鶴美舞夕が近くに立って見本を踊っていた。…無理。これ真似するの。そして今度歌うのは男役パート。…何かと打撃を受けることの多い観劇だった。
 ペンライトが七色に分かれて光る日本武道館の客席を観ていて、…綺麗だなと思った。その光景を観られて幸せだった。それは、長年重責を背負い続けてきた彼女だからこそ可能となった光景なのだと思う。柚希礼音は来年5月、宝塚を卒業する。その日まで、そしてその日の後も、大勢の人を幸せにした分、彼女が幸せであることを心から祈っている。
 2014年11月16日をもって宝塚を退団する桜一花は小柄な娘役である。その体格と芸域の広さを生かして、子役からおばあさん役まで演じてきた。そんな中でもとりわけ印象深いのが、“小柄ながらド迫力”系の役柄である。「ファントム」のカルロッタ。「オーシャンズ11」のクィーン・ダイアナ。退団公演「エリザベート」の皇太后ゾフィーは、その集大成ともいえる役どころである。エリザベートをねちねちいじめる姑という、従来ゾフィーに抱きがちなイメージは、桜の演技には当てはまらない。それどころか、ゾフィーも気の毒だったな……と思えてくる。何もゾフィーもあれこれ口やかましく言いたくはなかっただろう。けれども、エリザベートがあまりにも至らないのである。これはその立場ならできて当然と思うから言う。しかし、その言葉を素直に受け入れることはなく、口答えだけは一人前。こちらとしては真っ当なことを言っているだけなのに、いじめられているととられても……という感じであろう。「皇后の務め」のナンバーの、「しつけが悪いわ」「親切で言うのよ」「争いたくない」の歌詞がストレートに響き、「わたしを妬んでる」とエリザベートに言われて返す「馬鹿げたこと言わないで」に、女官たちの如く「ごもっとも」と頷きたくなる。その立場にふさわしい立ち居振る舞いができない者を妬む人間などどこにいようか。かくして、変人エリザベート対常識人ゾフィーの構造が浮かび上がる。美しい者と美しくあらざる者との対立では決してない。
 思えば、「ファントム」のカルロッタもそのような演技だった。桜は決して美に見放された人間としてカルロッタを造形しなかった。カルロッタの問題は、オペラ座という美の殿堂においては美の力のみで勝負するべきなのに、金と政治の力に頼ってこれを牛耳ろうとしたところにある。だから彼女は美に復讐された。美の殿堂においては当然の帰結である。私はこの作品について、「2011年の花組での上演では、キャリエール役の壮一帆が仲間と共に劇場の“ファントム”と闘い、そして世界は姿を変えた」と記したことがあるが、この“仲間”の力強い一員が舞台人・桜一花であったことは言を俟たない。そして世界は姿を変えたのである。美の殿堂においては当然美が、美のみが支配するように。
 私自身も決して大きな方ではないので、小柄なのにド迫力な彼女の舞台に元気をもらっているところがあった。第二幕で背の高い重臣たちを従えるゾフィーの勇ましい姿など、痛快であった。それでいてしっとりとたおやかな様は女性として憧れである。全国ツアー公演「長い春の果てに」で彼女はナタリー役を演じていたが、私はこの主題歌が大好きだったので、彼女のソロでは心で一緒に歌って、……楽しかった。宝塚の娘役のプライドを賭けて造形したゾフィー役の雄姿に、盛大な拍手を送りたい。
 同時退団の春花きららは美貌の娘役である。壮一帆ディナーショー「So in Love」を観たとき、整ったかわいらしさながらクールに男前であることを知り、そのギャップを味わい深く感じた。「エリザベート」では勉強しないエリザベートをたしなめる家庭教師役、そして第二幕冒頭ではその美貌にふさわしい“中国の美女”の役どころを務めた。やはり「So in Love」に出演していた大河凛も退団である。カフェの男で聴かせた歌声に心地良いものがあり、彼女の男役をもっと観ていたかったと思う。