藤本真由オフィシャルブログ

 南の島在住のある平凡なサラリーマンの主張。
「いっぱい働いて疲れたから、宝塚が、芝居とショーの二本立てが観たい」
 ということで、トンボ返りしてきたサラリーマンと一緒に、先日、宝塚大劇場に雪組公演「Shall we ダンス?」「CONGRATULATIONS 宝塚!!」を観に行った。「Shall we ダンス?」は言うまでもなく、周防正行監督の大ヒット映画の宝塚版、「CONGRATULATIONS 宝塚!!」は宝塚歌劇創立100周年を自ら盛大に祝う大変めでたいショーである。
「わあ、ホントにサラリーマンだよ。一緒一緒〜。あんなにかっこいいサラリーマン、現実では見たことないなあ」
 と、サラリーマンは、「Shall we ダンス?」でトップスター壮一帆が演じる主人公の姿にうれしそうに感心しつつ、南の島へと帰っていったのであった。

 子持ちの平凡なサラリーマン。それが、99周年の宝塚大劇場をしめくくり、100周年の東京宝塚劇場の幕開きを飾る作品で、壮に与えられた役どころである。サラリーマン・スーツに身を固め、ビジネスバッグを抱えて銀橋を渡り、その中央で歌う。そんな主人公が、宝塚歌劇でいまだかつて存在したことがあっただろうか。壮は以前、江戸川乱歩の小説が原作の「明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴」(2007)で浪越警部役を演じていたのだけれども、そのとき何となく、…宝塚一、くたびれたサラリーマン・コートが似合う男役…と思ったことを思い出した。血湧き肉躍るような冒険もなければ、特段ロマンティックなセリフも吐かない、何らかの“かっこよさ”がとりたてて付加されているわけではない役どころ。そんな役柄を、壮は宝塚の大劇場公演の主人公として見事に成立させている。ここに、来年創立百周年を迎える宝塚歌劇は、平凡なサラリーマンが主人公である物語を、新たな地平として獲得したのである。
 私にとって「Shall we ダンス?」は、人生を動かす“恋”についての美しい物語である。いわゆる“恋愛映画”というのではない。生きていく上で人はさまざまな“恋”をする。相手は人だったり、何らかの対象だったり。そして、そんな“恋”がきっかけで、人はほんの少し変わったり、大きく成長したりしてゆく。「Shall we ダンス?」の主人公は、駅のホームから見える社交ダンス教室の窓辺に佇む美しい女性教師に“恋”をし、それがきっかけで社交ダンスに“恋”をし、彼の日常はそれまでとは変わってゆく。何かに抑えがたい情熱を抱いたときの、あの心弾む、きらきらしたような時間――。人生を動かす“恋”についての美しい物語であるとの印象は、映画版、ハリウッド版、そして宝塚版と、変わることがない。ただ、もともとの映画版において、人生を動かすそんな“恋”が、物語を語る上での語り手の強い動機になっていたのに比べ、ハリウッド版ではそのあたりが若干薄いようにも感じた。小柳奈穂子が作・演出を手がけた宝塚版においては、宝塚歌劇の作品としてこの物語を語る上での動機がきちんと語られる。映画版の冒頭では、ボールルーム・ダンスの本場、イギリスのブラックプール・タワーのボールルームに掲げられた、ウィリアム・シェイクスピアの詩「ヴィーナスとアドニス」の一節、「Bid me discourse, I will enchant thine ear」(物語せよといへ、われ汝の耳を魅する話をせむ)が映される。今回の舞台がその同じ一節から始まるのは、宝塚版の“魅する物語”を語ろうという、語り手の強い意志の表れであろう。主人公のボールルーム・ダンスへの“恋”を語りながら、ここでは、宝塚歌劇への“恋”が重ねて語られてゆく。宝塚の舞台を創り、これを演じる者たちの、宝塚への“恋”。観客が抱く、宝塚への“恋”。映画版で竹中直人が怪演した“ドニー青木”にあたる役どころのドニー役は、大方の観客の予想を裏切ることなく、夢乃聖夏が演じることとなったが、彼が主人公ヘイリー・ハーツにボールルーム・ダンスの魅力を熱心に語り、その魅惑の世界へと誘う箇所など、ほとんど、初心者に対し宝塚の魅力を熱心に語って聞かせる熱狂的なファンのカリカチュアともいえよう。
 ボールルーム・ダンスへの“恋”に重ね合わされた、宝塚歌劇への“恋”。主人公を演じる壮一帆、そしてその妻ジョセリンを演じる愛加あゆとも、宝塚への“恋”、男役、娘役への“恋”をその演技のうちに語る。その共有が物語上、絶妙な夫婦感を醸し出し、ひいては、コンビとしての絶妙な空気感、つまり、宝塚の舞台において二人が同じものを目指していることの確認にもつながる。トップスターが子持ちの平凡なサラリーマンを演じることもなかったなら、娘役トップが子持ちの平凡な専業主婦を演じることもまたなかっただろう。それぞれが、宝塚の男役、娘役として舞台に立つという“恋”を抱き、その“恋”を大きく育むことによって、男役芸、娘役芸を着実に身につけてきたからこそ、今回の物語を宝塚で語ることが可能ともなったのである。
 映画版で草刈民代がはっとするような美しさを見せたヒロインのダンス教師エラ役に扮するのは、二番手男役の早霧せいな。エラといえば“Cinderella=cinder(灰、燃え残り)+ella”、灰色を身にまとい、舞踏会に一人で行かざるを得ないかのヒロインを思い起こさせる名前だ。主人公を取り巻く二人の女性のうち、一人を娘役、一人を男役が演じる女役としたことで、女性一般のうちにひそむ女性性、男性性が、“分身”の形で語られるのもまた、巧みな設定である。早霧は「ベルサイユのばら」のオスカル役に続いて女性の役を演じることとなり、宝塚の舞台に立つモチベーションの持ち方において多少混乱が感じられないでもないが、ここはやはり、早霧自身が宝塚、男役に“恋”をし、歩んできた軌跡を、難しいことかもしれないけれども、女性の役柄のうちに描き出してゆくしかないと思われる。
 ドニー役の夢乃はもう、“夢乃聖夏の集大成”のような快演。大爆笑である。けれども、“夢乃聖夏性”を無邪気に発揮して観客の笑いを誘っていたころと比べ、自らの個性をきちんと把握した上で役として膨らませる計算ができるようになったという意味で、役者として大きな成長を感じさせ、感慨深い。
 彼らを取り巻く人々も本当に個性派揃いで、一人一人がきちんとそれぞれの人生を生きている。それだからこそ、この物語が、そこで描かれる世界が、そして、そこに生きる人々が、ひときわ愛おしく感じられるのである。
 壮演じるヘイリーは、黙って佇み、周囲の個性豊かな人々に目線を投げかける。それだけで主人公として物語を成立させているところにその男役芸の真髄があるのだが、この作品を宝塚歌劇への“恋”をめぐる物語ととらえたとき、この壮の目線はまた、観客の目線の代弁ともなる。
壮演じる主人公は、銀橋の中央で「Shall we dance?」と歌って、客席へと手を差し出す。そして終幕、ダンスホールで華やかに踊った登場人物たちも、「Shall we dance?」と客席に手を差し出すのである。人々の“恋”が、宝塚歌劇を100年もの間、永らえさせてきた――白井鐡造の「パリゼット」(1930)から生まれた、宝塚の象徴ともいえる曲、「すみれの花咲く頃」の一節、「忘れな君 われらの恋」を思い出さずにはいられない――。そして、その“恋”のうちに、これからも一緒に踊り続けませんか――?と。
 そんなサラリーマン姿の壮を観ていて、思ったのだった。
 宝塚歌劇もまた、舞台芸術の夢に魅せられた一人のサラリーマンによって、百年前、始められたものではなかったか――と。
 つまり、来年創立百周年を迎える宝塚歌劇は、自らの創始者が主人公とも重なる物語を、新たな地平として獲得したのである。

 以前、Kバレエカンパニーとオーチャードホールの芸術監督を務める熊川哲也について、「宝塚歌劇でたとえるならば、創始者・小林一三が芸術家として自らトップスターを張っているようなものである」と書いた(<宝塚月組公演「ルパン−ARSÈNE LUPIN−」「Fantastic Energy!」>http://daisy.eplus2.jp/article/373093252.html)。
「ということは、創始者の精神を体現する人間が、芸術家として宝塚のトップスターを張ればいいわけだ」
 ということで最近、かつて読んだ小林一三の著作、「私の行き方」「逸翁自叙伝」について思い出していた。周囲に勧められて結婚したものの、かねてから付き合っていた女性と別れきれず(その際の口づけのシーンの描写など、実に印象深い)、結局は新妻を離縁することになってしまって職場で大変な思いをしたというエピソードなども含め、隠し立てのない筆致が爽快な著作である。
 その一方で、「Shall we ダンス?」を考えるにあたり、日本における社交ダンス受容の歴史について記した永井良和の「社交ダンスと日本人」と「にっぽんダンス物語」の二冊を大変興味深く読んだ。「歌劇」にも永井の取材記事が掲載されていたが、このどちらの著書にも小林一三が出てくる。まず一つに、我が国における洋舞、洋楽の受容史というのはその大本においては重なっており、その黎明期に帝国劇場でのオペラ「熊野」上演を観て宝塚歌劇を発案した小林の奮闘と、日本に社交ダンスを根付かせようと努力した人々との奮闘とはしぜん、時代的に交差していくところがある。これは、オペラや社交ダンスのみならず、バレエやミュージカルなどについても同じことがいえる。そして、かつて人々は、宝塚歌劇の舞台や、ダンスホールで踊る社交ダンスを通じて、海外の音楽や文化を知っていったことを考えると、この時期、両者は同種のメディアとして機能していたことがわかる。また、昭和5年(1930年)には、武庫川と逆瀬川の合流する中洲楽園に、阪急資本によって、東洋一のダンスホールと謳われた“宝塚会館”が建てられている。このダンスホールには谷崎潤一郎らも通い、ホールの支配人と教師を務めた加藤兵次郎に、宝塚少女歌劇のスター、天津乙女や小夜福子もダンスを習ったという。この宝塚会館だが、戦後、進駐軍による接収を経て、これまたかつて宝塚の地にあった宝塚映画製作所の資材置き場となっていたという歴史を鑑みると、今回の、社交ダンスを描いた映画の宝塚での舞台化が、何やら因縁めいてきたりもする。
 話を小林一三に戻そう。来年の記念すべき年を前につらつらと考えていて、私は、百年という歴史の中で、宝塚が百パーセント安泰だと思われた時期は、実はそんなには長くはなかったのではないか――と思ったのである。何度も何度も、もう続くまい、あきらめようと思ったことがあって、それでも続けていきたいと思う人々の情熱があって、それでこそ百年もの間、続いてきたのではなかったか。
 「Shall we ダンス?」で、壮演じるヘイリーは、縁あって始めたダンスを何度かやめそうになる。けれども、彼のダンスへの情熱はやはり已むことがなかった。その姿を観ていて、「逸翁自叙伝」の中のとあるエピソードを思い出した。宝塚歌劇の前身である宝塚唱歌隊の設立にあたっては、東京から音楽の専門家が呼ばれ、彼の提言により、歌劇を上演しようということになって名称を宝塚歌劇養成会と改めた。しかし、その人物の夢は、男女混じっての本格的オペラの上演だったから、創始者の方針と齟齬を来す。そして音楽家は、公演前に、作曲した楽譜全部を持って雲隠れしてしまったというのである。このとき、小林一三は台本に音楽に自ら筆をふるい、何とか公演を打つ。こともなげのことだったように書いてはあるけれども、それでもやはり、相当腹が立ったのではないかと想像する。そのことを考えると、今は、座付きの演出家が大勢いて、宝塚歌劇にはどのような可能性があるのか、考えと力を尽くした舞台をそれぞれに展開しているわけで、そういった人材が次々と育っていったことも含めて、小林一三の夢は大きく叶っていっているのだなと思わずにはいられなかったのである。
 宝塚版「Shall we ダンス?」は、いかにも宝塚らしい、プリンスとプリンセスたちとの華やかな舞踏会のシーンから始まる。平凡なサラリーマンであるヘイリーは、王子様の純白のコスチュームに身を包み、踊る。それは、残業に疲れてうたた寝してしまった彼の見る美しい夢である。同僚に何の夢か問われ、彼はうっとり「舞踏会」と答える。そんな美しい夢を誰かが思い描き、そして現実のものとしたからこそ、宝塚歌劇は今ここにある。創立から百年の時を経て。
 その作品の併演のショーのタイトルは、「CONGRATULATIONS 宝塚!!」(藤井大介作・演出)。「おめでとう!」と、自らを祝う作品。“宝塚”の語が数えきれないほど連呼される、いわゆる“自画自賛ソング”が主題歌であり、今回はそこに、「もっと進もうよ 壮大な帆を張って」と、“壮一帆”の名前が読み込まれている。“自画自賛ソング”の原点といえば、やはり「パリゼット」から生まれた、白井鐡造作詞の「おお宝塚」である。「小さな湯の町宝塚に 生まれたその昔は 知る人もなき少女歌劇 それが今では 青い袴と共に 誰でも皆知ってる」と始まる。その歌詞を、歴史に重ね合わせて考えたとき、自らの名を連呼することはほとんど、祈りのようにも思えてくる。この世界に、この美の郷を何とか根付かせたいと願う人々による、祈り。まばゆい大階段上に、雪組生の人文字で「100」と浮かび上がるとき、心震えずにはいられない。百周年の幕開きにふさわしい二本立てである。
 ここ数年、つかこうへい作品を観ると思うのだった。ヒロイン、壮一帆に似合うだろうな…と。必ずしも、演じてほしい、観てみたいということではない。ただ、似合うだろうなと思うのである。彼女には「ベルサイユのばら」のオスカルが似合うだろうなと思うのと同じ意味合いかもしれない。すでに似合っている役どころで観るより、例えば現在宝塚大劇場で公演中の「Shall we ダンス?」の主人公、平凡なサラリーマンのように、即座に接点がわからない役どころで観た方が、新たな、意外な一面を発見できる楽しみがあるということかもしれない。
 それにしてもなぜ、つかこうへい作品を観ると、壮にヒロインが似合うだろうなと思うのだろうか。その疑問は、今年1月、壮が月組公演「ベルサイユのばら」に特別出演して演じたアンドレの舞台を観て、解けたのである。

 「ベルサイユのばら」のヒロイン、男装の麗人オスカルは貴族であり、アンドレは彼女の幼なじみにして従卒である。フランス革命へと揺れる時代のうねりの中、身分の差を超えてオスカルを愛するアンドレの想いは彼女に通じることとなる。
 と、オスカルとアンドレとの関係を説明する場合、通常このような書き方になると思う。けれども、壮の演じるアンドレの場合は異なるのだった。
 オスカルとアンドレとは対等な人間であり、だからこそアンドレはオスカルを愛している。けれども、二人の間には身分の差というものがある。では、この愛が晴れて成就するには――?
 身分の差を超えて愛してしまった、ではない。愛しているのに身分の差という理不尽がそこにある、そういうことである。つまり、壮アンドレの場合、“身分の差”ではなく“愛”が先に来るのである。そして、“愛”が先にくる以上、二人が対等な人間であることが前提条件なのだった。愛の前に人は等しくならねばならない。そうでなければ、そこに愛という関係は成立しない。ここに、アンドレと、オスカルとが闘わねばならない革命のテーゼの一つ、“平等”がはっきりと示される。フランス革命を成就させなければ、二人の愛は晴れて成就しないのである。そして、革命と共に成就され得るアンドレとオスカルとの愛をポジとして、物語のもう一つの愛、フランス女王マリー・アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルゼンとの愛がネガとして見えてくる。女王と一介の外国人貴族の愛もまた、革命によって身分差が消滅し、人がみな平等とされなければ、晴れて成就しない。アントワネットとフェルゼンの哀しさは、その革命が自分たちの愛を晴れて成就させ得るものであるという真理を悟れなかったところにある。
 オスカルとアンドレとは対等な人間であり、だからこそアンドレはオスカルを愛している。物語序盤、その壮アンドレに立ちはだかる大きな問題を突きつけるのが、花陽みら演じるルルーである。オスカルの姉オルタンスの一人娘であるルルーは、平気で大人を食った物言いをする、こましゃくれた子供である。オスカルへの愛を心に秘めたアンドレに、ルルーは平然と言ってのける。「可哀想にあなたは平民。お姉チャマは貴族。とうてい結ばれることは不可能よ…」と。アンドレの心を激しく貫き、彼に「子供は純粋なだけ残酷なもんだ」と述懐させるこの言葉こそが、この愛の物語のきっかけである。
 宝塚歌劇の舞台において、上級生−下級生の関係がきっちりしていることは、よい場合もあり、悪い場合もある。きっちりしているからこそ整然とした舞台が展開されるということもあるだろうし、一方で、演技上、学年差を感じさせてしまうことが弊害となる場合もある。例えば、トップスターと若手とが親友役を演じても、若手の方にどこか気後れがあるせいか、まったくそうは見えない場合など。このときの花陽ルルーの演技、真理を突くその言葉の鋭さは、客席で観ていても思わず胸が射すくめられそうなほどだった。そうでなければ、アンドレの心もまた激しく動かず、よって、物語が大きく展開していくこともないだろう。上級生、しかも、他の組から特別出演しているトップスターに対して、舞台人としてそれこそ対等な勝負を挑むその様は、あっぱれだった。引っ込み際、これまたかわいらしくこましゃくれて「ごめんあさあせ(あそばせ)」とポーズを決め、毎回笑いが起きる芸達者ぶり。“心のキャラ”たるゆえんである。
 もう一人の“心のキャラ”は、ダグー大佐を演じた光月るうである。月組によるこの「オスカルとアンドレ編」は、出演者たちによる原画再現率が極めて高く、顔を見ていると池田理代子の漫画の絵がそのまま浮かんでくるところがあったが、なかでも光月のダグー大佐にシンクロ率の高さを感じた。二次元の原作では、絵の描き方の違いによってシリアスからコミカルへと即座に移行できるわけだが、衛兵隊士が、新しく隊長となったオスカル相手に“クーデター”を起こすくだりでの、大いに動揺しての反応など、光月ダグーは原画にあったそのギャグ性を、身体を張って三次元で体現していた。原作でのダグー大佐は、自分は貴族である以上、市民と共に戦うことを決意したオスカル及び衛兵隊と道を同じくはできないと言う。これはこれで彼の真摯な人間性を示すセリフとして好きなのだが、宝塚版の場合、ダグー大佐は市民の側について戦う決意をする。ダグー大佐がついてくれたら百人力! とも思えるその決意の様だった。

 壮アンドレが特出したバージョンにおいては、“心の名場面”は、視力を失いながらもオスカルと衛兵隊についてパリに出動しようとするアンドレを、アラン及び衛兵隊士たちが必死で止めようとし、けれども逆にその決意の固さに打たれて、戦場ではアンドレをサポートすると誓うシーンである。壮アンドレの目の見えない演技は迫真だった。本当に焦点が合っていない。その様に、アランに扮した星条海斗をはじめ、衛兵隊士たちが引きずりこまれていって、緊迫、白熱した場面が展開された。
 個人的な感慨になるが、私はこの場面を観ていて、本当にうれしかった。というのは、宝塚歌劇において、先輩が後輩に芸を伝えていくということの重みを、まざまざと見て取る思いがしたからである。話は2008年に遡る。真飛聖が「愛と死のアラビア」「Red Hot Sea」の大劇場公演で花組トップスターとしてお披露目を行なった際、月組より組替えとなった大空祐飛が、この公演から二番手を務めた。壮はその花組に三番手として在籍していたわけだが、率直に言って、彼女の演技は、この頃まで、どこかうまくかみあっていないというか、空回りしているような印象があった。それが、大空が二番手として来て、三番手以下をがっちり受け止めてピラミッドを作り、その上にトップの真飛を載せることで、体制が安定した。そして、その頃から、空回りの印象は消えていった。持て余すようなエネルギーをしっかりと受け止めてもらうことで、人は変わるものなのだと感じた。
 そして、正直なところ、星条海斗の最近の舞台についていえば、いったいどのように書き記せば彼女の演技が周囲とかみあったものとなるのか、わからなかった。それが、このとき、荒くれ者アラン役を演じて、その過剰ともいえるエネルギーを壮アンドレにがっちり受け止めてもらったことで、星条は舞台人として再生のきっかけをつかんだのである。アラン役がかつての壮の当たり役であったこと、そして、壮を受け止めた大空がかつて在籍していた月組で、壮がその恩返しともいえる演技を見せたことに、“因縁”というものの不思議さを感じずにはいられなかった。

 舞台は何も一人の演者によって成り立つものではなく、私が今こうして壮一帆のアンドレの演技について記しているのも、月組全体の頑張りあってこその話である。なかでも、演技力、想像力、物語構築力に富む月組トップスター龍真咲がオスカルを演じていなければ、大きな発見をすることはできなかったように思う。自分自身のとある“癖”について。
 これは比喩でしか語れないけれども、私にはどうも、“鏡”に映った自分自身を見て、「あ、ここに私と同じ魂をもった人がいる!」と喜んでしまう“癖”があったのである。そこにあるのは“鏡”なのだと思いもせずに。それが、壮アンドレの演技を観ているうち、「そこにあるのは“鏡”だ〜! “鏡”に魂はない!」と言われるような、ほとんど稲妻に打たれるような衝撃があったのである。“鏡”を見て、「あ、私と同じ魂だ!」と喜ぼうとすると、壮の至芸がその“鏡”に鋭い回し蹴りを入れて、次々と粉々にしていくのを見て茫然として、目を拓かれるというか。それは、こういうことかもしれない。心の中にある“鏡”の迷宮に閉じ込められていたのを、壮の舞台に導かれて、ようやく抜け出せたということなのかもしれない。私は物語の中にはいない。物語は、観ている私の中にある。そう、やっと気づくことができたのである。

 オスカルとアンドレとは対等な人間であり、だからこそアンドレはオスカルを愛している。そして、オスカルもアンドレを愛している。当人同士の間では愛は成就している。その愛が、晴れて、すなわち、世間的に公然と認められる上では、フランス革命後の世を待たねばならない。アンドレはバスティーユ襲撃の前に橋の上で撃たれて死んでしまうから、この物語においては、愛が晴れて成就するのは、二人が魂のみの存在となっての死後の世界である。
 アンドレの死の場面については、何だかずっと、アンドレに与えられた使命はオスカルを守ることであり、そのアンドレが死んでしまった以上、オスカルもやはり近々死すべき運命にあるのだと考えていた。けれども、誰かを守るためだけに与えられた人生などというものはないのだと思うようになってきた。実際、アンドレが死した後、オスカルは炎となって燃えて、衛兵隊と市民たちと一つになって戦い、バスティーユ牢獄を陥落させるのである。オスカルの傍らには魂、愛となったアンドレがいて、彼女を守っていたことは言を俟たないだろうけれども。
 壮一帆のアンドレは、青白い炎のような人物だった。深い心で人を愛し、不平等を許さぬ人だった。自由な魂の持ち主だった。自由・平等・友愛の精神が、そこにあった。
それだからこそ、私は、つかこうへい作品のヒロインは壮一帆に似合うだろうなと感じていたのだと思う。

 翻って。
 劇場という場において、はたして、舞台の創り手と、評論家とは対等な存在だろうか。
 創り手から寄せられる不満としては、「自分では何も創造しないくせに文句ばかり言う」「お前が演出してみろ」「あなたが舞台に立ってみなさいよ」等が考えられる。しかし、私には、演出したい、演じたいという欲はない。舞台上に立ち現われた美について書きたい、その欲だけをもった人間なのである。無論、書くにあたって、太鼓持ちをしたいわけでもない。
 傲慢になるでもない。卑屈になるでもない。どこかに道があるはずなのである。創り手と対等に結ばれる道が――。
 正直、すぐには結論の出ない問いである。重い問いである。その問いをクリアにしてゆくためにも、ひるむ気持ちに鞭を打って、書いていかなくてはならないのかもしれない。
 けれども、壮一帆のアンドレを観た私は、知っている。人間同士は対等な存在であり、対等でなければ、向かい合う二人の人間の間に愛が成立しようもないことを。私は舞台芸術を愛している。舞台を創る人々が舞台芸術を愛するように。そして、創り手と評論家とが、愛によって結び合わされる関係は、必ずやこの世界に存在するはずなのだ。
 先週15日に初日が開いた舞台を、最初の公演地、相模女子大学グリーンホール(グリーンホール相模大野)にて観劇。村上もとかの漫画を原作とする「JIN−仁−」は、“共に生きること”をテーマに、作・演出の齋藤吉正の優しく温かな思いにあふれた作品である。昨年、雪組によって初演されており、その際、雪組生が一つとなって作品に吹き込んだ温かな思いが、月組生によって引き継がれていることを感じる。主人公の南方仁を龍真咲、仁の現代における恋人、結命と、仁がタイムスリップした幕末で出会うこととなる旗本の娘、橘咲を愛希れいかのトップコンビが演じるが、坂本龍馬に沙央くらま、勝麟太郎(海舟)に光月るう、呼び出し花魁の野風に花陽みらという配役が発表されたとき、思わず唸った。はたして、キャスティングが見事的中した舞台に仕上がっている。
 雪組公演の際は早霧せいなが、あっけらかんとお尻をかく姿もはっちゃけたキャラクターとして好演した坂本龍馬。今回の沙央は、常識にとらわれない考え方で幕末の日本に新たな時代を拓いた、いわゆる“偉人”とされる人物の、人間らしい側面を見せるのが巧い。ふとよぎる死への恐怖で表情を陰らせ、けれども、己の使命を果たすためには命を賭す覚悟であるとする、その振れ幅にこそ、人間・龍馬の偉大さが存する。幕末の龍馬が日本の未来に託した夢、ヴィジョンに、沙央は、来年百周年を迎える宝塚歌劇、そして月組をよりよき場所にしたいという己の夢、ヴィジョンを重ねて歌う。
 光月るうは芝居の月組の伝統を引き継ぐべき貴重な人材であり、先の正塚晴彦作・演出の「ルパン−ARSÈNE LUPIN−」においても、沙央に次いで正塚役者ぶりを発揮していた。やがて剣を交えることとなる自分の教え子二人、龍馬と、咲の兄である橘恭太郎(美弥るりか)に注ぐ、人生の先輩としての眼差しが温かい。花陽みらは、かわいらしい声ながら凄みの出せる芝居巧者ぶりに、色街に生きる女の光と影がにじむ。
 こうした個性的な登場人物たちが活躍できるのも、無論、タイトルロールを務める龍のトップスターとしての充実あってのこと。周囲のキャラクターがどれだけ生き生き暴れまくろうとも、物語の芯としてしっかり舞台上に存在できる、それがトップスターたるものの必要条件である。セリフ回しがかなり改善されたことで、今まで以上にすっきりとした二枚目として立ち現われるようになった。そこで思い至るのは、何も、今まで龍真咲の個性として認識されがちだったその癖の内には、決して彼女の本質はなかったということである。愛する女性を亡くして人生に対しどこかニヒルに構えてしまった男性医師が、幕末にタイムスリップし、最初はどこか傍観者的な立場にあったのが、幕末の人々と共に人々の命を救うことに奔走するうち、主体性を取り戻してゆく。仁の心の中で、タイムスリップした先の時代との距離感が、人々とのふれあいや咲との恋を通して次第に縮んでいく様がきちんと演じられており、非常に共感、好感のもてる役作りである。愛希れいかの旗本娘も、主体的に生きることを禁じられていた時代に、好奇心旺盛に医療の道に飛び込んでゆく芯の強さがやはり好感度大である。緒方洪庵役の飛鳥裕と火消し「を組」頭取の新門辰五郎役の夏美ようが、好評を博した雪組初演時と同じ役で登場するのもうれしい。宝塚歌劇への己の想いを、洪庵の想いに重ねて演じる飛鳥。江戸の火消しを演じた夏美のいなせな様に、月組若手男役陣も学ぶところ大と思われる。コミックリリーフ的な存在、蘭方医の佐分利祐輔に扮した宇月颯も、アドリブを交えてキュートに好演。
 中村一徳作・演出の「Fantastic Energy!」では、ますます腕を上げたと思われる愛希のダンスに見惚れる。ちょっとした腕や脚、肩の角度などに、ニュアンスとセンスが香る。その余裕をもっての動きが、キュートなアイドル系男役の多い月組男役陣と踊るとき、包容力をも感じさせる。風花舞、星奈優里、蒼乃夕妃と、名ダンサートップ娘役の系譜に連なる道を歩み出したのが頼もしい。若さゆえ、ときに表現がストレートにすっぽ抜けになるきらいもあるけれども、(「JIN−仁−」での「命の輝きは、どれだけ長く生きたかではなく、どれだけ真剣に生きたのかだと」というセリフや、「Fantastic Energy!」で新たに珠城りょうと組んだ場面で、男役として色気を感じさせるようになってきた珠城の手をふりほどく箇所など)、今後、経験を積むことでまた変わっていくであろう姿を観るのが楽しみである。専科生から月組生、月組組長になったことで、飛鳥の歌と踊りがレビューでも再び観られるようになったことも大変うれしい。今回の「Fantastic Energy!」でもその雄姿を堪能。伸びやかな龍の歌も絶好調である。人数は少なくなったものの、エレガントかつ攻撃的な月組娘役陣のドレスさばきも含め、作品のパッショネイトな魅力はしっかり保たれている。
 春風弥里は2002年の入団後、約10年間宙組にいて、昨年2月に花組に組替えとなった。宙組時代と花組時代とで、何だか印象が違う。そして、一年半あまりしか在籍していなかったとは思えないほど、花組時代の印象が濃厚である。全身からあふれんばかりの色気をただよわせた男役となって、そして、非常に残念なことに、本日11月17日をもって宝塚を退団してゆく。
 今年6−7月、宝塚歌劇団が渋谷のシアターオーブに初進出した「戦国BASARA−真田幸村編−」は、作品の出来としては非常に残念なものがあったが、ゲームの世界を三次元の舞台、宝塚の世界へと具現化しようという出演者たちの努力は大いに光った。このとき春風が演じたのは、「You see」等々、英語のキメ台詞を繰り出すという設定の戦国武将、伊達政宗役である。外してしまえば何ともお寒いところ、クールさとキザさを絶妙に両立させ、真顔で決める春風に、男役芸の成熟をみた。“心のキャラ”である。
 退団公演となった「愛と革命の詩−アンドレア・シェニエ−」で演じたジュール・モランでは、黒いジャコバン党員の衣裳に身を包み、堂々たる銀橋ソロを披露。貴族階級に替わって圧政を敷くこととなったジャコバン党のあり方にいささかも疑念を抱かない、サディスティックさを香らせる男を演じて、ビュンとしなる鞭のような魅力を発揮した。
 ショー「Mr. Swing!」では、餞のために作られた第8場「エピローグ」のシーンが泣かせる。同期である夕霧らいと月央和沙に背中を押されて銀橋に出て、渡りきろうというところで、華形ひかるが春風に歌いかける。いつかの再会を願って。春風は笑顔で、そして、華形も笑顔で、でも、その心の内にはさみしさがあって、やっぱり、……どうして今やめちゃうのさ! と思わずにはいられない。You see、花組のセクシー番長として、これからますます活躍していくだろうと思っていたからなのだけれども……。「Streak of Light −一筋の光…−」で髪を振り乱して一心に踊る姿、「オーシャンズ11」でネクタイをゆるめる姿と、鮮烈に色気を放っていた場面が忘れがたい。宝塚での日々を堪能しきって、新たな人生に晴れやかに向かうのだと信じたい。See you!
 「ベルサイユのばら−オスカルとアンドレ編−」上演中、――少なくとも、宝塚大劇場公演時は絶対に――、月組組長・越乃リュウは闘う気満々だった。だから、女が社会に出て必ずや出会う“敵”の象徴ともいえる存在、我らがオスカルに憎々しげに立ちはだかるブイエ将軍を、芸の力をもって堂々と演じきった。その存在感あったればこその、作品の一幕ラストの迫力だった。
 5月の末になって退団が発表されて、――彼女の心境にどんな変化があったのか、私は知らない。そして、辞めてしまうことを責めるものではない。とてもさみしいことは確かなのだけれども。でも、退団公演となる「ルパン」「Fantastic Energy!」が東京へやって来て、歌い踊る越乃リュウの姿を観ていたら、――今まで本当に楽しかったなと、そのことばかりが思い出されたのである。
 ここで、昔話を一つ。2000年の秋頃だったと記憶している。東京宝塚劇場が建て替え中で、有楽町駅前のTAKARAZUKA1000days劇場(現インフォス有楽町)で公演が行なわれていた頃のこと。あひるは隣に居合わせた上品なご婦人とお話する機会に恵まれた。
「どなたのファンでいらっしゃるんですか」
「越乃リュウさんよ〜。もう、博多座公演で大ブレーキ!」
 大ブレーキじゃなくて大ブレイク! それじゃあ意味反対になっちゃうよ〜と思いきや、乙女のように頬を染めて博多座公演「LUNA」「BLUE・MOON・BLUE」(2000・8)での越乃の活躍を語るご婦人に、そうは言えなかったあひる。実際、この年はドイツ・ベルリン公演に向けて選抜メンバーが組まれた関係もあり、抜擢もいろいろとあったように記憶しているのだけれども、博多座公演の前に行なわれた「BLUE・MOON・BLUE」東京公演の一場面で、パンチの効いた歌声を聴かせる様に、新進男役・越乃リュウここにあり! と感じたものだった。そして、博多座に足を運んだことのなかったあひるに、“博多座、…何かが起こる劇場”との印象が刻み込まれた瞬間でもあった。
 越乃リュウは色っぽい男役である。若き日から、変わらない。したたるような色気。色気は何も生活必需品ではない。なくても生きていける。日常生活にあることの方が稀だったりする。けれども、月組の舞台に立つ越乃リュウを観に行けば、観客は、この世界に色気なるものの存在することを常に確認することができた。そして、それは贅沢品だったのだと、今、つくづく思う。ときに気弱なくらい、心優しき人なのだろう。だから、ああも色気があふれ出してしまうのである。昨年秋の全国ツアー公演で上演された「Heat on Beat!」で、妖しいクラブで椅子を相手に世にもセクシャルなダンスを踊る姿は、椅子を愛でる様、手つき、目線、どこをとっても男役・越乃リュウの色気集大成ともいえる場面で、…大劇場公演でもこんなスペシャルなシーンは観られないというのに、宝塚初体験の観客も多そうな全国ツアーで、あまりに刺激が強すぎるのでは〜と、何だか動揺すらしてしまった。
 時が経って、仲間たちが次々と月組の舞台を去って、残った越乃は副組長、次いで組長となった。管理職には、一つの組をまとめ上げて行く上で、トップスターともまた違った苦労があるのだろうと推察する。ときに、自分の芸より組の運営に腐心しなくてはならない局面もあるのかもしれない。けれども、そうした苦労を背負う人がいて、それで宝塚の舞台はまた成り立っているものなのである。
 最後の公演となった「Fantastic Energy!」で、越乃が、パンチの効いた歌声を響かせ愛希れいかを踊らせる姿や、舞台狭しと駆け抜け舞い踊る姿を観ていたら、…重責の軛から解放されて、自由に舞台に息づくその様に、若手男役時代を思い出して、もう、…ありがとう…という気持ちしか出てこなかった。「そうですか、越乃さんが大ブレーキ」と相槌を打つしかなかった頃の私は、人生どん底だった。ただただ、宝塚の舞台を観ることが楽しみだった。そして、宝塚の舞台を観ることでそのつらい時期を乗り越えた私にとって、今、つらかった記憶は嘘のように消え失せて、楽しい記憶ばかりがきらきら輝いている。
 舞台で観た一人一人のタカラジェンヌたちが、私にとっての“宝塚”を形作っていて、だから、別れは常に身を切られるようにさみしくて、けれども、舞台を通じて確かに何かを共有できたと感じられたら、それで幸せなのである。
 越乃リュウがいる月組の舞台を観ることができて、今日まで幸せだった。楽しかった。本当に、本当にありがとう。これからの人生に幸多からんことを。
 「おのれナポレオン」でナポレオンの愛人、アルヴィーヌに扮した天海祐希の演技を観たとき、真琴つばさトップ時代の月組上級生娘役陣の演技の雰囲気を思い出したのだった。天海は真琴の二代前の月組トップスターなのだから、無理からぬ話である。アルヴィーヌは打算があってナポレオンに近づいたのだけれども、純粋に愛する気持ちも芽生えてしまう。べとっと女女しているわけではない。でも、ちゃんとかわいらしさもある。そのあたりの相反する心の表現のバランス加減に、そう感じたのだと思う。
 時代は変わっても、月組娘役陣には今もそんな雰囲気がある。何だか人間くさいというか、生っぽさを感じさせる。かわいいけれども強いのである。男役陣が多少ヘタれたとしても、娘役陣がフロントラインに出てきて客席に向かってゴールを決めてしまうような。
 月組公演「Fantastic Energy!」の“心の名場面”は、第3章「Passionate」で、娘役5人がせりあがってくるところである。トップ娘役愛希れいかをセンターに、副組長憧花ゆりの、妃鳳こころ、萌花ゆりあ、夏月都という布陣。颯爽とかっこいい。しかも、パンチの効いた前章「Energy!」で娘役の芯を務めた花陽みらと、ダンサー紗那ゆずはを温存してこの布陣を組める余裕。何かが始まる予感。そして、あたりを取り巻く娘役陣と共に繰り広げられる粋なセクシーダンス。琴音和葉。玲実くれあ。白雪さち花。咲希あかね。娘役一人一人の顔がはっきり見えてくる。それぞれが、己が個性を見せることをためらわず踊っているから。
 もう一つの“心の名場面”は、第7章フィナーレ、「オリーブの首飾り」を歌うトップスター龍真咲を取り囲み、憧花を筆頭に、萌花、夏月、玲実、咲希、花陽、紗那、晴音アキと、淑女に扮した8人の娘役が踊るシーンである。清冽に美しいペパーミントグリーンのドレスの裾を翻して舞うのだが、このドレスさばきが、実にエレガントに攻撃的。観る者の心に、あでやかに、あざやかに切り込むような。
 舞台をヴィヴィッドかつ華やかに彩る月組娘役陣から、惜しくも今回、個性あふれる二人が退団である。紗那ゆずはは、これからダンスシーンでますます活躍するだろうと思っていたのだけれども…。大劇場公演で花陽が休演した際は、「Energy!」で芯を務めて活躍。第5章「薔薇伝説」では、切れ味鋭い華麗な跳躍を見せていて、ロリータフェイスとのギャップにドキドキ。
 妃鳳こころは、往年のハリウッド女優を思わせるバタくさい美貌の持ち主で、「アリスの恋人」の公爵夫人や「エドワード8世」のジョージ5世の妃メアリーのようなノーブルな役どころが印象的だった。その一方、「ベルサイユのばら」では貧困にも負けじとたくましく生きていこうとする市民の一人、ジルベルト役を泥くさく熱演していて、美貌に似合わぬ生のエネルギーを感じさせた。今回の「ルパン」でも、裏町のバーで踊る女に扮し、テーブルに乗って出てきた瞬間、色っぽさド迫力。私の愛する月組娘役の魅力を次代へと確かに伝える舞台に、心から感謝するものである。
 藤沢周平「蟬しぐれ」が原作の「若き日の唄は忘れじ」(脚本・大関弘政、演出・大野拓史)は、2月の中日劇場公演から演出的にもかなりすっきりとした印象。壮一帆扮する主人公、牧文四郎の姉・留伊の夫で、藩の乗っ取りを企む里村家老一派に与する武部春樹役に、複数の役どころを統合する形で未涼亜希が配され、勧善懲悪及び主人公の成長物語の側面がより強調されることとなった。かつて野合わせ稽古において剣の腕が敵わなかった相手を、実人生において真剣によって成敗する。壮の当たり役、「ファントム」のキャリエールにおける“幻影”との闘いとも通底する響きがある。初恋の喜びに震える初々しい少年時代から、父に切腹の沙汰が下るという挫折を知り、叶わぬ初恋を心に秘めて長じてゆくまで、壮は、時を経るにつれての表現に深く、また、若き日の無邪気な表情と、人生の機微を知っての表情の対比とがあざやかである。文四郎の刎頸の友である小和田逸平役の夢乃聖夏は、誰の子供時代にも必ずやこんな友の記憶のありそうな、邪気のない子供っぽさを発揮。もう一人の刎頸の友で、後に学者となる島崎与之助役には彩風咲奈。運動神経にはさっぱり恵まれなかったと見える本の虫キャラクターを天然ボケ風味で見せて新境地である。幼なじみの文四郎と心を通わせながらも、殿のお手付きとなり、その寵愛に左右され、人々の嫉妬を受けての人生を送らざるを得ないヒロインふくが、己が運命に対し抱く思いは想像するに余りある。けれども、人は、ときに幸福な記憶をよすがに生きてゆけるものでもあって、ふくも、かつての記憶あらばこそ生きてこられたのだろうと感じさせるラストシーンの余韻も、若き日が明るく輝けばこそである。ふく役の愛加あゆは、「ベルサイユのばら」の大役マリー・アントワネット役を経験して、演技により強い芯が一本通った。今後、舞台で壮といかなる丁々発止を見せてくれるのか、楽しみである。
 専科から出演の夏美よう、組長の梨花ますみが演じるのは文四郎の両親。宝塚の日本物の舞台は、ベテラン勢の経験値に裏打ちされた身体に支えられている。反逆者の汚名を着せられての切腹を前に、文四郎に対し、恥じることのないよう諭す場面の夏美の説得力は、舞台に恥じることなく生きてきた人ならでは。梨花の母の姿に、このような日本女性がかつて確かに存在したことを思う。
 原作「蟬しぐれ」においては、意外な局面で、意外な人物、意外な運命が文四郎に味方する様が描かれる。“運命論”の観点からいって非常に興味深いが、その精神を舞台版においても映した登場人物が、香音有希扮する百姓の藤次郎である。藤次郎は、文四郎の父にかつて村ごと救われたという恩義があることが、舞台の冒頭で描かれる。そして、文四郎が家老一派の陰謀を知り、ふくと共に追っ手から逃れようとする物語のクライマックスで、ひそかに舟を準備して助けてくれるのがこの藤次郎であり、伏線をきちんと踏まえての香音の実直な演技が印象に残る。上背があり、こつこつと男役芸を積み重ねてきた彼女の今後の展開に注目したい。おふくの父、小柳甚兵衛を演じた央雅光希も、男役として落ち着いた美声の持ち主である。
 ふくの母ますを演じた麻樹ゆめみはあまり出番はないが、他の者のセリフで“常識がない”と描写されるあたりを、毒のないちゃっかりさ加減で見せる。武部の愛人・三緒役の此花いの莉は、色気に含むところある風情。文四郎の姉・留伊役の透水さらさは、自らの意志をもって誠意のない夫と離縁するという、運命に流されざるを得ないふくと対照的な役どころで、はきはきと明るいたおやかさが印象的。与之助と結ばれる腰元・萩役の星乃あんりは姉さん女房風のしゃきしゃき感で、長身の彩風与之助とのコンビぶりも楽しい。

 岡田敬二作のレビュー「ナルシス・ノアールU」は22年ぶりの再演。ショー、レビュー作品の再演にあたって一番気になるのは音楽の時代感だが、雪組勢がよく踏ん張って2013年上演作品にふさわしく仕上げた。こうなってくると、時代と共に移り変わってきたレビュー作劇を振り返ることができるようになり、逆に新鮮に映る面もある。踊るというよりただ揺れているのでは? という場面は、激しく踊らず存在感で勝負していた時代のあったことを思わせるし、トップスターが出ずっぱりでなくても、その出番を効果的に見せられる演出もまたあることを思う。
 トップスター壮一帆は、昭和に近い時代からの一種伝統的な雰囲気をも、2013年の舞台に薫らせることのできる存在である。その薫りあったればこそ、過去〜現在〜未来へと歴史をつないでいく舞台が可能となることを、お披露目作「ベルサイユのばら」に続いて示したといえる。プロローグからパレードまで、一場面一場面、歌や踊りにおいてもドラマティックに物語を構築することで、観客により深く強く伝える術に優れている。愛加は歌も踊りも水準以上なのだから、あとは、トップ娘役就任前によくよく発揮し、組んだ男役をさらに輝かせ、ときに大きく成長させていた“うっとり”の表情及び技術を、壮相手にも臆することなく発揮できるようになれば、愛加自身も、トップコンビとしても、さらなる境地に至れることと思う。芝居では、“悪”の役どころを、己の強い信念をもって貫き通す人物として演じて存在感を発揮した未涼は、レビューでは、ファンタジックな夢世界の王子や、ロックにのって踊りまくる若者と、さまざまな顔を披露。ここに来て新たな魅力を次々と見せる未涼のさらなる新展開が楽しみである。客席降りのソロも明るく楽しい夢乃だが、そのはっちゃけた明るさをさらに陰影に富んだものとして見せるためにも、新たな魅力の開拓が望ましい。
 過ぎし過去を感傷と共に振り返る“青春の回想”の場面では、岡田作品でたびたび用いられる「オール・バイ・マイセルフ」を、まず壮が、次いで奏乃はるとが歌う。絶唱である。過去とは確かに、取り返しのつかない、消し去れないものである。そして、その過去ゆえに大切な人を失ってしまうのではないかという恐怖に、人はときにおびえる。けれども、二人の歌うこの曲を聴いていて、たとえ若さの浅はかさゆえに失敗を犯したとしても、過去が過去としてあるからこそ、人は世界とそこに生きる人々、そして自分自身をより深く受け止められるようになってゆくのだと思わずにはいられなかった。奏乃は「ベルサイユのばら」でのルイ16世の弟プロバンス伯爵が、この歴史上の人物に改めて興味を抱かせる好演だった。そのことについてはまた改めてふれたい。麻樹ゆめみの、中詰の“ジェラシー”の場面の、トップコンビのダンスを大いに盛り上げる情熱的な歌唱も◎。
 中日劇場公演「若き日の唄は忘れじ」で武部春樹役を悪の色気で見せ、今回は悪家老里村佐内役に回った蓮城まことは、「ベルサイユのばら」でも壮扮するフェルゼン伯爵と対峙する国境守備隊の長を演じるなど、このところ悪の魅力路線まっしぐらである。目に狂気めいた光が宿る男役で、その光が、悪を演じても、また、ショーやレビューで登場する際にも効いている。今回のレビューでは四人の男役で歌い踊る「魅惑のサンバ」の場面ではじけた魅力を発揮し、客席を引き込む術をリーダー格として体現。明るいシーンなれど、ウインクを連射するその目の妖しい光にドキっとせずにはいられない。同じ場面でやはりはじけていた香綾しずるは、実力派ゆえ、優等生的にまとまりすぎている印象があったが、最近、すっきりとした二枚目の魅力が増してきている。この二人に大いに触発されて、煌羽レオと月城かなとも客席に対し若手男役として大いに攻めの姿勢を見せていた。彩風咲奈は、妖精パックに扮した際のあどけなさと、ロケットを率いての活躍が印象的。全国ツアー公演では上級生もロケットに回ることがあり、初々しい下級生たちのそれとは違い、キャリアを積んだ者ならではピシッと引き締まるような踊りが展開されるのがまた醍醐味だが、今回も、客席に向かう戦闘力に長けたロケットを堪能することができた。
 雪組娘役陣といえば、楚々として可憐な風情が魅力的だが、今回の「ナルシス・ノアールU」で、可憐なつぼみがあでやかに咲き揃った印象を受けた。芝居の方で殿の寵愛をめぐってふくに嫉妬の炎を燃やすおふねを憎々しげに演じていた技巧派・早花まこの、正統派娘役としてのかわいさたるや。「ブラック・ジャック」のピノコ役で開花した桃花ひなの美少女ぶり。そして、ダンサー笙乃茅桜の、コケティッシュな表情でゴム毬のようにしなやかに跳ねる踊りに見惚れた。星乃あんりもロリータな魅力全開である。
 現在、三組に分かれている雪組が、次に一堂に会して送るのは、11月から始まる宝塚大劇場公演「Shall we ダンス?」「CONGRATULATIONS 宝塚!!」。それぞれの公演で切磋琢磨した雪組生の活躍が楽しみな限りである。
 初日(8月30日)前の舞台稽古を見学。迷いの消えたトップスター龍真咲を、一丸となった月組生ががっちり支えて、芝居もショーも熱い熱い舞台。「ルパン」は、よくぞあの原作(読んでみればわかりまする)をここまで舞台化したなと。そして、雪組、星組と一本もの公演が続いてきた折、「Fantastic Energy!」は、宝塚のレビューの楽しさを存分に味わわせてくれる作品。二つ前の項に書いたのと受ける印象がだいぶ変わりました。いかなる変化が起きているか、それは皆様、ぜひ東京宝塚劇場で――。
 7月22日に「宝塚歌劇100周年公演演目及び記念事業等概要発表会」に赴いた際、宝塚大劇場にて観劇した月組公演について、少々遅ればせながら。
 先にレビュー「Fantastic Energy!」の話から。作・演出の中村一徳は、一徳節ともいえる作風をもちながら、組及び出演者の個性をきちんと生かそうとする手堅い手腕の持ち主で、安定感、安心感と、確かな新風との共存がそこにはある。今回の作品でいうと、月組のダンサー娘役陣をいきいきと踊らせているのが非常に印象的。なかでも、トップ娘役愛希れいかが著しい伸びを見せて、踊りで客を呼べるショースターに成長した。娘役芸をきちんと身につけたからこそ、“男前”な前トップ娘役、蒼乃夕妃に薫陶を受けた経験が生きるようになったのである。新副組長憧花ゆりのも娘役を率いて獅子奮迅の大活躍。月組娘役陣、実にパワフルである。男役陣も負けじと奮闘されたし。残暑の季節にふさわしい、まだまだ夏は終わっちゃいないぜ! な熱いレビューなのだから、もっともっと客席に向かい、巻き込む熱が欲しい。キーパーソンは、沙央くらま。雪組中日公演「Shining Rhythm!」の経験を大いに生かすべし。“心の名場面”は後日発表〜。

 「ルパン−ARSÈNE LUPIN−」の作・演出は正塚晴彦。アルセーヌ・ルパン・シリーズの作者、モーリス・ルブランの没後70年経った2012年に発表された「ルパン、最後の恋」が原作である。
 子供のころからルパン・シリーズが大好きだった。中学生のときに図書館にあった全集を読破し、大学は仏文科に進んでルパンを研究しようかなあ…と母に話したところ、母も子供時代にまったく同じことを考えていたという。それくらい、アルセーヌ・ルパンは憧れの人だった。そして、ルパンはきっと、宝塚の男役が演じたら似合うだろうなと思っていた。神出鬼没の変装の名人。美学ある華麗な盗みのテクニック。「スカーレット ピンパーネル」の主人公パーシー・ブレイクニーの“弟”的存在である。
 正塚晴彦は宝塚の舞台において、現実にはありえないようなかっこいい男たちを描いてきた。王子や貴公子ではない。現実にいそうで、それでいて、やはりかっこよすぎて、いないであろう男たち。それもまた、人が宝塚歌劇に抱くロマンの一つである。その正塚は、「ルパン−ARSÈNE LUPIN−」において、現実にはありえないようなかっこいい女に目を向ける。あふれん才能と財力を世のため人のために使い、見返りを求めず、“美しさ”がなければ共に闘うことはできないと敢然と告げる。男性性と女性性とが融合した、一種超越した存在たるその“アルセーヌ・ルパン”を、女性である宝塚の男役が演じる。最強である。ここに正塚晴彦は、創り手として新たな一歩を踏み出した。
 ルパンに扮する月組トップスター龍真咲は、「ベルサイユのばら」の“オスカル・ショック”後、男役として復調傾向にあるのが大変喜ばしいが、彼女が真骨頂を発揮するのは、“愛の伝道師”たりえているときである。龍がロミオを演じた「ロミオとジュリエット」でも、もっとも感動したのは、バルコニーのシーンでも後朝のひばりのシーンでも悲劇のラストシーンでもなくて、ロミオとジュリエットの結婚を知って怒りで煮えくり返っている街中の人々を説き伏せるように歌う「街に噂が」の場面である。ロミオの歌うパートが主旋律ではなくベースとなっているこの曲は、それだけロミオの深い信念を感じさせて印象的なのだが、龍ロミオの“愛の伝道師”ぶりはあっぱれだった。愛っていいもんだよ! 君たちも手に入れるべきだよ! あっけらかんの突き抜け感。親友のベンヴォーリオもマーキューシオも、結婚なんて重大なこと、俺たちに言わないなんてみずくさい! と憤慨しているのに、こんな説教をされては憤懣やるかたなしというものであろう。そんなにも愛のすばらしさを説くなら、マントヴァに追放されても伝道を続ければいいのに…と思わずにはいられないが、彼の愛の源泉であるジュリエットと引き離されてしまっているため、そこまでのパワーはなくなっているのであった。
 龍は二番手時代、自分がトップになった暁に実現したい夢の宝塚についてよく歌っていた。人誰しも愛と優しさにあふれた世界。私はその夢を信じた。実現は難しいかもしれない。けれども、夢を信じ、その夢を実現しようとする者なかりせば、この世界はどんなにか苦悩多き場所であろうか。龍真咲は一つの組のトップスターになったのである。夢を実現するにあたって、力を存分に発揮できるポジションについたのである。夢を見るばかりではなく、夢を実現していかれんことを心から希望する。参考にできる人物として、ロミオ役の大先輩である熊川哲也を挙げたい。彼のことを”dreamer”ととらえる人は多くはないかもしれない。けれども、彼は私の知り得る中でもっとも大きく豊かな夢を描く同世代人の一人であり、己に与えられた英知を最大限に生かして、プラクティカルに着実に夢を現実のものとしていっている。自らのバレエ団をもち、自らの信じる美しいバレエを、日本の、世界の観客に見せたいという夢に向かって、邁進し続けている。宝塚歌劇でたとえるならば、創始者・小林一三が芸術家として自らトップスターを張っているようなものである。夢見るばかりが”dreamer”ではない。夢かなえる人が真の”dreamer”である。
愛されていると過剰に思うことも、愛されていないと過剰に思うことも、どちらも等しく傲慢である。人はみな愛されている。そして、自分が愛されているかどうか問う前に、自分から愛するべきである。そうすれば愛が自ずと心を満たすのである。宝塚の男役として生きる人生のいかなる点に喜びを見出すか、それは人それぞれであり、無論私の考えるべきところではない。龍真咲自身が真にその喜びを見つけ、“愛の伝道師”として真骨頂を発揮する日を期待してやまない。技術的な面について言えば、たまにセリフ回しが不思議な抑揚で歌うように高く泳ぐクセを修正すれば、芝居はより伝わりやすくなると思う。愛希も芝居に熱中するあまり、たまに訛りが出てしまう点を修正されたし。星条海斗は「ベルサイユのばら」に壮一帆がアンドレ役で特別出演した際、アラン役としてセリフを交わした場面がこれまでの舞台でもっともよかったが、あのとき壮と交わしたような芝居が今できているか、再考すべきである。北翔海莉の役作りについては、作者モーリス・ルブランはアルセーヌ・ルパンの“分身”であり、二人とも等しく正塚晴彦の“分身”であることを指摘しておきたい。
 期待の東京宝塚劇場公演は8月30日から!
 紅ゆずるのベンヴォーリオは、凄かった。優しさにあふれていた。ロミオとジュリエットと共に笑い、ロミオとジュリエットと共に涙する、そんなベンヴォーリオだった。ロミオとジュリエットが幸せならばベンヴォーリオも幸せだし、ロミオとジュリエットが不幸ならばベンヴォーリオもまた不幸なのである。「どうやって伝えよう」はそれほどまでに圧巻だった。心を深く満たす優しさに、涙が止まらなかった――。そして、ナンバーを歌い終えた紅ゆずるは、ひときわ大きく輝く舞台姿となって、そこに立っていた。
 フィナーレでは、バルコニーシーンのナンバーを、ロミオとなって、それはねっとりうっとり歌っていたけれども、これがまた妙にクセになる味があって、ロミオ役でも観てみたいと思わせるものがあった。龍真咲の不思議ロミオともまた異なる、でもやっぱりワンダー・ロミオに違いない。
 紅は、「スカーレット ピンパーネル」で、最初にして最後の新人公演主演をつかみ、そのチャンスを見事ものにして一躍スターダムに躍り出た。この人はその際、“舞台は最高のエクスタシー”であると、知らず知らずのうちに知ってしまったところがあるのではないか、そんな気がしてならない。何より美を体現することに快感を覚える人間こそが、美の道、すなわち芸術向きの人間である。さらなる奮闘を期待したい。

 このミュージカルにおける作品解釈及びさまざまなキャラクターの設定は、私自身の「ロミオとジュリエット」解釈と齟齬を来す部分があり、個々の演者について記す上で非常に難しいものがある。ウィリアム・シェイクスピアの原作において、ロミオとジュリエットの真実の愛は澄んだ結晶の如く描かれている。にもかかわらず、真実の愛ではない関係を盛り込むことで“真実の愛”を際立たせようとする手法はいかがなものか。美は美として、厳然と、絶対的にそこにあるのであって、醜いものとの相対でとらえられるべきものではない。
 例えば、ジュリエットの両親であるキャピュレット夫妻には愛がなく、夫婦仲は冷め切っている。そして、ジュリエットの婚約者となるパリス伯爵は、原作においては魅力的なキャラクターであるにもかかわらず、このミュージカルでは、金でジュリエットを買おうとするあまりにも間抜けなキャラクターにされている。何しろ、極秘であるはずのロミオとジュリエットの結婚を街中が知ってしまうにもかかわらず、パリス一人が知らず、キャピュレット夫婦に騙される形で婚約させられるのである。別にジュリエットはパリスが間抜けだから好きになれないのではなくて、この人だ! と心にひらめくものがないから、すなわち、この二人の上には運命が瞬かないから、恋に落ちないだけの話である。また、“死”や“愛”の存在意義についても、私自身は、個々の登場人物の演技を通じて全体として表現すべきものだと考える。

 壱城あずさのパリスの造形にはそれでも納得させられるものがあった。きちんとかっこよく、それでいておふざけではなくとぼけている。壱城は役替わりで務めたマーキューシオ役も骨太で、歌に説得力があった。この人も、どうして新人公演の主役が回って来なかったのか不思議で仕方がないが、積み上げてきた男役芸は確かである。
一樹千尋のキャピュレット卿のナンバーも深く心に沁みた。一樹の演技自体は、原作通り、父として娘を思う愛にあふれていたのが何よりの救いだ。専科入り二年目、ロレンス神父を演じた英真なおきは、舞台に対する真摯な態度に磨きがかかってきた。十輝いりすはヴェローナ大公に扮して存在感を発揮。この大公がこれだけ説き諭してもなお消えぬところに、二つの家の深い憎しみが見えた。真風涼帆の踊った“死”には、「エリザベート」のトートにも通じる霊気が感じられた。
 ちなみに、星組は今後三つのグループに分かれ、柚希礼音主演で「REON!!II」が上演される。一昨年上演された「REON!!」でも、紅と壱城は大活躍していた。紅扮する客席案内係の“紅子さん”はやはり“心のキャラ”である。私が観ていた日は、ソバージュヘアをアンニュイにかきあげながら客席通路を通り、「柚希さんも紅さんも素敵よね」と言ったところで客席から「浮気者!」と声がかかった。それに逆ギレで答えて曰く、「宝塚ファンは浮気者でいいのよ! そりゃこっちとしちゃ一人にしぼってほしいけど!」。蓋し名言なり。壱城は光GENJIのナンバーを歌えば男性アイドルぶりを発揮、スターの追っかけ少女に扮して披露したミニスカート姿は女性アイドルの如きキュートさ。“心のアイドル”である。
 
 最後になったが、モンタギュー夫人を務めた花愛瑞穂は、本日8月25日をもって宝塚を卒業する。「南太平洋」で彼女はヒロインの同僚に扮していた。アメリカン・ミュージカルは宝塚の娘役にとってはいささか鬼門なところがある。あっけらかんとはっちゃけた表現と、娘役芸とが融合する地点をうまく見出さねばならないからだが、花愛はきちんと娘役として役を表現していて、頼もしく思った。モンタギュー夫人でもしっとり落ち着いた舞台を見せていたのが彼女らしい。よき卒業の日を!