藤本真由オフィシャルブログ

「君の手紙何度も読んだよ 君の愛が僕には必要 君なしの人生は耐えられない」
 第一幕の大詰め、皇帝フランツ・ヨーゼフ役の北翔海莉は、舞台中央奥に向かい、客席に背を向けて歌う。その背中は雄弁である。――そして知る。二度とめぐり会うことはないと思っていた心に、再びまみえたことに。
 愛の深いフランツである。それだけの愛があってもなおエリザベートとしっくりいかないというのはむしろ、東宝版「エリザベート」に抱く印象に近い。そして、人生を貫いたその愛のすべてを賭して、フランツは最後の勝負に出る。「夜のボート」。愛して、しかしフランツは揺れる。もしかしたら、いないのかもしれない。けれども、旅路の終わりに確かにそこに愛する人がいる、そう信じたいと――。その揺れが彼の誠意である。人は一人で生まれ、一人で死ぬ。どんなに愛し合っていても、二つの人生の行く先がぴったりと重なることは、もしかしたらないのかもしれない。そう感じつつもなおも信じること、それも愛である。北翔フランツが「最終答弁」でトートに歌う「あなたは恐れてる 彼女に愛を拒絶されるのを!」で鋭い強調をおくのが「拒絶されるのを!」であるのももっともである。拒絶されたかもしれないにせよ、自分は愛を貫いた。では、あなたは? ――と。
 現在東京宝塚劇場にて公演中の熱い熱いラテンショー「パッショネイト宝塚!」の同名主題歌で、「パッショネイト!」という歌詞の直後にドラムが重低音でドコドンと鳴り、それに合わせて星組トップスター柚希礼音が左右に身体を揺する。それがもう、これぞ柚希礼音! という感じで、非常にツボである。その歌詞とドラムと振りの三点セットを頭の中でエンドレスリピートしてしまうほど。格闘技とダンスの中間に位置するブラジルの腿法カポエイラを取り入れたダンス・シーンでは、柚希は並外れた身体能力をスパークさせる。無心に舞い、闘い、次第に呪術的にすら思えてくるその姿に、5年にわたって宝塚のため、命を削って舞台に立ってきたトップスターの心を思う。その根底には宝塚への愛があって、それが客席の宝塚への愛と響き合う。文句なしに柚希礼音の代表作である。芝居作品「The Lost Glory―美しき幻影―」で娘役トップ夢咲ねね相手に踊るタンゴ(グスタヴォ・ザジャック振付)でも、柚希は粋な男の魅力を発揮。松井るみが装置を担当した、数多のペットボトルで表現されるニューヨークの儚い摩天楼の中で、富と栄光に酔いしれる人々の心の闇を一身に背負って立つ。新境地である。
 二月に壮一帆宝塚退団の第一報を聞いた瞬間、思ったのである。私は彼女を送る文章は書けないし、書かないのだと。
 タカラジェンヌの退団に際する文章を認めてきて八年ほどになるが、一体全体、私はどうして「送る」という言葉を最初に用いたのだろう。自分でも不思議である。宝塚の人間でも、宝塚に雇われているわけでもないのに。おかしな人だなあと思われる向きもあったことだろう。
 心に嘘はつけない。壮一帆が宝塚を退団しても、私は、宝塚の、美を志す仲間だと思える多くの人々と、これまで通り共に歩んでいくつもりである。退団に際して文章を認めることにも変わりはないと思う。けれども、「送る」という言葉はもはや使えない。

 そもそもなぜ、私は「送る言葉」を書き始めたのか。それには主に二つの理由がある。その人が宝塚の舞台に立つ姿をもはや観ることはないという惜別の思いと、そして、その人が退団後旅立ってゆくであろう演劇界において、これまで宝塚の舞台でのその人を観たことのない人々に向けての、紹介の思いと。その両者の懸け橋になれればという思いが少なからずあったのだと思う。かなり前になるけれども、とあるトップスターの退団後第一作の舞台について、宝塚の元トップだからもっとチケットが売れると思っていたのに、正直見込みが外れたと言われたことがある。私はもう、胸がつぶれるような思いでその言葉を聞いていた……。観客動員の数ではなく、その人にはどんな芸が、どんな魅力があるのか、その点において判断してほしいと思った。そして、宝塚の舞台を観ていない人たちにも、私なりに精いっぱいその魅力を伝えたいと思って書いてきた。
 けれども、退団公演「一夢庵風流記 前田慶次」「My Dream TAKARAZUKA」での壮一帆を観て、反省したのである。今まで自分は、その人がもう二度と宝塚の舞台に立つことはない、そして、男役の場合はもう二度とその姿を見せることはない、その、退団によって何かが失われるという側面ばかりに焦点を当てて書いてこなかっただろうか。さみしさや悲しさばかりにとらわれて書いてこなかっただろうか――と。正直、思う。涙してばかりいないで、ある人が男役として発揮していた魅力は、その人が女優の姿になろうがその人の中に確かに残るのだということをはっきり書き記していれば、違った結果になっていたこともあったのかもしれないと。

 退団公演での壮一帆は、それほどまでに明るいのである。前向きで、未来を信じて、輝いている。
 退団作品においては、退団による別れを自然になぞらえられるよう、別れや死の物語が選ばれることが多い。だが、「一夢庵風流記 前田慶次」で壮演じる前田慶次は、死なないし、去らない。舞台を埋め尽くす雪組生全員に囲まれ、松竹より特別出演の愛馬松風の馬上で、「楽しゅうござるのう」と、それは楽しそうに言う。それが、壮一帆が宝塚人生最後に発するセリフなのだった。
 「My Dream TAKARAZUKA」の方はさすがにさよなら演出が濃厚に施されている。とりわけ、宇崎竜童&阿木燿子コンビによるメモリアルソング「伝説誕生」は、歌詞があまりに直球ど真ん中である。この歌詞を壮一帆に歌わせるのか……と、聴いていてちょっと照れる。壮の大階段での歌唱から、愛加あゆとのデュエット・ダンスに至る「ケセラ」も、さよならの代わりにありがとう……とのフレーズにちょっとやられそうになる。けれども、不思議と涙はないのである。むしろ、「伝説誕生」の一節を奏乃はるとが歌い継ぐとき、「ケセラ」の影ソロを麻樹ゆめみが歌うとき、その思いが心に押し寄せてきて、泣きそうになる。
 それは清々しい退団なのだった。宝塚でやるべきことはすべてやり終えて、かといって決して疲れ切った風ではなく、後は頼もしい雪組のみんなに任せて、飛び立ってゆく。未来への希望を胸に。宝塚を卒業しても、人生は続く。決して終わりではない。だからこそ、どこまでも明るい。さすが、退団に際してのインタビュー記事で、自分のお葬式でもどんちゃん騒ぎしてほしいと語った人だけある。

 一時期、自分は一体何のために評論を書いているのか、わからなくなったことがある。単なる宣伝のためなのか。優劣をつけるためなのか。悩んで、つらくて、宝塚の舞台で笑顔の人々を観ていてさえ心が凍りつく時期があった。
 そんな私の心を救うように差し伸べられた一つの手。それが、真飛聖と壮一帆がトップと二番手としてがっちり組んでいた頃の花組だった。私は今でも、真飛聖に心から感謝している。
 その真飛が宝塚大劇場で退団公演を行っていた頃、舞台を観ていて、……私は、そこに、自分が悩んでいるのと同じことで悩んでいる人の姿を見出したのである。「金こそが正義に勝る真実の力なんだ」と、その心とは裏腹のセリフを吐いている人。「愛のプレリュード」で壮一帆が演じた、ジョセフ・バークレーのセリフである。
 舞台をはじめとするさまざまな芸術活動が、経済活動でもあることを、私は決して否定するものではない。経済活動としての一面もなかったら、芸術家は皆飢えて死んでいるだろう。しかしながら、それが経済活動だけになってしまっていいのか。舞台にまつわることのすべてが、チケットが何枚売れた、そんな金銭的事実だけに還元されてしまったとしたら。美しい舞台を創ろうという試みも、その舞台の美しさを何とか書き表そうとする評論の試みも、すべて、金銭に還元されて評価されるのだとしたら。虚しいだけではないか。それならば、舞台芸術などに関わらずに、効率よく金を稼げる職業に従事した方がましである。
 私とて、自分が美しいと信じる舞台を一人でも多くの人に観てもらいたい。けれども、私が文章を書くのは、その舞台に何らかの美しさを認めたからであって、それ以上でも以下でもないのである。宣伝のためでも、何らかの優劣をつけるために書いているわけでもない。
 舞台人・壮一帆なら、そんな私の気持ちをわかってくれると、私にはそのときはっきりとわかったのだった。なぜなら、彼女は、舞台上の美に純粋に生きる人だったから。そして、そんな気持ちを妨げるこの世のさまざまな事柄に対して、敢然と腹を立てているとしか思えない人だったから。
 舞台と客席とで同じ想いを共有できる相手を発見して、私は本当に幸せだった。私が今日評論家として歩んでいる上ではもちろん、多くの舞台人に多くを負うているものだけれども、とりわけ壮一帆に出会わなかったら、私は、舞台人の気持ちを解さない評論家として終わっていたかもしれない。

 不思議である。そうして壮一帆と“出会って”からのこと。「百周年は壮で行く」の預言の前だったか、後だったか。部屋を整理していた私は、昔の取材ノートを見つけた。取材ノートは定期的に整理しているので、残っていること自体が珍しい。それは、2003年の秋、最初に彼女を電話取材したときのノートだった。電話取材のときは片手が電話でふさがっていてノートをめくれないので、一枚ずつの紙を片手で押さえて必死でメモを取って、後からホッチキスでまとめたものなのだが、通常のノートとは違う形態だから残っていたのだと思う。めくっていて、思い出した。それは、彼女が宝塚バウホール&日本青年館公演「送られなかった手紙」で、単独初主演を果たした際の取材ノートで、そのとき、私は確かに思ったのである。この人はこれからトップになっていく人で、私はその軌跡を今見ているのだなと。後にも先にも、そんなことを思ったのは初めてだった。
 ノートを読み返すと、「相手がどう来ようとすべてを受け止められる懐の大きい男役になりたい」「(2004年の)90周年まで残っているとは夢にも思わなかった」「何も準備しないで宝塚を受験してしまったので、周りの人以上に闘ってきた」等のフレーズが見受けられて、今となっては非常に感慨深い。ちなみに、「送られなかった手紙」は、私の大好きな「プロヴァンスの碧い空」を創った太田哲則の作品で、私は期待と共に観に行き、若手に随分と難しい芝居をやらせるんだなとびっくりしたものである。それこそが深い愛なのだと、今となっては思うけれども。そして、私は彼女のことをそれから長らく、あまりに整っているので自分とは縁のない二枚目だと思っていたのである。

 私は壮一帆が幸せに舞台に立っている姿を観るのが好きである。そんな姿を観ると、自分も幸せになって、心がカーンとどこかへ突き抜けて、ときにとんでもない美を発見するからである。そうして発見した美を書いているときもまた幸せである。美しいものはどこまでも観足りないし、書き足りない。今こうして書いていてもそう思う。美に関しては貪欲である。
 けれども、壮が雪組のトップスターになって、私は、幸せとは決して、彼女一人がいい衣装を着ていい役を演じているところにはないと、改めて心に深く思ったのだった。舞台に出ているみんなが幸せになっていて、その中に壮がいて、幸せに舞台に立っている。それが一番の幸せなのである。そのことを教えてくれた、壮のトップ時代に雪組に在籍していた全員、専科や外部から出演していたすべての人々に、壮と共に舞台を幸せに務めて見せてくれたことに対して、心からの感謝を捧げるものである。そして、これからも、舞台人・壮一帆が舞台に立ったとき、その幸せがどこまでも広がってゆくことを期待してやまない。
 客席に座っていると、舞台上に立っているのとは当然違うものが見える。だから、お節介にもあれこれ言いたくなったりする。けれども、私は、壮一帆の舞台を観ていて、彼女がその心を自由に羽ばたかせて演じているのを観るのが一番の幸せであって、私が口出しすべきことは何もないと思うようになった。私はその舞台を観て、その美を書きとめるだけでいい。私が何か言うべきことがあるとしたら、それは、彼女が彼女らしくない舞台を見せたときだけである。そうして相手のありのままを受け止めることこそ愛なのだと、彼女の舞台に教えられたという思いでいっぱいである。
 昨年二月、中日劇場でトッププレお披露目公演が始まったとき、何となく思った。彼女は退団しても美に生き続けたい人なのだと。だから私は、宝塚以外で彼女が美を追求できる場所をできるだけ多く見つけたいと、これまで以上に真剣になった。そして今、思う。そのような場所は多くある。仲間も多くいる。大丈夫! と。一つだけ餞の言葉があるとすれば、「女を演じなくていいから!」ということである。私は先に、「オーランドー」についての文章の中で、退団について、男性から女性への転生の瞬間であると書いたけれども、なあに、オーランドーだって、男性の服の方が楽だなとか、服装が変わっただけで扱いも変わってくるものだなとか、実にあっさりしたものである。ただ、男性と女性、両方知っているという強みがオーランドーの武器である。壮一帆は、壮一帆として、今でも一人の美しい女性である。だから、そのままでいい。女性の所作といったものは、芸の人である以上、また会得していくものだと思うから。
 そして、壮が退団した後の雪組も大丈夫である。公演が終わって、自分も全部書き切ってしまったら、自分としてもあまりにも楽しみが一度になくなってしまうので、雪組の頼もしい仲間たちについては、これからゆっくり、楽しみに書いていきたいと思う。壮一帆の舞台についても、技術論を含め、書き残したことが多くあるので、そちらについても楽しみに書いていきたい。そうして書くことが、宝塚の何がしかの財産ともなると願いつつ。

 今、私は、一人の人間として、一人の人間とその人の舞台とを愛しているのだと、心から言える。
 宝塚歌劇が創立100周年を迎えた2014年、壮月最後の日に。
 壮一帆、いざ、大海原へ!!
 愛加あゆが、“壮一帆の相手役”としてではなく、一人の舞台人、愛加あゆとして宝塚を卒業する姿に、誇らしい気持ちでいっぱいである。
 娘役トップは何もトップスターの従属物ではないのである。相手役として立派に舞台を務めていることと、相手役としてのみ存在していることとの間には大きな隔たりがある。演技力に優れ、男役に寄り添う能力の高い娘役の中には、娘役トップ時代の代表作が“相手役”だった人もいて、それが本当に残念でならなかった。だいたいが、愛加の宝塚人生において、壮の相手役を務めていた時間より、それ以外の時間の方が圧倒的に長いのである。舞台人・愛加あゆを愛してきた者としては、単なる従属物扱いされては憤慨しようというものである。
 愛加あゆは、舞台人同士として、壮一帆と丁々発止のやりとりができる娘役である。だからこそ、私は二人のコンビが大好きなのである。

 「心中・恋の大和路」の舞台を観ていて、忠兵衛もさることながら、遊女梅川自身が降りてきているとしか思えなかった瞬間があった。不思議に思い、一緒に観ていた夫に話してみたところ。
「……何か、老婆が見えるんだけど」
 やっぱり〜。「冥途の飛脚」のベースとなった実話では、忠兵衛は処刑され、梅川はその後も遊女を務め、随分と長生きしたという。数百年の時を経てなお語り継がれる己が恋の物語に、その魂が誘われ出てきたのだろうか。壮の演じる忠兵衛も、愛加の演じる梅川も、心映えも姿も美しかった。愛し合うもこの世では結ばれることのなかった二人の魂にとって、何よりの手向けになったことと思う。
 そのとき思った。前作「Shall we ダンス?」では、宝塚のヒロインとしては珍しい、平凡な主婦の役どころを生き生きと演じていたのに、不思議な人だなあと。しかし、考えてみれば、トップお披露目作「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」でもやはり、フェルゼンとマリー・アントワネットが降りてきているとしか思えない瞬間があったのだった。振り幅の大きさ、巫女力の高さ、そういう意味で、壮と愛加はやはり、得難いコンビだったと思う。

 色濃い役柄も得意だった。「ニジンスキー」でのニジンスキーの妻ロモラ役では、緒月遠麻演じる迫力のディアギレフと、早霧せいな演じるニジンスキーの愛をめぐり、互角に渡り合った。「ROYAL STRAIGHT FLUSH!!」では“ハートのエース”として、その緒月が演じるジョーカー役と一緒に登場する場面が多く、愛加の娘役力の高さに、緒月が男役度をめきめきと上げていったことが思い出される。「フットルース」で演じた食べ過ぎキャラ、ラスティのかわいらしかったことと言ったら。多様な役柄の経験が、彼女を、愛くるしい容姿ながらも、決して一筋縄では行かない娘役に育て上げた。だからこそ、壮と組んだとき、多彩な引き出しをもって、相手役を務めることができたのだと思う。トップスター一人が演技に秀でていたからと言って、すばらしい舞台が観られるわけではない。娘役トップに実力があればあるほど、舞台がますます充実するのである。

 「一夢庵風流記 前田慶次」「My Dream TAKARAZUKA」は、娘役・愛加あゆの集大成となる舞台である。関白秀吉さえ恐れぬ前田慶次が、唯一頭が上がらない女性、まつ。前田利家の北の方でありながら、慶次と関係を結ぶ。そこにじめじめとした不倫の匂いはない。心と心のつながりがあるだけである。そして、二人の関係が知れ渡るに及び、駄々っ子のように嫌がる慶次に対し、まつの方から気風よく別れを切り出す。その心に愛を封印して。気丈な女性である。原作小説では、その後、前田家を危機から救うため、まつが徳川家康の人質になる様が描かれる。まつの心情を汲み取り、慶次が提言してのことなのだが、その慶次の心情もまたまつには伝わる。形に縛られることなく、心でつながり合う二人。そんなまつの気丈さを、愛加はしっとりと表現する。登場シーンでのややこ踊りの勇ましさも、何ともかわいらしい。
 月組公演「TAKARAZUKA 花詩集100!!」にトップコンビで特別出演して、愛加も月組娘役陣から学び、吸収したものがあった。しかしながらやはり、どこまでいっても清々しいくらいに雪組の娘役である。「My Dream TAKARAZUKA」の中詰めで、威勢のいい掛け声を気合たっぷりに披露しても、男前とはならず、女子力の高さが際立って微笑ましいほど。プロローグに続いての場面、銀橋に一人残り、生まれる前からの絆で結ばれた相手への愛を歌うとき、その笑顔がきらきらと輝く。NHK「思い出のメロディ」でも放映された、愛加が娘役たちを率いて大階段を降りてくる場面は、近年の雪組娘役陣の集大成のようなシーンである。薄いピンクのドレスが、彼女たちの可憐さを引き立てる。
 紫の衣装に二人身を包んでの、壮とのデュエット・ダンス。銀橋を渡った愛加が、本舞台に入ってくるくると踊り出す。その様は、ひとひらの雪が空から舞い落ちるようで、はっと心を打たれる。そして舞台中央、二人手を握り、回転する。その様が、トップコンビとしての二人を象徴しているようである。互いに自立した舞台人である二人が、互いを支え合っている。そのとき、壮は変わり燕尾の裾を、愛加はドレスの裾を持っているのだけれども、その持ち方が実に綺麗に揃っている。二階席で観ると、雪の結晶の照明が二人を照らし出しているのがわかる。あたたかくも美しい雪の場面。

 歌えて、踊れて、芝居ができて、愛くるしい容姿の持ち主。となれば、宝塚卒業後の愛加あゆの活躍にも大いに期待がかかる。彼女にうっとり見つめられれば、男性陣の男度も上がるというものだろう。とはいえ、決して一筋縄では行かない女優として、しっかり丁々発止でやり合ってほしいものである。今日まで素敵な舞台を本当にありがとう!
 未涼亜希は壮一帆の二期下で、二人は花組で共に過ごした月日も長かった。そして未涼は、歌、芝居、踊りと三拍子揃った男役として、早くから舞台人としての完成度が高かった。花組時代の最大の当たり役といえば、「虞美人」で演じた、壮扮する劉邦の軍師・張良だろう。どこかスキの多い劉邦をいさめ、天下を取る道を説くしっかり者。宝塚版「相棒」で演じた、女の子たちにデレデレして、俺もまだまだいける、なんて息巻いていた角田課長も楽しかった。芸が確かだから、しっかりとした役、年齢のいった役を安心して任せられるところがあったのだと思う。
 2010年に雪組に組替えとなってからは、何だか印象が変わった。自分を律するばかりでない、役柄の人間的な部分をも濃厚に感じさせるようになった。
 フランス・ミュージカル「ロミオとジュリエット」(2011年)の東京公演を、東日本大震災が直撃した。休演の後、再開された舞台で聴いた、未涼ベンヴォーリオの「どうやって伝えよう」の歌唱、歌う彼女の横顔を、私は忘れることはないだろう。あのとき、「どうやって伝えよう」は、日本の舞台人にとって、己が舞台に立つ意味を歌い上げることのできるナンバーとなった。未涼の絶唱は、歌の中に存在していた美の可能性を掘り当てたのである。
 続く全国ツアー公演「黒い瞳」(2011年)でのプガチョフの好演も忘れがたい。原作の柴田侑宏は、1998年に初演されたこの作品に、百周年へと向かう宝塚歌劇の未来を憂うメッセージを秘めていた。未涼の演技がまたこれを掘り当てた。天下を狙い、無謀とも言える“革命”を起こさんとあがく独裁者プガチョフ――。そのメッセージは時を超えて甦り、百周年を迎えようとしていた人々の心に確かな警告として届いた。その人々の中には“プガチョフ”自身もいるはずである。そして、百周年を迎えた宝塚歌劇が今日の姿であるのは、その警告がしかと受け止められた部分もあったからだと思う。
 確かな芸は、作品に秘められた要素、美を掘り起こす。それこそが芸術の営為である。何も、巧さを誇示するために芸があるわけではない。未涼の舞台がはっきり示している。

 私は、最終的に、壮一帆が雪組でトップスターに就任して本当によかったと思っている。雪組の堅実な芸質と、男役芸、娘役芸の資質が、壮の舞台としっくりくるからである。けれども、そう考える上で、壮より一足先に花組から雪組に組替えしてきていた未涼の存在はやはり大きい。例えば、雪組の黒燕尾の場面がますます向上してくる上でも、未涼の組替えは非常に大きかったと思う。雪組の端正さ、折り目正しさに、花組の色気が加わると鬼に金棒でもある。そしてその変化は、壮一人が真ん中に立っただけでは可能とはならなかったように思う。「My Dream TAKARAZUKA」の、スーツ姿での「パリ・ドリーム」の場面と、黒燕尾の場面でも、未涼は正確無比な踊りで魅了する。ピシッピシッと、気持ちいいように動きがしなやかに決まる。
 「一夢庵風流記 前田慶次」では、昨年秋の「若き日の唄は忘れじ」の武部春樹役に続き、悪の役どころ、雪丸役。両作品を担当した大野拓史が陰謀を多く描くのも、未涼のあの鼓膜に絡みつくようないい声で、悪巧みのセリフを言わせ、含み笑いさせ、観客をぞくっとさせたいがためなのかもしれないと思えてくる。慶次とヒロインまつに相次いで「バーカ」と言われ、「力づくで事を運んでもよろしいのですぞ」と返すセリフに含む凄みたるや。そして、未涼の歌声は独特の高揚感をはらむ。今回で言うと、「雪丸の歌」の一節、「己が姿を見ているから」の「♪姿を見ているから〜」と上がるところ、ふわっと包み込むような。「パリ・ドリーム」のジゴロの歌唱でも、そしてパレード、エトワールを務めて圧巻のラスト、「♪My Dream」の響きも、その独特の浮遊感にただよううち、未涼の存在が刻み込まれてゆく。

 「心中・恋の大和路」では、壮忠兵衛と未涼八右衛門ががっぷり組んで渡り合った。舞台は必ずしも日常の関係性の上に成り立つものではないけれども、二人が花組で共に過ごした月日は、確かなものとしてそこに現れていた。未涼の八右衛門なくして、壮のあの忠兵衛はなかった。恋に溺れる忠兵衛を、八右衛門は友達としていさめる。その関係は、「虞美人」での劉邦と張良の関係をも少し思わせる。相手を思っていさめて、その根底には確かな友情があって、けれども、忠兵衛は新口村で人に言われるまで、八右衛門の深意に気づかない。八右衛門もまた、忠兵衛がそんなにも追いつめられるほど遊女梅川を愛していたことを知らない。二人の思いは新口村でやっと通って、それでも、忠兵衛の命を救えなかった八右衛門は、せめてもの手向けに「この世にただ一つ」を歌う。未涼ベンヴォーリオの「どうやって伝えよう」と同様、未涼八右衛門の「この世にただ一つ」もまた、私の脳裏でいつまでも回り続けることだろう。未涼の輝かしい舞台の記憶に、心から感謝の念を捧げる。

 未涼の同期娘役の麻樹ゆめみは、2010年4月から雪組副組長を務めていた。この間、娘役トップ不在期間もあった上に、東日本大震災も重なり、若くして管理職に就いた彼女の苦労はいかばかりだったかと察する。彼女自身はもちろん、そんな苦労を舞台上で見せるようなことはなく、ほがらかな笑顔を絶やさず、舞台で三拍子揃った芸を披露する娘役だったけれども。
 「一夢庵風流記 前田慶次」では、お調子者の深草ブラザーズの長姉、しげ役。傾奇者を気取り、呉服屋稼業にいまいち熱心とは思えない二人の弟を尻目に、店を切り回しているらしきしっかり者で、縁の下の力持ち的イメージのある彼女にぴったりの役柄である。慶次を聚楽第へと送り出す際の「前田慶次の馬にて候」の舞も、いかにも彼女らしくキレッキレ。振りの最後の最後まですうっときっちり決める様に、見入ってしまう。
 「My Dream TAKARAZUKA」では、ピンクのドレスに身を包んだ雪組娘役陣が大階段を降りてきて踊り、愛加あゆを含む8人が銀橋を可憐に渡っていく場面で、銀橋中央からその先頭を務める麻樹の姿に、雪組娘役陣をひときわ誇らしく思う。ほっこりとあたたかく、かわいらしく、観る者の心を包んでくれる。壮と愛加のデュエット・ダンスの影ソロは、麻樹の感謝の思いが劇場中を満たす絶唱である。いかにも雪組の娘役らしい彼女の退団を惜しむ。

 「Shall we ダンス?」の制作発表会、東宝ダンスホールでそれは楽しそうに踊る壮一帆の姿を見て、社交ダンスを習ってダンスフロア・デビューしたい! と思った。しかしながら、南の島在住のサラリーマンの「男と踊っちゃだめ」との一言で断念。女とならいいのか〜。それはさておき。「Shall we ダンス?」での大澄れいの演技を観て、夫の発言はこういう人物を懸念してのことかと腑に落ちた。それほどまでに、ダンス教室の生徒を演じる大澄のセクハラ親父っぷりは凄かった。早霧せいな演じるダンス教師エラ相手に、手は彼女のお尻へとしきりと下がる、顔はデレデレあらぬ方を向くと、やりたい放題。何度たしなめられてもやめようとしない。それはある意味、社交ダンスを不埒な目的で習う不届きな人間の権化、つまり、壮扮する主人公ヘイリー・ハーツと好対照を成す存在なのだった。しかしながら、相手をしているエラを気の毒に思いながらも、己の欲望をどこまでも素直に解放するその様が、悪気なく相手の麗しさに溺れているようで、どこかあっぱれ感すらただよわせる大澄の演技だった。「一夢庵風流記 前田慶次」では、夢乃聖夏扮する深草重太夫と、互いに傾奇者を気取って果し合いをする小鳥逸平役。擬音の効果音の中、戯画的な動きを繰り広げ、交わす言葉は「ちきしょーめ」「一昨日来やがれ」。ほとんどギャグ漫画のリアルな実写版である。その後、大澄逸平は深草家の人々と仲良くなったようで、慶次を聚楽第に送り出す際の舞にも参加しているのだけれども、ライトが当たってポーズを決めた際の、その、“ニカッ”と音がしそうなほどのパカッとした笑顔。すばらしく晴れやかなものを見た思いでいっぱい。あの笑顔を忘れない。
 天舞音さらは、「心中・恋の大和路」での演技が心に残る。こまっしゃくれた亀屋の女中おまん役で、自分の好みの丁稚にはおかずをサービスする色気づきよう。手代の与平に言い寄ったり、忠兵衛に艶めいたことを言われてまんざらでもなかったり、色恋が一つのテーマであるこの作品の基本トーンを、コミカルな演技のうちに表現した。子役で登場し、頭をそれはぶんぶん左右に振りながらわらべうたを歌う、そのいかにも子供らしい様も微笑ましかった。「一夢庵風流記 前田慶次」では一転、まつの下女・千代役でしっとりとした魅力を発揮。忍びの左近を演じた白渚すずは、宝塚生活最後のセリフが何と、夢乃扮する重太夫に対して放つ「死ね!」の一言。大きな目も印象的に、かわいらしくこの難セリフを決めた。傀儡子の女・ァに扮した寿春花果は、二つのセリフのうちにミステリアスな雰囲気を濃厚に醸し出す。「My Dream TAKARAZUKA」での、長身を生かした伸びやかでエレガントな踊りも記憶に残る。皆、壮一帆と共に今の雪組を築いた一員である。
 「一夢庵風流記 前田慶次」で前田慶次を演じている壮一帆がひときわ色気を放つ瞬間があって、それは、慶次が殺気をみなぎらせるときなのだった。殺るか殺られるか、気迫と気迫とのぶつかり合い。凄まじい霊気が立ち昇る様に、観ている方も身震いする。
 今の日本に生きる我々は、斬り合いで命を落とすことはない。当然、昔とは死生観も大きく異なるだろう。私が原作小説「一夢庵風流記」を読んで感じた前田慶次の生き様とは、生と死についてあまりに達観しているため、結果、対峙した相手がその潔いまでの達観に気圧されてしまうという、清々しいまでの勝負強さなのだった。実際、戦乱の世にあって、慶次は70歳過ぎまで長生きしている。その生と死の達観を埋めるものとして、風流もまたあるのだろう。
 舞台上、殺気と色気をみなぎらせる壮の姿を観ていて、思ったのである。いにしえの時代、剣で切り結び合う武将たちもまた、このような殺気と色気とを放っていたのだろうと。人が命を賭けて何かに向かう姿には、かように凄絶な美しさがある。
 そして、命と命とを賭けて対峙したとき、その人間の内に、相手の存在がまざまざと刻み込まれる。思えば、壮が昨年主演した「若き日の唄は忘れじ」の原作である藤沢周平の「蟬しぐれ」でも、剣の道についてのそのような描写が印象的だった。
 壮はよく、武士のような人と形容される。そしてあるとき、「命を削ってセリフを言ってきた」と取材記事で答えていた。であるからこそ、彼女の発するセリフは観る者の心に深く刻まれるのだろう。そして、その姿をこうして書き表す方もまた、命を削って言葉を紡がなくてはならない。
 命を賭けて剣をもって戦うことと、命を賭けて舞台に立つこととの間に、隔たりはない。壮が演じる前田慶次の姿に、そう教えられた気がする。オープニングで映像に現れる巨大な敵をバッタバッタと斬り、愛馬松風を豪快に乗り回し、自由闊達、豪放磊落、茶目っ気たっぷり、仲間と無邪気に笑い、友情と愛を心に深く抱き、そして、凄絶な色気を放つ。前田慶次を演じて、そこに、舞台人・壮一帆の死生観が自ずと立ち現われる。

 グランド・レビュー「My Dream TAKARAZUKA」の作・演出は中村一徳。「ラブ・シンフォニー」(2010年、花組全国ツアー)、「ファントム」(2011年、花組)、壮一帆ディナーショー「So in Love」(2012年)、「Shining Rhythm!」(2013年、雪組中日劇場)と、ここ数年の壮の印象的な舞台を多く手掛けてきている。私は、壮の宝塚生活最後の作品が中村担当であることを、本当に幸せだと思った。というのは、二人には、奥ゆかしい品のよさという共通点があるからである。二人とも、宝塚愛を声高に語ってアピールするということをしない。その代わり、その愛を舞台できっちり形にして、芸の力で観客に届ける。百周年の今年はすべてのショー、レビュー作品のタイトルに「宝塚」と入っているが、中村が作詞するとき、その表題曲は決していわゆる“自画自賛ソング”(もちろん秀逸なものは私も大好きであるが)とはならない。
 シルバーの衣装を輝かせ、草原を駆ける野生のカモシカのように踊るプロローグ。赤と黒の衣装と背中にあしらわれた羽根とが、帝王の風格に加えて悪魔的な魅力をも醸し出すパッショネイトな中詰め。純白の衣装を着て、生まれたての魂のようにつるんと無邪気な、メモリアル・ソング「伝説誕生」の場面。本作でも、中村は壮のさまざまな顔を引き出す。圧巻は、壮が光沢のあるスーツに身を包み、パリのジゴロに扮して歌い踊る「パリ・ドリーム」の場面と、先日NHK「思い出のメロディ」でも全国生中継された黒燕尾の場面である。共に、花組で磨いた男役芸を、雪組に根付かせてひときわ大きく花開かせた、男役・壮一帆の真髄を発揮させる場面となっている。スーツと黒燕尾。それは、宝塚の男役にとって象徴的な衣装である。スーツ姿の壮は、神々しいまでにエロティシズムの香気をふりまく。トッププレお披露目の中日劇場公演「Shining Rhythm!」で壮が踊った「パダン・パダン」の黒燕尾の場面は壮絶に美しかった。今回の黒燕尾の場面の振付は、そのときと同じ平澤智が担当していて、さらなる進化系ともいえる仕上がりである。大階段上、後ろを向いて居並んだ雪組男役陣が、順に客席に向き直る。と、その中心に、しどけなく気怠く、壮が腰を下ろしているという、意表を突いたオープニング。壮の黒燕尾の踊りは、雪組らしく、どこまでもストイックである。その中から、花組育ちならではの色気があふれ出る。トップお披露目作品「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」で務めた、フィナーレの「オマージュ」での黒燕尾は、作品に関わってきた人々の魂に捧げられた場面にふさわしく、正統派の美に満ちあふれていた。前作「CONGRATULATIONS 宝塚!!」の「テキーラ」のタキシードの場面は、同じ平澤が振付を担当していて、やんちゃな遊び心をも感じさせるものだった。そして、宝塚生活最後の黒燕尾は、男役のストイシズムとエロティシズムとが高い極みで結び合わされた、純然たる美の場面となった。これぞ芸術。男役・壮一帆が、19年間、命を賭けて宝塚の舞台に立ってきた証である。
 退団公演にして、初挑戦。「一夢庵風流記 前田慶次」で実在の傾奇者、前田慶次を演じる壮一帆は、松竹より特別参加の愛馬松風に乗り、舞台上を自由自在に駆け回っているのだった。歌舞伎でおなじみの、人が前足と後ろ足とに入ったこの松風、大阪松竹座で上演された「花の武将 前田慶次」に登場したのを改良したものとか。「馬協力」として、東京公演は片岡千藏、鎌田雅尋、宮田真志、宝塚公演にはさらにもう一人、出村吉識がクレジットされている。壮の宝塚最後の公演を大いに盛り上げた立役者たちに、改めて心からの拍手を送りたい。
 原作小説「一夢庵風流記」では、前田慶次と松風とが、言葉のない中にコミュニケーションを交わし、友情を育んでいく様が大変興味深く語られる。今回の舞台ではそのくだりは登場しないが、壮と松風とが人馬一体となり、颯爽と舞台を駆けめぐる様に、両者の深い心の通い合いが感じられる。馬上、片手で長い槍を振り回し、そのまま槍を地面についてひらりと飛び降りたり、またがるのではなく片足を馬の背中の上、前の方に投げ出して座っていたり、危なげのかけらもない壮の乗りこなしも見事なものである。そして、松風の芸達者ぶりには目を見張らずにはいられない。「馬は飼い主に似る。どうせ女子に弱い」と言われて大きく首を縦に振ったり、「周りを見ろよ」と言われて左右を激しく見回したり、周囲の芝居に対するリアクションが実にヴィヴィッド。壮慶次が雪組生全員に囲まれ、「楽しゅうござるのう」の宝塚ラストのセリフを決める際も、もちろん松風にまたがっている。
 私がとりわけ好きなのは、慶次が秀吉により聚楽第に召し出された際、盛り上げようと人々が踊る「前田慶次の馬にて候」のナンバー。リードを務める深草重太夫役の夢乃聖夏が「前田慶次の、前田慶次の、前田慶次の」と歌う際、声を中、小、大と響かせるのに合わせて、自分の身体を縮こめたり跳んだりしているのだが、松風もやはり、その大きな身体を縮こめた挙句、前足も後ろ足も大きくジャンプ! そしていななきと共に見得を切る。夢乃は、映画版でいう竹中直人ポジションで好演を見せた「Shall we ダンス?」に引き続き、十八番のお調子者、重太夫を演じていて、壮扮する慶次との対比のうちに、真の傾奇者とは何かが見えてくる仕掛けになっているのだが、この夢乃重太夫と松風との関係性も実に面白い。というか、重太夫に対し、松風、完全に上から目線である。「お前、そんなんで大丈夫か」とか、「ご主人様に友と認められてよかったなあ」等々、松風の仕草に合わせて心の中でアテレコすると一段と楽しい。松風、すっかり宝塚の舞台の一員である。いっそ宝塚の馬にならないか? 戯言はさておき、正直、歌舞伎作品でここまで馬が活躍する姿を見たことがなかったので、今回、その大いなる可能性に目を拓かされた思いである。どこの舞台でもかまわない、馬の大活躍を今後もぜひ観たいものである。
 こうして松風は出てくるだけで拍手とどよめきを巻き起こす人気者となり、関連グッズとデザートも売り出された。宝塚公演中に発売開始となった「松風ぬいぐるみ」はあっという間に完売。東京公演中に追加販売された分も完売の大ヒット。あひるも二頭所有している。そして、東京宝塚劇場の二階ラウンジでは、公演にまつわる、多分にダジャレのネーミングのデザートが毎回売り出されているのだが、今公演のデザートは「行け行け! 松風んざい」。ミルクプリンに小倉と抹茶ゼリーとホイップクリームをあしらった冷製ぜんざいである。ある日、休憩中にこの松風んざいを食べていたところ、見渡す限り全員が松風んざいを食べていて、それはびっくりした。このネーミングには実は前振りがある。公演デザート史上空前のヒットを記録したのが、昨年の壮のトップお披露目公演「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」の際に発売されたデザート「行け! フェルぜんざい」。ミルクプリンにフランボワーズと白玉、ばらモチーフのチョコレートとつぶあんを添えた洋風ぜんざいである。これは、壮扮するフェルゼンが、愛するフランス王妃マリー・アントワネットを救わんと、鞭を片手に馬車を急がせながら、自らを鼓舞せんがため、「行け! フェルゼン」と何度も歌う場面にまつわるネーミング(ただしその曲名は「行け! フェルゼン」ではなく「駆けろペガサスの如く」)。宝塚で鞭といえば壮一帆、その鮮やかな鞭さばきが冴え渡った名場面である。人々はどうも、壮一帆が乗り物に乗り、武器を華麗に操る姿を目の当たりにするとき、ついつい財布の紐が緩くなるのかもしれない。
 隆慶一郎の痛快歴史小説「一夢庵風流記」を舞台化するにあたり、作・演出の大野拓史は、原作にある雪丸、捨丸のキャラクターを大きくふくらませ、原作には登場しない二郎三郎なるキャラクターを登場させた。忍びの身分から表に出ようと陰謀を企てるも頓挫し、屈折を抱き続ける雪丸。兄の仇を討つため、女ながら男装して慶次を付け狙う捨丸――女ながら男装して死んだ兄の代わりを務めるというのは、大野が演出を担当した「紫子」(2010年、中日劇場)と同じ設定である――。そして二郎三郎は、歴史マニアならばその名前からすぐにピンとくるのかもしれないが、物語のクライマックスで、実は徳川家康であったことが明かされる。二郎三郎こと家康は、豊臣秀吉に服従しない北条家に肩入れするため、徳川家ではなく、なぜか前田家の忍びを用いて陰謀を企てていたというのが、今回の舞台で新たに付け加えられた要素である。昨年上演された「若き日の唄は忘れじ」での演出を見ても、演出家はどうも陰謀論が好きなようである。美を志す者ならば、人間があれこれ頭をめぐらした陰謀よりも、この世界においてときに神が実現したとしか思えない“演出”について考える方がよいように思うが、それはさておき。
 今回、二郎三郎に扮しているのは一樹千尋。橙色の頭巾と着物を身に着け、歌比丘尼(早花まこ)と願人坊主(久城あす)の二名を供に連れ、往来を闊歩する。尼の扮装の早花は、その姿もセリフ回しもドキっとするほど色っぽく、久城は、「心中・恋の大和路」の宿衆・嶋屋(飴屋)役に続き、いまだ新人公演学年(入団7年目以内)であることに驚いてしまうほど、落ち着いて風格のある演技を見せる。その真ん中にいる一樹の二郎三郎はといえば、二人と絶妙な掛け合いを見せながら、自由闊達に楽しげに物語の説明役を務め、茶目っ気たっぷりに自らの企む“仕掛け”に言及する。
 ところが。柳町の色里にお忍びでやってくる秀吉を暗殺しようとの企みが露見した際、徳川家康としてその場に登場する一樹は、二郎三郎として現れていた際に発揮していたチャーム、輝きを、無残なまでに失っている。鮮やかな頭巾と着物を脱ぎ捨てたからばかりではない。己の保身に汲汲とする、ただの凡庸な男。ここでの一樹の“変身”ぶりは見事である。
 家康は、自らの保身のため、手下として操っていた雪丸を大悪人として問答無用で切り捨てる。これにはさすがに秀吉も疑念を抱き、前田慶次(壮一帆)に家康の扱いを任せる。そして慶次は、己の剣は下郎のためのものではないとして、家康を切り捨てることを拒む。慶次が、傀儡子の身分から士分に取り立てられたいと願い、これまた二郎三郎や雪丸に操られていた相州浪人庄司又左衛門(香綾しずる)と、武士と武士として真剣勝負を行ない、これを倒すという前段のエピソードを受けての場面である。
 家康にとって、徳川家康である自分が本来の姿ならば、二郎三郎は単なる“仮面”、仮の姿である。仮面をつけ、自分ではない何者かを演じているときの方が魅力的で、本当の自分に戻ったとき、その魅力は失われる。その姿は、何時、何人とも常に同じ態度で接する、壮扮する前田慶次と好対照を成す。大野が、今回の二郎三郎=徳川家康なる人物を、一種の演技論として書いたかどうかまではわからないけれども、そんなことを感じさせるほどに、二郎三郎と徳川家康との落差を鮮やかに見せた一樹千尋の演技は特筆に値する。
 東京宝塚劇場で上演中のグランド・レビュー「My Dream TAKARAZUKA」より、男役の黒燕尾服のナンバー「風のささやき」と娘役のピンクのドレスのナンバー「By My Side」、そして特別に「すみれの花咲く頃」を披露。大階段にしどけなくも艶っぽく腰かけたところから始まる、雪組トップスター壮一帆の黒燕尾服の踊りは、男役芸の芸術的極み。壮を取り巻く雪組男役陣も、黒燕尾服での男役芸がますます向上中。そこに引き続いて、可憐な限りの雪組娘役陣が大階段を降りてくる、辛さと甘さの絶妙なバランス。今回の全国生中継を、宝塚歌劇を評論する者として誇らしく思った次第。
 「CONGRATULATIONS 宝塚!!」の壮一帆を観ていて、…一瞬、胸がちくりとした。
「…そうか、私、こういうかっこいい女の人に生まれてきたかったんだ…」
 40年以上生きてきてまだそんな幻想を抱いていたのか〜と、自分で自分に猛烈に喝を入れたい気分に…。
 何も宝塚の男役トップスターとは言わない。憧れの先輩として、学生時代、下級生女子たちからきゃあきゃあ言われて、バレンタインのチョコレートをもらったりしてみたかった。かっこいい女性に生まれていたならば、大学を卒業して社会に出てからも、男に伍してもっとバリバリ働けていたのでは? 「…女、つらい…」と思って生きていた時期も、生まれ変わったら男になりたいとは思わなかった。女のまま、もっと幸せになれる道を何とか切り開きたいと思っていて、そう生きているであろうかっこいい女性に憧れた。私の中にも男っぽい部分はあると思うのである。けれども残念なことに、男役向きの風貌ではない。文章については大学時代から男っぽいと言われてきたから、書く上では、自分の男っぽい部分は割に表現され得るのかもしれないけれども。
 自分の幻想と思わず向き合ってしまうような、そんな壮一帆の舞台姿だった。
 私は何も、彼女に自分の理想を投影して崇めているわけではない。あれほどまでに颯爽とかっこいい女性として舞台に現れる上では、日々さまざまな苦労と困難を乗り越えてきているのだと思う。それは彼女の舞台から伝わってくる。一人の人間、女性として、当然あるであろう幾重にも複雑な感情ときちんと向き合った上で、舞台上では、爽快さであったり、磊落さであったり、そのときどきに必要とされる要素を純度高く輝かせてみせる。それは例えば、モーツァルトが、「金〜」とか「妻〜」とか内心では思っていたかもしれないにも関わらず、彼の書いた楽曲は、きちんと演奏されれば美しく響くのに重なる。だからこそ、私は壮一帆の舞台が好きなのである。

 「オーランドー」を読んだのはその直後である。読んですぐ思った。現代日本においてもっとも“オーランドー”に近い存在、それは、宝塚の男役だと。
 1928年に発表された「オーランドー」は、イギリスの女流作家ヴァージニア・ウルフが、女流詩人ヴィタ・サックヴィル=ウエストに捧げた、伝記の体裁をとった小説で、“文学史上最も長くて最も魅力的なラブレター”と評されてもいる。物語はエリザベスT世治下の時代に始まり、そのとき少年オーランドーは16歳。そして彼は、生きる、生きる。約350年もの時を超え、さまざまな時代を経巡り、17世紀末には女性! へと転生して。物語ラストとなる1928年には、女性のオーランドーは36歳、当時のヴィタと同年齢である。
 物語の誕生には背景がある。ヴィタの生家サックヴィル家はノルマン征服時代へと歴史をさかのぼることのできる名家で、今もケント州にある館ノールは、エリザベスT世がヴィタの祖先へ贈った当時、イギリス最大の私邸だった。そして、父を亡くしたヴィタは、1928年、こよなく愛したこの邸を去らねばならなくなる。娘には相続権がなかったから。物語の中のオーランドーは、その350年もの長き生の間、エリザベスT世の寵愛を受け、文学に勤しみ、トルコ大使となり、七日間の昏睡の後、実に自然に女性へと生まれ変わり、ジプシーの仲間となり、やがてイギリスに戻り、文士たちのパトロンとなり、海の男と結婚し、16世紀以来書き続けてきた詩を完成させて文学賞を受賞し、男の子を産む。これらの事実はサックヴィル家の歴代の人々と符丁するところがある。つまり、サックヴィル家の歴史がオーランドーなるキャラクターに集約されて描かれているのである。それは、女性であるがゆえに、代々受け継がれてきた館を父から相続できなかったヴィタに対する、ヴァージニア・ウルフの愛深き慰めに思える。あなたは館は相続できなかった。けれども、サックヴィル家の歴史は、あなたという女性の中に確かに受け継がれているのよ――と。
 そして言うまでもなく、オーランドーのキャラクターにはヴィタその人が投影されている。ヴィタという人は男性女性問わず魅了する大変魅力的な人だったようで、結婚、出産の後、幼なじみだった女性と駆け落ちし、男装して過ごした出奔先のパリで他の女性から思いを寄せられたりもする。ちくま文庫の「オーランドー」には、“オーランドー”として彼女の写真が載せられているが、美しい人である。そして、ウルフの描写によれば、たくましくも美しい脚の持ち主だったようである。
 ヴィタ自身が件の駆け落ちの顛末を綴った文章も読んでみたが(「ある結婚の肖像」平凡社)、ウルフが創り上げた「オーランドー」の方が格段におもしろく、そこに芸術の力を感じた。この伝記の“語り手”、つまり伝記作家は、ときどき読者に直接ユーモラスに語りかけてきたりして、そのスタイルに慣れるまでは少し時間がかかるけれども、読み進めるうちに頁をめくる手が止まらなくなってくる。そして、サックヴィル家の歴史が流れ流れてオーランドー=現在のヴィタへと集約され、オーランドー自身が世界と一つとなり、真に生きる喜びを見出す終章に至って、…私は、1928年から86年もの時を超えて、ヴァージニア・ウルフその人に、「…しっかりね!」と背中を押される思いがしたのだった。女性が物を書くことが歴史上いかに困難であったかについて、ウルフは、「オーランドー」にも、また、この小説とセットで読まれるべき翌年刊行のエッセイ「自分だけの部屋」にもその考察を記している。「自分だけの部屋」においては、例えば、ナポレオン法典において女子教育が軽視されていたことがユーモアたっぷりに皮肉られており、「怒りに任せて書いてはだめよ」と諭されるようである。
 ちなみに、オーランドーといえばすぐに連想されるのがウィリアム・シェイクスピアの「お気に召すまま」の恋のヒーローであるが、男性性と女性性、その双方のバランスのとれた、理想の芸術家たる両性具有者として、ウルフが敬意を表するのがシェイクスピアである。「オーランドー」の物語の冒頭に、シェイクスピアその人が、何やら詩を書きつけている“詩人”として登場するのだが、ウルフがヴィタに捧げたこの小説の中で、シェイクスピアが書いているのもまた、同性の想い人に捧げるソネットであるのかもしれない。
 「オーランドー」で私がとりわけ好きなのは、終章、36歳の女流詩人オーランドーが、ロンドンのハイド・パークのサーペンタイン池のほとりで見るヴィジョンのくだりである。人生と文学について考察にふける彼女は、池を行くおもちゃのボートを、海の男である彼女の夫が乗った帆船と見る。その帆船はあひるの群れを縫って大西洋の彼方の岸辺へと向かい、その光景を目にしたオーランドーは「エクスタシー!」と叫ぶのである。彼女は悟る。大切なのは、命をかけるほどのもの、エクスタシーなのだと。
 そして、ノールの館に戻ったオーランドーは、人間精神の内に宿る数多の人間について思いを馳せる。このくだりを読んでいると、人とは皆“演劇的存在”であると思わずにはいられない。一人の人間の中にはときにまるで別人のような存在もいて、一人の内にいったいどれほど多くの存在がいるかわからず、時と場合、相手によって違った顔が現れる。ヴァージニア・ウルフの名高い“意識の流れ”とは、そのような存在である人間を、文章上写し取ろうとする一つの試みであるかもしれない。そして、一人の人間精神の内に宿る数多の人間存在について、私個人がもっとも考察を深められる場所はといえば、劇場に他ならない。

 「CONGRATULATIONS 宝塚!!」の作・演出は藤井大介。2014年、創立100周年を迎えた宝塚歌劇団が自らを華々しく祝うショー作品で、東京宝塚劇場ではまさに100周年幕開けのお正月公演として上演された。
 壮がライトに照らし出され、一人踊るところから作品は始まる。黒いベストに黒いパンツ、白いコートという装いだ。やがて雪組生もその踊りに加わる。娘役陣のトップスは黒のキャミソール風という違いはあるが、やはり黒いパンツに白いコート姿である。コートの裾を颯爽と翻しながら壮は踊る。このオープニングでとりわけ感嘆するのは、「聖者の行進」に乗って、娘役陣を引き連れた壮が舞台奥から前方へと進んでくる箇所である。そこにいるのは全員が女性であり、ほぼ同じいでたちをして、同じ振りを踊って、しかしながら、髪型や仕草、立ち居振る舞いの微妙な違いで、男性性と女性性との差異が表現される。
 宝塚の代表的楽曲である「すみれの花咲く頃」に続いて流れるのは、主題歌「CONGRATULATIONS 宝塚!!」(作曲・青木朝子)。ゴスペル風の調べに乗って壮は荘厳に歌う。――と、そこは美の聖堂となる。曲は手拍子せずにはいられないご機嫌なメロディへと変化し、その歌詞には、「もっと進もうよ 壮大な帆を張って」と壮の名前が刻み込まれている。「100周年祝おう 宝塚!」と壮が宣言すれば、「宝塚 MUST GO ON」のリフレインに乗って、雪組生たちが劇場後方通路まで華やかに客席降り。劇場全体が一つになる瞬間である。
 銀橋上、乾杯ソングが歌われて、続くのは通称“男祭り”の場面。女人禁制のクラブで男たちが祝杯を上げているという設定で、登場するのはタキシードを着こなしてキザりにキザる男役のみ。「テキーラ」の曲に乗って、壮を筆頭に、雪組男役陣がその男役芸のすべてをかけて客席を酔わせにかかる。乾杯ソングのエンディングに「…秘密…」とばかりに口元に指をやる仕草、「テキーラ」での、ジャケットの片側を翻したりはだけたりといった力の抜けた風の振りの中、壮の男役芸には遊び人風の危うい色気が濃厚に香る。その色気をとりわけ引き立てるのは、ときにしなやかに、ときにワイルドに動かされる、彼女の大きな手である。
 続く中詰は、ディズニーランドの“エレクトリカル・パレード”の如き光と音の祝祭と、宝塚歌劇との華麗なる融合である。パリにまつわる宝塚の名曲を、銀橋上歌い継ぐ雪組スターたち。髪の毛をびしっと後ろに撫でつけ、シャンパンゴールドの衣装をまとい、オーケストラ・ピットから銀橋中央に登場して壮が歌うは「モン巴里」。1927年初演、岸田辰彌作・演出の日本初のレビュー「モン・パリ」の主題歌の現代風アレンジである。次いで、「夜霧のモンマルトル」に乗って、壮と娘役トップスター愛加あゆとのデュエット・ダンス。大人の男女の駆け引きを思わせる振付で、ここでの壮は「テキーラ」の場面よりさらに辛口でハードな男役芸を見せる。
 ところがところが…、にぎにぎしくも楽しいフレンチ・カンカンの場面に続いて、壮は、この上もなく美しい女性、“グランドエトワール”として登場するのである! 電飾の世界、せりあがってきた壮のゴージャスな輪っかドレスも電飾に彩られている。頭には大きな飾り羽根、幾重にも重なる金の縦ロール、長い首元を引き立てる大きな襟とリボン、そして、フリルとレースとスパンコールに飾られたその優美なドレスは、前面だけがミニ丈で、ゴールドの高いヒールの靴をはいた壮の美しい脚が大胆にあらわになっている。作・演出の藤井は、花組二番手時代の壮に、「ル・パラディ」で妖艶なドレスをまとわせ、その脚の美しさを広く知らしめた人物である(<「舞台は最高のエクスタシー」〜宝塚花組「Le Paradis!!」&「ファントム」の壮一帆>http://daisy.eplus2.jp/article/243609852.html)。大変な重量があるというこのドレスをまとった壮は、男役ならではの迫力美に満ち満ちている。いかにも女性好みの甘やかな装飾にあふれたドレスでも、壮が男役の気概をもって着こなすとき、そこには、女王の如き威厳とりりしさとを伴う艶めかしさが備わる。「シャンパーニュ」と心華やぐ歌を歌い、「ジュテーム」の決め台詞に投げキス。ベル・エポックの華、サラ・ベルナールの美しさやかくや、観る者を心酔わせる。
 次の壮の登場はラテンの場面。ハリー・ベラフォンテの「ココナッツ・ウーマン」を明るく歌うその笑顔はあどけなく無邪気で、女性のかわいらしさを大いに生かした男役芸を見せる。だが、オリジナル曲「RED ROSE BLOOD」に変わると一転、打って変わって妖艶な表情で、エロティックなデュエット・ダンスに南国の真夏の激情をほとばしらせる。再び「ココナッツ・ウーマン」に乗って客席後方の扉から登場するときは、太陽のような明るさをまとっているのだけれども。
 続く場面、オープニングと同じ黒いベストに黒いパンツ、白いコートという装いで現れた壮は、“プレイヤー(祈る者)”として、「リパブリック讃歌」を謳い上げる。「His truth is marching on」――神の真理は進みゆく。それは、天上に在る美の神に対する宣言である。この劇場は、美に尽くし美に生きる者の聖堂、美の殿堂であり、そうあらんことを永遠に希求するとの。謳い上げて銀橋を渡り切った壮が本舞台を見やると、大階段上、雪組生による「100」の人文字が現れている。胸しめつけられる瞬間である。宝塚歌劇が今日まで100年もの長きにわたって続いてきたのは、美を希求する日本の少女たちの祈りにも似た想いに支えられてきたからではなかったか――。そして壮は高らかに言祝ぐ。
「CONGRATULATIONS!!」
 主題歌「CONGRATULATIONS 宝塚!!」と「リパブリック讃歌」が絶妙に掛け合わされて流れる中、劇場は再び祝祭ムードに包まれ、この公演で退団する雪組生が、壮の歌に乗って踊る。そして再度の客席降り。今ここに共に宝塚創立100周年を祝えること、今ここに共に生きて在ることの至福――。
 壮がチャーミングな合図と共に袖に引っ込んだ後、「CONGRATULATIONS 宝塚!!」のアレンジに乗って繰り広げられるラインダンスも大好きである。通常ラインダンスというと下級生たちが初々しさ、フレッシュさを見せるものが多いが、今回は上級生娘役陣がずらっと居並び、衣装もセクシーに戦闘力MAX。私がとりわけ好きなのは、二人ずつ顔を合わせてのキュートな片足上げポーズから、センターのV字フォーメーションの一陣がかぶっていた帽子を手にして踊るところの曲調で、…何だか、今こうしてコケティッシュな魅力を見せている娘役たちも、そして男役たちも、タカラジェンヌとしての始まりはラインダンスからだったのだということを改めて深く認識して、心揺さぶられずにはいられない。
 曲は「Oh Happy Day」。大階段に現れた壮と愛加のデュエット・ダンスは、さきほどのそれとは雰囲気がガラッと違い、微笑みを浮かべた二人がほっこりと温かな幸せを表現する。銀橋上一人残った壮が、ベートーヴェン「交響曲第9番」のあまりに有名なメロディに合わせてくるりと一回転して客席を見やれば、その表情は一転、きりりと引きしまっている。そして、宇宙的、未来的な編曲がなされた「第9」に乗って、雪組男役陣がその勢いをスパークさせ、宝塚歌劇の輝ける未来を祝する。私は、ヒロイン・レオノーレが男装し、フィデリオと名乗って、獄中にある夫を救い出すベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」を思い起こしながら、この場面を観ていた。――「オクタヴィアンと力を合わせ、この世の謎を解き明かしなさい。シェイクスピア、モーツァルト、ベートーヴェン。偉大な芸術家たちはその作品の中に、男装する女性を登場させてきた。それは、性が男と女の二つに分かれていること、そのこと自体がこの世の一つの謎だと、彼らが考えていたからとは思わないかね」――。かつて私は、壮一帆の舞台の上にそんな声を聴いた。そして今、思うのである。男性性と女性性とを自由自在に行き交うことのできる宝塚の男役とは、ヴァージニア・ウルフが「オーランドー」の中に永遠に閉じ込めた美にも重なる存在であると。
 壮一帆は今月末、退団の時を迎える。“男性”から“女性”へ。華麗なる転生の瞬間である。

 胸がちくりとした私は、その後、深く納得したのである。ないものねだりはもはやすまい。今生では、私は自分の理想とするようなかっこいい女性に生まれてはこなかった。それは仕方ない。持って生まれた風貌と、自分自身の内なる男性性と女性性とに折り合いをつけて生きていくしかない。
 けれども、私は、壮一帆の舞台を観、書き記すとき、その折り合いがもっともうまく行っているのを感じる。そして、自分の今生に深く満足するのである。――あひるの群れを縫って彼方の岸辺へと向かう帆船を目にして、「エクスタシー!」と叫ぶかのオーランドーのように。