藤本真由オフィシャルブログ

――「この世にどうしてこんなに悲しい物語があるのか、二人で解き明かしなさい」――

 近松門左衛門の「冥途の飛脚」を原作とした「心中・恋の大和路」は、主人公亀屋忠兵衛の親友八右衛門が名曲「この世にただ一つ」を歌う中、愛し合う忠兵衛と遊女梅川が雪山を登り、息絶えるところで終わる。今回の公演で、忠兵衛(壮一帆)と梅川(愛加あゆ)が、白い布を吊って表現した雪山を登っていく中、八右衛門役の未涼亜希が絶唱するのを聴いていて、私がまっさきに思い浮かべたのは、橋本治の「恋愛論」の数節なのだった。
――人が恋に落ちるとは、“暗黒”が自分をずっと取り巻いていたのを知るということである。恋に落ちた瞬間、恋する二人は周囲、つまりは現実から切り離される。なぜそのようにして二人は現実から切り離されてしまったか、恋する二人は二人して答えを出さなくてはならない。そして、光の中にいるのは本人たちばかりで、周囲の方は暗黒に包まれている。恋する二人に、よその世界に思い入れたっぷりに逃げ込まれた周囲の方は、つまりは、「あなただって私に不幸を押し付けていた人間の一人だ」という一方的な宣告を下されるに等しく、そこに“怒り”に近いような感情が生まれる――。
「心中・恋の大和路」の八右衛門は、原作の性格付けに近い。つまり、友達思いで、忠兵衛の手元不如意を色里で言いふらすことで、彼を色里に寄せ付けるまいと考える。忠兵衛の破滅を防がんとするこの企みはしかし、その話を聞いていた忠兵衛が逆上してしまい、結局はうまくいかない。宝塚版の八右衛門は、追い込んでしまった自分の責任を感じて忠兵衛を新口村まで追いかけ、梅川に煎り豆と路銀を渡し、二人を追っ手からかばう。そして、絶唱する。その姿がまるで、恋ゆえに現実と切り離されてしまった二人と、切り離された現実の側を代表する人間とをはっきりと表しているように思えたのだった。

 先日、関西を訪ねた際、私は、近松の「曾根崎心中」の舞台である露天神社に行ってみた。現実に、元禄16年(1703年)4月7日、お初徳兵衛がまさに心中を遂げた場所である。その現場に立ち、近松が描いた二人の死に様を思い起こしていると、――ここで二人の人間が実際に命を落としたのだという厳然たる事実に、全身の血が逆流して総毛立つようだった。そんな状態のままおみくじを引いたものだから、「親類に迷惑が及びます」と出て、…そりゃあ心中したらそうなるなあ…と、はっと冷静になって木におみくじを結びつけた。
 一人の人間が生きるエネルギーは強い。その生を断ち切ろうとするエネルギーはさらに強い。そんなことが二つの命揃ってそこで行われてしまったのだから、あの場所には何だか凄まじいエネルギーが今もなお逆巻いているのだとしか思えない。だからこそ、そこで起きた“悲劇”に人は今も吸い寄せられてお参りをし、その“悲劇”の物語も後世の人々の心をとらえて離さず、読まれ、上演され続ける。
 けれども、私があの場所で、全身の血が逆流して総毛立つような中で感じたのは、心中した二人にとっては、それはまったく悲しい物語ではないということなのだった。愛し合って、お互いしか見えなくて、お互いのために生き、死のうと願い、実行する。一緒に死ねて本望、むしろ幸せである。
 悲しいのは、死んだ二人ではない。二人に死なれた世界の方である。私たちの愛はこの世界では生きる場所がない、この世界にはふさわしくないと、見捨てられた世界の方である。二人に死なれた世界は永遠に、その死を悼み、考え続けねばならない。

 恋に落ちて味わうのは至上の喜びである。人は誰しも一人で生まれる。ときに孤独も耐え忍ばねばならない。そこへ、自分と心通じる相手が現れる。互いに深く理解し、愛す。愉悦である。一人で生きねばならないと思っていたところに、手に手を取り合って共に生きる相手が現れたのだから。だから恋は容易に二人を現実から切り離す。けれども、人はやはり世界の中で生きていく存在である。その恋を愛として現実に息づかせ、愛を世界につなぎとめなくてはならない。
「冥途の飛脚」を読んで、「心中・恋の大和路」を観て、私が考えていたのはそんなことだった。物語の中には決定的な分岐点がいくつかある。その一つ一つを考え、その轍を踏まないことで、世界にとっての新たな“悲劇”を生まないためにはどうすればいいか、わかるように思った。無粋と言われるかもしれない。けれども、私は悲しい“物語”をただ“物語”として消費できない性分である。そして、現世で幸せになること、幸せにすることをひたすら追求する性分である。
 究極的には、周囲は二人を「追いつめない」こと。そして二人は「思いつめない」こと。これに尽きると思う。この世に頼るものが互いしかないとまで追いつめ、思いつめるから、恋してだけではなく、生き死にの上でも世界と切り離されてしまうようなことが起こるのである。
 追いつめられそうになっている人がいたら、世界につなぎとめるべく手を伸ばす。愛し合う二人も、悲愴感たっぷりに二人だけの世界に逃げ込まないで、むしろ世界をこちらに巻き込む。なるほど、この二人が愛し合っている姿はいいものだ、周囲にもその愛の光が注いでくるようだ…と思われるようになれば、こっちのものである。

 私がこうして現実的に逞しい“悲劇”の打開策を考えるに至ったのも、それだけ、八右衛門役の未涼亜希の歌と演技に心打たれたからだと思う。恋に落ちた親友をかえって追いつめてしまったせつなさ、やりきれなさ。これまでの友情についての回顧。せめてもの手向けに、二人の来世での幸せを祈り、願う。さまざまな思いがないまぜになった、まさに絶唱だった。
 10日の舞台稽古及び11日13時半の部を観劇(東京宝塚劇場)。芝居、ショー共、私の好きな男役・蘭寿とむがつまっていて、とてもうれしく。よきさよなら公演となることと思う。上級生男役、娘役陣の充実に加え、芝居では鳳真由、ショーでは瀬戸かずや、そして芝居とショーでの仙名彩世と、若手の著しい成長も実に頼もしい限り。
「百周年は壮で行く」
 壮一帆が二番手時代に出演していた花組公演「ファントム」の東京宝塚劇場公演(2011年8‐9月)観劇時。舞台の上演中に、私は何度もその声を聞いた――。
 不思議な公演だった。他にもさまざまな声を聞いた。無理からぬ話である。「ファントム」は、壮一帆扮するオペラ座の劇場支配人ジェラルド・キャリエールが、自らが生み出した劇場の“ファントム=幻影”と対峙し、これと訣別する物語である――この“劇場支配人”とは、例えばリヒャルト・シュトラウスのオペラ「カプリッチョ」の劇場支配人ラ・ロッシュの如く、今日的になじみの深い言葉で言えば“芸術監督”に近い存在であると考え得る。
 私自身の願望だったのではないかと思われるかもしれない。しかし、それは違う。まず、聞こえてきた声は男性のものだった。そして私自身は、壮一帆がトップスターになってほしいというよりもむしろ、ならなければおかしいとは思っていた。“おかしい”とは、宝塚のトップスター・システムに対して、私の中で疑義が生まれるという意味においてである。だが、必ずしも百周年にこだわるものではなかった。それに、自分の願望に過ぎないのではないかとどんなに打ち消そうとしても、それでもなお、その声は聞こえてくるのだった。
 私は周囲の数人に言ってみた。宝塚歌劇が百周年を迎えたとき、壮さんがトップスターをやっているんじゃないかしら――と。否定的な反応が返ってきた。「ファントム」の一つ前の公演でトップスター真飛聖が退団したにもかかわらず、この公演で彼女は引き続き二番手を務めていた。もうトップにならないのではないか、よしんばなったとしても百周年まで在団してはいないのではないか。今となっては大変失礼な話だが、その当時、そう考えていた人も少なくなかったように思う。「そうなるんじゃないの」と、私が聞いた言葉をそのまま受け入れて信じてくれたのは、夫一人だった。
 それで私は思った。これが例えば、明日災害が起きるとか世界が滅びるとか、何かしら緊急対応が求められる事柄であれば、“予言”として一人でも多くの人に伝える必要がある。しかしながらこれは三年後の話なのだから、“預言”として受け止め、その言葉が最良の形で実現されるよう、自分にできることに力を尽くしていくのみだと。舞台評論家である私にできることはと言えば無論、彼女の舞台を観ること、そこに見出した美しさを書き留めること、その二つだけである。
 そのときから今日まで、そうして私は歩んできた。その過程で、本当に多くのことを教えられ、育てられた。舞台を通して知り得る彼女の真摯な生き様にふれ、このままではその美しさを書き記し得ないと、私自身、生き方が変わった部分もある。舞台評論家という職務を全うしたいと願う以上、一人でも多くの舞台人の心にできるだけ寄り添い、その人物が舞台で体現する美を少しでも多く発見して書き記していきたい、そう考えるようになった上で、彼女の存在は私にとって非常に大きい。

 「ファントム」の公演中に聞こえた声で、もう一つ、心に深く刻まれた言葉がある。
「私は、人を不幸にするものを創り出してしまっただろうか――」
 その一人称の持ち主が、宝塚歌劇を生み出した人物なのか、それとも、その人物の魂に何らかの形で呼びかけて宝塚歌劇を生み出させた存在なのか、峻別は必要ない。宝塚歌劇とは、ときに人を不幸にするものなのだろうか――。私は、その問いに、断固として“否”と答えたかった。私は、宝塚歌劇によって魂を救われた人間である。生きることが本当につらかったときに、宝塚の舞台に何度も生きるエネルギーを与えられた。自分の魂を救ってくれたものが、その一方、どこかで人を不幸にしているとは、私は考えたくなかった。むしろ、こちらの方が私の願望かもしれない。
 人事ばかりに拘泥すれば、ときにそこに不幸は生まれ得るのかもしれない。しかしながら、宝塚歌劇が究極的に目指すべき幸せとは何だろう。その舞台に携わる人間も、その舞台を見守る人間も、共に幸せになるとはいかなることだろうか。私はそのことについて考えた。そして、そこが、芸を見せる、芸を見る空間である以上、何よりも、舞台上で清く正しく美しい芸が体現されることが、宝塚歌劇に関わる多くの人々を幸せにすることに他ならないと思い至った。トップスターになることだけが幸せで、それ以外は不幸のように思う傾向がもしあるのだとしたら、それこそが不幸である。それぞれが己のベストを尽くして輝き、その姿に観客が惜しみない拍手を送る、それが、全員がスターである宝塚歌劇の理想的な姿であるのだと思う。

 その後、壮一帆は雪組トップスターとなり、宝塚歌劇百周年を迎えることとなった。今年初め、東京宝塚劇場において上演されたショー「CONGRATULATIONS 宝塚!!」は、宝塚歌劇百周年の幕開けを華やかに告げる祝祭そのものだった。その作品を昨年秋、宝塚大劇場で観劇した際、大階段に雪組生が描く「100」の文字を銀橋から見つめる彼女の姿を観て、私は、かつて聞いた言葉が実現する日が近いのを感じ、改めて身の引き締まる思いがした。そして、宝塚歌劇の創立者の旧邸、雅俗山荘を訪ねた。
 今は「小林一三記念館」となっているこの洋館を訪ねたのは、かつて「逸翁美術館」として公開されていた頃以来だったから、久方ぶりのことになる。創立者がタカラジェンヌを館でもてなす写真や、タカラジェンヌ全員から創立者に贈られた祝いの品などを見て、その空間でくつろいでいると、まるで、自分も温かく迎えられているような気持ちがしてくるのだった。そして私はその庭園に遊んだ。暖かな陽光にぽかぽかと照らされながら、風流な茶室をいくつも抱えた美しい庭園をめぐっていて、――不意にあの声が甦ってきた。
「私は、人を不幸にするものを創り出してしまっただろうか――」
 宝塚歌劇の創立者が生み出したその庭園で、私は幸せだった。そして、今こそこの問いにきっぱり“否”と答えられる、そう思った。

 宝塚歌劇は1914年4月1日、「ドンブラコ」「浮れ達摩」「胡蝶」の三本立て公演でその歴史を刻み始めた。そのちょうど百年後の今日、2014年4月1日。壮一帆は、月組公演に特別出演する形で、宝塚大劇場の舞台に立った。
 思えば、彼女のトップスターとしてのキャリアは、雪組を率いての公演より前に、昨年1月、月組公演「ベルサイユのばら」に特別出演するという形で始まった。それ以来となる、トップスター龍真咲率いる月組との顔合わせである。トップとしてキャリアを積んで、記念の日に、再び月組生と共に舞台に立つ。そのことにも不思議な縁を感じずにはいられなかった。
 今回の月組公演は、百年前の初回公演と同じ三本立て、日本物ショー「宝塚をどり」、阪急電車の梅田−宝塚間の乗車時間にちなんで上演時間35分の祝祭劇「明日への指針−センチュリー号の航海日誌−」、宝塚のレビューの嚆矢「花詩集」(1933)を現代風にアレンジしたグランド・レビュー「TAKARAZUKA 花詩集100!!」という構成である。三本とも祝祭性に満ち、力が入った作品となっている。壮一帆はこのうち、「宝塚をどり」の一場面と、「TAKARAZUKA 花詩集100!!」のいくつかの場面に出演した。
 「宝塚をどり」で壮は、龍と共に百獣の王・獅子の舞を披露する――ちなみに、壮は獅子座の生まれである。その勇壮な舞を一心に観ていたら、――私は再び、「ファントム」のときのような不思議な感覚を味わうこととなった。続く場面は、舞台中心に鎮座するマリア像を囲んで、「すみれの花咲く頃」のボレロ・アレンジで月組生が踊るクライマックスなのだけれども、――目の前にまるで走馬灯のように、宝塚歌劇百年の歴史が現れては消えた。それは、作・演出の植田紳爾がこの作品に注ぎ込んだ想いが見せるヴィジョンなのだろうか――。天津乙女。春日野八千代。伝説的存在のみならず、これまでその舞台に立ってきた何百人ものタカラジェンヌたちが、舞台上の月組生たちと一緒になって踊っているのが見えた。そして客席では、これまで宝塚歌劇を愛し、見つめてきた人々の魂が、私と共に舞台を見つめているのだった。
 折しも、宝塚大劇場前の花のみちでは桜が今を盛りと咲き誇り、創立者小林一三の像を美しく飾っている。そして私は、作品のオープニングの桜景色が、花のみちの桜景色に勝るとも劣らぬ美しさであると思って見つめていたのだったが、――そのクライマックスで、私は自分の魂がふわっと浮遊していくのを感じた。そして、客席にいながらにして、宝塚大劇場と、桜咲く花のみちと、創立者の像とを、遥か上空から俯瞰で眺めていた。そこには、宝塚歌劇に関わってきた人々の魂が至るところから集まってきていた。
 私は、宝塚大劇場の地に残る、数多の幸せの記憶を見ていたのだった。センセと呼びかける声。うれしそうに微笑む創立者。舞台を喜びの眼で見つめる観客。それが、宝塚大劇場のゲニウス・ロキ――地霊、守護精霊――なのだった。
 そして、休憩を挟んでの「明日への指針−センチュリー号の航海日誌−」は、心が“清く正しく美しく”ないと見えない船の精霊が出てくる話なのだった! 私は、とある船の事故で海に沈んだ一人のタカラジェンヌ――私の祖母は、元月組組長であるその人の大ファンだった――のことを思い出し、今はやはり宝塚大劇場を守っているのであろうその魂に、心の中でそっと手を合わせた。

 「TAKARAZUKA 花詩集100!!」は、宝塚100期生のお披露目、百人のラインダンスなど華やかな見どころたっぷりの作品で、パリのクレイジーホースの衣装デザインも手がけるアントワーヌ・クルックによる、スタイリッシュでアヴァンギャルドで、それでいてどこか、「花詩集」が初演された頃の昭和モダニズムをも感じさせるコスチュームも大きな話題を呼んでいる。両肩に大きなバラのついた衣装を着て、大胆に角度のついたシルクハットをかぶった壮や龍の姿を観ていると、いにしえのレビューの紳士が未来からタイムスリップしてきたかのような不思議な感覚にとらわれる。フィナーレのパレードの衣装は、桜吹雪のあしらわれた黒地の着物をそのまま洋装に仕立て上げたようなキッチュさである。
 この他、中詰のラテンの場面にも特別出演がある。月組生と共に熱い舞台を創り上げる壮一帆の姿を観て、私は、――あの日聞いた言葉の通りになった、しかもそれは、最良の形で実現された――と思った。無論、それが最良の形で実現されたのは、壮一帆自身が今日までずっと美を舞台上に体現することに魂を傾けてきたからに他ならない。私は、その舞台を観て、書いてきただけなのだけれども、それでも、一つの役目を果たし終えたとの思いで、胸がいっぱいだった。
 そして私は、この上なく幸せだった。この世界に宝塚歌劇があって本当によかったと思った。宝塚歌劇があったから、多くの忘れがたい人々、多くの忘れがたい舞台に出逢うことができた。そんな私の幸せの記憶も、いつかまた、宝塚大劇場の地霊となる日が来るのかもしれない。

「百周年は壮で行く」
 あの日からずっと大切に心のうちに預かってきた言葉を、ここにこう書き記して、私は、その言葉がやってきた場所へと、今、お返しいたします。
 宝塚歌劇百周年、おめでとうございます。
 27日14時の部観劇(日本青年館大ホール)。素晴らしい。これぞ私の愛する宝塚歌劇の作品である。朝夏まなと=ヨハネス・ブラームス、緒月遠麻=ロベルト・シューマン、伶美うらら=クララ・シューマンの宛書もぴたりとはまり、おっとりとした上品さが魅力のキャストが、美と愛に結ばれた三者を描き出す。周囲を固める宙組メンバーも良作良役を得て奮起、この作品を経ることでより大きく成長していくことだろう。デビュー作「月雲の皇子」で注目された作・演出の上田久美子は、骨太な作風が魅力である。さらなる美の境地を目指し、その翼を自由に羽ばたかせて、これからの宝塚歌劇を大いに盛り上げていってほしい。ブラームスやシューマンについて常々考えてきていることもあり、作品とも絡めて今後また書いていきたいと思っていますが、一見の価値あるこの舞台について、まずは一言認めておきたく。奇しくも、2月27日、劇中でも描かれるロベルト・シューマン入水自殺未遂の日に。
 星組「めぐり会いは再び 2nd 〜Star Bride〜」、雪組「Shall we ダンス?」と、作・演出の小柳奈穂子は2年連続、東京宝塚劇場のお正月公演を担当している。「めぐり会いは再び 2nd」は、その前年に上演された、17〜18世紀のフランスの劇作家ピエール・ド・マリヴォーの「愛と偶然との戯れ」を原作とした「めぐり会いは再び」の続編である。この公演は日本物ショーとレビューとの三本立てとなっており、彼女に与えられた時間は45分。これだけの時間のうちに、前作の続きとなるストーリーを展開し、しかも、メインキャストの中には退団者や組替えした者、組替えしてきた者もいるから作劇上その配慮もしなくてはならず、また、1年のうちに頭角を現した若手にも新たに役を振らねばならない。とてつもなく複雑なパズルを解くような作品作りが要求されたわけだが、小柳はこのとき見事な手腕を発揮した。
 「めぐり会いは再び」のラストから一年が経ち、貴族のドラントとお転婆姫シルヴィアの結婚式前夜。二人は、産休中の侍女リゼットが男の子と女の子、どちらの赤ちゃんを産むかについて話しているうちに口論になり、仲違い。そこへ、野菜泥棒をするほど食いつめた役者の二人組がやってくる。役者の一人は「先輩!」と呼ばれており、後輩の方は劇団にて小道具担当の経験もある。“先輩”が、シルヴィアと結婚を誓った“騎士”であると騙り、後輩がこしらえた婚約指環を差し出したことから、ドラントとシルヴィアの恋模様は大混乱。そこに登場するのが、劇作家にして演出家のエルモクラート・オズウェル・マーキス先生である。はたして劇作家先生は、演劇の力で事態を解決できるのか――。
 このエルモクラートが作者の分身ともいえる存在であることは以前にもふれた。劇作家・演出家が、自身の創る芝居によって舞台と客席との“恋”を取り結ぶ存在であるとすれば、「めぐり会いは再び」シリーズにおいては、ヒーローとヒロインとの恋に、その舞台と客席との“恋”がなぞらえられていることになる。そして、「2nd」においては、最終的に、“騎士”を騙る“先輩”役者に、劇作家・演出家が自身の演劇の力で勝利する。「悲劇か? 喜劇か?」と悩んではたびたびスランプに陥り、芝居をやめて家族の勧めるビア樽のようなルックスの気立てのいい娘と結婚しようかとまでときに思いつめ、偽騎士が姫の前に跪いて繰り出す「あなたは私のミューズです」との言葉に「名台詞だ、負けた〜〜〜」と走り去っていってしまうエルモクラート先生は、少々頼りなげではあるのだが、やるときはやる人物、見事大団円を演出してみせる。演じる真風涼帆のおっとりと誠実で上品な持ち味も生きて、この作者の分身は非常に魅力的なキャラクターとして描き出されていた。
 「2nd」においては、原作でこそないが、マリヴォー作品「本気の役者たち」のエッセンスもちりばめられていた。「本気の役者たち」は、芝居とそれを演じている役者たちとの本気、本心とが錯綜し、さらには一芝居打とうという企みまで入り組んで混乱が生じる作品である。マリヴォーの戯曲を読んでいると、私は、「で、ここにさらに、この作品を実際に演じている役者たちの本気が絡んできたら、いったいどうなるんだろう?」と考え始めて、さらに頭がごっちゃになってきてしまったりするのであるが。「2nd」においておもしろかったのは、例えば、侍女リゼットと結ばれた従者ブルギニョンが、結婚式の余興の芝居の稽古の際、芝居といえど、自分には愛する妻がいるからそんなことは絶対できない! と、キスシーンを激しく拒絶する場面である。ブルギニョンに扮した紅ゆずるが、バウホール公演初主演作「メイちゃんの執事」(2011)で、ヒロイン・メイちゃんの唇に指で口紅を塗りこめながら思いあまって口づけしてしまう箇所で秀逸なキスシーンを演じ、これこそがこの人の男役としての一番の武器なのでは…と感じさせたことを思い返すと、微笑せずにはいられない。ちなみに、その妻リゼットが産休中という設定になっていたのは、この役を演じていた白華れみが退団してしまっているからで、退団と組替えによって星組を去った役者が演じていたキャラクターについては、旅に出た等々、全員その不在の理由がきちんと説明されており、その苦肉? の策が、事情を知る観客のくすくす笑いを誘うところでもあった。
 結末だけ言ってしまえば、貴族と姫とが結ばれる、いかにも宝塚風というか、実は宝塚でもあまりないような恋物語ではあるのだけれども、どこかシニカルな視線が枠組みとなっているため、少女趣味一辺倒に崩れていくということがない。それが小柳作品の魅力であろうと思う。宝塚歌劇において少女趣味は確かに一つの大きな要素ではあるけれども、少女趣味だけに走られると、観ていて非常に居心地の悪い気持ちがするのもまた事実である。そのあたりのバランスが絶妙である。

 雪組「Shall we ダンス?」において、そんなシニカルな視線が投影されていたのは、奏乃はると扮する探偵クリストファーと、彩凪翔が演じたその助手ポールの存在である。奏乃クリストファーは先にふれたように、「夫婦は他人同士ですよ」と、夫の浮気相談に訪れた主人公ヘイリーの妻ジョセリンに告げる人物である。助手のポールは今作において狂言回し的存在となっているが、導入部で彼がヘイリーについて語るセリフは、「一人の平凡な男がいる。平凡な家庭に生まれ、平凡な学生生活を送り、平凡な就職をし、平凡な女と平凡な結婚をし、平凡な子どもが産まれる」「そして、この時代に平凡であることがどれだけ幸せなことか彼自身よく知っている」と、少々皮肉なまでに“平凡”のオンパレード。夫が大きな会社に勤め、妻が専業主婦、娘が一人というヘイリーの家族構成につき、「今どき夢みたいな人生ですねぇ」とつぶやく。ヘイリーの人生は同僚ドニーによっても“夢みたいに思える”と表現されており、平凡中の平凡こそが今や“夢みたい”とされる逆説がここにある。そのポールは探偵稼業に多大な憧れをもって事務所に勤め始めたばかりのミステリーマニアで、「どうも現実ってヤツが分かってないんだな」「(探偵事務所という)その別世界も私にとっちゃ仕事ですがね」と、探偵から苦言を呈される。例えば、劇場に生きる人々は、劇場に生きない人々からすれば“夢みたい”な人生を送っているように思えるものだが、実際に劇場に生きる人々からすれば、それは“現実”であり、“仕事”であるだろう。
 宝塚版「Shall we ダンス?」でひねりがあるのは、ヘイリーの浮気調査をきっかけに社交ダンスの世界にふれたクリストファーとポールが、自らも踊る楽しみに目覚めてしまうところである。しかも、ダンス教師シーラに逆に尾行され、探偵稼業がバレてしまっているというオチつき。“ミイラ取りがミイラになる”を地で行くおかしみが、社交ダンスの魅力を強調する。
 依頼された仕事に淡々と取り組みながら、次第にヘイリーにシンパシーを覚え、社交ダンスにはまってゆく探偵クリストファーを演じた実力派奏乃はるとは、前半のシニカルな表情と、ラストに正体を暴かれてしまって見せる愕然とした表情のボケっぷりとの落差がかわゆくもおかしい。奏乃は、「CONGRATULATIONS 宝塚!!」の伝説のアイドルSAGIRIの降臨シーンではメガネ姿の修道院長に扮し、美声を披露しているが、お祈りの列を乱すシスター(梨花ますみ)にオッホンと盛大にツッコミを入れるくだりや、なぜかSAGIRIに選ばれるのは自分なのだと固く信じて恥じらう演技等、コミカルな場面に強いところを見せ、この楽しいシーンを大いに盛り上げた。
 助手ポールを演じた彩凪翔は、フィクションの世界を通じて探偵稼業に夢を抱くキャピキャピの青年が、浮気調査をきっかけにある“平凡”な家族に関わっていくことで、彼自身、人の世を知って成長してゆく様を見せた。世間知に長けた感のある奏乃クリストファーと、世間知らずがいかにもかわいらしい彩凪ポールのコンビは、好対照を成していた。彩凪は大地真央に似た面影の持ち主で、「CONGRATULATIONS 宝塚!!」でも生き生きとした魅力を発揮しており、雪組期待の若手男役である。

 一言で“平凡”と言っても、その定義は実は難しい。“平凡”なサラリーマン、ヘイリーが、社交ダンス教室の窓辺にたたずむ美女の姿をきっかけとして社交ダンスに出会ったことで、「Shall we ダンス?」の物語は回り始める。ヘイリーが社交ダンスを始めなければ、クリストファーとポールもまた社交ダンスに出会わず、ポールが成長を遂げることもなかったわけである。多くの人々の心のうちにさざ波のように何かが広がっていく様を、物語は描き出す。平凡”なサラリーマンが生きるのは、実は“平凡”ならざる物語――。
 宝塚歌劇100周年を記念して、1月下旬、東京では宝塚歌劇ラッピング山手線が走っていた。私が宝塚ラッピング山手線に乗り合わせたのは惜しくも休日だったが、車内の中吊り広告が片面すべて「Shall we ダンス?」で、車内のモニターでは「Shall we ダンス?」でヘイリー役の壮一帆が一人ステップを踏む映像が流れる様を見て、思わずにはいられなかった。――平日の通勤時間帯ともなれば、スーツ姿にビジネスバッグを抱えたヘイリーのようなサラリーマンたちがその電車に大勢乗り込むわけである。そして、モニターの映像を見て、「あ、サラリーマンが踊ってる」と思ったりするかもしれない。電車のホームから、ダンス教室の窓を眺めていたヘイリーのように。そんな一人一人の、“平凡”とされるサラリーマンたちのうちに、いったいどんな“物語”がひそんでいるのだろう――と。それにしても、電車と縁が深い物語である。宝塚歌劇団の稽古場自体、阪急電車から窓が見えることを考えると、宝塚での上演に何だか不思議なめぐりあわせを感じる。
 今回の「Shall we ダンス?」は、南の島在住の一名のみならず、男性サラリーマン諸氏にも大変受けがよかったようで、うれしく思った。例えば、一般男性客は、王子様が主人公と言われてもなかなか共感を覚えにくいかもしれない。けれども、今回のようにサラリーマンを主人公とした物語に対しては、客席のサラリーマンたちも、宝塚歌劇と自分との接点をどこか見出しやすいところがあったのではないだろうか。壮一帆演じるヘイリーは、確かに現実にはいないようなかっこいいサラリーマンかもしれない。けれども、壮が演じているのは、平凡に見えるサラリーマンのうちにひそむ美しさなのである。その接点を心に受け取った男性客が、今後も宝塚歌劇の舞台に足を運んでくれたとしたら、こんなにうれしいことはない。その意味で、女性を中心とする観客が宝塚歌劇に求めるものを理解しながらも、地に足のついた作劇を見せる小柳菜穂子が今回の作品を担当したというのは、正解だったと思う。
 2014年2月9日をもって、雪組男役・香音有希が宝塚を去る。実は彼女は、私が仕事上大変お世話になっている方のお嬢さんである。評論家としての今の私があるのも、その方がまだ若かった私を信頼して、仕事を任せてくださったということがあったからだと思っている。その奥様も、顔を合わせるととても温かな気持ちで包んでくださる方である。その縁で私は、まだ彼女が新人公演に出ている頃に一度お会いしたことがある。「ダメ出ししてください!」と非常に熱心なので、舞台を観ていて気づいたことを伝えたところ、次第に直っていって、…よかった、と思ったことを覚えている。
 さて、恩義がある方のお嬢さんということで、私は固く心に決意したのだった。もしかしたら、必要以上に固く。彼女の演技に100パーセント完璧に納得したときに書くことが、恩義ある方への私なりの恩返しなのだと。
 今ではすっかり昔の話になってしまったけれども、数年前まで、雪組の男役はちょっぴり女の子っぽかった。そんな中で、香音有希は、下級生時代から、昔ながらの、とても濃い男役を志していることが、舞台を観ていてわかった。そして、時間がかかる人なんだろうなとも思った。彼女の父上は、外国人と並んでも頭一つ飛び出すほど、長身のダンディな紳士である。よく似た彼女もまた長身で、そして、年月を重ねて男役としての味が出てくるタイプに思われたからである。芸を取得する上で、時間がかかる人と、かからない人とがいる。そしてときに、時間がかからない人は、それだけ自分が会得したものに対する思い入れもあまりなくて、あっさり投げ捨ててしまったりするものである。これに対し、時をかけてじっくり己を育んできた人の芸は、それだけどこか愛おしさを備えていたりもする。雪組トップスター壮一帆にしてからがそういうタイプである。宝塚歌劇も、時間がかかる人と、かからない人とを見極めて、かかる人はその人のスパンで育っていけるよう、ゆっくり見守る余裕が欲しいと思う次第である。
 じっくり時間をかけて、香音有希は自分の男役を育てていった。少しずつ、いいポジションで踊る姿が観られるようになった。そして、昨年秋の「若き日の唄は忘れじ」全国ツアー公演で、主人公・牧文四郎を、はっとするタイミングで救う農民の藤次郎役。私は、彼女の演技について記せることが本当にうれしかった。その後すぐに退団発表があって、お母様から、…全国ツアーのときはもう退団を決めていたのだけれども、言えなかったのよ…と言われて、花の道で思わず泣いていた…。
 「Shall we ダンス?」で香音が演じているのは、ダンス教師エラ(早霧せいな)の父親で、ダンス教室を経営するアーサー役。エラは、競技ダンスの最高峰ブラックプールで失敗し、そのときのパートナーに裏切られたと思い、心を閉ざしている。そして、見返すために、優秀なダンサーを探し、共に世界に打って出ようとしている。アーサーは彼女を止める。最初のパートナーになぜ解消されたか、その理由に気づくまで、ダンス教室でレッスンをもつよう諭す。「Shall we ダンス?」は、人と人との心に通う信頼をも描く物語である。エラと最初のパートナーとの間には、共に何かを作り出す上での信頼がおそらくなかった。そのことに気づくよう、父アーサーは愛をもって娘を諭すのである。――胸に痛い言葉である。舞台人との間に信頼がなければ、私が何を書いたところで言葉は響かないだろうと気づけたのはいつのことだったろう、と思う。
 「CONGRATULATIONS 宝塚!!」には、作・演出の藤井大介らしい、退団者への餞の場面がある。宝塚歌劇100周年の「100」の人文字が大階段に並んだあと、祝福の総踊りとなり、そして、香音をはじめとする退団者たちが、壮一帆を取り囲んで誇らしげに踊る。宝塚歌劇が100年もの間続いてきたのは、生徒一人一人が宝塚への愛を胸に舞台を務めてきたからなのだと思う瞬間である。“お酒”をテーマにしたシーンで、壇上の愛加あゆに手を差し伸べる瞬間の物腰も優雅至極。
 娘とは、生物学上、父から“男”を相続しなかった存在である。しかしながら、実際には、娘とは、男性性も含め、父なる存在から実に多くのものを受け継いでいるのだと、宝塚の男役を観ていて思うことがある。そして、“父”を演じるとき、または、“父の娘”を演じるとき、その演者のお父上が実に尊敬すべき存在なのだろうと思わずにはいられないときがある。実際にそのお父上にお会いして確認する機会というものはまずないと言っていいけれども、男役・香音有希という存在を通して、私は、その直感が正しいものであることを知っている。長くをかけてそうして見続けてきた、その時間は非常に豊かなものであったと、今、しみじみ思うものだし、そんな時間を与えてくれたことに本当に感謝している。これからの人生もどうか、お幸せに!

 今回の公演では娘役・夢華あみも退団である。彼女は入団一年目にして「ロミオとジュリエット」のジュリエット役に大抜擢された。役作り自体は、同じ役を務めた後のトップ娘役、舞羽美海をなぞるところがあったように思うけれども、その舞台度胸には目を見張るものがあった。そして、若くしてビターなヴィジョンを出していたことが胸に残った。「ベルサイユのばら」でのフェルゼンの妹役ソフィアの演技や、今回の「CONGRATULATIONS 宝塚!!」の「Ramona」での銀橋渡りなど、娘役としてのこれからが楽しみになってきたところでの退団である。宝塚での4年間が彼女にとって幸せなものであったことを願ってやまない。
 2010年8月。理由はもはや忘れてしまったが、あひるは何だか落ち込んでいた。見かねて夫が切り出した。――今、宝塚大劇場では花組が「麗しのサブリナ」「EXCITER!!」を、バウホールでは星組が「摩天楼狂詩曲」をやっているから、観に行ってみようよ、と。夫の提案を受け入れて、二つの公演を観劇して、心が晴れやかになったことを思い出す。そのとき、花組公演には壮一帆が二番手として出ていて、星組公演では夢乃聖夏が主演していて、その二人が今、雪組公演「Shall we ダンス?」の銀橋で、役者としての真剣勝負、丁々発止を繰り広げている姿を観ると、非常に感慨深いものがある。
 夢乃聖夏もまた、どこか空回りしているところのある男役だった――と、人の空回りが目につくのは、それは、私自身、自分がどこか空回りしているところのある人間なのだという思いをずっと抱えているからなのだと思うけれども。しかしながら、その空回りこそが、夢乃聖夏の夢乃聖夏たるゆえん、その魅力なのだった。「BOLERO」の“心の名場面”、夢乃率いる男役陣が内なる魂を爆発させんが如く歌い踊る“トマケ”。「摩天楼狂詩曲」の突き抜けるほどに明朗な“心の名(迷?)セリフ”、「エンパイア・ステート・ビル、でっかいなあ!」。
 壮と夢乃が同じ雪組で顔を合わせると知ったとき、夢乃聖夏は壮一帆に一度がっちり受け止めてもらったら、きっと新しい局面が拓けるだろうなと思った。そして、「Shall we ダンス?」の上演が発表され、多くの宝塚ファンの期待通り、夢乃は映画版で竹中直人が怪演したドニー役を与えられた。あんな笑いの場面、宝塚でできるんだろうか? という懸念に対し、作・演出の小柳奈穂子は、夢乃聖夏で勝算あり! と踏み、実際、その通りになったわけである。
 これがまた、何度観てもおかしい。私は1月2日、初日前の舞台稽古を見学させていただいたが、宝塚歌劇100周年記念口上があったためか、この日の舞台稽古は通常より30分早い9時半スタートだった。そして、新年2日の朝っぱらから、夢乃ドニーは振り切れそうなほどテンションが高いのだった。この人がテンションが低いという事態が起きたらそれはそれで一大事だろうな…と思うほど。そして、いつ観ても夢乃はテンション高く、コメディ演技に身も心も捧げていたのだった。アフロのかつらをかぶり、派手なシャツとパンツに身を包み、観客に後ろ姿を見せての登場シーンは、初っ端からもう笑うしかない。「ハーッ!」とテンション高く雄叫びをあげ、ムーディーな音楽にのってくねくね踊り、日替わりのアドリブも充実至極。驚異的な脚の長さを誇る男役だが、その長い脚のとりわけ膝下を自由自在に駆使して、頭から引っ剥がされた己のかつらを軽やかに飛び越え、銀橋におかれたバッグを軽々またぎ、ささやかな幸せを示して小石を蹴り(東京では効果音つき!)、次々と笑いの連鎖を誘ってゆく。そんなドニーが、残業をパーティナイトにしたい! という己が夢をヘイリーに歌い踊る幻想のナンバー、ミラーボールもキラキラ回る「Let’s start a party night」は、ヘイリーが夢見る作品冒頭の舞踏会シーンと並んで、宝塚版ならではの大いなる見どころである。幻想の中では、いつもドニーをバカにしている有能な女性社員キャシー(透水さらさ)はじめ、男性社員も女性社員も皆、実にいい笑顔を浮かべて軽やかにステップを踏む。花道でヘイリーにあれこれ買い物指南をした後、両手を打ち鳴らして本舞台へと華麗に後ずさっていく夢乃ドニーの、観る者の心を晴れやかにせずにはおかないその動きと表情を私は愛する。
 現実ではドニーはダメ社員で、会社でもところかまわず社交ダンスのステップやポーズを繰り出し、失笑を買っている。大学生のとき、競技ダンスをやっているJ君というイケメンの同級生がいたのだけれども、鏡を見ればところかまわずポーズをとり、表情を決め、背筋もぴんとして踊り出すものだから、…ナルシストだなあ…と思わずにはいられなかったことを思い出した。もう一人、宝塚ファンであることが周囲にどう考えてもバレバレなのに、本人は決してバレていないと思っている女友達もいて、何だか二人が夢乃ドニーと重なる。壮ヘイリーとの銀橋での真剣勝負を観ていて、笑って笑って、でも、何だか愛おしくて、思わず泣いてしまったり。恋をしたり、何かにあまりにも夢中になったりしている人は、傍から見れば相当におかしかったりする。でも、本人は至って真面目だから、なおのことおかしい。自分だって人のことは言えない。きっと、傍から見れば相当笑える部分があるんだろうなと思うと、夢乃ドニーを観ていて何だか身につまされたり?
 競技会では大湖せしる扮するバーバラと組み、パソドブレの種目で華麗なパフォーマンスで魅せる。途中でアフロのかつらを脱がざるを得ない羽目に陥りながらも、しかしかえって奮起して獅子奮迅の舞を見せるドニー。その雄姿に対する、ダンス教師シーラ(梨花ますみ)の「かつらを捨てて一皮むけたのね!」という脱力系ツッコミが私は大好きである。自分の正体を隠すためにかぶっていたかつらを捨てた夢乃ドニーは輝いている。それまでなかった自信が備わり、己を偽らなくてもよくなったからである。オフィスでキャシーはじめ社員たちにからかわれても、夢乃ドニーは社交ダンスのすばらしさについて敢然と説き、自らステップを踏んでその言を体現するのである。実は私は、先にふれた女友達がいつか、宝塚ファンであることを堂々と周囲に言える日が来たらいいな…とずっと思っていて、そのためにも自分の仕事に邁進していきたいと考えているものなのだけれども、夢乃ドニーの姿に一層の勇気が出る思いがする。宝塚版では、壮ヘイリーとの出会いを通じて、夢乃ドニーもまた勇気をもって一歩踏み出し、そしてなんと、キャシーとの間にステキな恋も芽生えることが暗示されている。宝塚版「Shall we ダンス?」は、主人公ヘイリーだけでなく、多くの登場人物たちの成長物語でもあるのである。そして、ドニーを演じる舞台人・夢乃聖夏もまた、着実に成長を遂げている。パッショネイトに繰り出すしぐさやギャグは、一見何気ないものに見えても、観客を楽しませるという目的のため、きちんと考え抜かれている。
 「CONGRATULATIONS 宝塚!!」の銀橋歌い継ぎ場面では、大湖せしると共に登場し、「メモアール・ド・パリ」(1986)の表題曲を歌うのだけれども、「パリ、パリ、パリ〜〜〜」の三回目の天翔るかの如く晴れやかに高らかな「パリ〜〜〜」がもう、夢乃聖夏でしかない。ちなみにここでは「夢、夢、夢〜」とも歌っていて、芸名にまつわる歌詞だ〜と何だかうれしくなるあひる。そして、シャンパンガイ、シャンパンドールたちと華やかに舞い踊るカンカン。竹中直人の役といえば夢乃聖夏というのと同じくらい、カンカンといえば夢乃聖夏である。それくらい、「ア ビヤント」(2009)のカンカンの印象が強い。ぱあっと明るく発散されるその魅力が、カンカンに実に似つかわしい。エクボができそうににこっとして左右を見やるその振りが、女性としてのかわいらしさも溶け合って、コケティッシュな美青年ぶりである。
 「Shall we ダンス?」の舞台がイギリスということもあったからか、壮ヘイリーと夢乃ドニーがやりとりしている場面で、…ああ、何だか、ロンドンのウエストエンドで舞台を観ているみたいだな…と思ったことがあった。そうしたら、夫も、大のウエストエンド好きの母もやはり同じことを言っていて、意を強くしたものだったけれども。
 そして、夢乃聖夏、覚醒か? とはっとした瞬間が何度もあった。でもそれは、役者にとってなかなかに得難い“人生の当たり役”とも言えるドニー・カーティス役にめぐりあったからこその輝きなのか、今回だけでは判断し難い。次回作は名作「ベルサイユのばら」全国ツアー公演で、同期の早霧せいなのオスカル相手にアンドレを演じる。これはもう、期待するしかないのである。
 「Shall we ダンス?」で愛加あゆは、主人公ヘイリー・ハーツ(壮一帆)の妻ジョセリンに扮している。家庭団欒のひととき、彼女はジューサーとしても使えるミキサーを夫におねだりする。夫の健康を考えてのことである。そのおねだりの言葉があまりに説得力に満ちあふれているので、自分も何だかミキサーが欲しくなるあひるであった。いや、むしろ欲しいのは愛加ジョセリンのような妻かもしれないと、仕事が忙しくなってくると内心一人称が“俺”になるあひるは思うのであった。あんな妻が「あなた、お仕事頑張って〜!」と毎日笑顔で送り出してくれたら、どんなにか頑張れることであろう。そんなあひるの心を見透かしてか否か、南の島在住のサラリーマンの、無邪気なだけに一層胸を刺す言葉。
「ヘイリーみたいなサラリーマンも現実には見たことなければ、ジョセリンみたいな妻も現実にはちょっといないよね〜」
 奏乃はると演じる探偵クリストファーの蓋し名言、「夫婦は他人同士ですよ」がこだまするあひるであった。それはさておき。
 本作で、雪組トップ娘役・愛加あゆはコメディエンヌとしての力量を示す。その才能は、「Shall we ダンス?」作・演出の小柳奈穂子が「フットルース」(2012)で開花させたものでもある。「フットルース」で愛加は、食べ過ぎキャラのラスティーをボケボケっぷりもキュートに演じていたのだった。「Shall we ダンス?」では、奏乃クリストファーの探偵事務所に夫の浮気相談をしに行く場面が絶妙である。夫のワイシャツについた香水について、「水曜日はいつも同じ匂いで、土日の匂いは週替わりで特定できません」と、世にも真面目に分析し、後々奏乃クリストファーに「一々嗅ぎ分けて、犬みたいだなぁ」と評されるくだり。そして、夫が鏡の前で取っていたという“くねくねと身をよじるようなポーズ”を、クリストファーに促されるまま、これまた世にも真剣に披露するくだり。観客は、夫ヘイリーが社交ダンスを始めただけで、浮気などしていないことを知っているだけに、夫の“異常事態”の原因を何とか探ろうとしている彼女の懸命な姿に、安堵の笑いを誘われるのである。ちなみに、この場面の前場は、ドニー・カーティス役を演じる“宝塚の竹中直人?”夢乃聖夏が芯となっての大ダンス・ナンバーで、大盛り上がりを見せるだけに、探偵事務所前で行きつ戻りつ途方に暮れる、その無言の演技で場面の空気を一新させる様も見事である。
 探偵クリストファーに教えられ、娘エミリア(星乃あんり)と連れ立って赴いた競技会で、愛加ジョセリンは夫ヘイリーの失敗を目の当たりにする。それ以来社交ダンスをやめてしまったヘイリーに、諭すように歌いかける「Still」は名唱である。すべては日々少しずつ変わっていく、けれども、人には決して変わらない部分があって、あなたのそんな部分を愛して、信じている――。愛加の歌うこの曲を聴いているだけで、ヘイリーとジョセリンが夫婦として、確かで愛おしい年月を重ねてきたことがわかる。そうやってジョセリンが笑顔で背中を押してくれるからこそ、ヘイリーはこのたびも未来に向かっての一歩を踏み出せるのだし、これまでも、これからも、きっとそうなのだ。その一方で、娘役・愛加あゆの、変わってきた部分と、変わらない部分をも思わずにはいられない。愛くるしさは変わらない。けれども、この一年、トップ娘役としての重責を果たす中で、人を温かな愛で包み込む大人の女性を演じられる舞台人へと成長を遂げた。だからこそ、壮ヘイリーと愛加ジョセリンはきちんと対等な夫婦に見えるのだし、二人が手に手を取って踊るラストシーンが殊更心に沁みるのである。トップスター壮一帆に平凡なサラリーマン役を演じる技量がなければ「Shall we ダンス?」という作品が宝塚で成立しなかったのは言うまでもないが、トップ娘役の愛加に平凡な専業主婦役を華やかに演じる技量がなければ、作品はこれほどまでにほっこり楽しめるホームドラマ性を備えることはなかっただろう。
 愛加のコメディエンヌぶり、最強の応援団長ぶりは、ショー「CONGRATULATIONS 宝塚!!」で、早霧せいな扮する伝説のアイドルSAGIRIが降臨し、修道院のシスターたちが狂喜乱舞を繰り広げるコミカルな場面でも大いに発揮されている。愛加はシスターの一人を演じているが、前段は、目をしばたたかせんばかりに降臨に大興奮してシャウト、その真面目な大ボケっぷりが何ともかわいらしい。後段、尼僧服からミニスカート姿に大変身してからは、SAGIRIの隣でひときわ熱狂的に歌い踊り、そのカリスマぶりを讃えて強力サポートを見せる。
 今回のショーで気づいたことなのだけれども、娘役には、男前の魅力を見せる人と、決してそちらには転ばない魅力をもつ人と両方いて、愛加は後者である。ショーの冒頭、パンツルックで白いコートをひるがえしても、壮との一回目のデュエットダンスで、壮に応えて勇ましい掛け声を発しても、決して男前にはならない。見事なまでの女子力の高さである。この一回目のデュエットダンスでは、裾一面にファーのあしらわれた、美しく見せることの難しいコスチュームで惚れ惚れするようなスカートさばきを見せるけれども、このスカートさばきも決して男前にはならない。宝塚の五組それぞれで男役と娘役の甘さと辛さのバランスも違い、従って娘役のスカートさばきに醸し出される魅力も当然違ってくるわけで、雪組の娘役陣においては、男前よりもたおやかさや可憐さ、優美さが尊ばれていて、それでこそ男役陣とのバランスがしっくり来るのだと感じさせるものがある。
 二回目のデュエットダンスでは、「Oh Happy Day」にのって世にも幸せな表情を見せる。すっとした壮の隣に丸顔の愛加がいて、にこにこ笑って、観ている方もとても幸せである。愛加あゆは幸せの娘役である。壮一帆の相手役が愛加あゆでよかった、と心から思う。
 本年度の個人的なベストは、月組「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」&雪組「ベルサイユのばら−フェルゼン編−」(共に、脚本・演出:植田紳爾、演出:鈴木圭)。物語の緊迫感ある収斂としては月組版が優り、組全体の総合力としては、2006年に「オスカル編」を上演した雪組の経験値が大いに生きた。いずれにせよ、両バージョンセットで語られるべき作品だと思う。「ベルサイユのばら」については書き残したことも多いが、創立100周年を迎える2014年も上演が予定されており、今後も引き続き書いていきたいと思う。できれば毎年発表せずに終わりたいワースト作品は、非常に残念ながら「戦国BASARA−真田幸村編−」。だが、出演者の頑張りは高く評価したい。なお、東京公演が年明けから始まる雪組「Shall we ダンス?」「CONGRATULATIONS 宝塚!!」は2014年度回し。
 今年の新人賞は月組の愛希れいか。男役から転向し、娘役の経験が浅いまま、昨年、トップ娘役に就任したが、成長著しい。得意のダンスを武器に、しっとりさがにじむようになった演技と歌に磨きをかけて、来年も月組の舞台を大いに盛り上げていってほしい。
 既にふれた作品もあるので、書き残している分について、2013年の宝塚歌劇を振り返っていきたい。

 宝塚のシアターオーブ初進出作品となった「戦国BASARA」。だが、何が悲しくて、新しい劇場で、やたらめったら人を殴りつける武田信玄(華形ひかる)や、全編顔に枠がはまったままの猿飛佐助(望海風斗)を観なくてはならないのか。二人の力で観られるものとなってはいたが。他ジャンルとのコラボレーションは多くの場合非常に楽しいことだが、今回について言えば、本当に宝塚歌劇のよさを生かすものであったかどうか。
 心の名場面は、性別不詳の麗人・上杉謙信(明日海りお)に、これに仕えるくの一かすが(桜咲彩花)が「謙信さまあ♡」と駆け寄り、後ろの電光パネルにぱあっとバラが咲くシーン。何でももともとのゲーム作者が宝塚を意識して作った場面だそうだが、ほとんどパロディにもなりかねないところ、楽しく笑えるものとした二人の演技力が光る。桜咲は前年のバウ公演「Victorian Jazz」でキュートなメガネっ子ヒロインを演じてスタンダードな娘役芸の高さを示したが、かすが役ではうってかわって男勝りでセクシーでハードボイルド、けれども愛する謙信さまにはデレデレというキャラを演じてふり幅の広さを示した。
 「愛と革命の詩」で花組本公演初参加となった明日海は、フランス革命の中で心揺れるカルロ・ジェラール役を演じ、骨太な男っぽさを開花させた。女流画家アリーヌ・ヴァラン役の華耀きらりは、正統派娘役のお手本のような清新な演技。ハンブルグ・バレエの大石裕香の振付シーンでは、名ダンサー月央和沙が卓越した踊りを見せた。「Mr. Swing!」の心のキャラは、第6場で“マスカレードの女”に扮し、蘭寿とむのダンスの相手を務めた瀬戸かずや。本物の男が女装してるんじゃないの!? と思うほどの男役度の高さで魅せる、クセになりそうな強烈な色気。“マスカレードの歌手”を務めた望海風斗の歌唱も、瀬戸のダンスを得たとき一層妖艶に響き、蘭寿もこれまで観たことがなかった大人の魅力を見せた。

 月組「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」での明日海りおのオスカルは、これまで観てきた中で私が考えるオスカルにもっとも近いオスカルだった。その夜、明日海がオスカルのセリフを語る後ろで流れる音楽さえ、不思議な感傷と共に心に流れ込んできたことを思い出す。接する人誰もを愛していて、頭脳明晰だから人に対してちょっとだけ上から目線になるところがあって、でも、自分が間違いを犯していたとわかれば素直に自分の非を認める。明日海オスカル版の心の名場面は、食べるもの欲しさに銃をこっそり売りさばいていた衛兵隊士とその家族たちをいさめようとしたオスカルが、市民の貧しさを知り、逆に己を恥じて詫びるシーンである。月組娘役陣の骨太なおかみさん演技とあいまって、忘れがたい印象を残した。オスカルのばあやマロングラッセ役の憧花ゆりのといい、月組は娘役が強い。男役陣はもっと積極的に前に出てアピールしていい。役替わりでジェローデルを演じた美弥るりかは、マントさばきをはじめとする所作にさすが星組育ちというところを見せた。美弥ももっと自分の個性を前面に押し出すべきである。
 専科の北翔海莉は月組生をバックに得て「THE MERRY WIDOW」に主演、名作オペレッタの世界に挑戦して復活を遂げた。舞台は、誰か一人の技量の高さだけで成立するものでは決してない。全員がそれぞれ力を発揮しないことには、全体として輝かない。古き良き魅力をたたえた作品であるから、会話や演技のテンポの良さが鍵となってくるところ、この点さらなる改良の余地があったと思うし、私が観劇したあたりは公演後半ということもあり、リピーターでないと笑えないようになっている箇所も見受けられた。毎日同じことを新鮮に演じて笑いを誘うのと、リピーター向けに毎日違うことをやって笑いを取るのとは異なる。こういろいろ書くのも、北翔をはじめとする出演者が生き生きと舞台を務めていたから、さらに上を目指してほしいと思ってこそである。北翔には歌も演技も踊りも申し分ない技量があり、月組生と力を合わせ、一丸となって舞台を作り上げている姿には心打たれるものがあった。客席を魅了する上で、男役としてのしぐさや表情にはまだまだ研究の余地があると思われるが、今後、彼女の力が存分に活かされる場が与えられることを願ってやまない。ヒロイン・ハンナを演じた咲妃みゆは、野々すみ花に次ぐワンダー娘役である。野々が憑依系なら、咲妃は別人系、タカラヅカスカイステージでいつもぽわぽわしゃべっているあなたは、舞台上ではいったい何処へ??? と、不可思議の目で見つめずにはいられない。そして入団4年目ながら、実に色っぽい。この作品でもタイトルロール、気丈で陽気、でもせつなさをたたえた未亡人をあでやかに好演。「ロミオとジュリエット」新人公演のジュリエット役では楚々と可憐な娘役らしさを発揮していたが、大人っぽい役もいけるのだった。娘役二番手格のヴァランシエンヌを演じた琴音和葉は、清楚な娘役芸が非常に魅力的。琴音は「Fantastic Energy!」のエトワールでも、澄みきった声音で忘れがたい印象を残した。娘役陣のダンス・シーンはスカートさばきも美しく、宝塚ならではの醍醐味いっぱい。凪七瑠海は、娘役でも充分いけたんじゃないのか…と思う資質の持ち主ながら、ひたすら男役芸に邁進、「ルパン−ARSÈNE LUPIN−」ではあごひげの似合う境地にまで至った。彼女を観ていると、男役とは決して資質だけで務めるものではないと深く感じる。「THE MERRY WIDOW」では通常ヒロインの歌う「ヴィリアの歌」をなぜか歌っていたが、歌唱力の向上を示した。
 東京では「THE MERRY WIDOW」の千秋楽からわずか七日後に今度は「月雲の皇子」が開幕。夏月都、琴音和葉、白雪さち花ら「THE MERRY WIDOW」組の娘役が、今度は重厚な老け役に挑戦。「THE MERRY WIDOW」でコケティッシュなところを見せた夏月はしっとりしみじみと、琴音は声を低く使う様に技があり、白雪に至っては何とばば役である。これまた揃って上手いけれども〜。「月雲の皇子」は5月のバウホール公演が好評を博し、東京での上演が決まった作品で、前評判も非常に高かった。物語の破綻もなく、よくまとまっていたけれども、劇団☆新感線などで観るような世界観の影響が強すぎる気がするのと、決して宝塚的ではないということではないものの、終演後、宝塚を観て楽しかった! という気持ちに何故かあまりならなかった。それは一つには、娘役芸が発揮される場面が少なかったということもあるような。「紫子」(2010)のくの一お香役が印象的だった咲希あかねの女戦士ガウリ役は非常にはまっており、彼女の身体性の高さと色っぽさが生きた。
 もう一つには、入団6年目にしてバウホール公演に初主演を果たし、東上公演も実現させた珠城りょうの木梨軽皇子役が、彼女を抜群にかっこよく見せる役ではなかったということもあると思う。二幕のざんばらも何だか女の子っぽく見えた。初主演のプレッシャーからか、いまいち舞台を楽しめていないようなのも気になった。どうかおおらかに育っていってほしいものである。穴穂皇子役を演じた鳳月は、大空祐飛、青樹泉あたり、月組のノーブルな魅力を継ぐ男役。輝月ゆうまは入団5年目ながら既に専科のような重厚な存在感で、コミカルな場面も楽しませた。
 そして、ヒロイン衣通姫を務めた咲妃みゆはやはりワンダーだった。「THE MERRY WIDOW」のヒロイン・ハンナは何処へ…。運命に翻弄される姫を演じて今度は楚々と色っぽい。舞台人として期するところもあるようで、組替え先の雪組で一回りも二回りも成長することを大いに期待したい。

 雪組の作品については既に多くふれてきているのと、年明けすぐに「Shall we ダンス?」「CONGRATULATIONS 宝塚!!」の東京公演が始まるので、詳しくはそちらで書いていくことにしたい。

 台湾公演も成功させた星組の柚希礼音は、おそらくはかつての姿月あさとや瀬奈じゅんのような、考えようによってはもっとも大変なポジションにある。それはもはや舞台論ではなくて客席論の範疇のようにも思う。その意味においては、姿月の相手役が花總まり、瀬奈の相手役が彩乃かなみであったように、柚希の相手役が強力な発信型、夢咲ねねで本当によかった。スペシャル・ライブ「REON!!II」でも、柚希の隣に夢咲がいなかったことに、やはり物足りなさを覚えた。「REON!!II」でとりわけ印象に残ったのは、柚希と娘役に扮した礼真琴が白い衣装で踊るシーン。観ていて何だか、作・演出の藤井大介と手を取り合って踊っているような心地がふわふわと気持ちよかった。十輝いりす扮する劇場案内嬢まさ子さんと、紅ゆずる扮する劇場案内嬢紅子さんの掛け合いは大爆笑もの。まさ子さんが案内嬢の制服のまま足を踏ん張って歌う「最後のダンス」の一節が妙に印象的。壱城あずさは、渋いおじさまぶりと妖艶な美女ぶりを一度に発揮して、一粒で二度おいしい男役である。
 ヒロインを務めた秋のバウホール公演「第二章」を観られなかったので断言できないが、夢咲ねねはおそらく覚醒したと思われる。「眠らない男・ナポレオン」制作発表会で披露された戴冠式シーンでの、あのまばゆいばかりの輝きよう。雪組トップ娘役の愛加あゆとはまったく異なる魅力があって、すごい姉妹である。
 「日のあたる方へ―私という名の他者―」に主演した真風涼帆は、鳳蘭、麻路さき、湖月わたると、星組が輩出してきた圧倒的包容力をもつ男役スターの系譜の人材である。「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件」を原作に、トラウマゆえ殺人を犯す主人公と精神疾患を抱えるヒロインの恋物語が、ブラジルを舞台にときにサンバのリズムを交えて展開されるという、若干???な作品だったが、作品と役柄にどこまでも誠心誠意向き合う真風の資質ゆえ、二重人格ものも抵抗なく観られた。妃海風も、難しい役どころのヒロインを無理なく見せ、「南太平洋」でヒロインを務めたときより娘役として成長を感じさせた。デュエットダンスで寄り添う様も好印象。事件の真相を追う日系刑事を演じた美城れんも、メイクの工夫も際立つ好演。専科の一樹千尋も、出てくるだけで何かありそうな存在感である。真風は、誠実な人間性が役ににじみ出るところが非常に好感度高く、小柳奈穂子作・演出のヒットシリーズ「めぐり会いは再び」でも、作者の分身ともいえる劇作家/演出家のエルモクラート先生を、鷹揚なボケっぷりもかわいらしく演じていたのも非常に印象に残る。

 宙組の凰稀かなめは、「モンテ・クリスト伯」タイトルロールでクセのある役どころを演じて勢いに乗り、全国ツアーで「うたかたの恋」のルドルフ、本公演で「風と共に去りぬ」のレット・バトラーと、宝塚の名作に次々と挑んでめざましい伸びを見せた。クセのある役柄を演じると、その正統派の美形ぶりと芝居心が生きる。「うたかたの恋」のルドルフも、挫折感と絶望の果てにつかむからこそ真実の愛がひときわ輝くわけで、その屈折ぶりの描写に個性がにじむ。レビュー「Amour de 99!!−99年の愛−」ではかつて寿美花代が脚線美を披露したことで歴史に残る“パイナップルの女王”に挑戦したが、男役の女装かくあるべしとも言える強烈かつ濃厚な魅力をふりまき、客席を大いに酔わせてショースターとしても開花。「風と共に去りぬ」については、「ベルサイユのばら」に次ぐ宝塚の名作であるが、もともとの作品自体が「ベルサイユのばら」より今日性においてさまざまな問題点を有しており、今後どう引き継がれていくべきか、きちんと考えをまとめた上で記していきたいと思うが、今回の宙組版は、作品の久々の本公演での上演ということもあって力が入っており、実に見応えがあった。凰稀のレット・バトラーは、板についた粋な遊び人っぷりの一方で、スカーレットの愛を激しく求めつつもどこか素直になれない葛藤の表現に、胸をしめつけるせつなさがある。伝統を次世代に伝えていくという意味で、彼女の現代的でスタイリッシュな魅力がレット・バトラー像に加わったことは非常に大きい。それにしても、凰稀かなめはおもしろい役者である。男役としてもまだまだ伸び代があり、来年の活躍にも大いに期待がかかる。
 朝夏まなとのスカーレットはぱっと大輪の花が開いたようにあでやかで、胸のすく好演。泣いたり笑ったり、実に自然体のスカーレットで、男役が演じる女性役の魅力を大いに感じさせた。これまでの朝夏の舞台でベストアクトであり、男役に戻っての今後の舞台が非常に楽しみである。
 緒月遠麻の演じる娼館の女主人ベル・ワットリングも、男役が演じるからこその醍醐味。さすがレット・バトラーはいい女を愛人にしているなあと納得してしまうかっこよさ、人間の大きさだった。緒月は「Amour de 99!!−99年の愛−」のダンス・シーンで女役に挑戦したときもそうだが、男役、女役とことさら意識して分けることをせず、あくまで役者として対処していくところが非常に好ましい。「風と共に去りぬ」が難しいというのは、作品の根底に差別の問題とセクシャルな問題が横たわっているからで、宝塚版ではその双方をベル・ワットリングが背負っている側面があるが、緒月の演技を観て、こんなにいい役だったんだな…と感服した。
 難しいと言えば、アシュレとメラニーが最大の難役かもしれない。2004年の宙組全国ツアー公演で初風緑が演じたアシュレに、役柄的にも作品的にも目が拓かれる思いをしたことがあり、とりわけアシュレ役のハードルは私の中で非常に高い。千秋楽の日の午前公演での悠未ひろのアシュレは、無力感の表現にせつなさを感じさせた。自分がもっと若かったとき、メラニーのような人物の魅力がまったくわかっていなかったであろうことを考えると、メラニー役の実咲凜音の演技についてどう記すべきか迷うところがある。ただ、人生を重ねてきて気づいたことは、メラニーのように、接するすべての人間の内に善を見出す生き方の方が、実のところは生きやすいということである。メラニーは私の理想の女性である。実咲は歌、踊り、芝居は水準以上なのだから、あとは、娘役としてのモチベーションを今まで以上にどう高めていくかという問題だと思う。基本的に“うっとり”が足りない。これは宙組全体に言えることでもある。娘役が男役をうっとり見る。男役が娘役をうっとり見る。そうして客席をうっとりさせる。女性が男役を演じている宝塚で、娘役が男役をうっとり見ることは、手始めにして最大のサポートであると思う。組長の寿つかさをはじめ、凰稀、朝夏、緒月と、せっかく素敵な男役陣を擁しているのである。「こんなに素敵な人が隣にいるからこそ、私もこんなにも笑顔でいられるのです!」の精神で、宙組娘役陣はぜひもっとうっとり男役陣を見てほしい。それから、スカートさばきにももっと娘役魂を込めて、魅せてほしい。純矢ちとせは朝夏と組んでのスカーレットU役で息のぴたりと合った好演を見せていたし、同じくスカーレットUを務めた伶美うららも役に似つかわしいオーラがあった。愛花ちさきの愛くるしい笑顔も魅力的である。男役陣も、個々の男役度をもっと磨いて、フロントラインだけで黒燕尾服を踊っているような状態から脱却してほしい。宙組は新しい組であり、組カラーを確立していく試行錯誤がいまだ続いている段階かもしれないけれども、そのためにも一人一人がもっともっと個性を出して輝いていくことが大切だと思う。
 「風と共に去りぬ」がもう一つ難しいのは、敗戦後の混乱と新たな時代への希望という、今の日本人にとってはすでに遠くなってしまったテーマが込められているからだが、この意味において、ミード博士を演じた寿つかさの演技が光った。ミード博士は息子を南北戦争の戦場に送り出す。二幕のオープニングでは、敗戦した南部の絶望と希望とが、趣向を凝らした音楽展開によって描かれていくが、このとき、寿ミードの表情を見るだけで、彼が息子を亡くしたことが手に取るようにわかる。それも、一幕で送り出す際、寿ミードが息子の死をも覚悟したと思わせる演技が伏線としてあるからである。その演技と、渋いダンディな魅力を堪能。
 役替わりでスカーレットを演じた七海ひろきは、朝夏のあまりに適役の好演もあって、最初のうち、観ていてどこか違和感があった。しかし、七海スカーレットには妙な魅力がある。何だかクセになりそうな。彼女の舞台でそんな魅力を感じたのはこれが初めてである。男役の舞台でもその個性が開花することを楽しみにしている。
 作品における黒人の描写もまた難しいところであるが、専科の汝鳥伶は、スカーレットの乳母マミーを、“そのような個性の持ち主”として気高く表現。凰稀バトラーが嫉妬に狂って飲んだくれるシーンは、私の中で、紫吹淳の飲んだくれを超えた! と思わせるものがあったが、このとき、ビンに突っ込んだ指が取れなくなった振りをして、バトラーにもう飲ませまいとする、愚かさを装ったマミーの限りない優しさに、涙せずにはいられない。汝鳥は今年、月組「ベルサイユのばら」のジャルジェ将軍、雪組「ベルサイユのばら」のメルシー伯爵と、宝塚の名作群を強固に支えて大活躍である。
 スカーレットがアトランタから命からがら故郷タラに戻ってくる。と、そこで先祖代々の土地を守っているのは、マミーである。ここはやはり汝鳥伶である! 宝塚歌劇の舞台を、その芸で長年守り続けてきた。その姿に、目頭が熱くなる。第二次世界大戦後、敗戦国日本でもやはり混乱があって、それに乗じて土地をかすめ取ろうとした勢力もあったのかもしれない。そのとき、スカーレットのように、何としてでもこの劇場を守り抜く! と決意した人物がいて、マミーのようにそれを支える人物がいて、だから、宝塚歌劇は、同じ地で、2014年の創立100周年を迎えられるのである。
 往年の名画の舞台化「カサブランカ」で、悠未ひろは敵方のシュトラッサー少佐を演じていた。ドイツ帝国に固い忠誠を誓う歌の迫力の凄まじさ。その一方で、少佐には少々おちゃめな部分もあった。「少佐、乾杯してください!」と乞われ、少佐は諾とも否とも言わぬまま、片手を勇ましく腰に当て、いきなりジョッキを「プロースト!」と突き出すのである。これが大いに気に入ったあひる夫婦は、以来、食事に行って飲み物が出てくると必ず、「少佐、乾杯してください!」「プロースト!」と、ひそかに少佐の真似をしていたりする。
 キザらなくてはいられない性分で、スーツに眼鏡という姿で踊り狂う「銀ちゃんの恋」の専務。軍服姿もりりしいのに、どこかボケ風味が漂う「銀河英雄伝説@TAKARAZUKA」のパウル・フォン・オーベルシュタイン。過去に迷い込んでの違和感を、華麗ないでたちに真面目な顔でとぼけるたたずまいに感じさせた「逆転裁判3 検事マイルズ・エッジワース」の主人公マイルズ・エッジワース。宝塚歌劇史上最長身ともいわれる体躯で醸し出すそこはかとないおかしみが、彼女の男役芸に絶妙なアクセントを与えていたように思う。今年夏の全国ツアー公演「うたかたの恋」で、純白のラストシーン、宝塚の名曲の一つに数えられる同名曲を歌い上げた影ソロも非常に印象深い。
 「ファンキー・サンシャイン」は“太陽”をテーマにした楽しいショーだったが、中詰、ラフなスタイルで踊る悠未の姿に、太陽のもとに干され、ふかふかになった超特大の布団にぬくぬくとくるまれているような心地よさを感じたものだった。そんな、ほっこり温かな彼女の持ち味が、大好きだった。本日12月23日は、彼女にとって宝塚生活最後の日。どうか、その温かな心のまま、これからの人生、出会う人々をくるんでいってほしいなと思う。